鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.9 どうにもならないものへの知恵

2006年01月31日 | 永続確信のための聖書解読


こんにちわ!
鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本ですから。

仕合わせの聖書論理、第9回です。

超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。


               


 人間は、この世でいま肉体を持って生きています。
四六時中そういう状況の中にいる。
死後のことも、考えるけれど、いまこの世で生きている人間は、この世でのことに一番時間をかけます。
それは自然の情でしょう。

福音を説く人は、それを知った上で、死後の幸福も、救いも理解しなければなりません。


               



永続確信についてもそうです。
この世での生活で人間が「抱く仕合わせ感」にとって、死後に永続するという確信は、その根底基盤になっています。

これがないと、この世の生活においても、人間はいつも深いところから聞こえる「どうせ死んで終わりでしょ」という声に、永遠に脅かされることになるのです。
これを聖書的に言いますと「死の奴隷」となります。

「死」から発せられる声に、鎖でつながれるようにつながれています。
「どうせ死んでオシマイでしょ」という声に永遠に脅かされる状況にあります。


               



 いずれ死んで消滅してしまうのでしたら、自分の周囲に存在するものはみんな自分にとって無になってしまいます。

 するといま自分が価値あると思っていたものも無になってしまいます。価値(意味あると思う感情)は、存在するものにくっつけているものですからね。存在そのものが無になったら、価値も消滅して無になってしまいます。

 人の知性は、そういうことを知っています。


               


でも、人間は知恵を働かすんですね。
この「どうせ死んだらオシマイ」はどうにもならない、と悟る。
そして、これはもうどうにもならないんだから、「そのことを前提に」、この世の仕合わせ論を作って生きようぜ、となります。

それには、まず、「どうせ死んでオシマイ」は、なるべく意識しないようにしよう、となります。
これには目をつむって、忘れた状態におくのがいい。 
そのための手法を本能的に様々に考案します。これが知恵なんですね。

1.この世に理想郷を求める。

 その一案が、この世に「理想郷」を求めることです。
 この世に輝くものを求めることで、人間はある程度「死んだ後の時間」への意識をブロックすることが出来るんですね。

 で、それを実現するために、追われるように働きます。
理想の共産主義社会の実現、思いやり社会の実現、みんなが陽気ぐらしでいるように助け合う社会の実現、千年王国の実現、その他様々な理想郷実現のアイデアがあります。

~~これだけか?
 他にもあります。
 次回に考えましょう。


                    



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Vol.8 罪の教えが一人歩き

2006年01月30日 | 永続確信のための聖書解読
こんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本ですから。

仕合わせの聖書論理、第8回です。

超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。


               



 聖書は天理教の教理フレームをすべて含み、その上にさらに深淵で広大な理論をもっている。
なのに、日本ではキリスト教会よりも天理教の方がはるかに繁盛している。
これはなぜか? というのが、前回に掲げた問題でした。


               


 その理由を結論から言いますと、日本のキリスト教会では、聖書の含んでいる「仕合わせの論理」を明確に提示しないからでしょう。特に、この世での仕合わせの論理をね。

仕合わせの論理は聖書の教えの中核でありエッセンスです。
聖書ではそれにさらに深遠な理論体系がつながっているわけですが、それはあくまでも仕合わせ論理をより深く根拠づけるためのものです。

罪の理論も、悔い改めの論理もまさにそうです。
それらは常時、この仕合わせの論理につながった状態で理解されねばならないのです。

                


 ところが、日本の教会の教えでは、仕合わせ論理というエッセンスが明示されず、周辺論理がこれとつながりなく単独で論じられる。その結果、罪の論理も悔い改めの理論も一人歩きしてしまうのです。

そしてそういう周辺論理は、人間を束縛する論理になることが多いです。
罪や悔い改めの論理も、それだけとしては人を萎縮させる性格の強いものです。


                


そして、こうした理論部分があたかも聖書の教えの中心であるかのように誤解している牧師さんが日本には多いのです。

 鹿嶋はゴスペルジャーナリストよろしく、いろんな教会をのぞきます。 

最近礼拝に参加した教会で、こういうことがありました。
礼拝の最後に、幾人かの信徒さんが順にお祈りをいたします。
リレーお祈り。

その祈りの内容が、いうなれば「すみません、すみません」の一色なんですね。

最初から「主よ、私は足りないものです、足りないものです・・・」という言葉がでます。そして、これこれのことが出来なくてすみません、あのことが出来なくてすみません・・・」と反省の言が続きます。で、祈りが終わると、次の人がまた受け継いで同じような祈りをするんですね。

 おかしいですね。聖日(日曜日)の礼拝は、創り主の前に出て創り主と「思い」で交わり祝福を受ける日でしょう。ジョイを得る日でしょ。

 なのに、こんな風に「私は足りないものです、すみません、すみません・・・」とあとずさりしていくんでは、創り主も祝福すること出来ないのではないでしょうか。


               



 罪の理論を独立なものとして教えられるからこういう風になってしまうんですね。罪も悔い改めの論理も、人間を仕合わせにしようとする創り主の意図につなげて理解しないからです。

だから、人々は、教会に来ても何のために来ているのか、焦点を見失う。
自分の仕合わせとつながりの薄い教えをうけても、人々は実感がわかないのです。
一つの論理としては理解できてもね。

実感が伴わないというのは、直感的に把握することが出来ない、ということです。
すると人はそれについて自分の頭で試行錯誤的にいろいろ考えてみる、ということが出来ません。
だから「知」が躍動しない。

せっかくの深淵広大な聖書の教えが、心の踊らない「つまらない」ものになるんですね。

天理教の方にたくさんの人が行くのはあったりまえだ。

どうしてこんな「祈り」をするんだ。それは初めに牧師さんがそういう祈りをして見せて、教えたからでしょう。

鹿嶋は終了後、この教会の牧師さんに出身神学校を訪ねてみました。答えは自信に満ちた「T神大」。T神大は一体何を教えているんだ。


                


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コメント8 「時間貧乏」を打開しよう

2006年01月29日 | 永続確信のための聖書解読
~~SAITOHさんからコメントをいただきました。
本文に掲載させていただきます。

 鹿島の知人、友人にも「お金富豪」は何人かいます。
 でもみんな「時間貧乏」
 時間富豪はホントにいません。

 この精神面での貧しさ、どうやったら打開できるでしょうね。
 何が問題なのでしょうね。

 考えてしまいます。



              



日本ビジネスマンは忙しすぎる (SAITOH)

2006-01-25 23:47:54

”日本の人は「理屈よりも要点」を求め”るというご指摘は、たとえば
ビジネス書のありかたにも現れています。

このごろ、ロギカルシンキングとかクリティカルシンキング、論理的思考について書かれた本をよく目にしますが、内容をパラパラと見ると題材が、営業マンの現場であったり、企画マーケティングであったり、経営者の意思決定であったりと、特定されすぎている印象を持つことが多いのです。

 おそらく、この理論を求めていると想定される層を絞り
その方々に合わせた例題を多く取り入れないと売れないということなのでしょう。
結局、「理屈よりも要点」をすぐに知らせてくれるものが求められるわけです。

こうした理論をまず理屈として学ぼうとする人もいるはずなのですが、そういう私のような人間は、書店で、あれでもない、これでもないと類書をひっくり返して、適当な本がないことを嘆くことになります。

大学生向きのテキストもありますが、そうなると、いい年をした社会人の日常生活とはちょっとかけ離れた話題が多くなり、これも読みづらい。(グチになってしまいましたね!)


               


もうひとつ例をあげましょう。
最近、私は聖書を読むブログを始めたのですが、同じような問題意識を持っていらっしゃる方と出会えると、とてもうれしく思います。ところが、そういう方で、現役バリバリの社会人というのは、まずありません。


                    


サラリーマンでも、実業家でも、日本人は忙しすぎて、人生の問題を悠長に考えている暇がないのです。

極端な話、日本ビジネスマンが、人生の問題を考え直すためには、身体を壊してリタイアするか、完全に社内の負け組に回って余裕ができるかとかしなければ無理なのではないかと思うほどです。

教会でも、病床洗礼される男性の数が多いと聞きますが、その理由のひとつには、大病で入院でもしなければ、自分の人生、行く末を考えるきっかけが与えられないという現実があると思います。

鹿嶋先生の言われるように、ビジネスマンのこういう状況を理解し、救われる道を示してあげるのが牧師さんの本来の仕事であるように思います。


                    



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Vol.7天理教の教えと聖書

2006年01月27日 | 永続確信のための聖書解読


みなさんこんにちわ、鹿嶋春平太で~す。
今日もいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本ですから。

仕合わせの聖書論理、第7回です。

超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。


                


 アリガトオジサン、小林正観さんの「うたし会」、斎藤ひとりさんの「付いてる運動」~~こういうものを日本の牧師さんたちは邪教のように見てきたのではないでしょうか。あるいはキリスト教に無縁な教えだ、と。

