鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.229『聖霊が内に入って留まる』(14章17節)

2008年05月31日 | ヨハネ伝解読
(宗教改革記念碑前で、1997年夏)

 17節では聖霊に関するイエスの教えが記されれています。
そのうち前々回までは、イエスが去ると聞いて不安に満ちた弟子たちに
「真理の御霊である聖霊を送るからね」とイエスが約束しているところでした。

 前回は、「でもその聖霊は、世は天と対極の意識を持っているから、
世の人々は知ることが出来ないよ」とイエスが述べたところでした。

 今回は、それにつづく17節の最後の部分です。


                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「しかし、あなた方(弟子たち)はその方(聖霊)を知ります。
なぜなら、その方はあなた方のところに留まり、そして、(将来)あなた方の内に
おられることになるのですから」(14章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

                 
 聖霊という存在は、旧約聖書では例えば次のようにして記されています。

 「私をあなたのみ前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を
私から取り去らないで下さい」(詩編、51章11節)

 これは預言者ダビデの口から出た言葉です。
 旧約における聖霊には、その働きに関する記述は鹿嶋には発見できておりません。
どうも旧約ではまだ、聖霊の具体的な姿は示されてないようです。


                    

<聖霊はマルチパワーを持つ>
      
 それが記されているのが新約聖書の大きな特徴ではないかと思われます。
 ここでは聖霊は時に応じて、「助け主」と記されたり、「真理の御霊」と記されたり、
「証し主(イエスを証言するもの)」と記されたりしています。
イエスがそう語っているのです。

 いろんな働きが語られていますが、聖霊はその全ての働きを兼ね備えた存在
という理解が正しいように思われます。

 最近のパソコンには通常、マルチドライブというのがついています。
複数あるDVDの方式のすべてに対応して機能する。
さらにCDーRにもCD-RWに対しても機能します。
聖霊はそういうマルチパワーを持つ存在なのですね。


                    

<将来諸君の内に入る>
 
そしてイエスは、そういう素晴らしい力を持った聖霊が
「将来(イエスを信じる)弟子たちの内に入る」と宣言しています。これが~

「その方はあなた方のところに留まり、そして、(将来)あなた方の内におられることになる」

~という聖句です。

 これが今回のポイントで、この出来事はイエス信頼(信仰)に大きな役割を果たします。

                    


<聖霊は風のように>

 この「内におられるようになる」という出来事は、聖霊のバプテスマ」と称されています。
事件の状態は「ルカによる福音書」の著者であるルカが、「使徒行伝」の2章で
詳細に描写してくれています。

聖霊が人の内に留まる、というのは特別なことです。
 聖霊という存在は、通常は人の上に留まり波動を発して意識に影響を与えます。
だがそういう状態ですと、しばらくするとそこを去っていくと思われます。
次のイエスの言葉はそのことを示唆していうようです。

 「風は思いのままに吹きます。あなた(ニコデモというユダヤ教の指導者)は
その音を聞きますが、それがどこから来て、どこへ行くかは知りません。
聖霊から生まれるものもそれと同じです」(ヨハネによる福音書、3章8節)

  初めて教会にやってきて、礼拝のメッセージを聞いていたら、
なぜか感動して涙が流れて仕方がなかった、という経験をする人がいます。
それは、聖霊が彼の上に留まって「天の」意識波動を送って感動するようにしている、
と解されます。


                    


 ところが、会堂を出て家に帰ってしばらくすると、その話がリアルに感じられなくなる。
なにか作り話のようにしか思えなくなって、「あんな話にどうして感動したかなあ」
という心境になることがあるようです。
これは聖霊がその人の上から風のように去っていったからと解されます。
 
 聖霊とは、通常は、風のように動いている方なのでしょう。そうですから、
その聖霊が「諸君のところに永遠に留まる」というのは特別なことなわけです。


                    


<聖霊のバプテスマ>

 風のような聖霊が、一旦、人の内に入って、永遠にその人の内に留まることになる。
これが聖霊のバプテスマです。
そして、その時は、ほとんどの場合、当人の口から異言が「吹き出し」ます。
異言は、英語のstrange tougue の邦訳語で、しゃべっている当人にも
その意味がわからない言葉です。だから、ストレンジ(奇妙)なのですね。

 だがそれ故にこの出来事については、霊的な現象であるにもかかわらず、
人間は五感で確認することが出来るのです。何と妙(たえ)なることでしょうか。

 この出来事をイエスは「最後の晩餐」では、弟子たちに約束しています。
だが、ルカ伝の2章に記されているところでは、これは弟子たちだけでなく、
その場に集まった大勢の人に起きています。

