鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.20<中国論(11)>「内乱、国共合作、日中戦争終結」

2012年09月29日 | 政治見識のための政治学






<軍閥(戦国大名)たち>

 1916年に怪物・袁世凱が逝去すると、もう多くの武装軍団を束ねて統御できる武将はなくなりました。
南京を取り巻く広大な地域では軍閥(日本の戦国大名のような武力統治者)諸勢力の
覇権争いとなりました。




<孫文の南京政府>

南京では孫文が中国国民党を率いて、中国統一を目指していました。
孫文が目指すのは軍閥を解体しての中央集権的な国家でした。

ところがその国民党も内部は複雑化していました。
党内に地方分権による地域連合型の国家建設を目指す人物も台頭してきました。
各省に自治を認め、それらを連合させた統治体制です。
日本でいえば徳川幕藩体制のような統治体制ですね。

主唱者は陳炯明(ちんとうめい)でした。
彼は何かにつけて孫文に反対した。


             (陳炯明)

+++

実は清王朝もこの地域統合型の政府でした。

現時点での民族構成は漢族が全体の92%を占め、残りの8%が他の55の「少数民族」となっています。
清王朝は満州族の王朝です。
こんな少数者が中央集権体制などとれるわけなく、
地方の藩(?)に自治権を与えその連合政権としての幕藩体制を取ってきた。

その上に皇帝制をたてて、皇帝の専制政治としてきました。

陳炯明はその専制部分を議会政治に変えた形を望んでいたわけです。

孫文はこれは絶対に許せませんでした。
理由は後述しますが、こうして国民党は内部分裂含みだったわけです。






<中国共産党>


他方、国内では共産党勢力も台頭してきました。

ロシアでは1917年に社会主義革命が勃発し、共産主義国家ソ連が成立しました。
ここでは共産党の一党独裁統治が行われていました。

この政府は、1919年モスクワでコミンテルン(各国共産党の国際組織)を結成し
世界の共産主義化を志していました。

中国にも同志を育て共産党を発足させ、援助しました。
中国共産党の勢力は成長し、政権争いに加わりました。
後に毛沢東や周恩来がその主導的地位に登りつめて行きますが、
この党もソ連指令の下に中国統治を目指しました。




<日本国(関東軍)、ソ連、米国>

袁世凱逝去後の中国の覇権争いの状態はあたかも「三国志」のようです。
いや、それ以上かも知れません。

中国現代史では、そこに日本(関東軍)勢力が参加します。
日本の本国議会は中国の関東軍に対する統治力を事実上失っていきますので、
この場合の日本国の実態は関東軍です。

がこれもまた中国の支配に向けて行動します。

それに米国、ソ連(スターリン)などが外部から関与する。

これらが陰謀も含めてなす行動は複雑怪奇でその魑魅魍魎ぶりは三国志以上でした。




<孫文の死と蒋介石国民党による統一>

1925年に孫文が死去しました。
袁世凱逝去の約10年後です。

翌1926年には蒋介石が孫文の後継者として党の主導権を手中にしました。

彼は党内反対勢力を押し切って北伐に乗りだし、国内の統一をおおむね成し遂げました。



              (蒋介石)


+++++++++++++
<北伐>
 北伐(ほくばつ)というのはわかりにくい言葉です。
本来それは中国史において「北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こす」
という意味だそうです。

中国は地理条件からして南北に分裂しやすかった。
南部は概して経済的にすぐれ、北部は騎馬を使った武力を得意としました。
北は武力をもとに南の地を脅かしかすめ取ります。

南部の国々には、こうした北の勢力討伐するいくさが周期的に必要になりました。
北伐というのはこの戦の総称だったようです。

蒋介石の南京政府の場合にも、討伐すべき軍閥勢力が数多くありました。
それらは南京から見て南や西の方角にもいましたが、
中国史ではこれの討伐もまた北伐と称しているようです。

+++++++++++++



北伐成功の結果蒋介石は、1928年に中国国家元首となりました。

だが蒋介石にはこの頃から中国共産党への不審の念が急速に募りました。
彼は共産党討伐を第一目標として、闘争に乗り出します。

1931年に日本(関東軍)が満州事変を勃発させ、翌32年に満州国を建国しました。
だが蒋介石は黙認して(国際連盟への提訴はしつつ)共産党征伐に注力します。




<毛沢東の「長征」>

毛沢東の共産党は江西省の本拠地をすて、戦いつつ南下し、また西に行軍し、
さらに北上して狭西省に至るまで12500キロに及ぶ大後退を続けます。

後に彼はこれに肯定的なニュアンスをつけて「長征」と呼びます。
後退でなく大行軍だったというわけです。




<西安事件と国共合作>

ところが1936年、張学良が毛沢東を追う蒋介石を軟禁するという事件が起きます。

蒋介石は共産党軍追討の軍隊を激励しに西安(昔の長安)に立ち入りました。
その彼を蒋介石の味方だった張学良が監禁してしまうのです(西安事件)。


             (張学良)

