鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.7 稲盛さんの「人間の構造」

2007年08月29日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想




                    

「稲盛『哲学』と聖書の思想」第7回です。

焦点は人間に絞られ、「よき人生」を送れる考え方に話が近づいていきます。

 前回、稲盛さんは「創造主の創造の意志は愛であり、創造されたもののすべてにはその愛が存在の核になっているのだ」と考えたと述べました。

そうしたなかで、万物の霊長といわれる人間は、どのようなものとして創られているのか。
稲盛さんは、こう考えています。


                    


<愛と欲望>

~~創造主は人間存在の核に、愛を植え付けているけれど、もう一つ欲望も植え付けている。 そういう風に人間を宇宙の一部として創造している。

 けれども、創造主は人間のすべての行動を上からコントロールしているのではない。魂の中心になるもの(愛・欲望)だけを人間に与え、後は「自由」にしている。そして、この自由があるから、人間には煩悩が優先的に出てくる~~と。


                    


<欲望から出る煩悩>

 煩悩は仏教用語です。
稲盛さんはそれを、肉体を守るために必要な欲望から出るものだと捉えています。

~~たとえば食欲は、文字通り人間の肉体を守るものであるとして与えられている。
性欲もまた、老化し消滅する人間の肉体を、新しい肉体を作って守るものとして与えられている。

 だがこれらの欲は、勝手に肥大化していく性質も持つ。人間は「自由」な状態に置かれているから、この欲望に自ら対処せねばならない。上手く処せられないと、好ましからざる心が様々出てくる。これが煩悩である(具体的にどんなものかは六大煩悩として後に示します)。

                    


<叡智と知足>

~~他方、放置すれば肥大化する欲望ををおさえるのが「叡智」であり、それは具体的には「知足」の心となる、と。

~~この叡智も創主の愛の中に含まれている。創造主は人間に、自由を与えつつ欲望をよき方向に進化させることを望まれる。人は自由の中でこの創造主に自らを向かわせると、心を高めることになり、「足るを知る」ことになる、と。

(足るを知る、は「知足」といって仏教のキーワードです)


                     




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.6 稲盛さんの「創造主」と愛

2007年08月28日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想

                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第6回です。

 前回、稲盛さんは宇宙について、それを創った創造主が存在する、と判断した、と紹介しました。

 創造主というのは、聖書の全体に流れる概念ですが、稲盛さんは聖書の考えを直接援用しているようには見えません。

 なにか神様のようなのがこの世を創ったという考えは、古事記などの日本神話をはじめたくさんあります。沢山あるその種の思想の中で、聖書の特徴は、その記述が最初から最後まで「創造主からのメッセージである」とするところにあります。

 だが稲盛さんは、そういう考えを直接援用することはせず、ただ、「宇宙のすべてを、意志をもった創造主が創った」とする。そうしないと「よき人生を送るための哲学」への思考は進まないと判断するからです。

                    


<思考は進む>

 実際そうすると、考えは進みはじめます。

では、創造主とはどういう存在か? とか、
創造主の意志とは何か、とか、
宇宙や人間をどういう風に創っているのか?
その中で人間はどう生きることを求められているのか?

 ~~などなどに。

 稲盛さんはそれを、聖書を用いてではなく、自分の体験と学んだ科学知識、仏教、中国の古典、心霊科学の知識などをもちいて考えていきます。


                    

<創造の意志は「愛」>



稲盛さんはたとえばこう思考します。

~~宇宙は科学で発見されたものも含む数々の法則によって動いている。
だがそれは単に無機的な物的な法則ではない。
森羅万象の流れは、「すべてのものを幸せな方向に進化・発展させよう」という創造主の意志によって動いている。そしてそれが愛である、と。

 そしてここで仏教思想が出てきます。

 ~~シャカは「すべてのものに仏性が宿る」と教えた。それは、創造主の創造の意志は愛であることを洞察してのことである、と。

 そして、人間もまたこの創造主の意志(愛)を存在の核に持つようになっているのだ、良心というかたちで自覚されるのもその一端なのだ~~と。


+++

 また~~創造主はすべてを愛で包んで、よき方に進化・発展させようとしているが、人間は自由があるがために、また、肉体をもつがゆえに、かってな方向に進化するところもある。

