鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

14.冒頭から創造のわざが述べられる

2019年06月29日 | 西洋を知る基督教再入門

 

この「基督教再入門」を筆者鹿嶋は、話し言葉で書いています。
実は、ある若き青年に語りかけているからです。

彼の名は北上望(きたがみのぞむ)君と言います。

この春高校を卒業しました。現役生として大学を受験しましたが、第一希望の大学に合格できなかった。
まだ若いから、と、いま浪人一年生です。

好奇心の強い青年です。途中確かめたいこと、疑問なことがあると、率直に質問します。

話の進行を気遣うことほとんどなく発言する、「空気読めない人間」ですが、それも若さです。


いま筆者は聖書の話に入りました。

 


~聖書は前半が旧約聖書で、後半が新約聖書でなっています。
旧約聖書の冒頭に収められている書物が『創世記』でして、それは次の言葉(聖句)から開始されています。

・・・・・・・・・・・・・・
「はじめに創造神は天と地を創造された」
  (創世記、1章1節)
・・・・・・・・・・・・・・

このように聖書では、初っぱなから、創造神が登場します。

そしてその方が天と地と海を創造される光景から話が始まっています。



<人間が生きられる環境を創る>

創造神は、海には魚を、空には鳥を、そして地には植物、動物を創造します。

これらは人間が生存できる環境です。それを整えた後に、その環境の中に創造神は人間を創ります。

つまり、この「天と地の創造」は、人間に焦点を当ての創造です。

創造神は、人間を男と女に創造し、「生めよ。増えよ。地を満たせ」といい、さらに「全ての生きものを支配せよ」といっています。

+++

これらの創造活動を6日間かけてなし、7日目には創造神は休まれます。

そして、その日を「聖」と定められます。



<世界観の一つとして>

望「奇想天外なことが連続して起きる物語ですね」

~創造神が起こすんだからね、とりわけ日本人にとってはそうでしょう。宿物神イメージしか持たない自然なままの人間が多いからね。

でも、基督教の教典である聖書にはそう書いてあるというのは事実だ。とにかくその事実から出発するのが正解でしょう。


望「こんな話をわれわれはどう受け取ったらいいでしょうか」

~そうだね。答えは「まず世界観の一つとして聞く」だろう。

世のなかには世界観が色々あります。

「人間社会には、資本家と労働者がいて、資本家が労働者を搾取している」というのもその一つだ。


望「それって経済社会だけをみた社会観ですね」

~近代社会の経済面の話だが、経済に焦点を当てていようが、近代に時代は限定されていようが、それも一つの世界観だ。

「こういう社会はいつまでも続かなくて、いずれ革命が起きて平等な社会が実現される」という見方が付け加わってもいい。
それもまた世界観。

もちろん「こういう搾取関係は永遠に続く」であってもいい。それも世界観だ。

とにかく人間である自分を含み、その自分を取り巻く環境世界のイメージは、みんな世界観だ。
ちなみに世界観を全体観と言うこともあるよ。


望「だったら、『世界には怖い神様がいて、悪いことすると死後地獄に落ちて鬼に苦しめられる』というのも世界観ですか?」

~ああ、立派な世界観だ。「生きてる間にウソをついてたら、地獄で閻魔様に舌を抜かれる」というのが加わっても、やはり世界観。

聖書の世界観も、まずはその一つとして知識に加えたらいいだろう。


望「そんな程度の受け取り方でなにかいいことあるんですか?」

~そうだなあ、深い質問やなあ、では次回はそのことを話そう。





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13.理性認識と感性認識

2019年06月25日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

創造神を認識する方法について、少し詳細に考えておきましょう。
 
筆者は~
「端的に言えば、宿物神は「感慨の神」であり、創造神は「理念の神」
              ~と前述しました。
 
 
ですけど詳しく言うと、この「理念の神]は、創造神を認識する初めの時点の状況についてのべたことです。


 