彼は、今はまず国民党と共産党とは合作してともに日本と戦うべきだと説得します。
これは実は共産党が裏で糸を引いていたとの説が有力ですが、
とにかく、蒋介石はこれを受け入れました。

かくして国共合作がなり、両党は戦いを保留して共に手を携え
日本の関東軍との戦いに入っていきました。





<日本軍降伏する>

これに日本はさらに強行に応じます。
翌1937年、日中戦争を起こし中国全土の支配を目指しました。

だがアメリカとも太平洋戦争を戦っていた日本は敗戦しました。
1945年8月15日にポツダム宣言を受諾し無条件降伏しました。

ここに蒋介石の儒教的宣言が出ます。





<蒋介石「以徳報怨」を宣言>

蒋介石は1943年から、再び中国元首としての行動を容認されていました。
その彼が、同じ8月15日に当時臨時政府を置いていた重慶から
「以徳報怨」(徳を以て怨に報いる)なる有名な言葉を含めた演説をしました。



             (蒋介石)


そこで彼は、日本が中国本土で与えた損害への賠償請求はしないと宣言し、
日本軍に降伏を求めました。

計上された対日請求額は当時の金額で500億ドルにのぼっていたといいます。

+++

蒋介石のこの政策には様々な計算、思惑が絡んでいたと言われます。
戦後、再び始まる共産党との戦いへの効果なども計算されていたという。

あたりまえでしょう。
政治決定に多様な思惑が絡まないことなどありません。

だがそうしたなかでも「徳を以て怨に報いる」などという宣言は
普通ではとても出ないものです。
儒教思想がなかったら出せない言葉です。




<指導者には「儒教思想」が浮上する>

中国の指導者のうちでは、やはり中国は親で朝鮮は子供(兄)、
そして日本もまた我が子(弟)なのです。

この思想は指導者になった人物の心には浮上する。
特に漢民族には深い情感となって心底に染みこんでいる儒教思念が、
国家指導者になると浮上するのです。

日中国交回復時に北京にいった田中角栄に対する毛沢東主席にもそれは出ました。

尖閣諸島問題でマスメディアが騒ぐ昨今では、
こんなことをいうとせせら笑う人も多いでしょう。

だが、それは日本人の歴史観の薄さに主原因があるのです。
多くの我々は自覚していませんが(みんながそうだから)、
日本人は経済先進国の民としてはまれに見るほど歴史感が薄い民族です。





<歴史観なき民族のもつ抑止力>

余談ですが、歴史観がない人間は状況次第ではなんでもします。
何をやらかしてくるか判らない。
そういう恐怖を隣国に与えていることを、日本人自身は知りません。

戦後の高度成長時代、ソ連時代にもロシア人は、日本人を怖がっていました。
だって、普通の明るい笑顔の青年が、あるとき爆弾抱いて飛行機で
自爆テロをしてくるのですから。

神風特攻隊の歴史が他民族に与えている恐怖感は凄いですよ。
アラブの若者など、尊敬の目で見ています。

これ自体が、「見えない抑止力」になっている。

知識層の人物と個人的に話し込むと、それがわかります。

+++

今回はこれくらいにしておきましょう。







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Vol.19<中国論(10)>「怪物・袁世凱、皇帝即位を宣言」

2012年09月20日 | 政治見識のための政治学






中華民国政府を新設した孫文の次の仕事は、北方に依然として存在する清王朝を解体して
「一つの中国」を確立することでした。

孫文はスーパー外交を展開します。




<北部武装軍団の大ボス>

ここで乱世の豪傑・袁世凱(えんせいがい)に登場してもらわねばなりません。
彼は清王朝軍隊の統率者でした。 
といっても、清朝が国民軍を持っていたのではありません。

北の地域には数多くの武装軍団(軍閥)が出来ていました。各々にボスがいます。
彼らは自分の地域を統治し、税や貢納物をとって部下を養っていました。
袁世凱はこのボスたちすべてを統率する大ボスでした。

清王朝は、こうした彼に、軍務をゆだねていたわけです。






王朝政府の統治力が弱まれば、軍の統率者への依存度は高まっていきます。
彼は皇帝の下で機能する二代目内閣総理大臣に抜擢され、
軍事・行政を含む全権を委任されました。




<宣統帝を退位させる>

その袁世凱に、孫文は水面下で交渉しました。
提案内容は次のごとくです。

① 清朝皇帝・宣統帝を退位させてほしい。
② 帝と家族の身の安全は保障する。
(当時上海は列強の疎開地でそこで暮らせば中国人民に襲われることはなかった)
③ 帝には豪華な生活が送れる生活資金を供給する。
④ 袁世凱には新国家(中華民国)臨時大統領の地位を譲る。

 袁世凱はこれを飲みました。
かくして宣統帝は単なる個人名の愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)となり、
1912年清王朝は消滅しました。

武昌蜂起から清朝消滅までの動きは「第一革命」と呼ばれます。
袁世凱は新国家の、孫文に次ぐ二代目臨時大統領となりました。




<袁世凱、専制政治に突き進む>

孫文の仕掛けた外交は効を奏し、回天がなりました。
だが、それに付帯する問題が起きました。

袁世凱は北方の無頼漢を束ねるボスたちを統率する豪傑です。
英雄色を好むといいますが、一妻九妾との間に17男14女をもうけるという豪快な絶倫男でもありました。
(誰ですか? いいなぁ・・とつぶやく人は!)

