鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

スモールグループ訪問

2009年04月02日 | スモールグループが世界を救う


DKさんのスモールグループを訪問しました。
まだ寒い今年の2月のある日でした。
場所は東京、渋谷駅すぐ前の喫茶店の奥にある貸し会議室。
この日の参加者は4人でした。

みなさん聖句を熱心に討議されていました。
この活動をすると、知力が目に見えて上昇します。
写真からも、みなさんの知的な雰囲気が漂ってきます。
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<臨時版>11 「聖書ってどんな本?」

2009年03月01日 | スモールグループが世界を救う
                                        

しばらくぶりで、SG議論用テーマをたててみましょうか。

本日もBGMはmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて春平太チャーチを開くと
BGMのある状態で読むことが出来ます)



さて、こういう場面を想定してみてください。
「この人は福音の世界には遠い人だなあ・・」と日頃感じていた人がいた。


                    



ところが、どんな波動を受けたのか、天使が働いたのか、ある日こんなことを言いました。

「な~んか、聖書が気になって仕方ない気分だ。
ねえ、聖書ってどんな本?」

さて、こういう場面では、どう答えますか?
また、どう答えたらいいでしょう?

また、いろんな意見が交わせたら嬉しいです。
新参加者も歓迎ですよ。


                    

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<SG用再録2> 洗礼は不完全信仰での決断による

2009年01月20日 | スモールグループが世界を救う
ISさんより第2回のSG用の吟味テーマをいただきました。
以下に掲載いたします。

++++++++++++++++++++++



<今週の賛美歌>  
            

 今週の賛美歌は「ああ めぐみ!」(聖歌、593番)です。
ああ めぐみ! (クリックすると賛美歌が流れます)


                    

<今週の説教>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(聖句)

 「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 教会に通ったり、バイブルスタディに出席したりして、聖書を学んでいる人がいます。
こういう人が学んでいく間に「バプテスマ(洗礼)はいつ受けたらいいか」
という疑問を持つことはよくあるようです。

 具体的には、聖書をよく知り、これを十分信じられるようにならないとだめなのか、
そこまで行く前にしてもいいのか、というような疑問です。


                    