<納得できる認識とは>
 
創造神の理解は、理(筋道)による理性を用いての認識に始まります。
 
だが、人にはもう一つ、感性という認識能力も与えられています。
 
創造神認識も、進むにつれて感性認識が加わらねばなりません。
感性にドシーンと手応えのある認識ですね。

理性と感性の両方を用いた認識でもって、人は納得のできる認識に達するのです。
 
詰まるところのゴールは、それですね。

ちなみに、霊感は感性能力の一つです。
 
+++
 
 
例を挙げて考えましょう。
 
創造神を理(筋道)によって認識する方法は、例えば「時間空間的無限者」、「唯一者」といった把握に現れています。
 
言葉による認識ですね。
 
では、感性認識はどうか。

例えば、戸外に出て上方を見上げてください。
この空も、その下にある全てのものをも、創り出した神を思って、見上げてください。

そのとき、漠然ながら感じられるお方(存在)が、感性(霊感)で認識した創造神です。
 
 
    

<感性認識の弱点>

だが、感性認識には、正確さにおいて弱点があります。

創造神を思って見上げていても、その神様は、空の「中におられる」方とも感じられてくるでしょう。
そのとき、我々は、いつのまにか在物神(空という物質の中に存在する神)である神を感じています。
 
このように、感性による認識は、創造神的になったり、宿(在)物神的になったり、と揺らぎます。

 
 
<言葉の枠に収める>
 
そういう弱点を持った感性認識を、揺れないように「型枠にはめこむ」のが理性(筋道の能力)です。
 
「自分以外の万物を創造した方」「空間的に無限に大きい方」などの枠を与えます。
 
筋道は言葉で与えられます。
言葉は筋道(理)を含んだイメージ形成手段です。

 
 
<福音は「聞くこと」から始まる>
 
最終的に目指すべき創造神認識は、理性認識と感性認識が協働した認識です。
 
そして、その協働のプロセス(順番)を言うと、最初は言葉による理性認識です。

聖書で、「福音は聞くことから始まる」というのは、それをいっています。

創造神という実在の認識は、まず、言葉による理性認識から始まるのだよ、というのです。

そして、その言葉を沢山受信していると、感性認識も湧き上がってきて実在感が増す。
 
具体的には、霊感が動き出します。
霊感は感性のなかの一つの能力です。
 
そこに偉跡(聖書用語では「しるしと不思議」)が起きて実在感は飛躍する。

~これが聖書の示唆する創造神認識の手順です。

 



<聖書の冒頭から>

 
創造神を知る最初の手がかりである言葉は、聖書の冒頭から記されています。

聖書は旧約聖書から始まるのですが、その冒頭の書物は『創世記』です。

それは「初めに創造神が天と地を創造した」という聖句から始まっています。




 
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12.創造神理念は基督教本道の必須基盤

2019年06月17日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

明確な創造神理念は、基督教の核心を保つためにも、決定的な役割を果たしています。
 
 

<福音宣教の二本柱>

先取りして言うと、基督教の究極の教えは、結局はイエスの教えになります。

イエスはイエス・キリストとも言いますね。
イエスは創造神の御子の名です.

キリストは人類の「救い主」という、職分を示す名です。
創造神から御子イエスだけに与えられた職分です。

だからキリスト・イコール・イエスとなり、基督教はイエスの教え、となるわけです。
 
旧約聖書はその背景を描く書物です。

 

そのイエスの教えを福音(グッドニュース:良い知らせ)といいます。

その知らせのエッセンスは~

「『イエスを創造神の子で救い主』という知らせを否認しないで受容すると、その霊はいのちをもって永続する」

~というものです。

その知らせ(福音)を伝える働きを、イエスは弟子たちに命じるのですが、それは二本の柱でなっていました。

① 福音を宣教すること。

② それを「しるし」で証明すること。

~がそれです。

そのことはたとえば次の聖句に現れています。
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「それからイエスは弟子たちにこう言われた。
『全世界に出て行き、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。
・・・(中略)・・・信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名の中で悪霊を追い出し、
・・・・(中略)・・・、病人に手を置けば病人は癒やされます』
・・・(中略)・・・そこで彼らは出ていって、いたる所で福音を宣べ伝えた。
主は彼らとともに働き、御言葉に伴うしるしをもって、御言葉を確かなものとされた」
(マルコによる福音書、16章15~19節)
・・・・・・・・・・・・・

