鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.178『天国での創造主の家』(12章)

2006年09月30日 | ヨハネ伝解読
                  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「とはいえその時にも、ユダヤ政府筋の人間には(イエスの話を)信じた者が数多くいた。
だがパリサイ派の僧侶を意識して彼らはそのことを公に現さなかった。会堂から追い出されるのを恐れたからである。
彼らは創主からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのだ」(12章42~3節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                  

~~聖句は前回と同じです。
 今回は、この政府筋の人間は、福音で言うところの「救い」(死後に天の創主王国に入れること)を
受けられるかどうかを考えましょう。

 これは、大きな問題ですね。マルティン・ルターの有名な「信仰による救い」からいくと、
彼らもまた、信じたのだから救われることになります。

                  

 けれども一方で、イエスは~~

 「信じてバプテスマを受けるものは、救われます」(マルコによる福音書、16章16節)

  ~~と言っています。
これによれば、救われないことになるようにも見えます。
彼ら政府権威筋はバプテスマを受けないだろうと思われますので。

だけどこれだけで断定するのも難しそうです。この聖句には続いて~~

   「信じない者は、罪に定められます」

 ~~とありますけれど、
「信じてバプテスマを受けないもの(信仰を表明しない者)」については、書かれておりませんからね。

                  

政府筋の権威者たちは、この「信じたけれどバプテスマは受けない」グループにはいる人々なんですね。
これはどうなるかをもう少し追求しますと、この「ヨハネ伝」12章の47節の聖句にぶつかります。
 
  「私の言葉を聞いてそれを守らない者を、私は裁かない。
わたしはこの世を裁くために来たのではなく、救うために来たのだ」(47節)。

 ウ~ン、ここに答えがあるようにも見えるんですね。
ここで私(イエス)の言葉を「聞く」というのは、「受け入れる、信じる」と言う意味でしょう。
「守る」というのは「それに従う(特に行為が)」ということでしょう。

 ここでは「信じていて、行いがイエスの言葉に従っていない人」については、「裁かない」といっています。
裁きというのは、最後の審判のときになされます。
この裁きを受けないというのは、「裁きをバイパスする」と解せます。
するとこの人は天国に行かれる(これがいわゆる「救い」)ことになります。

 これが聖書の論理であると春平太は解しています。

                  

 ただし、天国は広大な空間です。そこには創主の家があるということになっています。
天の創主王国に行かれても、その家に入れる人と入れない人とが出る、という思想を聖書は持っています。
すると入れない人は、「創造主の家」の外、門の外におかれることになります。

 どうも、信じたうえでそれに「(行動が)従う」かどうかは、
天国において創主の家に入れるかどうかを決めるものなようにみえるのです。
またそれは天国で「賞」を受けられるかどうかも決めるように思われます。

 ではその創主の家とはどんなものでしょうか。
「黙示録」(21章)には、天国にもエルサレムがあることが記されています。
地上のエルサレムは創主の家という想定ですよね。
すると、天における創主の家も、この「天国のエルサレム」ではないかと推定できます。

                  

 天のエルサレムについてはヨハネがその幻を見せられています。
地上のエルサレムは城壁都市ですが、天国のエルサレムも城壁で囲まれたは立方体の都市だと記されています。
それは四つの側面が宝石をちりばめた美しい城壁で囲われている、と。

 立方体の一辺の長さは、黙示録の記述から計算すると、日本列島の縦の長さよりすこし長いくらいです。
となると、面積も巨大ですが、高さがすごいですよね。日本列島を縦にした高さですから。


 (地上のエルサレムは、上方から見た四角形の一辺が約1キロメートルです。
天国のエルサレムの一辺は、日本列島以上の長さ。同じエルサレムにこれだけの差があります。
天の創主王国~天国~はそれを含むのですから、如何に巨大なことか・・・)


創造主の家は、そのように広大ではありますが、天国に入れた人の全員が入れるほどではないように思われます。
入れない人も天国でたくさん出るのではないか、と思われる。

ユダヤ政府筋でイエスの教えを信じた人々は、天国には入れるかも知れない。
でも、創造主の家には入れないだろうなあ、という感じですね。


                  
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Vol.177『ユダヤ政府関係者は多数信じたが』(12章)

2006年09月24日 | ヨハネ伝解読


~~出張から帰りました。
 仕事が終了後、2~3日、フーテンの寅さん的な気まぐれ寄り道をして遅くなりました。
ではマドンナは・・・、これがね・・・又機会あれば書きます。

 ヨハネ伝、続けますね。

                   

                 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「とはいえその時にも、ユダヤ政府筋の人間には(イエスの話を)信じた者が数多くいた。

だがパリサイ派の僧侶を意識して彼らはそのことを公に現さなかった。会堂から追い出されるのを恐れたからである。

彼らは創造神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのだ」(12章42~3節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



                  