このことから、聖霊のバプテスマは、他の多くの人々にも約束されたもの、と解されます。
実際、以後、現在に於いてもその現象は続いています。筆者もそれを体験で確かめております。

 また、聖霊は一旦入ったら出ないと思われます。
それは例えば前の16節で~、

「私は別の助け主を送ります。そのかたは、諸君と共に永遠にいます」

~といっているイエスの言葉が示しています。
実はこれは、聖霊が内に入った状態を前もっていっている、と解することができるのです。

                    


<身体内のどこかに?> 

聖霊が内に入るといいますが、人間のどこのあたりに入るのでしょうか。
人間の霊の内に、というのも一つの考えです。
こうして意識体である人の霊のうちに、聖なる意識体である聖霊が位置して、
聖なる意識波動で常時影響を与え続けるという。これも一つの風景です。

 もう一つは、人間の身体の内の脳神経系のあるどこかに位置する、という解読です。
こうして脳神経系に波動を与えたら、人の意識に聖なる影響を常時与えることができるわけです。

 「あなたがたは知らないのか。
諸君の身体は、創造主から与えられて諸君の内に宿っている聖霊の宮であって、
諸君はもはや自分自身のものではないということを」
(コリント人への第1に手紙、6章19節)

 ~なる聖句は、後者の解読の根拠となりうるものです。

真実はどちらか?
 結論めいたことをいわないで、これを小グループで色々論じるのが聖句主義の神髄です。

 いずれにせよ、本日の聖句~

「その方(聖霊)はあなた方のところに留まり、そして(将来)あなた方の内におられることになる」

 ~というのは、以上のように解読されます。


                    


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Vol.228『「天と世」は互いに相容れない存在』(14章17節)

2008年05月25日 | ヨハネ伝解読
 ヨハネ伝の14章から17章までは、イエスがいわゆる「最後の晩餐」で、
弟子たちに言い残した言葉で埋められています。
 
 この場面でのイエスを想像してみましょう。
 この後まもなくしてイエスは捉えられ、拷問をうけ、十字架刑で殺されます。
創主の子イエスには、そういう展開はわかっています。
わかっている状態で、弟子たちに後のことを教示しているのです。

 彼は殺されても、3日後に復活してふたたび弟子の前に現れます。
が、すぐに創主の王国である天国にもどって行きますから、
もう地上でリーダーとして弟子たちを直接導くことはなくなります。

 だが、弟子たちには「地の果てまでのべ伝えよ」という宣教命令を与えていきます。
弟子たちはイエスの命令を守って、自分たちだけでイエスの教えた「天の教え」を
宣べ伝えねばならなくなります。

 大変な仕事です。
それをするに際して必要な知識、知恵を、イエスはいま丹念に言い聞かせているのです。

                    


<人間への深く熱い愛>

 イエスが力を込めて弟子たちに教えているのは、自分のためではありません。
人間が幸福になるために教えているのです。

 人間の永遠の幸福のために、これからやってくる激痛をまえにして、
根気よく、知恵を与えている。
最後の晩餐におけるイエスのこの姿に、人間への溢れる愛が感じられないでしょうか。
イエスはわれわれの想像の及ばないほどに深く人間を愛したのです。

 イエスの愛を示すものといえば、従来は十字架でした。
「十字架で人間の罪を代償して死んでくれた」ことのみが繰り返し伝えられてきました。

 それはたしかにそうです。ここにはイエスの人類への愛が凝縮していますから。
だけど、この「最後の晩餐」の場面にも、翌日に十字架刑に凝縮して現れるイエスの愛、
人間への驚くべき愛が溢れ出、流出していないでしょうか。
14~17章におけるイエスの言葉は、その状況を感じつつ読めるかどうかが、解読の決め手です。


                    

本日は少し長いです。
まず、本日の聖句です。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「それは真理の御霊です。
この世は、それを見ようともせず、知ろうともしないので、
それを受け入れることが出来ません。だが、あなた方はこの方を知ります。
この方は諸君と共に(この世に)留まり、そして(将来)諸君の内に
入るからです」(14章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 前回に示したものと同じ17節ですが、今回はそのうちの次の聖句部分を考えます。

「この世は聖霊を受け入れることが出来ません。その方を見ようとも、知ろうともしないからです」
「だがあなた方はこの方を知ります」

 どうして「この世は聖霊を受け入れることが出来ない」し「聖霊を見ようとも知ろうともしない」のでしょうか。
その理由は深いものです。だから今回は、長くなるのです。

                    


<「世」は宇宙>

 まず、「この世」。これは独特の意味を持っています。
聖書ではこれは「天国」と対比された概念なのです。
挿入した「聖書の空間理念」の図を見てください。

 (聖書の空間理念はどうしてこういう風に解読されるか、は
「誰もが聖書を読むために」新潮社、を見てください。
そこには論理過程が図と共に記されています。)


