(宗教改革記念碑前で、1997年夏)
17節では聖霊に関するイエスの教えが記されれています。
そのうち前々回までは、イエスが去ると聞いて不安に満ちた弟子たちに
「真理の御霊である聖霊を送るからね」とイエスが約束しているところでした。
前回は、「でもその聖霊は、世は天と対極の意識を持っているから、
世の人々は知ることが出来ないよ」とイエスが述べたところでした。
今回は、それにつづく17節の最後の部分です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「しかし、あなた方(弟子たち)はその方(聖霊)を知ります。
なぜなら、その方はあなた方のところに留まり、そして、(将来)あなた方の内に
おられることになるのですから」(14章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
聖霊という存在は、旧約聖書では例えば次のようにして記されています。
「私をあなたのみ前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を
私から取り去らないで下さい」(詩編、51章11節)
これは預言者ダビデの口から出た言葉です。
旧約における聖霊には、その働きに関する記述は鹿嶋には発見できておりません。
どうも旧約ではまだ、聖霊の具体的な姿は示されてないようです。
<聖霊はマルチパワーを持つ>
それが記されているのが新約聖書の大きな特徴ではないかと思われます。
ここでは聖霊は時に応じて、「助け主」と記されたり、「真理の御霊」と記されたり、
「証し主(イエスを証言するもの)」と記されたりしています。
イエスがそう語っているのです。
いろんな働きが語られていますが、聖霊はその全ての働きを兼ね備えた存在
という理解が正しいように思われます。
最近のパソコンには通常、マルチドライブというのがついています。
複数あるDVDの方式のすべてに対応して機能する。
さらにCDーRにもCD-RWに対しても機能します。
聖霊はそういうマルチパワーを持つ存在なのですね。
<将来諸君の内に入る>
そしてイエスは、そういう素晴らしい力を持った聖霊が
「将来(イエスを信じる)弟子たちの内に入る」と宣言しています。これが~
「その方はあなた方のところに留まり、そして、(将来)あなた方の内におられることになる」
~という聖句です。
これが今回のポイントで、この出来事はイエス信頼(信仰)に大きな役割を果たします。
<聖霊は風のように>
この「内におられるようになる」という出来事は、聖霊のバプテスマ」と称されています。
事件の状態は「ルカによる福音書」の著者であるルカが、「使徒行伝」の2章で
詳細に描写してくれています。
聖霊が人の内に留まる、というのは特別なことです。
聖霊という存在は、通常は人の上に留まり波動を発して意識に影響を与えます。
だがそういう状態ですと、しばらくするとそこを去っていくと思われます。
次のイエスの言葉はそのことを示唆していうようです。
「風は思いのままに吹きます。あなた(ニコデモというユダヤ教の指導者)は
その音を聞きますが、それがどこから来て、どこへ行くかは知りません。
聖霊から生まれるものもそれと同じです」(ヨハネによる福音書、3章8節)
初めて教会にやってきて、礼拝のメッセージを聞いていたら、
なぜか感動して涙が流れて仕方がなかった、という経験をする人がいます。
それは、聖霊が彼の上に留まって「天の」意識波動を送って感動するようにしている、
と解されます。
ところが、会堂を出て家に帰ってしばらくすると、その話がリアルに感じられなくなる。
なにか作り話のようにしか思えなくなって、「あんな話にどうして感動したかなあ」
という心境になることがあるようです。
これは聖霊がその人の上から風のように去っていったからと解されます。
聖霊とは、通常は、風のように動いている方なのでしょう。そうですから、
その聖霊が「諸君のところに永遠に留まる」というのは特別なことなわけです。
<聖霊のバプテスマ>
風のような聖霊が、一旦、人の内に入って、永遠にその人の内に留まることになる。
これが聖霊のバプテスマです。
そして、その時は、ほとんどの場合、当人の口から異言が「吹き出し」ます。
