鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す28 ~「変わらざる知識」の理念を注入~

2015年07月27日 | 米国への無知を正す







前回に続いて、旧約聖書に特有な創造神理念が与えてくれるプレゼントの話をする。

今回は「不変の知識への夢を与えてくれる」ことについて述べる。



<「理論」は頭に描いた模型>

この世の現実(実在)はきわめて多様である。
人間は、そのなかの事物を認識する際に「単純な模型」を脳内に造って理解する。

ジャンボジェットは巨大である。
これを直接認識しようとすれば、人は少なくとも、その周囲を回ってあらゆる側面を観察せねばならない。

そんなこと出来ないので、人間はそのプラモデルをつくって、それでもってジャンボジェットを認識する。
プラモデルとは、「プラスティック」で造った「模型」という意味である。
モデルは英語であって日本語の「模型」を意味している。

+++

ジャンボジェットより遙かに巨大な「宇宙」を認識するときもこの方法である。
その模型(モデル)を頭の中にイメージとして造って、理解し認識しようとする。





<模型はモデルであり「理論モデル」ともいう>

科学(学問)の世界では、それの模型を「理論」ともいう。
理論は模型であり、モデルであるから、「理論モデル」と言ったりもする。

<理論の現実説明力と妥当性>

理論模型が現実実在にどの程度正確に対応しているか、どの程度よく説明できるかを、モデルの(現実)妥当性という。

その妥当性には、人間の認識能力では限界がある。

たとえば人を取り巻く空間は無限の広がりを持っている。
対して、人間が観察できる空間には限りがあって、全空間にあるすべての実在を観察して模型を造ることは出来ないからだ。

+++

古代ギリシャの学者たちは、宇宙を「ガラスで出来た正12面体」のようなものだとイメージしていたという。
そのなかに、日、月、星などが配置されていて、このガラス体が人の住む地面の上方を回転している。
こういう理論モデル(模型)を心に抱いていたようだ。

このモデルでもって、日、月、星は頭上を動き、朝、昼、夕、夜がやってくると考えていた。

+++

ギリシャ式の天体モデルは後年「天動説」と呼ばれる。

だが、後に望遠鏡が発明され、観察範囲が広がると、天動説モデルでは説明のつかない事象が見えてきた。
たとえば、星でも真北にある北極星は、頭上を回っていなかった。

そこでコペルニクスやガリレオは、新模型を造った。
「地面は実は球体の一部であって、その球体が太陽の周りを回転している」というのがそれだ。

すると、新しく見えてきた天の事象も説明できた。
こうして新理論知識は旧モデルより、現実実在によく妥当することがわかった。
これが後に「地動説」と呼ばれることになる。




<人間の造る理論知識はみな「仮設」>

人はこのようにして、理論モデルを修正していく。

だが、それで究極の模型に行き着くかというと、そうはいかない。
空間は無限の広がりを持っている。
対して、人間は有限な存在で、そのすべてを観察するところまではいけないからだ。

つまり、人間の造る理論モデルは、永久に不完全で一時的なものであり続ける。
そこで、科学者は自分たち人間の造る理論を「仮設(仮に設定した)モデル」と呼ぶ。
略して「仮説」と称されることも多い。




<究極模型を得る夢>

では、人間は究極不動の理論模型を得ることは出来ないのか?

夢を実現する方法は一つだけある。
もし、万物を造った創造神がいて、その方が、人間にメッセージを与えてくれていたならば、そしてそれが旧約聖書に(他の書物でもいい)書き留められているならば、(その可能性は後に吟味する)、そのなかには究極不動の理論模型が含まれているだろう。
これを探ればいいのだ。

すべてを創造した方なら、すべてを知っているはずだからだ。
テレビを作った人間が、テレビのすべてを知っているように。




<トルース理念が出現>


この夢から、トルース(truth)という理念は産まれた。
「窮極不変の知識」という理念(概念)は、人間の意識に自然発生することはない。

人は四六時中、時間・空間の限られた自然環境の中で暮らしているからだ。

旧約聖書が創造神という理念を注入してくれてはじめて、それは人の心に生成したのだ。




<「仮説」のイメージもリアルになる>

そしてその「不変の理論模型」の理念はまた、人間が頭に作る模型は「修正され続ける理論」であることを明確に自覚させる。

ひとの心は対極理念によって、その特性をはじめてリアルに感知できるようにできているからだ。

人間世界が女だけで出来ていて、女が自ら子供を産んで増殖することができて、男が存在しないなら、
女の心に女という概念は出現しない。
それが生じるには、男という対極存在とその理念が必須なのだ。

