鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

随想11. 創造神の意志~福音の上位にある骨格論理~

2016年11月22日 | 随想






 前回、イエスが「この福音を地の果てまで宣べ伝えよ」と弟子たちに命じて、天に昇ったとのべました。

今回は、その福音のさらに上位にある聖書の論理構造を考えます。





<手紙に見るパウロの霊感>

福音宣教で大車輪の活躍をした人に、パウロという伝道者がいます。

彼は宣教活動の中で、多くの手紙を残しました。

パウロの手紙は、聖書のなかに見られる論理構造の解説を多く含んでいて、その論理が「パウロ神学」と呼ばれることもあります。

パウロは論理能力だけでなく、
霊感にも飛び抜けて恵まれていたようです。

手紙の中にも、霊感に直接得たような洞察が、そのまま解説抜きで記されているところが、みられます。

---

「律法は天使の与えたもの」というのもそれです。

こういう解読は、我々ならあちこちの聖句をつなぎ合わせてやっと得られるものです。

パウロはそれを解読説明なしで、当たり前のことのように軽々と書いています。
 
 (ガラテヤ人への手紙、3章19節)





<万物は御子の「ために」造られた?>

コロサイ人への手紙、1章16節にも彼の霊感洞察がそのまま言葉になった聖句があります。

パウロは「万物は御子(イエス)のために造られ ています」とあっさり言っています。

+++

解説なしで、突然そう言われると、我々凡人は面食らいます。

「万物は、だって?・・・人間のために創られたものもあるのではないの?

イエスはあれだけ人間を愛していたじゃないの・・・・」

などとも思ってしまいます。






<父なる創造神の意志とは?>


だが、言われてみると、こんな思いもわいてきます~

御子イエスは人間を深く哀れみ愛しましたが、その基本身分は人間より上位の創造神です。

創造神には、イエスが父と呼ぶ、時間空間的無限者もいます。

聖霊もいます。

こうした上位者のうちに、万物を御子のために造る事情があるのではないか。

聖書には、そういう奥義があるのではないか。

---

そういう意識で聖句を眺めると、それに関連する様な断片情報がみえてきます。

それをつなげると、次のような「創造神の意志に関わる骨格」が浮上してきました。

鹿嶋の仮説的骨格ですが、示してみましょう。





@@@@@

聖書の創造神は下記の三者からなっています。

(三者でありながら一体なので、三位一体と呼ばれます)





<父なる創造神>

聖書では、イエスが「父なる神」と呼ぶ、万物の創造神がまずいます。

この方は、時間空間的無限者であり、いのちエネルギーの源です。

「いのち」というエネルギーは、このかたから全空間にあまねく放射されているのです。




<ひとり子なる御子>

そして、そのひとり子、御子イエスがいます。

御子は、創造神によって「造られた」のではなく、永遠の過去から創造神の懐にいた方です。


+++

父は御子を他者より段違いに強く愛しています。


誤解を恐れず端的に言えば、創造神は御子以外のことはどうでもいのです。


+++

御子もまた父を最も愛し、その意志を実現すべく、全身全霊を込めて働きます。

(この父と御子の関係は、人間の親子の関係の原型になっています。

創造神は人間を創造する際、「我々に似せて創ろう」といっていますが、

それは自らの親子関係に似せることをも含めて言っているのです)




<助け主、聖霊>


次いでもうおひとかた、聖霊がいます。

このかたは、父なる創造神の意志(シナリオ)を実現するために働く御子の、その働きを助けます。





<父なる創造神の意志>


まずこの三者のみが、永遠の過去から存在していた時期があるはずです。

そしてあるとき被造物が造られます。


創造神は、最愛の御子のために一つの意志を抱きました。

それはこんなシナリオをもっています。





<天に創造神の王国を創造する>

父なる創造神は御子のための「おうち」を創る意志を抱きます。

それが、御子が(将来)王として統治すべき広大な被造空間です。


これが天国、正確には、「天の創造主王国」です。

そこには御子が王として座すべき王座をも創ります。





<天使を造る>


次にこの天国空間の中に、創造神に仕えるべき霊的存在を創ります。

これが御使い(天使)です。

---

<天使は霊であって自己増殖しない>


天使は霊的存在で、後に造られる人間のような肉体はありません。

男女という性別もなく、自己増殖しません。

そこで最初から膨大な数が創られたと推察できます。




<肉体がなく、身体の死もない>


天使は霊だけの存在ですから、人間のような肉体の死はありません。

   (ちなみに霊に充電されている“いのちエネルギー”の減少、という意味での「霊の死」はあります。これは人間の霊にもあります)

