「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)
今日も創り主を想いましょう。
創造主を憶えた状態でものごとをなしているかどうかは、福音のすべてに関わることがらであり、福音理解の8割をしめることだと思います。
イエスを言うときにも、その方が創造主のふところから出た存在であることを意識していなかったら、この世でまつられている偶像に実質近いものに、心の中ではなっているでしょう。
聖霊を言うときにも、その方が、創造主から分離した存在であることを意識しなかったら、まじない信仰のあるじに近いものに、心の中ではなっていくでしょう。
葬式に列席していても、飲み食いしいていても、そういうことがらが万物を創った創造主のふところの中で行われていると覚えていたら、福音の8割は把握していることになるのではないかな。

本日の聖句も、前回と同じです。

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=聖句=
「私(イエス)は、今、新しい命令を諸君(弟子たち)に与えます。互いに愛し合いなさい。わたしが諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」(13章34節)
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今回は「命令します」の、第二のケース、「今はわからなくても従え」について少し突っ込んで考えてみましょう。
我々の日常を考えましょう。なにか「して欲しい」と言われることがある。その際我々が自発的に行動する可能性は、内容がわかり、納得したときに出ます。納得できないときには、そういう可能性は出ません。

<通常イエスは理解に余裕を与えている>
イエスは通常どう弟子たちに接触しているでしょうか。彼らの自由意志を基本的に大切にし、理解する余裕を与えていますね。教えを述べるときに、強制や脅しをいっせつ使っていませんし。
ただしこれは通常は弟子たちが理解しているからではないでしょう。イエスの言っていることについては、弟子たちはその理由がよくわかりきれないという部分もあるのではないでしょうか。
イエスの教えは、霊界に関わりを持つことです。またイエスは全知の「父なる」創造主と交信している存在ということに、聖書ではなっています。対して、聞く方は人間です。理解できない「部分」があっても当然でしょう。
イエスは、詰まるところは自分のメッセージはそういうものだ、と考えているように思われます。教えを心に受け入れるという作業にも、実は、理解し切れない部分もあるけれど受け入れていくという心的行為が含まれている---こうになりますね。
でも、「命令だ」といって行動を積極的に要望してはいません。時間を掛けてゆっくり理解していけばいいんだよ、というのがイエスの通常の姿勢ですね。

<詰まるところは「幼子のように」>
他方でイエスは、こういうことも述べています。
「・・・幼子のように創主の国(天国)を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決して出来ない」(ルカによる福音書、18章17節)
---天国に入ることとは、いわゆる「救い」を受けることです。これには「信仰による救い」の原則からして、教えを受け入れ、信じるだけでいいのすよね。
これをイエスは「幼子のように」という。どういう意味か。
私の教えには、つまるところは幼子のように受け入れるしかない部分があるんだよ、とこの聖句は言っているのではないでしょうか。

<「理屈抜きに信じよ」と解しては危険>
この「詰まるところは・・・」というニュアンスを看過して、「幼子のように」を“単純に”金科玉条にすると、危険が出ますよ。教理主義教会の教職者に支配される危険も出ます。
大人は「イエスの教えは、理屈をあれこれ考えないで、幼子のように受け入れるべきだ」と、始めから受けとってはいけません。大人には、知性があります。やはり、教えの内容を可能な限り論理的に理解しようという作業は一方でしなければなりません。「信仰に知性を」という思想も聖書にはありますしね。
その上で、理解しきれないところが残る。これをどうするか、ということへの答えを上記の聖句は示しています。そこは「幼子のように受け入れないと」救いには至れないのだよ、と。
教会をのぞいていて、「よし、バプテスマを受けよう」と最終的に踏み切るのも、結局はこういう「幼子ステップ」を踏んでいるからではないでしょうか。
大人が理屈を全く抜きに、ある教えを受け入れたら、まじないや呪術的宗教と同じグループの信仰に到りますよ。イエスの教えにまずは、出来うる限りの理解を志すのは必要なのです。春平太がいまやっている「解読」も、そういうことなのです。

<オーラルロバーツ「癒しのステップ」>
はじめに戻って繰り返しますね。イエスが、「自分がいなくなっても、諸君は互いに愛し合え」といった命令は、第二の方の「分からなくても従え」という命令です。
こういう通常と違ったことを言うのは、それがいまどうしても必要だったからでしょう。
弟子たちが愛し合い一つになっていることが、イエスがことをなすのに必須だった。弟子たちが愛し合い一つに集まっているところに、聖霊を注ぐのですから。だから、イエスは「これは命令だよ、従いなさい」といったのですね。
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こうした考察を通して聖書における「理解」「命令」「従順」「信仰」「知性」「主体性」などの思想の相互関係を正確に把握しておくことは大切に思います。
で、最後にこうしたことへの知識にとって有益だと思えるものを一つ紹介しておきます。
戦後米国での三大ヒーラーエバンジェリストの一人、オーラル・ロバーツさんが語った「癒しに到るステップ」がそれです。
彼は体験上それを四段階だといっています。
①信頼(信仰)
最初のステップはやはり意図的に、創造主をわからなくても信頼すること。
②知ること(知識)
聖句を通して創主の意図をよく知り、知識を増すこと。
③信頼感が心から湧きあふれ出る
創主が分かってくると、創主への信頼感があるとき意図的でなくして心から湧き上がりあふれ出す。
④病めるものに手を置いて祈ると癒される。
~~ここでもやはり、最初は分からなくても信頼すること、からスタートしていますね。
そして次には知ること。創造主に関する知識を増すこと、つまり、「知」に入っています。