 
ここに、①宣教せよ、②それをしるしで証明せよ、という二本柱が示されています。

「しるしをもって確かなものにされた」というのは、実際には「そう命じられ、弟子が従って、働かれた」ということです。(この詳細は後述します)

それはまた、弟子たちに宣べ伝えられて福音を受容し、みずからも宣教するようになった人々にも適用される命令です。

この、②「しるし」でもって証明しながら、①教えを宣べ伝えていくところが、一般の宗教と一線を画する基督教の特質です。
 
 
 

<「しるし」は「証拠」>


「しるし」は、聖書では「しるしと不思議」とも記されますが、日常語では「証拠」です。

 証拠と聞くと、ストレートには「(弟子たちが語る)見えない世界の事柄」を、見えるようにして示すこと、が想像されるでしょう。

それを聞く人に幻や映像をみせるなどしてね。

だがそんな幻は、イエスも見せなかったし、弟子たちも見せませんでした。



<御言葉の証拠とは?>


代わりに彼らは、超自然な事象を現しました。

その代表例が、病の超自然的な癒しです。

「悪霊追い出し」もありますが、ここでは神癒(しんゆ:創造神がなされる癒し)を主にとりあげます。

+++

超自然な癒しは、観察する人々の心理には「しるし」(証拠)になるのです。

人間は、超自然現象に直面すると、それを現す人が、見えない世界にあるスーパーパワーをもった神に通じていると、直感するからです。

それは、聞く人々の心から「口だけなら何とでも言えるサ」という気持ちを吹き飛ばします。

そして語られる教えに、文句なしのリアリティ(実在感)を感じさせます。
そういう意味で、証拠(しるし)になるのです。

 
 
<創造神理念の不明確な人にも効くが>

この心理(感情)は、「万物の創造神」という理念を明確に持たない人の心にも、一応生まれます。

だれでも、巨大なパワーらしきものを感じたら、一瞬素直になりますからね。

「笑わせるな」と思って聞いていても、その瞬間には姿勢を正します。

+++

だが、出来上がる心理は「バクゼ~ン」とした感情のままです。

不思議事象が「奇跡」として受け取られるからです。
奇跡とは、理解できない「奇異な出来事」です。

心理はそれ以上に進展することなく、認識は漠然としたままで、時とともに、その感覚は薄れていきます。

 
+++

もし宣教が受け容れられ、そこで基督教活動がなされるとしても、概してそれは枝葉的な要素が満載なものなります。

愛、倫理道徳、敬虔な人生などが主要テーマになったり、人格形成のための修養、美しい賛美歌、楽しいサークル活動などが主要活動になったりします。

日本の基督教活動は、概ねこの状態にあります。

それ自体、悪いことではありませんよ。

だが、道徳や人格形成だったら、もっと丁寧に縛ってくれて教えてくれる宗教は他にありますよ。

だから日本の基督教は普及しないのです。

 
 

<創造神概念が明確にあると>

けれども、万物の創造神という概念が明確に意識にある場合は事態は異なります。

万物の創造神は、天国も、宇宙も、そのなかの空も海も全て造ったスーパーパワーの持ち主です。

その方にとっては、例えば、一人の人間の脚萎えを治すなど、人が手の平にのせた髪の毛を吹き飛ばすよりも楽なことです。

衰えた筋肉を再創造してあげるだけのことですから。

創造神の創造のわざは、「創世記」の冒頭に描かれた時点に限定されないものですから。

~そういう理解が可能になります。

+++

この場合、弟子たちの宣教に伴う不思議事象は「奇跡」(奇異な出来事)ではなくなります。

「偉跡」(いせき:現れるべくして現れる偉大な出来事)となります。

『使徒行伝』には弟子たちの宣教活動にともなうしるしが記録されていますが、それらをすんなりと「事実を述べたもの」と受容できるようになります。

そういう「理解」のともなった認識になるのです。

+++

すると、上記「マルコによる福音書」の聖句が示す事態の実現に向けて、正道を進めるようになります。

詳しくは後述しますが、実際の話、当初は②の「しるし」はほとんど現れません。

にもかかわらず、実現を求めて聖句を探究・吟味する道を進む姿勢が生まれる。

そして、実際、続けるとあるとき、①宣教に、②しるしが伴う、ようになります。

+++

証拠は、宣教するのに有効なだけではありません。

宣教を受けて福音を受容した人が、受容当初の霊識を維持するためにも、役立ちます。

人間は当初の衝撃を忘れますから、以後もしるしは必要なのです。

イエスも、弟子たちの前で何度も偉跡を示しています。
 
+++

がともあれこのように、明確な創造神理念は、福音宣教の本道を進むために不可欠な要素となるのです。

 
 
