鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<臨時版>: 英国のEU離脱選挙結果に「騒ぎすぎ、怯えすぎ」)

2016年06月28日 | キリスト教の正しい学び方








こんにちわ。


英国でEU離脱か残留かの国民投票が行われて、僅差で離脱派が過半数を占めました。

世界的に激震が走っているかのように、マスメディアは騒ぎ立てています。


+++

結論から言えば、世界は「騒ぎすぎ」「怯えすぎ」をしています。

このことは実は、鹿嶋が今書いている近世英国の歴史に直結しています。

聖句自由吟味活動が生成させた「英国の自由な宗教状況」に密接に繋がっている。

だから、これについて、「臨時版」を投稿します。





<「知」が活性化路線にある国民>


筆者は金融状況にあまり詳しくないので、離脱がもたらす金融上の被害を含めての詳しい論評をすることは出来ません。

だが、マスメディアで流される識者の予想には、欠けている視野があります。

それは、英国民と欧州大陸国民との知的資質の差異に関するものです。


+++



英国民は、聖句自由吟味者の影響によって、知性が活性化路線に入っています。

個々の聖句を小グループで具体的に吟味する生活をしていると、人間の知性(精神も)は活性化するのです。

また、聖句個別吟味の習慣は、社会の諸事象を個別的事例的に思考するエネルギーも与えます。

すると人間は、個々の事例情報に対して、一般法則的な知識を強引に優先させることはしなくなります。

そういう思考法が、判例法中心の法体系をこの国に成立させてもいるのです。

+++

他方、大陸人民の「知」は活性化路線に入っていません。

彼らの聖書の知り方が、活性を妨げるのです。

そこでは教会高僧のつくった教理を絶対正統真理として受け入れることを求められる。

吟味などしたら「異端!」と攻撃されます。

すると人民は、自ら思考することが少なくなる。

それでは、「知」は活性化路線に入っていかないのです。

この状況はまた、法理論をベースにする大陸法の法体系をも生んでいます。







他方、大陸人民の「知」は活性化路線に入っていません。

彼らの聖書の知り方は、教会高僧のつくった教理を絶対正統真理として受け入れることによります。

吟味などしたら「異端!」と攻撃されます。

だから、自ら思考することが少なく、「知」は活性化路線に入っていないのです。

この状況はまた、法理論をベースにする大陸法の法体系をも生んでいます。





<EU参加もはじめから特別扱い>


大ブリテン島と欧州大陸とは、精神文化が対照的だ。

英国の政治家も、そういう知的資質の違いをよく認識していました。

だから、そもそも、EUへの参加決定も最後まで慎重だったのです。

通貨をユーロに統合することも避け続けた。

英国は特別扱いだったのです。

そういう緩やかな連携関係を維持する状況で、英国はEUに加わって協働してきたのです。






<従来有益だった方式は継続する>

もし離脱が実施されるとしても、それはEU連合との交渉開始後の2年先です。

その交渉に入るにも時間がかかります。








キャメロン現首相は、新しい首相を(次の国会議員選挙で)選んで、その人にやってもらう、といっていますから。

それに至る間に、今回、軽い気持ちで投票した離脱賛成者たちは、選挙の選択案のもつ意味を、改めて吟味し学び直すでしょう。


その後に交渉に入っても、従来互恵的だった状況は、担当者はいろいろな調整をして、再現するでしょう。






<自由吟味者の活性化力を知るべし>

{知」が活性化路線に入っている英国民の政治能力は高いです。

同じ欧州でも、大陸西側の人民よりも高いし、東欧人民よりはさらに高い。

中東諸国の人民よりは、また、はるか高いです。


+++

そうしたことに無知で、かれらと同レベルとみて 英国の行動を予測したら、過剰な恐怖におびえることになります。

だが、その事実をリアルに感じるには、聖句自由吟味者が人民と国家にもたらす活性化効果を知らねばならない。

残念ながら、世界の歴史家は、そのことをほとんど知りません。

だから、筆者はいまも、「正しいキリスト教の学び方」を、様々な歴史事情の説明と共に繰り返し、繰り返しお知らせしているのです。


+++

今回の英国での国民選挙での離脱優位結果、大丈夫です。

そんなに遠くない将来、世界は振り返って、今は「騒ぎ過ぎ」「おびえすぎ」であることを、知るでしょう。



(臨時版: 英国のEU離脱選挙結果は「騒ぎすぎ、怯えすぎ」   完)






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Vol. 34 メソディスト教会 ~青学、関学を設立した教団~