こういう人物には共和制下での臨時大統領という立場で、
いちいち議会の承認を取って政治を行うのはまだるっこくてなりません。

だが彼には陰謀能力もありました。
北京で「やらせ」の軍事反乱を勃発させ、これを納めるという口実で、
南京に行かずに北京において自ら臨時大統領就任宣言をおこなった。

上記の二代目臨時大統領はそういう実態でした。




<孫文、日本に亡命>

袁世凱は以後も独裁体制の確立に努めます。
議院内閣制を取り入れようとする政敵(宋教仁)を暗殺したりして、強引に事を進めます。

孫文は仲間と共に反対運動を起こしますが、敗北し再び日本に亡命しました。 
この一連の動きは「第二革命」と呼ばれます。
孫文は東京で「中華革命党」を結成します(1914)。

1913年10月、袁世凱は強引に議会を従わせ正式大統領に就任しました。
以後、それにあきたらず大統領権限を強化し、軍事権限を掌握する大元帥制度を作り、
みずからそれを兼任してしまいました(1914)。




<袁世凱、自ら皇帝に>

袁世凱の権力集中行動はさらにエスカレートします。
皇帝制度を復活させて専制政治を再現しようとする。
彼は自ら皇帝即位宣言をし(1915年12月)、あわせて1916年より「中華帝国」樹立することを
宣言してしまいました。

ところがこれには全国規模での批判がわき上がりました。
彼は3ヶ月で「帝国取り消し宣言」をせざるをえなくなり、3月に病没してしまいました。
ここまでは「第三革命」といわれます。

袁世凱が死去すると、中国は政権獲得抗争の時代に入っていきます。







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Vol.18<中国論(9)>「孫文、中華民国政府を樹立」

2012年09月17日 | 政治見識のための政治学

(Vol.16 が抜けていましたので追加挿入しました)






清朝政府は列強ピラニア諸国になすがままにされていました。
そうした中で、中国の再生を目指して立ち上がる政治革命家も出てきました。
草分けは孫文(1866 - 1925)でした。







<孫文>


彼は、香港で医学を学びポルトガル植民地だったマカオで医院を開業する医師でした。
だがそのかたわら帝制の清朝を倒して共和制中国を実現することを志すようになっていきました。

孫文は漢民族です。
清朝は満州民族政府で、この少数派民族が多数派の漢民族を支配下に置いていました。

革命家となった彼は1985年、武装蜂起(広州蜂起)を計画しましたが、
密告され日本に亡命しました。
日本では頭山満や犬飼毅を始め多くの日本人からの援助を受けています。

貿易商・梅屋庄吉は、革命を志す孫文に、
現在価値に換算すれば1兆円にのぼるといわれる援助をしたといわれています。







孫文の日本との関わりは深く、1902年には日本人の大月薫と
駆け落ち的な結婚をしたとも伝えられています。

1904年、彼はハワイでアメリカ国籍を獲得し、世界をめぐって革命資金を集め始めました。
1905年には、日本にきて中国同盟会を結成しました。
このとき日本に留学中だった蒋介石とも出会っています。





<武昌蜂起>

1911年、孫文の同志が中国武昌にて蜂起しました。
これが成功して辛亥革命に発展していきました。
革命派は南京に中華民国政府を設立しました。

北の北京には清朝政府が存続していました。

革命政府ではリーダーがなかなか決まりませんでした。
そこにアメリカから孫文が帰国した。
人々の彼への信頼は絶大でした。上海に上陸すると革命派は熱狂して迎え、
全会一致で彼をリーダーにしました。

孫文は翌1912年の元旦に臨時大統領となって、南京政府が南京に成立に至りました。

そして新国家・中華民国が宣言されたわけです。






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Vol.17<中国論(8)>「魯迅と『阿Q正伝』」

2012年09月17日 | 政治見識のための政治学


(Vol.16 が抜けていましたので追加挿入しました)




<愛国心のために>

 列強諸国の覇権時代での中国は、沼にはまってピラニアに食いちぎられる牛そのものでした。
そんな惨憺たる目に遭いながらも、中国の一般人民たちからは愛国心はなかなか燃え上がりませんでした。
(理由は後述します)