前回、ヨハネは「イエスの奇跡を見ても(群衆は)信じなかった」(37節)といってました。

ところが「政府筋のユダヤ人はたくさんがイエス(の言うこと)を信じた」(42節)ともここで書いています。

 群衆と政府関係(僧侶、神殿の守衛など)の人々とは別のグループだととらえているんでしょうかね。

そうでないと筋が通りませんよね。

 ともあれ、政府関係の権威筋には、信じた人も多かったという。

この人々には旧約聖書の言葉が頭に入っています。イエスの話は、旧訳聖書の新しい解釈として説かれています。

だから話が知的に理解できた。理解できたから、そのうちの多くが信じられたんでしょう。

他方一般民衆は、そういう教養がありません。だからイエスの教えは理解がむずかしかったのでしょうね。

もちろん彼らのうちにも信じた人はいたでしょう。一時的には。

奇跡を見て、論理的には漠然としたままで信じた、というのはあったでしょう。

でもそれにはいわゆる「知」が伴っていないんですね。すると信頼心は長続きしにくいんですね。



                  


 なお、聖書は他のところで、イエスはそれを「権威を持って」教えた、といっています。

人々はこれを「権威ある新しい教えだ」といったと記録しています。

 ともあれ政府筋人間の信じ方には、比較的知的な確信がともなっていたわけです。

 ところがです。ところがヨハネは「しかし彼らは、そのことを口に出して言わなかった」(42節)と記しています。

そして「それは、(ありのままを)告白してシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)から追い出されるのを恐れたからだ」(42節)という。

 そうした彼らをヨハネはこう断じています。

 「彼らは創主の承認を受けるよりも、人間に承認されることを好んだのだ」(43節)



                  


 ~~こういう評価の仕方は注目しておくべきでしょうね。

ここでは「創主から見て正しいことと、世での正しいこととは対立関係にある」という福音の大命題が踏まえられているのです。

 これはイエスの教えのベースにあるものです。

ヨハネはそれを十分に身につけているからこういう評価が出てくるわけです。

 「天と世との絶対的対立」
 
 ~~この関係を踏まえないで、聖書を読んだら空しいです。気の抜けたビールのような味しかしないです。



                  

<信仰とは天の言葉が世の言葉に勝っている状態>


 それだけではありません。天と世とが絶対的な対立関係にあるという聖書の大原則は、一般にいう「信仰」(鹿嶋はそれを「信頼心」といいますが)の実体を鋭く正確に定義して
くれます。

 聖書を学ぶと、その人の心には「天の言葉」「天の論理」が入ります。

しかし当人はこの「世」に生きてきていますから、その意識には「世の論理」も存在しています。

結果的に心の中で両者が併存するようになるのですね。

 天の論理と世の論理とは重なるところもあります。だが、異なり、対立するところも多々あるのです。

そこで、聖書を学び始めた人の心にはまず、両者の対立が生じます。

この葛藤が苦しくて、聖書を止めてしまう人もあります。

 とりわけ日本ではこのケースが多いです。

日本は無常観を踏まえた知恵に充ちた国です。

それが「世に恵まれた人」には、まあ、百年くらいは楽しみを供給してくれるのです。

 日本での世の論理、世の知恵は多く、それによって成り立っています。

いつかは消えゆく人生、桜の花のように、美しく咲いて美しく散ろうぜ。

この意識をベースにした一瞬のきらめきの美しい文化が花開き、伝統として残されています。

これで百年くらいは楽しめるのです。



 ところが天の論理は永遠をベースにした論理なのです。

人間は永続するぞ、死んでおしまいではないぞ。わびしがる必要などないぞ。

永遠の美、永遠の栄光、永遠の幸福を確保しよう。

・・・天の論理が優越する世界では、この世の文化も、そういう意識から醸成されています。

 これのベースが本来日本人の心に全然心にフィットしない。

適合しません。

その隙間に、律法・道徳を守らねばならない、という「自己強迫観念」が入ってきます。

それで楽しくなくなって止めてしまうのです。



                  



 それでも教会生活にとどまる人もいます。

でも、この人たちがいわゆる「信仰」があるかどうかは一概には言えません。

聖書の言葉を「世の論理に合わせる」ような理解をするケースが非常に多いのです。

そうすると、一応、苦しさはとれますから。

 その典型的な例が、この世をよく生きるための知恵とか道徳知識として理解する方法です。

鹿嶋が道徳キリスト教というのは、それです。ニッポンの教会にはそれが多いのです。

なぜなら、牧師さんが教会員を増やしたいが故に道徳教をしますから。

 また、多くの教会がそうなりますと、牧師を養成する神学校もそれに合わせるようになります。

日本の権威筋の神学校には、そういう神学中心なところがとても多いです。

ニッポンキリスト教が絶望的なゆえんです。ホントにもう世的なんだから・・・。

 これは信仰ある状態とは言い難いです。

信仰とは当人の心の中で、聖書の天の論理が世の論理に「勝っている」状態をいいますから。

この春平太チャーチのコメンターの中に「石ころ」という人がいましたね。

鹿嶋はこの人の中に、聖書の言葉が世の言葉に勝っている状態を見ました。

「くりまん」さんにもそれを見ました。




                  



