新約聖書にはイエスと彼の教えを巡る書物が収納されている。
前回述べたように、旧約聖書は~
① この世が始まってからモーセまでの歴史。
② 創造神が守るべきルールとして与えた律法。
③ 将来、「救い主が現れる」という預言。
~この三つの大枠でなっていた。
このうちの律法を民に守らせるための教団、ユダヤ教団がイスラエルにはできていった。
イエスが生まれた当時、教団には高僧たちがいて、上層階級の人々(パリサイ人、サドカイ人と呼ばれていた)がそれを支えていた。
イエスはそうしたユダヤ社会の中に生まれ、教えた。
<旧約は創造神メッセージと断言>
彼は沢山のことを教えたが、すべてを旧約聖書との関連でもって見ることが必要である。
イエスは、自分が創造神の子で全てを知る存在だと宣言して教え始めた。
そのスタンスから彼は「旧約聖書は全編、創造神メッセージの受信記録集であるのに間違いない」とした。
この認識は「創造神メッセージである可能性が高い」といった生半可なものでない。
全知の創造神の子だから、メッセージ記録そのものだという断定となる。
その上で彼は、全てをこの書物から一歩も外れることなく教え、また(旧約の預言通りに)行動した。
<画期的な旧約解説>
けれども彼の旧約聖書「解釈」は、これまで誰もなしたことのないものだった。
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イエスは、旧約の預言者たちを高く評価した。
だが、超霊感者といえども人間だ。
彼等の霊感受信能力には限界がある。
だから彼等に与えられた幻もそれに応じたものになる。
<「天国」が欠けたメッセージ>
なによりもそれは「天国」に関するメッセージが全くないことに現れていた。
(旧約には天国という言葉は一度も出てこない)
イエスはその「天国」という理念を導入することでもって、教えを始めた。
イエスの宣教第一声は、「悔い改めよ、天国が近づいた!」〔マタイによる福音書、45章17節)であった。
ここで「天国が近づいた」とは、「天国がこの世〔宇宙)と呼応していることを人間が認知できるほどに、人間に接近している」ということである。
イエスがそうする、のである。
イエスは以後、天国との関係で教えを展開した。
<「天国」とは>
イエスによれば、天国は人間が住む宇宙〔物質界)をも含む、広大な霊的空間である。
そこは創造神が王として完全統治する創造神の王国(Kingdom of Heaven)である。
我々の住む「この世〔宇宙:物質界)」は、天国の影のようなもので、本体は天国である。
そして人間がうける究極の幸福(祝福)は、死後肉体を抜け出た霊がこの天国で永遠に住めることだ。
~そうイエスは教えた。
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これを旧約聖書の思想と比較するとこうなる~
旧約聖書の預言者は、天国のことまでは受信できない。
そこで創造神は、幸福をこの世〔宇宙)でものとして示した。
だから、旧約での「祝福」はこの世の幸福となる。
その具体的内容は、肉体の健康と富(この世に生きている間に用いられる財貨)が与えられること、~となる。
だが、イエスはこう教えた。
この世の祝福はホンモノの影であって、本当の祝福とは、死後に霊が天国で住めるようにされることだ~と。
<旧約時代の「救い主」>
すると旧約に出てきた「救い主」の意味も変わることになる。
旧約時代にはイスラエルの民は、「旧約で預言された“救い主”は、ダビデ王のような王様の再来」だと思っていた。
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どうしてそうなるかというと、当時の中東の諸国は異民族の国々と隣接していた。
王の能力が凡庸なら自国は隣国に征服されっぱなしとなる。
さすれば、領土は切り取られ、富は強奪され、富がなくなれば人民は飢えて、健康にも支障が生じる。
イスラエルの民は、そういう環境の中で日常を生きていた。
その歴史の中で、ダビデ王はイスラエル民族に連戦連勝をもたらした戦の天才だった。
人口も増え、領土も拡大した。
そして、ダビデ王はいなくなった。
そういう中で暮らしていれば、救い主とはなによりも、旧約での幸福の必須要素を確保してくれ、かつ守ってくれる王様となる。
イスラエルの民がダビデ王のような王様を救い主として待望するのは、自然な成り行きであった。
<イエスのいう「救い主」>
ところがイエスの幸福観では、人間の祝福〔幸福)とは、死後、その霊が天国で住めることだ。
だが創造神の王国である霊界に入るには、人間の霊から罪がなくなっていなければならない、とイエスはいう。
では罪とは何かというと、それは(旧約でモーセを介して与えられた)律法に反することによって、霊に生じるものだ、という。