 しかし、それに答えるには、水のバプテスマというもののもつ、意味や力を考える必要があります。

 上記に掲げた聖句は、イエスの言葉です。これは
「信じる」
「バプテスマを受ける」
「救われる」

 ~~~の三つの部分からなっています。



                    

1.まず、「救われる」です。

 これは聖書特有の用語で、「将来、最後の審判のとき、当人の霊が火の湖に送られるのはでなく、
創主の王国(天国)に入ることを許可される」という意味です。

 聖書では、この宇宙は、将来火で焼かれて消滅するという思想です。
そして、創主の王国である天国と、火の湖とが残ることになります
(「KINGDOM原理」のカテゴリーに示した「聖書の空間理念」の図を参照して下さい。)

 そして、ミケランジェロの絵で有名な「最後の審判」が始まります。
そのとき、「信じる」者は、当人の霊にある罪が、覆われて「罪なき者」とみなされます。
そうして、創主の王国に入ることを許可される、ということになっています。

 後は、創主の身元で永遠に存続することになります。火の湖も永遠です。
そして、そういう約束をイエスは与えたという思想です。
これを「救い(salvation)」という語で表現して、救いの約束といっているわけです。

                    


2.次に「信じる」です。

 何を信じるか、信じる対象は何か。これは一つには上記の約束です。
そして、もう一つ重要なものがある。それは、イエスがそういう約束をすることが出来た根拠です。
こちらは、罪なき創主の子イエス、死ぬ必要のないイエス、の身体が殺されることによって、
人間の罪の代償を造った、という思想です。

 代償を受けられるというのは、人間のために準備された資格、という論理です。
聖書に記された福音(よき知らせ)とは「そういう資格が準備されたよ」というメッセージ、知らせです。
資格は本当だと信じて受諾しないと実現しません。

 たとえば、読者がある日突然、外務大臣に指名されたという知らせを受けたとします。
ところが、そんなバカなことがあろうか、といって、本国の誰にも制約されない自由な旅をと、
あらかじめ予定していた外国無銭旅行にぶらりと出かけてしまった。
そうして、音信を絶ったらどうでしょうか。

 大臣の認証式はすぐに始まります。
総理の小泉さんは帰国して受諾してくれるのを長く待つことは出来ません。
それで、他の人を任命しますと、彼の資格は消滅します。
資格は、そのメッセージを受諾しないと、実現しないのですね。

 ところが読者がそれを信じて受諾したらどうでしょうか。
「田中真紀子だってしばらくつとめられた外務大臣だ。自分に出来ないはずがない」
こう信じ、楽観して受け入れたらどうか。彼には外務大臣の資格が実現します。


                    


<「信じる」意識は「確からしさ」の確率意識>

 「なら、信じた方が得だ」
 そう思うでしょうが、こういうメッセージを100%信じることは出来るでしょうか。
それは無理な話でしょうね。

 「救い」の約束は、死後のことに関する約束です。
だけど、将来実際にそうなるかどうかなど、自分が死んでもいない今の時点で、
明らかになるはずがないではないですか。

 先を見通す千里眼があるなら別ですよ。
だけど我々は、生まれてこの方、五つの感覚(五感)でしか、ものを認知できない状態で暮らしてきています。
その結果、どうしても「見えるもの」を基盤にして物事を考えるようになってきています。
そこに死後の約束を持ってきて、これを100%信じろと言うのは、言う方が無理というものです。

 当人が、「自分の意識は自分でわかる。私は100%信じている。バカにするな、勝手に決めつけるな」
といったとしてもですよ。人間には、自分で自覚できない潜在意識というものもあります。


                    


 でも、全く信じられないわけではない。
聖書のメッセージを学ぶ人は、一定の確からしさも感じてはいるわけです。
そのように、救いの約束を「信じる」というのは、一定のパーセントの
「確からしさ」を感じる、「らしさ」の意識、確率の感覚です。

 「本当らしさの感覚」を確率で言うならば、聖書の言葉を学び始めた出発点では10%かも知れません。
あるいは、あるとき、理性的・論理思考が働いて、「見えないものが存在するかどうかの確率は、
本来五分五分とみるべき」とかいって、50%になるかもしれません。
論理的にはこれが出発点であるはずです。後にそれが60%に上がるかも知れません。

 しかし、それらは、どのみち、本当「らしさ」であることには変わりありません。
それでいいのか、それでバプテスマを受けていいのか。
これが冒頭に示した「聖書を学ぶ人が抱いていく疑問」だったわけです。


                    


 こうなると、やはり聖書と照らし合わせねばなりません。
すると、その結論は、「それでいい、100%でなくてもいい」となりそうです。

新約聖書の「使徒行伝」には、初めて福音を聞いて、
「これを信じた人」に、イエスの使徒たちは、即座にバプテスマをしています。
信じたと言っても、その信仰は、そんなに成熟したものではないでしょう。

 同じ「使徒行伝」の8章26~39節にはこういう話も記されています。
エチオピアの高官が、エルサレムに礼拝をしにきて、馬車で帰路をたどりつつ聖書を読んでいます。
今や有名になっている

 「ほふり場にひかれていく子羊のように、毛を刈るものの前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。・・・」
(イザヤ書53章)

 ~~という旧約聖書の中の聖書です。
高官は、この「彼」が誰のことを言っているかわからず思案していました。

 他方、12使徒のなかにピリポと言う人がいます。
このピリポに聖霊(創主の霊)が語りかけます。「高官に近づくように進みなさい」と。
ピリポは高官に近づき、その「彼」がイエスであることを説きます。

 高官は、その解説を正しい信じます。そして道の途中でバプテスマを受けることを望みます。
ピリポはそれに応じ、水のあるところが見つかった時点で洗礼を授けています。

 この時点で、高官には福音の論理構造が広く深くわかっているということはありえません。
信仰も内容的には、そんなに成熟したものではないでしょう。信仰は未熟なままでいいのです。

                    


<バプテスマの力>

3.さて最後は3の「バプテスマを受ける」です。

イエスが、「信ずるものは救われる」でなく、「信じてバプテスマを受ける」ものは救われるといっている以上、
バプテスマには独自の役割があることに論理上なるでしょう。それが筋です。

 具体的には、「本当らしさ」の信頼感覚に、何かを与えるのが、バプテスマではないか。
そういう推察が出来ます。その上で、次の聖句を読んでみましょう。


 「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、
聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)

 これはイエスはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川でバプテスマを受けられる場面です。              

 マルコ伝の著者マルコは、続いて、
 
 「すると天から『あなたは私の愛する子、私の心にかなう者である。』という声が聞こえてきた」
(マルコ伝、1章11節)

 と、書いています。マタイ伝の著者、マタイも、この状況を同じように記録しています。


                    



 我々は当初これを読むと「へぇ~、不思議なことが起きるもんだなあ、やはり、イエスは違うなあ」
と感じるくらいだと思われます。

 だが、次のような解読も可能です。
聖書では、この世に現れたイエスは、「創主の子(Son of God)」という面と、
「人の子(Son of Man)」という面との二面を持った存在です。
この二つの面の相対的な関係が、水のバプテスマを境に、はっきりと変わっているのです。

 バプテスマ以前のイエスには、ダビデの子孫であり、大工の長男である、
という「人の子」の面が前面に出ていました。
創主の子という面は、いわばその影にありました。

 しかし、バプテスマを受け、水から上がられたイエスには、創主の子という面が前面に出ていたと見ることも出来ます。
もうダビデの子孫という面は、遙か後方に退いたのだ、と。

 イエスが水から上がったその瞬間に、天から「これは私の心にかなう者」という声が下ったのは、
それが「前面に出たこと」と関係していると解することが可能なように思います。

 この時だけではありません。これを境に、イエスは別人のようになります。
自らを「創主の子」と公衆に宣言し、「天の父」から受けたという「天の言葉」を権威を持って教え、
つぎつぎにしるしと不思議を現していきます。
以後、それは、受難、十字架死、復活、昇天と、最後まで続きます。

 それ以前のイエスには、そうしたところは表に現れませんでした。
こういう転換点に、水のバプテスマが位置しているのです。


                    


 これが「水のバプテスマのもつ効果」だと、春平太は解します。
そして、これはイエスに関するものだけではなく、
人間にも有効な一般的なもの、とみるべきではないか、と解読します。

 聖書の論理では、生まれたままの人間には、創主の子としての面はありません。
世的な意識で満ちた、世的な面が100%の人間です。
そのまま、自然に成長していっても、状況は同じです。

 しかし、聖書の言葉は、創主の意識を込めた、創主の王国から来る言葉です。
聖書の言葉を学ぶ人間の意識には、創主の意識・思いが吸収されていきます。
すると、ささやかであっても、創主の王国の意識が一面に出来ていきます。

 もう一方の面は、世的な意識の面です。
人が聖書の言葉を吸収しても、当初それが形成する意識は背後に存在するのみです。
前面にはこの世的な意識が出ています。
聖書的にはそれが、聖書を学びつつある人間の状況と見ることが出来ます。



                    


 けれども、水のバプテスマには、この二つの面の、比重を(最低限)変化させる力がある。
聖書の言葉が形作る意識の面が、前面に出て、その分、世的な意識が後方に退く、ということです。

 使徒パウロの次の聖句は、こうした推論を支持しているようにも見えます。

 「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、
彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼とともに葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、
わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」
(ローマ人への手紙、6章3~4節)

 ここでパウロが引き合いに出しているバプテスマは、水のバプテスマ(浸礼)です。
そして受洗の際、受洗者が水に沈むのは、この聖句での「彼(キリスト)とともに葬られた」
というのを象徴しているように見えます。
そして、水から上がるのは「キリストが・・・死人の中からよみがえらされたように、
私たちもまた、新しいいのちに生きる・・・」を象徴しているように見えます。

 また、水のバプテスマを受けた人の体験にも、それを支持するところがあります。
「とにかく洗礼を受けようとして受けたのだが、受けた後、自分が変わったことを感じる」
という体験談を聞いたことが春平太は少なくありません。


                    


 さらに、もしそうだとしたら、どうしてそうなるかの論理も、知りたいところですね。
次の聖句を読んでみましょう。

 「水と聖霊から生まれなければ創主の王国に入ることは出来ません」(ヨハネ伝、3章5節)

   ~~~これもイエスの言葉です。これと、先に挙げた今週の聖句とを並べてみましょう。

「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)

 ここで、「創主の王国に入る」と「救われます」は内容では同じことを言っていますよね。
すると、「水と聖霊から生まれる」と「信じてバプテスマを受ける」も実質的には同じはず、となります。

 故に、「水のバプテスマ」とは「水と聖霊から生まれる」ことだと解せます。
つまりこれによって聖書では、水のバプテスマには、聖霊の介入がある、
という論理に明確になっていることがわかってきます。

 さらに、もうひとつ、イエスがバプテスマを受ける場面の聖句(前述)を、
今一度ここに並べてみましょう。

「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、
聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)

 イエスが水のバプテスマを受けると、聖霊が下っています。
そして、このイエスの時ほどに強烈ではないのですが、
この聖句から「聖霊はバプテスマを受けたときその人に影響を与える」
という解読を引き出すことも出来ます。

 そして、これをバプテスマに内在する効果だと理解しますと、
バプテスマ前後の人の変化は、説明がつくことになるわけです。

 では、聖霊はどうしてそのとき下るのか? 
これについては、春平太は説明できません。

 論理的説明が不可であること、これすなわち、神秘です。
そこは、神秘として、少なくとも当面、そのまま信頼して受け入れておこうと、
春平太は思っています。

 まあ、神秘があるから宗教でして、なかったら実証科学です。
科学でしたら、信頼とか信仰といった意識は不要です。
聖書を解読していった後に残る神秘は、春平太は信頼して受け入れることにしています。


                    


