鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

vol.67『父なる創主と私(イエス)とは同一なのだ』(5章)

2005年02月26日 | ヨハネ伝解読


 「ヨハネ伝解読」5章が続きます。

 いよいよイエスは、自分がどういう存在であるかを語り始めます。まず、

 「自分は父のなさることを見てその通りにしているのだ」と言います(19節)。

 これはすなわち、自分と創主とは同一だといっているのです。この際の同一とは、姿形が同じという意味ではありません。その思い、意識状態が同じということです。それを「一体」と言うことでもあります。そういう同一なのです。

 そこでーーー

 「子なる私を敬わないものは、父を敬わないことにもなる」(23節)

      ーーーという言葉も出ます。そういうことになりますよね、創主とイエスとは同一であり一体だというのですから。

      @      @      @

 続いてイエスは、「自分は一人では何事もすることは出来ない」、といいます。「裁き」をするときも、父が伝えてくださるとおりそのままに裁く。そういう同一なのだ、と。

 イエスの行う裁きも、その意味において正しいことになります。聖書でいう善とは、つまるところは創主の御旨(みむね)にかなったことであり、悪とはかなわないことです。

 だから、これは文句なく正しい、となるわけです。人間の証言などで裏付けする必要など全くない特別なものなのです。

      @      @      @

 するとイエスの行う癒しはどういうことになるのでしょうか。

 聖書では、癒しは「いのち」というエネルギーが患者に流れ込むことによって起きるという論理に、物理的イメージとしてはなります。そのエネルギーはどこから来るか。それは人の子の姿をとってこの世にきているイエスそれ自体から発しているのか。

 そうではない、ということになります。

 聖書の思想では、「いのち」は父なる創主から放射されているものです。それが、人の子イエスにそのまま流れ込み、そしてイエスはそれを患者に放出している、という図式になります。

      @      @      @

 どうしてそんなことが可能になるか。
 
 父と子の間に愛があるからとなります。イエスはーーー

 「父が子を愛して、自らなさることの全てを、子にお示しになる」(20節)

    ーーーといいます。それが創主からのイエスへの愛を示しています。そして、「人の子」イエスの方も、やはり全身全霊を込めて、創主を愛しているのです。

 愛の本質とは、意識における同一化であります。一体化といってもいいでしょう。

 父なる創主とイエスとが互いに愛するということによって、一体化しているのです。すると、両者の意識波動も同一になる、という図式です。

 だから、いのちエネルギーもロスがほとんどない状態でイエスに流れ込んで来るというイメージに、物理的にはなります。その強烈なエネルギーをイエスはそのまま患者に放射して、癒しもしているという図式です。
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Vol.66『私は安息日を定めた創主の子なのだ(5章)』

2005年02月24日 | ヨハネ伝解読


 「ヨハネ伝解読」、5章に入ります。
ここで、ひとこと断っておきます。

 これは鹿嶋春平太流の、ヨハネ伝解読です。
 みなさまは、それを一つのガイドとして、自分の納得する解釈を得るための手がかりとしてご利用下さいますことを。

      @      @      @

 聖書は、特に細部においては、多様に解釈できる余地を持っています。そして、それぞれに一定の筋が通る解読を可能にしてくれます。

 もちろん、これこそが正解、という究極の解釈はあるでしょう。我々がみなそれに到達することが出来れば、解読は正統なもの一つ、となるでしょう。

 しかし、それは人間には到達できないもの、と春平太は思っています。もしも、人間の寿命が1万年くらいあったら、その可能性も出るかも知れません。しかし、各々が、たかだか百年くらいしか生きられない現状では、それは望むべくもありません。

 その結果、我々人間は、究極の正解に至る途中の解読でやっていくことになります。かくして、人間は一冊の聖書から、各々がA,B,C,D,・・・と、異なった解釈を見つけ出します。社会的に見ると、複数の解釈ができあがっていることになります。

      @      @      @

 それでいいのか?

 いいのです。各々が、究極の正解を求めて解読の努力をしていけばいい。そうすれば、その過程で、沢山の知恵、知識が副産物として得られていきます。これらが各々に、知恵を与え、時にはしるしと不思議の力を与えていきます。

 細部における解読が異なる人々に対しても、そのおのおのに知恵と力が与えられます。聖書はそういう本です。だから、各々が自分の頭で、その時点で自分の納得できる解読をすればいいのです。

 いいだけでなく、そうすべきです。

      @      @      @

 では、ここで示されている春平太の解釈はなにか?

 それは、読者が納得のいく解読を得るための、一つのガイドと思ってくださればいいです。

 これを手がかりにして、ご自分の解釈を得て行かれたらいい。そのために、一定のところまで聖書の「読み込み」を案内できたら、春平太としてはベストです。

 また、ある聖句に関しては、春平太の解読に全く同意できる、という場合もあるでしょう。その時には、それをご自分の解釈とされたらいいです。

      @      @      @

 くれぐれも、次のようなスタンスで聖書をお読みにはならないように。

「読むからには、学ぶからには、究極の正解に至らなければならない」というスタンスで。

 こう思うと、人は萎縮します。意識が、思考が自由でなくなります。自分の考えていることが間違いではないか、とびくびくします。これがいけないのです。これは避けねばならないのです。

