こんにちわ。
「キリスト教の正しい学び方」、今日も進めてまいりましょう
+++
近世以降の英米史の公式知識は霧に覆われています。
それが英米史、ひいては近代世界史を漠然としてわからないものにしています。
<産業革命の不思議>
英国についてみると、たとえば18世紀半ばに、人類史上初めて起きた産業革命がそうです。
歴史教科書は、工業生産力の飛躍がイギリスを世界の覇者とした~といった類いのことだけ書いている。
それ以上に踏み込んだ説明はありません。
なぜイギリスで先駆的に起きたのか。
その種の説明は、いっせつなされていません。
+++
古代ローマ帝国の武器技術、建築技術は、今から見ても驚異的で卓越していました。
産業生産技術に転化できる技術資産を沢山もっていた。
なのにその伝統を持ったイタリアになぜ先に起きなかったのか。
そういう論述がない。
できないからです。
+++
聖句自由吟味活動が普及し、人民の精神・知性が飛躍的に活性化したという事実。
聖句吟味によって人間観と社会思想がダイナミックに更新されたという事実。
~これらを考慮に入れなければ、じわじわと産業革命の機が熟していく動向は認識できません。
そういう心理変化の過程が見えないのです。
みえないからその説明が出来ません。
<歴史説明は精神描写で重層化する>
少し話を広げます。
歴史説明というのは、人間の精神と知性の活性状態の認識が入ると、より深く重層的になります。
そして、それには人間心理への洞察力と事例情報との二つが必要です。
洞察家はいます。
だが、心理過程は目で見たり手で触ったりはできないので、彼も常時、事例情報と照応させねばならない。
照応させて、理解の方向をチェックしつつ思考を進めねばなりません。
+++
その事例情報として、自由吟味者の歴史事実は、近世西欧史の認識に不可欠な要素となる。
これを把握し損ねたら、歴史説明は、味のないスルメのようになります。
読めども読めども味のないスルメを噛んでいるような状態が続きます。
<英国清教徒史はごまかしにくい>
前置きが長くなりました。
英国ピューリタンの話に入ります。
+++
軍事、政治、経済などに関する事柄は、まあ、心理分析抜きでやり過ごすことも出来るかもしれない。
端的に言えば、ごまかすことも出来ます。
英国産業革命史などは、その一例です。
だが、英国ピューリタン(清教徒)に関しては、そのごまかしはきわめて難しいです。
そこでは新しいキリスト教思想とそれを受容することよる聖職者の心理変化が、大きな領域を占めるからです。
<国教会の聖職者のなかに発生>
英国でピューリタンといわれた人々は、国教会の聖職者の中に発生しています。
英国教会の司教や司祭は所得も多く、社会の名士で資産家です。
その彼らの中から、突然のようにして、英国教会の改革に身を投げかけるものが現れた。
財産など既得権益を失うのにもかかわらず、やってしまった。
身体の危険をも顧みず、国家宗教の運営体制に異議を申し立て、改革しようとした。
+++
どうしてこんな劇的な変化がおきたのか?
英国教会は、カトリックの僧侶を追放して、その方式をそっくりそのまま受け継いだ教会です。
カトリックの宗教活動は儀式化していました。
イギリス国教会も、それを踏襲していた。
聖職者たちは、教会とはそういうものだと思ってやっていました。
+++
その彼らが、自由吟味者のスモールグループ活動に触れたのです。
各人が聖句の意味を生き生きと深く味わっているのをみた。
これに電気に触れたように感銘するものが イギリス国教会の聖職者たちに出たのです。
従来イギリス国教会の教義と運営方式を是としてきた彼らが、「これは間違いだ!」と突然思うようになった。
彼らの「知」は活性化路線に入ったのです。
+++
聖句自由吟味のスモールグループ活動は、実際にそのような覚醒力をもっているかどうか。
やってみるのが認識の一番の近道です。
やってみれば割合容易にわかるでしょう。
<ピューリタンという言葉>
彼らの実像をより正確に認識するには、そもそも、彼らがなぜピューリタンと呼ばれたか、についても知らねばなりません。
教科書では、とにかく、「ピューリタンが現れました」、ということからはじまっています。
だが、それでは不十分なのです。
+++
ピューリタンというのは旧くからある呼び名です。
元来それは欧州大陸にいた自由吟味者たちを指すニックネームでした。
当時の欧州でも、一般のクリスチャン(国教だったカトリック教会に所属した人々)は、現世の欲望との調整を取りながら教会活動をしていました。
ところが、自由吟味者たちは、ただ真理を知りたくて、欲得を離れて聖句をひたむきに吟味していた。
その姿は一般人の目には「純粋な奴ら」という風に映るのです。
これは、もう、人の心はそういう風な印象を受けるのです。
そこで英語のピュア(純粋な)という語の意味を含んだあだ名「ピューリタン」があちこちで自然発生しました。
「純粋野郎」といったところですね。
<英国ピューリタンの出現>
近代イギリスにおいても彼らが与える印象は同じでした。
英国教徒だった一般人は彼らから「純粋な奴ら」という印象を受けました
国教会の聖職者、司教や司祭らの目にも、自由吟味者の活動は、入りました。
そして彼らの中から、その真摯で知的躍動に満ちた姿や、霊的な生き様に覚醒された者も出ました。
彼らは改めて自分で聖書を吟味した。