創造神という理念が人の心に注入されることによって、「仮説」という概念が人の意識のなかでリアルになり、明確化した。


これは、科学史においても画期的なことである。





<ヘボン先生の夢>

この「不変の理論」の理念を含む書物(聖書)を日本人にも読めるようにするとの使命感を抱いて、幕末の日本に渡航してきた、米国の医師宣教師がいた。
ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生だ。

先生は邦訳の際、このトルースを日本語にするのに思案されたようだ。

結局、漢字で「真理」と書いて、「まこと」というフリガナをつけた。
いま我々が「しんり」と呼んでいるこの言葉は、聖書の邦訳語からきていて、比較的新しい日常語である。

ともあれこうして、日本民族に「変わらざる理論知識」の理念に触れる機会が造られたのだ。





<真理は各分野にある>

なお、真理というと人間は「世界に真理は一つ!」と思い勝ちになるのだが、知識の世界ではそうではない。
究極の理論は、あらゆる分野にありうるのだ。

人間の構造に関する真理があり、その霊魂と思いに関する真理もある。
自然や動植物に関する真理もあり、創造神や天使に関する真理もある。
世界の歴史展開に関する真理もある。

その一つ一つに究極の理論はありうるのである。
(だから、のちに話す聖書吟味会の題材も尽きることがない)



+++

振り返ろう。

前回は、旧約聖書の「万物の創造神」の理念が、神学という学問知識領域を開くことを述べた。

今回は、その同じ創造神概念が、「究極不変の理論知識」という概念を、人の意識の創生してくれたことを述べた。

(読者は創造神の理念を自覚するまでは、真理という言葉の意味がはっきりしなかっただろう。まさにその体験事実が、そのことを証明してくれるだろう)

では、実際にそういう知識が旧約の預言者(著者)によってキャッチされている可能性は、どの程度あるか?

~これを次回に吟味しよう。




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米国への無知を正す27  ~吟味する教典の独自性 ~

2015年07月17日 | 米国への無知を正す




本筋に話を戻そう。
筆者は、米国は聖句吟味活動者たちが造った国であることを示してきた。

だが、「だから米国には人類史初の信教自由国家を実現した異例の精神活力があるのだ」といわれてもわからない人が多いだろう。

聖句自由吟味方式が人間の知性と精神に覚醒をもたらす構造を具体的に説明してないからだ。




<教典の独自性を知る>

これを知るにはまず、人々が吟味した教典のもつ特異性から知らねばならない。

スモールグループで自由吟味したのは聖書という教典だ。
これは通常の宗教経典とかけ離れた性格を持っている。

その比類無さを知らないと、その自由吟味活動の実体は浮上しないのだ。


+++

キリスト教活動は、聖句吟味活動で始まった。
その最初の教会を初代教会という。

~これは前述した。

+++

キリスト教の教典である聖書は、新約聖書と旧約聖書が合体したものである。
今我々は新約聖書も読むことが出来る。
だが、これは後に作成されていった書物である。

初代教会が発足する当時、聖書は、いまでいう旧約聖書のみだった。
聖句自由吟味と言うが、初代教会で吟味されたのは旧約聖書だった。

そこでまず、この教典書物の性格をみなければならないのだ。




<著者は二十人以上いる>

世の中に宗教の教典は多々あるが、旧約聖書という教典は、比類のない性格を持っている。

通常の宗教教典は教祖の行いや語った教えを記したものだ。

すなわち、豊かな霊感に恵まれた一人の人物が、様々な霊的経験をもとに人々に教えを語る。
病の癒しを行うこともある。

そして教祖の死後、弟子たちがその教えを書き残す。
通常の宗教教典はこうして出来ている。

+++

だが旧約聖書はちがう。
まずその著者は20人以上いる。

彼らはみな飛び抜けて霊感に恵まれていた。
そして「万物を創造した神」と自称する存在から送られる幻を、霊感に受信してそれらを言葉で記録した。

彼らはそれを創造神からのメッセージと「信じて」記録した。

記録が造られた期間は紀元前1500年頃から400年頃までにわたる。
1100年間の長きにわたって、彼等は与えられた幻を霊感受信し記録していった。

彼等はみな、自分の宗教を興そうと思えば出来た霊感者だった。
なのに、バトンタッチするかのように霊感受信とその記録に注力していった。





<預言者>

この超霊感者はみなイスラエル人だ。
古代イスラエル民族に、そういう超霊感者が1100年にわたって周期的に出た。
平均すると50年に一人くらいの割合で出たことになる。