<「しるし」が現れる時>


 聖書の論理が世の論理に勝った状態になると、「しるし」は自然に現れるようです。

これは聖書の論理として当然なことですが、春平太はそれを事実としてたくさん見てきました。

奇跡が現れるのは論理的には簡単なのですね。天の論理が世の論理に勝つようにすればいい。

 春平太は信仰(信頼心)が余り強くない理屈屋です。

でも、それでも、天の論理が勝つ心理状態になるときがすこ~しあります。

そしてその時、「しるし」が現れる体験をスコ~シしました。

でも、すこ~しですけど、それは鹿嶋の聖句への信頼心を飛躍的に強めました。

創造神は間違いなくいる、昔も今も生きて働いておられる、という確信が突然深まりました。

もちろん、信仰の強い人に現れる「しるし」を観察した経験(これはたくさんあります)も信頼を強めてくれましたけど。


                  


 ともあれ、そういうことに気づくには、聖書では「天の論理」と「世の論理」が絶対的な対立関係にあることを知るのが先決です。

ヨハネはそれをここで示しています。

そして、この前提から世界を見ると、従来見えなかった真理と呼んで良さそうなものが、次々に見えてもくるんですね。

聖書の言葉は~~

「生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭い。

それは魂と霊の接するところを、また関節と骨髄とが接するところを切り離す。

それは人の欲求と心の思いとを判別する」(ヘブル人への手紙、4章12節)

~~という聖句があります。


そのことを実感できるようになります。

こういう入り口から聖句への信頼が高まっていくルートもあるんでしょうね。




                  






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3日ほど出張でお休みを

2006年09月18日 | ヨハネ伝解読

               

 19日(火)から3日ほど出張に出かけます(長野県へ)。
皆さんで、大いに議論を進めてくだされば幸いです。

                  鹿嶋春平太

                 

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Vol.176『奇跡は見える世界での「しるし」』(12章)

2006年09月16日 | ヨハネ伝解読



 ~~ヨハネ伝に戻ります。
 (が、前の臨時版の、コメントでの議論は続けてください)

                  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「イエスは彼らの前で多くの奇跡を行ったが、にもかかわらず彼らはイエスを信じなかった」(12章37節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                  
              
 次にヨハネは、「イエスが見せた奇跡を全て見ても、人々(の多く)は信じなかった」と記しています(37節)。どうしてこんなことが起きるのでしょうか? 奇跡は「しるし」にすぎないからでしょうね。霊的な世界の論理は見えないんですね。奇跡はそれ証明するためのものですが、所詮“見える世界で”示す「しるし」です。

 見えない世界そのものを、映像にして見せたりするものではないんですね。見えない世界を推測させる「手がかり」にすぎません。だから、推測できない人も出るんですね。そしてヨハネは、その推測出来ない人がほとんどだったといっているわけです。

                  


<すでに決まっていたこと>
 
 またヨハネは、そのことはすでに決まっていたことだと書いています。すでにイザヤが預言していたことだから、と。イザヤは、イエスがこの世に出現する500年以上も前の預言者です。

 「創主は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めて癒されることのないためである」という聖句をヨハネは引用しています。

 これはいまの聖書ですと、次の聖句が相当するようです~~

 「行ってこの民に言え。
   『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』
  この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
  自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために」(イザヤ書6章9~10節 )

                  
              
<イザヤは幻を見たのだ>

 そしてヨハネは~~

 「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって・・・」(41節)

            ~~と書いています。これがホントなら、預言には映像のような幻を見て、それを言葉に記録したものがあるのですね。 

                 
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臨時板:人生基本問題の相互会話素材として聖書を使う

2006年09月11日 | ヨハネ伝解読
                  


Sabiaさんのブログ(ブックマークにあります)で、ブログへの「のめり込みが」話題になっておりました。
それが家族との交わりを希薄にする反省等々の議論がなされていました。

 ブログ中毒といったような問題は前から指摘されてきました。
結構きめ細かな交信が出来ますし、手軽に自分の意見も発信できる。
それに対するコメントも来る。そういう交信行為は楽しいものなんですね。
現代通信技術の生んでくれた人類へのプレゼントでしょうが、楽しさの余り、入れ込んで、
職業生活・家庭生活へのエネルギー注入が希薄になることも起きるんですね。


                  