 
 
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11.「ノアの大洪水」が"理解”できない

2019年06月15日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

本文に戻り、創造神の話に戻ります。

~えっ? まだ創造神?
創造神の概念を、どうしてそんなに長々と語るの ?

~そうお思いかも知れませんが、続けます。

この概念を明確に意識に住まわせていることが、基督教の本質を知るのに不可欠だからです。





<ノアの大洪水>

聖書では、一般の神話をはるかに超えた、大スケールの出来事がたくさん語られます。

たとえば、何日も大雨が降って、地球の全表面が水で覆われてしまい、ほとんどの生きものが死滅してしまう、という事件も記されている。

「ノアの洪水」と言われる有名な出来事です。

 
 

<在物神感慨で認識>

これなど、この世の全てを被造物として創った創造神の概念を明確に持っていてはじめて、イメージがついていきます。


宇宙の全ても造った、無限の広がりをもった創造神だ。宇宙のなかの小さな点にも充たない地球を水で覆うなど、何でも無いことだ、現実的なことだ~とイメージできます。

ところが、万物の創造神の理念が明確でないと、そうならない。

そういう、筋(理)がわか(解)るということが心起きません。

「理解」が生じない。

+++

するとどうなるか?


~ああ、なんか、カミサマだから不思議なことをなさるんだろうなぁ・・・としか思えない。

心に生じるのはそういう感慨のみです。


だったら、在(宿)物神宗教やってるのと変わらないでしょう。


日本のキリスト教の大半は、そういう現状です。

だけどそれなら、わざわざ基督教を学ぶ意味はなくなってしまうのです。


(続きます)




 
 
 
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(緊急訴求!)「死んでおしまい」の拷問から子孫を守る

2019年06月04日 | 西洋を知る基督教再入門
 
 
 
(臨時版です)
 
 
「引きこもり中年」による事件が立て続けに起きています。

こいう事件は、まずはテレビが大きく扱って世論をリードします。

だが、NHKも含めたテレビ放送で発せられるコメントには目を覆うばかりです。


人間の根本的な心理的構造にあきれかえるほどに盲目なのです。

この報道自体が、この問題が含む病根を体現してしまっているのです。

+++

結論的なことから言うと、問題は次の思いから発しています。
すなわち~

「人間死んでおしまい」なら、人の全ての営みは、つまることろ、価値はない、無価値だ」

「だったら、オレはいま生きてても価値はない。他の人間も同じだ。いつ死んだって同じことだ・・・」

~この心理です。

 

<飢えの恐怖に変わって出現するもの>


敗戦後の日本の歴史は、「飢えへの怖れ」からの解放されたい、という思いに牽引されてきました。

高度成長政策の根底動因もそれでした。

飢えの恐怖がある間には、身体がもつ「生きよう」という欲求が、上記の人生哲学「死んでおしまいなら生きることは無価値だ」を圧倒してきました。

「腹が減る苦痛」の方が大きかったのです。



だが、国民の多くに“飢える”ことがなくなると、次に巨大な問題が現れます。

飢えの恐怖がなくなると、子供達は、「生きたって価値ない」という思いにまともに襲われるのです。

 +++

肉体だけ見ていたら、「人間は必ず死んで消滅する」という知識は蓄積していきますよ。
「おじいちゃんも死んだ、お祖母ちゃんも死んだ、そしてもう帰ってこない」・・・それを幼少時から体験・観察するので、「死んでおしまい」の意識は自然に育つのです。

1980年代にすでに、子供達は、その「死」の意識に抑圧(depress)されるようになっていました。

 
 
 
<技術能力だけが突出した民族>

 