そうしたなかで魯迅(1881-1918)は、物語(小説)でもって自国民に愛国心を訴え始めました。





魯迅は医学生として日本の仙台医学専門学校(今の東北大学医学部)で学んでいました。
ある日、日露戦争における中国人露探(ロシア側のスパイ)処刑の記録映画を見たそうです。

そのなかで中国人民衆が銃殺に喝采している場面があった。
それを見て魯迅は衝撃を受けました。 自分らと同じ中国人が殺されるのに・・・。

まあ民衆の拍手は今流に言う「やらせ」の可能性が大きいしょう。
日本国内向けのプロパガンダ用の映画ですから。

けれども若き魯迅にはこの映像は胸のつぶれる思いを抱かせるものでした。
彼は医学を止め、中国人の愛国心発揚に小説という手段で貢献する決心をしました。

彼の『阿Q正伝』(1921)は中国人民に、知識と愛国心をもつことを訴える愛国小説です。
後年、毛沢東は折に触れこれを評価したといいます。
それもあって魯迅の仕事は多くが知るところとなっています。





<上海、魯迅記念館>

 上海に魯迅記念館があります。
春平太はあまりにあちこち行っていて記憶がこんがらがっているかも知れませんが、
たしかここに一人の中国人の老人を日本軍人が斬首しようとしている写真があったのではないかと思います。

引き立てられている老人はロシア側スパイかも知れません。真っ白な白衣を着ていました。
死装束かも知れません。

そこには日本人たちが2~30人ほど集団写真を撮るようにして、二段か三段かになって
カメラに向かって並んでいます。 記念写真そのものです。

中国の老人はその前に引き立てられています。
最前列の右端には、剛毅で傲岸そうな一人の日本軍人が膝を大きく開いて座っています。
膝の間に軍刀を杖のようにたてて、両手をその上に置いています。

彼は処刑をいかにも楽しそうにみています。

これもおそらくプロパガンダ用のやらせ写真でしょう。
日本軍はかくも強いのだと日本国民に宣伝するための。





だがこれをみたら中国人の自尊心がいかに傷つくか、を考えてみる必要があります。
追体験できない読者は、写真での日本人と中国人を入れ替えて想像したらいいでしょう。

そうすれば、上記の処刑記録映画を見たときの若き魯迅の心が想像できるでしょう。
彼の心に沸き上がった悲しみと決意がわかるでしょう。






<英国は試合巧者>

こういう写真を後世に残すのが日本軍の国際政策の幼稚なところです。
英国はこんなことはしない。
彼らはアヘン戦争という、日本軍よりもっともっとあくどいことをしました。
だが、相手国の人民の自尊心を個人ベースで害するようなものは、いっせつ残しませんでした。
一対一での攻撃はしなかったのではないでしょうか。

彼らは法的制度的に、社会システムとしてかじり取ることに徹しました。
システムとしてやれば人民は傷つきません。
一般人民にはそういう仕掛けは判りませんからね。

英国は侵略巧者だったのです。
日本軍人のように、個人ベース、対人ベースで屈辱をあたえる行為をしなかった。

+++

日本人の行為は恨みをかいました。だが、歴史とは奥深いものです。
日本人が与えたこの刺激が、中国人の一人また一人と怒りと愛国心をかき立てました。
その人たちは、抗日運動に加わっていきます。

それは日本人の意図したものではなかったのですが、結果的にそういう効果を与えたわけです。

そして、それを記録した上記のような現場写真が残りました。
ずさんだったのか、世界世論への効果に無知だったのか、とにかく残りました。

これが日本人への恨みを、後世に延々と続けさすことになりました。





韓国でも同じことが起きています。
北朝鮮でもおそらくそうでしょう。

韓国人の大半の若者の対日本感情を知るには、訪れるべきところがあります。
ソウル郊外の「独立記念館」がそれです。
ここを見ないで現代韓国人の対日本心理を語るのは空虚です。

鹿嶋は内部展示物を回覧しながら、英国は試合巧者だったとつくづく思いました。





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Vol.16<中国論(7)>「ピラニアに食いちぎられる牛」

2012年09月17日 | 政治見識のための政治学


(この回を抜かしてしまいました。遅ればせながら挿入します)





時代は、宋→元→明(みん)と飛び越えて清(しん)に至ります。
唐に続いて今の日本の政治に強く関わっているのは清王朝時代です。

清王朝は、漢民族でなく、満州民族による統治者でした。
18世紀にはモンゴル、チベットを含む一大帝国となりました。





<清王朝、翻弄される>

だが、19世紀以降の清王朝の中国は、近代化した西欧列強の食い物になっていきました。
英国はインドでアヘンを作って、中国に密輸しました。

アヘン中毒患者の急増に驚いた清王朝は、輸入を禁止します。
英国はそれを理由にアヘン戦争(1840-42)を起こしました。
(これがあまりに悪辣な政策なので、英国議会でも反対が多く、議決は僅差だったそうです)