<バプテスマには意志による選択と決断が必要>

 以上で、バプテスマを受けることに関する、知識は概略得られたと思います。
最後に、春平太は、もう一つ確認しておくべきことを記して終わろうと思います。

 前述のように、バプテスマは知識も信仰も不完全な状況で、受けるものです。
そういう状況を本人が自覚していて受けるわけです。

 そしてこれは実際には、当人の「意志」がないと出来ないものです。
平たく言うと、「洗礼を受けたい」という欲求(wants)と、それに基づいた決断が必須になります。

  前述した、このエチオピアの高官は、ピリポからバプテスマを受けました。
彼は、ピリポの解説を信じたばかりでしたが、すぐ洗礼を受けました。
もちろん彼にはこの時点で「この書物を探究すれば真理に到達するのではないか」という直感、霊感があったでしょう。

 だが、「到達するのではないか」という予感だけではバプテスマを受けようという気持ちにはつながりません。
やはり、探求したいという欲求と、「今後、探求するぞ」いう決断が加わらねば不可能です。

 知識の量や「ここに真理があるのではないか」という確からしさの感覚
(これが人間の、信仰という心理の中身です)だけでは、
いくらあってもだめだということです。

 人間には、完全を望む動機が埋め込まれています。
やはり受けるには、「もう少し完全に近づかないと、いけないのではないか」
というような反省というか、罪悪感のようなものは、他方から常に与えられます。

ところが、人間の聖書知識や信仰が100%の完全なものになることはありえません。
だから、完全志向の心理に影響されますと、「もうこれで完全だ」と思えないが故に、
バプテスマを受けないで生涯を送ることになります。

 信仰も、知識もカラシ種ほどに小さくていいのです。
その状態で、その神秘的な力、「バプテスマの神秘」を信頼し、
自らにすばらしい変化が生じることを期待して、
水のバプテスマは「意志して」受けるべきものであります。


                    


 「私が変わって、バプテスマを受ける」のではありません。
 「バプテスマを受けて、私が変わる」のです。

 天の創主の王国の豊かさは、「先を争って奪い取るもの」というのが、イエスの教えです。


                    




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<臨時版>10 「SGメソッドにおける“真理”」

2009年01月18日 | スモールグループが世界を救う
http://promises.cool.ne.jp/Amazing_Grace_2007.html

<SG用再録1>Vol.15 『身体は言葉が変化したものだった(1章14節)』
での議論は、SGが互いの知を効率よく高めあう実例を示してくれたと思います。
鹿嶋も、知が躍動しました。
「マトリックス」の話、面白かった。
よかった・・・。

議論の終わりの方で、ISさんから次のような発言がありました。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖書だけだと起動しない? (IS)」
2009-01-16 11:44:32

鹿嶋先生、質問ありがとうございます。
何か余計な事を書いたかとドキッとしてしまいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


これについて、少し書いてみようと思います。
ドキッとされたのは、SGメソッドの背景にある真理観が明確でないから、と推察しました。
そして、これは大きなテーマですから、ここに別の記事をたてることにしました。

真理って何でしょうか?
認識対象(実在)に対して、人間が抱く理屈・理論・観念(聖書の解釈もその理屈の一つです)
が一致していたらその観念(アイデア)が真理になりますよね。
一致していなかったら偽になります。

SG方式、聖句主義方式では、これが最終的に正しいという聖句解釈は存在しません。
誰かが、究極に正しい解釈を握っていることもありません。
それがあるかもしれない、鹿嶋が持っているかもしれない、という意識があると、
無意識のうちにドキッとします。
そんなものはない、ということを認識論的にしっかり把握していたら、
ドキッとなどしなくなります。

聖句主義では正しい解釈、真理である解釈は、敢えて言えば、個々人がその時点時点で、
「そうだ!」と思ったものとなります。
各々それをグループでの吟味を通して、豊かにしていけばいい。
他者の見解の助けで豊かになったら、それがその人のまた新しい真理になります。
SG方式では、「真理は成長していくもの」なのです。

この一見、いい加減で、無政府主義的に見える認識論を以下に述べてみようと思います。
もちろん、これに関するgroupの皆様の吟味は自由です。

++++

SG(スモールグループ)方式は、聖句主義と表裏をなしています。
聖句を自由に吟味する方式を採ると、SG方式が自然に浮かび上がってくるのです。
その最も効率的な吟味方式だからです。
ですから両者は実際上、同じものだとみていいでしょう。


                    

<盲人が象を撫でる喩え>

聖句主義方式は、独特の真理観を持っています。
聖書のメッセージは膨大な内容を持っています。
この中にある筋道を人間が探求する姿はどう見えるでしょうか。

盲目の人が三人、象を撫でてその姿を推察する話がありますよね。
一人は鼻を撫でて、「ああ、象はホースのようなもんだなあ」と思う。
二人目はしっぽに触って、「紐のようなものだ」と、三人目は脚を撫でて
「太い木のようなものだ」と言ったという話です。


                    

これを用いて聖句から聖書に込められている世界の、
全体の筋道を知ろう状況をイメージすると、こんな風になるかと思います。
一人が鼻だけでなく、尾っぽと脚にも触れてみる状況です。
彼はそれらを手がかりに、象というものの全体の姿を推察します。

これが聖書の言葉を手がかりに、そこに込められている世界の
全体的筋道をつかもうとする人間の姿です。
三カ所に触れたにしても、認識がそれからする推察であることには変わりありません。
これがせいぜい100年しか生きられない人間が、聖書の世界に関してする認識の姿です。
世界の全部に直接接触するのはどだい無理な話です。
われわれは聖書を、そういう状態で解読しているわけです。


                    


<聖書メッセージは無尽蔵>

聖書の描く世界を象に喩えました。
だがこれには、たとえとして少し不十分なところがあります。
盲目の人にとって、象はとてつもなく巨大な認識対象ですが、それでもその大きさは有限です。
この有限なところが、喩えの対象として不完全なのです。

聖書のメッセージ内容はより正確には、「無尽蔵」といった方がいいと思います。
そこでの「世界の物語」は、無限の空間と無限の時間を舞台にしています。
目に見える物質界だけでなく、見えない霊界も舞台です。
存在するものだけでなく、それを一から創造した創造主も登場します。
もちろん、そのひとり子もまた、聖霊も登場します。

こうして織りなされる世界の物語の内容は、文字通りの無尽蔵と言うべきでしょう。

                    

もちろん、そうした世界にも、それを創った創造主には設計図があるでしょう。
それが聖書の正しい解釈に当たるでしょう。
それは存在すると「信じて」いい。

けれども、その言葉(聖句)を解釈するのが人間となると、注意が必要です。
そういう世界に対して、有限な人間が推察するパースペクティブ(全体透視図)の正しさ、
妥当性には限度があります。
つまり、人間の行う解釈には、これが究極というものはありそうにないのです。
これが基本です。

実際、春平太の「ヨハネ伝解読」もそうです。
解読した時点では「これだ、これが正解だ」と思います。
そして、ここに連載します。
ところが時間がたって眺めてみると、別の解読も浮上してくるのです。
聖書はホントに無尽蔵な内容を秘めていると実感します。


                    

<各時点での確信が各々真理>

では、人間はどうしたらいいのか?
「究極的に確かな解読は人間にはない」などと悟っていたら、信仰(信頼)はどうなるのか?
信頼などできないではないか。
われわれは即座にはそう思うでしょう。