                    


図における天国は、創造主が創った自らの王国です。
そこでは、創造主の正義、創主の定めた法が貫徹しています。
違反をするものは誰もおりません。

 対して、「世」とは、図における「宇宙」にあたります。
ここは基本的に、悪魔、悪霊を閉じ込めた暗闇です。

                    

<宇宙は「天」に対抗する者たちの牢屋>

 聖書の思想では、この空間が出来るまえに天国で創主に対抗した天使の一群がいました。
彼らは創造主に不従順するだけでなく、対抗した。
対抗することによって、彼らの内に吸収されていた「いのちエネルギー」は、
「いのちのマイナスのエネルギー」すなわち「死のエネルギー」変わります。

 それによって、対抗した天使群の長は悪魔(サタン)に変質し、配下の天使たちは悪霊に変質します。
そして創主にしたがう天使たちと天国で戦った結果、この暗闇に追い込まれているのです。

 彼らは、「最後の裁き」がなされるまで、この宇宙に収容されています。
彼らには、本質的に創主に敵対する性格をもった存在である、
という容疑がかけられているのです。

 容疑がかけられていますから、容疑者です。
そういう容疑者を閉じこめたのが宇宙という空間となる。
ですから宇宙は「創主の王国」全体から見たら、そのなかの牢屋にあたります。

 人間社会でも牢屋の中では、君臨する牢名主が生じるのが通常ですけれども、
宇宙空間に於いても同じです。
悪魔がこの「世」(宇宙)を牢名主として君臨する支配者となっているのです。


                    

 <「地」は地球>

 地球はどうか?
 聖書の思想では、地球はそういう宇宙の中に創られた塵のように小さな星です。
聖句における「地」とはその地球をさしています。

 「創世記」には人間が創られたことが記されていますが、
それはこの「地」の上での出来事です。

 これは重大なことです。
なぜなら、「地」は宇宙の中にあり、宇宙は悪魔が(一時的ながら)牢名主として
君臨している悪魔の王国なのです。人間はそこに創られたことになる。

 そういう空間の中に造られたのがアダムとイブです。
彼らは悪を知らない純朴な者です。牢名主はこれを簡単に騙すことが出来ます。


                    

<人類の祖先の霊に「罪」が入る>

 実際、彼らはまもなくだまされて、創造主から「食べてはいけない」
といわれていた「知恵の木の実」を食べてしまいます。
「本当は食べてもいいのですよ、食べてご覧なさい」と悪魔は騙す。
これに騙されて食べてしまいます。

 創造主に従順しないことによって「罪」が彼らの(霊の)内にも入ります。
 悪魔は創造主に対抗したのですから、罪の固まりであり、大本締めのような存在です。
そしていまや「罪ある存在」となったアダムとイブはその元締めの側に取り込まれてしまうのです。

                    


<「罪」は遺伝する>

アダムとイブの霊に入った罪は、彼ら二人に留まることはありません。
 霊の資質は、遺伝することに聖書ではなっているのです。 
アダムの霊に刻まれた「罪」は、アダムを通じて次々に子孫に遺伝します。
だから以後の人類はみな、この霊的資質を受け継いでいくことになります。

 その結果、全人類の本性が基本的に悪魔と同質なものとなりました。
ですから人類は「世」の側に属する存在となっているわけです。

 ~以上のような光景が本日の聖句部分の背景にあります。

(なお、このあたりの風景は『聖書の論理が世界を動かす』新潮社のなかで詳論しています)

                    


<だから聖霊を送るが「世」の人々は・・>

 本日の聖句場面は、そういう「世」においてこれと敵対関係にある「天」の教えを、
弟子たちに宣べ伝えさせるために、イエスが必要知識を言い残しているところなのです。

 弟子たちはイエスに選ばれた例外的な存在です。
「天」の側からやってきたイエスが「世」の中から選んで、
自分(天)の側に拾い上げた少数者です。
イエスはその彼らをこれから「世」に残って働くようにさせようとしているのです。
 自分のためでも、弟子たちだけのためでもない。人類の幸福のためです。

 ところがこの「世」は宇宙ですから、「天国」と敵対する意識を根底に持っています。
宇宙という「世」に住む人間たちは、基本的に悪魔の側に取り込まれているのですから。

 ここで「天」の論理を宣教するのは、至難の業です。
そこでイエスは「助け主・聖霊」を送ると約束する~~これが16節の聖句だったのです。

 聖霊は創主から出た、創主と同質の霊です。天の論理、天の意識波動を持っています。
「世」から選び出された弟子たちは後に、聖霊を体験するようになります。

  長くなりましたが、本日の聖句部分
  「だがあなた方はこの方(聖霊)を知ります」
というイエスの言葉には、こういう背景があるのです。

対して「世」の人々はどうか。
彼ら一般人は「世」に属する存在です。
だから聖霊の波動を感知することもないし、肯定的な関心を向けることもありません。
そこでイエスは~

