鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

偽善より「誤認」がいい

2007年02月17日 | 「考える宗教」へ
                    

前回の件で、もうひとつ追加することがあります。
聖句は自然発生的に実感・体感が伴うものではない、ということを知らない教会人が日本には多いのです。
教会で、福音を学んだらすぐに「信じます」といわないのは罪である、と思う。
実感をもてなかったら罰が当たると思う。それで「私は信じてます」と簡単に言う。

 聖書に出てくる「偽善」という言葉は、それを指しています。
英語ではhypocrisyですが、これを偽善と訳すのは少し特殊な色づけをしすぎな感があります。
漢字の意味は「善人であると偽る」「心の底から善をなしていないのに心の底からであると偽る」といった意味でしょう。

                    

  この言葉の背景には「クリスチャンは信じると善をなす」という前提がおかれています。
しかし、「善をなす」というのは福音への信頼を抱いた結果生じる行為の一局面でありまして、
他にも「死へのおそれが少なくなる」とか「(世的に)偉い人を恐れなくなる」とか
「知性が活性化する」とか「決断力が増す」とか色々あるのです。

 なのに「善をなす」という側面だけをとりだすということがそもそも特殊な色づけでしょう。
そしてそういう訳語が造られるというのは、「クリスチャンになると善をなす」、とか、
「なすべき」とかいった印象が日本人には強い、ということでしょう。


                    


 鹿嶋は、訳語は「誤認」の方が適切なように思います。「偽認」というのも一案ですが、「偽」は「いつわる」という意味です。
なにも「偽っている」とまでいうことないんではないか。
ただ、福音を学んだら、それにすぐに実感を持たねばならないと、本人が「誤って認識」していることがベースにあるにすぎない。

  でもその誤りを自覚しないであたかも「実感が伴っている」かのごとく言動せざるを得なくなった。
それが結果的に「偽っている」ように映じることもある、ということではないか、と思います。
                    

<誤認が自己脅迫観念を生む>

 この福音と実感に関する誤認は、日本人伝道の大きな障害になっています。
福音を学んだから、とか、教会に通っているからといって、ただちにそれに実感をもてないと罪である、と考えてしまう。

 すると、それは自己強迫観念を生みます。日本の牧師さんも教会人もその傾向があります。
外部者はニッポンクリスチャンにそれを見て、接触を避けようとするのです。
あの人たちのようになりたくない、と感じる。そして、福音を語りかけてもとにかく逃げようとします。

                    

<笑えない話>

 アメリカの日本人教会で、こんな話をある信徒さんから聞いたことがあります。
あるクリスチャンの夫婦で、夫が若くして急死しました。妻は悲しく苦しいです。

これに対して、牧師さんや教会の人々は、「喜ばなきゃ駄目よ、喜びなさい」と強く勧めた。
「全て主の計らいであり、主は最善のことをなされますから、ご主人の死もそうですよ。感謝し、喜びなさい」といった。
「あなたは聖書の言葉を信じないのか」と。

 で、その妻もそれに努め、泣かないで一生懸命喜んでいた。そうしたらその奥さん、精神異常をきたしてしまったそうです。
で、その話を伝えてくれた女性信徒さんは「肉親が死んだりして悲しいときには思いっきり泣かなきゃ駄目よ、危険だわよ」
と警告してくれました。

 その奥さんは精神が分裂してしまったのでしょう。聖句の論理に自分の感情、実感が伴っていなかった。
なのに、そういう風に分離した状態を自分の心に押し込んだのですから、精神が分裂を起こしてしまったわけです。

喜んでいても分裂を起こさない人もいます。その人は、聖句に実感・体感が伴うところまで行っているのです。
で、その場合は、悲劇の中にあっても心に喜び(joy)が満ちてくるのです。
でも、そこまで行っていない人に聖句を示して、「夫が死んだことを喜ぶことを強要」してはいけません。

                    

 鹿嶋はその話を聞いて、日本の牧師さんには、誤認を自覚できない人がいるんだなあ、と痛感しました。
そういう人は、往々にして、ヨハネ伝20章26~7節の聖句を持ち出して信徒を叱ります。
そこには弟子のトマスに語りかけたイエスの言葉が記されています。
トマスは、イエスが復活したという兄弟弟子たちの証言を「信じられない」と言っています。

 「わたしは、その手(イエスの手)に釘あとを見、私の指をその釘あとに差し入れ、
また、私の手をその脇に差し入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ20:25)と。

 ところがイエスは、今度はトマスの前にも現れます。
イエスは彼の上記の言葉を踏まえて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言っています。

 この聖句を引き合いに出して、「見なくても信じなさい! キィ~ッ」と牧師さんは信徒に迫るのです。
「トマスになるな!」とかいったりして・・・。

 実はこの聖句には、別の解釈も成り立つのですが、そんなことは見えないのでしょう。
とにかく、この聖句で信徒を追い詰めるのです。これ結構多いですよ。
教会ツアーをされたら体験されるでしょう。日本の福音伝道には、障害が多いですね。

                    


コメント (41)
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聖句と実感に関する追加

2007年02月08日 | 永続確信のための聖書解読
                    

 「世界には唯一の創造主が存在する」というゴッドリーな存在論は、
人間の心に容易に自然発生することのないものだ、
という明日香石舞台での悟りから、色んなことを考えてきました。