 だがそれは間違いです。これらは聖書の教えのある部分を抜粋した簡易版のようなものなのです。これまでみたように、ありがとう運動は、感謝によってジョイを得る運動です。そしてそのジョイがこの世の成功を呼び込むのです。

 それは、 テサロニケ人への第一の手紙、5章16~8節にある~~

 「いつも喜びで満ちていなさい、絶え間なく祈りなさい、いかなる環境の中でも感謝していなさい」

                   ~~の一部と重なっています。

 いかなる環境の中でも感謝する。そうすると心がジョイで満ちる。この部分を聖書の教えの中から抜粋した簡易版のようなのが、ありがとう運動なのです。


                            


 日本で繁盛している宗教も、こういう見方で把握することが必要です。
たとえば天理教は大変な盛況です。
奈良県天理市には大本堂があり、その周囲に信徒の宿泊施設群があります。建物は各県毎に作られていて、その外観は大きく豪華です。

それだけではない。全国各地に、天理教の集会所があります。
それらはみな大きな敷地に建てられた大きな和風の建物です。こういうのがたとえば東京などでは都心の一等地にいくつかあります。

これだけの資産を買い取っていかれるのは、信徒数だけでなくその献金も多額であるからでしょう。
そして、そうなるのやはり、信徒にとってその教えにいいものがあるからでしょう。

そこでその教えの枠組みをみてみますとこうなっています。



                           


1.この世界は親神様(おやがみさま)すなわち天理王命(てんりおうのみこと)によって造られている。

2.この世と人間を作られた親神様は1838年、中山みき様に入られ、その口を通して思し召しをお聞かせ下さった。この中山みき様が「教祖(おやさま)」である。

3.親神様が人間を創造された元の場所が「地場(ぢば)」であり、その場所は全人類の故郷である。(天理市の本殿の中に枠で囲ってある)

4.地場の周辺が「親里(おやさと:人類のふるさと)」である。

5.親神様と人間の関係は「親子」である。

6.親神様が人間を作った目的は、人間が「陽気ぐらし」をするのを見て、自分も共に楽しむためである。

7.「陽気ぐらし」とは、世界中の人間が、互いに兄弟姉妹として助け合う、明るい、活気に満ちた、喜びずくめの世の姿のことである。

8.この暮らしを実現するには、一人一人が自分中心の欲の心をはなれ、人をたすける心を養い、助け合いの実践に努めることが大切であり、この実践が「おつとめ」である。

9.世の中には「陽気暮らし」を妨げる「悪しき者」もいる。
 (それで「あしきをはろうて、たすけたまえ、天理教のみこと・・・」ととなえる)

 ~~まあ、こんなところでしょうか。


                            



 で、この教え、名前や細部はともかくとして、聖書の教えに反するものありますか?
なにもない。その骨子はみんな聖書の教えに含まれています。

聖書でも、万物は創造主によって創られた、と教えています。

創り主が、今の人類の始祖、アダムとイブを、幸せに暮らすようにこの世に造ったとしています。
(彼らをエデンの楽園に暮らすようにしたことがそれを示しています)

その幸せな暮らしの源は「常にジョイで心が満ちていること」であります。
(これが「いつも心が喜びで満ちた状態でいなさい」という上記テサロニケ人への第一の手紙に書かれています)

その他、この喜びを奪う悪しきものがいます(聖書ではそれが悪魔ですが)。


                  


天理教の教えの骨子は、みな聖書に含まれています。
実体は、一部を抜粋した簡略版と言っていいほどです。
なのに、どうして日本ではキリスト教会に来る人が少なく、天理教があんなに繁盛するのでしょうか。

次回、それを考えましょうね。


                    

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Vol.6 「躾け社会」の長所と短所

2006年01月25日 | 永続確信のための聖書解読


こんにちわ、鹿嶋春平太で~す。
今日も何かいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本ですから。

仕合わせの聖書論理、第6回です。

超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。



                            


<ついてる神社>

言葉を反復させて心にジョイを作る運動は、アリガトオジサンや「うたし会」だけじゃないよ。

斎藤ひとり、という人がいます。
全国高額納税者のトップにしばしばなり、そうでない年度にも上位にいるというビジネスの大成功者。また、彼の教えを受けたお弟子さんたちが全国各地で地方の高額納税者ランクに何人か顔を出している、というビジネスの教祖でもあります。

ファンがたくさんいて、このごろ本屋さんに「斎藤ひとりコーナー」なんてのもあります。
かれは講演で「いつも上機嫌でいること」の重要性を説いています。
「上機嫌でいること」とはすなわちジョイを心に持っていることですね。
これがビジネスで成功する基礎だという。
アリガト運動と共通していますね。

ただし、斎藤さんが繰り返させる言葉は「ついてる」です。
「ついてる、ついてる、ついてる・・・」と何万回も繰り返すよう指導します。
「ありがとうございます」よりも、ビジネス寄りですね。
だけど、原理は同じですよね。

この「ひとり」さん、のりにのって「ついてる神社」なんてのまで作っちゃった。
東京の下町の商店街にあるようですけど、全国からお参りに来る、っていうんだから、ニッポンだなぁ~。平和っていいなぁ


                            

 こういう「言葉を繰り返させて」ジョイを得る方法には、前にも書きましたけれど利点があります。
繰り返して習慣づけるというのは、「躾(しつけ)」ですからね。
受ける方は、頭を使わなくていい。
知的には楽です。

 こういう「躾け会」に参集する人たちは、文藝春秋や中央公論なんて読まないよ。
日本の文化や芸術がどうのとか、国際関係がこうのとかなんてむずかしいし、生活に関係ないんだから。

そこで論じられていることより、もっと先行的に必要なことがある。それは、仕合わせになることだ。
それでいけないの?
まずその方法を確保したいと思うのは、健全なことではないだろうか。

文藝春秋も中央公論も、つまるところは人間が仕合わせになるための知識のはずじゃないの?
だろうけど、そのつながりが漠然として見えなくなっている。

「ソー・ホワット」(それがどうだというんだ)という素朴な疑問、人間にとって一番大事なこととどう関係しているんだ?という疑問への明確な答えを誰も示していない。
そんなんだったら、「わたしこんなことで困って、こうしたらうまくいきました」という日常の体験談の方が、よっぽど役に立つよ。
わかりやすいしね。

考えてみると、こういうの読む人は、仕合わせの問題に悩むことの少ない人々なんじゃないかな。
一流の学歴を持ったり、安定した会社や役所でで働いていたり、なおかつ、精神的なことに優れて鈍感であって、仕合わせの問題に対面することの少ない人じゃないの?


 
                            


 では、日本では聖書は要らないか、というとそうでもありません。
これはこれで特有の利点を持っているのですね。

たとえば「アリガト運動」が躾ける感謝の心。これは理屈抜きですが、聖書ではそれに関わる理論が付いているんです。

「感謝」というのは「思い」ですよね。人の意識です。
人の意識はジョイばかりではない。心に鉛が入ったような鬱状態もあります。
この鬱になるかジョイになるかを分ける要因が「いのちエネルギー」だと教えています。

人の意識はこのエネルギーで充電される充電式乾電池のように、聖書ではとらえています。
これがたくさん充電されていると、意識がジョイになる。
低充電だと重い鬱になる。
 ~~こういう論理です。


                                                


このエネルギーは創り主からあまねく世界に放射されています。
 で、これを吸収する方法は創り主に思いを向け、心を開くこと、となります。

といっても、創り主は見えませんよね。
どうやって意識を向けるの?
見えない状態で心を開いたら、それが悪い霊だったらどうする?

~~こんな疑問にも対応する論理があります。
創り主に正確に意識を向けるには、方法がある。
それは「イエスの名において」向けたらいい。

こうして「名」というものが、あるものを他と区別するための貴重な要素になっています。
これは認識論的にも、とても含蓄の深い論理です。

こういう風に、ジョイを得る方法が深い論理体系を持っている。
こうやって知性・理性も動員して、方法を盤石なものに聖書はしています。


                                                

「アリガト運動」はそうじゃないからね。
こちらは「躾け」だから、理屈抜き、論理抜き。
実践あるのみです。

こちらは楽で実践的だけど、人々に「知力」が育ちません。
そもそも「躾け」というのは、「知」の育ってない子供にするものですからね。
理屈抜きで反復させ「習慣づけ」てしまうしかないからするのが躾です。

しかし、「知」が育たないままな人民が多いと、民主社会は機能しなくなるんだよね。
民主社会では人民は社会観も政治観も持たなければならなくなる。
民主社会では、大衆もれっきとした決定機構の構成員だからね。

人民にこれがない状態は、独裁者が決定を独り占めする独裁社会、独裁国家に適した状態です。抑圧された隷属民の意識構造なんですね。


                            


日本は、民営化社会の道を前進しようとしています。

ここではやはり、アリガト運動で一定の仕合わせを得たら、「聖書を読み考えることによる感謝運動」が加わっていくことが必要です。
そうでないと、民営化社会は近々機能しなくなってしまうでしょう。