 が、同時に、創造主の思う方向に自分を向かわせる自由もある。そして、それを行うことが「心を高める」ことなのだ~~と。

こうして稲盛哲学は進んでいきます。


                     



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.5 創造主の存在を積極的に認める

2007年08月27日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    


<宇宙の存在価値は?>

 前回、稲盛さんは、科学知識をもちいて「人間の一人一人がみな宇宙を構成するに必須な存在だ」という見解を引き出したことをみました。そういう意味での存在価値が人間にはある、というわけです。

けれどもそれは宇宙に存在価値がある限りに言えることです。宇宙に存在価値がなかったら、それを構成している人間にも価値などないことになります。

                                        


<創造主の存在があってはじめて宇宙の存在が“説明”できる>

これはどう考えたらいいか。
稲盛さんは、この問題には直接対面はされておりません。
代わりに、意志を持った創造主が宇宙のすべてを創った、と考えてしまいます。そして「それがあってはじめて宇宙という存在が“説明”できる」と述べています。

 確かに、この膨大にして神秘を含む宇宙はどうして存在するかについては、創造主がそれを存在せしめたから、ということでもって根拠付けることができます。

 しかし、それが存在価値を持つということについては、おそらく創造主には絶対的な価値があり、その方が意図を持って作られたのが宇宙だから、というようなことになるでしょう。それも含めて、稲盛さんは「創造主を考えに入れてはじめて宇宙が“説明できる”」といっておられるのでしょう。

稲盛さんは、価値論のあたりは、あまり理屈を細かく述べることはされないのです。


                    

<創造主を持ち出したのは>

むしろ、われわれが注目すべきは、創造主なるものを持ち出す際の稲盛さんの思考過程です。
 
稲盛さんはこう考えます。

 ~~この膨大な宇宙に、エネルギー不変などの法則が貫いている。それらを知るにつけ、こうした宇宙を司る「サムシング・グレート」(偉大なる何ものか)の存在を感じざるを得ない、という科学者は少なくない。

 だけど、そういう漠然とした“感じ”(フィーリング)だけでは不十分だ。もっと具体的に、意志を持って宇宙を創った創造主が存在すると認めないと「よく生きるための考え方」は出てこないのだ~~と。

 ここは稲盛哲学の真骨頂がかかわるところです。

 稲盛さんのめざすのは、人間がよき人生を送るための「考え方」です。その考え方は「規範(則るべき行為の基準)」を含むことが不可欠なのです。

そして、根拠の確実な規範をうるには、創造主が宇宙にいかなる意志をもっているか、いかなる意図を持って作ったのかを、明確に浮上させねばなりません。

その為には、宇宙を創った存在は、サムシング・グレート(何か偉大な存在)といったような漠然としたものでは不十分だった。

 聖書に近い、創造主でなければならなかったのです。

                    


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.4 科学的宇宙知識から価値論を引き出す

2007年08月26日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想


稲盛『哲学』と聖書の思想、第4回です。

稲盛さんが、科学知識を援用して哲学思想を形成する事例を示します。


                    


<哲学は価値も論じる>


哲学には価値論というのがあります。物事の価値を問い、論じるものです。
「よい人生」を送るには、この価値を考察することが必要です。
最低限、自分が存在する価値をもっている、と考えられる思想を持つことが必要だからです。

自己が存在価値を持たないと思ったら、人生投げやりになり、それだけで「よい人生を送る」ことは出来なくなります。

                    

<科学知識をもちいて存在価値を論証する>


稲盛さんは、人間は存在価値を持つ、ということを科学知識をもちいて論証しようと試みています。
その知識は宇宙における「エネルギー不滅の法則」です。

宇宙の膨大さを科学知識をもちいて説明

稲盛さんはまず、宇宙の膨大さを次のように説明します。

~~地球の質量は人間のそれに比べたら膨大である。けれども、太陽はその33万倍もある。その太陽を中心に太陽系が構成されているが、それは銀河系の中にある。そして銀河系は太陽と同じような恒星を1千億個含んでいるという。