      @      @      @

 百年くらいしか生きられない人間には、聖書解釈の究極の正解は得られません。少なくとも、これまでそうでした。

 世界にはキリスト教の教派、教団がたくさんあります。それらの多くは、教団の「教理」というものを持っています。それはその教団が、「これこそが正解(正統)」としている解釈です。

 もし、それが実際に究極の正解でしたら、教派は複数に分かれることはないでしょう。みんな同じ教理を持つことになる。同じ教理を持つことになれば、それらは一つの教団として合同するはずでしょう。

 ところが、実際には、たくさんあり続けています。そのことが、人間には、究極の正解には至れない、ということを証明しています。

      @      @      @

 人間には、究極の正解には至れないのです。だから基本的には、各々が、自己の納得できる解読をしていっていいのです。

 そして究極の正解に至れるのではないか、という思いを捨てて下さい。それは、かえって自分を萎縮させる危険な要因になるのです。


****

 では、鹿嶋春平太流、「ヨハネ伝解読」。
 今回より五章に入ります。

 ここもヨハネならでは、の章です。全編にわたってそうですが、とりわけそうです。

 イエスはここで、自分と万物の創造主との関係を詳細に説明します。
 ヨハネはそれを、鮮烈に記憶していたのです。

      @      @      @

 ヨハネはまず、38年間の長きにわたって、脚萎えのため歩けなかった人を、一言でもって癒してしまう場面を描きます。それ自体は、ヨハネが何かを言うためではありません。

 問題はこれをイエスが、エルサレムの神殿の中で、安息日にやってのけたことです。

 それで、ユダヤ教の僧侶たちが異議を唱えて論争になるのです。「安息日には誰もなにもしてはいけないと書いてある」、と彼らは旧約聖書を理解していたからであります。

      @      @      @

 ところが、イエスは、自分をその「安息日を定めた創主の子」だと考えているのです。

 そして~~~創主は安息日にも働いておられるのだ。そこで、自分も働く。あなたたち人間とはとは違う~~~という。それを、当たり前のように言ってのけます。

 これはもう、僧侶たちには理解しようがありません。彼らはだから、二重の意味で怒ります。

 安息日の掟を破ったということが第一。
 自分を創造主なるゴッドと同一な存在といったこと、が第二です(18節)。

 とりわけ後者、日本流に言えば「自分を神だと人間が言うこと」は、大変でした。これは創主を冒涜した罪になるのです。

 これはもう罪の極致であって大変なこと、となるわけです。
 だが、イエスは一向にかまわない。この機会を捉えて、自分がどんな存在であるか、を語っていきます。
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<第四章のまとめ>

2005年02月24日 | ヨハネ伝解読


 「ヨハネ伝」第4章は「サマリアの女」の章としてよく知られています。
けれども、イエスの教えに関してみますと、第三章に同じく、「いのち」について教えているところと見られます。

 聖書における「いのち」というのは、物理学におけるエネルギーのような概念だと理解するのがいいと春平太は思っています。だから「いのちエネルギー」と言い換えることをよくします。

 このエネルギーは、霊を充電して、活性化するエネルギーです。これが充電されると、霊は新しいエネルギーを得て新しく生まれます。これが英語で言う「ボーン・アゲイン」です。

 第三章では、ニコデモというユダヤ教の僧侶に対して、イエスはその意味での「新しく生まれる」ということを語りました。サマリアの女にも、同じく、「いのち」の水を教えています。井戸に水を汲みに来たので、その水と比べて、イエスは「いのちの水」といったわけです。

      @      @      @

 4章の後半では、イエスの口から発せられた言葉には、実在は従う、という事例が提示されています。ローマ帝国の高官の「息子が死にかかっている、助けれくれ」という願いに対して、「あなたの息子は生きる(回復する)」という言葉をイエスは発しています。

 息子のところに出向かないで、言葉だけを発しています。実は、聖書には、創造主から発せられた言葉には、現実・実在は従う、という命題が隠されています。これは聖書を貫く大命題でありまして、そもそも創世記の最初からそれが示されています。

 創主が「光あれ~」というと光が出現した、というのがそれです。以下、創主の創造のみ技は、みな、言葉を発することによってなされています。

 しかし、ヨハネはここで、そういう説明はいたしません。説明なしで、ただ、一つの事件としてこれを記録しています。そして、4章が終わっています。

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Vol.65『これは二番目の奇跡(4章)』

2005年02月17日 | ヨハネ伝解読



 今日は4章の最後です。

 役人の息子を、別の村でもって言葉を発するだけで癒したこの奇跡について、ヨハネはこう記しています。

 「これはイエスがエルサレムのあるユダ地域からガリラヤ地域に戻ってなされた2番目のしるし(奇跡)だ」、と。

 一番目が何だったかは記していない。
 だったら、言わなければいいのに?