英国軍は、近代的な兵器と軍隊技術を持っています。
清朝の軍隊は苦もなく敗戦、「南京条約」を結ばされました。

清朝は、没収したアヘン代金を含めた賠償金を支払わされ、香港を割譲させられました。
さらに広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めさせられました。

翌43年には虎門寨追加条約で治外法権、最恵国待遇条項を承認させられ、
関税自主権の放棄もさせられました。

+++

するとポルトガルも1845年に「マカオ自由港」の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、
統治権を獲得しました。
1887年になるとタイパ島とコロアネ島も占領し正式に植民地にしてしまいました。

ポルトガルは、明の時代の1557年にすでにマカオに居留権を獲得していました。
フランシスコザビエルもこの居留地を拠点にして日本にやってきていました。

それを清朝時代に、植民地化したのです。

すると他の列強諸国も類似の条約を要求してきます。
王朝政府は断れなくてアメリカ、フランス、ドイツ、ロシアにも利権を与えるに至ります。





<中国の立場でみると>

 この時代の中国は、沼にはまった牛がピラニアに食いちぎられていくかのような状態でした。
中国の立場に立ってみれば、日本も一歩遅れてピラニア集団に参加したと言っていいでしょう。

我々日本人は自国中心の観点から見ますから、そういうと「言い過ぎ」との評もでるでしょう。
だが、中国本体に焦点を当ててみれば、以後の日本もまた中国を食いちぎっていったという光景は否定できないのです。

儒教思想を心底に持つ中国は、自らを親とし、朝鮮と日本を我が子と認識してきました。
長安の都で文字(漢字)を寛大に学ばせたのも、親として与えるべき恩恵としてやってきました。
この視角からすると、以後の日本は親の恩を仇で返す風景でした。

+++

日本は列強仲間を追いかけるようにして中国をかじり取りはじめました。
現在日本では国益主義気風が高まりつつありまして、そういう見方は非難されそうですが、
中国の立場に立ってみたらそういうことです。



話は飛びますが、その中国の立場からの見方が1972年に毛沢東の言動に表れました。
この年、田中角栄(当時の日本首相)は大平外相を伴って日中国交回復条約のため北京に出向きました。






周恩来に伴われて毛主席に謁見した角栄さんらに、毛沢東は
「日本が漢字をもっていって(中国から!)ひらがなを考案したのはよくやったと褒め」ました。
だが、それは日本がそういう恩恵を受けてきていることへのやんわりとした指摘でもありました。




話を戻します。中国の立場に焦点を当ての話を続けますよ。
(国粋主義者のみなさん、ごめんなさい)

日本はまず、日清戦争(1894-)に勝利し、多額の賠償と領土を奪取しました。
これはピラニア軍団への参加宣言でもありました。

1932年には満州国を建国させ、自国の傀儡国家としてかじり取りました。
事実上の亡命状態にあった清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を皇帝につかせる
という方式でそれをおこないました。






「五族(日本族、漢族、朝鮮族、満州族、蒙古族)協和」の建国理念を掲げてやりましたが、
実質上日本が支配する領土に満州はなりました。

1937年には日中戦争を起こしました。
これは中国全土を我が支配下に置こうという夢の試みです。

日本軍は進軍しました。
中国人の立場からすればこれは、自分たちの住む村々、町々に他国の軍隊が力を誇示しつつなす進軍でした。
一般人民はこれを呆然とみるしかなかったでしょう。
だが、中には悲しみや怒りを抱いたものもいたでしょう。

その人たちは、抗日運動に腰を上げていきました。









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Vol.15<中国論(6)>「 歴史現場での追体験が新見解を造ることがある」

2012年09月12日 | 政治見識のための政治学





唐から(宋→元→明)と飛び越えて清(みん)に入ろうと思っていましたところ、
前回のコメント欄に「名を示さない方」からの批判をいただきました。

「カシマさん、少し言い過ぎではないか! 日本人にも立派なオリジナリティがあるぞ」
という旨のご批判です。

もともとコメントが少ないもんですから、いただくとついついうれしくなってしまいます。
今回はそれに関連する脇道に入って、無駄口を書いてみようと思います。
あそびですが、たまには遊びもいいでしょう。

+++

 異国の事柄は、現地に行って現物を見るとみないとで見解が大きく異なってくることがあります。

前回の話も、もし春平太が西安の街に行ってなかったら、別物になっていたでしょう。
中国の持つ特異な底力が感知できなかったでしょう。
unknownさんと同じような認識になっていた、と改めて思いました。





<西安の碑林博物館>

前述したように今の西安の街は唐代の国際百万都市・長安の9分の1模型です。
長安と同じく四方を城塞で囲み、四辺をなす城塞の各々の中央に門があり、守衛が守っています。
城塞の高さは約30メートルで、厚い壁の尾根は通路になっています。