<信教が同じ人の間の交信は弾む>

 それに加えてSabiaさんのブログは、もうひとつの「入れ込み」要素を持っています。
そこでの会話のほとんどがクリスチャンの方々の会話であることです。
信頼する思想を同じくするもの同士の会話は、弾むものですよね。
価値観が同じだから、「言外の言」が解り合えて、ツーカーで意志交信できる。
それが楽しいからますます家族との交流が阻害され易くなる。

 もちろん、これは家族の他のメンバーがクリスチャンでない状況を前提としての話です。
クリスチャン・ホームだったら、みんなでブログの会話内容を話題にしたり、
そのブログを全員で眺めて楽しんだり、ということが出来ます。で
も、日本の場合、ほとんどの場合そういう状況ではないのですね。


<ブログでなくても起きる問題>

 この後者の側面は、ブログ交信でなくても発生しうることです。
家族の誰かがクリスチャンで、他がそうでないと、前者がどうしても孤立するんですね。
話が通じにくい。これが進むとまるで他人のようにさえなります。

 日本の場合、この問題が多そうです。
この問題の打開策はないものか、というのが今回の臨時版のテーマです。
皆さん、是非コメントをお寄せください。議論してください。

                  


<人間誰しもが持つ根底問題>

 とはいえこれは難しい問題なんですね。
そうした中で、春平太は、こんな方法で何とかならないのかなあ、という漠然とした夢のようなものを持っています。

 それは、「人間の根底問題を家族で相互検討する手がかりとして、聖書を使う」という方法です。

 人間には、だれしもが常時もつ、根底的な問題意識があります。
 それは「自分は何故存在するか、死んだらどうなるのか、存在する意義はあるのか、
何のために生きるべきか」等々の疑問です。
 これらを我々は通常、答えの出ないもの、問うても無理なもの、として意識の奥に追いやって暮らしています。
だから話題として家族で互いに語り合うこともありません。

 しかし、これを考える手がかりとして聖書を用いれば、
家族の間でも人生の基本問題を話題にする可能性が生まれないでしょうか。
討議の後、各々が自分の見解を抱けばいいです。共通の結論は出さなくていい。
そういう形で聖書を家族交信に利用することは出来ないものか、と思います。

 でも現状では難しいでしょうね。何が障害になっているのでしょうね。

                  


<成熟した手がかりがあれば>

 そもそもなにかについて「こんなこと話し合ってもムダだ」と思うのは、これといった成果が出ないからでしょう。
結論が出ないからではない。共通の結論が出なくたって、各々が一定の成果を手中に収められたら、
「ムダだ」と最初からやめてしまうことはないでしょう。

 では、一定の成果が得られないのは何故でしょうか? 
頼りになる「手がかり」がなんにもなしで始めるからではないでしょうか。
こういう膨大な問題は、ただ自己の経験だけを手がかりにして話し合っていっても、実りが少ないんですね。
各々がある程度の成果を得るには、やはり、これについて深く考えられた、
いわば成熟した手がかりが必要に思うのです。

 そして春平太は経験上、聖書はそれにとても適した手がかりになるとみます。

                  


<老いることのない世界が並行存在 

 この世は無常です。人は老いていきます。
だが、これに併行して「老いることもない」世界がいま現在もうひとつあるなんて。
こういうことを大まじめで述べている古典があるなんて。それを知るだけでも意識が変わってきますよ。
 
 おシャカ様は~

「生老病死は世界の本質だ、これから目をそらさず逃げず、
しっかりと心に刷り込めば心を動揺させることなく(涅槃をもって)生きられる」

~~と教えました。
対して、聖書は「生老病死のない世界がこの世に併行してあるんだよ」と大まじめで述べる極楽とんぼ・・・。

 また聖書は、「世界にはこの世を創造した存在がいるんだよ、人間はその方によって作られたんだよ」と
「自分はどうして存在するか」に対して、大まじめで答えます。
「何のために生きるべきか」に対しても、
創造主の意図を知れば答えは出てくるよ、それもこの本の中に書いてあるよ、といいます。

それを、うわあぁーと信じないで、考える手がかりにしたらいい。
そして各々その時点での自分の見解を抱けたらいいです。そういう風になれば、聖書は使えるでしょう。

                 



<信念をぶつけない>

 ただし、そういう使い方が出来るには、クリスチャンの家族員に一つの知恵がいります。
なによりもまず、聖書を一つの考え方の材料として、終始取り扱いつづける姿勢が必要です。

 このときとばかりに自分の信念をぶつけるように提示したら、他の家族員はつきあいきれません。
すぐに身を引いてしまいます。だって、それではもう手がかりの材料でなくなっていますから。

                  


<骨粗鬆症の信仰>

そんなことしてたら自分の信仰が固まらない、と心配になりますか。実はそうではないんだよね。

教理主義的に、一つの解釈(教理)だけにしがみついていたら、たしかに一見信仰は固いように見えます。
 だけど、それは信仰の表面が固いだけなんだよね。内側は骨粗鬆症の人の骨のように、粗になっています。
表面的には固いけれども、深さがありません。少し強めに押されると、崩れます。