      @      @      @

 そんなことありませんよ。これによって、我々読者は、ヨハネがイエスにぴったり付き添っていて、自らの目で見たことを記録していることを知ることが出来るのです。これが他の3つの福音書とは違うところです。

 前述のように、他の福音書は、取材して書かれています。聞き込んでいって、たくさんの人が、私も見た、私も見た、と証言したことが沢山書かれています。それらは共観福音書と言われています。多くの人が「共に観た」ことを書いた、という意味でしょう。

 こういう記録書は、客観的ではありますが、相応の限界も持っています。人の証言によるものには、大枠では正しいのですが、細部においては不確実なところがつきまとうのです。

 この点ヨハネはそうではありません。彼の福音書は直接の目撃者自身が書いた記録です。そこにはそういう著者の目線が感じ取れます。

 ですから、福音書によって、同じ場面で違う記述があるところでは、我々はヨハネ伝の記述を参考にすればいいです。これが最終的に正確なものだとして、それを踏まえて解読を進めることが出来ます。

 このことは、聖書の論理を追うものにとって、本当に有り難いことです。

      @      @      @

 けれども、注意すべきこともあります。ヨハネ伝には、著者の視点を見せないようにして書かれているところもあります。

 この4章の前半に記された「サマリアの女」の話もそうだとみられます。
 
 ヨハネは、イエスが彼女に会ったとき、「弟子たちは、食べ物を買いに町に行っていた」(8節)とわざわざ書いています。だったら彼は、イエスとこの女との会話を、どうしてあんなに克明に書けたのでしょうね。そういうことになりませんか。

 でも、書いている。彼はイエスと一緒に井戸のそばにいたからでしょう。彼だけでなく、ペテロとヤコブあたりは最低限イエスをぴったりガードしていたのではないでしょうか。

      @      @      @

 ペテロはボディーガードだったかも知れません。が、ともかくヨハネはイエスが最もお気に入りの、いまでいう社長の鞄持ちでした。

 だから、「弟子たちは町に行っていた」と言うときの弟子たちには、彼は入っていないのでしょうね。ここは、「全ての弟子たち」と書いていないところがミソですね。

 「誰々をのぞいて・・・」と書けばいいのに・・・。しかし、彼はそう書かないですね。むしろ、自分を隠して書いている。その結果、イエスが一人だったかのようになっています。

 これに引っかかって、この場面を解釈をしている例を春平太は沢山みてきました。映画でも、ここをイエスと女の二人だけの場面として描いていたものを見た記憶が、春平太にはあります。

 それでしたら、ヨハネは、この場面を書くとき、サマリアを再訪して取材したことになるでしょう。だが、そんな時まで、このサマリアの女はいたでしょうかね。5回も結婚していたのですから、イエスと会ったときには、すでにかなりの年齢になっていたと推定されます。他方、ヨハネ伝は、著者がず~と年老いてから書かれているのです。

 ヨハネは、イエスと女との会話を、一部始終見ていた。聞いていた。それを思い出して書いているのでしょう。

ーーー以上で4章を終わります。
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Vol.64『預言者は故郷で受け入れられず(4章)』

2005年02月16日 | ヨハネ伝解読


 ヨハネ伝の聖句に戻りましょう。

 イエスは、サマリアの村人たちの願を受け入れ、そこに2日間滞在しました。ヨハネは記していませんが、彼らの熱心な求道心に応えて、じっくりと教えを解いたことでしょう。その結果、村人たちはサマリアの女にこういうようになっています。

 「私たちが信じるのは、もう、あなたが話してくれたことによるのではない。我々は自ら親しく聞いた。そして、この方こそまことの救い主であることがよくわかったのだ」(42節)と。

      @      @      @

 この言葉から、イエスはここでは奇跡を行わなかった、ただ、教えを説き続けただろう、と春平太は推定します。サマリア人は、元々はユダヤ人であったのですが、その混血度の大なるが故に、異邦人とされてきた人々でした。

 ところが、こういう人たちの方が、福音(イエスの教え)を素直に受け入れているのです。人間って、そういうものではないか、と思われます。

      @      @      @

 ヨハネは、これに続いて、対照的な事態を記しています。2日後にサマリアを立って、イエスは、自分の故郷であるガリラヤ地方に戻ります。ここは純正ユダヤ人地域です。そのときイエスは

 「預言者は自分の故郷では尊敬されないものなのだ」(44節)

         と明言しています。

 ガリラヤでは、みんなイエスの帰りを待っていました。けれども、それは、エルサレムの祭りでイエスが多くの奇跡をしたことを見たからなのです。

 イエスがそれを見透かしていたことを、ヨハネはわかっていたのです。だから、このせりふを記録したのでしょう。

      @      @      @

 イエスはさらに、同じ地域のカナという町に行きます。ここはかつてイエスが婚礼の祝宴に呼ばれて、水を葡萄酒に変化させたところです(第2章)。

 今回、そこには、役人が待っていました。息子が病気だからなおしてもらおうと、イエスの来るのを、カペナウムから出向いて待っていたのです。

 頼まれたイエスはこういいます。

 「ここでは奇跡を見ないで信じるものは、誰もいないんだなぁ・・・」(48節)。

 役人はかまわず言います「主よ、是非、是非カペナウムまで来てください。子供が死んでしまいます」

 こうすがられると、見捨てることは出来ないのでしょう。イエスは

 「行きなさい。あなたの息子は回復する」

         ーーーと言います。

 イエスから言葉が出ました。すると現実はそれに従う、というのが聖書の論理です。これは隠れた論理ですけれども、鉄則です。だから、まさにその時点に、カペナウムで病に伏していた息子は回復してしまうのです。

 しかし、イエスはこの言葉を吐き捨てるように言ったのかも知れませんね。でも、とにかく、治っちゃった。そして、役人とその家族一同は、イエスを信じるようになった、とヨハネは記しています。癒しというものが、教えを確信させる力は、強いものなんですね。
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Vol.63『正典聖書確定もカトリックがまいた種(4章)』