異言は、英語のstrange tougue の邦訳語で、しゃべっている当人にも
その意味がわからない言葉です。だから、ストレンジ(奇妙)なのですね。
だがそれ故にこの出来事については、霊的な現象であるにもかかわらず、
人間は五感で確認することが出来るのです。何と妙(たえ)なることでしょうか。
この出来事をイエスは「最後の晩餐」では、弟子たちに約束しています。
だが、ルカ伝の2章に記されているところでは、これは弟子たちだけでなく、
その場に集まった大勢の人に起きています。
このことから、聖霊のバプテスマは、他の多くの人々にも約束されたもの、と解されます。
実際、以後、現在に於いてもその現象は続いています。筆者もそれを体験で確かめております。
また、聖霊は一旦入ったら出ないと思われます。
それは例えば前の16節で~、
「私は別の助け主を送ります。そのかたは、諸君と共に永遠にいます」
~といっているイエスの言葉が示しています。
実はこれは、聖霊が内に入った状態を前もっていっている、と解することができるのです。
<身体内のどこかに?>
聖霊が内に入るといいますが、人間のどこのあたりに入るのでしょうか。
人間の霊の内に、というのも一つの考えです。
こうして意識体である人の霊のうちに、聖なる意識体である聖霊が位置して、
聖なる意識波動で常時影響を与え続けるという。これも一つの風景です。
もう一つは、人間の身体の内の脳神経系のあるどこかに位置する、という解読です。
こうして脳神経系に波動を与えたら、人の意識に聖なる影響を常時与えることができるわけです。
「あなたがたは知らないのか。
諸君の身体は、創造主から与えられて諸君の内に宿っている聖霊の宮であって、
諸君はもはや自分自身のものではないということを」
(コリント人への第1に手紙、6章19節)
~なる聖句は、後者の解読の根拠となりうるものです。
真実はどちらか?
結論めいたことをいわないで、これを小グループで色々論じるのが聖句主義の神髄です。
いずれにせよ、本日の聖句~
「その方(聖霊)はあなた方のところに留まり、そして(将来)あなた方の内におられることになる」
~というのは、以上のように解読されます。
17節では聖霊に関するイエスの教えが記されれています。
そのうち前々回までは、イエスが去ると聞いて不安に満ちた弟子たちに
「真理の御霊である聖霊を送るからね」とイエスが約束しているところでした。
前回は、「でもその聖霊は、世は天と対極の意識を持っているから、
世の人々は知ることが出来ないよ」とイエスが述べたところでした。
今回は、それにつづく17節の最後の部分です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「しかし、あなた方(弟子たち)はその方(聖霊)を知ります。
なぜなら、その方はあなた方のところに留まり、そして、(将来)あなた方の内に
おられることになるのですから」(14章17節)
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聖霊という存在は、旧約聖書では例えば次のようにして記されています。
「私をあなたのみ前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を
私から取り去らないで下さい」(詩編、51章11節)
これは預言者ダビデの口から出た言葉です。
旧約における聖霊には、その働きに関する記述は鹿嶋には発見できておりません。
どうも旧約ではまだ、聖霊の具体的な姿は示されてないようです。
<聖霊はマルチパワーを持つ>
それが記されているのが新約聖書の大きな特徴ではないかと思われます。
ここでは聖霊は時に応じて、「助け主」と記されたり、「真理の御霊」と記されたり、
「証し主(イエスを証言するもの)」と記されたりしています。
イエスがそう語っているのです。
いろんな働きが語られていますが、聖霊はその全ての働きを兼ね備えた存在
という理解が正しいように思われます。
最近のパソコンには通常、マルチドライブというのがついています。
複数あるDVDの方式のすべてに対応して機能する。
さらにCDーRにもCD-RWに対しても機能します。
聖霊はそういうマルチパワーを持つ存在なのですね。
<将来諸君の内に入る>