でも、こういう方法は出てきます。
個々人、ひとりひとりが、その時点で「これはまこと(真理)だ」と思った解釈でもって、
それを信頼して進むという方法です。
そんなことできるか?
できるのです。

実際、われわれ人間はそうやって生きているのです。
人間は、「生きて行動して人生を進みつつある」存在です。
英語ではこれをゴーイングコンサーン(going concern:活動態)といいます。
活動態は生きて進むその時点ごとで「まことだ」と思ったことを真理として生きているのです。

有限な人間にとってこれ以上の真理が、実際上あるでしょうか?
真理というのは、生きるわれわれにとって、動態的なものです。
真理に向かって進む、そのプロセスの各段階の知識が各々真理です。

                      

<絶対的真理>

もちろんそうでない真理観もあります。
なにか認識対象があって、それに絶対的に当てはまると認識できる理論(解釈)があって、
それを絶対的な真理だとするものです。
そういう絶対的真理は永遠不変で動きません。
静態的です。

そういうものが見つかれば結構なことでしょう。
だが、認識対象が無尽蔵な存在であって、認識者が有限な人間となれば、
そういう認識が可能というのは矛盾になるのです。

                    

<独断度を低めるには>

個々人がその時点時点で真理だとする真理は独断ではないか?
その通りに思います。
そういう真理は、独断を含んでいるのです。
独断の要素は完全にはなくなりません。

無くなりはしませんが、その独断の度合いを少なくしていく方法はあります。
その最も効率的な技術がスモールグループメソッドです。

「使徒行伝」時代の、初代教会から今日の聖句主義者につらなる人々が
それを身を以て示してくれました。
イエスの弟子である使徒たちに驚くべき「しるし」が現れました。
それをみた人々は、「この教えには真理がある」と参集しました。
エルサレムだけで、一日に3000人が加わった日もあるといいます。
エルサレム教会の人数は、5万人くらいにはなったと推定されます。

これを指導する人の数は少なかった。
長老と呼ばれた使徒たちが12人、執事がまた12人くらいだったのでしょうか。
その他、イエスと使徒を取り巻いた人たちが70人くらいいたと思われますが、
5万人に比べたら少いものです。

彼らは、新たに参集する信徒たちを、小グループに分け各家庭にて勉強、礼拝をさせたと考えていい。
各々のグループにリーダーをたてた。
そのリーダーたちがまた自主的に連携して全体の連絡網を形成したでしょう。

素材は第一には旧約聖書、そして伝えられる使徒や執事たちの話のメモだったのではないでしょうか。
それらの言葉がどういう意味を持っているか、どう解釈したらいいか、吟味した。
吟味の過程で、一つ一つ「そうだ!」と合意できることがSGに出来ていった。

SGでの合意によって、個々人の独断の度合いは低くなっていったでしょう。

                    

<書物への「深い信頼」はある>

絶対的な解釈がないと「これこそ信頼できる」という心理になれないのではないか?
という疑問もわれわれの内に生じます。
それに対する聖句主義の答えは、「信頼は解釈にではなく、聖書(聖句)に対してある」
ではないかと思われます。

SG方式では「聖書という書物のなかに真理がある」という深い確信があるのです。
もちろん、人間には絶対の解釈には至れませんから、探求はするならば無限に続くものになります。

そうであるにも拘わらず、SGでの吟味を続けられるという心理はどうなっているか。
「真理はこの書物の中にある」という信頼があるのです。
それがなかったら、あるいは希薄だったら、吟味活動は実際のところ続かないのです。

だって、やってもやっても究極の解釈はでないのですよ。
探求する素材に対する信頼・確信がなかったら途中でばかばかしくなること必定です。

                    

<教理主義との対比>

聖句主義は教理主義と対比させると、さらにその性格がはっきりしてきます。
教理主義では、教団のエリートが出した結論としての解釈を、究極のもの、正統なものとします。
信徒は、ここに信頼を置きます。

聖句主義者は、そういうものを持たないでやります。
それでもって教会活動してる。
外部からはそれは、一見いい加減で信仰がないように見えます。
だが、SG方式は別のところに、深い信頼を置くものをもっています。
聖書(聖句)それ自体がそれです。
教理主義と究極の信頼を置く焦点が違うだけです。


                    





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<臨時版>9 「SG方式における恐怖感」

2009年01月12日 | スモールグループが世界を救う
http://promises.cool.ne.jp/being_with_Christ.html

聖書解釈自由を原則とするSG(スモールグループ)方式を始めるに際して、
留意しておくのがいいと思えることを記させていただきます。
もう少し進行してからの方がいいかもしれませんが、いずれ問題になることですから。




SGメソッドを始めると、参加者の心にある種の「引っかかり」のようなものが出てくるはずです。
解釈自由への恐怖感がそれです。
日本では特にそれが強いはずです。

なぜなら、日本のクリスチャンの大半は、教理主義
(一つの解釈を正統として、他を異端と考える行き方)しか体験していないからです。
日本の教会がほとんどそればかりできているのです。
そういう教会に入って、信仰(信頼)生活を続けてきているから、必然的にそうなるのです。


                    


<スモールグループは迫害の歴史>

聖書解釈自由の原則で行うSG方式の集いは、歴史的に迫害され続けてきました。
アメリカ大陸でもそうでした。
どうしてそうなるか?

個々人が解釈自由の原則でやるような集団は、無政府主義(アナーキズム)的に
なるに違いないという印象を、強く与えるのです。
そんな奴らを許しておいたら、教会も国家も無政府主義的になって崩れてしまう、
と人はイメージするのです。

これはもう、外部の誰にでも起きそうなことで、
事実、鹿嶋自身も聖句主義を外から見ていた間は、そう心配していました。
だから、聖句主義者はみんなに迫害され続けてきたのです。


                    

<新大陸でも迫害>

アメリカ大陸においてさえそうでした。
新大陸でも、ほとんどの教会は教理主義教会でした。

一般の人々は、宗教改革運動は聖書解釈自由を求めた運動だという印象を持っています。
カトリックの支配から逃れて自由に信仰生活をしようという運動だという印象を受けています。
だが、それは誤解なのです。

                    

改革の立役者だったルターのルター派教会も、カルヴァンの改革派教会も教理主義教会だったのです。
ルターもカルヴァンも、素人である個々人が解釈自由でもって聖書に対していくなどと言うことは、
とんでもないこと、危険なことだとしか考えられませんでした。

解釈自由の聖句主義の実像は、それほどに妥当な認識がされがたいものでした。
だから、北アメリカ大陸でもそうだったのです。


                    

そうした中で、独立戦争が起き、アメリカは独立しました。
そして、憲法を作る時に、聖句主義者は信仰を自由とすべきと主張しました。
他の教会は、こぞって反対しました。
そこで、色々なことがありましたが、それはまた機会を得て書きます。

がともかく、結局聖句主義者のいうようにやってみよう、ということになりました。
アメリカの国家指導者たちは、おっかなびっくりで信仰自由を憲法に盛り込み国家運営を始めました。


                    


ところが、国家はバラバラにはならなかったのです。
こういう歴史的体験があって、始めて人間は信仰自由の原則をたてておこなうSG方式の実像を知りました。
聖句主義は危険ではない、ということを知りました。