+++

天使には火にも風にも変容する、という力が与えられます。

また、後に創られる人間と同じく、自由意志が与えられます。

それでいて、身体が死んで消滅するという恐怖、すなわち死の恐怖がありません。




<軍団状に組織されている>

それ故、彼らは軍団上に組織されます。

天使長と、その命令で動く一般天使として造られます。

一般天使は、上位の天使長の命令に服従して、

「命令 ⇒ 服従」で動く義務を与えられています。
違反したら懲罰されます。

天使はこういう風にきつく統率されています。






@@@

<宇宙は暗闇の空間>


天使は被造物です。

被造物の行動は完全ではありません。

その自由意志で、義務に反する行動をする可能性も常にあります。

+++

そこで、創造神は、違反天使を閉じ込める監獄のような空間を、天国の一角に造ります。

そこは暗闇の世界です。

これが我々のいう宇宙に当たります。




<御子は死を味わうことを定められている>


御子は天の王国で王座に就けば、こうした被造物を統治する必要に直面します。

そこで、父なる創造神は、被造物特有の「死」をあらかじめ体験して知る義務を御子に与えます。





<人間を創造する>

そのため、この宇宙の中に、肉体の中に霊が入っている存在を、創造神と御子に似せて創ります。

肉体には、死があります。

そういう存在として創られるのが人間です。

(ここでも万物は御子のために創られるのです)

