「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)
今日も創り主を想いましょう。
万物の創造主が存在するとしても人間はそれを見ることが出来ません。
見えないものが存在する確率は、論理的には五分五分の50%です。いてもいなくても見えないのですから。
でも福音を信頼する人の心の中では、その確率はとても高く見積もられています。
唯物論者の心の中では、とても低いです。
戦後の日本では、「もう宗教はごめん」となりましたから、心理的には唯物論者に近くなっていて、主観的確率はやはり低いです。
それでも福音信頼者以外の人に対して、こういう話は筋道だっていることになりそうです。
1..まず、万物の創造主が存在した場合を考えましょう。
a.その状況で被造物が創主を覚える(想う)場合。
これは、その方にとって本意な事でしょう。自分が造った被造物が、創主である自分を覚えるのは創主の意に沿うのです。その結果、創主はその被造物に福を与え恵みを施す可能性が高いでしょう。
b.逆に、創主がいるのに覚えなかった場合はどうかを考えましょう。
その人を創造主は可愛いと思わないでしょう。だって、創造主である自分を被造物が想わない、意識しないのですから。おそらく、福は与えられないでしょう。もったいないですね。
そればかりではない。創造主を覚えないことによって、死後にその霊が苦しみの場所に行くことになるかもしれない。覚えないことによるリスクは大きいです。
2.次に、実際には存在しなかった場合はどうか。
a.まず存在しないのにそれを覚えてきた(想う)というケース。
これは空しいことでしょう。将来いないことがわかった場合には、ホントに空しく感じるでしょう。
でも、それだけのことです。それによって得られるべき恵みを得損なったということではない。創主が存在しなければもともと創主からの恵みなどないんですからね。マイナスといえばただ、ああ、馬鹿見たなあ~というだけのことです。
のみならず(これは大事なことですが)、創主がいると思って生きてきた間は、その人はその分、希望を抱いて生きることが出来たのです。そういうプラスも、あります。
b.では、想わなかった場合はどうか。
やはりそれによって何か得をするということはありません。ただ、馬鹿を見なかった・・・というだけの話です。
~~どっちが得か、よ~く考えよう。
創造主が見えない以上、それがいるとして覚えるのは、多かれ少なかれ一つの賭です。
けれども、この賭は、賭けておいた方が益が大きいです。当たった場合の益は大きく、外れた場合の損失はたいして大きくない。差し引きしても益のほうに期待値は大きいのです。
結論です。こと創造主の存在に関しては、存在するの方にかけておくべきです。そしてこれを覚える。人間にとって、これほど割のいい賭は少ないのではないでしょうか。
さて13章も、最後の部分に来ました。
本日の聖句はこれです。
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=聖句=
「私のために死ぬというのか。私は真理を言います。鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言います」(38節)
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ここは、使徒ペテロがイエスを裏切る事件としてとりあげられる有名な場面です。
<鶏が鳴く前に三度>
36節で、ペテロは「主よ、どこにおいでになるのですか?」とイエスにたずねます。イエスは「あなたは今、わたしの行くところについてくることは出来ない、しかし、後にくることになる」と答えます。
すると、ペテロは「どうして今ついて行かれないのですか? 私はあなたのために死ぬ覚悟が出来ています」といいます(37節)。
するとイエスは、こう言うのです。
「私のために死ぬというのか。私は真理を言います。鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言います」と(38節)
<ペテロは本当にイエスを裏切ったの?>
後に、ペテロは、イエスの言ったとおりに、三度「イエスを知らない」と言うことになります。この事件は、ペテロがイエスを裏切った出来事として有名です。人間はかくも弱いものだ、と。こういうペテロも聖霊を受けてから強くなって素晴らしい働きをするのだ、という追加的解説もあります。
しかし、春平太には、この事件をペテロが師を裏切った出来事とは思えないのです。そして、その理由は、とても長い説明を含みます。ここでそれをし始めますと、ほとんど脇道への脱線になってしまいます。
そこで、これはこの「ヨハネ伝解読」が完了してから、追記的に述べることにします。
(実は、もう一つ、春平太には長すぎて追記的にしか述べられないようなことがあります。それは、イスカリオテのユダはなぜイエスの居場所を敵方に密告したか、という問題です。これも、長くなりますので、最終章が終わった後に、追記する所存です。)
とにかく、今ここで言えるのは、ペテロはイエスを裏切ってはいない、という結論だけです。それだけを言って、14章にはいることにしましょう。
<14~7章はほとんどイエスの言葉のみの章>
「いよいよ」という14章です。この章から17章までは、十字架死を前にしたイエスがほとんど一人で語り続けます。いよいよ弟子たちの前から去らなければならなくなったイエスは、教え残したことがたくさんあるのです。
イエスはそれを、とどまるところなく、あふれるように語り続けます。そして、そこには、イエスの教えのエッセンスが込められています。そしてこれを記述しているのがイエスの鞄持ち、ヨハネによる福音書の真骨頂です。他の福音書ではこの話に接することはできません。