長安の昔には、そこからも兵が外敵を見張っていたのでしょう。


西安の南門(永寧門)から入って右手に行きますと、古文化街がありました。
道路の両脇に店店が軒を連ねています。硯や筆、石碑のレプリカ(縮小版の模型品)、
本物の石碑から写した拓本、文書などが売られていました。

古文化街を抜けると「碑林博物館」がありました。

その場所はかつては孔子廟だったそうです。
そしてその博物館には、漢代から清朝時代までに造られた3000余の石碑が保存されているという。

レプリカ(複製品)もあって、本物が北京に保存されているケースもあるそうですが、
ともあれ代表的なものが入場者のために陳列されていました。

人の等身大の石碑(大きな石の板)が沢山あります。ほとんどが黒い石で黒光りしています。
板には論語の教えなど代表的な文献の文字が彫り込まれています。
論語の石板は漢代に造られたという話でしたが、
孔子の教えが何枚もの石板に連続的に掘り込まれていました。

石碑に墨を塗って、彫り込まれた漢字を紙に刷り込みんでつくるのを、拓本(たくほん)といいます。
拓本作りの作業も周期的になされるということでした。






<大景教流行中国碑>


日本でも様々な書物にその写真が載せられている「大景教流行中国碑」という石碑もありました。
等身大の大きな石碑です。

これは景教(ネストリウス派のキリスト教)が唐の時代に非常に盛んだったことを記しています。
後に玄宗皇帝の国粋主義政策で、キリスト教や仏教など外来文化はことごとく消滅させられます。

そのとき、景教の宣教者たちはかつての大繁栄状況を石碑に記録し、地中深くに埋めた。
後年、それが掘り出されここに展示されているということでした。

中国のこの地域の山地には石が豊富なのでしょうか。
昔から貴重な思想や教えを漢字でもって石の碑に刻印することが、盛んに行われたようです。

ハードディスクなどない時代ですから、石碑は思想を長期的に保存する最大の手段でした。
これを彫る人の意識には、自分の生涯を越えて長期に、この文字を人が読めるようにするという思いが
あったことでしょう。悠久の意識です。

日本人の文化作業には、歴史的長期的意識でやったものはあまり多くありません。
白川静さんの漢字の源を探求する研究は例外的です。




<留学生の衝撃>


長安の街ではこうした知的作品が沢山陳列されていたでしょう。
加えてシルクロードを通って持ち込まれるきらびやか品物が市場で売られています。

様々な国の衣装を着た人々が往来している。 
いろんな国からきた目を見張るような美人が、ファッションショーのように次々に街路に登場します。 

それらが絢爛豪華な建造物に彩られた、碁盤の目に仕切られた街路の中で展開されています。

そこに日本人留学生は到着したのです。日本海を船で旅して大陸側の港に着きます。
ジェット機はなかったので、そこから長安の都までまた長い長い旅があります。

遂に長安につき、この城壁都市の内側に足を踏み入れたとき、彼らはいかに仰天したことでしょうか。
これは現実なのか、いやこれは夢なのだ・・・。




<初めてのディズニーランド>

この状況を今の我々日本人はどうイメージしたらいいでしょうか。

テレビもない日本の田舎に生まれそだち、そこを出たことのない若者がいたとしましょう。
村の外れに小さな公園は一つあるが、さびれた滑り台とブランコしかない。
実際こういう村は、戦後の日本にも沢山ありました。

この人が、突然ディズニーランドに足を踏み入れたらどうでしょうか。
若者はめくるめく光景とエンターテインメントに圧倒されて呆然と立ち尽くすでしょう。





<初体験の銀座高級クラブ>

ディズニーランドなど行ったことない、という大人の読者には次のような状況が納得しやすいかも知れませんね。
戦後の高度成長期に実際よくあったことです。

+++

上記の青年も、東京の会社に就職したととしましょう。
上司の世話で結婚して、子供も出来ました。
けれども田舎の無粋さが抜けきらず、女性と話すのも苦手でさっぱりモテませんでした。

その彼が中年になって、取引先の会社から接待をうけました。
場所は夜の銀座。生まれて初めて銀座のネオン街です。

彼は取引先の営業マンに連れられて、一つの小さなクラブのドアをくぐりました。
高級ナイトクラブです。スクリーンに出てくる映画女優に引けをとらない容貌の魅力的な女性が沢山います。

その彼女たちが、なんと、向こうから話しかけてくれるではありませんか!
隣にぴったり座って酒もついでくれるし、おしぼりも開いてくれるし、香水の香りもプ~ンと包んでくるし、もう大変・・・。

さらに次にいったときにはおぼえてくれていた!
「ア~ラ、ケンさんしばらくじゃないの~」なんて鼻声で腕に巻き付いてきます。

こういう世界を歳取ってから経験すると、心酔してしまう人が多いようです。
とりわけ常々「もてない」中年男などイチコロでしょう。

「世の中こんな楽しいところあったのか・・・」とクラブ遊びに目覚めてしまいます。
「これまでなんとつまらない人生送ってきたことか」と新境地を開き一念発起いたします。