だが日本の大人はそのことに、鈍感でした。


その鈍感さは、驚異的でした。

日本人は、現世的な技術能力だけが異常に突出してる民族です。

だから、1868年の明治維新以来、瞬く間に西欧の科学技術、社会技術を模倣吸収し、列強に対抗する軍備を備えてしまいました。

+++

だがその反面、哲学能力の資質は驚異的に幼稚です。

だから大人は、子どもを襲う「死の抑鬱」を霊感出来ない。

そういう、「哲学のない」大人たちが、世の常識価値に気を紛らわしながら、心理的にはかろうじて生きてきた。

これが、戦後日本の歴史なのです。



 だが、飢え(身体的死の恐怖)のなくなった子どもたちの心理には、幼いときから「死んでおしまいなら人生無価値」という哲学が漠然と浸透してきています。

「世の常識価値」の追求などにごまかされない、紛らわさることのない虚無感が心を侵食しています。

 

この心理は「抑鬱」です。

日本でうつ病をいう、その「鬱」そのものです。



 
 
<抑鬱は拷問の苦しみ>

 

抑鬱の苦しみは、拷問の苦しみですよ。

身体的拷問も、究めると、爪の根元への痛みとか、身体の心奥部分の痛みを与えていくようになるでしょう。

抑鬱の苦しみは、心の根底での心奥の拷問です。

人の身体は「生きよう」という生来の志向を素直に持ったままです。

その根底的な思考を、「死んでおしまいだから生きても無価値」という意識が、上からじわじわと押さえつけるのです。

身体と違って、心奥のものには、人工的に工作を施すことが全く出来ません。

これは、拷問の極なのです。

+++

これに根底から対抗できるのは「人間死んでおしまいでない」という人間観のみです。

漠然とした気分としてなら、人間はそういう意識を持っていますよ。

だから、日本人も葬式をするし、位牌を家に飾ったり、墓石を作って拝んだりしてきています。

だが、それは「バクゼ~ン」なのです。

それでは力が無い。


 
力ある考えは~

 

「人は肉体と霊とからなっている」

「肉体は百年もすれば死んで消滅するが、霊はそれを抜け出して永続する」

~これを骨子とした、論理的に詳細で、理性も”しかと”納得するような、人間理論です。

 


<馬鹿にしているときではない>

そして、それを理性的に、詳細に教えてくれるのは、聖書という書物のみなのです。

こう言うと戦後の大人たちは、「宗教か」「鰯の頭も信仰か」「笑わせるな」といってきました。

だが、もうそんなこといってる時ではないのです。

 

この書物を大人達は、馬鹿にしないで、すなおに、率直に吟味検討すべきだ。

そうしないと、もう、日本は国民の心理から腐食し、崩れていくのです。

 

 

ただし、その気になっても、日本の教会には行かないことです。

残念ながら当面、日本の牧師さん達には、霊という要素に、正面からら取り組む度胸も、知力もないです。

で、もっぱら「愛、愛」と教えている。

確かに愛も聖書が教える大事な要素ですよ。

+++

だがいま必要なのは、聖書の教えのなかの、「人間構造論」です。

聖書は、その理論だけでなく、それが事実であると、人間が、奇跡(超自然的、霊的事象)で証明する方法をも教えています。

 奇跡は偉跡とも言い、その主要事象は病の「癒し」ですが、その力を得る方法も教えています。

(そして、それは実際にできます)


 
 
<救うのは会社人、役所人たち>

会社、役所ではたらく、あなたたち大人が、直接この解読に取り組むのです。

 

まず、一人でやります。

個人の聖書解釈自由の原則に立って、怖れずに吟味検討します。

そして同じ活動をする人々と、数人の小グループをつくって吟味会をします。

 +++

「う~ん」なんて言ってるときではありませんよ。

これを始め、続けるしか、「引きこもり⇒凶暴化」の種を打破する道はないのです。

 

 