実際、耐震偽装事件などにも、その兆しはすでに現れています。
あれは民間に権限委譲された鑑査機関の人間に、それだけの知力がなかったことに端を発しているからね。それが業者や設計者の「だまし」を誘惑しているんだからね。

ここだけではないよ。
NTTの116番サービスにたくさん張り付いている人間の、全般的な知力の低さも大変なものがあるよ。もう出てくるの、出てくるのが必要な知識を持っていないんだから。ごまかす。逃げる。一つの件を処理するのに、1時間もかかるんだから。

1980年代の南米国家に似てきている。

これは鹿嶋の経験だけでなく、他からも苦情を耳にすることだ。
もう全般的に、民営化社会に応じるには知力不足。

日本は危ないよ。
トヨタは例外だよ。
かのホンダだって、本社の一般勤務員の知力の低さには驚くべきものがあるよ。
生産などの現場では人と知力が育つ。それでもってる会社だね。


                   


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Vol.5 「アリガトおじさん」と聖書の教え

2006年01月24日 | 永続確信のための聖書解読


みなさん、こんにちわ、鹿嶋春平太です。
さあ、今日もいいことありますよ。

なぜなら・・
聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本だから。

仕合わせの聖書論理、第5回です。

超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。


                                    


 アリガトおじさんのようなすばらしい教えは、聖書にないんでしょうか?
これがあるんだよね。
大ありです。

聖書は、これを含んでいる。カバーしています。

テサロニケ人への第一の手紙、5章16~8節に~~
 「いつも喜びで満ちていなさい、絶え間なく祈りなさい、いかなる環境の中でも感謝していなさい」

~~とあります。


 このいつも喜んでいなさい、は「ありがとう運動」がめざすゴールと同じなんですね。
聖書はさらに・・・
 それを盤石のものにする手だても教えています。
 絶え間なく祈っていなさい、という。この「祈り」は歓喜を得る有力な手段なんですね、クリスチャンの場合はですけれど。

 永続する創り主、人間を仕合わせにしようと願ってくれている創主が存在すると、クリスチャンは考えます。で、その創り主に心を向け、交信を試みなさい、という。
すると、もっと深いところからもっと深いジョイがわいてくるんですね。


                               


さらに「感謝」です。
これは「ありがとう運動」がジョイを得る手段としているものでもありましたよね。
聖書ではさらに、「いかなる環境にいても」とのべています。

どういう意味でしょうね。
~~人間に与えられている想像力、イマジネーションの力にはすごいものがある、と教えているのです。
物的な環境がどうであっても、人間の精神は、それを超えたイメージを持ち、感謝を捧げることが出来る。そういう風に、人間の精神は出来ているんですね。だから「いかなる環境にあっても」できるんですね。

だから苦境にあってもまず、精神をジョイでみたす。
そうして成功がそれに伴ってくるようにする。すると、物的環境も好転して仕合わせが近づくのですね。

                            


 これでわかるように、聖書の教えは「ありがとう運動」の教えを含み、且つそれ以上に深く広大なジョイ確保の手段をも教えています。
 だったら、こちらの方を提示してあげたら自営業者たちはこちらにくるのに・・・、とキリスト教関係の人は考えるかも知れませんね。

だが、そうはならないのです。
日本の商店主たちは、日々、忙しい中で暮らしています。また幼いときより、そういうことを深く考えるような教育環境におかれていません。

商店主たちだけではない。
日本では、サラリーマンも経営者も自由時間がきわめて少ない中で暮らしています。何とかしなければ、とおもいますが、日本人は「一億総時間貧乏」なんですね。

だから、日本の人は「理屈よりも要点」を求めます。
とりわけ独立事業者はそうです。
「根拠よりも結論」を求めます。
グダグダ理由を言ってないで、早く結論チョウダイ、と。
そこで「ありがとう運動」の方が魅力的なのです。


                            


こういうと教会の牧師さんなどは、「だから日本人はだめだ・・・」などと言うかも知れませんね。だが、そういっているだけでは人々は来ませんよ。

 牧者はまず聖書の中から「忙しい人」向けの知恵を与えるべきでしょう。簡明に問題を打開する道を提供すべきでしょう。

 そうやって、生活の苦しみの中にある自営業者を助けるべきでしょう。
これをするのが本物の「牧者」です。牧者とは「羊を牧する者」というではありませんか。

苦しみから解放された人々は、さらにこの喜びを深く安定的に保持したいと願うでしょう。そのときその方法を提供します。それには永続確信があればいい、と示します。

こうやって、ジョイを盤石にする道に導くのです。
これが聖書という深く広大な知恵の書を持つ牧者のあるべき姿でしょう。


                            

 日本の多くの独立事業者は、苦しんでいます。この世の中で仕合わせを得ようと懸命にあがいています。これをピンポイントに打開する方策を、聖書の教えから提供することが必要です。

 なのに「神様はあなたを愛していますよ」なんていっているだけでは、苦しみから適確に救うことは出来ません。当たらずと言わねど遠い。焦点がぼけてるんですよね。

 ましてや、旧訳聖書の「ヨブ記」などを持ち出して、「ヨブはこんなになってもなお神様を信じていたんですよ」とか「苦難は神様からのプレゼントです」なんていってた日には、訪問者は決してリピーターにはなりませんからね。

また、それでもまた来る人は、キリスト教とは克己勉励の宗教だと思っていくでしょう。そういう人でもクリスチャンになるのかなあ、と鹿嶋は思っていました。そうしたら、それはクリスチャンではなくクルシチャンだと、ルークさんのHPに書いてありました。


                  

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Vol.4「アリガトおじさん」登場す

2006年01月23日 | 永続確信のための聖書解読
こんにちわ、鹿嶋春平太で~す。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本です。

仕合わせの聖書論理、第4回です。

超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話をします。

+++

 本日登場するのは「アリガトおじさん」です。
誰ですか笑ったひとは。
ほんとうにいるんですよ、滋賀県に。

そこには修養所もあって、少なからぬ人がやってくる。
そしてガンが治って帰っていく人もいるという。

なにをするか。
ただ「ありがとうございます」となん万回も唱えます。
10万回とか20万回とか修養所にてこれを唱えるのです。

すると心が感動で充たされていき、ついには病気も治っていく。
だから、来訪者が絶えない、そういう存在です。

これ聖書に通じています。
聖書は「どのような状況にいても感謝しなさい」と教えています。
      (「テサロニケ人への第一の手紙、5章16~8節)
それは「感謝すれば心がジョイフルに保たれるから」なのです。

+++

アリガトおじさんは、滋賀県にこもって出てきませんけど、この普及版を世の中に出て広め回っている人もいます。
小林正観さんといいます。
彼はこのノウハウを全国的に講演しまくって「感謝の心」を広めているメンターですね。

彼は「ありがとうございます」の「ございます」をカットして「ありがとう」だけを繰り返させます。
セミナーで「心の安まる講演」をする。
その後で聴衆に「ありがとう」を繰り返させます。

すると会場に濃厚な感動がみなぎります。
多くは涙を流して泣くといいます。
これで、全国の商店主などに大人気です。
正観さんの教えに救われた、商売も良くなったし、健康も回復した、という。
で、一年のほとんどの日が全国各地での講演予定で埋まっているそうです。

+++

「アリガトおじさん」はありがとう運動の本家本元です。
これを広める小林静観さんの普及版とは、教えの細部は少し違っています。
どちらも人を憎んだり、恨んだりする心を持つと不幸を呼ぶことになる、という点では同じです。

この悪い心を「五悪」といいます。
愚痴、不平不満、悪口、文句、泣き言の5つがそれです。
これが不幸を産むという。

しかしアリガトオジサンは、そういう心を持っても、「ありがとうございます」を心を込めて唱えれば、浄化・相殺される、といいます。

 それだけ「ありがとうございます」という言葉が持つ言霊(ことだま)のパワーはすごいというわけです。
これは、恨み辛みのマイナスを消してしまう、と教えます。

 小林正観さんは、憎しみや恨みの感情を持つと、これまで「ありがとう」といって蓄積したものが一気にリセットされてしまう、と教えます。

小林さんの方が、「五悪の心」に対する戒めが強いですね。
彼のところに来る人は、日頃実社会で忙しく商売などしていて、講演会だけに来る人です。彼らには、それくらい強く戒めないと実効がないのでしょう。

「アリガトオジサン」は、実社会から離れて修養所にくる人を相手にします。だから、そこまで強く五悪心を戒めなくても実効があるのでしょうか。

+++

「ありがとう」を繰り返すのは、感謝の心を有無を言わせず心の中に作ってしまう効果を持っています。
「躾け(しつけ)」として作るわけですね。
躾は理屈抜きです。反復させて習慣にしてしまいます。