2005年02月16日 | ヨハネ伝解読



 カトリック教団が播いた種は他にもあります。、正典聖書を編集し、それを正典として確定させたこと、がそれです。

 数多くある書物や手紙の中で、正典に入れるべき信頼の置けるもの選び出すのは大変な作業です。それを全国的一大事業として行うには、全国から代表的な司教を一堂に会させて、公会議を持たせなければならないのです。これは、ローマ皇帝という国家権力の援助があってはじめて出来たことでしょう。

 作るだけではありません。
 さらに、それ以外のものを聖書として使うことを禁じて、そのまま一定の歴史が流れるようにしなければなりません。

 こうして、一つの伝統にしてしまってはじめてそれは社会の中で安定した正典聖書となるのです。こういうことローマという一大国家権力の後ろ盾があってこそできることでした。

      @      @      @

 のちに宗教改革者は、聖書にこそ最終権威があって、法皇にあるのではないという主張を展開します。そして、この点での基本理念を異にした教会を造っていきます。これがプロテスタント教会です。

 けれどもよくみるとこれも、正典の聖書というものが確定していたからできたことなのですね。その正典聖書という種はカトリックが労苦してまいた。それを用いて、宗教改革者は、聖書に最終権威を置く信仰を刈り取ったのでした。

 「一人が播き、別の者が刈り取る」ーーー人間は、イエスのこの教えが真理であることをなかなか悟れません。

 だから、カトリックでない信仰者は、今日では、カトリックをはじめから真っ黒の極悪集団のように言うことが多いです。将来、プロテスタントに対しても、別の立場の人が同じように言うことがあるのではないでしょうか。こうして人間は、同じことを繰り返して歴史を展開していくのでしょうか。

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Vol.62『カトリック教団、イエス神性論の種をまく(4章)』

2005年02月12日 | ヨハネ伝解読

 「播く人と刈り取る人とは別になる」ことをイエスが「真理だ」と言っていることには留意すべきです。真理というのは「いつの時代でも変わらずそうであるもの」という意味の言葉です。

 ビルゲイツも、他人の播いた種を刈り取りました。巨万の富を築きました。これはまことに真理であるように思われます。

 これに関連して、いろんなことが考えられます。春平太が思うひとつは、人間の能力というのは歴史的に見ると部分的で有限な働きしかできないものだ、ということです。

      @      @      @

 その時点では、当人がそれこそすべてと思って、やっていることがよくあります。ところが、歴史が過ぎて振り返ってみると、実は部分的な仕事をさせられているにすぎないことが多いです。

 福音伝道のためからすると、結構マイナスになることをしていても、それが他面において、後々に種としてプラスの役割を果たすようにもなっている、ということもあります。刈り取れなかったが、播く人としての機能は果たしたというようなことが。

      @      @      @

 カトリック教団のしたことについて、そういえそうな事例があります。

 いま現在ではカトリックと言えば、そのなしてきた信仰上の悪行が少なからず連想されるようになっています。プロテスタント側の人によって、そうした事柄が取りざたされてきたからでしょう。

 だが、よくみますと、問題視される行為のほとんどは、392年に国教になってからなされています。国家権力をもち管理者の側に立ったことから来ている。

 (ここではまだ詳論できませんが、聖書信仰というのは、「世」の権力の側に立つと、イエスの教えた本来のものから徐々に離れて変質していく傾向を持つのです。)

      @      @      @

 カトリック教団では、公認宗教(313年にコンスタンチヌス帝が決定)の時代には、結構プラスのこともしています。その一つは、イエス神性論(イエスは創造主の子であるという聖書解釈)を確定的にたことです。

 公認された時期のカトリック教団は、自ら国家の一機関として行使できるような国家権力は手中に収めていませんでした。その状態で、皇帝が後ろ盾として様々な支持・援助を与えていました。

 イエス神性論を正統なものとして社会的に確定させたのは、この状況があったが故になった面が大きいです。

      @      @      @

 イエス神性論が正統な解釈であると、決定することは、カトリック公会議で行えます。だが、その結論を安定させるには、く人々に対して正統であると公示し、長いことその状態で保持しなければなりません。人々がそれになれて、当たり前と感じるようになるまで。

 「イエスはやっぱり人間だったのではないか」、という神学は人間の情から自然に出るものです。創主の子であるという神性論は、自然の情には反する見解なのです。

 だから、公会議で決定した後にでも、放っておけば、イエス人間論は周期的に出てきたでしょう。そしてこの見解は、支持する人の数から言えば、時の流れの中で多数派になっていく公算の高いものでした。

 カトリック教団は、これを「異端である」と押さえ続けました。広く長く禁じつづけました。ここには一定の強引さはあります。こういうことは、皇帝に援助され、支持されているという背景があったから出来たことでしたから。でも、結果としては、これで神性論は全欧州に確定しました。

 もちろん、国教になって国家の宗教庁としての権力を持ってからも、禁止はし続けました。これはもう、「ある程度強引」なんてものでなく、強引そのものです。だが、ことイエス神性論に関しては、公認時代に確定された、とみられます。

