前回に続いて、旧約聖書に特有な創造神理念が与えてくれるプレゼントの話をする。
今回は「不変の知識への夢を与えてくれる」ことについて述べる。
<「理論」は頭に描いた模型>
この世の現実(実在)はきわめて多様である。
人間は、そのなかの事物を認識する際に「単純な模型」を脳内に造って理解する。
ジャンボジェットは巨大である。
これを直接認識しようとすれば、人は少なくとも、その周囲を回ってあらゆる側面を観察せねばならない。
そんなこと出来ないので、人間はそのプラモデルをつくって、それでもってジャンボジェットを認識する。
プラモデルとは、「プラスティック」で造った「模型」という意味である。
モデルは英語であって日本語の「模型」を意味している。
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ジャンボジェットより遙かに巨大な「宇宙」を認識するときもこの方法である。
その模型(モデル)を頭の中にイメージとして造って、理解し認識しようとする。
<模型はモデルであり「理論モデル」ともいう>
科学(学問)の世界では、それの模型を「理論」ともいう。
理論は模型であり、モデルであるから、「理論モデル」と言ったりもする。
<理論の現実説明力と妥当性>
理論模型が現実実在にどの程度正確に対応しているか、どの程度よく説明できるかを、モデルの(現実)妥当性という。
その妥当性には、人間の認識能力では限界がある。
たとえば人を取り巻く空間は無限の広がりを持っている。
対して、人間が観察できる空間には限りがあって、全空間にあるすべての実在を観察して模型を造ることは出来ないからだ。
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古代ギリシャの学者たちは、宇宙を「ガラスで出来た正12面体」のようなものだとイメージしていたという。
そのなかに、日、月、星などが配置されていて、このガラス体が人の住む地面の上方を回転している。
こういう理論モデル(模型)を心に抱いていたようだ。
このモデルでもって、日、月、星は頭上を動き、朝、昼、夕、夜がやってくると考えていた。
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ギリシャ式の天体モデルは後年「天動説」と呼ばれる。
だが、後に望遠鏡が発明され、観察範囲が広がると、天動説モデルでは説明のつかない事象が見えてきた。
たとえば、星でも真北にある北極星は、頭上を回っていなかった。
そこでコペルニクスやガリレオは、新模型を造った。
「地面は実は球体の一部であって、その球体が太陽の周りを回転している」というのがそれだ。
すると、新しく見えてきた天の事象も説明できた。
こうして新理論知識は旧モデルより、現実実在によく妥当することがわかった。
これが後に「地動説」と呼ばれることになる。
<人間の造る理論知識はみな「仮設」>
人はこのようにして、理論モデルを修正していく。
だが、それで究極の模型に行き着くかというと、そうはいかない。
空間は無限の広がりを持っている。
対して、人間は有限な存在で、そのすべてを観察するところまではいけないからだ。
つまり、人間の造る理論モデルは、永久に不完全で一時的なものであり続ける。
そこで、科学者は自分たち人間の造る理論を「仮設(仮に設定した)モデル」と呼ぶ。
略して「仮説」と称されることも多い。
<究極模型を得る夢>
では、人間は究極不動の理論模型を得ることは出来ないのか?
夢を実現する方法は一つだけある。
もし、万物を造った創造神がいて、その方が、人間にメッセージを与えてくれていたならば、そしてそれが旧約聖書に(他の書物でもいい)書き留められているならば、(その可能性は後に吟味する)、そのなかには究極不動の理論模型が含まれているだろう。
これを探ればいいのだ。
すべてを創造した方なら、すべてを知っているはずだからだ。
テレビを作った人間が、テレビのすべてを知っているように。
<トルース理念が出現>
この夢から、トルース(truth)という理念は産まれた。
「窮極不変の知識」という理念(概念)は、人間の意識に自然発生することはない。
人は四六時中、時間・空間の限られた自然環境の中で暮らしているからだ。
旧約聖書が創造神という理念を注入してくれてはじめて、それは人の心に生成したのだ。
<「仮説」のイメージもリアルになる>
そしてその「不変の理論模型」の理念はまた、人間が頭に作る模型は「修正され続ける理論」であることを明確に自覚させる。
ひとの心は対極理念によって、その特性をはじめてリアルに感知できるようにできているからだ。
人間世界が女だけで出来ていて、女が自ら子供を産んで増殖することができて、男が存在しないなら、
女の心に女という概念は出現しない。
それが生じるには、男という対極存在とその理念が必須なのだ。
創造神という理念が人の心に注入されることによって、「仮説」という概念が人の意識のなかでリアルになり、明確化した。
これは、科学史においても画期的なことである。
<ヘボン先生の夢>
この「不変の理論」の理念を含む書物(聖書)を日本人にも読めるようにするとの使命感を抱いて、幕末の日本に渡航してきた、米国の医師宣教師がいた。
ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生だ。
先生は邦訳の際、このトルースを日本語にするのに思案されたようだ。
結局、漢字で「真理」と書いて、「まこと」というフリガナをつけた。
いま我々が「しんり」と呼んでいるこの言葉は、聖書の邦訳語からきていて、比較的新しい日常語である。
ともあれこうして、日本民族に「変わらざる理論知識」の理念に触れる機会が造られたのだ。
<真理は各分野にある>
なお、真理というと人間は「世界に真理は一つ!」と思い勝ちになるのだが、知識の世界ではそうではない。
究極の理論は、あらゆる分野にありうるのだ。
人間の構造に関する真理があり、その霊魂と思いに関する真理もある。
自然や動植物に関する真理もあり、創造神や天使に関する真理もある。
世界の歴史展開に関する真理もある。
その一つ一つに究極の理論はありうるのである。
(だから、のちに話す聖書吟味会の題材も尽きることがない)
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振り返ろう。
前回は、旧約聖書の「万物の創造神」の理念が、神学という学問知識領域を開くことを述べた。
今回は、その同じ創造神概念が、「究極不変の理論知識」という概念を、人の意識の創生してくれたことを述べた。
(読者は創造神の理念を自覚するまでは、真理という言葉の意味がはっきりしなかっただろう。まさにその体験事実が、そのことを証明してくれるだろう)
では、実際にそういう知識が旧約の預言者(著者)によってキャッチされている可能性は、どの程度あるか?
~これを次回に吟味しよう。