 「この世は聖霊を見ようともせず、知ろうともしない」

 ~といっているわけです。


                    

 ・・・ああ、長かった。
 17節の聖句内容は膨大なんですね。
 まだ少し残っています。次回に考えましょう。


                    


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Vol.227『真理と感じさせて宣教を助ける』(14章17節)

2008年05月18日 | ヨハネ伝解読
(写真はスイス、ジュネーブのバスティヨン公園にある宗教改革記念碑。
1917年、カルヴァン生誕400年を記念して設立)


  17節にはたくさんの意味内容が含まれています。聖句はこれです。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「それは真理の御霊です。この世は、それを見ようともせず、知ろうとも
しないので、それを受け入れることが出来ません。
だが、あなた方はこの方を知ります。この方は諸君と共に(この世に)留まり、
そして(将来)諸君の内に入るからです」(14章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 今回は「それは真理の御霊です」の部分について考えてみましょう。


                    

前回、16節でイエスは聖霊を「助け手」といいました。
 これは聖霊の基底的な役割を示しています。聖霊は基本的には、
イエスの命令に従って、宣教活動をする人たちを助ける存在なのです。

 今回の「真理の御霊」は「どうやって助けるか」の方法を示しているように思われます。
具体的には、弟子たちが宣べ伝えることを、聞く者たちが「これは真理だ」
と感じるようにして助けるのです。

                    

<意識には特有の波動がある>
        
 霊というのは意識体であり、聖霊もそうです。
意識体はその意識活動によって波動を発しています。
家などで、心の中である歌を歌っていると、近くにいる家族の誰かが
(兄弟か姉妹か親かが)同じ歌を口ずさみ始めた~という経験を持つ人は多いようです。
筆者も体験しています。子供の頃は「変だなぁ~」と感じていましたが、
これは意識波動が他者の意識を共鳴させたのですね。

 聖霊は、創主の聖なる意識を持っています。
ですから、聖なる意識波動を送って他者の意識に影響を与えます。
その一つに「創造主の思いを真理だとする」の意識があります。


 弟子たちが宣べ伝えるのは、創造主の思想です。聖霊はそれを「真理だ」と思う波動を持っています。
この波動に影響されると、聞く人は「ああこれは真理だ」という意識を内に形成し易くなるのです。

                    

 宣教する弟子たちへの影響もあります。
イエスが「真理だ」として教えた言葉はたくさんあります。
そのすべてを記憶するのは、弟子たちには無理なことです。
でも聖霊は、彼らが必要なときに必要な言葉を思い出させます。
波動を送ってその言葉を弟子たちの顕在意識に浮上させるのです。


                    

<「癒し」も「真理だ」と思わせる>

 弟子たちの言葉に「癒し」などのしるしが伴う場合もそうです。
聞く者は、これをみて「ああ、この人が語っているのは真理だ」という感慨を持ちやすいです。
聖霊はその「癒し」をも起こさせます。

「それは真理の御霊です」という聖句は、そういう意味を含めています。
残りは次回以降に回します。


                    


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Vol.226『「聖霊」はダブルミーニングで把握する』(14章16節)

2008年05月13日 | ヨハネ伝解読
 16節からイエスは聖霊についての教えを言い残します。
それをヨハネは記録しているのですが、その第一弾が本日の聖句です。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
 「私は父に求めます。そして父は別の助け手を諸君に与えてくれます。
その方は、諸君と永遠に共に居ます」(14章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 
 次の17節ですぐにわかりますが、この「助け手」とは聖霊です。
何を助けるか?これからイエスが地上にいなくなって、弟子たちは
イエスをのべ伝えなければならなくなる(宣教はイエスの命令ですから)。
その宣教活動を助けるのですが、今回はまず、聖霊なるものを理解してみましょう。

 聖霊は英語で Spirit と頭文字が大文字になっています。
これをたんなる霊と訳したらいけません。
聖霊は、「創造主から出た、創造主と同質の霊」です。            

 創造主によって「造られた」被造霊でなく、そこから「出た」同質の霊、となれば、
聖書の論理ではイエスもそうです。
しかし、イエスは同時に、唯一の霊でもあります。
創主なる父の「ひとり子」というのですから、そういうことになります。