      @      @      @

 宗教改革というのは、カトリック内部の僧侶が行ったカトリック改革運動でした。これを契機にプロテスタントという勢力が生まれ、多くの新しいプロテスタント教派が出来ました。これは福音の普及には、大きな前進でした。

 けれども、ルター、カルヴァンをはじめとする改革者たちは、みなイエス神性論が正統という前提に立ってやっています。その上で、免罪符販売などの教団本部の行動を、「次の」問題としてやり玉に挙げています。

 これは、「イエス神性論については、これはもう文句のつけようのない大前提である」という状況ができあがっていたから出来たことです。それが宗教改革の種です。で、それは、というと、カトリック教団が4世紀に播いているんですね。プロテスタント改革者たちは、その実を刈り取ったのでした。

      @      @      @


 イエスが「人間の子」では福音の論理は通りません。そのことは、聖書を読めば比較適容易にわかるものです。ところが当時は聖書という書物が一般人のもとに行き渡ってはいませんでした。カトリックも聖書が普及しないような政策をとっていましたが、印刷術も紙の製法もあまり発達していませんでした。

 イエス人間論は、周期的に出てきてもおかしくはなかったのです。だが、カトリックは、それを抑えることはしたのですね。そういうプラスの種はまきました。

 後に、今日問題にされているようなことは色々しますけどね。それもまた、後の人が手直しすることになっていきます。


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Vol.61『播く者と、刈り取る者は別になる(4章)』

2005年02月12日 | ヨハネ伝解読
 4章37節に入ります。
 ここでイエスは

 「一人が播き、別の者が刈り取るというのは真理だ」

       と言っています。

これも大変深い知恵ではないでしょうか。前述のように聖書で真理というのは、「いつの時代でも」そうだ、と言うことです。真理の原義は「変わらないもの」であるからです。

 パソコンソフトのビル・ゲイツも、その仕組みを開発したのではありません。他者が発明したものを、利益になるビジネスにしたてあげた。こうして、収益を刈り取っています。

      @      @      @

 このケースでは、「刈り取る」は弟子たちです。刈り取られる対象は、人です。イエスの教えることを聞くことによって、それが真理だ悟る人を刈り集めると言うことです。

 では、「播いたもの」とは誰でしょうか。それは、旧約時代の人々、とりわけ、預言者たちだったでしょう。彼らは、創主からの啓示を受けて、それを書きとどめました。旧約聖書は、それを集めた編集した本ということになっています。

 そこには、まだ、イエスの教えそのものは記されていなませんでした。イエスが教えることを、比喩で示しているにすぎませんでした。いうなれば、影絵のように示していたのです。

       @      @      @

 影絵は、いろいろに解釈できるでしょう。リスの頭の影絵は、角度によってはウサギにも見えるし、犬にも見えますよね。しかも、リスの毛の色や毛並みは影絵には現れません。そういうものです。

 けれども、旧約時代のユダヤ教僧侶たちは、そのウサギや犬が創主からのメッセージのすべてだと思って、信仰活動をしていきました。そうやって、イエスからすると間違った方向に、どんどん進んできていました。一般ユダヤ人は、素人ですから当然それに従っていました。

 そうしたなかで、唯一、霊感の豊かな預言者だけが、ここで示されているのはリス(イエス)であると悟りました。イエスが後に教えるような真の意味を悟っていました。

 預言者たちは、それを言った。そこで、ウサギや犬しか見えない僧侶や民衆は怒りました。それで彼等に殺されました。預言者のほとんどは、こうして殺されてきているわけです。

      @      @      @

 ところが後に、イエスが現れて真理をそのまま率直に明かしてしまう。彼はそれを、旧約聖書を解き明かす形で示していく。これが聖書全体の構成になっています。

 となれば、霊感を受けて旧約聖書を造った預言者たちは、その種をまいたことになるでしょう。このように、播く人と刈る人とは別であり、あなた方はこれから、他者の播いたものを刈り取るのだよ、とイエスはここで教えたのでした。
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Vol.60『私の食物は父の御旨に従うこと』(4章)

2005年02月10日 | ヨハネ伝解読


 サマリアの女の項の続きです。

 弟子たちがサマリアの村で食料を手に入れて帰ってきます。そして「先生、食べてください」と言います。するとイエスは答えています。

 「私の食べ物は、父の御旨に従って、与えられた仕事を成し遂げることなのです」(34節)と。

      @      @      @

 ここもまた、考えさせられるところですね。まず押さえておくべきは、イエスが食べ物とここで言っているのは物的な食べ物ではないと言うことでしょう。

 ならば、それはなにか。いのちエネルギーである。これは聖書の鉄則です。

 すると、創造主のみ旨に従う(obey)、従順することが、すなわちいのちを吸収すること、という筋になりますね。このあたりを解読すればいいです。一体、創主に従うことがどうしていのちエネルギーを吸収することになるのでしょうか。

      @       @      @

 ここで、創主からの「命令の言葉」について考えてみる必要が出てきます。聖書のなかの、創主からの言葉には、事態を「説明する言葉」だけではなく、命令の言葉もあります。

 説明の言葉を受け入れると、人は、現実の様々な事実をその理屈(言葉)のめがねを通してみるようになります。そして、そうすることは比較的容易です。

 ところが、命令の言葉は、そうはいきません。それを「受け入れる」ということは、現実認識の仕方、考え方だけでなく、我々の行動をもそれに「沿わせる」ことになるのです。これはそんなに容易ではありません。言われたとおりに行うというのには、厳しいこともありますね。