感謝とは、自分が対面しているもの、自分を取り巻く環境すべてを、「ありのままに」素直に受け入れる心理状態です。

 人間は、通常意外に環境を「ありのままに」受信してはいないのです。

過去に自分を傷つけた人を我々は、憎い面を拡大して認知します。憎い人は、認知しないようにすることもあります。逆に愛する人は、快適な面を拡大して認知するでしょう。

深く関わった人だけではありません。
テレビに出てくるタレントだって、そうですよね。
好きなタレントは、いいところを詳細に見ますし、嫌いなタレントはいやなところが先に眼について、すぐに認知しなくなってしまいます。

いわば、レンズをゆがめた状態で、我々は通常多くのものを認知しているわけです。すると物事は、明瞭に見えません。
このゆがみが、「アリガト運動」で矯正されます。感謝の心を持つことによってありのままでみるようになりますからレンズが矯正されるんですね。

 レンズのしわが伸ばされると言ったらいいかな。それで物事がとてもはっきり、カラフルに見えるようになります。


                           


 松下電器創業者の松下幸之助さんは、事業に成功するにはまず「素直な心」を作ることだといいました。

 これ、このことだけ聞いたらなんだかよくわからない、と感じますよね。普通の人の心は素直なんじゃないの? どうして松下さんは、こんなことをいうの? とね。

 しかし、松下さんは、人間は皆生まれてすぐに、このレンズにゆがみを作る歴史をたどってきているんだ、と洞察していたのではないかな。このゆがみを矯正して、ありのままに現実を認識するようにしないと、事業の成功はおぼつかないんだよ、と言ったのではないかな?

 事業家には妥当な事実判断が生命です。それにはまず、事物を、ありのままに、「素直に」認識する心を作らないと、もう、先は見えている、と考えたのでしょう。

                            


~~それはともかくとして、ここでは感謝して物事をありのままに認知するようになると、いままでと違って事物が美しく、濃く見えてくる。そこで強い心にジョイが生じる~~このことに留意しましょう。

+++

「ありがとう」を繰り返すと言ったって、半端じゃないよ。

小林正観さんはまず、年齢×1万回の「ありがとう」をとなえる様、指導します。
40才の人は、40万回ですよ。
さらにそれを、年齢×2万回、3万回・・・と上げて行くように指導します。

参加者の体験談があります。

~~「ありがとう」を繰り返していく。
それが2万5000回を超えたくらいになったとき、突然目から涙があふれ出した。その涙は止まらず、バスタオル一枚がびっしょりになり、絞れるくらいになった~~と。

深い感謝は、それほどの感動とジョイをもたらすのですね。

+++

正観さんは教えます。

~~なおもこの運動を続けていると、頼まれごとが増えてくる。
心にジョイがあふれているので、断らないようになる。
すると、その人は、人に喜ばれる存在になる。
そうしていると、その頼まれごとの三分の一が有償になってくる。つまり、人々が報酬をくれるようになる。
かくして、この人に仕事が形成されていく。
そして、この仕事は、その人の社会使命にもなる。
人々がして欲しいと求めてくる仕事だから・・。

~~こういうかたちで繁盛していくようになる、と。

                            


実際、こうして商売が繁盛していく人が少なからず出現し、正観さんの会も大盛会といいます。

彼の賛同者の会は「うたし会」というそうです。
うれしいの「う」、たのしいの「し」、しあわせの「し」をつなぎあわせた命名だそうです。

全国に「うたし会」のショップもある。会員が、うたし会の商品を売るコーナーを自分の店の一角に作っている。化粧品屋さん、一杯飲み屋さんなどがそうしているわけですね。これが数千軒あるという。

 売ってるのは、たとえばゆかたとか、タオル、手ぬぐいとか。これには「ありがとう」の文字が、一面に書き込まれている。


初めは正観さんの本を販売していたそうですが、商品も追加されていって、いまは財布もあるそうです。これをもってると、お金が入ってくるとか。誰ですか、また笑う人は・・。

 いずれにせよ、こうして「心をジョイフルに保つ」ことでもって、商売も繁盛に転じ、健康も回復する例がたくさん出る。こうして人々に仕合わせに導き、会員も、会も繁盛しているわけですね。


               



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Vol.3 ジョイと成功はワンセット

2006年01月22日 | 永続確信のための聖書解読

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間を幸せにしようとする本です。

仕合わせの聖書論理、第3回です。

超自然的な力によるものは、一応のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話をする。
超自然的な力によるものは、一応のぞいて考えます。


+++

 永続確信は、人の心に様々なプレゼントを与えます。
前回、不安感を減少させ、世の中をカラフルに見えるようにしてくれる、と申しました。

 心にジョイ(歓喜、喜び)を与える、というのもそうです。人は、普通のままですと、自分も死んでオシマイなんだなあ、という感覚を抱いています。それは人の心に漠然とした絶望感を形成しています。

 永続確信が濃くなると、この絶望感が減少します。すると我々は嬉しくなる。心の底から嬉しくなって、喜びが増します。この喜びは、歓喜という感情に近いもので、英語だったらジョイ(joy)と言っていいでしょう。

+++

 これにかぎらずジョイという心の状態は、物的経済的にうまくいくための源なのです。健康の源でもあります。もちろん人間関係がうまくいくための源でもあります。

 うまくいく、ということを成功といってもいいですよね。そういう広い意味で成功という言葉は使うことが出来ます。経済的な成功だけでなく、健康の成功、人間関係の成功・・・といったように。

 でも、物的な成功が一番わかりやすいですから、それから考えましょう。

+++

 心に歓喜が満ちるようになると、この世の物的・経済的な面でも成功しやすくなってくるのです。
そういうと、こんな反論も出るかも知れません。

 ~~「だけど、その喜びは成功しないとわかないよ。経済的な成功が喜びの源なんだよ」と。

 たしかに、そういう面もあるでしょうね。その方向の因果の筋道も存在する。

 だけど、逆もまたあるよ。心に喜びが満ちていることによって、ビジネスに成功が生じるという因果の道筋もまた、存在しますよ。

 心に喜びが満ちていると、そういう人が寄ってき易いよね。
そしてそういう人には、物的な成功を収めた人が多いでしょうね。だって、物的な成功は喜びをもたらすんだから。

で、成功した人と交流すると、有益な情報が入ったりしてビジネスにも何かと助けになり、自分も成功しやすくなります。これ超自然的な話ではないよね。現実の世で多くが経験できることです。

+++

こう考えていくと、「成功」と「心の喜び」とはセットだとわかってきます。
この二つの要素は、互いに原因となり、結果となりあって、循環的な因果関係の状態にあるんですね。
だから、どちらが原因で、どちらが結果、と考えるより、セットだと見た方が現実に沿っています。

同じ理屈で、「不成功」と「悲しみや絶望」もセットです。
失敗すると心から喜びがなくなり、悲しみが生じます。
また、悲しみで暗い心でいると、心の明るい人との交流が難しくなる。成功に役立つ情報も入りにくくなって、成功の可能性が減っていきます。

+++

 経済的に苦しみの多い状況の人がいます。
商店主などにそういう人がたくさんいます。
その人は、経済的に不成功な状態と、心の悲しみとがセットになっている。
この二つの要因が互いに循環的に働きあう状態にあるのです。

この人たちは子供の頃から学校においても、こういうことに関する知識を学んだことがありません。
ほとんどがどうしていいか、途方に暮れておられます。
これが個人事業者の実体です。

ではどうするか。
これから脱するには、そのどちらか一方を、とにかく、向上させねばなりません。
そして、もう一方をその勢いでもって向上の方向に持ち込んでしまわねばならないのです。

 では、どちらから向上さすか。
物的経済的状況を向上に転じさすのはほとんど困難です。
お金がない、信用がない、客が来ない、という状態に直接手を加えて逆転さすのはとても難しいです。

しかし、心にジョイを高める、というのは比較的可能です。
これには、経済的状態以外のところからも、高める力を与えることが出来るのですから。
「いいこともあった」と思いだして、世の中に対する見方を変えるというのも、その一つでしょう。
自分は、死んでオシマイかと思っていたら、実はそうでなかった、永続する存在なんだ、と確信するというのもその一つです。

とにかく、経済状態以外の所から、心に喜びを高めてしまう。そのパワーでもって、ビジネスの状態を「つれ高」にもちこむ。そうやってとにかくもう一方も向上の方向に転じさせてしまう。それは可能なのですね。

+++

 「まず天の創主王国とその義を求めなさい。そうすればこれらの(この世の)ものは(必要の二倍三倍と)添えて与えられますよ」(マタイによる福音書、6章33節)

 ~~~この聖句は、そのことも示唆しています。

 精神面でまず向上させると、物質面が向上していくんだよ、と。
精神面は、物質面と独立に向上させることが出来るんだからね。
だから、まずこちらにエネルギーをかけなさいよ。

先にジョイを心に持つと、成功の方がそれに呼び寄せられるよ。
なぜなら、ジョイと成功とはセットなんだからね、と。

心にジョイが少ないと、成功を呼び寄せる力も弱くなるよ。
だから、ジョイが先、成功したければ先にジョイで心を充たしなさいよ、と。

+++