 イエスは、創造主が造った「創主の王国」である天国を相続する権限を与えられています。
その意味でも「子」なわけです。


                    

<一にして多、多にして一>

 他方、聖霊は、無数に出て送られ存在します。
だから、後に、イエスを証言するあらゆる人をあらゆる場所で
同時に助けることが出来る、となります。

 しかし、全て創主からの霊であり、同質です。
だから、一つといってもいいのです。
これを「一にして多、他にして一」と称することも出来ましょうか。
「一は一で単数あり、多は多で複数だろう。そうしてそれが同じになるのか」
という反論もでるでしょう。

 そういわれれば、そうでもありますけれども、聖書の論理には、
形式論理をはみ出た論法もある、と理解しておいたらどうでしょうか。
「ダブルミーニングのままで受け入れる」わけです。
これは聖書解読のもう一つの技法です。


                    

<類例無き思考力育成素材>

 蛇足ですが、これは高級編の技法です。
そしてこれは人の知性を育成してくれます。
頭脳を柔軟で弾力的にし、その働く範囲を広げてくれるのです。
その意味で聖書は、学問・科学の文献を遙かに超えたユニークな勉強素材でもあります。

 堺屋太一さんが「21世紀は知価時代(知性、知識が大きな価値を持つ時代)」だと、
繰り返し言っておられます。
こういう時代にこそ、先駆けて聖書解読をしたものが勝ちです。
学問・科学文献の解読も有益ですが、聖書ほどの思考の幅広さを身につけさせる力はないのです。

                    


前回、
Vol.225『「愛するものは命令を守る」と付加したのは』(14章15節)
に付加した写真を、もう一度今回も載せました。

 この教会は、米国アラバマ州バーミングハム市の都心にある教会です。
メンバーの人々は「ここはブルーカラー(肉体労働仕事)の人々が中心の教会だよ」
と明るく公言していましたが、写真のスモールグループリーダーの人は、みなブルーカラーです。

 (だからといって、「ああやはりアメリカは階層社会だ」と思うのは一面的です。
同じ職業状態の人で教会をやる方がコミュニケーション効率がいいことが最大の理由で
そうなっているのです)

 でも、この顔付を見てください。日本のブルーカラーの人々と大きく違うでしょう。
知的でしっかりしているでしょう。自尊の精神に満ちているでしょう。
(福沢諭吉翁はこれをみて、文明の民には「自尊」が大事、一国の独立はこの精神からなる、と確信したのですね)


人生に対して投げやりなところが無く、みな人生思想、世界思想を深く持ち、
意志も強いです。
礼拝後の交わりにおいて、彼らは、人生も世界政治も国内政治も深く確信持って語ります。

 鹿嶋は、見聞上、知的職業人や資産家が中心の教会にも出入りしましたが、
これらの教会人と少しも違いません。
これがスモールグループで聖句を吟味する方式の力です。
そしてこれが米国民主制度を実効あるものにしているのですね。


                    

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Vol.225『私を愛する人は命令に従う人だよ』(14章15節)

2008年05月07日 | ヨハネ伝解読
(写真は、サザンバプティストの、とある教会における、
スモールグループ・リーダーの準備会議。
日曜礼拝の夕方~夕拝の前に~次週のために勉強会と会議を持つ)

 本日は15節に進みます。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君が私を愛していれば、私の命令を守るでしょう」(14章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 この言葉は、21節にも23節にも出てきます。イエスが最後の晩餐で語る言葉の中で、
ポイントになっているのではないかと感じさせられます。

  ここでは「私の名の内で求めたものはなんでも、私はそれを行う」
という14節の言葉に続いてのべられています。
 その文脈で考えると、ここではこの約束がなされるための条件に
なっているように思われます。

 「求めたるものは何でも実現する」というのは、何とも有り難く、美味しく、
夢のような約束です。だがそういう待遇を受けるには条件がある。
それは「イエスの命令に従い守ることだ」と。


                    

<理解できなくてもその通り行動する>

「命令を守る」というのは、いわれたままに行動することです。
それは「そのときには理解できない部分があっても、納得できなくても、
言葉の通り行動する」ことを含んでいますよね。

 これはイエスに精神的に同化してしまう、ということですね。
同化というのは愛の本質です。
だから、これがイエスを極限まで愛していることの中身になるのですね。 

 そういうことは最低限として、イエスを信頼していないと出来ないことですね。
でもそれは最低限の条件であって、信頼してても、従って行動しない場合もあります。

命令に従うというのは容易なことではないのですね。
でもイエスは、そこまでに私に同化してくれたら求めるものは実現する、
と約束しているわけです。

                    