 けれども、創主の意識に自分の意識を同調させる、というのは、そこまで行ってはじめて完遂するのかも知れません。言われたことを理解しているだけでは、まだ、信仰は途中段階にあるかも知れないわけです。

      @      @      @

 だが、創主の意識に自分の意識を同調させると、いのちエネルギーは自分の霊に浸透して来る。これまた聖書の鉄則です。イエスはそれを言ったのではないでしょうか。

 説明の言葉を心に留めて、ものの見方を同調させるだけでない。命令の言葉をも意識に留めて行いをも同調させる。

 私は父なる創主に対してそうすることによって、いのちエネルギーという食物を吸収しているのだよ、と。だから結果的に、私から創主のすさまじいエネルギーが出て、癒しも出来ているのだよ、と。

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Vol.59 『私がその救い主なんだよ(4章)』

2005年02月09日 | ヨハネ伝解読


 サマリアの女は、また、イエスに「わたしはキリストと呼ばれる救い主がこられることを知っています」(25節)といいます。これに対して、イエスは

 「あなたと話しているこの私がその救い主なんだよ」
         
       と宣言しています。(繰り返しますが、旧約聖書(律法)に厳格に従って生きていない女に対して、イエスがこんな宣言をするでしょうか。)

      @      @      @

 女は、井戸の脇に水瓶を放っておいて自分の集落に走ります。村人を呼びに行くのです。そして、出てきた村人たちはイエスに村に滞在してくれと頼みます。

 イエスは2日間滞在して教えを述べます。それによって、多くのサマリア人は教えを信じるのです。信仰深い民であったことがうかがわれます。

      @      @      @

 サマリヤという地域は、以前は、イスラエルの北半分とでも言うべき地域を占める王国になっていました。その王国がアッシリアに占領されてしまいます。

 アッシリア帝国は、ここのユダヤ人たちに異民族と結婚させることを強制します。その結果、帝国から解放された後には、この地域のユダヤ人は混血度が高まっていたのです。南のユダ王国のユダヤ人たちは、それ故に彼らをサマリア人と呼んで異邦人扱いしました。

      @      @      @

 けれども、その聖書信仰においては、彼らは純粋なままでした。その純粋さはご本家のユダヤ人以上であったと推察されます。歴史の示すところでは、理念というのは、むしろ、中心地ではなく辺境で純粋化するようです。

 キリスト教における、欧州大陸に対する英国、特にウエールスやスコットランドなどの辺境地方にそれが見られます。儒教における、本家中国に対する朝鮮民族の理念などが、そうです。

 がともあれ、サマリア人たちは旧約聖書の律法に則り生活し、預言を信じました。だから、聖書通りに救い主の到来を待ち望んでいたのです。

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イエス最大のプレゼントは永続確信

2005年02月08日 | この教会の基本理念
 


『鹿嶋春平太チャーチ』にようこそ。 

 個々の教会には、それぞれの基本理念というものがあります。

 キリスト教会が教典としている聖書は、深淵広大にして膨大なメッセージ内容を含めています。

 対して、人間の能力にはそれをカバーするに限界があります。

 その結果、各々の教会が自分の持ち味をもってやることになる。

 自分のところはそうではない、普遍的だ、と主張する教会もあります。
だが、実際の話、相応の持ち場を担当してやっています。



      @      @      @

 
 『鹿嶋春平太チャーチ』も例外ではありません。

 そこで、ご訪問下さった皆様に、当初に、当教会の「基本理念」とでも言うべきものを
表示しておこうと思います。

当面、代表的なポイントは次の2つです。

      
1.イエス最大の贈り物は、「永続確信」。

2.「 」は永続確信から咲く華。


ーーー理由は、稿を改めて書く予定です。

 (話が7回ほど続きますので、それが上から順に連続していくようにしてあります。
この稿が一番最初です)


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永続確信1・「肉体と霊体」

2005年02月07日 | この教会の基本理念
 イエスは、我々に多くのものをプレゼントしてくれました。
そのうち、どれを中核的、あるいは基盤的と見るかによって、教会の特色は分かれてきます。

 前回、基本理念に書きましたように、当チャーチでは、
イエスが与えてくれた最大にして中核的なプレゼントは「永続確信」である、
という見解をとります。永続確信とは「 人間死んでおしまいでない という確信」です。

 (その背景には、永遠に存続する世界、天の創主の王国、KINGDOMのイメージがあります。
「KINGDOM原理からの聖書解読」のカテゴリーもぜひご参照下さい)

 人の身体は、100年もすれば壊れます。死んで腐って崩壊して消滅します。
身体だけ見ていたら、人間は「死んでおしまい」です。
永続なんてするわけがありません。

 しかし、イエスは、人間には霊(霊体)もあり、それは永続する 、と教えました。
のみならず、その教えに確固としたリアリティ(本当らしさ)感を与えていきました。


<しるし(奇跡)は理論にリアリティを与える>

 イエスは、霊的にして論理的・体系的な教えを与え、
かつ、それに組み合わせて様々な奇跡を見せました。
病人をいやし、死人をよみがえらせました。

 「いやし」などの奇跡は、それを受けたものだけでなく、
その状況を観察するものの心にも、教えに対するリアリティを強烈に与えます。
現在、米国でベニーヒンという説教者たちを通してそれが現れています。