 これはもしかしたら、聖句全体に通じる特性かもしれません。
つまり、聖書に書いてあることはみなゴッドリーな世界観の中でのことです。
するとこれらのことも多かれ少なかれ、直ちに実感が伴うというわけには
いかないものかもしれないと考えられるのですね。

                    


 鹿嶋は、イエス最大のプレゼント(この世に生きている人間への)は「永続確信」だと思っています。
だが、もしかしたらこの永続思想も自然発生的には実感がわかないものではないのでは・・と思えます。
人間は肉体しか目に見えませんからね。
その状態で生まれ育ってきておりますと、やはり「人間は死んでおしまい」という言葉の方が
実感が沢山伴うのではないでしょうか、自然なままでしたら・・・。

                    


  でも、何かの力で「永続する」という方が本当だ、と実感できたら、すばらしいプレゼントを手にすることが出来ますよ。
たとえば、「寂しがり屋」の度合いが急減いたします。
 寂しがり屋の人って多いですよ。
亡くなった美空ひばりさんは中村メイ子さんと親友だったそうです。
ひばりさんの家が近所にあって夜更けまで語り合っていて、
メイ子さんがトイレに行って出てくると、ひばりさんトイレの出口で立っている。
そのままメイ子さんが家に帰ってしまわないようにと、よくそうしたそうです。

 鹿嶋もとても寂しがり屋の男性を知っています。
そういう人は、いつも人恋しくて、とても愛情深い傾向がありますが、彼もそうです。
友達が自分のマンションに来るとすごく喜んでもてなし、仲間が家族のようになっています。
そういういい面もあるのでしょうが、どうして人一倍寂しがり屋なのでしょうか。

 鹿嶋は、そういう人は、普通の人より「人間死んでおしまい(消滅する)」という実感を
強く持っているからではないかと思います。
だから、生きている友に対しても、「この人ともいつか会えなくなる」という気持ちを強く持つ。
それで人一倍寂しいのではないでしょうか。

                    



 ところが「人間死んでおしまいではない、永続する」という実感が強いとどうなるか。
生きている友人と「会えなくなる」と感じる恐怖が薄くなります。
それだけではない。すでに死んだ家族、友人たちにも、「彼らは自分に再会すべく存在している」
という感覚を持つことが出来ます。両面から寂しさが急減するんですね。
これはすごいプレゼントですよ。生きている今、与えられるプレゼントです。


                    

<心霊科学は利用するもの>

 聖書には「人間は永続するぞ」と直接言う聖句はないと思われます。
でも、全編がそれを前提とした論理で出来ています。だからこの言葉、思想に実感がもてたらいいですよね。
その実感を与える決定的な存在が聖霊、というのも聖書の示すところですけれども、
なかなかそうはいかない段階ではどうしたらいいか。
心霊科学(スピリチュアリズム)の研究成果を読むのがその有力な手段だと鹿嶋は思っています。

 心霊科学の果実は、そのように使えばいい。
聖句に実感を与える一要素として位置づけて使ったらいいのです。
で、聖句に適合しない結論などがあったら、それはそのままでは採用はしないようにしたらいいのです。
聖書に最終的な信頼を置くというのはそういうことで、そのスタンスなら心霊科学の成果も有益なのですね。

 このブログで、鹿嶋がこの科学の知識を援用したことがありました。
そうしたらフリーズしちゃった人がいたんだよね。
で、「それは悪魔が与える偽りの幻である可能性がある」という。
その可能性もあるでしょう。可能性だからね。
でも、そうであるかどうかの最終判定基準を聖句においていたらいいんです。
それでもって、心霊科学の知識は、聖句に実感を増す道具として使います。だったら有益ですよ。

 それも怖いんで、「いや~鹿嶋先生、冷や冷やして読んでましたよ」とご心配のコメントくださった方がいたよね。
お気持ちはありがたいのですが、そこまで見えない存在からの信号に疑いを持つのだったら、
それは論理的には聖句にも及んでしまうことを知らねばならない。
預言者たちに与えられてきたメッセージは、もしかしたら、何か他の霊的存在から与えられた幻ではないのか、とね。

                    

 そんなこと、人間には詰まるところはわからないんだよね。
だけど何にも信頼を置けないのでは、不安きわまりないですよね。
信頼を置く一つはなければならない。鹿嶋はそれを聖句においているわけです。
そうしたらその信頼は時とともに多くの実感を伴うものになってきた。
で、これを最終的基盤にして、恐れずに色んな現象を解釈しているわけです。

  その説明力も、時と共に広く大きくなってきていて、失望させられることがない
(最近東京で連続的に起きたバラバラ事件も説明範囲です。そういう風に意識を持って行かれる状況が聖書的に説明付くのです)。
これ無理して言ってるんでなく、科学的実感としてそう思っています。自然体。

 で、話を戻すと、「人間は永続する」という聖書の思想に実感を増すのに
心霊科学の実験結果が役立つならば、使った方がいいよ、ということです
(鹿嶋はそれを『キリスト教のことが面白いほどわかる本』で試みています)。
そうしたら、ますます寂しがらずに、消滅におびえること少なく今のこの世を送ることが出来ると思うよ。


                    


コメント (11)
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