そのうち、どこかの店の優しくしてくれる女の子のところに泊まり込んでしまう。
もう家に帰らなくなります。
定期預金は崩すし、生命保険は解約してしまう。

遂に奥さんが連れ戻しにきます。
そういうケースが高度成長期には結構ありました。
今でもあるんではないでしょうか。

+++

長安の門をくぐった留学生には、街のきらめきは
ディズニーランドや銀座のナイトクラブ以上の衝撃だったのではないでしょうか。

奈良、平安時代の日本から来て、長安の門をくぐった留学生は、こんなんだったでしょう。
彼らは圧倒され、ただ、この街にある文化成果をいただくのみだったでしょう。

これすなわち、コピー学習、なぞり学習です。
これによって、日本人は知識の「なぞり輸入→改良」屋たるを決定づけられたのです。




<櫻井よしこは中国に行ってない?!>

 話は変わりますが、櫻井よしこという評論家をご存じでしょうか。
ジャーナリストと言ったらいいか、手厳しい対・中国政策提言でも知られた人です。

そのよしこさんについて「彼女は中国に行ったことない」とのべていた中国人がいました。
筆者には、耳学問をさせてくれる中国人経済学者が二人います。
ともに日本の大学で教鞭を執っています。

その内の一人の方が、先日そんな指摘をしていました。
「まさか?」と鹿嶋は応じました。

「昔のことをいちいち調べたわけではないが、2~30年間はないだろう。
入国しようとしても許可がおりないだろう」と彼はいっていました。

鹿嶋も他者の渡航履歴など細かに調べる暇はありませんので、
これは仮定をおいて考えざるを得ないのですが

~そして仮定で語るのは良くないところがあると承知しているのですが~

やってみます(よしこさん、間違ってたらごめんなさい)。

彼女が中国に行ったことない、とするならばそれは鹿嶋には衝撃的なことです。
普通の人ならとにかく、あれだけ多くのことを中国について評論しながら、
しかもそれがメディアを通して散布される立場にありながら、現場に立たないで書いているならば、
それは衝撃を通り越して恐怖でもあります。

ものには言い様ですから、相応の理由は立つでしょう。
現場に立つとかえって客観的で鳥瞰的な見方が出来なくなる~等々と。
でもそれは詭弁でしょう。

現場に立ったらそのまま鳥瞰図がなくなるのではない。
帰国したりしてそこを離れてたら、改めて鳥瞰できるのです。
そして、歴史的現場に立たないことには認識できないこと、それによって見解が変わることはあるのです。

~だが、以上のことは仮定が事実だった時だけにいえることです。
もし事実でなかったら、よしこさんごめんなさい。




<日本人の宗教音痴も「上澄み知識なぞり」習性による>

 知識の「上澄み」部分を素早くなぞり習得するという習性は「プリンシプルへの鈍感さ」を産む
と前述しました。
この習性は、日本人に宗教音痴の資質をももたらしています。

儀式だけの宗教もありますが、多くの宗教は言葉にした教典をもっています。
教典は物事の基底に流れる共通則の知識も含んでいます。

だが、日本で始まった長安からの輸入知識は、そこを省略した知識でした。
日本人はそれを最高の知識だとして学びました。

その習性が宗教への認識にもおよび、宗教教義の持つプリンシプル、共通則への目をふさいでしまいました。

それが宗教への「知的には幼稚な」姿勢を生みました。
その結果日本人は宗教というと、単純な行動原則だとか、
教義のない霊感だけの営みだと思うようになりました。

思想一般への姿勢についてもそれがいえます。
つまり、ある思想を聞いてもその基底にある存在論・存在哲学に目を注がないのです。

そして、言葉が示唆する行動論の部分だけを思想の本質と考えます。
そして疑い少なくして、単純な行動に出て行くのです。

長安で日本人留学生がせざるを得なかった極度な輸入コピー学は、そういう思考の型も生みました。

そういう事実も、歴史的現場でその時点の状況を追体験しないと、
なかなか認識できないものなのです。







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Vol.14<中国論(5)>「宿命の“なぞり”文化」

2012年09月03日 | 政治見識のための政治学





 巨大国際都市長安と日本からの留学生、
~この二つは、以後の日本における学問知識の性格を決定づけました。





<なぞり体質が決定する>

長安と留学生の祖国日本との知識文化の格差は想像を絶するものでした。
 
長安には漢字という高度に成熟した文字があり、それで記録された経文や書籍がありました。
律令制、均田制などを可能にする法文がありました。

~留学生たちは、唯々感嘆したでしょう。

知識格差が巨大な場合、遅れた側の行為はそれをコピー輸入することだけになります。
それだけで十分母国に大きな益となるのです。


+++

輸入した留学生は、母国では学者になります。
この状況のもとで最も評価されるのは、外国の知識を手際よく紹介する学者です。

そのことは日本の学問知識の性格を決定づけました。

そもそも学問知識というものは、作成者のうちで次のような三段階を経て形成されます。

① まず認識対象に関する漠然とした雰囲気としての情念が意識に浮上する。

② それを様々な言葉に納めて、断片知識群を形成する。

③ その断片群を論理的につなげて(整理して)理論知識(学説)にする。


 ~これが知識の全体像です。「論語」の理論も孔子様のうちでそうした過程をたどってできあがりました。
理論に限らず、漢字の文字だってそうした心理プロセルを経て作られてきています。