 テレビで放映されている彼の「癒しの聖会」の番組を見ていますと、
癒された当人だけでなく、その証言を見る観客たちも、歓喜しています。
ベニーヒン自身も、喜び感動しています。
自分たちが心に受け入れている 教えに対するリアリティが増す から、嬉しいのです。

 イエスは、その力を、弟子たちにも現れるようにしていった、と聖書に記されています。
そして、実際そうなった様が『使徒行伝』という書物などに数多く記録されています。


<教えの深さ・体系性もリアリティの源>

 イエスの教えの、霊的な深さ、論理的・体系的であること、も教えにリアリティを与える強力な要素でした。
現代では、奇跡はそうあちこちに見られはしません。
だが、聖書の言葉を深く探求・解読していくと、そのリアリティ感は深まっていきます。

 教えに対するリアリティ感は、実は、信仰心といわれるものの中身でもあります。
思想・理論へのリアリティが心の中で増すと、その教えへの信頼感が増します。
 信仰心というのは、教えへの信頼心 のことなのです。

 また、そうして信仰心が増していってある線を越えるときがある。
するとその人に、事後的にしるし(奇跡)の力が現れるという例もあります。

 がともかく、イエスも、その弟子たちも、その又弟子の弟子たちも、
こうして、「人間死んで終わりでない」という確信、永続確信を
楽に抱かせていくことが出来ました。

 『鹿嶋春平太チャーチ』では、それをイエスが与えてくれた最大にして基底的なプレゼントと見るわけです。
その見解に立ってメッセージを蓄積します。どうしてか? 
次回にそれを考えましょう。


                       



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永続確信2・「自価意識の基」

2005年02月06日 | この教会の基本理念
 永続確信は何故基底的なのか。それは人の内にある「自分という存在は価値があるんだ」という意識の基盤だからです。

<「自価意識」は自己存在への価値意識>

 この意識を春平太は短く「 自価意識 」と名付けています。「地価」が土地の価値を現しますので、自分の価値を「自価」と呼んでもまあおかしくないでしょう。

 人が生きていくのに、自価意識は非常に大事です。 自価意識がなくなった状態が虚無状態 です。そうすると、人は何もする気がなくなってしまいます。甚だしい場合には、食欲すら失せて、食べられなくなります。

<自価意識は永続確信に支えられている>

 これではいけない、とにかく生きていきたい、と一般の人は考えます。そこで、それぞれに何らかの自価意識を抱いて生きています。

 でも、自分にどんな価値を意識していても、自分という存在それ自体に永続確信が薄かったらどうでしょうか。「死んでおしまい」としか思えないならその価値意識も時とともに減退していくはずです。

 我々の意識の中では、価値とか意義とか言われる意識は、その主体である「存在」の意識に付与されているものです。その状態で、自分という存在が死んでおしまい、ということを知性が自覚したら、どうなるでしょうか。それに付加させていた価値観も、くっついている場所・足場がなくなってしまいます。

 その結果、ちょっとした風が吹くと、どこかに流れていってしまいます。そしておそらく、溶けていくのです。

 でも、また、何か価値意識を作ってくっつける。永続確信が薄い場合、人間は、それを繰り返しながら、なんとか、寿命がくるまで生きようとするしかありません。

 (これが出来なくなった人が、「 とじこもり 」になったり、途中で自らの命を絶ったりします。今、日本では自殺者は、年間、3万人を超えています)


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KINGDOMの規模と豊かさ

2005年02月06日 | KINGDOM原理からの聖書解読
 聖書は、天の創主のKINGDOMにおけるロイヤルファミリー(王室家族)になるためのノウハウを記した本 、と前述しました。

 今回は、その王国のすさまじい豊かさ、豪華さを聖書に見ておきましょう。
「黙示録」の22章に、天の王国におけるエルサレムの有様が記されています。天使がそれをヨハネに見せた、ということになっています。

      @      @     @

 それによりますと、天のエルサレムは、立方体になっています。縦、横、高さの長さがみな同じ。

 で、その一辺の長さも記されています。それがほぼ、日本列島の北の端から南の端、沖縄までの距離です。この長さの立方体が、天のエルサレムの大きさです。

 まあ、縦、横も大変なものですが、その高さがすごいですね。日本列島の端から端までの長さを上方に立てた状態です。

     @      @      @

 我々の住む地上の、イスラエルにあるエルサレムと同じく、天の王国のエルサレムも城郭都市です。高さが日本列島の長さと同じ城壁で、四面が囲まれています。その 城壁が、みな碧玉(Jasper:濃緑色の宝石) で出来ている、といいます。

 城壁の土台は、様々な宝石で飾られています。碧玉、サファイヤ、めのう、緑玉、縞(しま)めのう、赤めのう、かんらん石、緑柱石、黄玉石、ひすい、青玉、紫水晶がそれという。
 
 まだあります。四面の城壁には、各々、三つの門があります。ぜんぶで12の門。それらがまた、各々一個の真珠で造られている、という。すさまじい巨大さ。真ん中を馬蹄形にくりぬいているんでしょうか。あるいはそういう形をした巨大な真珠なんでしょうか。