---

創造神は宇宙の中に、人間の肉体が住めるような環境を創ります。

それが太陽系であり、地球ということになります。

この様を描いているのが「創世記」の冒頭です。




<「人の子」として地上に来る>


この人間世界に、御子イエスは「人の姿をとって」マリアのおなかから産まれます。

そういう自分をイエスは「人の子」といっています。


創造神の「人の子」の面を指してそう呼びます。


「人の子」という言葉には、そういう独特な意味があります。

人間は全面、人間の子そのものですから、あえてそれを特徴として言う必要がありません。

---

ともあれイエスはこうして、死を体験 することが出来るようになるのです。




<死と復活>

実際にイエスは十字架で処刑され死にます。

だが御子には人間のような罪がないので、創造神は三日後に復活させます。

この復活も、死と並んで御子が天国に入る前に体験することを、創造神はあらかじめ定めていることです。

+++

こうして、御子イエスは死を体験して(知って)、復活して、その「人の子」の姿でもって、天に昇って王座に就きます。

自分のために創られた広大な世界を統治、運営していきます。

これが父なる創造神の意志であり、シナリオです。

すべては、つまるところは、御子のために創られているのです。




<人間の位置>

人間の物語は、このシナリオの中の一部です。


上位者(創造者)のシナリオのなかでは、人間は、イエスがこの世に来るための道として、創造されています。

そう聞くと「勝手なものだ」、という印象を人間は抱きがちです。

+++

だが、創る側は基本的に、自分の目的のために被造物を造り、用いることが出来るのです。

人間はテレビを設計し製造し、自分の目的のために使いますよね。

使えなくなったら、廃棄しますよね。

創る側(創造神)と創られる側(人間)との関係は、基本的にはこれと同じです。





<だが、御子は人間を哀れみ愛する>


その基盤の上で、(創造神と)御子イエスは、人間をあわれみ、深く愛します。

その愛は、人間が人間を愛するよりもはるかに深く慈しみに富んでいます。


+++

具体的には、イエスはみずから血を流して死んで、自分の言葉を信じる人間の罪が許される道を造ります。

許されて、最終的には「創造神の子として」(つまり、イエスの兄弟として)天のイエスの王国に住むことが出来るようにします。

許され、救われた人間の身分は天使より上です。

天使は創造神の従者、使用人ですから。


+++

その部分のシナリオが福音です。

これは人間の「救い」の道を与えるシナリオでもあります。

前回に示したのはその部分の「骨格論理」だったわけです。




<「救い」は人を愛する故のプレゼント>


これでわかるように、人間が創造神のシナリオを実現するために役立つに必須な物語部分は、御子が「この世」の地上に来る道として造られる部分だけです。

以後の「救い」の部分、福音の部分は、上位者のシナリオが実現するには、不可欠な要素にはなっていない。


にもかかわらず上位者である創造神は、被造物である人間をあわれみ、人間同士の愛を超えた驚異的な愛を注いで、御子に救いの業をさせます。

この部分の物語が福音で、それは本質的に、人間に贈ったプレゼントです。

---

プレゼントですから、人間は福音を受けることも出来るし、受けないことも出来る。

てもどうであろうと、創造神の意志は成就します。

だからイエスは十字架上で息を引き取るとき「成就した(It is finished)」といったのです。


@@@

余談です。

「創世記」から始まる聖書全巻の話の大半は、直接的には「創造神・対・人間」の話です。

具体的には、人間が幸福になる方法の話、福音の話です。


---

その一方で創造神には、上位者としての、より重要な関心事があります。

御子のために天国を造り、その王座に就かせるのがそれです。

にもかかわらず、聖書は大半で人間の幸福実現の話を、あたかも、創造神の最大関心事のようにのべています。

創造神の意志が成就されるシナリオは、そのなかに、断片的に埋め込まれているにすぎない。

---

だがそれは、人間には「自分の幸福が第一に関心のあることがらだから」なのです。

創造神は、それにあわせてメッセージを人間に与えているにすぎないのです。

---


繰り返しますが、聖書の最上位の論理は、人間より上位の創造神が、愛する御子を天国の王座に就けるという、自らの意志を達成する物語です。

「対人間」の話は、その一部分として、下位に位置づけられるべきものです。




<人本主義と神本主義>

人本主義(人間中心で考える思想)、神本主義(神中心の思想)という言葉があります。

福音の話が聖書の最上位の論理だと誤解すると、人は聖書は「神の(人間への)愛」だけを説いた本と思っていきます。


その説明を繰り返しているうちに、人の聖書理解は人本主義(人間本位主義)に流れます。


聖書は神本主義(創造神本位主義)の本、と聞きながらも結局そうなっていくのです。

だがそれは、聖書メッセージが示す「全世界の全体像」から「ずれた理解」となります。



(完)








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随想10.「福音」の骨格を一気に示すと

2016年11月16日 | 随想





前回に関連して、もう一つ記事を差し挟みます。

ここで、「福音」の骨格を一気に示します。

もちろん、鹿嶋の考える骨格です。






聖書は膨大なメッセージ内容を持った書物です。

そこではいろんなテーマが述べられますが、大テーマの一つは「福音」です。

福音(ふくいん)という語は、「人間が幸福になるベストな方策の知らせ」を意味しています。

その方策を、人間をも含むすべての存在を造った創造神が与えた・・・このメッセージが福音なのです。

---

鹿嶋はここで、このメッセージの骨格を示したいと思います。

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聖書は旧約聖書のうしろに、新約聖書を合体させてできています。

---

<旧約の骨子>

人間を幸せにする方策という観点から見ると、旧約聖書の骨子は、律法(人間に守れと命じられた戒め)です。

(これは天使を通して人間に与えられています)

ここでは、律法を守ることが、祝福を受け幸福になる方策になります。

守らないと、その人のうちには罪が生じ、刑罰としての呪いを受け、不幸に陥れられていきます。

律法とは、そういう教え(言葉)です。


---

<新約の骨子>

新約聖書では、その律法に「赦し」が加えられます。

律法を犯しても、罪が許される道があるよ、と伝えている。

この知らせが福音(ふくいん:「よきしらせ」という意味)」です。






<追加するのは創造神の御子>

この知らせを持ってきたのは、創造神の御子イエスです。

旧約の律法の教えでは、「律法を犯す ⇒ 罪 ⇒ 刑罰」という論理が貫徹しています。

ところが新約で、イエスがこれに「赦し」を加えているのです。




<創造者上位の大前提>


イエスはどうしてそんなことが出来るのでしょうね。

その根拠には、聖書の存在感、世界観があります。

聖書メッセージは、全存在界は創造者と被造物とでなっているという鉄則の下に展開されています。

そしてそこでは、創造した存在は、創造された被造物より上位にあります。

テレビ受像器を考案して造った人間が、テレビより上位の存在として好きなように使うように、

創造主(神)は被造物の絶対的な上位者なのです。





<御子イエスは安息日の主>

だからたとえば(新約聖書で)イエスはこう言っています。

「わたしは安息日の主なのだ」

・・・主というのは、主人です。


主人は、従者に対して絶対的な上位者です。

従者は主人の命令に絶対に従うべき存在です。

(ちなみに、奴隷というのは、この従者の内で、金銭で売買されうる存在をいいます)