そしてイスラエル民族もまた、それを創造神からのメッセージ受信記録と信じて、保存してきたのである。

これら超霊感者たちは預言者(prophet)といわれている。
受けた啓示を「言」葉にして「預」かる「者」という意味だ。

だから今時に言う「予」言者とは趣が全くちがう。
こちらはもっぱら「先のこと」を予言する人々だ、

旧約聖書の預言者たちは、自分の同時代に観察した事柄も書き残したが、記述の中核は啓示受信記録だった。





<「万物の創造神」が登場>

20人余の著者が1100年にわたって受けた幻を記したというのもユニークだが、もっと独特なのは「万物の創造神」という神が登場することである。

宗教には神が出てくる。
神とは「見えない影響者」と定義できる。

人間はその影響がおのれに及ぶと本能的に考えるので、これを恐れ、拝み、また願い事をする。
だから神は必然的に出てくるのだ。

旧約聖書にも神は登場する。
だが、そこでまことの神とされるのは「万物の創造神」という限定付きの神である。
この神は、自らが創造した被造物をすべて己の懐のうちに収めている。




<在物神たち>

通常、人間が自然に心に抱いていく神は、そういう超越的な存在ではない。
神は「見えない意識体」でもあり、見えない意識体の総称は「霊」である。
だから、神を広く霊ということも出来る。

ともあれ人は通常、様々な物資のなかに染み込んでいるかのように存在する霊体(神)を心に抱く。

たとえば、巨大な岩の中に神(霊)を感じる。
巨大な樹木に遭遇すると、その中に「見えない影響者」を感じる。
周りにしめ縄を張り、内側を清めて拝することもする。

死んだ先祖のために墓石を造り、そのなかに、先祖の霊が存在するとイメージする。
そしてこれを拝し、私事の報告をし、願い事をする。

その他、狐などの動物の中に神(霊)がいるとも考える。
日本全国津々浦々にあるお稲荷さんはこれを祀ったものである。

彫像を造り、その中にも神がいると考えて拝する。
仏像や、日本の道路脇などに見られる石の地蔵さんのなかにも神を感じてお参りする。

あるいは大小様々な社殿を造り、そのなかに神がいるとして、やはり参拝し、願い事をする。

+++

筆者はこれらの神を、「ものの中に存在するとイメージされる」という意味で在物神(ざいぶつしん)と呼んでいる。









<在物神は感慨のなかに存在する漠然の神>

この神は、人の心の中に感慨として抱かれる。
感慨だから、漠然としたものである。

たとえば、この神が存在しはじめた出発点は不明である。
それを内に含む物質より先に存在したか、後に存在したか、あるいは同時に存在しはじめたか、もハッキリしない。
このように、概念として明確にならず、漠然とした感慨という、それだけの心像であるのが在物神の特質である。





<創造神概念には種々の属性が考えられる>

対して、「万物の創造神」という限定付きの神概念には、様々な属性が演繹(推論)される。

たとえば、自分以外の万物を創造したのなら、それらを創造する前には自分だけが存在したことになる。
そういう「万物に先立って」存在したという属性を筋として見出すことが出来る。
同時に、創られた全ての被造物には、存在に出発点があることになる。

造られたその時点がそれだ。




<時間的無限者>

だが創った側の創造神には存在の始まりがない。
もしあるなら、万物にはそれ以前に存在した可能性あるものも考えられる。
それについては「オレが創った」とは言いがたい。
だから、万物の創造神は無限の過去から存在していることになる。

同様なことが未来についても言えるだろう。
物質や霊は未来においても出現する可能性がある。
もしもそのとき創造神が存在しなくなっていたら、それらを「オレが創った」と言えなくなる可能性がでるだろう。