そして、人間は生きていれば必ず律法に反して罪を犯すのだ、とイエスは教えた。
たとえば律法には姦淫の罪というのがある。
これは行動だけでなく、思いにも適用されるもので、たとえば「女を見て姦淫の情を抱けば姦淫の罪を犯しているのだ」とイエスは言った。
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さあ、大変。
これでは「人間はみな罪人」となる。
世上言われる「人間みな罪人」が真理となってしまう。
イエスは、その通りだという。
そしてその罪を取り除く存在が「救い主」なのだ、といったのだ。
この論理は若干複雑だが、述べないわけには行かない。
<贖罪のメカニズム>
まず、人の罪を取り除くには、代償を造らねばならない。
そして、それは、罪のない存在が、死ぬべきでないのに殺されることによって造られる。
これを贖罪(しょくざい:代価を支払って罪を帳消しにすること)という。
人間には、そういう代価は造り出せない。
なぜなら人間はみな、「律法を犯している罪人」だからだ。
律法には「罪の報酬は死」という鉄則がある。
律法に反することをすれば、霊には死がやってくる~という意味だ。
そしてそういう霊の状態は、肉体にも反映するので、人間の肉体は放っておいても老化して死ぬ。
そういう「死ぬのが当然な」肉体が死んでも、罪の代償は造出され得ない。
霊に罪がない存在の肉体が、死ぬべきでないのに殺されることによってのみ代償は造出される。
自分(イエス)は創造神の子だから、人間のように罪を持っていない。
その自分が死を味わう(肉体が死ぬ)ことによって、代償は造られる~とイエスは言った。
また、そのことを信じて受容する人間には、それが実現して、罪が代償される。
その人の霊は、死後、天国に入って幸福の内に永続できる。
~イエスはそれをするのが真の「救い主」であって、それは旧約聖書に奥義として預言されていると、聖句解読をして示した。
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このようにしてイエスは、旧約聖書に預言されている救い主は自分であると教え、宣言した。
そして、その通りに殺された。
加えて、三日後によみがえって(復活して)、自分が罪なき存在であったことを証明した。
以後50日間にわたって、500人の人の前に現れた。
弟子たちには、追加の教えをした。
そして、多くの人の目の前で天に上昇していった。
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その後、イエスは愛弟子ヨハネに、「この世(宇宙)」が消滅する様と、天国の都の素晴らしい様子を幻でもって示した。
~以上が、イエスのわざである。
以後、弟子たちはイエスの教えを宣べ伝えた。
信じる人が急増し、教会が出来ていった。
<新約聖書の大枠>
新約聖書はそうしたイエスとその言動を巡る事柄の記述を集め編集したものである。
その大枠は次の四つと把握することが出来る。
第一は、イエスの生涯の言動記録。
(四本の伝記で、これを「四福音書」という)
第二は、弟子たちが教会を建てあげていく様の記録。
〔『使徒行伝』がそれである)
第三は、手紙によるイエスの教えの解説。
(これ自体が神学の理論知識になっている。神学とは聖句の論理的関連を見出す作業だからである)
第四は、世(宇宙)が消滅するまでの様子と、天の都の情景の幻の記録。
(天の都は創造神の存在を信じる者が入るところ。それは透明の純金で出来ている。
幻はイエスの愛弟子ヨハネに延々と与えられている)
<7部構成の教典書物>
これに、前述した旧約聖書の三つの大枠を加えると、合計7つになる。
これが示すように、聖書ではまず、モーセにこの世(宇宙)が出来る様の幻が与えられ、最後にこの世が消滅する様の幻が愛弟子ヨハネに与えられている。
つまり、この世の最初と最後、アルファとオメガが幻で示されている。
そして、世が消滅した後の天国の幻も、ヨハネに与えられている。
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天国は霊界で、創造神の意図と統治が貫徹する永遠の国である。
それは「この世」の本体であり、この世は「その影」に過ぎない。
またその影は、生成し消滅するひとときのものである。
そこで演じられるのは、永遠の世界である「天国」の一角での「一幕のドラマ」だ。
旧新合わせた全体としての聖書は、こうした永遠の本体世界と、一幕の影の世界のドラマを、両者を呼応させつつ、重層的に描いている。
また、それは全くの作り話ではなく、真理である可能性も持っている。
そして、その可能性を肯定する面から吟味していくと、その心理的可能性は通常、増大していく。
それが聖書の全体像である。