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安息日は、一日何もせず、創造神のことを思うべき日です。

これを「守れ」と言う命令が安息日の戒めで、律法の一つです。

この日は通常、土曜日とされています。

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「この安息日に対しても私は主人である」とイエスは宣言しています。

「安息日は、創造神である父とイエスが造って与えた(伝えたのは天使)もの」だからです。

安息日も、(律法すべて)も、創造神が造った(定めた)被造物なのです。

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もちろん、創造神も御子も暴君ではありません。

いったん定めた以上は、これを廃棄することはしない。

---

だが、その真意と細部はまだ伝えられていない。

エホバ天使がモーセに「十戒」として与えた段階ではまだ、伝えられていない。

それをいま、わたしは述べている。

安息日をつくり、その上位にある自分が述べている。

だからそれは正しいのだ、・・・ということになります。

---

その上でイエスはさらにいいます。

「そもそも人間には律法を完全に守ることは出来ないのだよ」~と。

有名な「女を見て姦淫の情をいだけば、姦淫をしたのと同じだ」~というイエスの言葉は、それに関して発せられたものです。

イエスはこの例を用いて、旧約で「行為の罪」としてユダヤ人たちに受け取られていた「罪」の概念に、「思いの罪」を追加しています。

そして、旧約聖書の律法とは本来そういう深いものだ、という。

---

明記されていないだけだ。

それらすべてが「罪」であって、それが律法の真理だ。

それについてはイエスは「わたしは律法を完全化しに来たのだ」とも言っています。







<人間はみな罪人>


さあ大変。

こうなると、律法を守りきることなど誰にも出来ません。

全てが罪人で、天国に入ることなど誰も出来ません。





<律法に「許し」を加える>


だがそこに、イエスは「赦し」を導入します。

「わたしは罪を許す権威を(父から与えられて)持っている」とイエスはいう。

(創造神は、律法に対しても主だから、そうなるわけですね)






<肯定的に受け入れたものに、イエスの言葉は実現する>

そして、この許しを得るには、「わたし(イエス)のその言葉を信じる(肯定的に認識する)ことだ」

「信じたものには、その赦しは与えられるのだ」~と宣言します。


この宣言が福音です。

「よき知らせ」です。

そしてイエスは弟子たちにこの福音を、「地の果てまでのベ伝えよ」と命じて、天に昇ります。

---

これを記したのが新約聖書です。

だから、新約聖書には、律法も廃棄されないで生きています。

そこに許しも加わったのが新約聖書です。

新約聖書は、より総合的な聖書なのです。

イエスはそれを「(旧約)聖書は私のことを述べた本」という言葉で示しています。

(ヨハネ伝、5章39節)


@@@

以上が、福音の「骨格」です。

福音に関して記されている細部のことがらは、みな、この骨格の中に位置づけることができます。

それらは冷蔵庫の中に食材を収納するがごとくに、収納されていくでしょう。



(完)







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随想9.原語からの聖書解読

2016年11月15日 | 随想






「人間の血」のついての考察から、「イエスの血」に進もうとしていますが、

ここで、一つ臨時の話を差し挟みます。

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最近、同じ町にお住まいのクリスチャン女性に、歯医者の待合室で偶然再会しました。

聖書信仰をしたら直行する情熱家で、行動が素速く外連味がない。

変わり身も速い方です。

4ヶ月前より、ヘブル語、ギリシャ語を本格的に学びはじめ、持ち前の情熱で速やかに習得されていました。

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そして、原語から、訳語聖書からは得られない境地を指導者に示され、感動の日々を送っておられました。

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大阪に、そういうアプローチをする本部があり、愛知県にそれに連動して働く牧師さんが居られて、