創造神は将来にわたっても永遠に存在するのだ。

以上をまとめていえば、創造霊は永遠の過去から永遠の未来に渡って存在し続ける時間的無限者ということになる。




<空間的無限者>

時間が出たので空間についても見ておこう。

創造霊は空間的にも無限の広がりを持った存在であるはずだ。
なぜなら、もし有限ならば、その外側の空間との間には境界線(輪郭)があることになる。
そしてその境界線の外にも万物は存在する可能性があり、それについては「オレが創った」とはいいがたいはずだ。
だから空間的にも無限の広がりを持った無限者となる。



<神学が出現>

万物の創造神には、他にも様々な属性が論理的に見出されていく。
こういう考察を進める仕事を神学(しんがく、theology)という。
創造神という意味が限定された神を登場させる宗教では、神学という知的学問が開けていくのだ。

+++

たとえば前述した創造神の空間的無限者という属性は、異分野の聖句と不思議に繋がっている。

モーセが取り次いだ律法には「私(創造神)を像に刻むな」という戒めがある。
像に刻むというのは、モデルが空間的有限者であって可能になることである。
有限だから大きさに限界があり、その限界線が「形をつくる」のだ。


だが、それは被造物の属性である。
創造神を像に刻むというのは、空間的無限者を有限な被造物として扱うということだ。
自分と御子を最も愛する創造神にとって、それはひどく御旨に反することである。

創造神宗教ではこのように神学という思索領域が開けていく。

++++

対照的に在物神宗教では、こういう論理展開はまったく生じない。
漠然とした感慨でしかない神からは、推論は展開しないのだ。

屁理屈を言ってるように思う人もいるかもしれないが、これは人間の「知力」に大きく関わっている。

人間は神という思いを常時意識の底に抱いて、ものを考え暮らしている。
夜暗闇のなかで、髪の毛を顔にバラリと垂らした女性に遭遇したら震え上がるだろう。
それはその女性が物理的な危害を加えるだろうから、というより、むしろ、霊的な影響を与える可能性に恐怖を感じるからである。

霊的な存在(神)の意識は、かくのごとくに、人の心に常駐している。

その神が単なる感慨に留まり、願い事は「ウン」と念ずるだけの存在か、筋道だってその属性を考えるべき存在であるかは、単なる宗教問題に留まることはない。

それは人の知力の成長に密接に関連しているのだ。

旧約聖書という教典はその筋道を持った神の概念を供給する。
旧約の独特な性格についての話は、次回も続けよう。







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臨時版2:  60年安保と集団的自衛権~状況の違い~

2015年07月06日 | 米国への無知を正す




臨時版が多いのはよろしくないが、今回の集団的自衛権問題につき、もう一つ追加しておく。




<民主主義国だから国民投票にすべきでは?>

聞くところでは7月15日に強行採決という。

そういう安倍グループに対しては、違憲とは別の、民主主義を根拠にした攻撃も国会で野党からなされている。

「日本は民主主義の国だから、この大問題については、国民投票で決すべきではないか」~がそれである。

これに対して、安倍さんはお爺さんの岸信介首相が強行採決で押し切った60年安保を持ち出して反論する。

その主旨はこうだ~

「あのとき、国民投票にしていたら、安保破棄になっていただろう。
 だが今振り返れば、安保継続が正しかったことが人民もわかっている。 
だから、国民の大勢意見に従えばいいと安易に考えるのは必ずしも正しくない」~と。




<おじいさまの時と同じに考えるのは間違い>

けれどもこうやって安易に類似をいうのもまた正しくない。

日本人民は明治以来、虚像によって政治問題への姿勢を形成してきた。
統治者はそれをわかっていて、そのままで対処してきた。
いわゆる愚民として扱ってきた。

だが、今回の集団的自衛権問題は、60年安保のときと構造が違う。

安倍さんの祖父が首相だった60年安保継続の時は、学生、マスコミが抱いた虚像はマルクス経済理論のそれだった。

これまでも述べてきたが、この虚像は資本主義経済の不平等構造をクリアーに描き出し、
生産手段の私的所有をなくすることによっての平等社会の実現は夢でない

~と夢見させてきた。




<マルクス理論の盲点>

だがこの理論には盲点がある。

生産体(工場、企業)の運営は、実際には難しい。
資本主義社会においても個々の企業の経営者は苦労の日々である。

なのに革命前には何千とあった私企業活動のすべてを中央国家に吸い上げて、国の生産を
官僚機構で計画的に行おうとしたらどうなるか。

それは諸工場にノルマを課し、「命令=服従」システムで、賞罰を与えつつおこなうしかなくなる。
労働者が互いに愛し合う平等なユートピアなどできるはずがなく、国家は逆に隷従社会になる。