      @      @      @

 極めつけは、城郭都市の内部です。すきとおったガラスのような純金で出来ております。大通りもそれで造られている、という。絢爛豪華、目がくらみそう。

 いま、地上では、猫の目ほどの宝石を、猫目石(ねこめいし)とかいって珍重していますよね。これは何億円とか何十億円とかいってもう大変・・・。だけど、天の都の大通りは、みな透き通った純金ですよ。長さも少なくとも青森から福岡までくらいはあるでしょう。そこでは 猫目石など、道ばたの砂利 です。住民は蹴っ飛ばして歩いております。

      @      @      @

 豪華さもさることながら、天の王国は、規模においても凄いですね。地上のエルサレムは、城壁の一辺の端から端まで、観光客が散歩できる距離です。これが王国では、日本列島の長さとなる。これから推して、天の王国は、この地上世界の何倍になるか。想像してみて下さい。

 城壁の高さも日本列島の長さというんですから、もうそびえ立っているなんてもんじゃない。上方は雲のそのまた上の上。雲があればの話ですけどね。霞んで見えないなんてもんじゃないですよね。

 それだけじゃないですよ。エルサレムがあればパリだってニューヨークだってロスアンゼルスだって、さらには東京だってあるんじゃないかな。天の東京にもお寿司屋さんだってたくさんあるかも知れない。上トロ、中トロなんでもあり。この地上は創主王国の模型という思想が聖書にはありますからね。エルサレムだけではないでしょう。

 それらが全部ある超・超巨大空間が天の王国です。その国を完全統治しているのが、創造主です。

 またそこでは 死も、別れもありません 。心が傷つくことも、ハートブレーキングも鬱もない。愛と希望と喜びに満ちています。

 その王国で、王の家族、天国のロイヤルファミリーになるノウハウを聖書は示している、ということになります。創主の子、イエスを信じるものは、創主の子になれる、というのですから。創主の子というのは、一般国民、市民でなく、家族なのですから。

 聖書を読むときは、こういうKINGDOMとその原理を知ることに、焦点を置くべし。イエスは、それを知らせに来たのです。

 この世の人間の弱さとか、みにくさとかいうのに関する学びは、まあ、それもいいでしょうけど、聖書学習の最終的なゴールではありません。
 
  焦点をKINGDOMに当てます。聖書学習が真のスケール感と喜びに直結するのも、この時 です。人生も、これを眺めながら送れたらいいですね。

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Vol.58『「まこと」とは「不変」なもの(4章)』

2005年02月06日 | ヨハネ伝解読

 ヨハネ伝に戻りましょう。

「霊とまことによって礼拝する」の、霊は聖霊であることがわかりました。では
後の方の言葉「まこと」とは何でしょうか?

 わかっているようで、わかりにくい言葉ですね。日本で「まこと」というと、真心のような感じがまずします。だから、「まことによって礼拝する」というと「真心込めて、誠心誠意に礼拝する」という風に解釈されやすい。だが、それは誤解です。

      @      @      @

 「まこと」という言葉の英語はtruthです。通常、これが真理」とか「まこと」という言葉に邦訳されています。ではtruthの本来の意味は? これは「変わらざるもの」です。それも、いい加減な変わらなさではありません。完全に変化しないのです。

 真理という訳も、そこから来ます。真理というのは、他のものを評価する際の、基準ともなるはずでしょう。そして、その基準は、不動でなければならないでしょう。相手を計るための物差しが動いていたんでは話にならない。本当は、少しでも動いてはならないものなのです。

<不変と永続は実質同じ>

 また、あるものが全く変化しないと言う属性を持っていると言うことは、それは「永遠の存在」という属性を持っていることにもつながっています。

 変わらなければ、いくら時間がたっても、未来永劫そのままで存在し続けることになるでしょう。また、変わらないものならば、そのままの状態で、永遠の過去からあったはずであります。

 だが、現実に、そんなものは存在するのでしょうか。物質はみな時と共に風化して、ついには消滅します。人の心も変化します。

<永続するのは創主から出た「言葉」>

 聖書では、非造物には永遠不変なものはない、という思想です。それは創造主の側にのみある、という存在観です。では、まこととは創造主のことか。ここではそうではありません。もっと具体的なもの。創造主から出た言葉がそれです。

 イエスは、「わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父(創主)が私のうちにおられてみわざをなさっているのである」(14章10節)といっています。イエスの語る言葉は、創主の言葉なのです。

 だから、人間の口から出る言葉とは違う。人の語る言葉は、空気をふるわせる風にすぎないのが、私の言葉は

   「霊でありまたいのちである」(6章63節)

     ーーーとイエスはいっています。そして、それについてまた

 「天地は滅びます。しかし、私の言葉は決して滅びることはありません」(ルカによる福音書、21章33節)

     ーーーとも言っています。

 つまり、「まこと」とは、イエスの口から出た「言葉」に対応しているのです。それは、聖書に記録されています。そこで「霊とまことによって礼拝する」は「聖霊とイエスの言葉(聖書に記されている)の力を得て礼拝する」となります。


 だれかによって解説された言葉ではない。「聖句そのもの」を掲げて礼拝すると言うことです。これに聖霊とが相働くことによって、創主を成功裡に礼拝することが可能になる。これが、サマリアの女に対するイエスの教えでした。

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