教会もそこに代わったという。

杉原千畝記念館のユダヤ人からも学んでいる、というから、もう本格的です。

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お会いする早々、ヨハネ伝にある「カナの婚礼」の話について、原語からの新解釈を興奮気味に説明してくださいました。






これらの事柄を通して、鹿嶋は、本を読む際に重要なことを改めて悟らされました。

その「思想の全体像への問題意識を持ちながら」読むことがそれです。


聖書に限らず、全ての本についても、その論旨の全体像への仮説を持ちながら読むことは重要です。

暫定的なもの、漠然としたものでいいから、とにかく一つの全体像仮説をもつ。

聖書に於いても、それをもって行うのです。

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なぜなら、聖書の個々の場面、個々の出来事の解釈は、全体像によって枠付けされるからです。

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鹿嶋がよく出す例を、ここでも持ち出しましょう。

あるオウナー企業経営者の認識・理解も、それを包む全体像次第で別物になってしまいます。

マルクスは、自由市場世界の本質は、「資本家が労働者を搾取する」ところにある、と見ます。

そういう全体像の中に位置づけますと、「このオウナー経営者は労働者の搾取にいとまのない資本家だ」という認識になります。

彼のどんな行動も、搾取に結びつけて解釈されます。

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他方、自由市場経済はおおむねよく機能する、という経済社会の全体像もあります。

こういう肯定的な世界観・経済観のなかで彼を認識しますと彼は、

「世の中に生産物を増やし、雇用を増す、社会への貢献者」という理解になります。

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同じ一人の物への解釈が、全体像次第で、かくも別物になっていくのです。

聖書を読む場合にも、まずこのようなことを、しかと悟るのが大切です。







世界のほとんどの人々は、母国語に翻訳された聖書を使っています。

米国人も英国人もそうです。

そういう我々には原語は、訳語との意味のブレを確認する手段です。

全体像の中での解釈に、釈然としないものがあるときには、原語に戻ってそのブレを確かめる。

原語の役割は、基本的にそれだけのものです。





<聖書も全体像イメージから>

聖書を読むには、我々はまず、全体像のイメージを得ようとせねばなりません。

それには、慣れた言葉で、聖書を飛び飛びに眺めることを、繰り返す必要があります。

そういう作業は、自らの母国語でやるのが抜群に効率がいいのです。

(それでも一定の全体像イメージをつくるのは一仕事ですよ)


@@@


話を、純真で一本気なクリスチャン女性に戻しましょう。

今彼女は、原語からの解き明かしに感動する日々を送っておられます。

これはもう、しばらく、そのまま進むしかないでしょう。




---

鹿嶋は、最近、このブログで、聖書に対面する姿勢は二つあると申しました。

(=聖書に対する二つの姿勢=  参照)

その第一は、聖書でもって心の平安を得ようとする姿勢。

第二は、、見える世界(物質界),見えない世界(霊界)をも含む、存在界全体を知ろうとする姿勢でした。

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だが、この第二の中にも、二つの生き方があることを今回知りました。


全体像への問題意識を抱きながら個々の出来事にアプローチする姿勢と、

全体像なしでいきなり、聖句にある個々の出来事の解釈に入って、細部を探る姿勢、

~との二つがそれです。




けれども、原語の意味からの細部の解釈に入り続けていると(全体像イメージなしに)、

あるとき、従来自分の持っていた聖書の全体的な教えすらも自覚しづらい状況が来るでしょう。

細部の情報が、それを覆ったり、ゆがめたりするからです。

---

その時にまた、偶然お会いするのを期待しています。

いまはとにかく、行き着くところまで行くしかなさそうに見えますので。


(完)








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随想8. 人間の血は「いのちエネルギー」を運ぶ?