 それ自体、気の遠くなるような大きさですが、宇宙にはその銀河系に匹敵する規模の銀河が無数にある~という。

 ・・・こうした情報は、すでに科学の成果です。

                    


<エネルギーと物質は相互転換する>

 科学はその宇宙におけるもう一つの知識を造り出します。宇宙においてエネルギーと物質とは相互に転化しあう関係にあるという知識です。つまり、物質はエネルギーに転化するし、エネルギーもまた物質に転化するという。

これは物理学者アインシュタインが見だした法則だそうです。ついでにいいますと、アインシュタインはさらにそれらの量的な関係まで明らかにしました。

それは~~
 E = M X(Cの2乗)

~~という意外に簡単な数式で示されています。ここでEはエネルギー、Mは物質の質量(重さと考えていいです)、そしてCは光の速さです。

+++

 そういわれても、われわれの日常感覚にはピンときませんが、こういう事例を考えると多少はイメージできるかも知れません。

つまり、Mが1グラムの質量だったら、Eはどうなるかを考えます。
 1グラムのMに、光の速さ(C)の2乗を掛け合わせると、Eであるエネルギーは地下からマグニチュード6の地震を起こす量にほぼ等しいものになるそうです。

 1グラムの物質がエネルギーに転化すると(物質としては消滅すると)、それくらいのエネルギーが出現する。逆に1グラムの物質を出現指すには、それくらいのエネルギーが必要になる、ということですね。

 核爆弾は、この原理が発見されたことによって作られたのですから、物騒な発見だったのですが、とにかくアインシュタインはそういう法則を見だしたわけです。

                    

<エネルギー不滅の法則>

 話を戻しますと、この法則によって、「宇宙の総エネルギー量は一定で不変」という事実も見出されたことになります。

 どういうことかというと、宇宙にある物質はすべてエネルギー量に換算できるわけです。それに現時点でエネルギーとなっている量を加えると、宇宙にあるエネルギー総量が算出できる道理です。

そしてそれは物質とエネルギーの比率の如何に関わらず、一定不変であることになるでしょう。
稲盛さんが「エネルギー不滅の法則」というのはこのことのようです。

 ここでもう一つ付言すれば、物質をエネルギーに換算するという考えは、アインシュタインの思想にも沿っているようです。彼は「物質はエネルギーの一形態」といっていたそうですから。

 つまり、物質とエネルギーとではどちらがベーシック(根底的)か、ということになったら「エネルギーが根底」と考えていたとみていいでしょう。いうなれば物質とはエネルギーが凝固したようなもの、というイメージですね。

                    


<道ばたの石ころも必須存在物>

稲盛さんはこれをもちいて、人間には存在価値があると論証します。

つまり、エネルギー不変という知識を使うと、道ばたに転がっている一つの石ころでさえまも、定まっている宇宙のエネルギー総量を構成する必須要素ということになります。それが欠けると「宇宙のバランスが崩れる」から、と稲盛さんは言います。

 そうすると、人間の身体も同じく宇宙のバランスの為の必須存在物となります。稲盛さんはこの様に科学知識をもちいて「かくのごとく、人間には宇宙にとって不要な人は一人もいない、すべての人が必要あって存在してるんだよ」と論じられるわけです。

 
なお、宇宙のバランスが崩れるとはどういうことか、科学的に詳論してくれ、という批判は、無意味です。稲盛さんは「哲学」を形成しようとしているのであり、哲学にはそれで十分だからです。

                    


<シャカはそれを「縁」といった>

 稲盛さんは、そのことをシャカは洞察していた、とも述べています。お釈迦様はそれを「(すべてのものは)縁があって存在する」といっているのだ、と付言しておられます。

 「縁」とは仏教用語です。それは、「他が存在するから自分が存在し、自分が存在するから他が存在する、という相対的なつながりにおいて存在というものが成り立っている」ということを意味しています。

 稲盛さんは、自らの「哲学」を醸成するのに科学知識だけでなく仏教の知識をも大いに援用して行かれます。縁だけでなく仏教思想は、これからもっとでてきます。


                     