~~~こう言っても、やはり疑問は残るでしょうね。
「な~んて、うまいこと言っちゃって・・・。実際そんな風にしてうまくいった例なんてあるの?」と。

 ところが、これがあるのです。
たくさんある。
次回、ご紹介しましょう。


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Vol.2精神の仕合わせに物質は付いてくる

2006年01月20日 | 永続確信のための聖書解読
 
聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間を幸せにしようとする本です。


                            


仕合わせの聖書論理、第二回です。

超自然的な力によるものは、一応のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。


「永続確信」はどういう風に「仕合わせ」とつながっているのでしょうね。
この二つは、遠いですよね。
つながりを見つけ出すには、すこし寄せてみる必要があるでしょうね。
永続確信の方から寄せてみましょうか。

<不安感が減少する>

自分が永続するという確信が深まると、まず、不安感は急減するでしょうね。
自分が死んでオシマイで、その先「無」になってしまう、何にもなくなってしまうとなると、不安だもんね。

<世の中がカラフルに見えてくる>

もう一つ、永続確信が深まると、物事が「色づいて」見えるようになります。
存在するものが、明確に、はっきりと、見えてくると言ったらいいかな。

鹿嶋の友人に、勉強家のド近眼のがいました。
近眼だから勉強に差し支えないし、親はメガネを買わないで小学校の高学年まで生活させたそうです。
その後、メガネを買ってくれた。
それを付けてビックリしたそうです。
「うわぁ~世の中こんなにきれいだったのか!」と。
以来、彼はそのきれいな世の中で暮らしているわけです。
・・・そういう感覚ですね。物事がはっきりと、色づいて見えてくるというのは。

+++

 聖書の教えを受け入れて、洗礼を受けたときの感想を聞くことがあります。
教会ではこれを「証し」といいますが、その中に時々こう言うのがあります。
「洗礼を受けたら、急に世の中輝いて見えてきた。木々の緑も色濃く見えてきた」と。
これは、自分が永続するという感覚が強くなったことによるでしょう。


                            


<仕合わせから寄せてみると>

 でも、それらが「仕合わせ」とどうつながっていくのか。
まだまだゴールは遠いですよね。

今度は「仕合わせ」の方から寄せてみましょうか。

仕合わせといっても、焦点は「この世の生活の」仕合わせに当てましょう。
聖書では、肉体を脱いだ死後の仕合わせと、この世の仕合わせとの両方を人間が得られることを願っています。
そして、死後の永遠の仕合わせが第一に重要で、この世の仕合わせは第二に重要だとしています。
けれども、ここでは志向が複雑に成りすぎるのを避けて、「この世の人生の」仕合わせに焦点を当てましょう。

 この世の仕合わせも、詰まるところは人それぞれとなるでしょうが、代表的な仕合わせの構造はこう考えていいでしょう。

まず、衣食住など物的・経済的な条件が仕合わせには必要ですね。
広く言えば、「お金で買える」ものです。

また、肉体の健康も必要ですよね。

さらに、家族との人間関係、友人との交友関係も良好であることが必要でしょう。
人は所詮一人では生きていけないんですから。

加えて、精神的なもの、心の安定・平安・よろこびなども必要でしょう。
物的なもの、健康、人間関係は、心から見たら外的、環境的なものですよね。
でも、それが整っていても、心に喜びがなければなりません。
仕合わせ、というのは、つまるところは、心のこと、精神的なことですからね。

<心の幸福に物質は付いてくる>

たくさんの要素が必要ですね、この世の仕合わせには。
みんな得ようとしてかかっていったら忙しくてしようがなくなってしまう。
それで、かえって不幸せになってまうかもしれません。
仕合わせを得ようとして、かえって不幸になってしまった、というんじゃ落語のネタにしかなりませんからね。


これらをどうやって確保したらいいのでしょうか。
聖書は、すべてに一斉に手を出すな、という思想です。
これらの間には、因果関係がある。
その原因になるものの方から手がけていけば、他のものは、その結果として実現していくんだよ、という教えです。

では、原因になってくれているのは何か。
それは心の状態の方だ、という。
衣食住、健康、人間関係など外的環境的なものと心の喜び・平安とを比べてみたら、後者の精神的なものの方が、源になる。それが原因になって、前者の物的なものはもたらされてくるのだよ、と教えます。

    「まず天の創主王国とその義を求めなさい。そうすればこれらの(この世の)ものは(必要の二倍三倍と)添えて与えられますよ」(マタイによる福音書、6章33節)

             ~~というイエスの言葉があります。これは精神が先、物的・環境的なものはそれに伴って後から付いてくる、という法則を含めた教えです。

天の創主王国の「義」とは、ここでは天の論理と受けとっていいでしょう。
この論理は永遠の論理(義)です。
そこには、「人間は永続するという法則」も含まれています。
人間はその義を求めて得ると、自己の永続に関する確信を得ます。
そうすると、この世の物的なものは結果として付いてくる、という教えなのです。

 どうしてそんなことがいえるでしょうね。
次回にその筋道を考えましょう。


                            


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Vol.1 仕合わせの聖書論理

2006年01月18日 | 永続確信のための聖書解読

                            

「ヨハネ伝」8章は、とても深い内容を持っていますね。
こういう章の聖句を解読していますと、我々は、細部・深部に入っていくあまり、全体観を失いがちになっていきます。


                            


 ここで、全体観を回復してみましょう。
題して『仕合わせの聖書論理』

聖書とはそもそも何のための本か、を思い起こしましょう。

 そうです。
聖書は、人間を仕合わせにしようとして、人間のなかの霊感の豊かな人に創り主が送ったメッセージである。
それが聖書自らが内にもっている、この書物の本質です。

 人間向けなんですね。
もしも、天使に向けたメッセージだったら、それはまた違ったものになるでしょう。

~~とまあ、そういう前提で聖書は読んでいくわけです。なかには、「そんな前提になどたてない」という人もいるでしょう。それも結構。だけど、そういう場合は、読んでもあんまり面白くないでしょうね。「これは単なる神話だ」という前提で読んでも見たら、ギリシャ神話とか古事記、日本書紀の方が面白いんじゃないかな。

 で、次に進みますね。


                            


 人間が仕合わせになるための根底の基盤は、「人間は永続する」ということへの確信を持つことです。聖書のメッセージはそれを教えてくれています。鹿嶋が、そのことをこの『鹿嶋春平太チャーチ』の副題に掲げているのはそのためです。

+++

 人は所詮心の中に形成したイメージ世界のなかで生きています。愛する家族員、友人にたいしてだってそうです。その人が眼の網膜に写ったままでその人を意識してはいません。

 その網膜像を、脳神経で処理します。そうして加工済みのイメージを創ります。愛しい人には愛しい要素を選択的にあつめて。憎い人には憎い要素を選び出して、他のものを切り捨ててやっています。で、それをその人だと意識して対応しているのですよね。人間は外界に対するに、そのイメージにたいして対応しているのです。

 自分を取り巻く世界に対してもそうですよ。人は、生まれて以来、まず、眼に見えるもの、物理的なものを起点にして、自分を取り巻く世界のイメージを形成していきます。鹿嶋はそれを「物理的イメージ世界」と名付けています。

 でも、イメージ世界はそれだけではない。人は、物理的なものを起点にしないでもイメージ世界を形成することが出来るのですね。ギリシャ神話とか日本神話とか、神話の世界などはその例ですうよね。鹿嶋はそれを「純イメージ世界」ということにしています。



                            


 物理的イメージ世界は、「人間は死んでオシマイ」という世界です。人間は、物理的には肉体が死んで消滅してしまいますでしょ。観察したら、そうなっていますよね。で、それを基点にして形成するイメージ世界は、「人間は死んでオシマイ」という世界になります。

 とはいえ、それも結局は「イメージ」世界ですよね。
で、他方で「人間は永続する」という論理を持つ純イメージ世界を心の中にもう一つ創ってみたらどうでしょうか。

 もしもこのイメージ世界が物理的イメージ世界を圧倒するような濃厚さ、明確さをもったらどうでしょうか。人の精神はそういう作業も出来るんですうから。

 そうしたら、人は「人間は永続する」という意識をベースにして生きていくことが出来るようになる。「死んでオシマイではない」という意識でもって生きていくことが出来るようになる。

 これがこの世の生活においても仕合わせで活きられるための、根底基盤です。聖書はそれを教えています。



                            


 本当かな?
自分が永続するという確信が、そんな重要な効果を持つのかな?