<後世の全ての人間に対してか?>

 この言葉は、12弟子に対してのみに限られていないものともとられます。
以後それほどにイエスに同化し、愛するものすべてに対する約束でもあるということですね。

 春平太はそう思わせられる経験をしてきました。
ゴズペルじゃーナリストとして色々見聞するなかで、主のみわざとしか思われない
しるしを現す伝道者をみました。
そしてそういう人はみな、自分の身を創主に投げ出すかのようにイエスの言葉に従っていました。
全精神がそうなっているという感じでした。
イエスの言葉を命令と受け止めて、恐れずその通り行為してしまいます。

 彼らはまた、この世の仕事はほとんどせずに、祈りと宣教に専念していました。
世の事柄に関与したら、意識に世的な部分が形成されて、力は現れにくくなるのでしょうか。
みんなの自主的な献金が生活を支えて、
世的なものに関与しなくてもいいようにしているのが通常でした。


                     



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Vol.224『聖句には「含み」も残っている』(14章14節)

2008年05月07日 | ヨハネ伝解読
(写真はミシガン州、ホランド市のヴィンヤード教会)


本日の聖句はこれです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「もし諸君が私に、私の名のうちで求めるものはなんでも、私は行いましょう(I will do it)」(14章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 この14節の言葉は、13節の前半
(「諸君が私の名の内で求めることはなんでも、私は行います」)とほとんど同じですよね。
だが、13節では(それによって)「父が栄誉を受けられるため」とのことばが付けられています。

14節は、それを踏まえていっている。そういう文脈になっています。
つまり、「なさるのは究極的には父なのだけれど、わたしはそれを父に願ってなしてもらうんだよ」
という含みがある。

 英語で I will do it と訳されているこの文は、文字通りには
「イエスがそれを実現する」と言う意味なのですが、「父に祈り求めて」実現してあげる、
という内容を持っているのですね。

 だけど、結果だけを見れば、イエスがやったことにもなります。
だから、つづめて「求めればかなえるよ」といっているわけです。


                             

<父と子の正確な関係>

 でも、そうだからといって、「含み」を考えないようになっていくのは
聖書誤解読のもとになります。

力やわざに関する、父なる創造主と子との関係は、聖書思想の根本です。
これを放念して「まあイエスがやったでいいだろう」とやっていきますと、
聖句から雰囲気としての霊的実体を心に生成させる際に、微妙なずれが出てきます。
聖書解読の究極ゴールは、この霊的実体の生成にありますから、それはまずいのです。

 このあたりを正確にするためにも、聖句そのものを基点にし続けるのは重要でしょうね。
解釈者の言葉を基点にするとあぶない。
聖句の微妙なところは消えてしまいがちですから。

 聖句というのは妙なる言葉なんですね。
そして聖句主義はかけがえのない方法である。

こうしたことが伺われるところでもあります。



                    


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Vol.223『わざ(しるし)の源は父なる創造主』(14章13節)

2008年05月06日 | ヨハネ伝解読
本日の聖句はこれです。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「諸君が私の名の内で求めることはなんでも、私は行います。
その結果、父が子の内で栄誉を受けられるためです
(, so that the Father may be glorified in the Son)」(14章、13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

<「イエスの名において」とは?>

 先に細かいところから。

 この聖句では、英語で言う、in my nameを、春平太は「私(イエス)の名の内で」と訳します。
ここはなにやらはっきりしないところです。
通常「名によって」と邦訳されています。「名を通して」と言う人もいます。

 しかし、春平太は、迷ったあげく、「名の内で」としています。
イエスの「名」というものを、一定の広がりを持った実体のように受け取るわけです。
理由はとても長くなりますので省略します。

 そしてイエスは、
~自分の名の内で、弟子たちが(創主に)求めることはすべて、自分が実現する~と言っています。
大変な約束ですが、この内容については後に考えましょう。

                    

<gloryは多義的な言葉>
 
 今回のポイントは(イエスがそうするのは)「それによって父が子のうちで
栄誉をお受けになるためだ」という言葉です。
イエスはどうしてこんなことを付け加えるのでしょうか。

 gloryというのは、複数の意味を持っています。

 もともとは創造主から発せる力(エネルギー)です。
だが、それは創造主のエネルギー特有の光
(創造の光:我々が目にしている光の実体は光子という素粒子であって、物質の光)
を放っています。
それを物質の光と区別するために日本では「栄光」と邦訳しているのでしょう。

 また、そのエネルギーによるわざを見たものは、それを賞賛するでしょう。
賞賛されるのは栄誉を与えられることですから、栄誉という意味も出てきます。

                    