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.3 稲盛哲学の出発点~哲学と科学~

2007年08月25日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    


 稲盛『哲学』と聖書の思想、第3回です。

今や4200人を超える世界の経営者が、求めて学ぶ稲盛思想~~稲盛さんはそれを「高尚な哲学」を作ろうとして考えたのではありません。

「よき人間、よき世の中を作っていくためには、どういう考え方を樹立したらいいか」という、身近で実践的な課題に取り組んでいて出来ていった思想だという。

                    

<科学知識は哲学思考の一部>

そしてそれは科学ではなく哲学というべきだ、と考えます。

稲盛さんは科学知識というものは、元来哲学の思想の中に含まれていたものだ、と考えるのです。
そのうちで仮説として論理的に記述され、検証されたものが科学知識になる、という。

そういえば、物質の最小単位が原子であるという思想は、既にギリシャ哲学の中にはぐくまれていました。存在論としてのアトム論がそれでした。
 その段階では、アトム論は科学知識ではありませんでしたが、1000年に以上後に検証されて科学知識になりました。

                    


<科学知識は存在の一部分に対応する知識>

 科学知識はそういう限定的なものですから、基本的に包括的ではなく、存在を部分的に説明する部分的なものになります。

検証されて確実になったものだからといって、それだけから限定的にものを見ていったら思考は総合性を失います。

                    

<実践に欲しいのは総合的知識>

ところが、「よき人生を送るため」とか「よき世の中を作るため」とかに役立つ考え方を作るには、なによりもまず包括的に考えることが必要です。

この要求に応じるには、知識が五感ベースで"確かめ”られ検証されているかどうかに縛られていてはならない。科学的にではなく、哲学的に思考することが重要だと稲盛さんは洞察するのです。

にもかかわらず、現代日本では科学的に思考することばかりに重きを置く傾向が強い。それはまちがいだと、稲盛さんは断言しています。時の大勢に流されず、乞う洞察されるところから、稲盛さんの卓越した知力をうかがい知ることが出来ます。

                    


<科学知識は「使う」もの>

とはいえ、稲盛さんは、科学知識など無用の長物だというのではありません。
むしろ、検証された科学知識は、思考を確実に進めるために大いに使うべきだ、という姿勢です。

この点、松下幸之助さんとは異なっています。
松下さんは、明治の人ですし、小学校を出るかでないで丁稚奉公に出た後、実践現場一筋できた人です。

松下哲学はありますが、それはほとんど松下さんが現場体験から抽出し精錬したもので、科学知識をフルに活用するということはありません。

他方、稲盛さんは戦後理工系の大学で学んだ方です(鹿児島大学工学部)。
だから、科学知識を意識的に探索し、もちいます。
ただ、それだけに縛られた思考は避けるということです。

次回に、稲盛さんが科学知識を援用して哲学思想を形成していく事例を覗いてみましょう。

                    


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.2 現役社長が理想とする経営者

2007年08月24日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想



稲盛『哲学』と聖書の思想、第2回です。

                    
                    


<現役社長へのアンケート>


最近、現役の社長たちに行ったアンケート結果が報じられていました(日本経済新聞)
質問は「自分が理想とする経営者は?」であり、その結果は~~

1位:松下幸之助(松下電器創業者;故人)
2位:本田宗一郎(ホンダ技研創業者:故人)
3位:稲盛和夫 (京セラ創業者、現名誉会長)
 ~~だったそうです。

三人の中で、存命者は稲盛さんのみです。
経営者の評価というものは、一般的に死後の方が高まりやすいですから、将来、この順位はどうなるか分かりません。

                    
                    


<経営哲学会>


日本に「経営哲学会」という学会があります。経営哲学・思想を研究する学者の会です。
そこの中心的な理事に早大のKという教授がいます。彼がある会合で私に個人的にこんなことを言っていました。

「経営哲学の研究には、実際に活躍していて優れた哲学をもっている人が最高の素材になる。今後、この学会の問題は、稲盛さんがいなくなったらもうそういう人が見あたらない、ということだ」と。