そしてイエスは、そういう素晴らしい力を持った聖霊が
「将来(イエスを信じる)弟子たちの内に入る」と宣言しています。これが~
「その方はあなた方のところに留まり、そして、(将来)あなた方の内におられることになる」
~という聖句です。
これが今回のポイントで、この出来事はイエス信頼(信仰)に大きな役割を果たします。
<聖霊は風のように>
この「内におられるようになる」という出来事は、聖霊のバプテスマ」と称されています。
事件の状態は「ルカによる福音書」の著者であるルカが、「使徒行伝」の2章で
詳細に描写してくれています。
聖霊が人の内に留まる、というのは特別なことです。
聖霊という存在は、通常は人の上に留まり波動を発して意識に影響を与えます。
だがそういう状態ですと、しばらくするとそこを去っていくと思われます。
次のイエスの言葉はそのことを示唆していうようです。
「風は思いのままに吹きます。あなた(ニコデモというユダヤ教の指導者)は
その音を聞きますが、それがどこから来て、どこへ行くかは知りません。
聖霊から生まれるものもそれと同じです」(ヨハネによる福音書、3章8節)
初めて教会にやってきて、礼拝のメッセージを聞いていたら、
なぜか感動して涙が流れて仕方がなかった、という経験をする人がいます。
それは、聖霊が彼の上に留まって「天の」意識波動を送って感動するようにしている、
と解されます。
ところが、会堂を出て家に帰ってしばらくすると、その話がリアルに感じられなくなる。
なにか作り話のようにしか思えなくなって、「あんな話にどうして感動したかなあ」
という心境になることがあるようです。
これは聖霊がその人の上から風のように去っていったからと解されます。
聖霊とは、通常は、風のように動いている方なのでしょう。そうですから、
その聖霊が「諸君のところに永遠に留まる」というのは特別なことなわけです。
<聖霊のバプテスマ>
風のような聖霊が、一旦、人の内に入って、永遠にその人の内に留まることになる。
これが聖霊のバプテスマです。
そして、その時は、ほとんどの場合、当人の口から異言が「吹き出し」ます。
異言は、英語のstrange tougue の邦訳語で、しゃべっている当人にも
その意味がわからない言葉です。だから、ストレンジ(奇妙)なのですね。
だがそれ故にこの出来事については、霊的な現象であるにもかかわらず、
人間は五感で確認することが出来るのです。何と妙(たえ)なることでしょうか。
この出来事をイエスは「最後の晩餐」では、弟子たちに約束しています。
だが、ルカ伝の2章に記されているところでは、これは弟子たちだけでなく、
その場に集まった大勢の人に起きています。
このことから、聖霊のバプテスマは、他の多くの人々にも約束されたもの、と解されます。
実際、以後、現在に於いてもその現象は続いています。筆者もそれを体験で確かめております。
また、聖霊は一旦入ったら出ないと思われます。
それは例えば前の16節で~、
「私は別の助け主を送ります。そのかたは、諸君と共に永遠にいます」
~といっているイエスの言葉が示しています。
実はこれは、聖霊が内に入った状態を前もっていっている、と解することができるのです。
<身体内のどこかに?>
聖霊が内に入るといいますが、人間のどこのあたりに入るのでしょうか。
人間の霊の内に、というのも一つの考えです。
こうして意識体である人の霊のうちに、聖なる意識体である聖霊が位置して、
聖なる意識波動で常時影響を与え続けるという。これも一つの風景です。
もう一つは、人間の身体の内の脳神経系のあるどこかに位置する、という解読です。
こうして脳神経系に波動を与えたら、人の意識に聖なる影響を常時与えることができるわけです。
「あなたがたは知らないのか。
諸君の身体は、創造主から与えられて諸君の内に宿っている聖霊の宮であって、
諸君はもはや自分自身のものではないということを」
(コリント人への第1に手紙、6章19節)
~なる聖句は、後者の解読の根拠となりうるものです。
真実はどちらか?
結論めいたことをいわないで、これを小グループで色々論じるのが聖句主義の神髄です。
いずれにせよ、本日の聖句~
「その方(聖霊)はあなた方のところに留まり、そして(将来)あなた方の内におられることになる」
~というのは、以上のように解読されます。