<軍閥(戦国大名)たち>
1916年に怪物・袁世凱が逝去すると、もう多くの武装軍団を束ねて統御できる武将はなくなりました。
南京を取り巻く広大な地域では軍閥(日本の戦国大名のような武力統治者)諸勢力の
覇権争いとなりました。
<孫文の南京政府>
南京では孫文が中国国民党を率いて、中国統一を目指していました。
孫文が目指すのは軍閥を解体しての中央集権的な国家でした。
ところがその国民党も内部は複雑化していました。
党内に地方分権による地域連合型の国家建設を目指す人物も台頭してきました。
各省に自治を認め、それらを連合させた統治体制です。
日本でいえば徳川幕藩体制のような統治体制ですね。
主唱者は陳炯明(ちんとうめい)でした。
彼は何かにつけて孫文に反対した。
(陳炯明)
+++
実は清王朝もこの地域統合型の政府でした。
現時点での民族構成は漢族が全体の92%を占め、残りの8%が他の55の「少数民族」となっています。
清王朝は満州族の王朝です。
こんな少数者が中央集権体制などとれるわけなく、
地方の藩(?)に自治権を与えその連合政権としての幕藩体制を取ってきた。
その上に皇帝制をたてて、皇帝の専制政治としてきました。
陳炯明はその専制部分を議会政治に変えた形を望んでいたわけです。
孫文はこれは絶対に許せませんでした。
理由は後述しますが、こうして国民党は内部分裂含みだったわけです。
<中国共産党>
他方、国内では共産党勢力も台頭してきました。
ロシアでは1917年に社会主義革命が勃発し、共産主義国家ソ連が成立しました。
ここでは共産党の一党独裁統治が行われていました。
この政府は、1919年モスクワでコミンテルン(各国共産党の国際組織)を結成し
世界の共産主義化を志していました。
中国にも同志を育て共産党を発足させ、援助しました。
中国共産党の勢力は成長し、政権争いに加わりました。
後に毛沢東や周恩来がその主導的地位に登りつめて行きますが、
この党もソ連指令の下に中国統治を目指しました。
<日本国(関東軍)、ソ連、米国>
袁世凱逝去後の中国の覇権争いの状態はあたかも「三国志」のようです。
いや、それ以上かも知れません。
中国現代史では、そこに日本(関東軍)勢力が参加します。
日本の本国議会は中国の関東軍に対する統治力を事実上失っていきますので、
この場合の日本国の実態は関東軍です。
がこれもまた中国の支配に向けて行動します。
それに米国、ソ連(スターリン)などが外部から関与する。
これらが陰謀も含めてなす行動は複雑怪奇でその魑魅魍魎ぶりは三国志以上でした。
<孫文の死と蒋介石国民党による統一>
1925年に孫文が死去しました。
袁世凱逝去の約10年後です。
翌1926年には蒋介石が孫文の後継者として党の主導権を手中にしました。
彼は党内反対勢力を押し切って北伐に乗りだし、国内の統一をおおむね成し遂げました。
(蒋介石)
+++++++++++++
<北伐>
北伐(ほくばつ)というのはわかりにくい言葉です。
本来それは中国史において「北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こす」
という意味だそうです。
中国は地理条件からして南北に分裂しやすかった。
南部は概して経済的にすぐれ、北部は騎馬を使った武力を得意としました。
北は武力をもとに南の地を脅かしかすめ取ります。
南部の国々には、こうした北の勢力討伐するいくさが周期的に必要になりました。
北伐というのはこの戦の総称だったようです。
蒋介石の南京政府の場合にも、討伐すべき軍閥勢力が数多くありました。
それらは南京から見て南や西の方角にもいましたが、
中国史ではこれの討伐もまた北伐と称しているようです。
+++++++++++++
北伐成功の結果蒋介石は、1928年に中国国家元首となりました。
だが蒋介石にはこの頃から中国共産党への不審の念が急速に募りました。
