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=聖句=
「罪ある者は、みな罪の奴隷なのだよ」(8章34節)
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さて、「我々は奴隷になったことなどない」というユダヤ人に対し、イエスは鋭く言い放っています。「罪を犯す人間はみな、罪の奴隷なのだ」と(34節)。
人はみな罪を犯すというのがイエスの教えですから、要するに「だから諸君もまた、罪の奴隷なのだ」ということです。
では「罪の奴隷」とはどういうことでしょうか。奴隷は自由人とは対照的に、主人によって、首輪に縄を付けてつながれているようにつながれていましたね。自由に旅行することも出来ない。生殺与奪の権を握られた状態で暮らしています。
でしたら、ここではある「主人」が出てきて欲しいですね。人間とか、天使とか、悪魔とかとにかくそういう意志を持った主体が。ところがイエスは「罪」だというんですね。罪によってつながれている、と。抽象的ですね。
ここは「罪を犯すことによって、何かにつながれている」ということでしょう。つまり、ここでは罪は人が何かにつながれて自由を失う「原因」として言われています。では罪人をつなぐ「意志ある」主人とは何でしょうか。
結論から言えば、それは悪魔となります。聖書の思想では悪魔は人間の罪の源であり、罪の父となっています。だから、上記34節は
「罪あれば(それが原因となって)悪魔の奴隷になり、悪魔につながれるのだよ」
~~という主旨になるでしょう。
<創世前に起きていたこと>
では、なぜ罪があれば悪魔の奴隷になってしまうのか。
この由来は、少し長くなりますが、改めて概論したおきますね。
悪魔の前身は、天の創主王国における天使です。
彼は本来天使として創られていたのです。
天使は創り主のしもべであり、創り主に仕えるのを本分として創られました。
具体的には、天の創主王国で、創り主の名を讃美するのがその役割でした。
ところが、ある時、創り主の王国である天国の一部に、自分の王国を創りたくなってしまい、実行してしまうのですね。
彼は天使長でした。配下の天使に命じて、自分を讃美させました。
こうなると、創主の王国の中に、別の王国が存在することになります。
そこでは、独自なルールが形成され、それに則って統治がなされることになります。
それは、天の創主王国の中に、異質な細胞が出来たようなものです。
そういう細胞は、ガンのように自己増殖しようとします。
官僚組織のように、といってもいいかな・・・。
とにかくそこで、創り主の子イエス(この段階では霊としてのイエスです)は、天国の一隅に暗闇を創り、他の天使に命じて、この不従順を犯した天使とその配下の天使を追い落としました。
<宇宙は容疑者を閉じこめた牢屋>
この暗闇が宇宙です。
天使は創り主への不従順と反抗を通して変質します。
天使長は悪魔に、配下の天使は悪霊(聖書では「天の諸々の悪霊」と記されています)に変質するのです。
だから、宇宙は悪魔と「天の諸々(もろもろ)の悪霊」とを閉じこめた牢屋のようなイメージのものですね。悪魔は、そこの牢名主ですね。
彼らは、あらゆることで創り主と対極なことをする存在に変質しています。天の論理(イエス)がこの世に出現すれば、それをこの世から消そうとします。創り主の子に対しても、本能的に殺意を抱く体質になっているのです。
だが、それはまだ証拠として現れてはいません。かれらは「容疑者」なのです。容疑者として牢の中にいるわけですね。
<牢屋の一隅にアダムとイブを創る>
創り主イエスは、その中に地球を創り、エデンの楽園を創り、肉体を持った人間であるアダムとイブを創ります。彼らは、創り主を思い、創り主の意志に従順して、祝福の中に楽園で暮らします。
ところが、創り主が人間を仕合わせにしようと意図すれば、悪魔はその反対を本能的に志向します。で、アダムとイブを不幸にすべく、創り主に不従順して「知恵の木の実」を食べるように誘惑します。
イブは欺されて食べます。アダムは知った上で不従順して食べます。
