鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

28 <神意識は政治資質を創成する>

2014年03月18日 | 聖書と政治経済学




<世界観が事物の意味を決める>


人が心に抱く神の理念は、政治資質に密接に関連している。
今回はそれを考える。

まず、自分を取り巻く環境観、(これは世界観とも全体観ないしは全体像とも言えるのであるが)、これが人の事物認識に及ぼす影響をみよう。

人は身辺に起きる個々の事項を、自らのもつ世界の全体像のなかに位置づけて、意味づけをしている。
このこういはほとんど反射的と言ってもいいいいものである。

たとえば日本にはどの地方にもオウナー経営者がたくさんいる。
これをマルクス的、社会主義的世界像のもとで見るとどうなるか。

マルクス思想は、資本主義経済は資本家が労働者を安く働かせて搾取する経済体制だという全体観を持っている。

するとオウナー経営者は労働者を搾取する、悪しき資本家と意味理解されることになる。

+++

他方、自由市場主義的な世界像で見るとどうなるか。
この思想は「すべての個人的活動は、市場によって効率的に組み合わされ、世の中に富を増大させていく」という全体観を持っている。

その中に位置づけれが、オウナー経営者は、世の中に富を増やし、国家に雇用を創成する存在となる。

このように、同じオウナー経営者でも、それを取り巻く環境観、世界のイメージ、全体像次第で意味づけが決まっていく。
これはもう、人間が生来持って生まれた思考方式であって、変わらない。






<行動も全体観で決まる>


それだけではない。
世界像はその中の事物に対する実践姿勢も決めていく。

人は、自分の行動も「意味あるもの」にしたいと願うからだ。


オウナー経営者に関してもそうだ。
マルクス主義的世界像を持つ者は、搾取のない社会を作るべく社会主義革命を起こそうとする。
彼から生産手段(工場や機械)を取り上げて、私有財産を認めない社会を作ろう、と努めていくだろう。

他方、自由至上主義的経済観を持つ者は、この経営者とともに働き、ますます富と雇用を増大させようと思うだろう。

このように、実践姿勢もまた全体像によって方向付けられる。





<世界観は広域なほど影響力が強い>


そして、全体像の影響力は、それがカバーする領域が大きいほど強力になる。
今仮に、そのいくつかをカバー領域の狭いものから広いものへと提示してみる。

家族も自分を取り囲む環境の一つだから、家族観から始めると次のようになる。

家族観 → 地域社会観 → 国家観 → 人類世界観 → 宇宙観 → ・・・。

これらの影響力は、右に行くほど、つまり、「より広域的な環境観・全体観になるほど、影響力は強くなる。

広域的な世界観は、より狭域的な全体像を包含し、かつそれを超えた新しい領域を見せてくれるからだろう。

人間は新しい領域が見えててくる都度に「目を開かれた気持」になるものだ。
いわゆる「目から鱗が落ちた」気分になる。
それは新鮮で「生まれ変わったような気持ち」をももたらす。

それ故に人は、広域的な環境像ほど「より基底的なもの」と感じていくのであろう。

意味づけもまたそれにならう。
広域的な世界観からの意味づけになるほど、人はそれに「より基底的」なものを感じるのだ。




<世界観の範囲>

今あげた全体観は、みな物質界のものだ。
これに神の理念が加味されるとどうなるか。
世界観は霊界をも加えた、さらに広域的なものになる。

そして、物質界と霊界(見えない意識体の世界)は人間のイメージできる世界のすべてだ。
だから、神の理念を背景にした世界観を、すべてを網羅した究極の全体観だと人は受け取る。

究極の全体感とは、もうそれ以上に変わることのない安定的な世界観でもある。
それ故、人は神も含めた世界観から、最も強い影響を受けるのだ。
オウム事件で、高学歴な成人たちが教祖の教えに心酔していったのもそれによる。





<「万物の創造神」が最大の広域イメージを提供する>


「万物の創造神」は自分以外の万物を創造した神のイメージである。
その「万物」は物質だけでなく、被造霊も含む。

また、以前の第24回に述べたように、その神は時間空間的にも無限者という道理にもなる。
これ以上に広域的な神はない。これは究極の対象領域をカバーする、神の概念なのだ。

物質界である世界や歴史展開をもこの中で考える。この視野を持つ人は、等身大を遙かに超えた世界を常時心に抱くことになる。

政治はそのなかのほんの一部の事項だ。
だから、人はこれを常時軽々と考えておられる。

こうして政治資質はきわめてよく醸成されるようになるのだ。




<自然神イメージは物質の「中の」もの>

これからみると、人が自然物の中に覚えていく自然神・在物神はどうなるか。

創造神イメージを知らない人には、この神イメージは広域的な印象を与える。
だがそれは事物の「中に」感じられるものであって、自ずとその広域性には限界がある。





<自然神イメージは感慨だけのもの>

もう一つある。
自然神は、漠たる「感慨」のままでいる神イメージである。

それは漠然とした環境感覚を造るが、それ以上のものではない。
つまり、論理的な環境観ではない。
「観」でないから、世界「理念」にも展開しない。

要するに、感慨としての神なのだ。

そして日本人の意識には、神が支配的になっている。

「日本人には理念がない、プリンシプルがない」といわれてきて久しい。
これもこの神意識に由来している。

政治のように等身大を超えた事柄は、プリンシプルを当てはめながら考えるべき事象だ。
そのプリンシプルが希薄なのだから、日本人に政治資質が育たないのは当然な帰結でもある。