これは貴重な人類の知恵となりました。
で、今それが、欧州諸国、日本、台湾、韓国などにも普及しています。


                    

<歴史的体験がない>

でも、日本人には聖句主義の体験がほとんどありません。
アメリカで教会に行く人もいますが、その教会のほとんどが依然として教理主義教会です。
だから、聖書解釈自由でやってもいい、という確信が少ないです。

そこで、解釈自由の原則で始めると「恐れ」が心に生じるのです。
それだけ、教理主義方式の経験が心に残存しているのです。

この春平太チャーチを見てくださっている人々も、そういう人がほとんどでしょう。
議論に参加してみても、心に恐怖感の引っかかりが残っているはずです。
「こんなことしていて、大丈夫だろうか・・・」という恐れの思いです。

この実情を先に理解し、覚悟しておくのは役立ちます。
途中で恐れや躊躇が心に生じたら、「ああ、あれだな・・」と理解し
心理的に対処できますからね。



                    


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<臨時版>8  大人の精神性低下が引きこもりを生む

2009年01月02日 | スモールグループが世界を救う
http://www.h4.dion.ne.jp/~teruko15/

日本人inUSAさんからの、
ネットでのスモールグループ討議はできないか、という
ご提案を受けて、話題をひとつ提示します。

皆様の議論がコメント欄でなされることを期待します。




子供の「引きこもり」が相変わらず多発しています。
鹿嶋の身近なところでも、「うちの子供が登校拒否になった」という
声をよく聞きます。

全国で、百万人になったとも言われています。
日本に特有な現象なようです。

どうしてそんなことがおきるのか?
直接の原因は、子供の神経が疲れているということです。

一人で神経を休めたいので、引きこもるのです。




神経を疲れさすのは、親とか大人の精神性が低くなっていることです。
大人が、人生や世界や生死のことを深く考える精神をなくしているのです。

大人が精神的に深いと、子供の神経は安らぎます。
大人が、この世のこと、職業のこと、お金のこと、将来の経済的なこと
ばかり考えていると、その雰囲気、意識波動が子供の神経を
痛めつけるのです。

人間の神経は、目に見える現世のことから離れたときに
安らぐことができるのです。




人間の精神性が深まる大きな契機は、人生で動転するようなことがおきるときです。

このとき、人は、「活を入れられた状態」になります。
そして、人生そのものの考え方をリセットせざるを得なくなります。

この意識が精神性を深めていきます。




戦中派の人々は、生死をいつも意識せざるを得ず、
、かつ非常に貧しい青春を送りました。

この人たちはが親になると、あの貧しさだけは子供に味わわせたくないと
経済、お金にまい進しました。

子供は、その中で、動転しない人生を遅らせてもらいました。
だけど、その親たちには精神性がありました。
戦時中、生死の境に置かれて、動転の連続の中で青春を送りましたから。

精神性のある大人の状態で、子供のために金を追い求めました。
だから、その子供たちは、神経が痛まなくてすんだのです。




だが、その子供たちが、親になると、事態は一変します。
その親は、動転のない人生を送らせてもらってますから、
精神性が浅薄なのです。

そして、彼らは子供を生み、育て始めます。
ところが彼らの子供は、そういう大人を環境として
暮らし始めます。

親だけではありません。
学校の先生がまた、精神性が浅いのです。

これがきつい。
神経が疲れてしまうのです。
引きこもりが始まったのは、この世代の子供からなのです。




鹿嶋は、子供が引きこもりになったという親と話すことがあります。
話題が現世的オンリーで浅薄です。
精神性が極めて薄い。

これでは、感受性の鋭い子供は参ってしまうだろう
と実感します。




精神性を高めるのに、動転以外の方法があります。
それが聖書をスモールグループで吟味する方法です。

そもそも動転は、人生に関する考えをリセットさせてくれる
から精神性を高めるのです。

ならば、人生観をリセットさせてくれるほかのものはないか。
それが聖書吟味です。


聖書は、動転なしで、それをさせてくれる内容をもっているのです。
いまさら大人をして動転の人生に直面させるのは無理でしょう。
だが、聖書の中身はそれを吟味するたびに、人生観、世界観をリセット
させてくれるのです。

これだけが、引きこもりを減少さす唯一の方法です。
これをスモールグループで行うと、吟味が深くなります。

まさに、聖書のスモールグループが日本を救うのです。




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<臨時版>7 「愛知県犬山市のSG教育」

2008年12月26日 | スモールグループが世界を救う
クリスマスですね。

今から2010年ほど前、エルサレム近くのベツレヘムという町に、
一人の男の子が生まれました。

この子の親は旅行中でした。
宿屋の部屋が満杯で、馬小屋に泊めてもらいました。
そこでマリアから生まれたのがイエスでした。

この方は、33年ほどの生涯の内に、多くの遺産を人類社会に残しました。
人類全体を対象とする愛もその一つです。

人間も愛の感情を持ちます。
だが、その対象は家族であったり、地域社会であったり、母国であったり、
とにかく範囲が限定されていました。

それらは、他の集団との闘争の姿勢を内包するものです。
自分の愛する集団を守るために不可避的にそうなるのです。


                    


イエスはそこへ、人類全体に対する愛を導入していきました。
この方は、人類を分け隔てなく本気で愛しました。
この愛が広がることによって、人類は、始めて分け隔てのない幸福社会を
本格的にイメージ出来るようになったのです。

それによって、世界が少しずつ住みよくなってきました。
この愛がなかったら、世界は今も、闘争心と憎しみとで充ちたものだったでしょう。

このイエスをこの世に送ってくださった創造主に向かって、
感謝を込めた「ありがとう」を繰り返しましょう。


                    


今、臨時版で考え続けているスモールグループも、イエスの教えを個々人が深く学ぶために、
自然に出来ていった学びのシステムです。
教えが深淵広大なものですから、その方法でしか習得できなかったのです。
イエスの教えがなかったらこの方式は本格的に形成されることはなかったものです。

イエスに感謝しつつ、このシステムの持つ効用をよく認識しましょう。
では、そのスモールグループの考察を続けましょう。


                    

<犬山市の試み>

SG(スモールグループ)方式を学校教育の場に取り入れている例もあるようです。
報道によれば、愛知県犬山市の公立小学校でそれが行われています。
おそらく教育委員会の同意をも得た、市を挙げての取り組みでしょう。


                    

ここでは近くの机の生徒が四人のグループを作ります。
一人用の四つの机を、前後左右の生徒が動かして、一つのテーブルにします。

それを四人で囲んで、グループ討議の中で学習をしていました。
それを「学びあい」と呼んでいるそうです。


                    


グループ編成は、前後左右の机による、と決まっているそうです。
だが、クラスの並びを変えますので、その結果、グループメンバーも変わることになります。

ここでは、ですから、ネクストステップの知的興味レベルによるグループ編成はされていません。
みんな一緒にしてガラガラポンで分けるのです。

公立学校の限界でしょうか。
生徒たちが、劣等感や優越感に落ち込むのを警戒しているのでしょう。

だが、その結果でしょうが、教える生徒と教えられる生徒とが
グループの中で固定しがちにも見えました。
この点は、春平太の理想イメージとは異なっています。


                    