にもかかわらず、マルクスは生産体運営の難しさなど「現象であって本質ではない」と無視して理論を展開した。
筆者が思うに、彼は経営のことは知らなかったはずだ。

そしてこの「現象に過ぎない」と無視した要素が、革命後の社会主義社会では大きく効いてくるのだ。



<今も残る説得力>

だが、彼の論理体系は精巧、巧妙に出来ていて、世界の経済学者の多くが「これぞ絶対の真理」だと信じた。

マルクス思想が「隷従社会をもたらす」本質を持つことを初めて筋道立てて明かしたのはハイエクの『隷従への道』だが、それもようやっと第二次大戦末期(1944年。邦訳は1954年)のことであった。

だが、以後も彼の証明について行けない経済学者は依然として多い。

あえて言えば、今でもその傾向はある。
ベルリンの壁が崩壊して、気分としての社会主義礼賛の世論は薄らいだ。
だが、それは気分としてだけで、論理的には知識人“と言われる”人も認知していない。
ことマルクス思想に関しては、日本人はいまも大半が虚像を脱却していないのだ。




<マル経教師だけの経済学部>

そんなわけで、端的な例を挙げれば、立教大学では戦後長い間、経済学部の教授はマルクス経済学者だけという状態だった。
教授会の自治によって、いわゆる「マル経」学者以外の教員を教授たちが採用しないのだ。

もちろん講座も「マル経」のものだけだが、受験生にはそんなことわからない。
知らずにこの学部に入学してくる学生は災難だった。

この大学では「近経」(近代経済学)は(やむなく)社会学部でやっていた。
今はどうなっているか、少なくとも20世紀末まではそうだったのではないか。




<北朝鮮はユートピアだった>

それくらいだから、1960年安保問題の当時には、日本の学生、いわゆる知識人そしてマスコミのほとんどは、「資本主義は人民を不幸にする根源」という気分でいた。

若い人は信じがたいかもしれないが、当時は北朝鮮を地上のユートピアだと日本人民は信じていたのだ。

だから、もしあのとき国民投票すれば、安保破棄賛成の票が遙か過半数を超えていただろう。
さすれば日本国運営の原理はマルクス思想に転じ、今の北朝鮮のようになっていた可能性も低くはない。

本当に危なかった。
あのときの安倍さんのおじいさまの政策は正しかったのだ。




<今回の虚像は憲法九条>

だが、今回は違う。
今回の虚像は憲法九条だ。

強行採決しなくても、国民がただちに地獄に陥ることはない。
北朝鮮のようにはならないのだ。

米国に日本の防衛をお世話になっている状態が、もうしばらく続くだけのことだ。
そこはもうしばらく耐えていただく。
その間に、日本人民を政治課題を実像で考えるよう方向付ける。

もう政治意識をリアリズムベースにしないと、日本の民主制は機能しない状況を続けることになる。
それではアメリカも日本をお荷物として抱え続けることになる。

安倍グループは集団的自衛権問題で、日本人の視野を初めて世界に広めるインパクトを与えた。
今回は強行採決をとりやめ、これを愚民国家脱却の絶好のチャンスとすべきである。









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臨時版: 集団的自衛権問題の構造と最適政策

2015年07月03日 | 米国への無知を正す




ここでまた、世俗の問題を論じておく。
フェースブックにも書いたが、集団的自衛権問題を述べておく。

テレビでも、SNSでもこのテーマの議論が盛んである。
でも、視聴者は国会中継など特に、中身がよくわからないと思う。

集団的自衛権問題は、複雑でトリッキーだからである。

虚像、実像の糸が絡まり合っているのだ。




<9条の実像>

これを巡る議論は「憲法9条に合憲か違憲か」を中心に展開している。

まず、この9条の「実(じつ)」の部分からいこう。
この条項はこういう経緯で成立している。

第二次大戦中を通して、中国を含む戦後世界運営の指導国は、日本民族の怖さに震え上がった。
日本人は被害者意識だけを表に出しているが、中国をはじめ他国が受けた被害はおおきかった。