信頼心というのは、表面だけではないんだよね。
人生の基本問題の手がかりとして使うこともできるくらいの「和らぎ」をもって聖句を検討していると、
奥が深まっていきます。骨が緻密で堅固になります。

 こういう聖句主義的な姿勢でやる方が、結局、信頼心も深くなるのです。

                  


<聖句主義の信頼心形成力>

 聖句主義にたってキリスト教活動を行っている代表が、米国のサザンバプティストというグループです。
米国には代表的な教派は15~20くらいを数えます。
そのなかで、このサザンバプティスト派だけで、世界に宣教師を5800人送っています。

 これは、米国から派遣されている宣教師総数の約6割を占めます。この一派だけで6割を派遣しているのです。

(世界中の宣教師総数のうち、米国から派遣されている人数は訳95パーセントといいます。
米国はこのようにまさにクリスチャン国なのですが、そこから派遣されている宣教師構成は上記のようになっています)。

宣教師一人送るのには、多額の費用がかかります。
彼の海外活動費だけでなく、給与を与え、さらには引退後に安定的に生活できるように年金も積み立てますから。
これを5800人も派遣するには、膨大なお金がかかります。
正社員5800人といえば大企業、この企業の給料総額だけでも想像してください。

 膨大なるその費用は、サザンバプティスト連盟という、宣教本部が与えています。
ではそのお金はというと、この教派の信徒が海外宣教献金として寄附(自由献金)しているのです。
この教派の人々がもつ、イエスの「教え」を世界の人に伝えたいという熱意の強さがわかります。
彼等の「教えへの信頼心」は米国内でも群を抜いて深いのです。

 この人たちは、聖句への教団としての統一的な解釈は決して作りません。
数人のスモールグループでの聖書研究会でも、結論めいたものは出しません。
グループリーダーがそれをさせないのです。

 結果的に、みんな自分ベースの見解を積み上げて帰ります。
いうなれば個々人が自分の見解を持って勝手にガチャガチャやっているのです。
そういう一見いいかげんな信徒生活を送っているように見えるこの人々の、教えへの信頼心が予想に反して抜群に深いです。
だから宣教に行くという者たちのためにダントツの金額を寄付するのです。

                  


<家族の調和と真の知力の向上に>

 今はまだ春平太の課題であり夢でもありますが、
この姿勢でもって聖書を語ることが出来るようになったとき、
家族で聖書を手がかりにして人生の基本問題を語り合う可能性が開けるでしょう。
信仰が家族を分けへだつことはなくなるでしょう。逆に、家族の調和が作られていくでしょう。

 またそれがなれば、家族の知的水準も根底からの上昇を開始するでしょう。
だって、意識のいちばん底にある問題をもやもやとさせたままで、上層部の訓練をしたって、
知力の向上力には限りがありますから。
短期的にはそれである程度ごまかしていかれるかも知れませんが、
長期的には骨粗鬆症のような知性しか出来ませんから。

+++

 その程度の知性でも、こういう平和な時代に個人が百年ほど波乱のない寿命を生きるには
まあまあ何とかいけるかも知れません。
だが、社会のリーダーとなって多くの成員の幸福をになうとなると、とたんに限界が現れます。
いま、日本の問題は、それなのです。

 国家政治ではとりわけそれが現れます。リーダーには深く広い知性が求められれます。
だが、それを身につける知的土壌がないのです。しかたないので、二世、三世政治家に頼ります。
彼等は例外的に、家庭環境の中で祖父や父の影響である程度リーダー学、帝王学を身につけていますからね。

 でも、そうでないリーダーが多いです。今の日銀総裁なんてひどいね。帝王学ゼロ。

~~長くなりました。
 Sabiaさん、夏の暑さに身体内の各機関(特に内臓)は戦ってきています。
少し涼しくなると、身体はそれを休めようとしますので、一斉にだるく、眠くなります。
上手に身体を休めてあげてくださいね。

                  

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Vol.175『もう譬えで語るしかない』(12章)

2006年09月09日 | ヨハネ伝解読



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「すると群衆はイエスに向かっていった。『わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでである、と聞いてきました。なのにどうして、人の子は上げられねばならない、とおっしゃるのですか。その人の子とは誰のことですか』」(12章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 

前回、イエスは「人の子が、上げられるとき・・・」といいましたね。それに対する人々の反応が今回の聖句です。これを考えましょう。

 ヨハネは~~それを聞いていた人々は「キリストはいつまでも生きる、と自分たちは教わってきた。なのにどうして上げられなければならない(十字架にかけられねばならない)といわれるのですか?」と質問した(34節)~~と記しています。さらに「一体、その人の子とは誰のことですか?」と尋ねた、と。

                 