すると国教会の運営方法に、聖句に沿わないものが見つかってきます。
人民統治のために必要な「世的な」妥協面も目についてきた。
彼らの心の内に、国教会への批判意識が高まりました。
それを押さえきれない者は、ついに国教会への抗議・非難をはじめました。
<内部改革ピューリタン>
激しい批判精神はまず、国教会の内部改革運動として噴火しました。
彼らからは、命知らずの内部闘争を激烈に行うものも出ました。
彼らは体制側から激しく弾圧されました。
逮捕、投獄され、地位も財産も没収される者も出た。
彼らの姿はとても純粋な者と映じました。
こうして、彼らにもまた、ピューリタン(清教徒)のニックネームが与えられたのです。
しかし、これは「英国ピューリタン」ないしは「近代ピューリタン」と呼んで区別した方がいいかもしれませんね。
ともあれ、最初の英国ピューリタンは、国教会の内部改革者でした。
<分離派ピューリタン>
英国教会は、国教ですから国家権力を使えます。
内部改革ピューリタンの改革運動は、あらかた粉砕され、実りませんでした。
そうしたなかで、内部改革を断念して国教会から分離独立して信仰活動をするという教職者も出ました。
それに従う一般信徒も出ました。
一般人も、国教会に所属しなかったら就職など様々な面で不利益を被ります。
だが、聖職者に同調する者も少なくありませんでした。
+++
これを見た人々は、また彼らにニックネームをつけました。
セパラティスト(separatist)とかセパレーショニスト(separationist)がそれです。
日本では分離派清教徒、分離派ピューリタン、あるいは分離主義者と訳されています。
+++
後に「ピルグリムファーザーズ」という名を与えられ、米国建国の父ということにされてしまった人々も、この派の一群です。
彼らは、1620年、米大陸ボストン郊外のケープコッドに上陸して植民をはじめた。
それについては、今すぐ後に、もう少し追記します。
<英国ピューリタンは自由吟味者にあらず>
英国ピューリタンには、今述べた内部改革派と分離派との二派があります。
さてここで、英国清教徒について留意しておくべき重要事項があります。
欧州大陸の古代・中世ピューリタンたちは聖句自由吟味者でした。
だが、英国の近代ピューリタンたちは教理統一主義者でした。
+++
彼らは自由吟味者の姿に覚醒された。
だが、教理統一主義を脱却して自由吟味活動にまでいくことは出来なかったのです。
なぜだったでしょうね。
イギリス国教会はカトリック方式を踏襲した、教理統一方式の教会です。
そこで生まれ学び育った歴史が心の神髄にまで染み込んでいたのでしょうか。
+++
教理統一主義でも改革に燃えることは出来るのですね。
宗教改革の先駆者ルターがそれを体現しています。
彼は生涯、教理統一主義者でしたからね。
英国教会の聖職者たちは、教理統一主義のままで国教会の制度改革に身を投げかけたのです。
<ピューリタン、ボストンで自由吟味者を迫害>
分離派ピューリタンも同じです。
彼らが教理統一主義者であったことは、後に、米国のボストンで起きた出来事が証明しています。
彼らは、後にアメリカ大陸に植民の道が開けると、大挙してボストン地域に移住しました。
この地域に分離派ピューリタンの指導者、ブラッドフォードに率いられた一群の人々が先駆的に移住したことが契機になっています。
+++
この一群は後に有名になりました。
かれらはボストン郊外、ケープコッドに1620年11月に植民を開始した。
その地にプリモス・プランテーション(プリモス植民地)という名をつけました。
その彼らが、後年「ピルグリムファーザー」の名を与えられ、米国建国の祖ということにされています。
いまも、世界のほとんどに人々はその物語に疑いを抱いていません。
だが彼らは大衆にわかりやすい国家アイデンティティを作るために選ばれたに過ぎません。
後に明かしますが、実際には、米国建国の祖は、自由吟味者たちです。
自由吟味活動に盲目だと、欧米近代史は間違いだらけになっていくのです。
+++
話を戻します。
ケープコッドにプリモス植民地が開拓されたのを契機に、ボストン地区に大量の分離派ピューリタンが移住しました。
彼らは、港湾地域に移住した。
そしてボストンの街を築きました。
+++
そしてこのボストンの街に、あるとき自由吟味者が流入して教会を作ります。
すると、ボストン政府は自由吟味者を捕らえ投獄、鞭打ちなどの罰を与えています。
個々人の聖書解釈の自由を原則として活動する者たちを、社会秩序を乱す無政府主義者とみていたからです。
たとえばこの事件が、ボストンのピューリタンもまた、教理統一主義者だったことを示しています。
+++
筆者の見解は現代の歴史常識には受け入れがたいので、繰り返します。
公式歴史書は、この事件をスキップしています。
わからないからスキップするのです
そして、公式の専門書や教科書は、アメリカに渡ったピューリタンを自由の申し子のように書いている。
これでわかりましたか?
自由吟味者への無知は、ここでも間違った公式歴史記述を世界規模で生み出している。
英国史と並んで、米国史も間違いだらけなのです。
+++
以上、まず、英国ピューリタンの基本理解を述べました。
彼らの動きは、英国内に、連鎖反応を次々に引き起こしていきます。
それは次回以降に書くとして、今回はここまでと致しましょう。
(Vol.31 英国ピューリタンの実像 完)