<創造神イメージは、神学理念を創出する>

一方、創造神イメージは実感の前に理念として与えられる神イメージだ。
それは明確な概念であり、論理構造を持った理念である。

すると、そこから神学(thology)も生まれてくる。
この神は時間空間的無限者だ。
霊的存在だ。
では世界には他に霊はいないのか。
創造霊に造られた被造霊はいないのか。
人間は霊的存在なのか。
だとすれば肉体との関係はどうなっているのか。

~等々、創造神の神イメージは、神学理念、神学的世界観を次々に創出していく。
これは形而上学(互換で認知できない領域の事柄を探求する学問)でもある。

そして、こうした形而上的思考訓練が、政治資質形成の有効な背景を作り上げるのだ。


+++

だが、何事も二面性を持っている。
日本には感慨の神からくる利点もある。

それを次回に考えよう。








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27<経験せずに悪を知ることが出来る>

2014年03月12日 | 聖書と政治経済学




人間が知識を得る原点は経験である。
最も確信を持てる知識は、自分が体験することによって得られる。

だが、悪に関する知識に関しては、その方法には難点がある。
悪を体験で知ろうとすると、それに飲み込まれる危険が大きいからである。

端的な例を挙げる。
アヘンなどの薬物を摂取することは法律でも禁じられていて、悪だとみて良いだろう。

だが、その悪の味を体験しようとすると、止められなくなる恐れが大きい。
中毒になってしまう。
すると、本人は人生全般に大きなダメージを受けてしまう。

アヘンの販売を手がけることも悪だ。
それを経験して知ろうとすると、密売社会での人間的繋がりが出来てしまう。
これから抜けられなくなっても人生にダメージを受ける。





<悪からは遠ざかれ>

聖書は悪に対しては、「戦ってこの世から消滅させよ」、とはいっていない。
むしろ「悪からは遠ざかれ」という思想である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ウツの地にヨブという名の人がいた。
この人は潔白で正しく、創造神を恐れ、悪から遠ざかっていた」
(『ヨブ記』1章1節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「悪から遠ざかって善を行い、
平和を求めてこれを追い求めよ」
(『ペテロの第一の手紙』3章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


悪の根は深く、とても人間の力では抜き去ることが出来ないと認識しているからだ。

具体的には、聖書は、人間のなす悪は「悪魔よりでている」と洞察している。
聖書では悪魔は架空のイメージだけの存在ではなく、現に実在する存在だ。

この存在はだましの名手で、予想もつかない巧妙な手口を使ってくる。
強力な誘惑力を持っている。それでいて人の目には見えない。
とても創造神の助けなくして太刀打ちできる存在ではない。

+++

だから「悪からは遠ざかれ」と聖書は教える。

聖書に言われなくても、こういう知恵を多くの大人は、子どもの学校選択で発揮しているように見える。
特に経済的余裕のある親は、自分の子供が将来良き暮らしをするようにと強く願う。
中学、高校の思春期になると、子供が悪に染まることをとても懸念する。

そこで彼らは、子どもを私立の学校に入れたがる。

誤解を恐れず言えば、公立の学校には、どうしても貧困な家庭の子どもが交じっている。
そして現実の話、経済的貧困は、やはり、子どもを悪に近づけやすい。
中には、貧しいが故にたくましく育っていく生徒もいる。
だが、貧困は概して子どもを悪に染めやすいのだ。

悪に染まると人間という生き物は、子どもでもだましを使う。
誘惑にかかったら、我が子も悪の快楽におぼれて染まってしまうかもしれない。
抜け出せなくて再起不能になるかも知れない。

その危険を避けるべく、親は比較的家庭の経済条件が恵まれた子弟の多い、
それも出来るだけ学業レベルの高い私学に入れたがる。

そうやって子供を危険からひたすら遠ざけようとするのだ。




<“良き”社会のパラドックス>

だが、遠ざけるほどに、子供は悪を知らない極楽とんぼになっていく。
それが大きな社会問題を生む。

こういう私学に進学した子弟は、受験社会で有利な戦いをする。
そして学歴社会で、多くは指導的なポストを得ていく。

指導的地位には経済的な権力が伴う。
すると、それを利用しようという悪の勢力が直接、間接に働いてくる。
巧妙な誘惑も仕掛けてくる。

ところが当人は人の悪、この世の悪については無知なままで育ってきている。
だから、容易に仕掛けにはまっていく。
後で気がついたら、「断れない立場に立たされていた」という事が起きる。