 これは群衆からの質問です。イエスは依然、群衆に向かっての応答をしているんですね。すると、前のVol.163で春平太はイエスは『説教で教えるのはもうこれまで』と判断した、と解読したのと矛盾しているみたいですね。

「教える」というのを、イエスが語ること全部だと考えると、そういうことも言えるでしょう。しかし、春平太は、このあたりはもう「教えている」のではない、と見ています。

 イエスのふるさとガリラヤ出身のギリシャ人たちが、同郷のピリポに「イエスに合わせてよ」と頼みましたね。エルサレム参りの記念というか土産というか、そういうものとしてを欲しがったときに、イエスはもう群衆に「教える」のはこれまでと判断した。

 理由は、ラザロを生き返らせたことを契機に、イエスは全国区人気の「時の人」に一気になってしまったことにあるでしょう。その勢いは自民党首相候補の阿倍晋三なんてもんじゃない。死後四日たった死人を生き返らせるという、センセーショナルな事件の口コミが広がってウナギのぼりになった人気です。

 もう、人々の大半は学ぼうという意識を持っていません。珍しいもの見たさで集まってくるのです。

 これを見たイエスは、もう、「教える」ことをやめた、というのが春平太の見方です。後の話は、これから起きることを預言しているのみ。言葉を発しているのみ、とみます。
弟子たちには別でしょうけどね。

 だから、群衆が「その、上げられる人のことは一体誰のことですか?」と問うても、イエスはそれには答えないんですね。「それは私のことだ」などとはもういわない。それはもう何度も言ってきたことです。そこまで言ってわからなかったら、「実はそれは私です」と言っても、無駄なんですね。理解できない、信じない。

<たとえだけを語る>           

 ではどうするか。イエスはこれから先の話をします。「もうしばらくの間、光は諸君と共にここにある」と(35節)。

 これはたとえ話です。その意味はあとからわかるしかない、それもわかるものだけだろうが、という姿勢です。

 で「光の中を歩きなさい。闇の中を歩くと、自分がどこに行くかわからないのだから」とか、もう、それ自体としては当たり前のようなことを言います。イエスはその光でもって、自分のことを喩えて言っているわけですが。

                 

 締めくくりに「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」(36節)という。

 これは「私(イエス)が諸君の前にいる間に、創主の子となるために、私が創主の子であることを信じなさいよ」という意味です。(ここまで言ってわからないものは、もうどう言ってもわからないんだから・・・)というのが、その心なようです。

 我々にも「ああ、もう、この人は、どう説明してもわからないんだ」とはっきり見えてしまうことがありますよね。今流に言えば、「感性がついてきていないなあ」とでもいうか・・・。

 我々の感覚ではもう嫌になってしまう、というところです。けれども、イエスはそれでも、後にわかる人にはわかるという比喩の方法で語りを続けていたんですね。これはなかなかむずかしいことです。

<イエスにも「ハイ、それまで!」がある>     

 ヨハネは、「イエスはこの話をしてから、身を隠してしまわれた」といっています(36節)。やっぱり、もうこれまで、ということだったんでしょうか。

 イエスにも「もうこれまで」と、見切りをつけることはあるようです。この論理は知っておくべきでしょう。イスカリオテのユダに対しても、後にそれが出ます。最後の晩餐の時、彼の口に、イエスがソースで浸したパンを与えるのがその時です。

 この時から、もうユダは悔い改めてイエスの元に返ることは完全に出来なくなります。後戻りしようとしても、身体が動かない。信仰者の読者には、「怖いなあ~」というところですね。

                   



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Vol.174『全ての人を私に引きつける』(12章)

2006年09月07日 | ヨハネ伝解読


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=聖句=
 「そして、わたしが(イエス)この地から上げられるときには、全ての人を私に引きつけます」(12章32節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                  

 聖句は前回と同じです。
今回は、「全ての人を私に引きつけます」(32節)の意味するところを考えます。

 これは、詳細に見ると、結構考慮すべきことがたくさん出てくるんですね。
まず、「この地から上げられるときには」の「とき」は、どういうときかです。
「上げられたまさにその時」なのか、あるいはもう少し広く「十字架に上げられるとき以後」という意味なのか、です。

 前者の「十字架に掲げられたその時」ですと、それ以後については論究していないことになります。そうすると比較的意味が浅くなるように感じます。イエスが言うのは通常もう少し深いことですから、ここではまず後者の「十字架に上げられてからは」と解しておきましょう。

                  


<「イエスの名のある圏内に」ではない>
 
 そうしておいて「引きつける」の意味を考えます。

一つの解釈は「私(イエス)の名のある領域に吸引してしまう」というものです。
これではなさそうですね。もしそうだと、全ての人を「その領域に入ってしまう」つまり、イエスを受け入れてイエスの側に入ってしまうことになります。そうなればみんな聖書用語でいうところの「救い」を受けてしまうとことになります。

