前回、イエスが「この福音を地の果てまで宣べ伝えよ」と弟子たちに命じて、天に昇ったとのべました。
今回は、その福音のさらに上位にある聖書の論理構造を考えます。
<手紙に見るパウロの霊感>
福音宣教で大車輪の活躍をした人に、パウロという伝道者がいます。
彼は宣教活動の中で、多くの手紙を残しました。
パウロの手紙は、聖書のなかに見られる論理構造の解説を多く含んでいて、その論理が「パウロ神学」と呼ばれることもあります。
パウロは論理能力だけでなく、
霊感にも飛び抜けて恵まれていたようです。
手紙の中にも、霊感に直接得たような洞察が、そのまま解説抜きで記されているところが、みられます。
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「律法は天使の与えたもの」というのもそれです。
こういう解読は、我々ならあちこちの聖句をつなぎ合わせてやっと得られるものです。
パウロはそれを解読説明なしで、当たり前のことのように軽々と書いています。
(ガラテヤ人への手紙、3章19節)
<万物は御子の「ために」造られた?>
コロサイ人への手紙、1章16節にも彼の霊感洞察がそのまま言葉になった聖句があります。
パウロは「万物は御子(イエス)のために造られ ています」とあっさり言っています。
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解説なしで、突然そう言われると、我々凡人は面食らいます。
「万物は、だって?・・・人間のために創られたものもあるのではないの?
イエスはあれだけ人間を愛していたじゃないの・・・・」
などとも思ってしまいます。
<父なる創造神の意志とは?>
だが、言われてみると、こんな思いもわいてきます~
御子イエスは人間を深く哀れみ愛しましたが、その基本身分は人間より上位の創造神です。
創造神には、イエスが父と呼ぶ、時間空間的無限者もいます。
聖霊もいます。
こうした上位者のうちに、万物を御子のために造る事情があるのではないか。
聖書には、そういう奥義があるのではないか。
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そういう意識で聖句を眺めると、それに関連する様な断片情報がみえてきます。
それをつなげると、次のような「創造神の意志に関わる骨格」が浮上してきました。
鹿嶋の仮説的骨格ですが、示してみましょう。
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聖書の創造神は下記の三者からなっています。
(三者でありながら一体なので、三位一体と呼ばれます)
<父なる創造神>
聖書では、イエスが「父なる神」と呼ぶ、万物の創造神がまずいます。
この方は、時間空間的無限者であり、いのちエネルギーの源です。
「いのち」というエネルギーは、このかたから全空間にあまねく放射されているのです。
<ひとり子なる御子>
そして、そのひとり子、御子イエスがいます。
御子は、創造神によって「造られた」のではなく、永遠の過去から創造神の懐にいた方です。
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父は御子を他者より段違いに強く愛しています。
誤解を恐れず端的に言えば、創造神は御子以外のことはどうでもいのです。
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御子もまた父を最も愛し、その意志を実現すべく、全身全霊を込めて働きます。
(この父と御子の関係は、人間の親子の関係の原型になっています。
創造神は人間を創造する際、「我々に似せて創ろう」といっていますが、
それは自らの親子関係に似せることをも含めて言っているのです)
<助け主、聖霊>
次いでもうおひとかた、聖霊がいます。
このかたは、父なる創造神の意志(シナリオ)を実現するために働く御子の、その働きを助けます。
<父なる創造神の意志>
まずこの三者のみが、永遠の過去から存在していた時期があるはずです。
そしてあるとき被造物が造られます。
創造神は、最愛の御子のために一つの意志を抱きました。
それはこんなシナリオをもっています。
<天に創造神の王国を創造する>
父なる創造神は御子のための「おうち」を創る意志を抱きます。
それが、御子が(将来)王として統治すべき広大な被造空間です。
これが天国、正確には、「天の創造主王国」です。
そこには御子が王として座すべき王座をも創ります。
<天使を造る>
次にこの天国空間の中に、創造神に仕えるべき霊的存在を創ります。
これが御使い(天使)です。
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<天使は霊であって自己増殖しない>
天使は霊的存在で、後に造られる人間のような肉体はありません。
男女という性別もなく、自己増殖しません。
そこで最初から膨大な数が創られたと推察できます。
<肉体がなく、身体の死もない>
天使は霊だけの存在ですから、人間のような肉体の死はありません。
(ちなみに霊に充電されている“いのちエネルギー”の減少、という意味での「霊の死」はあります。これは人間の霊にもあります)
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天使には火にも風にも変容する、という力が与えられます。
また、後に創られる人間と同じく、自由意志が与えられます。
それでいて、身体が死んで消滅するという恐怖、すなわち死の恐怖がありません。
<軍団状に組織されている>
それ故、彼らは軍団上に組織されます。
天使長と、その命令で動く一般天使として造られます。
一般天使は、上位の天使長の命令に服従して、
「命令 ⇒ 服従」で動く義務を与えられています。
違反したら懲罰されます。
天使はこういう風にきつく統率されています。
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<宇宙は暗闇の空間>
天使は被造物です。
被造物の行動は完全ではありません。
その自由意志で、義務に反する行動をする可能性も常にあります。
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そこで、創造神は、違反天使を閉じ込める監獄のような空間を、天国の一角に造ります。
そこは暗闇の世界です。
これが我々のいう宇宙に当たります。
<御子は死を味わうことを定められている>
御子は天の王国で王座に就けば、こうした被造物を統治する必要に直面します。