2016年11月10日 | 随想




血に関する論理的な考察をもう少し続けましょう。

人間の血に関して物理学的な理解を試みます。


それには「いのち」という聖書の言葉を考えないわけにはいきません。

聖書には、人間の血といのちとが重なった状態であることを示唆する聖句がいくつかあります。

「肉のいのちは血の中にある」(レビ記、17章11節)などはそれです。





<科学は「いのち」への論及を避ける>


ところが、科学では「いのち」について明言することが避けられています。

それは科学が強く五感主義的な姿勢を持っているからです。



「いのち」は目に見えません。

そういう五感で認識できない世界のものに論及するのには、科学者は過敏になっています。





<カトリック1200年の思考支配>


科学は、欧州ルネッサンス期に出現した一つの認識方法です。

それはカトリック教団による思考支配への反発によって生じました。

カトリックはローマ帝国の唯一国教となって以来、欧州人民の思考を、中世の1200年にわたって統制してきました。


---

この教団は自らのなした聖書の解釈を、正統な解釈(教理)として、この受容を人民に強制してきました。

これに反する思想は「異端(いたん)」とし、異端審問裁判所までつくって、徹底普及させてきました。

聖書の解釈ですから、それは霊的な(見えない世界の)事柄にも大いに論及します。

そういうことがらも含めた自分たちの解釈を、正しいものとして受容することを人民に強制してきました。

これに知識人は特に苦しんできました。




<科学という認識方法>

だが、ついにルネッサンス期に対抗思想が考案されました。

それが科学という認識手法です。

この思想は、大多数の人間が確実に認識できるのは五感によるものだけだ、としていました。

そこで、認識対象を五感認識できるものに限定し、そこで因果関係を見つけ出していこう~とするものです。

考案者は、これを科学(サイエンス)と称しました。


---

やってみると結構沢山の発見ができました。

科学への信頼は急上昇し、対照的にカトリック教理への信頼は低下しました。


その結果、今日では確実な認識はむしろ、科学によるのだ、という思想が優越しています。

聖書解読者も、敢えてこの風潮を乗り越えることはしなくなりました。

---

この科学の五感主義で行くと、「いのち」は認識対象から外れがちになります。

そこで聖書解読でも「いのち」への論及は回避されます。

だが、そうすると、血の問題にも正面から取り組むことが出来なくなるわけです。





@@@

<聖書の「いのち」はエネルギーのような概念>

そんなわけで、「いのち」と認識を漠然としたままで、聖書は読まれてきています。


けれども鹿嶋はこれに、大胆ながら仮説を立てて考察してきています。

+++

聖書の全体を眺めていると、「いのち」は物理学で言うエネルギーのような概念であることが浮かび上がってきたのです。

さらに、その「源は創造神にあって、創造神からそれが全空間に放射されている」というイメージも浮上してきました。

そこで、それを仮説として考えを進めることにしました。


---

むろん、わかりづらいことはそのまま(ペンディング)にして進むことも、大切な聖書解読の知恵です。

やっている内に、他のところとの繋がりで、見えてくることもあります。

だが、私はここで、「いのち=エネルギー」という仮説を立てて進んでみることにしました。



@@@

この仮説には、聖書理解を進めてくれるところがありました。

たとえば、近代物理学では、「エネルギーは物質と相互転換する」という事実を発見しています。

すると、聖書で言う「創造」は、「いのちというエネルギーを創造神が物質に転化させた」というような理解が可能になりました。





<加えて循環運動ももたらす>

そうみていくと、さらに、新しいアイデアも出てきました。

聖書の「いのち」という概念は、物理学でいうエネルギーを超えたものをもっていそうだ~というのがそれです。

いのちエネルギーは物質を創るだけでなく、それを循環運動させる力ををも持っているのでは・・・というわけです。


---

人間の身体で言うと、諸器官は物質によってできています。

そしてそれらが組み合わさって、循環運動をすると、人間の身体は生命体になります。

この循環運動をも、いのちエネルギーはもたらす力を持っているのではないか、と考えられたのです。


実際、人の身体は循環運動をすると生きたものとして活動します。

循環運動が止むと死にます。

死ぬと諸器官は腐敗し始めて、バラバラになって消滅します。

---

その循環運動をもたらす力をも「いのち」というエネルギーは持っているのではないか、とみられたわけです。





@@@

<人間の血は「いのち」を含んで運搬する>

さて、そうしておいて人間の血を考えます。


それにも仮説を立てます。

人間の血は、この「いのちエネルギーを身体の諸器官に運搬し供与する液体」だと仮説します。

---

この仮説は、我々が観察する医学的現象と結構符合します。

例えば、人間は血圧が水準以下になるとまもなく死にますよね。


血は栄養分をも運ぶと言われます。

だが、栄養分が細胞に運搬されなくなっても、人間は数日以上生きるのではないでしょうか。

けれども、血が循環しなくなると、人は速やかに死にます。

---

血が循環しているかどうかをはかる基準が血圧です。

血圧が一定以下になると、人間は死んでいきます。


このことも、血には、諸器官の循環運動に直結する何かがあることを、示唆しています。