2016年06月23日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。


「キリスト教の正しい学び方」、今日も進めてまいりましょう。

今回は、統制力を失った英国教会制度のもとで成長した新教会のうち、メソディスト教会を紹介します。


+++


この教会の創始者はジョン・ウエスレー(John Wesley,1703-1791)です。

彼は英国国教会の司祭でした。

にもかかわらず、儀式中心の国教会の礼拝に疑問を抱いていきました。

そして、もっと実質的で、創造神を直接拝する姿勢を持てる礼拝方法を思案しました。

結局、礼拝場は教会堂である必要はない、と考え、 野外でも礼拝を行いました。

各地を馬に乗って巡回して野外礼拝を導いたのです。

それでも国教会勢力からは、おとがめなしでした。








彼はカトリックのカンタータ風だった礼拝音楽をとりやめ、新作の賛美歌を取り入れました。

弟チャールズは、今でいえばシンガーソングライターの天才でした。

彼はその才能でもって、同時代に適合した讃美歌を新しく創って、兄の教会に提供しました。

生涯に総数9000に及ぶ曲を作ったといわれています。

彼の作品は現代の賛美歌集には”伝統的な賛美歌”として収められています。

けれども当時は、いまの戦後1960年代の若者フォークソングのような存在だったでしょう。





<現代ビンヤード風礼拝の先駆者>


この教会方式は現代では珍しくありません。

戦後米国では特に、牧師がジーンズにギターでもって礼拝を導く教会が多く誕生し、それが世界に広がっています。

ビンヤード教会、サドルバック教会、ホープ教会、ニューホープ教会などがそれです。

だが、当時は斬新そのものでした。

とくに若者には衝撃的だったでしょう。

それは同時に魅力的でもあり、多くの人に受け入れられました。





<メソディストもニックネーム>

教会は成長しました。

外部の人々はこの教会の斬新な礼拝方式に注目して、メソディスト教会と呼びはじめました。

礼拝方式の「方式」は英語でメソッド(method)です。

これからメソディストなる語が生まれた。

これもまたニックネームです。

「礼拝方式にこだわる奴ら」あるいは「礼拝方式を刷新する奴ら」といったニュアンスでしょうか。

その名が広がってこの教団の名前になったのです。

前にも言いましたが、キリスト教活動の名称のほとんどは、一般人の口に上ったニックネームに始まっています。

ピューリタンも、バプテストも、長老派もみなそうです。






<だが自由吟味教会ではなかった>

ウエスレーは革新的な人でしたが、その教会活動は聖句自由吟味方式にまではいかなかった。

教団の正統教理書をつくり、それでもって教会を運営する教理統一方式の教団になりました。

彼らはいまでもメソディスト教理書をもっています。


+++


けれども大規模な教会に発展しました。

今の米国にも数多くあります。

この教団はまた、明治維新後の日本に宣教師を派遣し、青山学院や関西学院などの学校を造っています。



(Vol. 34 メソディスト教会 完)











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Vol.33 大ブリテン島の宗教環境は自由だった

2016年06月20日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。


「キリスト教の正しい学び方」、今日も進めてまいりましょう。


+++


国教会成立後のイギリスは、ヨーロッパ大陸とは別世界のような、自由世界になりました。

これを、我々は雰囲気として感じなければなりません。

イギリス国教会の司教、司祭は、国家のために働くべき公務員の指導者です。

その彼らの中から、国教会の運営制度を批判し、改革しようとし、激しく運動をするものが、数多く出た。

国教会は過激な運動者を、罰しました。

たが、彼らは限られた人々でした。

国教会から離脱し、自由な宗教活動をさせてもらうと宣言して出て行く司教や司祭もいました。

だが彼らが、執拗に追跡され、処刑されることはありませんでした。






<欧州大陸なら>

これがヨーロッパ大陸でならどうなるか。

ひとりびとりが捕らえられ、宗教裁判にかけられ、処刑されました。

ルター戦争後のドイツでも、それは同じなのです。

人々は、カトリック教会かルター教会かのどちらかの強力な管理体制下に、置かれました。



+++


ルター教会も、カトリックと同じく、教理統一教会なのです。

運営体制としては、カトリックの法王をなくしただけの教会です。

教理に反するものは、やはり異端とされ、処罰されました。

そこでは聖書を自由に吟味する行動は、厳格に罰せられた。

だからドイツでおいても、新しい教会活動の芽は、でませんでした。

出ないままに年月が過ぎていく。

これがルター戦争後のドイツでした。





<せいぜい国王による国外追放>

ところが、大陸から海峡を隔てた大ブリテン島でははるかに自由な土壌が出来ていました。

有力司祭が「イギリス国教会から出て行って、自由にやらせてもらう」と宣言して出て行く。

その人でさえ、せいぜい国王による国外追放でした。


+++


この違いを雰囲気として心に浮かべるかどうかが、近代欧米史理解の分かれ道です。

大ブリテン島に出来上がったこの自由な世界の中から、新しい宗教活動が多数生まれた。

そしてその中から新しい教派活動にまで.発展するものが出ました。






メソディスト教会はその一つでした。

組合派教会も長老派教会も後の英国バプテスト教会もそれです。

こんにちプロテスタント諸教会として、世界的に大きな活動をしている教会の大半は、英国国教会制度の中で発芽しているのです。



+++


メソディスト教会は、大教会となり、明治維新後の日本に青山学院や関西学院を設立し、今も運営しています。

組合派教会は、新島譲の活動を支援して同志社大学を設立しています。

長老派教会は、ニューヨークの教会から、ヘボン式ローマ字のヘボンの先生を支援し、邦訳聖書を完成させ、明治学院大学を設立しています。

これらの新教会は、近代英国に発芽しました。

そしてこれらの動きは、「知」が活性化路線に入った、英国の精神土壌に芽生えたのです。



(Vol.33 大ブリテン島の宗教環境は自由だった   完)











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Vol.32 英国ピューリタンの実像

2016年06月15日 | キリスト教の正しい学び方







こんにちわ。


「キリスト教の正しい学び方」、今日も進めてまいりましょう

+++

近世以降の英米史の公式知識は霧に覆われています。

それが英米史、ひいては近代世界史を漠然としてわからないものにしています。














<産業革命の不思議>

英国についてみると、たとえば18世紀半ばに、人類史上初めて起きた産業革命がそうです。

歴史教科書は、工業生産力の飛躍がイギリスを世界の覇者とした~といった類いのことだけ書いている。

それ以上に踏み込んだ説明はありません。

なぜイギリスで先駆的に起きたのか。

その種の説明は、いっせつなされていません。


+++


古代ローマ帝国の武器技術、建築技術は、今から見ても驚異的で卓越していました。

産業生産技術に転化できる技術資産を沢山もっていた。

なのにその伝統を持ったイタリアになぜ先に起きなかったのか。

そういう論述がない。

できないからです。


+++


聖句自由吟味活動が普及し、人民の精神・知性が飛躍的に活性化したという事実。

聖句吟味によって人間観と社会思想がダイナミックに更新されたという事実。


~これらを考慮に入れなければ、じわじわと産業革命の機が熟していく動向は認識できません。

そういう心理変化の過程が見えないのです。

みえないからその説明が出来ません。





<歴史説明は精神描写で重層化する>


少し話を広げます。

歴史説明というのは、人間の精神と知性の活性状態の認識が入ると、より深く重層的になります。

そして、それには人間心理への洞察力と事例情報との二つが必要です。

洞察家はいます。

だが、心理過程は目で見たり手で触ったりはできないので、彼も常時、事例情報と照応させねばならない。

照応させて、理解の方向をチェックしつつ思考を進めねばなりません。

+++

その事例情報として、自由吟味者の歴史事実は、近世西欧史の認識に不可欠な要素となる。

これを把握し損ねたら、歴史説明は、味のないスルメのようになります。

読めども読めども味のないスルメを噛んでいるような状態が続きます。






<英国清教徒史はごまかしにくい>

前置きが長くなりました。

英国ピューリタンの話に入ります。

+++

軍事、政治、経済などに関する事柄は、まあ、心理分析抜きでやり過ごすことも出来るかもしれない。

端的に言えば、ごまかすことも出来ます。

英国産業革命史などは、その一例です。

だが、英国ピューリタン(清教徒)に関しては、そのごまかしはきわめて難しいです。

そこでは新しいキリスト教思想とそれを受容することよる聖職者の心理変化が、大きな領域を占めるからです。






<国教会の聖職者のなかに発生>

英国でピューリタンといわれた人々は、国教会の聖職者の中に発生しています。

英国教会の司教や司祭は所得も多く、社会の名士で資産家です。

その彼らの中から、突然のようにして、英国教会の改革に身を投げかけるものが現れた。

財産など既得権益を失うのにもかかわらず、やってしまった。

身体の危険をも顧みず、国家宗教の運営体制に異議を申し立て、改革しようとした。

+++


どうしてこんな劇的な変化がおきたのか?

英国教会は、カトリックの僧侶を追放して、その方式をそっくりそのまま受け継いだ教会です。

カトリックの宗教活動は儀式化していました。

イギリス国教会も、それを踏襲していた。

聖職者たちは、教会とはそういうものだと思ってやっていました。

+++

その彼らが、自由吟味者のスモールグループ活動に触れたのです。

各人が聖句の意味を生き生きと深く味わっているのをみた。

これに電気に触れたように感銘するものが イギリス国教会の聖職者たちに出たのです。

従来イギリス国教会の教義と運営方式を是としてきた彼らが、「これは間違いだ!」と突然思うようになった。

彼らの「知」は活性化路線に入ったのです。


+++

聖句自由吟味のスモールグループ活動は、実際にそのような覚醒力をもっているかどうか。

やってみるのが認識の一番の近道です。

やってみれば割合容易にわかるでしょう。







<ピューリタンという言葉>

彼らの実像をより正確に認識するには、そもそも、彼らがなぜピューリタンと呼ばれたか、についても知らねばなりません。

教科書では、とにかく、「ピューリタンが現れました」、ということからはじまっています。

だが、それでは不十分なのです。

+++

ピューリタンというのは旧くからある呼び名です。

元来それは欧州大陸にいた自由吟味者たちを指すニックネームでした。

当時の欧州でも、一般のクリスチャン(国教だったカトリック教会に所属した人々)は、現世の欲望との調整を取りながら教会活動をしていました。

ところが、自由吟味者たちは、ただ真理を知りたくて、欲得を離れて聖句をひたむきに吟味していた。

その姿は一般人の目には「純粋な奴ら」という風に映るのです。

これは、もう、人の心はそういう風な印象を受けるのです。

そこで英語のピュア(純粋な)という語の意味を含んだあだ名「ピューリタン」があちこちで自然発生しました。

「純粋野郎」といったところですね。






<英国ピューリタンの出現>

近代イギリスにおいても彼らが与える印象は同じでした。

英国教徒だった一般人は彼らから「純粋な奴ら」という印象を受けました

国教会の聖職者、司教や司祭らの目にも、自由吟味者の活動は、入りました。

そして彼らの中から、その真摯で知的躍動に満ちた姿や、霊的な生き様に覚醒された者も出ました。

彼らは改めて自分で聖書を吟味した。

すると国教会の運営方法に、聖句に沿わないものが見つかってきます。

人民統治のために必要な「世的な」妥協面も目についてきた。

彼らの心の内に、国教会への批判意識が高まりました。

それを押さえきれない者は、ついに国教会への抗議・非難をはじめました。






<内部改革ピューリタン>


激しい批判精神はまず、国教会の内部改革運動として噴火しました。

彼らからは、命知らずの内部闘争を激烈に行うものも出ました。

彼らは体制側から激しく弾圧されました。

逮捕、投獄され、地位も財産も没収される者も出た。

彼らの姿はとても純粋な者と映じました。

こうして、彼らにもまた、ピューリタン(清教徒)のニックネームが与えられたのです。

しかし、これは「英国ピューリタン」ないしは「近代ピューリタン」と呼んで区別した方がいいかもしれませんね。

ともあれ、最初の英国ピューリタンは、国教会の内部改革者でした。






<分離派ピューリタン>

英国教会は、国教ですから国家権力を使えます。

内部改革ピューリタンの改革運動は、あらかた粉砕され、実りませんでした。

そうしたなかで、内部改革を断念して国教会から分離独立して信仰活動をするという教職者も出ました。

それに従う一般信徒も出ました。

一般人も、国教会に所属しなかったら就職など様々な面で不利益を被ります。

だが、聖職者に同調する者も少なくありませんでした。

+++

これを見た人々は、また彼らにニックネームをつけました。

セパラティスト(separatist)とかセパレーショニスト(separationist)がそれです。

日本では分離派清教徒、分離派ピューリタン、あるいは分離主義者と訳されています。

+++

後に「ピルグリムファーザーズ」という名を与えられ、米国建国の父ということにされてしまった人々も、この派の一群です。

彼らは、1620年、米大陸ボストン郊外のケープコッドに上陸して植民をはじめた。

それについては、今すぐ後に、もう少し追記します。





<英国ピューリタンは自由吟味者にあらず>

英国ピューリタンには、今述べた内部改革派と分離派との二派があります。

さてここで、英国清教徒について留意しておくべき重要事項があります。

欧州大陸の古代・中世ピューリタンたちは聖句自由吟味者でした。

だが、英国の近代ピューリタンたちは教理統一主義者でした。

+++

彼らは自由吟味者の姿に覚醒された。

だが、教理統一主義を脱却して自由吟味活動にまでいくことは出来なかったのです。

なぜだったでしょうね。

イギリス国教会はカトリック方式を踏襲した、教理統一方式の教会です。

そこで生まれ学び育った歴史が心の神髄にまで染み込んでいたのでしょうか。

+++

教理統一主義でも改革に燃えることは出来るのですね。

宗教改革の先駆者ルターがそれを体現しています。

彼は生涯、教理統一主義者でしたからね。

英国教会の聖職者たちは、教理統一主義のままで国教会の制度改革に身を投げかけたのです。





<ピューリタン、ボストンで自由吟味者を迫害>

分離派ピューリタンも同じです。

彼らが教理統一主義者であったことは、後に、米国のボストンで起きた出来事が証明しています。

彼らは、後にアメリカ大陸に植民の道が開けると、大挙してボストン地域に移住しました。

この地域に分離派ピューリタンの指導者、ブラッドフォードに率いられた一群の人々が先駆的に移住したことが契機になっています。

+++

この一群は後に有名になりました。

かれらはボストン郊外、ケープコッドに1620年11月に植民を開始した。

その地にプリモス・プランテーション(プリモス植民地)という名をつけました。

その彼らが、後年「ピルグリムファーザー」の名を与えられ、米国建国の祖ということにされています。

いまも、世界のほとんどに人々はその物語に疑いを抱いていません。


だが彼らは大衆にわかりやすい国家アイデンティティを作るために選ばれたに過ぎません。

後に明かしますが、実際には、米国建国の祖は、自由吟味者たちです。

自由吟味活動に盲目だと、欧米近代史は間違いだらけになっていくのです。


+++

話を戻します。

ケープコッドにプリモス植民地が開拓されたのを契機に、ボストン地区に大量の分離派ピューリタンが移住しました。

彼らは、港湾地域に移住した。

そしてボストンの街を築きました。


+++

そしてこのボストンの街に、あるとき自由吟味者が流入して教会を作ります。

すると、ボストン政府は自由吟味者を捕らえ投獄、鞭打ちなどの罰を与えています。

個々人の聖書解釈の自由を原則として活動する者たちを、社会秩序を乱す無政府主義者とみていたからです。

たとえばこの事件が、ボストンのピューリタンもまた、教理統一主義者だったことを示しています。

+++

筆者の見解は現代の歴史常識には受け入れがたいので、繰り返します。

公式歴史書は、この事件をスキップしています。

わからないからスキップするのです


そして、公式の専門書や教科書は、アメリカに渡ったピューリタンを自由の申し子のように書いている。

これでわかりましたか?

自由吟味者への無知は、ここでも間違った公式歴史記述を世界規模で生み出している。

英国史と並んで、米国史も間違いだらけなのです。





+++

以上、まず、英国ピューリタンの基本理解を述べました。

彼らの動きは、英国内に、連鎖反応を次々に引き起こしていきます。

それは次回以降に書くとして、今回はここまでと致しましょう。


(Vol.31 英国ピューリタンの実像     完)









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Vol.31 自由吟味者、英国へ移住 !

2016年06月07日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、本日も続けて参りましょう。

1535年は、ヘンリー8世が英国国教会を強引に設立した年です。

英国の精神史を時代区分する、画期的な年です。

ルター改革がスタートした1517年と並んで記憶すべき年なのです。

+++

聖句自由吟味者を視野に入れることによって、そのことは初めてわかります。

そしてその知識は、「正しいキリスト教の学び方」に不可欠な要素を構成しています。





<現代メールリストを超えた情報効率>


聖句自由吟味者たちは、驚くべき情報ネットワークを形成しています。

彼らは小グループに分かれて、リーダーを一人おきます。

そのリーダーたちが常時連携状態を保ち、交信し合っています。

その様は、今も米国南部のサザンバプティスト地域でみることができます。

+++


中世欧州では、その情報パイプはとりわけアクティブでした。

彼らは、常に逮捕・拷問・殺戮される状態の中で生きていました。

だから些少な変化があっても,即座に知らせ合わねばならない。

その情報は即座にリーダーに連絡され、各々がグループメンバーに伝えます。

このようにして、ネットワークに常時情報が流れていると、そのパイプはきわめてアクティブな状態を保つのです。



+++



このネットワークは、現在の電子メールリストによるそれよりも効率的に機能したでしょう。

自由吟味者は、全員が同じ様な世界観、歴史観を共有しています。

そのような全体観は、日々起きる個々の事項をその中に位置づけ、解釈をもたらします。

取るべき行動の方向も定めます。

だから、メンバーはどんな事件にも似たような解釈と行動見解をもつことになる。

すると、迅速なわかりあいが可能になって、ネットワークは驚異的な効率を発揮するのです。





<自由吟味者は大量移住したに違いない>


「イギリスでカトリックの僧侶たちが追放され、独自の国教会ができた」

「宗教活動が大幅に自由になった」

そういう情報も、欧州大陸の地下で活動していた自由吟味者には即座にいきわたりました。

取るべき行動も、阿吽の呼吸で方向付けられました。

彼等はすみやかに英国への移住を開始しました。

+++


ところでそんなことは、公式の歴史教科書や専門書には全く書かれていない。

そんなことさらっといっていいのか。

鹿嶋はどんな実証資料を基にそれをいうのか。

~そういう疑問を抱く読者もおられるでしょう。



答えは・・・、

~それを直接示す文献資料などもちあわせていない・・・です。

だったらそれはあまりに大胆ではないか。

学問的におかしいではないか。

~こういう感想もあるでしょう。


だが、あえていいます。

~「それはおかしいことではない」と。


+++

考えてみましょう。

自由吟味者たちはいつでもどこでも、信仰上の身分を隠して暮らしていたのです。

「社会の秩序を乱す無政府主義者」と危険視されていたのでそうするしかなかった。

それが国外移住するとなったら、その公式の文献資料など残るがありません。

だが、ないからといって、何も言ってはならない、ということにはなりません。

筆者は実証資料の大切さを否定するものではありませんが、「実証主義」には反対です。

それは歴史記述者の想像力を、非常にしばしば妨げるのです。

+++

余談ですが、戦後の社会科学者には形式的な実証主義にしがみついて食べている人が多いです。

鹿嶋は、自分の生業(流通経済学、マーケティング学)をその大勢のなかで行うのに苦労してきました。

いまもそうです。


+++

話を戻します。

自由吟味者が、後にアメリカ大陸に移住する際については、

「小さなグループに分かれて乗船した」

「数多くまとまって渡航すると不審に思われるからだった」

~といった回顧の資料はあります。

だが、それだって、後年の回顧です。

乗船者の信仰上の身分を記した実証資料など、存在するはずありません。





<自由吟味活動広がる>

だが事実として自由吟味者たちは、大挙して英国に移り住んだのです。

それをないことにしたら、以後の英国史には漠然としたところがどんどん出来ていきます。


英国では、彼らは社会の表面に出て活動しました。

そして、その真摯な聖句吟味の姿に心打たれ、群れに加わる人が多く出ました。


+++

元英国女性首相サッチャーの回顧録にもその一端を垣間見る話があります。

彼女の両親は雑貨店を営んでいました。

そのもとに幾人かの大人が影のようにやってきた。

そして両親と共に聖書を開いてなにやらひそひそ話し合う。

終わると彼らはまた影のように去っていく。

そういうことが周期的にあったと、少女時代の思い出として書いています(日本経済新聞「私の履歴書」)。






+++

これは自由吟味者のスモールグループ活動以外のなにものでもありません。

彼女の両親も群れに加わっていたのです。

サッチャーの読書好きも、幼少からの家庭の空気によるところが大きかったのかもしれません。






<精神活性化の仕組み>


自由吟味者たちは英国一般人民に広範な影響を与えはじめました。


+++

ここで 再び示しておきましょう。

聖書を自由に吟味する人達は、どうしてその精神と知性が活性化するのか。

聖書はこの世界で「真理(変わらざる究極の知識)への夢を提供する」唯一の書物です。

そこには「万物の創造神が人間に伝えたメッセージが含まれている」という可能性があります。

そういう夢を期待させる唯一の書物です。


+++

そのつまるところの真偽は、認識能力の有限な人間にはわかりません。

ただ、実際に探求してみると、「これは究極の真理では!」と思える知恵にぶつかるのです。

人間が経験から得た知識と思えないような、驚くべき知識に遭遇する。


それに触れると、人の精神と知性は電気に触れたように覚醒され、活性化します。

この書物の吟味が精神活力にもたらす効果には、強烈なものがあるのです。


そして、この聖書の言葉の吟味を、スモールグループで行うと、活性効果はさらに飛躍します。

自由吟味活動では、このスモールグループ方式を、定番のようにして併用しています。






<七つの海の支配者に>

自由吟味者たちの活き活きした姿に触れ、取り入れて、英国人民の精神は活性化しはじめました。

後の18~9世紀になると英国では、自由吟味活動が醸し出す活性蒸気が地面から沸き昇ってくるような状態になっています。

この空気を触覚することが、英国史の総合的理解のカギにもなります。

+++


近代英国が突如、スペインの無敵艦隊を撃破し、七つの海を支配して黄金時代を迎えたのも、この人民活力によります。

欧州大陸では、カトリックとプロテスタントが連合して教理主義的思想統制を維持していました。

一つの正統教理を定め、それでもって人民の精宗教活動を抑圧していけば、人民精神は沈滞します。

他方、英国では自由吟味で人民の精神は活性化した。

この対照が結果的に、大陸の老舗大国の相対的地盤沈下をもたらしたのです。





<判例法と大陸法>


余談です。

英国の法体系が、判例ベースの判例法になるのも、自由吟味の精神土壌によります。

従来、全欧州の法体系は、ローマ法の法典をベースにしたものでした。

そのなかで、判例ベースの法体系が英国で出現した。

それによって、従来の体系は欧州大陸だけのものとなり、大陸法と呼ばれるようになった。

+++

英国でこんな奇跡的なことが起きたのは、自由吟味活動が立ち昇らせた蒸気による以外に考えられない。

個々の聖句を自由に吟味しつつ個別的に理解を深めていく、という思考方式は、判例法の方法そのものです。

自由吟味の精神土壌がなかったら、判例ベースの法体系は出来上がらないのです。




(Vol. 31 自由吟味者、英国へ移住!  完)













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Vol.30 英国国教会が海峡を越えて噴火

2016年06月04日 | キリスト教の正しい学び方







こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」本日も続けて参りましょう。

+++

今回から、教会の呼び名を変えなければなりません。

教会の運営方式は、基本的に二つあります。

一つは聖句自由吟味方式で、これは信徒個々人に聖句解釈の自由を与える方式です。

もう一つは教理統一方式で、こちらは教団本部が、「これは」唯一の正統な解釈だ」といって信徒に与え、これで活動を統一していく方式です。


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これまでの話では、教理統一方式をとる教会は一つだけでした。

だからその呼び名でよかったのですが、先回、その中にルター派教会が登場しました。

こうなるともう具体的な名称でないと、従来の教会も示せなくなります。

そこで、実名を登場させましょう。

もう、おわかりの読者も多いと思いますが、その名はカトリック教会です。

ルター派教会は、カトリック教会の中から産声を上げたのです。


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ルターの改革運動は、直接的にはルター派教会を出現させました。

だが、間接的には、海を隔てた島国に、もう一つの教会も成立させています。

英国国教会、短くは、英国教会、英語名ではアングリカン・チャーチがそれです。


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これも教理統一方式で活動する教会です。

こちらは、ルター派教会が正式にカトリック教団に承認される前に、出来ています。

アウクスブルクでの「宗教和議」で、カトリックた、ドイツ連邦国内でルター派がカトリックと同等に教会を開く権利を認めたのが1555年です。

英国教会が成立したのは、なんと1535年で、その二十年も前です。

だが、ルター戦争開始からは、20年近くが経っていました。


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こちらは、カトリック教団の承認など受けないで出現しています。

時の英国王、ヘンリー8世が一方的に設立した。

彼は、強引に英国教会を作り、 それまで英国でも国教教会だったカトリック教会に代えて、国教にしてしまったのです。








<離婚許可状が契機に>


直接の成立契機は、国王の離婚問題でした。

ヘンリー8世はスペイン王室からキャサリンという姫を王妃に迎えていたのですが、20年たっても男の世継ぎが生まれませんでした。

そこで国王は女王の侍女をしていたアン・ボレインという女性に生ませようとした。

だが、彼女は愛人としてではいやだと応じません。

やむなくヘンリーは王妃と離婚をしようとする。

だが、英国は伝統的にカトリック教会を国教としてきていましたから、ローマ教皇から離婚許可状をもらう必要がありました。

ところが申請しても認可状はきませんでした。

豪腕ヘンリー8世は、ならば国教を取り替えるだけのことと、イギリス国教会を作ってしまったのです。






<カトリック方式の英国版>


そういう事情ですから、運営方式はほぼカトリックのそれをスライドさせたものとなりました。

教会に教区を設け、人民を各々居住地の教会に所属させるのも、カトリック方式の踏襲です。

カトリックの法王に相当する存在も作った。

これをカンタベリー大司教とし、最終決定権を持たせました。





<大司教任免権は手中に置く>


けれども、国王はその任免権を、自らの手に保持しました。

すると、政治から宗教にわたって国王主導で統治できる体制が出来上がります。

こうしてヘンリー8世は、自らを絶対権者とする、絶対王制を確立したのでした。






<シェークスピアは追放されたカトリック聖職者か?>


英国でのカトリック教会の聖職者は、突然解雇され追放されました。

失業保険も何もありません。

余談ですが~

彼らの一グループがが生計を立てるために、ストラスフォードにある劇場の座付き作者になった。

その際、彼らはシェークスピアという実在の人物を表にたて、彼の作として名作を発表していった、

~という説にはかなりな根拠があります。

作品に、聖書の思想を深く知っていなければ書けないような事柄が多いのです。




<ドイツの抗議エネルギーが英国で噴火>

話を戻します。

当時英国は、島国の田舎国でした。

カトリックが軍隊を送れば、容易に潰せる中小国家でした。

ところが、カトリックはそれが出来なかった。

スペイン、フランスの大軍は、ルター戦争で、ドイツに釘付けにされていたのです。

ヘンリー8世は、当然それをも読んで行動を起こしたのでしょう。

+++

だが、遠因もあった。

ヘンリー8世は、それまでにも、ドイツで起きている新事態の情報を得てきていました。

欧州一円支配者の強大な権力に反抗する戦争が20年にもわたって続いてきている。

この情報によって欧州世界の空気の変化を、彼はあらかじめ察知してきていました。

それが、彼の決断の背景にあったにちがいありません。

その意味で、ルターのプロテスト(抗議)エネルギーは、英国教会を噴火させたといえるでしょう。




<宗教統制の緩い国が出現>


新国教会には、僧侶が新しく任命されました。

これらの新僧侶には、カトリック僧侶のような厳密かつ執拗な宗教統制の技量はなかった。

統制のプロがいなくなった英国では、自由吟味者への攻撃も緩くなりました。

(それでも自由吟味者の火刑はあったようですが、頻度はきわめて少なかった)

こういう空間が、ルター戦争の真っ最中、戦が決着する20年も前に、海峡を隔てた島国に出現した。


これがまた欧州に新たな事態を、将棋倒し的に引き起こしていきます。




(Vol.30 英国国教会が海峡を越えて噴火   完)









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Vol.29 ルター「宗教改革」の実像

2016年06月01日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」本日も続けて参りましょう。

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今回は、資料探索の話を中断して、本筋にもどろうと思います。

探索の話ばかり続けますと、「キリスト教の正しい学び方」が主題、という印象が薄れていきますので



そこで本日は、ルターの「宗教改革」(1517~)に入ります。






<宗教改革の定説は「ゆがんだメガネ」>


宗教改革に関する、教科書、専門書の定説はこうですよね~

従来のキリスト教はカトリック(旧教)である。

そこにマルティン・ルターは新教(プロテスタント)を出現させた。

こうしてキリスト教活動は、旧教、新教の二つの流れで構成されることになった~と。


+++

だが、このメガネはゆがんでいます。

この枠組は、聖句自由吟味活動という一大潮流が視野に入っていないものです。






<教理統一教団は後発会社>

これまでに述べたように、キリスト教会は、聖句自由吟味活動によって始まりました。

この方式でキリスト教は大普及した。

100年以上にわたって、その動きが続きました。

その後に、教理統一方式の教団があらわれました。

この教団は、後発会社なのです。

後発企業の幹部僧侶たちは、聖書の解釈体系(教理)を一つ入念につくりました。

そして、それを唯一正統な解釈として、信徒に与えていく方式をとりました。




<大衆信徒に大量対応するのに有利な方式>

この方式は、大衆信徒を大量に教会に所属させ、効率的に運営していくのにとても有効でした。

教団規模は急成長しました。

教会員も献金も多量になり、財力も急増していきました。

そして、ついに、時の政権(ローマ帝国)に唯一国教として認められました(392年)。

国家権力を使える立場を得たのです。






<本家本元を攻撃しはじめる>

すると彼らは、自分たちの出身母体であり、本家本元の自由吟味方式の教会を攻撃し始めました。

活動者たちを絶滅させようとしていった。

なんとも皮肉な歴史展開です。

だが、これが「キリスト教の学び方」の正しい枠組みなのです。





<ルターは教理統一教会育ちの聖職者>


さてルターです。

ルターは、自由吟味活動家ではありませんでした。

彼は教理統一教会の教職者だった。

この教会の神学校で育ち、僧侶の資格を得て働いていました。

知力が高い人で、同時にこの教団の神学校の教授も務めていました。








<内部から揺さぶる>

その彼が、教団の内部から教会の行き方に異議を唱えた。

それがルターの改革運動でした。

彼は内部から揺さぶりをかけたのです。

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彼の非難対象は、教皇(法王ともいう)制度でした。

この絶対権力社長制とも言うべき制度に異議を唱えた。

そんなものは「聖書的には成り立たない」と主張したのです。




<優れたキャンペーン能力>

教団本部に異議を唱えたのは、彼が最初ではありません。

ジョン・ウィクリフやヤン・フスらは改革運動の先駆者でした。

だが、みなつぶされていきました。

++

ところがルターは、つぶれなかった。

彼は広告キャンペーンの名人でもありました。

改革キャンペーンが開始されると同時に、隣国フランスで、ルターのの所論を述べた本が発刊されました。

そういう手はずを、彼はあらかじめ整えていたのです。

(後にもう一人のスターとなるカルバンはこれに影響を受け、フランス、スイスで反教理統一教会運動を企てました)






<地元の諸侯の賛同も得ていた>


ルターは地元の封建諸侯たちにも、十分な根回しをして、運動に賛同を得ていました。

これには、彼の年上の奥さんの貢献が大きかったようです。

彼女はサロンを開き、地元の有力者との入念な交わりを実現していました。





<見事な広告発信>

それらを背景に彼は、1517年、本国ドイツで発信を開始しました。

「現在の教団のやり方はおかしい!」

「法王制度なんて、聖書に反している!」



+++

発信方法も、ドラマチックでインパクトは強烈でした。


ヴィッテンベルクという都市に、教会兼城郭になっている大きな建物がありました。

その城門の壁に、本部教会への批判を書きつらねた紙を彼は貼りつけた。

深夜に95箇条に分けた読みやすい文章にして、貼り並べた。

朝になると、人々がその前の広場に集まり見るという仕掛けです。





<機を見てイベントも仕掛ける>


ルターはまた、有能なイベント演出家、かつ、タレントでもありました。

教団本部は、彼に破門状を出しました。

すると彼は、神学校の校地の一角で薪を燃やして、キャンプファイヤーのようなことを始めた。

そして破門状を火の中に投げ入れました。

集まった神学生たちの目の前で、それをした。

破門状も、一大イベントに仕立て上げてしまうルターでした。





<教理統一教会、大軍団で攻撃>



教理統一教団は、軍隊を送って反抗運動を粉砕しようとしました。

当時、教理統一教会の傘下にあったのは、フランスとスペインの軍隊でした。

これらは教理統一国家群の中の、いわゆる「宗主国」でした。

教団はこれらの大軍団で運動を押さえ込もうとした。


ところが、地元の封建諸侯たちは反撃に立ち上がったのです。

彼らは、長年教理統一教会の統率下におかれ、その命令に従ってきていました。

それがなんと、ルター支持にまわった。

彼らは、ルターをかくまい、戦いを開始しました。







<経済問題が大きかった>


余談です。

地元の諸侯がルターを支持したのには、経済問題も大きく影響していたようです。

従来国教だった教理統一教会は年々上納金を課してきていました。

これが多額だった。

諸侯たちはルター教会を設立して、この上納金負担から逃れようともしたのでした。


+++

ちなみに、後年、北欧諸国もまた、ルター教会支持に回ります。

この時にも、経済動機が大きく働いたようです。

これについては、インタビュー調査で証言してくれた人もいます。

筆者たちが北欧諸国の実地踏査をしたとき、 スウェーデンのある大学教授が、経済動機の大きさを指摘してくれました。





<日本戦後の高度成長期に類似>


余談の余談ですが、このあたりは、面白いですね。

日本のお寺や坊さんにも、法外な葬式、法事費用を人民に貸す時期がありました。

昭和35年ころに始まる高度経済成長期がそれです。

このころ、大衆は霊的な事柄にまったく無知だった。

それが霊的なことへの恐れを生み、彼らは坊さんのいうことに恐怖をもって従っていました。

いわれるままに法外な費用を支払っていた。

+++

一般家庭の葬式で、読経代金が60万円、戒名代金が20万円といったケースも希ではなかった。

そのほか、初七日、四十九日などの行事を営ませ、その都度高価な読経料を課した。

経済成長で大衆も何とか工面して支払えるようになっていたこともあって、彼らはしたがっていました。

「寺の坊さんがベンツに乗る」時代がやってきた。

いい気になった僧侶には、舞い上がる人もいたのです。





<弱みにつけ込むことは続かない>


けれども大衆は、徐々にこの状況に疑問を持っていきました。

そして「葬儀は親族だけで済ませました」と報告し、葬式をしない家族も現れた。

葬式代をディスカウントする葬儀屋も現れました。

僧侶の読経出張サービスをインターネットで、安価に通信販売するビジネスまで現れました。


+++

無知の弱みにつけ込むと、事態はこういう風に反転するのですね。

欧州の教理統一教会にも、その時がやってきたのでしょう。






<ついに一円支配に風穴>

話を戻します。

ルター戦争は長引きました。


+++

結局、共に疲れ果て、双方妥協しあって終息した。

アウグスブルク宗教和議(1555)でもって戦いは終結したのです。


そこでは~

 ルター派に、自派の教会をつくる権利が認められました。
 
  領主は、従来から存在する教理統一教会とルター派教会のどちらかを選択できることになった。

  そして人民は、領主が選択した方の教会に所属すること

    ~となりました。


欧州における、教理統一教会の一円支配は終わったのです。



   


<聖句吟味が自由になったわけではない>

ただし、これで聖句吟味活動が自由になったのではありません。

ルター派教会もまた、教理統一方式の教会で、自由吟味活動は相変わらず異端として制圧対象になっていました。

ルター自身も、自由吟味活動など許したら、教会も社会もバラバラになってしまうと思っていました。

その意味で、ルターの反対運動は、同じ方式の教団内部でのコップの中の嵐にすぎませんでした。

+++

けれども、それで、欧州は変わったのです。

アウグスブルク宗教和議で、一円支配体制のドイツでの終焉状況は固定しました。

ドイツのこの情勢は波及しました。

欧州の人々の社会意識、空気は大きく変わりはじめました。

ルターの改革運動とそれに続く宗教戦争は、欧州で1200年に及んだ中世の統制社会に風穴を開けました。

それによって欧州に新風が吹き込み、新時代の扉が開いたのです。





<自由吟味者の自由精神が噴火>


この動きに自由議員身者は、直接変革ショックを与えたのではありませんでした。

だが、彼らが地下で形成する自由の熱気のようなものは、ルターの改革にも影響していたでしょう。

具体的な歴史資料にはなりえなくても、「地から湧き上がる(思想の)空気」というものは、あるのです。

+++

北欧地域ほどではないのですが、ドイツは教理統一教会の宗主国、フランス、スペインからしたら僻地です。

やはりアンダーグラウンドで活動する聖句自由吟味者が、一定数いたと見るのが自然です。

後にドイツで起きる農民戦争(1524-5)には、過激化した自由吟味者が多数参加していたのですから。


+++

ルター戦争までのドイツの精神風景はこうだったでしょう。

~すなわち、自由吟味者たちが地下に潜んで活動し続けている。

その上の、地上では一般人民が従順に生きている。


+++

戦争は、その光景を変えました。

~まず自由吟味者が地表近くにまで上昇する余地ができた。

彼らとともに自由精神も上昇した。


その暖気に暖められて、一般人民も自由と反抗の精神を心に形成していったでしょう。

権力者への対抗意識をもち、対抗行動を取るものも現れた。

この頃のドイツ人民の精神風景を上空から鳥瞰すれば、地下の自由精神マグマが、ところどころで噴火しているようだったでしょう。


(Vol.29 ルター「宗教改革」の実像  完)



    








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