~~これを少し感触するために、みなさん、いま、次のことをしてみましょう。

右手に握りこぶしを作ってください。

それを突き出して、こう言ってみてください。
強く言ってください。

「わたしは永続する!」と。

これを3回言ってください。
出来る人は10回言ってください。

次にもう一つ。
 
 「私は死んで終わらない!」といってください。

これも3回、強く強く言ってください。
出来る人は100回言ってください。

~~あなたの心の底に、何か変化が起きています。かすかであってもそれを感じることが出来るでしょう。(感じられた人はコメントで伝えて下さるとありがたいです)

 やってみた人は、それを体験できます。その人は、これからの話の理解が、やらない人の百倍効率よくなります。
 
 では、次回から話を始めますね。


                            


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Vol.118『諸君は罪の奴隷なのだよ』(8章)

2006年01月17日 | ヨハネ伝解読







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「罪ある者は、みな罪の奴隷なのだよ」(8章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                           


 さて、「我々は奴隷になったことなどない」というユダヤ人に対し、イエスは鋭く言い放っています。「罪を犯す人間はみな、罪の奴隷なのだ」と(34節)。

 人はみな罪を犯すというのがイエスの教えですから、要するに「だから諸君もまた、罪の奴隷なのだ」ということです。

 では「罪の奴隷」とはどういうことでしょうか。奴隷は自由人とは対照的に、主人によって、首輪に縄を付けてつながれているようにつながれていましたね。自由に旅行することも出来ない。生殺与奪の権を握られた状態で暮らしています。

 でしたら、ここではある「主人」が出てきて欲しいですね。人間とか、天使とか、悪魔とかとにかくそういう意志を持った主体が。ところがイエスは「罪」だというんですね。罪によってつながれている、と。抽象的ですね。


                            

 ここは「罪を犯すことによって、何かにつながれている」ということでしょう。つまり、ここでは罪は人が何かにつながれて自由を失う「原因」として言われています。では罪人をつなぐ「意志ある」主人とは何でしょうか。

 結論から言えば、それは悪魔となります。聖書の思想では悪魔は人間の罪の源であり、罪の父となっています。だから、上記34節は

 「罪あれば(それが原因となって)悪魔の奴隷になり、悪魔につながれるのだよ」

    ~~という主旨になるでしょう。



<創世前に起きていたこと>

 では、なぜ罪があれば悪魔の奴隷になってしまうのか。
 この由来は、少し長くなりますが、改めて概論したおきますね。

 悪魔の前身は、天の創主王国における天使です。
彼は本来天使として創られていたのです。

 天使は創り主のしもべであり、創り主に仕えるのを本分として創られました。
 具体的には、天の創主王国で、創り主の名を讃美するのがその役割でした。

 ところが、ある時、創り主の王国である天国の一部に、自分の王国を創りたくなってしまい、実行してしまうのですね。

 彼は天使長でした。配下の天使に命じて、自分を讃美させました。

 こうなると、創主の王国の中に、別の王国が存在することになります。
 そこでは、独自なルールが形成され、それに則って統治がなされることになります。

 それは、天の創主王国の中に、異質な細胞が出来たようなものです。
 そういう細胞は、ガンのように自己増殖しようとします。
 官僚組織のように、といってもいいかな・・・。
 
 とにかくそこで、創り主の子イエス(この段階では霊としてのイエスです)は、天国の一隅に暗闇を創り、他の天使に命じて、この不従順を犯した天使とその配下の天使を追い落としました。


                            

<宇宙は容疑者を閉じこめた牢屋>

 この暗闇が宇宙です。
天使は創り主への不従順と反抗を通して変質します。
 天使長は悪魔に、配下の天使は悪霊(聖書では「天の諸々の悪霊」と記されています)に変質するのです。

だから、宇宙は悪魔と「天の諸々(もろもろ)の悪霊」とを閉じこめた牢屋のようなイメージのものですね。悪魔は、そこの牢名主ですね。

 彼らは、あらゆることで創り主と対極なことをする存在に変質しています。天の論理(イエス)がこの世に出現すれば、それをこの世から消そうとします。創り主の子に対しても、本能的に殺意を抱く体質になっているのです。

 だが、それはまだ証拠として現れてはいません。かれらは「容疑者」なのです。容疑者として牢の中にいるわけですね。


                            

<牢屋の一隅にアダムとイブを創る>

 創り主イエスは、その中に地球を創り、エデンの楽園を創り、肉体を持った人間であるアダムとイブを創ります。彼らは、創り主を思い、創り主の意志に従順して、祝福の中に楽園で暮らします。

 ところが、創り主が人間を仕合わせにしようと意図すれば、悪魔はその反対を本能的に志向します。で、アダムとイブを不幸にすべく、創り主に不従順して「知恵の木の実」を食べるように誘惑します。

 イブは欺されて食べます。アダムは知った上で不従順して食べます。

 このとき、アダムの意識は創り主に向いていなくなっています。彼は意識をそらしている。

 この「創り主に意識が向いていない状態でいることが罪」なのです。意識が向いてなければ、創り主の意志に従順することもできませんね。だから、もう命令にも従順しないで(従わないで)行動することになります。それで食べてはいけない、と命じられてた木の実を食べられたのです。

 正確に言うと不従順は罪の結果ですね。罪の原義は「被造物が創り主を思わないこと」です。

 この瞬間、アダムとイブは、悪魔と同じ側の存在になります。悪魔は創り主に不従順することによって、祝福からはずれました。天の創主王国はそういうルールで運営されていたのですね。

 そのルールを、創り主は廃することは出来ません。宇宙でもルールは貫徹しています。そこで、アダムはルール通り、悪魔と同じ側の存在になったことになります。

 そこの牢名主は、悪魔です。牢名主は自分の下に加わったアダムとイブには手を出すことが出来ます。ルール通り手を下せる。

 そして、その後の人間は、その霊(意識の源)の資質をアダムから受け継ぐことになります。

 こうして、人間みんなが悪魔の手につながれるようになった。~~これが聖書の世界観・人間観です。


                            


<基本的には自由に「いたぶる」ことが出来る>

 悪魔はその全意識が、創り主と正反対になっている存在です。創り主が「人間をこの世でも仕合わせにしたい」という意志を持てば、「不幸にしよう」という意志をストレートに持ちます。

 しかも、人間に思うままに手を下す権威をもっているのですから、もうとにかく目を付けた人間を「不幸にしよう」と「いたぶる」ことになります。そして悪魔は霊であって、人間は眼でとらえることが出来ませんから、もう基本的にはしたい放題なんですね。

 人間は、この世では基本的にそういう状態におかれるようになっている。その原因となっているのがが「罪ある」という状態である。それをイエスは~~

 「罪ある者は、それがあるが故に、悪魔の奴隷としてしばられているのだ」

         ~~と表現しているのですね。


                            


<イエスの「血」を宣言する人間には手が出せない>

 ここまでで終わると、「聖書は暗い話だなあ、希望がないなあ」となってしまいますので、追加しておきます。

 そうした環境の中でも、悪魔が手を出すことが出来ないようにブロックするものを、イエスは残していきます。イエスが十字架刑にかかる前後に地上で最後に流す「血」がそれです。

 この血の力を宣言する人間には、その力が全身全霊をカバーするという現象が起きる。するとこれに対しては悪魔は手を出せない、という論理になっています。

だから最後は、この世の生活にとっても希望のある話なのですが、とにかく、「罪の奴隷」というのは、以上のような意味内容を持っています。


                            


<おとぎ話か真理か?>

 以上のような話をはじめて聞けば、まあ、現代人はほとんどがこれを「おとぎ話」とみるでしょうね。話としては、奇想天外だもんね。「里見八犬伝」もびっくりだ。

 だが、人の世の中では「何でこんな不幸なことが起きるんだ」と理解に苦しむようなことたくさんあります。それに対しても、このおとぎ話は結構説明力を持つんですね。

 そして、自らその不幸に関わったとき「イエスの血」を繰り返し宣言することで、問題が打開されることを見たり、体験したりすると、「これはもしかしたら真理か?」とふと思うことも出るんですね。

 だが、この「ヨハネ伝」の著者ヨハネの確信は「もしかしたら・・・」というレベルを超えているんですよね。彼は、それを真理だと確信している。だから、迫害を受けても、生命が危険にさらされても、お金にならなくても、これを書き残したんですね。でなかったら、こんなことやっとられないでしょう。



                            

 なお、今日の「自由」の説明は、前回の「聖霊による自由」と違うように見えますね。でも、実はつながっているんですね。

 聖霊を受けると、「イエスから流れ出た血の力」を悟るようになり、血の力を悟ってそれでカバーされれば、自己の意識が外からの悪影響を受けることなく聖霊にリードされますからね。つまり、「手放し」運転の状態にいっそう成るわけです。

~~本日も長くなりました。この辺で終っておきます。

                            




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Vol.117『奴隷と自由人』(8章)

2006年01月15日 | ヨハネ伝解読
~~今日は少し長いです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「彼ら(ユダヤ人たち)はイエスにいった『我々はアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどないよ。君(イエス)はどうして“諸君は自由になる”などと言うのかね』」(8章33節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 イエスが「真理を知れば自由になる」と言ったので、ユダヤ人たちは「われわれは人の奴隷になったことなど一度もないよ」と反論しています(33節)。

 この文脈の意味は後に考えるとして、聖書によく出てくる「自由人」と「奴隷」という概念について少し考えておきましょう。


                     