そして、その「何か」は「いのち」ではないか、という推察ができるのです。






<生活直感の歴史>

「血はいのちと重なっている」、ということを、人間は生活の中で直感してもいるように見えます。

契約を確証する手段は、前述したように、書名、押印、血判などです。

その中でも、血判は最も重大な決意を込めた確証の印です。


赤穂浪士でも、仇討ち参加者は血判を押しています。

これを破ったら死にましょう、という決意を血でもって表しているわけです。

血は最も強力な、契約の確証手段とされてきているのです。


---

かくのごとくに、人々は、歴史の中で、「血といのちは重なっている」という直感をえ続けてきています。




<血にいのちエネルギーを渡すのはその人の霊>


もしそうだとしたら、血が運搬する「いのちエネルギー」は、どこからやってくるのでしょうね。

これにも鹿嶋は仮説を立てます。


いのちエネルギーは、「その人の霊から血に渡される」と考えます。


前に鹿嶋は、「いのちエネルギーの源は創造神にある」と仮設しましたよね。

そして、「それは創造神から放射されていて、人間の霊はそれを充電蓄積する」

~と仮設しました。


ここでは、「その霊に蓄積されたエネルギーを血は受け取る」と考えるわけです。

---

すると、霊に蓄積されたいのちエネルギーが多いほど、血に受け渡されるエネルギーは多いことになるでしょう。

逆に、蓄積量が少ないほど、血に受け渡すいのちエネルギーは少なくなるわけです。



---

では、その霊へのいのち充電度は、何によって決まるか。

これには、前に仮説を立てましたね。


「その意識が創造神の意識波動と共鳴しているほど大きい」がそれでした。


---

すると、創造神の意識と霊がよく共鳴している人ほど、血に受け渡すいのちエネルギーも多くなる道理となります。

ならば、その人の身体も、循環運動が活発になる。

その人は活力を持って、健康になるでしょう。


---

この仮説は、創造神信仰によって健康を取り戻した人が少なからずいる、という事例と符合しますね。

今回はこれくらいにしておきましょう。




(随想8. 人間の血は「いのちエネルギーエネルギー」を運ぶ?・・・・完)







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随想7.聖書での「契約」とイエスの血の働き

2016年11月07日 | 随想





 「イエスの血の力」と言う言葉をクリスチャンはよく口に出します。

けれども、これを論理的に追いきるのは結構難しいようにみえます。




<聖書特有の「契約」概念>


それにはまず、聖書における契約の概念を知ることが、必要になります。

人間社会に住む我々も、契約をします。

部屋を借りるにも、クルマを買うにも契約をします。


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聖書で言う契約は、これら人間社会でのものとは少々ですが、違います。

人間社会では、対等の立場で契約文を提案し合い、合意したものを契約文とします。

だが聖書メッセージでは、上位者である創造神が、下位者である被造物に発する命令が契約文となるのです。

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ならばそれは命令ではないか、と我々は思いますよね。

たしかに、それは、命令の側面をも持っています。

けれども、その命令は、上位者の気分次第で変更されるものではありません。

創造神は暴君ではないのです。






<命令内容は変えない>

一度発したら、その言葉を創造神は変えません。

その面は、人間社会での契約文と同じです。

命令でありながら契約となる。

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人間は、万一創造神が契約文を守らなかったら、あるいは、変えようとしたら抗議できます。

このことは上位者に対していようが、出来る。

創造神が、命令を発しながらわざわざ「諸君と契約を結ぶ」というのは、そういう意味を持っているのです。


聖書での契約は、そういう独特の概念です。

一旦命じたら、それは契約となり、創造神自身をも縛るのです。






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<旧約、新約とは?>

そこで~

旧約聖書((Old Testament)の「約」は、そういう意味での契約の「旧い方」ということになります。

旧い方の契約を書いた聖書ですね。

新約聖書(New Testamento)の「約」は、そういう意味での契約の「新しい方の」という意味になります。

こちらは、新しい方の契約を書いた聖書です。

聖書は、全体が、そういう契約文でみちているのですね。



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さて、人間社会にもどります。

我々の社会での契約では、契約文に各々が、自分の名を署名したり、印鑑を押したり、血でもって血判を押したりししますよね。

契約文を確証するためにそうしています。


契約文といえども文章です。

文章は所詮言葉で出来ている約束で、どちらかが守らなければおしまいだ。

そこで人間社会では、「それを一定期間変えないで守る」、という確証をするために署名・捺印したりしています。

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では、聖書における契約の言葉はどうでしょうか?