知識の「全体的な」修得は、この三つを一体として体得することによって実現します。

けれども、留学生たちにはそんな余裕はありませんでした。
③の部分だけをぞって習得することしか出来なかった。そしてそれでよかったのです。
それを手際よく母国に紹介すれば、母国では最高の学者として遇されました。

このことが日本の学問世界に運命的な習性を確定します。
「外国の進んだ知識の要点をいち早く紹介する人が最高の学者」という思考習性がそれです。





<哲学なき理論知識>


 このことは「ものごとのプリンシプル(基底原理)を把握する」という能力を
日本人が形成するのに巨大な妨げになりました。

 プリンシプルとは具体的にどう説明したらいいでしょうか。
通常言う「哲学」のようなものといったらいいかな。
他の“知識たち”の基底原理と相互関係をもつ「共通則」のようなものといったらいいか。

  
 ともあれそれは、知識作成者の心に浮かぶ①当初の「雰囲気」の中にあるものです。
それを把握するには、学習者は知識作成者のうちに芽生えた雰囲気を追体験せねばなりません。
そうやって底流にある「哲学」を感知せねばならなりません。

だが、留学生にはそうした精神作業をする余裕はなかった。
その結果、日本人は③の理論部分だけを先進国の知識のすべてと考えて
吸収することになったのです。




<明治維新の奇跡も生んだ>

だが、歴史は奇なるものです。
この知識習得習性がプラスに働くこともありました。
明治維新後の日本ではこの習性能力が効果を発揮したのです。

明治初期の日本人留学生は、西欧知識の①の部分だけを素速く抽出して、日本に紹介しました。
明治20年の東京には、西欧科学技術の成果がワンセットできあがっていました。

我々は当たり前のように受け取っていますが、これはほとんど奇跡的です。
こんな能力は中国も朝鮮も持ち合わせていませんでした。

知識の上澄み(①の部分)だけを素速く要領よく抜き取るという資質がこれをなさしめました。
これは、鍛えられずして出来上がるものではありません。
日本ではそれは長安留学生以来延々と反復育成された能力だったのでした。

以後も日本人は、英国などから購入した軍艦や大砲を操作する知識を素速く身につけました。
そして日清、日露戦争に勝利した。第一次大戦にも勝ち組の側に参戦して、利益を得ました。




<長期にはマイナスにもなった>

しかし、この資質はマイナスも生みました。

さらに日本人は、輸入した軍艦に込められた知識を抜き出して、
武蔵、大和といった自前の軍艦を素速く作りました。

けれども技術の根っこにある哲学を吸収してないので、大局観が芽生えなかった。
戦争の主力が飛行機になっても、それに技術を適応させていく視野は生まれませんでした。

共通則までさかのぼって知識を吟味していくと、
創案者のうちにある精神も吸収することが出来るます。
それが大局観をもたらしてくれるのですが、上澄みの知識だけではそれは得られませんでした。

日本は飛行機の知識も輸入して無敵の「零戦(ゼロセン:零式艦上戦闘機)」も作りました。
これは米国の戦闘機に圧勝しました。

だが米国はそれに応じて、新たに対抗できる機種を開発しました。
ゼロ戦は勝てなくなりましたが、日本ではそれに対応する新機種は開発できませんでした。
「プリンシプルへの鈍感さ」がそういう限界を形成するのです。





<歴史的偶然の所業>

どうしてそんな資質を日本人の知識層は持つようになったか。
DNAに責任はありません。

これはひとえに歴史的偶然によるのです。
隣接する地にたまたま知識文化に飛び抜けた国があった。

それがあれば、自分で一から知識を作るより、そこから知識を輸入した方がはるかに国造りに効率がいい。

知識後進国は、自然に隣国の知識を素速く輸入しようとしていきます。
これはどうしょうもなくそうなっていきます。

では、そういう先進国が往来可能な地になかったら?
そうすれば日本人も、オリジナリティ能力の強い民族になったことでしょう。

今の日本の知的資質・習性は、たまたま歴史的偶然がつくったものです。
DNAのせいではない。

日本民族は状況次第ではオリジナリティ重視の姿勢濃厚な民族にもなり得た。
そういう潜在能力をも持った優れた民族ですので、夢を持って下さい。





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