+++

国際社会に出ると、この危険はさらに大きくなる。

日本国内で暮らしが楽な社会が実現できても、世界には貧困と悪の満ちた社会が沢山ある。
それが悪に染まった人間を、沢山産み出している。

彼らの仕掛けに「悪に無知」な人間は、簡単にだまされる。
指導的地位にあるものは、こうして海外で大きな国益を失う。

+++

社会の指導者のポストを得て、指導者としてとるべき行動がとれなくなる・・・
この問題は、大人が子孫に良き暮らしを遺してあげるほどに大きくなっていく。
戦時などの動乱の時代が終わって、世の中が安定し、社会経済が裕福になるにつれて増大していく。

「悪に無知な」指導者の増大というのは、実は、国家の大問題でもあるのである。

+++

このパラドックスめいた重要問題に、大人は正面から対峙しようとしてきていない。
「先のことだから」と自分を納得させたりして、この問題を避けて暮らしている。

実のところは、対処策が皆目見つからないから見ないようにしているのだ。





<打開策は聖句吟味に>

だが、この打開策もまた、聖書吟味にある。

悪の知識もまた、聖句吟味によって獲得可能なのだ。

聖書は悪の情報を、人間の心理構造の面からと、悪それ自体の構造の面かの両方から提供している。
そしてその洞察は、比類なく深い。

日本の聖書識者は、「聖書は愛の物語」だと教えている。
たしかにそういう面もあるがそれは枝葉で、聖書という巨木の根幹は、創造神と悪魔の戦いの物語である。

聖書では、最初の書物である『創世記』の冒頭部分からすでに、
創造神の御子(イエス)と悪の根源である悪魔とは、根本的に敵対関係にあることを宣言している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは、お前(悪魔)と女との間に、
また、お前の子孫と女の子孫(御子イエス)との間に敵意をおく」
(「創世記」3章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

がそれである。

人間は基本的に、その両者のうちのどちらの側につくか、でもって分かれることになっている。
悪魔の側に付き続ける人間は、悪魔の影響によって悪をどんどん行っていく。

だから、悪魔の影響下で悪をなす人間の姿も、ふんだんに描かれている。

+++

兄が弟を殺す事件もある。
弟が母と計って、兄の長子相続権をだまし取る事件も記されている。
娘が父と関係して子をもうける話もある。

天使も甘いだけの存在ではない。王様の預言者の口に偽りを言わせて、王の判断を誤らせ、
一族を死なせてしまうようなこともする。

イスラエル史上最大の王様とされてきた人物も悪を犯す。
部下の戦士の妻の誘惑に負けて妊娠させてしまう。
困った王はその戦士を最前線の激戦地に送って戦死させてしまう。

他にも悪の話は満載だ。




<創造神の正義との対比で示す>

前回に記したように、これらを事例として吟味すれば、事態は立体化してリアリティが増す。
まるで現実の中にいるように、悪を追体験できる。
だが、それを続けるならば、吟味者もまた悪のイメージに引き込まれるだろう。
それもまた道理だ。

だが、聖書はそれだけのものではない。
この書物はそうした悪を、常に、正義の源である創造神と対照させて描いている。
旧約聖書の『ヨブ記』などはその代表だ。

だから読む者は、悪を知り、同時に、創造神の正しさ(義)の知識をも深めて行かれる。
こうして正義感覚(sense of jastice) をも身につけていくようにもなっている。

結局聖句吟味が、悪のイメージに飲み込まれることなくして悪の知識を得る道を、開いてくれるのだ。





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YouTubeの「ヨハネ伝解読」動画シリーズ

2014年03月03日 | 聖書と政治経済学


YouTubeに「ヨハネ伝解読」動画シリーズを連載しています。

2013年6月16日に、第23回から第28回までを示しました。
今回、それ以後のものを6つほど掲示いたします。

まだありますが、後に追加掲示いたします。

ご視聴下されば幸いです。



29.旧約聖書はイエスを比喩で述べた本


  https://www.youtube.com/watch?v=F5_Y4OaK_Pw
 

30.永遠に生きられる食物を求めなさい


  https://www.youtube.com/watch?v=zhBu9PDagRI


31.イエスの身体は言葉から成っていた


  https://www.youtube.com/watch?v=-R24imiySYQ 



32.聖書の話は事実か作り話か


  https://www.youtube.com/watch?v=xs5Qt6WauDg


33.天と世は敵対関係にある


  https://www.youtube.com/watch?v=qAvwYifZYB4


34.許す罪、代償する罪


  https://www.youtube.com/watch?v=npJnfCFBvTA



~また続きをお知らせいたします。



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