そこで、父なる創造神は、被造物特有の「死」をあらかじめ体験して知る義務を御子に与えます。
<人間を創造する>
そのため、この宇宙の中に、肉体の中に霊が入っている存在を、創造神と御子に似せて創ります。
肉体には、死があります。
そういう存在として創られるのが人間です。
(ここでも万物は御子のために創られるのです)
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創造神は宇宙の中に、人間の肉体が住めるような環境を創ります。
それが太陽系であり、地球ということになります。
この様を描いているのが「創世記」の冒頭です。
<「人の子」として地上に来る>
この人間世界に、御子イエスは「人の姿をとって」マリアのおなかから産まれます。
そういう自分をイエスは「人の子」といっています。
創造神の「人の子」の面を指してそう呼びます。
「人の子」という言葉には、そういう独特な意味があります。
人間は全面、人間の子そのものですから、あえてそれを特徴として言う必要がありません。
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ともあれイエスはこうして、死を体験 することが出来るようになるのです。
<死と復活>
実際にイエスは十字架で処刑され死にます。
だが御子には人間のような罪がないので、創造神は三日後に復活させます。
この復活も、死と並んで御子が天国に入る前に体験することを、創造神はあらかじめ定めていることです。
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こうして、御子イエスは死を体験して(知って)、復活して、その「人の子」の姿でもって、天に昇って王座に就きます。
自分のために創られた広大な世界を統治、運営していきます。
これが父なる創造神の意志であり、シナリオです。
すべては、つまるところは、御子のために創られているのです。
<人間の位置>
人間の物語は、このシナリオの中の一部です。
上位者(創造者)のシナリオのなかでは、人間は、イエスがこの世に来るための道として、創造されています。
そう聞くと「勝手なものだ」、という印象を人間は抱きがちです。
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だが、創る側は基本的に、自分の目的のために被造物を造り、用いることが出来るのです。
人間はテレビを設計し製造し、自分の目的のために使いますよね。
使えなくなったら、廃棄しますよね。
創る側(創造神)と創られる側(人間)との関係は、基本的にはこれと同じです。
<だが、御子は人間を哀れみ愛する>
その基盤の上で、(創造神と)御子イエスは、人間をあわれみ、深く愛します。
その愛は、人間が人間を愛するよりもはるかに深く慈しみに富んでいます。
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具体的には、イエスはみずから血を流して死んで、自分の言葉を信じる人間の罪が許される道を造ります。
許されて、最終的には「創造神の子として」(つまり、イエスの兄弟として)天のイエスの王国に住むことが出来るようにします。
許され、救われた人間の身分は天使より上です。
天使は創造神の従者、使用人ですから。
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その部分のシナリオが福音です。
これは人間の「救い」の道を与えるシナリオでもあります。
前回に示したのはその部分の「骨格論理」だったわけです。
<「救い」は人を愛する故のプレゼント>
これでわかるように、人間が創造神のシナリオを実現するために役立つに必須な物語部分は、御子が「この世」の地上に来る道として造られる部分だけです。
以後の「救い」の部分、福音の部分は、上位者のシナリオが実現するには、不可欠な要素にはなっていない。
にもかかわらず上位者である創造神は、被造物である人間をあわれみ、人間同士の愛を超えた驚異的な愛を注いで、御子に救いの業をさせます。
この部分の物語が福音で、それは本質的に、人間に贈ったプレゼントです。
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プレゼントですから、人間は福音を受けることも出来るし、受けないことも出来る。
てもどうであろうと、創造神の意志は成就します。
だからイエスは十字架上で息を引き取るとき「成就した(It is finished)」といったのです。
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余談です。
「創世記」から始まる聖書全巻の話の大半は、直接的には「創造神・対・人間」の話です。
具体的には、人間が幸福になる方法の話、福音の話です。
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その一方で創造神には、上位者としての、より重要な関心事があります。
御子のために天国を造り、その王座に就かせるのがそれです。
にもかかわらず、聖書は大半で人間の幸福実現の話を、あたかも、創造神の最大関心事のようにのべています。
創造神の意志が成就されるシナリオは、そのなかに、断片的に埋め込まれているにすぎない。
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だがそれは、人間には「自分の幸福が第一に関心のあることがらだから」なのです。
創造神は、それにあわせてメッセージを人間に与えているにすぎないのです。
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繰り返しますが、聖書の最上位の論理は、人間より上位の創造神が、愛する御子を天国の王座に就けるという、自らの意志を達成する物語です。
「対人間」の話は、その一部分として、下位に位置づけられるべきものです。
<人本主義と神本主義>
人本主義(人間中心で考える思想)、神本主義(神中心の思想)という言葉があります。
福音の話が聖書の最上位の論理だと誤解すると、人は聖書は「神の(人間への)愛」だけを説いた本と思っていきます。
その説明を繰り返しているうちに、人の聖書理解は人本主義(人間本位主義)に流れます。
聖書は神本主義(創造神本位主義)の本、と聞きながらも結局そうなっていくのです。
だがそれは、聖書メッセージが示す「全世界の全体像」から「ずれた理解」となります。
(完)