<統一テストを拒否>

もう一つ大きな特徴。
この教育システムを取っている犬山市では、統一テストを拒否しているそうです。

全国レベルの統一テストがあるのでしょうか。
文科省が主催しているのでしょうか。
とにかく、それには参加しない。
生徒個々人をバラバラにして学力評価するのが、SG方式にはあわないのかもしれません。


                    


<親が支援に回る>

そういう試みをするというのは子供の教育に抜群に熱心だからでしょう。
犬山市では、それを反映して親による子供の教育支援活動も盛んなようです。

子供が帰宅すると、親が子供の勉強状態に関する情報収集をする。
学校参観も熱心にする、等々です。

                    


<方法が浅薄>

だが、春平太はこの方法は浅薄だとみています。
親がなすべき最大の支援は、
「大人の親自体がSGでもってものごとを学び知る活動をすること」です。

家庭で親がそういう学びの意識波動を自ら放射していることが、
最大の支援になるのです。

また、この活動で、親自身がネクストステップの知識を吸収できた時の
あの知性の躍動感、高揚感を体験できるでしょう。

SG活動で生じやすい感情的問題も体験的できるでしょう。
SG編成の問題、メンバー移動の問題など、皆体験できる。
そういう体験を大人がしているということが、最大の支援につながるのです。


                    


<まず大人がSG方式を>

聖書を素材にした聖句主義によるSG方式が日本を救う唯一の組織運営方法だ
という一理由もそこにあります。

これで大人が変わるのです。
そうすれば、子供の教育方法も全国的に変わっていくのです。

その学びの素材として、ベストなものといったら、春平太の経験では聖書です。
けれども素材がどうしても聖書でなければならない、ということはありません。
仏教書、哲学書、文芸書、基本的にはお好きなものなんでもいいです。
とにかく、まず大人が、スモールグループ方式で学びをする状況が普及すればいいのです。


                     




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<臨時版>6 「小グループに分け複数のテキストで」

2008年12月24日 | スモールグループが世界を救う

具体的に小・中・高校でスモールグループメソッドをどう実施したらいいでしょうか?
春平太は、次のようなイメージを抱いています。


                    


<カラッとした姿勢を作る>

例えば、数学の時間で考えます。
得意、不得意な生徒がいるでしょう。

各々、自分のレベルと思うグループに分かれるのです。
そのとき、劣等感や優越感を持たないで、カラッと分かれるようにすします。

「数学で低レベルの人が、図工、音楽、体育で高レベルのグループに属することなど、いくらでも起きる」
「みんなそれぞれに得意があるのだからカラッと割り切って自分のグループを選べ」
と教師は説くべきです。

そして、グループメンバーの新陳代謝はありにするのです。


                    

<一人はずれた生徒に対処する>

時には、最低レベルのグループにもついていかれずに、一人はずれる生徒も出るかもしれません。
あるいは、最高レベルのグループより一人飛び抜けている生徒も出るかもしれない。

そのときこそ、教師の出番です。
教師は、彼の相手をし、彼が自分のレベルからネクストナレッジを求めるようにするのです。
それも教師の腕です。


                    


<文科省は複数のテキストを供給する>

文部科学省は、複数にレベルに応じられるテキストを認定します。
生徒が机と椅子を動かして、グループをつくります。
そのとき、各グループが、自分のレベルにあったテキストを選べるようにします。

複数レベルに対応できるテキストは、次のように作ります。
教科書レベルの知識が消化できないグループのためのテキストには、
その前段階の知識を層のように重ねます。

どんどん昔やった基礎に戻っていかれるようにします。
高校の代数のテキストには、中学の知識にももどれるように素材を付加します。
あるものは小学校レベルにも戻れるように知識を付加しておきます。

数字を文字で示す考え方、分数の考え方から、かけ算割り算の考え方、
最終的にはひと~つ、ふた~つと数えた自然数にまでも戻れるように、
素材の層を構成しておきます。


                    

<余力のあるグループには>

テキストレベルを消化して知力の余るグループには、
さらに進んだ知識をも展望できるようにしておきます。

高校一年の代数の本に、順列、組み合わせの考え方を付加します。
あるいは、確率、統計、微分、積分からさらには偏微分の考え方をも
のぞき見られるものを作ります。

それらの導入知識も付加しておくのです。
数に関する哲学というか思想を一般的に述べたものも付加します。
こういうテキストを複数作って、学校に供給するのです。


                    


<リーダーを選ぶ>

各グループはみんなで学びます。
語り合いながら学びます。

教師はリーダーを選びます。
彼に学びをリードさせます。
時には、リーダーも交代させます。

互選したいというグループにはそうさせます。
教師は、グループからの要望に応じて、コメントをしながら、各グループを回ります。


                    

<滅びの途を回避するために>

春平太の理想クラス状態イメージはこのようなものです。
これが実行された時、日本の生徒の知性は躍動を開始すると確信します。

日本が滅びを回避できる道はここにあると思います。


                    



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<臨時版>5 「日本の学校で起きている知性の悲劇」

2008年12月17日 | スモールグループが世界を救う
スモールグループメソッドをとらないと、学校では悲劇が起きることになります。
今現に、日本の学校の至る所でそれが起きています。

小・中・高等学校では、4~50人のクラスを編成して授業をしています。
少ないところでも30人はいるでしょう。
そこで一つの教科書でもって授業をしているわけです。


                    


<教科書がネクストステップでない生徒が多い>

その方式ですと、教科書が提供している知識レベルが
自分の求める知的レベルよりも遙かに上方にある、という生徒は必ず出ます。

(もちろん、ぴったりの生徒も出ますし、遙か下方にある生徒も出るでしょう)


彼らにとっては、教科書の知識はネクストステップの知識になりません。
だから知性が躍動するものになりえません。
また、消化できるものでもありません。

その状態で、週日の大半の時間割を過ごすのを余儀なくされているのです。
こういう状態で教室に座り続けていることは、いかに苦痛なことでしょうか?
目の前でやられていることが、自分の知性では消化できないのです。

だから彼らは、後ろの席でトランプをします。
授業と関係ない雑談に興じます。
携帯メールを打ちます。

これが学級崩壊です。
だが彼らにとって、これらは苦痛から逃れる方法なのです。


                    


<文科省審議会の喜劇>

この苦痛、この心理を、文部科学省の人々、とりわけ審議会の先生方はわかっているでしょうか?
いないでしょう。

なぜなら、審議会の先生方は教科書レベルをクリアーできた人だけで構成されていますから。
だから偉い先生となって、審議会に招聘されているのですから。


                    

これが悲劇を生んでいます。

先生方は、「自分の頭で考えさせねば・・」などと提案します。
だけど、よく考えてください。
自分の頭で考えることが出来るのは、教科書レベルの知識がクリアーできた時だけですよ。
教室で「自分の頭で考える」ということは、教科書の次のレベルのこと、
ネクストステップのことを考えるということですよ。

クリアーできた人は、その次の思考をすることが出来ます。
だけど、クリアーできない人はそんなこと出来るわけないじゃないですか。

黒板に教師が書いていることを、理解しようとするだけで精一杯。
それでもいつもわからないことが残る。
これでは自分の頭で考えるなど、できませんよ。

彼らは、そういう状態で毎日教室に座らされている結果、
もう思考しないように習慣づけられてしまいます。
ですから思考するという意欲さえ失っているのです。



                    