 すると、イエスが十字架死をした段階で創主の描いたドラマは完了、めでたしめでたし、となりますが、実際にはそうなりません。イエスの死後、弟子たちは伝道に踏み出します。そして、多くのところで迫害を受け、大半が殉教(教えに殉じて死ぬこと)していきます。

 ということは、迫害する人はなくならないと言うことで、この人たちはイエスの側に引きつけられていない人ですからね。

                  


<人の意識を引きつける>

 ここはやはり「関心(意識)を引きつけられるようになる」と解すべきでしょう。注意を引きつけられるといってもいい。アテンション・プリーズのあのアテンション、これを引きつけるわけですね。

 すると、イエスの領域に全ての人が入ってこなくても、~~「世」の側に留まる人がいても~~彼らも含めてみんなが十字架にかけて掲げられたイエスという存在に注意を向けるようにはなる、という意味になります。

 これは事実に沿っています。後に人々はイエスがどういう人か、詳しく知らなくても、とにかくみな、その名と十字架は知るようになります。そして少なくとも「悪い人ではない」、というイメージくらいは持つようになりますから。

                  

<田舎の村の一青年>

 「なぁ~んだ、その程度のことか・・・」とお思いですか。いや、よく考えてみると、これは大変なことなんですね。普通では起きえないことです。

 考えてみてください。イエスは一介の、それもナザレという村の田舎の若者です。大工の倅ですよ。これがエルサレムの都に来て、神殿の中庭で構造改革を説き始めました。伝統あるユダヤ国家宗教の構造改革を始めました。政府筋のユダヤ教僧侶たちやその信仰者たちの聖書解釈は、根本的に間違っている~~とイエスは説きだしました。

 ても、普通なら、誰が注意を向けますか。ああ、また政治マニア、宗教マニアが自説をぶってるなぁ・・・と、大半は横目で眺めて忘れていっておしまいです。

                 

<奇跡は行ったが>

 もちろんイエス青年は次々に癒しをはじめとするしるしを現しました。それはユダヤ人の思想では、創造主でしかなしえないものでした。一定の人々は創主が彼と共に働いておられると判断するようになっていきました。

 しるしは続きました。イエスのいうことを真理だと受け入れる人は増えていきました。社会的に地位も権力もなく、情報メディアにも恵まれない人が、自説に注目させる方法は奇跡以外にありません。しるしというものが伝道にいかに有効であるかを、ここはよく示しています。

 このようにして、イエスの教えは広がり始めました。しかし、これはユダヤ国家内だけのことです。

 これを超えてギリシャへ、ローマ帝国へと広がるのは、使徒たちの宣教活動が成功してからです。だがそれでも紀元後2世紀の歴史家は、イエスのことをほんの一寸述べているだけですよ。「一部でキリスト教徒活動というのも行われているけれど、これは、イエスとか言うのが十字架で殺されて、その教えを弟子たちが 宣べ伝えているようだ」といったような程度です。

 それでも希なことなのに、これがイスラエル社会、ギリシャ・ヨーロッパ社会を超えて、広く全世界の人類のアテンションをうるのは大変なことなのです。

 いま、キリスト教圏の人口は、全人類の33%を占めていて第一位です。第二位はイスラム教で20%。三位はヒンズー教の13%。仏教は四位で6%です。

 そして見逃すべからざるのは、キリスト教圏以外の67%の人々も、ほとんどがイエスの名と十字架については全く知らないことはない、ということです。よく知らなくても、十字架のネックレスやイヤリングを付けたりしている。全ての人の意識が引きつけられるに至っているのです。

 愕くべきことです。そういう結果だけでも愕くべきなのに、イエスは上記の聖句で、まだ十字架にかけられる前に預言しているのですね。

                  

<小泉改革は国家権力使って行ったもの>

 ついでに付言すれば、小泉純一郎さんも構造改革を叫んで、日本全国で注目されました。だけど、かれはイエスのように田舎の村の一青年として叫んだのではありませんよ。国家の総理大臣としてその権力を使いまくって改革をやり始めたんで、マスコミも、連日それを報じました。

 それで注意は引きつけたのですが、それだって日本国内だけのことですよ。またこの構造改革は百年もしないうちに忘却されていくでしょう。イエスの名と十字架はこれからも人々の意識を引きつけ続けるでしょう。

                  

 なぜそうなるのか?
 それは、これからヨハネが示していくでしょう。
 楽しみに読んでまいりましょう。

                  

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Vol.173『イエスがこの地からあげられる、とは?』(12章)

2006年09月06日 | ヨハネ伝解読





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=聖句=
 「そして、わたしが(イエス)この地から上げられるときには、全ての人を私に引きつけます」(12章32節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 


「いま(悪魔が)追い払われる」(31節)に続いてイエスが言った、とヨハネが記しているのが本日の聖句です。

 「私がこの地からあげられるときには、私は全ての人を私に引きつけます」(32節)。という。

 これについては、著者ヨハネ自らが括弧付きで説明を加えています。

 (イエスはこう言って、自分がこれからどういう殺され方をするかを示唆したのだ)33節~~~と。

                