 古代の西欧においては、ギリシャ時代とローマ時代(イエスの時代はこの時期)に明白な奴隷制度がありました。奴隷というのは、自由人に対比する言葉です。そして西欧ではそれ以後においても、自由人(自由民ともいう)と奴隷という人間の分類は、人間を見る際の基本類型になっています。

<市民家庭は大家族>

 奴隷というのは、持ち主によって売り買いされうる存在です。彼らの多くは、自由人に買われてその家庭で働いていました。そういう人間は、普段、逃げないように束縛されておりますから、自分の好きなように旅行をするなどの行動の自由はありません。

 対して、自由人はそれらをする自由をもっています。そういう二者で社会を構成していたのですね。

 自由人は通常、家父長の血筋のもので構成されていました。家父長の妻、子供などです。自由人の家族の父親は奴隷にかぎらず、全家族員の生殺与奪の権を持っていた。そういう絶対的な権限を持つ人がいることによって、家庭の統一が保たれていたのですね。

 その家庭の中に、奴隷も一員として暮らし働いていた。西欧古代の市民の家庭は、大家族家庭だったわけです。

 そして、それを基本構成単位として、市民社会が構成されていた。これがギリシャ、ローマ時代の社会構造でした。


                     


 自由人は売り買いされることはありませんから、望むならいつまでもその家庭に留まることの出来る存在でした。

 他方、奴隷にはそういう権利は与えられていません。いつ余所に売られるかわからないわけですから。

 後にイエスが「奴隷は家庭にいつまでもいることは出来ない。子はいられるが」(35節)と言うのは、そういう状況を踏まえてのことであります。


<東洋では鞭で打たれて肉体労働オンリー>

 西欧での奴隷という概念には、もう一つの重要なニュアンスがありました。

 我々日本人が奴隷という言葉を聞くと通常、主人に鞭打たれて牛馬のように働かされる人間をイメージするのではないかと思われます。つまり、鞭で動物のようにこき使われる存在ですね。でも、これは古代東洋的な奴隷のイメージです。

 けれども、ギリシャ・ローマ時代西欧での奴隷というのは、代表的にはもう少し違ったイメージの存在でした。今述べたように彼らは多くの場合、自由人の家庭に入って生きていました。大家庭の中に自由人と奴隷とがいたのですね。

<専門技術者の奴隷もいた>

 奴隷は、自分の身を自由に処す権利はありません。けれども彼らが行う仕事には、主人の家庭の財産管理などという知的なものもありました。そういう奴隷は通常、執事と呼ばれていました。

 高度な料理を作ったりファッション性の高い衣服を縫ったりするという仕事もありました。式場道三郎のような料理人とか森英恵のような服飾人もいたでしょう。結構クリエイティブな仕事をする奴隷もいたのです。

 そういうわけで、実質的な立場の高い奴隷もいました。もちろん、主人は彼らへの生殺与奪の権を握っていました。けれども、そういう権利は家族の中の自由人にも及んでいたのですからね。

 聖書にはボンド・サーバント("bond-servant";bondslaveも同じ)という奴隷も出てきます。これは、奴隷が自分の年季が明けたり、借金を返したりして自由人になっても、そのまま従来と同じように自発的に主人に仕える奴隷を指す名称です。

 自由人の身分を持ちながら、従来奴隷だったときのような職務を果たしていくわけですね。日本ではこれを「自由奴隷」などと訳しているようですが、こうした名前だけでは何を言っているかわからないですよね。


                     


<全体観を持つのが自由人>

 こうみてくると、奴隷と自由人との境界線がはっきりしないように感じられますね。ところが、彼らの間には別の明白な境界線がありました。

 奴隷は、自分の仕事が全体的な家庭運営の中でどういう位置にあるかという情報、つまり、家庭の全体像は知らされていませんでした。高度な技術を遂行していても、只、命じられるままに自己の担当分野を果たします。

 他方、自由人は家庭全体の運営に関わる情報、全体観をもっていました。

 これは重要なポイントです。

 全体観のある人とは、様々な専門家を組み合わせて、全体を運営するリーダーになれる人、ということにつながっています。

 こういう精神構造が、自由人に特有な資質として自覚されていたようです。ということは、人間の一つのタイプとして自覚的に認識されていたとわけですね。

                     


<西欧特有の人間類型観>

 余談です。

 こういう風に、人間を類型化する視野がその後の西欧文化圏にもあるということは、我々日本人は知っておくべきではないでしょうか。

日本では、高度な専門家というのが、最高の人のような評価を与えられる傾向が大きいですよね。だが全体観を持たないである部門を専門的に担当するという資質は、西欧の人間観からしたら奴隷の資質なのですね。

 だが日本には、全体観を持つ自由人と言ったような、人間イメージというか、視野というか、そういうものが希薄です。

 その結果、リーダの資質を持った人が育ちにくい社会風土になっています。そういう人は普段は集団組織に受け入れられにくいとのです。日本では、平和な時代を通して真のリーダーがあちこちの組織・機関で枯渇していくという現象が起きます。

<日本史は振り子のように>

 明治維新や敗戦後などの動乱時は例外になります。そういう時には全体観のある人がリーダーになるべき必要が非常に高いですから、人々もやむなく受け入れるのです。

 しかし、平和になるとそういう必要が感じられがたくなる。すると全体観のある人がむしろ避けられるようになります。

 かくして、凡庸な人が御輿に担がれることがあちこちで起きるのです。日本社会で出世するには、ひたすら人畜無害であるべき、といわれるのはそれ故なのですね。

 それで政府を初めとするあちこちの人間集団で、組織的無能化がおきます。あちこちで社会機関がおかしくなっていきます。で、問題が多発し悲劇が起きて、また例外的に全体観のある人を求める。日本はそういう繰り返しをしていくようですね。

~~長くなりました。本日は、西欧における奴隷の概念は、日本の我々が持つイメージとは大分違っている、ということで・・・。


                     

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コメント7・「人を自由にする」について

2006年01月12日 | ヨハネ伝解読


~~SAITOHさんから、メールでコメントをいただきました。

 転載を許可してくださっておりまして、かつ、とても参考になる内容ですので、ここに啓示させていただきます。


本日のブログを読みまして、いろいろ思うところを書いておりましたら
長くなってしまったので、メールにしました。


                     



「真理は人を自由にする」 の深い解説ありがとうございました。
真理イコール創主という読みもさることながら、三位一体だから、イコール
聖霊でもあるわけですね。そこまで知ると、ヨハネ福音書の読み方が
変わってきそうです。

ほかにも、読んでいていろいろ考えたことを書きます。


                     


(1)フロイトの潜在意識理論について

潜在意識と対比させていただくことで理解しやすくなったと思います。
ところで、これを、仏教の唯識思想と比べるとどうなるか。

唯識では、意識(顕在意識ですね)の向こうに、自我意識である「末那識(まなしき)」と
さらに奥に、存在世界のあらゆる種子を包蔵する「阿頼耶識(あらやしき)」を立てます。

無意識が2段階になるわけです。 

広大な宇宙意識でもある「阿頼耶識」に、直接、人の意識がつながれば、
けっこうこの上なしですが、エゴの親玉「末那識」がそうはさせじと阻みます。

また「末那識」が「意識」よりも奥にあることから、人間は、自分のエゴを
自らの意識の力では、コントロールできないと説くのです。 
(ここが仏教のすごいところ)

一昔前と比べて、唯識思想は、信じられないほどポピュラーになっています。
NHK教育番組でもよくとり挙げられますし、一般向けの書籍も多く出ています。

奈良時代から法相宗として、ほそぼそと伝わっていますが、宗派として
残っているのは 世界でも日本だけなので、誇っていい事例です。


                     


(2)ローマ書7章15、17節について

 「私は自分のしていることがわからない。わたしは自分の欲することを
  行わないで、 かえって自分の憎むことをしているから」

 「このことをしているのは、もはや私ではなく、私のうちに宿っている罪である」

パウロが、正直に、勇気を持って、自らの良心の葛藤を語る姿勢に感銘を受けます。
(親鸞の歎異抄あたりを連想してしまうところですが、それはさておき)

最近、私は、パウロが頻繁に語っている「良心」概念に、興味を持っております。
調べてみると、良心という語は、聖書の中では、旧約にはほぼ皆無、
四福音書にもなし、 そして、使徒口伝23章1節で、パウロの弁明での冒頭で、
突然、登場するのです。

 パウロの言う良心の意味は何か、聖霊との関係はどうなるのか、調べてみようと
考えています。


                     


(3)自己の意識について「手放しで」いられる状態

これに似た心境を表す言葉として、論語の有名な句をつい思い浮かべました。

   「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)をこえず」

孔子の生き方を考えてみるのも面白いかと思います。
参考までに、この箇所の現代語訳を示しておきます。
宮崎市定「現代語訳論語」為政第二20 より、


 子曰く、私は十五歳で学問の道に入る決心をし、三十歳で自信を得、
 四十歳でこわいものがなくなり、五十歳で人間の力の限界を知った。
 六十歳になると何を聞いても本気で腹をたてることがなくなり、
 七十歳になると何をやっても努めずして度を過ごすことがなくなった。


        
                             

もう1例、穂積重遠「新訳論語」から、七十にして云々の箇所だけ載せます


 七十歳になってはじめて、したい放題のことをしても脱線しないように
 なったのだよ 


                     




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Vol.116『真理は人を自由にする・2』(8章)

2006年01月10日 | ヨハネ伝解読


 前回、人間が実際に真理を知るのは、聖霊を受けることによって可能になる、と申しました。
これがイエスの教えの中身である、と。
だから、真理とは聖霊と置き換えても、意味が通るのでありました。

 では、その「聖霊を受けると、自由になる」というのはどういうことでしょうか?