<大学でも学級崩壊が>

春平太自身は、なんとか教科書レベルをクリアーする側に属してきました。
だが、クリアーできない側の人々の気持ちが例外的にわかります。
なぜなら、いま、大学で教職をしていて、そういう若者に教室で直面していますから。

春平太の働く学校も、いつのまにか、高校生活までを学級崩壊の中で送ってきた
若者が加わってくるようになっているのです。
もちろん、知的好奇心などなくなっています。

では、どうして大学に来るの?
親が行ってくれというから来ているのです。

そういう学生は、大教室のマスプロ授業ですと、後ろの席に陣取ります。
そして、みんなでわいわい雑談します。
仲間内で、通路を行ったり来たりします。

好きな本を読みます。
メールをします。
教壇で何がなされているかなど、眼中にない。

これ、高校までの学級崩壊そのものです。
高校までそうしてきていて、学校とはそういうところだと思い込んでしまっているのです。
だから、大学でもそれをするのです。

春平太は、それを見るごとに怒りと涙を禁じ得ません。
文科省と高校までの学校関係者は本気で愛情を持って仕事をしていない。
その裏に見え隠れする自己保身の姿勢に怒りを感じます。

また同時に、このままでは日本という国は滅びるのでは・・・と、いつも思います。


                    


<スモールグループだけが>

一人の教師が、この多数に対処することは、残念でなりませんが不可能です。
だが、ゼミナールという少数のクラスがあります。

もちろんスモールグループメソッドをとります。
せめてそこではなんとかしようとします。

今やゼミナールに来る学生も、なんと大半は、自分の頭で考えることなど出来なくなっています。
そこで、春平太は待ちます。

求めない知識は何も提供しない。
どんな低レベルからでもいい、彼らがネクストステップの知識を求め始めるまで、
待って待って待ちます。

4月の新学期から、春学期がほとんど終わるまで、その状態ですごすことも起きます。
でもそうしていると、夏休みの合宿の頃には、なんと自分の頭で考え、問いかけることを始めるのです。

この時、スモールグループが効果を発揮します。
そして、一旦その呼吸を体験すると、彼らの知性は躍動を開始するのです。


                    

でも、ゼミでもってそうなりうる学生は、学校全体からしたらほんの少数です。
だから、文科省は早く目を覚まさないといけないのです。

スモールグループメソッドしか救う方法がないことに、早く目覚めねばならないのです。


                    



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<臨時版>4 「学校教育の極意」

2008年12月07日 | スモールグループが世界を救う
自由思考を許すスモールグループメソッドは、教育の極意をも秘めています。
今回はこれを、具体的に学校教育の場でもって考えてみましょう。


                    


教育の意味は「教え育てること」ですよね。
これは他者が、教えられる立場の人間に何かの行為をすることです。

何のために?

主たる目的は生徒・学生の知性を伸ばすことでしょう。
感性を豊かにすることもありますけど、第1は知性の活動を向上さすことでしょう。


                    

だが、考えてみましょう。
知性とは精神の活動の一つです。
生徒は自分でなく他者です。

人間は、他人の精神活動の中に直接手を突っ込んで、これを引っ張り上げたりすることなど出来ません。
知性が伸びるには、当人の中で、知性が躍動するようになるしかないのです。


                    

では、学校側には何が出来るのか?
生徒・学生が知性躍動体験をしやすい状況を作る。
基盤はこの一点にしかありません。


                    


そして前回にも書きましたように、人間の精神のなかで知的躍動が起きるのは、
「自分の今の時点の知的レベルから自然に生じる疑問、知識への欲求が充足された時」のみです。
この機会を与え、それを増やすのが、他者である教育する側に出来る唯一のことです。

ある時点での知識レベルがどんなに低い子供でも、この知的躍動を体験すると、
あとは持続的に知的レベルを上げていきます。
そしてその精神状況は、学校時代だけでなく、生涯を通して続くのです。


                    


<欲する知識を表明しやすい状況をつくる>


その精神活動が出来るに必要な状況を整備するのが教育の秘訣です。
状況の第1は、「生徒個々人が自分の欲する知識を表明しやすい」ということです。

表明してくれないと、教育する側はどんな知識でもって応じたらいいか知り得ないのです。


                    


<対話のタイミングで対応知識を提供する>

第2は、「ある一人が欲する知識を表明したら、それに対話のタイミングでもって、
それに応じる知識を提示すること」です。

この提供者が教師だけである必要は全くありません。生徒のスモールグループの中でのやりとりで
他の生徒から知識が提供されたらもっといいです。

その時教師は嬉しく見ていればいいのです。
教師のメンツがつぶされた、などという気持ちになる人は、教師として不適な性格の人です。


<過剰よりも過小な知識を投げ込む>

提供する知識は、欲するものだけであることが必要です。
教育する側は、ここぞとばかりにどんどん知識を与えたくなるものですが、それはいけません。

過剰な知識を提示するよりも、むしろ、若干不足な知識を提供する方がいいのです。
神髄は、「子供に知的躍動の快感を体験させることにある」からです。
これを体験したら、人間は、さらなる知的快感を求めて、旺盛に知性を働かせ始めるのです。


                    



<北欧諸国の学力が世界一なのは>

キリスト教活動における聖句主義方式は、
それを可能にする方式はスモールグループによる聖句吟味にあることを、
2000年の歴史を通して教えてくれました。

そして、この方式は、聖句だけでなく、あらゆる知識の吟味に通用する秘宝なのです。

昨今、国際的に、日本の生徒の学力が低下して、
代わりに北欧諸国の生徒の学力が世界のトップランクを占めていることが、話題になっています。


                    


実は、この北欧は、スモールグループによる聖句主義活動の土壌が広く深く根付いている地域なのです。

なぜかといいますと、聖句主義活動は歴史を通して教理主義活動をする教団から迫害を受け続けてきました。
欧州の中心部は教理主義の代表格であるカトリック教団から、捉えられ処刑されたりしました。

そこで、聖句主義者はアルプスやピレネー山脈、
あるいはスイス地方の山間に逃れて住み、聖句吟味活動を続行しました。
この人たちがまた、北欧地域に移住したことは想像に難くありません。


                    


フィンランド、スウェーデン、ノルウェーなどは、欧州中世においては北の果てで、全くの辺地でした。
特に冬の寒さが厳しいです。

スウェーデンでも、3月においても、その底冷えの仕方は日本人などには尋常ではありません。
今のように暖房設備が整っていない時代における、冬の生活はどんなに過酷だったでしょうか。

彼らはこれらの地域にも大量に移住したにちがいありません。


                    


欧州中心部の山間地域に住んだ聖句主義者たちは、周期的にカトリックの軍隊に摘発され、
破壊と殺戮をされました。

だが、北欧地域はイタリア、スペインなどからもとても遠いですし、冬の極寒もありますから、
カトリック教団を軍隊を送ることが困難だったのではないでしょうか。
この地での、聖句主義者迫害、殺戮の記録は、春平太はあまり目にしておりません。