 私は「***なんてどうかねえ?」と心当たりの若手経営者を2~3上げてみました。
が、彼は「ダメだねえ、桁が違う・・・」といっていました。

稲盛さんの経営哲学は、われわれの予想以上に巨大な予感がします。

                    


<『哲学』(PHP研究所刊)>

稲盛さんが著された本は数多く、みんなよく売れています。
そのなかで、稲盛さんが自分の思想をまとめて述べた書物の代表は『哲学』(PHP研究所刊)でしょう。
多分、稲盛さんが語って、ライターが文章にしたのでしょうが、その真意は十分に表明されているように思います。

これから、その本に焦点を当てて、稲盛思想を吟味していきます。
そして、折ある毎にそれを聖書の思想と照らし合わせてみましょう。

                    


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.1  稲盛思想と聖書の不思議な関係

2007年08月23日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想





しばらくお休みいただきました。
ヨハネ伝解読は、14章からのクライマックスに入ろうとするところまできています。

 がここで、鹿嶋はしばらく、京セラ名誉会長・稲盛和夫氏の「哲学」と聖書思想との関係を吟味してみようと思います。

目的は、比較を通して、稲盛思想及び聖書思想の特質を新しい形で把握することにあります。

                    


<盛和塾>

稲盛さんといえば、その思想が「稲盛哲学」として有名です。
盛和塾という、稲盛さんを囲んでその哲学を学ぶ塾は、会員4200人を数えています。
会員の中心は現役の経営者ですが、その支部は日本だけでなく、南米や米国にもある。最近では中国でも稲盛哲学を学ぶ学校が出来ている、ということです。

稲盛さんの思想には、現世を懸命に生き、働いている企業経営者たちにぴったりくるところがあるのです。しかも、学んだ人から多数の成功者が出ているのですが、それはともかく、多くのビジネスマンにぴったり来るところが多い。

 対して、聖書の思想は、そのままでは日本人の多くにぴったり来ていないようです。

                    



<鋲留めされた二枚の用紙>

ところが私の見るところ、稲盛思想には聖書の思想に共通したところが多分に存在するのです。

どういったらいいか・・・この二つの思想が、二枚の厚紙に書かれた文字になっているとするならば、肝心なところでは、二枚の紙はぴったり鋲留めされているともいえそうなイメージです。

もちろん、鋲留めされていなくて、二枚の紙がふわふわ離れているところもあります。
稲盛氏自身は聖書神学者ではありませんし、稲盛さんの用紙には「ここは聖書から学んだもの」ということわりの言葉はありません。
稲盛さんは、全面的に物理学や仏教や心霊科学や中国の古典から学んだものをもとに思考し論じていて、聖書は参考にしていません。

ところが、不思議なことに、肝心なところでは、その思想は聖書の紙と鋲留めされているかの如くに一致するのです。

                    




<何処が同じでどこが違うか>

なのに、稲盛思想は多くの日本ビジネスマンに受けて、聖書思想は受けないのか。
何処がどう違うのか。
鹿嶋は、それを吟味してみようと思います。

                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.206『ペテロは師を裏切った?』(13章36~8節)

2007年08月04日 | ヨハネ伝解読




「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)

 今日も創り主を想いましょう。

 万物の創造主が存在するとしても人間はそれを見ることが出来ません。
 見えないものが存在する確率は、論理的には五分五分の50%です。いてもいなくても見えないのですから。

 でも福音を信頼する人の心の中では、その確率はとても高く見積もられています。
唯物論者の心の中では、とても低いです。
 戦後の日本では、「もう宗教はごめん」となりましたから、心理的には唯物論者に近くなっていて、主観的確率はやはり低いです。

 
                   


 それでも福音信頼者以外の人に対して、こういう話は筋道だっていることになりそうです。

1..まず、万物の創造主が存在した場合を考えましょう。

 a.その状況で被造物が創主を覚える(想う)場合。

これは、その方にとって本意な事でしょう。自分が造った被造物が、創主である自分を覚えるのは創主の意に沿うのです。その結果、創主はその被造物に福を与え恵みを施す可能性が高いでしょう。

 b.逆に、創主がいるのに覚えなかった場合はどうかを考えましょう。

 その人を創造主は可愛いと思わないでしょう。だって、創造主である自分を被造物が想わない、意識しないのですから。おそらく、福は与えられないでしょう。もったいないですね。