<力の源は父なる創主>

 ここでの最終的な意味は栄誉です。

聖書では、
「イエスのわざは創主から出るいのちエネルギーがイエスを通して現れた結果だ」
という思想です。
地上で行ったわざも、天に昇ってからなすわざも、そうです。
だから、イエスは天に於いても「父にとりなす」のでして、
自分ですべて出来るのならば「とりなす」必要などありません。

 イエスはそれを明示すべく「父が栄誉を受けられるため」と付け加えている。
「諸君の求めに応じて私が力あるわざを行うそのエネルギーは、
父なる創造主から源を発していて、父がなしておられるのだよ」
といって、前もって父に栄誉を帰している、と解されます。

                    


<「祝福」は力の源でない人がすること>

 付言しておくと、このことは英語のblessという語の意味を明確にするにも役立ちます。
日本語では「祝福する」と訳されていますよね。
そしてこれは日常的には「恵みを与える」という意味で使われています。

 だけどこの言葉の正確な意味はそうではない。
「(聖職者らが)創主に対してその恵み、加護を祈る」というものです。
そこには恵みを供給する主体は、究極的には創造主だけ、と言う思想があります。

 イエスも究極的には、恵みを「与える」存在ではないのです。
彼もまた「創主が恵み下さるように」と祈ってくれる存在、
その意味でのbless(祝福)をする存在なのです。

 でもイエスは力あるわざを次々にしたではないか、これはどうだ~という疑問も生じます。
だがそれは彼の意識(霊)が創主の意識と同じであって、完全に協和するから、
いのちエネルギーがそのままイエスに流れ込み、イエスを通して流出し現れた
という論理になります。

  米国にGod bless America (創造主はアメリカを祝福している)という歌があります。
第二国歌という人もいる歌ですが、ここでのblessも日常的な、拡大された意味で使われています。
創造主は自ら「恵みを与えることのできる」別格な存在です。
blessする(恵みを祈り願ってあげる)必要などないのです。

 イエスが「父は私より偉大である」という根拠はここにもあります。

                    

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Vol.222『「イエスが父のもとに行く」と起きること』(14章12節)

2008年05月04日 | ヨハネ伝解読
連休ですね。
本を一冊ご紹介しましょう。
『隠された聖書の国・日本』徳間書店、ケン・ジョセフ、シニア&ジュニア著、です。

キリスト教関係者には衝撃的な本です。

著者は、アッシリア系アメリカ人の父と子です。
父は、22歳の時、戦後日本にキリスト教を伝道すべくやってきた牧師です。


「日本復興を助けるため1万人のボランティアが欲しい」という
マッカーサー元帥の呼びかけに応じて来日しましたが、そのまま日本に在住し、
日本における景教(ネストリウス派キリスト教)の遺跡を研究し続けた人です。

文字通りのライフワークである上に、息子さんもまたその研究を受け継いで、
成果をこの本に記しているわけです。

                    


 父子の研究によれば、古代日本は今のアメリカのような多民族社会であり、
奈良・京都は白人、アラブ人、中国人、朝鮮人など入り乱れた国際都市でした。

 流入した人々には、景教徒も多数いて、この影響でキリスト教が全国的に普及していました。
聖徳太子も景教の人々を周りに置いて、その思想を取り入れて17条憲法を作った。

 聖武天皇のお后、光明皇后は景教徒そのもので、8世紀に彼女が造った
無料の救護施設「施薬院」など、キリスト教の思想がなければあり得なかった・・
等々を示しています。

また、いま神社や寺になっているところには、教会があったケースが多いことを、
その遺跡を示して証明しています。

 日本には、キリスト教がザビエルより遙かに昔から、広範囲に入り広がっていたこと、
そのルーツを知らないと、日本人は根無し草になってしまうこと、
等を根気よく説いています。
  
 日本は仏教国で、キリスト教の考え方は根付きにくい、と
日頃思っている人々(鹿嶋も含めて)には、明るいニュースを提供する本です。

 
                    



さて、『ヨハネ伝』に入ります。

前回の聖句~

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「まことにまことに諸君にいっておきます。
私を信じるものは、私がしているわざをします。
そればかりか、もっと大きいわざをします。
私が父のみもとに行くからです」(14章12節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

~のうち、最後の「私が父のみもとに行くからです」の解読が残りました。
今回はそれを・・・。

ここでイエスは「自分はこれから苦しみを受け、十字架上で死され、復活して、
父なる創造主のもとにいく」と弟子たちにいっています。

そして「イエスは父のみもとに行ったら、父に願って聖霊を諸君のもとに送ってもらう。
その聖霊は諸君の助け主であり、いつまでも諸君と友にいる」といっています
(14節16節)。

 この聖霊が弟子たちの働きの決め手になるのです。
それを送ってもらうには、イエスが父なる創造主のもとにいくことが必要なのです。

                    