 
<本も知的充足だけで終わった>

筆者、鹿嶋は、その解読の手引き書を書いてきました。

膨大な聖書内容に途方に暮れることを避けるために、まず、一時的な手がかりになる、解読を書いてきました。

幸いにして、本にして出版してくれる出版社(編集者)も出ました。

+++

だが、読んだ人々は、それで一時の知的充足を得るだけでした。

それ以上の受け止め方は、しませんでした。

その結果、一時的に小さな流行本になった後、いまはみな、古本になってしまっています。

新潮社の『聖書の論理が世界を動かす』『誰もの聖書を読むために』『神とゴッドはどう違うか』などは、みなそうです。

+++

だが、人間の構造を図によってわかりやすく示した本も、中経出版さんは発刊してくれました。

『図解・聖書のことがよくわかる本』がそれです。

この会社は、その文庫本をも作成しました。

(いまは、株式会社KADOKAWAと合体しています)

タイトルは

『聖書が面白いほどわかる本』(中経の文庫)となっています。

こちらも、中古本しかありませんが、kindle版の電子ブックも出されています。

紙の本はどちらも中古本として、いまも、アマゾンで、少数ながら手に入る状態にあります。

+++

これを右手に、バイブルそのものを左手に、聖書の自由吟味に乗り出してください。

並行して解読者で小グループを組んでの吟味会をすれば、理解は倍加します。


 
<子孫を拷問から守るため>

「ひきこもり」はあなががた大人だけの問題ではありませんよ。

あなたの幼い子、孫が、このままでは、「死の抑圧(depression)」の拷問危機のもとでいきることになるのです。

この意識波動を受けたら、拷問され、ひきこもりになり、凶暴化するのです。

あなたがた夫妻も、恐ろしい家庭暴力の恐怖の中で生活することになるのです。

+++

「死んでおしまいなら、今死んだって同じことだ!」

「それはオレにだけではない。あの、スクールバスで通学している子供達にも同じことだ」

「彼らも、今死んだって同じことなのだ!」

この考えは、「人間死んでおしまい」の考えからは、ごく自然に出てくるものなのです。


@@@@@@@

(追伸)

この(臨時版)には関連記事が、下記にあります。


 

タイトルは「イエス最大のプレゼントは永続確信」です。

そして、それに続く七つの記事が、そのまま下に向かって降順で読めるようになっています。

(永続確信1~7の記事です)

ご参照ください。
 
 

 
 
 
 

 
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10.創造神は「唯一者」

2019年06月03日 | 西洋を知る基督教再入門


この機会に、万物の創造神には、もう一つ「唯一者」(ただお一人の方)という属性も「筋として」出てくることを見ておきましょう。


 
 
<唯一者>

それは「二人以上いたのでは、筋として成り立たない」ことをみればわかります。

たとえば、「オレは自分以外のすべての存在を創造した創造神」だ、と主張する存在が、A神様とB神様の二者いるとしたらどうなるでしょう。

A神からみたら、B神は被造物になります。
ところがB神からしたら同様に、A神は被造物となってしまうのです。

つまり、「自分以外の万物」を創造した創造神が二人以上いるというのは、筋として成り立たないのです。

ごく当然になりたたなくなる。
創造神は、唯一者となるべくしてなっている唯一者なのです。



@@@@@@@@

(ここからは聖句に慣れていない人はスキップしていいです)



<聖句照合>

この推論に呼応している聖句は、たとえばこれでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「まことにこの主(創造神)がこう仰せられる。
"わたしが主である。他にいない"」
 (イザヤ書、45章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

もしも、反対の意味を持った聖句、例えば「私の他に創造神はもう一人いる」といったような聖句しか見つからなかったら?

どうしてもそれしか見つからなかったら、筆者はその推論を破棄します。
そして再吟味します。



<聖句主義(Biblicism)>

このように最終権威を推論(解釈)でなく、聖句に置くという生き方を、バイブリシズムといいます。

米国南部のバイブルベルト、と呼ばれている地域の教会の用語です。

筆者はそれを聖句主義と邦訳しました。
そして筆者もまたその立場に立って、この基督教再入門をすすめています。

バイブリシズムについては、後にもう少し詳しく説明いたします。

@@@@@@@@

 
 

<ニッポン知識人の愚かさ>

(ここからは全てが読んでください)