                            


 これは一寸難しい。
心理学者フロイトの精神分析学を援用して考えましょう。
彼は、人の心理構造について、「人の意識は顕在意識と潜在意識とからなる」
という主旨の理論を作りました。

 顕在意識とは、人が自覚できる意識です。
たとえば、自分が誰かを憎んでいるとします。
その憎しみの気持ちが自覚できるというのは、
それが顕在意識領域にあるからだ、というのです。

 潜在意識とは、自覚できない領域にある意識です。
自覚できないけれども、存在するのです。
そして、それは、知らない内に顕在意識に影響を与えます。
またそれは、自覚できない状態のままで行動にもつながっていきます。


                     


 考えてみれば、それは始末の悪いものであります。
もし、潜在意識における憎しみが、ある時強烈な殺意を形成したり、
さらにそれが殺人という行為につながっていく場合にも、
当人はその源の意識が自覚できないと言うのですから。

 つまり、源をコントロールすることが出来ない。
そこで、人が出来ることといえば、それが顕在意識領域にちらっと兆しを見せた時だけ、
あるいは、殺人という行動を引き起こそうとする時だけ、それに気づいて
急いで「いけない!」と自らにストップをかけることだけです。

 人は、そういう状態に常におかれています。
潜在意識の作用次第では、何をするかわからない状態にある。
その一部には、行動として発露すれば
間違いなく社会から制裁を受けるべきものもあります。

 そうだとすれば人は、常に恐れおののきながら、
自己の意識を見張っていなければならないでしょう。


                     


 フロイトは、そういう風に人間の心理構造を把握いたしました。
この「恐れおののきつつ」潜在意識の自由な発露を抑制しようと見張っているのが、
彼の言う「自我(エゴ)」でありました。

 このフロイトの潜在意識にある程度該当すると見ていいのが、聖書の「霊」であります。
もちろん当人の人霊です。
聖書では、人は肉体と霊とからなっているという人間構造把握があるのです。

 この霊の一部の意識を脳神経系という肉体の機関が受信し、
かつ、その良し悪しを判断して信号を送って操作する(これが意志にあたる)
というのが聖書の精神図式です(拙著『誰もが聖書を読むために』新潮選書など参照)。

 けれども、受信できない領域もあるのです。
個々の意識に対しては、為すすべがない。
これが人のおかれた実情ということになります。


                     


 でも、その霊の内に創主の霊である聖霊が入ったら状況は変わります。
聖霊は、創主のみ旨にかなった意識を産みます。
すると、その人の心のベースでは、創主の御旨にかなった思いが発せられることになる道理です。

 創り主の御旨にかなった思いは、この世の社会の掟にかなった思いをカバーしています。
旧訳聖書の「十戒」を見るとわかります。
「十戒」には、天の創り主王国(天国)のルールに反しないための命令が記されています。
その命令を守ると、この世での法律や道徳に反する行動はほとんどなくなるんですね。

そうしたら、当人は、もう自らの思いや行為を創主の御旨に反しないだろうかと
「恐れおののいて」監視していなくて良くなります。
基本的に思いのままにしていればいいことになる。
自転車にたとえれば、もう「手放し」でのっていても道を外れることがない状態になるわけです。

 もう自分の意識が何をやり出すか、恐れ心配する必要がない。
これが自由です。これが「真理は人を自由にする」の奥にある真意であります。


                     


 もちろん、聖霊を受けた人の霊が、全部聖霊と同質に変わるわけではありませんよ。
意識の上層では相変わらず、この「世(罪)の霊」の思いに感応して動く部分もあります。
従来の意識の慣性も残っていますし。

 だから聖霊のバプテスマを受けたからと言って、
一挙に百パーセントの聖人になるわけではありません。


                     


 パウロという使徒はこう言っています。

 「私は自分のしていることがわからない。
わたしは自分の欲することを行わないで、帰って自分の憎むことをしているから」
(ローマ人への手紙、7章15節)。

 そして、

 「このことをしているのは、もはや私ではなく、私のうちに宿っている罪である」
(ローマ人への手紙、7章17節)。 

                ~~と言っています。

 つまり、自分の顕在意識が「よし」としていることが、行為につながらないのです。
そして、顕在意識としては、むしろ、「いけない」と思うところをやってしまっている。

 これは潜在意識たる霊の欲するところをやってしまっている、ということになります。
そして、その霊には罪(いのちエネルギーの欠けた部分)がある。
それが顕在意識が「よしとしない」意識を産んでいることになるわけです。


 これを書いているパウロは聖霊を受けているんです。
それでも、ある部分は、自らの顕在意識の望むようにはならない。
彼は、そういうネガティブな面について嘆いていわけです。


                     


 けれども彼の霊(潜在意識)には、ポジティブな面が基底に生じています。
いうなればその人の心の底には創主の御旨の「灯」がともるようになっています。
これは、以前の聖霊を受けていないときと比べたらもう、雲泥の差なんですね。

 実際、上記のようなことをいっているのですが、
パウロが社会的な犯罪を犯して罰せられるという記録は書かれていませんしね。

 聖霊を受けると、個々の日常的な細部の行為はともかくとして、
基本的なところでは、創主の御旨にかなう意識が発露するようになっています。

 そして、それ故に、彼はもう、自己の意識について「手放しで」いられます。
つまり、その限りで、真の「自由」を得られているということになるわけであります。


                     

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Vol.115『真理は人を自由にする』(8章)

2006年01月07日 | ヨハネ伝解読

 「真理は人を自由にする」

  ~~本日はこの有名な聖句を考えましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「(諸君が私の言葉のうちに留まっていれば)諸君は真理を知るでしょう。そしてその真理が諸君を自由にするでしょう」(8章31節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                     


 前回に示しましたように、イエスの教えでは弟子というのは、師匠の教えがまだ理解できない人です。けれども、そこに価値あるものがあると信じてついていく存在でありましたね。

                     


 本日イエスは、続けて言います。「(弟子としてついてくれば)あなた方は将来真理を知るであろう。そして真理は諸君を自由にするであろう」(32節)。

 クリスチャン社会を超えて有名な言葉ですね。だが、この言葉の含蓄するところは、我が国では信仰者と自認している人にも、まだ十分に理解されているとは言えません。

 表面的な意味は、「正しい知識を知れば、それだけ世の中見えてくるので、それだけ自由に行為することが出来る」といったところになるでしょうか。


                     

 それだって、結構、いいこと言ってるみたいですね。ここが聖句の難しいところでもあります。

 表面的な解釈しても、それなりにこの世の知恵になりそうだ。だから、人はそこで満足してとどまってしまいがちになるのです。

 じっくり考えてみると、そう簡単でないことがわかってきます。そもそも、「真理」とは何でしょうか。それは「正しい知識」で本当にいいのでしょうか?

 真理の英語はTRUTHです。結論的なところから言いますと、この語の原義は「変わらざるもの」であります。


                     


 「変わらざるもの」は、厳密に言えば、我々の五感で認知できるものにはありません。目に見える物質は、みな、時と共に変化し、風化していきます。だから、みな、いずれは滅びます。無常ですね。だから、我々の目に見えるものには「変わらざるもの」はありません。

 で結論的に言いますと、聖書では、万物を創った創主だけが「変わらざる存在」であるという、存在観です。

 するとここで言う真理とは、創り主のことなのか? 
 その通りです。

  後にイエスは「聖霊が真理の御霊(みたま)として諸君のいるこの世にやってくる」と言います。

 もちろん、父なる創り主とイエスと聖霊は、三位一体で一つと言うことになっていますから、それは創り主でもいいです。けれども、より具体的・直接的には聖霊と受け取っていっていいでしょう。聖霊が「真理の御霊(みたま)」として人間に真理を教えてくれる、という教えなのです。


                     


 そしてまた余談。

 これもここでは結論だけを言いますが、聖霊のそういう影響を常時受けるのは、聖霊を自らの「内に受ける」ことによって可能になります。いわゆる「聖霊のバプテスマ」がそれであります。

 「諸君が私を信頼し、期待してついてくるのなら、将来聖霊を受けるであろう。それによって、諸君は自由になるであろう」

 ~~これがイエスの教えだったことが、後にわかってきます。


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