彼は共産党討伐を第一目標として、闘争に乗り出します。
1931年に日本(関東軍)が満州事変を勃発させ、翌32年に満州国を建国しました。
だが蒋介石は黙認して(国際連盟への提訴はしつつ)共産党征伐に注力します。
<毛沢東の「長征」>
毛沢東の共産党は江西省の本拠地をすて、戦いつつ南下し、また西に行軍し、
さらに北上して狭西省に至るまで12500キロに及ぶ大後退を続けます。
後に彼はこれに肯定的なニュアンスをつけて「長征」と呼びます。
後退でなく大行軍だったというわけです。
<西安事件と国共合作>
ところが1936年、張学良が毛沢東を追う蒋介石を軟禁するという事件が起きます。
蒋介石は共産党軍追討の軍隊を激励しに西安(昔の長安)に立ち入りました。
その彼を蒋介石の味方だった張学良が監禁してしまうのです(西安事件)。
(張学良)
彼は、今はまず国民党と共産党とは合作してともに日本と戦うべきだと説得します。
これは実は共産党が裏で糸を引いていたとの説が有力ですが、
とにかく、蒋介石はこれを受け入れました。
かくして国共合作がなり、両党は戦いを保留して共に手を携え
日本の関東軍との戦いに入っていきました。
<日本軍降伏する>
これに日本はさらに強行に応じます。
翌1937年、日中戦争を起こし中国全土の支配を目指しました。
だがアメリカとも太平洋戦争を戦っていた日本は敗戦しました。
1945年8月15日にポツダム宣言を受諾し無条件降伏しました。
ここに蒋介石の儒教的宣言が出ます。
<蒋介石「以徳報怨」を宣言>
蒋介石は1943年から、再び中国元首としての行動を容認されていました。
その彼が、同じ8月15日に当時臨時政府を置いていた重慶から
「以徳報怨」(徳を以て怨に報いる)なる有名な言葉を含めた演説をしました。
(蒋介石)
そこで彼は、日本が中国本土で与えた損害への賠償請求はしないと宣言し、
日本軍に降伏を求めました。
計上された対日請求額は当時の金額で500億ドルにのぼっていたといいます。
+++
蒋介石のこの政策には様々な計算、思惑が絡んでいたと言われます。
戦後、再び始まる共産党との戦いへの効果なども計算されていたという。
あたりまえでしょう。
政治決定に多様な思惑が絡まないことなどありません。
だがそうしたなかでも「徳を以て怨に報いる」などという宣言は
普通ではとても出ないものです。
儒教思想がなかったら出せない言葉です。
<指導者には「儒教思想」が浮上する>
中国の指導者のうちでは、やはり中国は親で朝鮮は子供(兄)、
そして日本もまた我が子(弟)なのです。
この思想は指導者になった人物の心には浮上する。
特に漢民族には深い情感となって心底に染みこんでいる儒教思念が、
国家指導者になると浮上するのです。
日中国交回復時に北京にいった田中角栄に対する毛沢東主席にもそれは出ました。
尖閣諸島問題でマスメディアが騒ぐ昨今では、
こんなことをいうとせせら笑う人も多いでしょう。
だが、それは日本人の歴史観の薄さに主原因があるのです。
多くの我々は自覚していませんが(みんながそうだから)、
日本人は経済先進国の民としてはまれに見るほど歴史感が薄い民族です。
<歴史観なき民族のもつ抑止力>
余談ですが、歴史観がない人間は状況次第ではなんでもします。
何をやらかしてくるか判らない。
そういう恐怖を隣国に与えていることを、日本人自身は知りません。
戦後の高度成長時代、ソ連時代にもロシア人は、日本人を怖がっていました。
だって、普通の明るい笑顔の青年が、あるとき爆弾抱いて飛行機で
自爆テロをしてくるのですから。
神風特攻隊の歴史が他民族に与えている恐怖感は凄いですよ。
アラブの若者など、尊敬の目で見ています。
これ自体が、「見えない抑止力」になっている。
知識層の人物と個人的に話し込むと、それがわかります。
+++
今回はこれくらいにしておきましょう。