このとき、アダムの意識は創り主に向いていなくなっています。彼は意識をそらしている。
この「創り主に意識が向いていない状態でいることが罪」なのです。意識が向いてなければ、創り主の意志に従順することもできませんね。だから、もう命令にも従順しないで(従わないで)行動することになります。それで食べてはいけない、と命じられてた木の実を食べられたのです。
正確に言うと不従順は罪の結果ですね。罪の原義は「被造物が創り主を思わないこと」です。
この瞬間、アダムとイブは、悪魔と同じ側の存在になります。悪魔は創り主に不従順することによって、祝福からはずれました。天の創主王国はそういうルールで運営されていたのですね。
そのルールを、創り主は廃することは出来ません。宇宙でもルールは貫徹しています。そこで、アダムはルール通り、悪魔と同じ側の存在になったことになります。
そこの牢名主は、悪魔です。牢名主は自分の下に加わったアダムとイブには手を出すことが出来ます。ルール通り手を下せる。
そして、その後の人間は、その霊(意識の源)の資質をアダムから受け継ぐことになります。
こうして、人間みんなが悪魔の手につながれるようになった。~~これが聖書の世界観・人間観です。
<基本的には自由に「いたぶる」ことが出来る>
悪魔はその全意識が、創り主と正反対になっている存在です。創り主が「人間をこの世でも仕合わせにしたい」という意志を持てば、「不幸にしよう」という意志をストレートに持ちます。
しかも、人間に思うままに手を下す権威をもっているのですから、もうとにかく目を付けた人間を「不幸にしよう」と「いたぶる」ことになります。そして悪魔は霊であって、人間は眼でとらえることが出来ませんから、もう基本的にはしたい放題なんですね。
人間は、この世では基本的にそういう状態におかれるようになっている。その原因となっているのがが「罪ある」という状態である。それをイエスは~~
「罪ある者は、それがあるが故に、悪魔の奴隷としてしばられているのだ」
~~と表現しているのですね。
<イエスの「血」を宣言する人間には手が出せない>
ここまでで終わると、「聖書は暗い話だなあ、希望がないなあ」となってしまいますので、追加しておきます。
そうした環境の中でも、悪魔が手を出すことが出来ないようにブロックするものを、イエスは残していきます。イエスが十字架刑にかかる前後に地上で最後に流す「血」がそれです。
この血の力を宣言する人間には、その力が全身全霊をカバーするという現象が起きる。するとこれに対しては悪魔は手を出せない、という論理になっています。
だから最後は、この世の生活にとっても希望のある話なのですが、とにかく、「罪の奴隷」というのは、以上のような意味内容を持っています。
<おとぎ話か真理か?>
以上のような話をはじめて聞けば、まあ、現代人はほとんどがこれを「おとぎ話」とみるでしょうね。話としては、奇想天外だもんね。「里見八犬伝」もびっくりだ。
だが、人の世の中では「何でこんな不幸なことが起きるんだ」と理解に苦しむようなことたくさんあります。それに対しても、このおとぎ話は結構説明力を持つんですね。
そして、自らその不幸に関わったとき「イエスの血」を繰り返し宣言することで、問題が打開されることを見たり、体験したりすると、「これはもしかしたら真理か?」とふと思うことも出るんですね。
だが、この「ヨハネ伝」の著者ヨハネの確信は「もしかしたら・・・」というレベルを超えているんですよね。彼は、それを真理だと確信している。だから、迫害を受けても、生命が危険にさらされても、お金にならなくても、これを書き残したんですね。でなかったら、こんなことやっとられないでしょう。
なお、今日の「自由」の説明は、前回の「聖霊による自由」と違うように見えますね。でも、実はつながっているんですね。
聖霊を受けると、「イエスから流れ出た血の力」を悟るようになり、血の力を悟ってそれでカバーされれば、自己の意識が外からの悪影響を受けることなく聖霊にリードされますからね。つまり、「手放し」運転の状態にいっそう成るわけです。
~~本日も長くなりました。この辺で終っておきます。