<世界観が事物の意味を決める>
人が心に抱く神の理念は、政治資質に密接に関連している。
今回はそれを考える。
まず、自分を取り巻く環境観、(これは世界観とも全体観ないしは全体像とも言えるのであるが)、これが人の事物認識に及ぼす影響をみよう。
人は身辺に起きる個々の事項を、自らのもつ世界の全体像のなかに位置づけて、意味づけをしている。
このこういはほとんど反射的と言ってもいいいいものである。
たとえば日本にはどの地方にもオウナー経営者がたくさんいる。
これをマルクス的、社会主義的世界像のもとで見るとどうなるか。
マルクス思想は、資本主義経済は資本家が労働者を安く働かせて搾取する経済体制だという全体観を持っている。
するとオウナー経営者は労働者を搾取する、悪しき資本家と意味理解されることになる。
+++
他方、自由市場主義的な世界像で見るとどうなるか。
この思想は「すべての個人的活動は、市場によって効率的に組み合わされ、世の中に富を増大させていく」という全体観を持っている。
その中に位置づけれが、オウナー経営者は、世の中に富を増やし、国家に雇用を創成する存在となる。
このように、同じオウナー経営者でも、それを取り巻く環境観、世界のイメージ、全体像次第で意味づけが決まっていく。
これはもう、人間が生来持って生まれた思考方式であって、変わらない。
<行動も全体観で決まる>
それだけではない。
世界像はその中の事物に対する実践姿勢も決めていく。
人は、自分の行動も「意味あるもの」にしたいと願うからだ。
オウナー経営者に関してもそうだ。
マルクス主義的世界像を持つ者は、搾取のない社会を作るべく社会主義革命を起こそうとする。
彼から生産手段(工場や機械)を取り上げて、私有財産を認めない社会を作ろう、と努めていくだろう。
他方、自由至上主義的経済観を持つ者は、この経営者とともに働き、ますます富と雇用を増大させようと思うだろう。
このように、実践姿勢もまた全体像によって方向付けられる。
<世界観は広域なほど影響力が強い>
そして、全体像の影響力は、それがカバーする領域が大きいほど強力になる。
今仮に、そのいくつかをカバー領域の狭いものから広いものへと提示してみる。
家族も自分を取り囲む環境の一つだから、家族観から始めると次のようになる。
家族観 → 地域社会観 → 国家観 → 人類世界観 → 宇宙観 → ・・・。
これらの影響力は、右に行くほど、つまり、「より広域的な環境観・全体観になるほど、影響力は強くなる。
広域的な世界観は、より狭域的な全体像を包含し、かつそれを超えた新しい領域を見せてくれるからだろう。
人間は新しい領域が見えててくる都度に「目を開かれた気持」になるものだ。
いわゆる「目から鱗が落ちた」気分になる。
それは新鮮で「生まれ変わったような気持ち」をももたらす。
それ故に人は、広域的な環境像ほど「より基底的なもの」と感じていくのであろう。
意味づけもまたそれにならう。
広域的な世界観からの意味づけになるほど、人はそれに「より基底的」なものを感じるのだ。
<世界観の範囲>
今あげた全体観は、みな物質界のものだ。
これに神の理念が加味されるとどうなるか。
世界観は霊界をも加えた、さらに広域的なものになる。
そして、物質界と霊界(見えない意識体の世界)は人間のイメージできる世界のすべてだ。
だから、神の理念を背景にした世界観を、すべてを網羅した究極の全体観だと人は受け取る。
究極の全体感とは、もうそれ以上に変わることのない安定的な世界観でもある。
それ故、人は神も含めた世界観から、最も強い影響を受けるのだ。
オウム事件で、高学歴な成人たちが教祖の教えに心酔していったのもそれによる。
<「万物の創造神」が最大の広域イメージを提供する>
「万物の創造神」は自分以外の万物を創造した神のイメージである。
その「万物」は物質だけでなく、被造霊も含む。
また、以前の第24回に述べたように、その神は時間空間的にも無限者という道理にもなる。
これ以上に広域的な神はない。これは究極の対象領域をカバーする、神の概念なのだ。
物質界である世界や歴史展開をもこの中で考える。この視野を持つ人は、等身大を遙かに超えた世界を常時心に抱くことになる。
政治はそのなかのほんの一部の事項だ。
だから、人はこれを常時軽々と考えておられる。
こうして政治資質はきわめてよく醸成されるようになるのだ。
<自然神イメージは物質の「中の」もの>
これからみると、人が自然物の中に覚えていく自然神・在物神はどうなるか。
創造神イメージを知らない人には、この神イメージは広域的な印象を与える。
だがそれは事物の「中に」感じられるものであって、自ずとその広域性には限界がある。
<自然神イメージは感慨だけのもの>
もう一つある。
自然神は、漠たる「感慨」のままでいる神イメージである。
それは漠然とした環境感覚を造るが、それ以上のものではない。
つまり、論理的な環境観ではない。
「観」でないから、世界「理念」にも展開しない。
要するに、感慨としての神なのだ。
そして日本人の意識には、神が支配的になっている。
「日本人には理念がない、プリンシプルがない」といわれてきて久しい。
これもこの神意識に由来している。
政治のように等身大を超えた事柄は、プリンシプルを当てはめながら考えるべき事象だ。
そのプリンシプルが希薄なのだから、日本人に政治資質が育たないのは当然な帰結でもある。
<創造神イメージは、神学理念を創出する>
一方、創造神イメージは実感の前に理念として与えられる神イメージだ。
それは明確な概念であり、論理構造を持った理念である。
すると、そこから神学(thology)も生まれてくる。
この神は時間空間的無限者だ。
霊的存在だ。
では世界には他に霊はいないのか。
創造霊に造られた被造霊はいないのか。
人間は霊的存在なのか。
だとすれば肉体との関係はどうなっているのか。
~等々、創造神の神イメージは、神学理念、神学的世界観を次々に創出していく。
これは形而上学(互換で認知できない領域の事柄を探求する学問)でもある。
そして、こうした形而上的思考訓練が、政治資質形成の有効な背景を作り上げるのだ。
+++
だが、何事も二面性を持っている。
日本には感慨の神からくる利点もある。
それを次回に考えよう。