彼がこのように書く箇所は少ないです。なのにここではどうしてわざわざそうしたのでしょうか。一つには、「この地から上げられる」というのは、後に復活して天国に昇ることを言ったと解釈される可能性が高いからでしょう。ヨハネは、ここではわざわざ「そうではないよ」、と注記しているわけです。

 すると、残るのは「十字架に付けられて高く上げられる」ことになります。こうして殺されることを、イエスは前もって言っていた、ということを記録しているわけです。

 前回書きましたように、イエスの「十字架死」は「世」の構成が変わる転換点です。以後悪魔は「従来のような」世の君主としての権を持ち得なくなる。闇の中に光の領域が出来る。偽りの中に真理の領域が出来る。死の中にいのちの領域が出来る~~という転換点です。

 そして、イエスはこのとき「全ての人を自分に引きつける」という。これについては次回に考えましょう。

                 


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Vol.172『イエスの名のある領域が悪魔の権が及ばない世界に』(12章)

2006年09月03日 | ヨハネ伝解読


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=聖句=
 「いまこれからはこの世が裁きを受ける時です。
この世の君が追い払われます」(12章31節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 


 前回の続きです。今回は「いま(悪魔が)追い払われる」という聖句です。

                 


 これもまたむずかしいところですね。
悪魔は、この世(宇宙)から追い出されていなくなってしまうのでしょうか?

 そうではないはずですよね。だって、天国の一角にこの世(宇宙)があるわけですから。
そこから追い出されたら、行くところは天国という空間しかありません。
それだったら、悪魔は天国に居場所を変えるということになってしまいます。
これではおかしいですよね。
天の創主王国は、罪なき者だけが入れるところだから。

 悪魔はイエスを十字架刑でもって殺し、
創主に敵対する存在という証拠が現れて、容疑者でなく有罪者となってしまった後にも、牢屋(宇宙)の中にいます。
残るのは刑の執行のみ、となった状態でこの世にいます。
その状態で追い払われる、というのはどういうことでしょうか。

                 


 後の17章も先取りして結論から言いますと、悪魔は「イエスの名のあるところから追い出される」ことになるという論理だと思われます。
イエスを殺して創主に敵対する存在であることの証拠を出す以前は、悪魔はイエスのいる身辺にも出没できていました。
イエスが捕らえられたり拷問を受けたりしている頃には、思いっきり身辺で働いています。

 しかし、裁きが下って有罪が確定し有罪者となったら、もう何食わぬ顔してイエスの近辺には行くことが出来ないのでしょう。

 だが、そのイエスは天の創主王国に昇天してこの世にいなくなります。
それではまた以前と同じではないか、と思われますが、さにあらず。
イエスは自分の代わりに「イエスの名」を残します(後の17章)。

そしてイエスの名のあるところには悪魔が入ることは出来なくしていきます。
このようにして、イエスの近辺から悪魔は追い払われることになる。
これが「この世の君が追い払われる」の意味だと思われます。

以後、イエスの名のあるもとでは、真理も栄光も存在することになります。
人はこの領域に身を置くことによって、悪魔の支配・影響を受けなくなることが可能になります。
しかし、イエスの名のないところでは、この世の状況は相変わらずです。そこには悪魔の支配があり、死、偽り、闇が相変わらずあります。
悪魔がイエスを殺した後には、この世(宇宙)はそういう二重構造になるわけです。

                 

けれども、そういうイエスの教えを聞く機会がない者、あるいは聞いても受け入れない人にはそんなことはわかりません。
そういう「彼らにとっては」この世は従来通りのもの、何も変わっていないものにみえる、でしょう。
したがって彼らはイエスの名のもとに入ろうとしません。
そんなこと、考えもしない。

 そこで悪魔には、人間をなるべく多くそのような状態に置く、という手段が残ります。そういうふうに世を見るように人間を騙すという道は依然として残るわけです。
 有罪の裁きがなされた後の現代にも、悪魔は、真理を受け入れさせないように騙すということが出来る。
「欺し」こそが今日の悪魔の最大の武器というのが聖書の思想だと思われます。


                 


この12章の時点ではイエスは、「すぐこれからそういう世になるよ」といっているわけです。
私が十字架で殺される瞬間にそうなるよ、と。
この解読が妥当ならば、すごい論理ですね、福音というのは。
微妙でむずかしい論理ではありますが・・。

そして今の世を生きる人間にとって、なんと有り難い知らせでしょうか。
これは「死後の救い」に関するニュースではありませんよ。
混同したらいけない。
短い期間ながら、我々がこの世を生きている間に、悪魔・悪霊の影響から避難できる方法・シェルターがいまつくられるよ、というグッドニュースです。


                 

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