                    


だが聖句主義の土壌は、この地域の人々の活動様式に見ることが出来ますし、
学校での教育方式に明確に現れています。

生徒個々人の求める知識を大切にしますし、
教室には聖句主義のスモールグループ方式が如実に反映しています。
そしてこれが北欧の生徒の、学力が世界一になっていることの秘訣なのです。


                    





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<臨時版>3「“ネクストステップ”が知的躍動の鍵」

2008年11月30日 | スモールグループが世界を救う
小グループ・メソッドともいうべき仕組みについて、今少し考えましょう。


                    

<知性躍動欲求>

人間は、自己の知性が躍動状態になることを、心の底で渇望しています。
そして、それがなるには鍵があります。

人は自分の知性の現レベルをワンステップ向上させたいと願うことがあります。
自分の心が心底から発する疑問、問題意識とはその「思い」のことです。

そのとき、そのネクストステップの知識をタイミングを外さず獲得できたらどうなるでしょうか?
人は、今まで味わったことのない快感を体験します。
この時だけに、人間は、真の「わかった!」を体感します。

そしてそのときだけに、人の知性は真の躍動をするのです。
ついでにいえば、そういう知識だけが、人生を生きていく中で「真に役立つ実用的な」知識となるのです。


                    


この原体験の快適さは、忘れられないものとして、人の意識の底に残ります。
それがまた、新たな知的渇望を発生させます。
かくして人は、向上したレベルの「さらにネクストステップの知識」を、従来以上に強く渇望するようになるのです。
そして、それが得られると、また、従来以上に増した知性の躍動を体感するのです。

                    


<小グループで吟味していると・・・>

こうしたネクストステップの知識を、臨機応変に仲間が与えてくれる仕掛けが数人のスモールグループです。
これが最高に効率的な仕組みなのです。

スモールグループにおける探索状況がそれを実現するのです。
実に小グループでの検討会は、人間が知的躍動を体感する最良の仕組みなのです。



                    

<個々人の「自由」は必須の仕組み>

ただし、そこでは個々人の思索、解釈の自由を守り、保証してあげることが必須になります。
小グループでも、それが「ある正しい解釈があって、それに至る為の方法」
という色彩を少しでも帯びると、その集団の知性躍動機能はいっぺんにゼロになります。
だから聖句の場合には、「聖書解釈の自由」は必須にして不可欠の柱になるのです。

そして、この仕組みは、聖句以外を対象としても、基本的には機能します。
聖句が、素材として一番有効なものらしい、というだけのことだと春平太は感じています。



                    


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<臨時版>2 映画「怒れる12人の男」とスモールグループの効用

2008年11月22日 | スモールグループが世界を救う
                    

スモールグループというのは、形式的には、数人の小さなグループであるにすぎません。
そんなものが、なにか、特別のコミュニケーション効果を発揮するのか、
という疑問がでても、不思議はありません。

だが、ここで物事を吟味するというのは、聖句を対象にしない場合にも、
特別の効果を持つのです。

映画「怒れる12人の男」は小グループ制の卓越した効用をよく示しています。
これはアメリカの陪審員が犯罪を吟味する物語です。
白黒(ヘンリーフォンダ主演)と、カラー(ジャック・レモン主演)との
二つの作品が造られていますが、白黒をDVDで買うことが出来ます。


                    


<陪審員制度と裁判員制度>

アメリカは、犯罪の最終的判断を、陪審員という一般市民で構成された
12人のグループに行わせます。

今話題になっている日本の裁判員制度は、この性質を日本の裁判にも
取り入れようとするものです。

この映画では、一人の卓越したリーダー(ヘンリ・フォンダ演じる建築家)がいます。
他は、凡庸な知性状態の人々ですが、
持って生まれて、知的素質が低いのではありません。

日常的に、そんなに知性を働かせない方がいい仕事が世の中にはたくさんあります。
多くの人は、そういう状態にあるので、知的素養が劣化した状態になっているのです。
映画は、アメリカでもそうであることを示しています。


                     


そうした彼らの知性を、事実上のリーダーである建築家が討議の中で
徐々に上昇させていく状況が、この物語には如実に描かれています。

スモールグループの討議の中でそれを行いますと、他のメンバーには、
「教えられている」、という感覚が生じません。
自ら主体的に考えているという意識になって進みます。
実際彼らは、その感覚で知識を取り入れて前進するのです。


                    


<個々各々のレベルから出発させる>

それは自分たちの出発点の知性レベルを、当然のこととして受け入れられているからです。
そのレベルが許されているので、萎縮することなく、
かつ情念をもって討議を進めていくことが出来ます。

それでいて、いつのまにか結果的には、リーダーの行動に刺激されて、
自らの知的レベルを上昇させていきます。
陪審員としてのあるべき思考をも学んでいってしまいます。

こういうことは、自由な思考・発言がゆるされたスモールグループだからこそ
可能になるのです。
一方的に知識を供給される、講義形式では決して出来ません。


                    

この陪審員たちの小グループ討議では、リーダーの建築家は、
議論が紛糾してしまった状態の時、立ち上がって
「自分の印象をいわせてもらうと・・・」という形でさりげなく
ティーチインをしたりもします。
こうして事件と証言の見方を他者に教えていくのです。


                    


<彼も教えられる>

彼は、最初からこの事件の全貌に関する一定の見解をもっています。
だが、彼自身も見逃している詳細な事実を、メンバーの発言によって教えられていきます。
そのように詳細は見逃しているところもありますが、概略の全体感はもっています。
ですからみんなを一定の方向にリードしていかれます。

これは、他のメンバーより高い水準をもったリーダーのいる小グループの形態を描いています。

その効用を、如実に示しています。
ごらんになると、スモールグループがいかに特別な効果を持つかを、
悟ることが出来ると思います。


                    





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<臨時版> 1 「ヨハネ伝解読の目的」

2008年11月18日 | スモールグループが世界を救う
                    


ヨハネ伝解読を続けている内に、その意図を見失いがちになります。
ここで確認しておこうと思います。

春平太は、数人前後のスモールグループでの聖句吟味活動が、
日本での福音普及だけでなく、日本人の知力を底上げする鍵だと思っています。

吟味活動は、聖書解釈自由の原則で行うべきものです。
その活動にこの「ヨハネ伝解読」が役立てばと思って書いています。


                    


正しい解釈を示そうとして書いているのではありません。
それなら、教理の作成になります。
そうではなくみんなで吟味するとき、一つの参考になればいいと思って
やっています。

春平太自身、同じ聖句でも、以前と今とことなる解読になることがよくあります。
聖句はあまりに深く多様であり、これが絶対的解釈といえるものに、
人間が至ることはなさそうだと、いつも感じてやっています。


始めて聖書を読む人々のグループでは、
納得する解読になかなか至りがたいことがあるでしょう。
そんな時、一つの解読事例として利用していただけたらと思っています。


                    

それにしても、日本の人々が小グループの聖書吟味会を愛好するようになる
可能性はあるでしょうか?

読者の皆様が、コメント欄で議論してくだされば、ありがたいです。

それは私の参考にもなります。

よろしくお願いいたします。


                    





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