彼らの意識はこうだった~
日本民族は武器技術力と、人民の盲目的従順性向は異例に高い。
その反面、その人間集団を統治し指導していく政治能力は異例に低く、軍部が暴走してアジア諸国民に獣性むき出しの凶暴なことをした。
彼等に、武力を持たせれば、また軍部が暴走する危険が非常に大きい。

+++

この民族をどう扱うか?
思案の末の結論が、①まずはとにかく軍備を持たないと憲法でうたわせ、
②民族の防衛は、米国が肩代わりする。
~これだった。

そこで憲法9条の骨子は「紛争の解決手段として武力は用いない」「軍備そのものも保有しない」の二つになった。
夢のような条項だが、そこには絶対無軍備主義という「法の精神」がある。

+++

だが、人間集団が他の集団に暴力手段(武力)でもって攻撃を加える可能性は常にある。

たとえば飢えは人の獣性を意識の上位に昇らせる。
集団で獣性が上位になれば、他国の食料などを奪取しようという動きは自然に起きる。
歴史はそれを示している。

こういうとき「ちょっと待ってください。話し合いましょう。話せばわかる」というのが九条国の精神だ。
相手集団がかまわず自国に侵入し民を殺し始めても、
婦女子を暴行しはじめても、
「話し合いましょう」と言い続けるのが9条の「純粋精神」なのである。





<終戦時の便法>

けれども、実際の話そんなことは、人間に出来ない。
「右の頬を打たれたら左の頬を出す」ことは、個人ベースなら人によっては出来るかもしれないが、国家集団には出来ない。 

だからこの条項は基本的に当座の「便法的」なのだ。
日本民族が、軍事力を統御できる政治能力をもつまでの終戦直後の便法なのだ。

「全ての法律の基盤である憲法がそんなことでいいのか」と言う人もいようが、世の中には例外というものがある。
九条は「例外的」なのである。
必要に応じて“解釈”でもって、精神から外れた解釈もする条項なのだ。

~これが憲法九条の実像だ。




<警察予備隊?>

そして例外解釈が必要な機会は、新憲法が出来て5年もたたない、昭和25年に発生した。
朝鮮戦争がそれだ。
ここで北側が勝てば、北は朝鮮半島全土を支配下に納め、中国、ソ連の支援を得て、日本侵略・共産化に進んでくるだろう。


日本は自分たちの軍隊をもって、最低限、彼等の意欲を抑止せねばならない。

そこで日本ではすぐに警察予備隊という名で軍隊が作られた。
この呼称には、九条の基本精神から外れ、ごまかしたという「うしろめたさ」が如実に感じとれる。

でも日本人はすぐに慣れる。
呼称はまもなく「自衛隊」に変えられ「自衛のためなら軍隊を持っていいという思想を9条は持っている」との通念が出来ていった。

とても便法的だが、九条自体がそもそも便法的だからしかたない。




<9条の虚像>

 では憲法九条の虚像とは何か?