 『使徒行伝』には、使徒をはじめとするイエス信頼者たちに
初めて聖霊が下ったときの場面が記録されています。
彼らは異言を語り、力に満たされます。
その不思議を見た人たちから、一日に3000人が信じて集団に加わっています。

 また、ペテロとヨハネはエルサレムの神殿に行って、足萎えを癒します。
するとその日一日で、2000人が新たに信じたと記録されています。

決め手は聖霊なのです。
これが下って信頼者たちの内に入ることが必要条件でありますが、そうなるためには
「自分(イエス)が父なる創造主のもとにいって父にお願いすることが必要なんだよ」と言っているわけです。

これからイエスは、すさまじい苦しみを受けて十字架上で息絶えるのですよ。
なのに、その先の先に起きることまで、弟子たちに告げている。
そしてその通りのことが起きていく・・・。

すごいなぁ~。
こういう振る舞いは、単なる宗教上の聖人にはできないですよね。

                     


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Vol.221『「イエスよりももっと大きな事をなす」とは?』(14章12節)

2008年05月02日 | ヨハネ伝解読

今回の聖句はこれです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「まことにまことに諸君にいっておきます。
私を信じるものは、私がしているわざをするでしょう。
そればかりか、もっと大きいわざをするでしょう。
私が父のみもとに行くからです」(14章12節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

 
 12節には、また新しいテーマをイエスは述べています。
まず「私を信じる者は、私がなしているわざをするでしょう」です。

 ここで信じる対象は、イエスの姿ではなく「言葉」です。
人の内に留まったその言葉が契機となって、意識の中に雰囲気実体(霊)が
生成している状態~~これが、ここでいう「信じる」です。


 「そうなったら人は、いまイエスがしているのと同じわざをするんだよ」
とイエスはいっています。どういう論理でしょうか?

 意識の中にイエスの霊が生成しているとは、
その分、イエスと同じ意識になるわけです。
するとその意識には創造主から放射されている「いのちエネルギー」が
イエスと同じように共鳴、吸収される。
それが力の源ですから、イエスがなすと同様な力あるわざをするようになる
という道理になります。

 実際、後の「使徒行伝」には、弟子たちに癒しなど、
イエスが行ったような技が現れた状態が記録されています。


                    

<真理はいつの時代にも「変わらざるもの」>     

 また、この際、「まことにまことに申し伝えます」というのは
「これから真理をいいますよ」という意味です。
これをわざわざ断っている。

 聖書で真理は、「変わらざるもの」という意味です。
だから、「これから言うことは、何時までも変わらない鉄則として
存在し続けるんだよ」と言っていることになります。
つまり、それは、「今の時代にもその鉄則は通用するべきもの」
ということにもなります。

実際、現在でもベニーヒンという牧師にはその力が現れています。
かれほど有名でなくとも、癒しなどの力が現れている人は、たくさんいます。

                    
                    


<「イエスがなしたよりもっと大きなこと」とは>
        
 イエスは続いて、「そして、その人はもっと偉大なこともする。」
と言っています。
ここは難しいですね。
そもそも「イエスがなしたことと比較する仕事」とはいったいなんでしょうか。

 前述のベニーヒンは、こういうことをいっています。

The greatest miracle is salvation.(最大の奇跡は「救い」です)~と。

 彼は、自分に現れたわざをテレビで放映する際に、これをよくいいます。

どういうことかというと~~。

 「テレビ番組がこれから示す癒しなどは、
見た目ではセンセーショナルなことでしょう。
だけど、癒された人の肉体も100年もすれば死ぬのです。
だが、イエスを信じてその霊が救いを受けるというのは、永遠のことです。
霊は永続します。
これが救いを受けるというのは、肉体の癒しを遙かに超えた素晴らしいことです。
イエスを信ずることによる救いこそが最大の奇跡なのです」

 ~~ということです。

                    


 この救いを受けさせる人数で見ると、
それはイエスが地上にいて伝道しているよりも、
弟子たちが集団でもって働く方が、遙かたくさん出ます。

 イエスが働いている間は、弟子たちはイエスに任せっきりで、
ついて歩いているだけです。だが「使徒行伝」を見てください。
イエスがいなくなると、弟子たちにもイエスがした癒しなどが現れます。
のみならず、その弟子から伝道を受けて信じた人々にもそれが現れる。

 その結果、多人数で伝道することになります。
すると、イエス一人の時よりも遙か多くの人々の福音を信じさせることが出来ます。
救いを受けさせる人数で見ると、多数の働きは大きいのですね。

本日の聖句の最後、「私が父のみもとに行くからです」
については、次回にします。


                    



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