余談です。
神概念をよく考えることもしないで、格言の如くに公言されているフレーズが日本にはあります。

「西洋の神は他の神を認めない独善の神だから、西洋人は寛容の心がうすい」とか、
「それに対して日本人は多神教だから寛容だ」とかがそれです。

あちこちでまき散らされている言葉ですから、読者も見聞したことあるでしょう。

だがそれは事態の構造を見ていない。
事象の上っ面をみているだけの妄言です。

悲しいことに、こういう妄言を、日本では、知識人と言われる人々がヌケヌケとマスメディアを通して公言している。

マスコミ人もそれを恭しく拝聴して報道しています。

~それによって、日本の国際政策も、日本人の国際行動も、的外れになってしまっている。
その結果、被らなくていい損失を被り続けています。

なんと愚かなことでしょうか。

民族のこういう愚かさを無くすためにも、創造神概念を入念に知っておくことがいかに大切か。

そのためにも「基督教再入門」はなくてならないものなのです。

(続きます)





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9.創造神は「時間的無限者」

2019年06月02日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

前回、創造神は空間的無限者と申しました。
これと同じようなことが、時間についても言えます。



<永遠の過去から>

万物の創造者は、無限の過去から無限の未来に渡って存在する、時間的無限者であって、はじめて筋が通るのです。

なぜなら、もし、過去の存在に出発点があったら、それ以前のものは「オレが創った」とは言いがたいでしょう。

「万物」はそれ以前にも存在した可能性があるからです。
それも含めて、「オレが創った」と言えるためには、自分自身が無限の過去から存在していないと、筋が通らなくなります。



<永遠の未来へ>

未来についても同じです。
自分が未来の一時点で存在しなくなるのなら、それ以後に出現するものは「おれが創った」とは言いがたい。
 
だから、「万物の」創造神であるのなら、未来にも無限に渡って存在するのが筋となります。

+++

そしてこの2つのイメージを合体させると、創造神の属性である時間的無限者のイメージはできあがります。

 

 
<永遠イメージを創成する>

「時間空間的に無限」というイメージも、心に作ってみましょう。

まず、「無限の過去」のイメージから。
 
最初に、いまより過去の一定期間を意識します。
それには「はじまり」の時点があるでしょう。
 
この期間をさらに、さらにと過去に押し広げます。
「はじめ」の時点は遠ざかっていきます。

それをどんどん続けます。

黙想(瞑想)を加えていきます。

すると「はじめ」の意識が薄らいでいきます。
そして無限の過去イメージだけが残っていきます。

こうして「永遠の過去」のイメージは出来上がります。

+++
 
「無限の未来」のイメージの作成も、「無限の過去」のイメージと同様です。

未来の一定期間をイメージすると、最初はその終わりの壁が意識に現れます。
それをどんどん先に広げていきます。

瞑想(黙想)を加えて続けていくと、壁のイメージは希薄化し、無限の未来イメージができていきます。
 

そして、この2つのイメージをつなぎ合わせると、創造神の時間的無限者イメージはできあがります。

 
 
 
<イメージ形成を助ける賛美歌>

賛美歌にも時間的永続者のイメージ形成の助けになるものがあります。
賛美歌497番などはそうでしょう。
 
歌詞の1番は、こうなっております。
   (括弧内にその意味を記します)
 
 
天(あめ)なる日月(ひつき)はまきさられ、
   (天にある太陽も月も風化して) 
 
土なるものみな崩るとも
   (地にある全てが崩壊しても) 
 
常世(とこよ)にわたりて統(す)べたもう。
   (永遠にわたって統治される)
 
主イエスぞ常磐(ときわ)にかわりなき。
   (主イエスは永遠に変わりがない)
 
 
(以下はリフレイン部)
 
あめつち跡なくくずるとも
 
主イエスぞときわにかわりなき
 
かわりなき、かわりなき、
 
主イエスぞときわにかわりなき
 




YouTubeで聞くことも出来ます。

 

+++

聖書ではイエスは創造神の子です。

馬の子が馬であるように、創造神の子も創造神です。

つまり、これは創造神が時間的無限者であることを歌っているのです。



<聖句照合>

聖句との照合もしておきましょう。

時間的無限者という筋には、たとえば次の聖句が呼応しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主は永遠の神」
 (イザヤ書、40章28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

(続きます)





 
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