「300万の戦死者を出した戦争への反省の元に、国民が抱いた反戦・平和への願い」が具現化した憲法条文~というのがそれだ。


どうしてこんな虚像に着地したのか。

理由はこうである。
9条の実像は人民には知らされなかった。
日本人の理解能力を超えていたからである。

+++


そもそも日本大衆は戦時中から大本営の虚情報に囲まれて生きていた。
大本営発表を実像世界と思って「夢の中」で暮らしてきた。

戦後日本を統治したマッカーサーは、この日本人を「政治的に13才」といった。
この人々には9条の実状を理解することなど無理だったのだ。

だから知らされなかった。

そこで、日本人は色々考えた。
そして「多くの戦死者を出したことへの反省から」という上記の虚像理念を作り出したのだ。


<戦前心理への回帰>

こうして、日本人は、戦前と同じく「虚像」を実像と思い込んで生きることになった。
戦後もまた、「夢の中」なのだ。

その中で、人民は平和・反戦を、ひたすら訴え続ていきている。

<マルクス思想が絡んでくる>

さらにそこにマルクス思想が絡んできた。

GHQは戦後日本人に言論自由を与えた。
そのなかでマルクス思想は爆発的に普及した。

+++

この思想は「資本主義社会では資本家が国家を巻き込んで商品の海外市場を求める」
「他国を植民地にしようと争い、かならず、戦争を起こす」
~という信念を持っている。

これが、反資本主義感情を産み、米国を資本主義のチャンピオンと位置づけさせ、嫌米感情を生んだ。

そしてそれらが反戦・平和思想にからみついたのである。

+++

このなかで人民はますます反戦情念を燃え立たせていった。

ベルリンの壁が崩れて、マルクス思想は流行の陰りを見せた。

けれどもその感情の火照りは健在で、人民は憲法九条を「うるわしき金科玉条」と心情に抱き続けてきている。

最近には「ノーベル平和賞の候補に出すべき」との喜劇的な声さえ出ている。





<集団的自衛権論争の構造>

こういう複雑な背景の中で今回の集団的自衛権の諾否問題は起きているのだ。

人民(野党も)は、この憲法九条に従うのが絶対的正義と考えて疑わない。

対して、安倍政府は、憲法9条の「実像」を知っている少数者からレッスンを受けている。
これは解釈で内容変更すべきものだよ、と(本音では)思っている。

だが本音を言うわけにはいかない(ちらちらと国会答弁では現れているが)。
安倍政府は、これを人民の抱く虚像の土俵の中で、これを「合憲」と主張して押して行かざるを得ない。
従来、自民党がなしてきたようにだ。

ところが、今回は「他国の戦争に同盟国だからだと加勢するのも合憲」という解釈でやることになっている。
そうしたら「いくらなんでもそれは9条を超えている」という見解が大勢になってしまった。
自党が呼んだ憲法学者までが国会で「違憲!」と証言してしまったからたまらない。





<適切な政策は何か?>

それでも政府は今回も力で押し切るべきか?
筆者は別の政策見解を持っている。
「延長国会末までしっかり反対運動をさせて、憲法修正という方向に切り替える」というのがそれだ。

議員数の力で押し切ってしまうと、国家へのダメージが大きすぎるのだ。

ダメージの一つは、「ここまで憲法を崩してしまうと、日本人はますますジャスティス(正義)感覚の薄い国民になってしまう」、ということだ。
第二は、国民に法治国家や民主制への絶望を与える危険が大きいことだ。
さすれば第三に、国民の政治見識を高めようという意欲も、ますます育ちがたくなるだろう。

第四は自衛隊という軍部への影響だ。
合憲と強引に押し切れば、軍部(自衛隊)は「法文解釈などはどうにでもなるもの」との姿勢を強めていくだろう。
これは、戦前の関東軍がたどった道だ。
軍隊は武力も諜報力も手中にしている。、
やろうとすれば、文民コントロールなど押し切ることが出来るのだ。



<問題提起は大きな業績>

だからここは一旦引くのが正解だと、筆者は見る。
それでも安倍政府の功績は残るのだ。
国際社会の中での国防の議論を盛り上げたのは、大きな業績だ。

一旦引いて、九条の実像を明かし、実像に立って政治議論をするという方向に、日本人を方向付けるべきだ。
日本大衆もマスメディアをも「夢の中」から脱出させる。
リアリティに目覚めさせる。
もう愚民国家はやめねばならない。

その中で、憲法修正を提案していく。
時間はかかるだろうが、そういう意識転換を喚起するのは、100年の計に属する立派な仕事だ。




<米国には今しばらく資金援助で我慢して貰う>

この政策は、米国には我慢を強いることになるだろう。
米国は、この70年間、世界大戦が起きないように世界運営を続けてきている。
日本もそのおけげで、70年間もの平和を享受させて貰ってきている。

だがさすがの米国にも、世界を面倒見てきた疲れが人的にも資金的にも現れてきている。
本当は、日本は軍事的にも助力すべきだ。

だが、その体制は憲法の「解釈」でなく、「修正」を通して整えるべきだ。
実像で考えるように人民意識を転換させてそれをなす。

時間はかかるが、米国にはもうしばらく、経済的助力で我慢して貰う。
いましばらく「思いやり予算」で対処させてもらう。

これが今回の最適な解決法だと思う。





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