旧約聖書の契約文は、それを与えるエホバ神が一方的に保証しています。

「おれが契約と言ったのだから変わることはないのだ」という。

まあ、それが保証と言えば保証でしょう。




<新約聖書の保証>

他方、新約聖書ではもう少し丁寧です。

新約聖書の命令は、イエスが発しています。

イエスはそれを契約文として、自らの血でもって確証しています。

そのために殺される際に、大量の血を流します。

死ぬのは、血を流さないでも(窒息死などで)死ねるのに、そういう殺され方をするのです。




<最後の晩餐での聖餐>


イエスはそのことを、殺される前に、有名な「最後の晩餐」の場で予告します。

彼は自らがまもなく殺されることになる時点に、パンと葡萄酒を弟子たちに与えます。

そして、それらを自分の肉であり血であるという。

その上で、この血は自分のたてる契約を確証する、というのです。

(マルコによる福音書:14章23-4節、ルカによる福音書:22章20節)

・・・

これは一般に聖餐式(せいさんしき)と呼ばれています。

イエスの名で集まるときに、これを実施して自分を思い出すように、との旨をイエスは命じていきます。


そして、実際に大量の血を流して殺されます。




<全聖句がイエスの血で確証されている>

イエスのこの言葉を認めると、実は、旧約聖書の契約も、結局はイエスの血で確証される~ということになります。

旧約も、本質的にはイエスの契約をいっているからです。

そのことを、イエスは、ヨハネ伝5:39でいっています。

「旧約聖書は(つまるところは)わたし(イエスのこと)を証言している」本だとイエスは断言しているのです。

 (キリスト教ではそれを受け入れるが故に、本来ユダヤ教の教典だった旧約聖書を、新約聖書にくっつけて「聖書」としています)

だから、旧約聖書の契約文も、つまるところはイエスの血で確証されていることになるのです。

・・・

つまり、聖書全体の契約文が、イエスの血で確証されているのですね。

聖書がそういう経典であることを、我々はよく知るべきです。

宗教経典はいろいろあります。
そのほとんどに、教祖の言葉が記されています。

だが、それを、教祖自らが、自分の流す血で確証する、という論理を持った経典はありません。





<驚くべき効力>

では、その論理は実際に効力を持つのでしょうか。

それはまず、聖句の重量感の急変でもって自覚できます。

聖書の文章(聖句)を、イエスの「血で確証されているもの」との意識を一方に持ちながら読んでみます。

すると、聖句が不思議な重量感をもって味わえてきます。

従来の聖句感触には、その強力な重量感は無かったことが容易にわかってきます。

すると、不思議な霊的世界が開けてきます。




<聖霊のバプテスマも容易に受けられた>

これは私だけの体験ではありません。

H・A・マクスウェル=ホワイト『イエスの血の力』(オアシス・クリエイト刊)、は多くの人々がそれを体験していることを記録しています。

英国で、聖霊のバプテスマを受けたくて集まった人々が、賛美しても、聖句を朗読して祈っても、なかなか受けられなかった。

そころが「ジーザス・ブラッド!」(Jesus Blood! イエスの血潮!)と繰り返し叫び始めたら、いとも容易に聖霊を受けてしまった。

そういう状況も、この本は記しています。

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不思議な事象です。

筆者は「一方で血を強く意識しながら読む」という聖書講読のメカニズムを、言葉(理論)で説明出来たらと思っています。

だが、当面のところ難しいです。

その意味で、鹿嶋にはこの事象は神秘の領域に入っています。

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当面、これはもう仕方ないと思っています。

宗教でも、むやみに神秘を振りかざすと、神秘主義に陥ってしまいます。

その意味で神秘主義は避けねばなりませんが、神秘の要素は残してもいいかなあと思っています。

神秘の要素が全くなくなったら、それは科学になってしまいますから。


(完)





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