 そればかりではない。創造主を覚えないことによって、死後にその霊が苦しみの場所に行くことになるかもしれない。覚えないことによるリスクは大きいです。


                    


2.次に、実際には存在しなかった場合はどうか。

 a.まず存在しないのにそれを覚えてきた(想う)というケース。

 これは空しいことでしょう。将来いないことがわかった場合には、ホントに空しく感じるでしょう。

 でも、それだけのことです。それによって得られるべき恵みを得損なったということではない。創主が存在しなければもともと創主からの恵みなどないんですからね。マイナスといえばただ、ああ、馬鹿見たなあ~というだけのことです。

 のみならず(これは大事なことですが)、創主がいると思って生きてきた間は、その人はその分、希望を抱いて生きることが出来たのです。そういうプラスも、あります。  

 b.では、想わなかった場合はどうか。

 やはりそれによって何か得をするということはありません。ただ、馬鹿を見なかった・・・というだけの話です。

~~どっちが得か、よ~く考えよう。

 創造主が見えない以上、それがいるとして覚えるのは、多かれ少なかれ一つの賭です。
けれども、この賭は、賭けておいた方が益が大きいです。当たった場合の益は大きく、外れた場合の損失はたいして大きくない。差し引きしても益のほうに期待値は大きいのです。

 結論です。こと創造主の存在に関しては、存在するの方にかけておくべきです。そしてこれを覚える。人間にとって、これほど割のいい賭は少ないのではないでしょうか。


                     



 さて13章も、最後の部分に来ました。
本日の聖句はこれです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私のために死ぬというのか。私は真理を言います。鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言います」(38節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    
                    

 ここは、使徒ペテロがイエスを裏切る事件としてとりあげられる有名な場面です。

<鶏が鳴く前に三度>       

 36節で、ペテロは「主よ、どこにおいでになるのですか?」とイエスにたずねます。イエスは「あなたは今、わたしの行くところについてくることは出来ない、しかし、後にくることになる」と答えます。

 すると、ペテロは「どうして今ついて行かれないのですか? 私はあなたのために死ぬ覚悟が出来ています」といいます(37節)。

 するとイエスは、こう言うのです。
 「私のために死ぬというのか。私は真理を言います。鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言います」と(38節)


                    


<ペテロは本当にイエスを裏切ったの?>

 後に、ペテロは、イエスの言ったとおりに、三度「イエスを知らない」と言うことになります。この事件は、ペテロがイエスを裏切った出来事として有名です。人間はかくも弱いものだ、と。こういうペテロも聖霊を受けてから強くなって素晴らしい働きをするのだ、という追加的解説もあります。

 しかし、春平太には、この事件をペテロが師を裏切った出来事とは思えないのです。そして、その理由は、とても長い説明を含みます。ここでそれをし始めますと、ほとんど脇道への脱線になってしまいます。

 そこで、これはこの「ヨハネ伝解読」が完了してから、追記的に述べることにします。

(実は、もう一つ、春平太には長すぎて追記的にしか述べられないようなことがあります。それは、イスカリオテのユダはなぜイエスの居場所を敵方に密告したか、という問題です。これも、長くなりますので、最終章が終わった後に、追記する所存です。)

 とにかく、今ここで言えるのは、ペテロはイエスを裏切ってはいない、という結論だけです。それだけを言って、14章にはいることにしましょう。

                    

<14~7章はほとんどイエスの言葉のみの章>

 「いよいよ」という14章です。この章から17章までは、十字架死を前にしたイエスがほとんど一人で語り続けます。いよいよ弟子たちの前から去らなければならなくなったイエスは、教え残したことがたくさんあるのです。

 イエスはそれを、とどまるところなく、あふれるように語り続けます。そして、そこには、イエスの教えのエッセンスが込められています。そしてこれを記述しているのがイエスの鞄持ち、ヨハネによる福音書の真骨頂です。他の福音書ではこの話に接することはできません。

                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする