鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

32<創造神概念から展開される世界観>

2014年05月05日 | 聖書と政治経済学





前回、創造神の神イメージは、世界観を作り出していくと述べた。
その有様を、聖書の中に、今少し具体的にみてみよう。

在物神は、もののなかに存在するとイメージされる神である。
この神は、もののなかに感慨として感じられる神であって、言葉による定義がない。
神の理屈を持たない。

一方、万物の創造神は、言葉でもって説明される(定義される)神のイメージである。
言い換えると、概念を持った神メージである。

概念に記号をつけたのが言葉だから、言葉で定義される神イメージと言ってもいい。

すると、人間は「それなら筋としてこういう属性・性格も持っておられるはず」という思考をすることが出来る。

このように、神の性格を(聖句で確かめながら)論理的に探っていく知的活動を「神学」という。
神学は英語でセオロジー(theology) で、これは科学で言うところの理論(theory)の語源になっている。

いまその思考を若干やってみる。
読者諸氏は、しばし、神学をお楽しみいただきたい。




<創造神の属性>

まず第一に、万物の創造神なら、その方は時間的無限者のはず・・・という筋から行こう。
つまり、無限の過去から無限の未来にわたって存在する永続者ということだ。
なぜか?

もし創造神に存在に初めがあるならば、それ以前のものは「自分が創った」とは言いがたい。
だから無限の過去から存在し続けておられる方となる。

同様なことが、未来についてもいえる。
もしもある時点で存在に終わりがあるならば、それ以後のものは「自分が創った」とはいえない。
だから、無限の未来にわたって存続する方となる。

以上二つをまとめると、「万物の創造神は、時間的無限者」という道理になる。

第二に、それに似たことは、空間的にも言える。
万物の創造神ならば、その方は、空間的にも無限の広がりを持った無限者であるはず、ということだ。

なぜなら、もしも空間的に有限な存在ならば、その外側のものは「自分が創った」とは言いがたいからだ。
以上二つをまとめると、万物の創造神は時間空間的無限者ということになる。


すると第三に、さらに次のことも言えるようになる。
時間的空間的無限者ならば、万物の創造神はあらゆる場所にあらゆる時点に遍く(あまねく)存在するはずだ。
これを遍在という。
万物の創造神は遍在者という道理にもなるのだ。

第四に、遍在するなら、その方は移動することがない方だともいえる。

移動というのは、自分が存在しない地点に動いて行くことである。
だがあまねく遍在する方には、その必要がない。
万物の創造神は動くということがない方なのだ。

第五に、遍在者ならば、全存在にわたって全てを認識されることになるだろう。
故に、万物の創造神は全知者ともなる。
我々人間の全時点における言動についても、全て認識しておられるという道理になる。

第六に、もし「最後の裁き」のようなものが将来あるならば、その方は人間を全員正確に裁かれるだろうとも言える。
遍在者は、全員に関してすべてを認識しているからである。

第七の属性は、「創造者」であるということからくる。
それは、万物の創造神は、エネルギーの総元締め、源のはずということである。

これは近代物理科学の知識によって出てくる道理だ。
いまや物理学では、「エネルギーと物質とは相互転換しあう関係にある」ことを明らかにしている。

すると、創造神が物質を創造するわざとは、「エネルギーを物質に転化させるわざ」ともなる。
であれば、万物を創造した神はそのエネルギーの源で、総元締めということになる。




<御子イエス>

ここで御子イエスについても、神学的に考えておかないわけにはいかない。
創造神の御子イエスは、創造神以上にポピュラーな「みんなが知ってる」聖書の主人公だからである。

御子イエスはこの世に人の姿で現れる前には、霊としての御子イエスである。
そして彼は、実は創造神の創造のわざの協働者と神学上なる。

「ヨハネ伝」冒頭の聖句はそれをいっている~、

・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「はじめにロゴス(理法)があった。 ロゴスは創造神と共にあった。 
ロゴスは創造神であった」(1章1節)
「この方は初めには創造神とともにおられた」(1章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・

「ヨハネ伝」の文脈ではこのロゴスが御子イエスとなっている。
ロゴスは日本語で言えば理法である。
そして「全てのものはこの方(理法)を通して創られた」と「ヨハネ伝」はいっている。




<創造の協働者>

では理法とは何だろう。
それはエネルギーを物質に転化する際、その事象を無秩序なものではなく、筋道立ったものに整序する働きだろう。
水という物質を、「すべて、二個の水素と一個の酸素とが結合してなっているように」創造する、といったごとくだ。

ヨハネ伝では、この働きをした存在が御子イエスであるとしている。
そしてそれを御子の「働き」というのではなく、「その理法が御子だ」と言っているのである。

またヨハネは、「無限者である創造神は、この御子を当初理法の霊として自らの内に抱き持っていた」としている。
それをヨハネ伝の著者ヨハネは「ロゴスは創造神とともにあった。ロゴスは創造神であった」と記している。

ともあれ、後に地上の人間の中で様々な活動をする「人の子」イエスは、原点ではロゴスという創造霊だったと、聖書は言っているのである。

霊としての御子イエスは、その意味での協働創造者であった。
これが聖書にみられる論理である。

創造神はこの御子(ロゴス)と協働して、最初に、巨大な霊的空間を作るのだ。
これが天国(天の創造主王国)で、天国は被造空間なのである。




<御子は父ほどに偉大ではない>

さて聖書では御子もまた力ある存在で、多くのわざをしていると記されている。
だがその力は、父なる創造神が与えてくれるエネルギーによる。

御子のなす創造のわざもまた、父からのエネルギーを被造物に転化さすことによってなされるのだ。
創造神がエネルギーの源で、総元締めならば、神学上そういう論理になるのである。

それが示すように、御子は父なる創造神ほどには偉大ではない。
御子イエスもまた「父は私より偉大」といっている。
そして力あるわざをするときには、常に父に祈り求めている。

でも御子は、父なる創造神と協働して創造のわざをする。
その協働の仕方にはその主導状態によって二つありそうである。

+++

一つは、創造神が主導する創造のわざである。
天国という有限の被造空間をつくる創造のわざは、この創造神主導だったと思われる。
創造神は、この空間を、御子イエスに「相続させるために創った」というのだからである。

相続というのは、我々人間の間では、親が死ぬとなされる。
だけど、父なる創造神は永続者で死なない。
そういう世界で「相続させる」というのは、「与える」ということになる。
がともあれ、この天国の創造は創造神主導による創造だとみられる。

+++

ところがそれ以降の創造のわざは御子主導でなされたという道理になりそうだ。
御子は与えられた天国の統治、運営をすることになるからである。

まず御子は天国という霊的な被造空間に父なる創造神の名を置く。
(この名がイエスであることが後にわかってくるが、それについてはユーチューブの「ヨハネ伝解読」49~「父・子・聖霊の名とは何か~を参照されたい)


そしてそこに造霊、天使(御使い)を数多く創る。
その際、御子は天使に自由意志をもたせる。
その自由意志でもって父の名を賛美させようとする。

コンピューター用語でいうと、御子はそういうプログラミングをし、実施したことになる。




<聖書の世界史は、御子による「バグ修正」物語>

ところが御子は父なる創造神のように完全な存在ではない。
それもあってかこのシステムからは、バグが生じた。

具体的には、賛美を担当する天使の長が、自由意志を用いて、自ら創造神の名のように賛美されたいとの欲望を抱いてくれてしまった。

そして、天使長は天国の一角で、配下の天使に自分を賛美させ始めた。
これは想定外の事態である。バグである。

そこで御子は自らこのバグの修正に入っていく。父なる創造神に祈り、導きと助けを得ながらの修正である。
この御子によるバグ修正が、全世界空間の歴史展開の基本的大枠に聖書ではなっている。
(それはもう、壮大な修正作業となる)

以後のこの作業をもう少し具体的に述べると・・・・、
霊イエスは天国の一角に宇宙という暗闇を創る。
そこに創造神に反逆した天使たちを追い落とし、閉じ込める。

その宇宙空間に地球を創り、そこに動植物や人間を創る。
以後、おなじみの物語に繋がっていく。

人間が、悪魔にだまされて原罪を犯す。
御子イエスがマリアのおなかを通して、人の姿で地上に現れる。

そして、「人の子」イエスは罪がないのに十字架で刑死させられて、人の原罪の代償を創る。
そうやって、信じるものを罪から救う。
・・・等々となる。

こうした一連の物語が、時間空間的無限者である、万物の創造神の概念を出発点として展開するのである。




<在物神の神イメージからは>

こうした論理展開は、在物神の神イメージからは生じない。
在物神は、もののなかに存在すると漠然とイメージされる神だからである。

この神は、もののなかに感慨として感じられる神であって、言葉による定義がない。
概念、理屈を持たないので論理展開の生まれようがない。

それは人がものを見るとき、そこに内在すると漠然とイメージされ、短時間に忘れられる神である。感性に受信された内容は短時間に消えるのだ。
それはまたその物質を見るとき、意識に浮上し、そしてまた忘れられる。
そういう神イメージだからである。







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