<日本の神イメージ鳥瞰図>
前回には、世界の神イメージを鳥瞰するための物差しとはどんなものか、その概念を述べた。
今回はその物差しを具体的に図示し、その上に、具体的な神イメージ形成媒体を位置づける。
具体的神イメージ媒体の提示は、日本の事例から始めよう。
最初に図の矢印線の上部を右から左に見ていこう。
まず、巨木、巨岩が出ている。
これは日本では各地の田舎で巨木や巨岩の内に神がイメージされ、礼拝されていることを示している。
その左側は動物だ。
日本では動物にも神が内在するとイメージされている。
狐や蛇などが祀られ、礼拝されている。お稲荷さんは狐を祀った神社だ。
その左側は骨(人骨)である。
仏舎利とは釈迦の骨のことである。
東南アジア諸国には、これに神が内在するとイメージして拝む国があるが、日本人も同じ心情だ。
それに先祖の骨。
これに神(霊)が内在するというイメージは、日本人には極めて濃厚だ。
その左側は社殿だ。
日本の社殿礼拝は、在物神礼拝が発展したものである。
日本人は社殿を作り、その中に神が臨在すると考えて礼拝する。
だからその本質は在物神礼拝である。
社殿の中にイメージされる神は様々である。
各地の神社には、昔からその地の有力な豪族であった氏(うじ)が祀られている。
いわゆる氏神様がそれである。
武将の霊や知者賢人の霊も祀られている。
東京には日露戦争での戦勝将軍の霊を祀った神社もある。
全国の戦死した軍人集団の霊を祀った神社も九段にある。
さらに左には、仏壇を記した。
仏壇はいわば神殿の個人所帯版だ。
そこにはその家の先祖の霊がいるとイメージされて祀られている。
その左は彫像で、これはいわば在物神の容器である。
代表は仏像で、そのうちに神(霊)が存在するとイメージされている。
観音像は観音菩薩が内在しているとイメージされている像だ。
お地蔵さんは地蔵菩薩の内在をイメージする像だ。
これは石で造られている、日本の各地の道路や路地には地蔵が沢山ある。
<創造神ゾーン>
今度は左の端から、矢印線の上を右に見ていこう。
こちらは創造神を示す記号である。
具体的には言語(言葉)だ。
言葉自体が神を含むものとして拝されることはない。
それは創造神のイメージを人の心に形成させる信号である。
万物の創造神の神イメージは、言葉という記号を組み合わせ、連ねることによって示されるのだ。
言葉は造形的な形をもっていない。
それゆえ、「非造形記号」と赤字で記してある。
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造形的記号もある。
十字架やイエス像、マリア像がそれだ。
これらは像ではあるが、在物神の内在をイメージさせる像ではない。
本来は、万物の創造神イメージを形成させる信号たることを意図して造られる。
だが、聖書では創造神を像で示すことを厳しく禁じている。
「十戒」の第二の戒め「私(創造神)を像に刻むな)」がそれである。
おそらく一つには、人間の在物神形成本能を見通してのことだろう。
つまり「像にすると人は、時と共にその中に神が内在するというイメージを持っていく」という洞察があると思えるのだ。
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だがカトリック教団はゲルマン民族にキリスト教を布教する際に、それを使った。
教団は、言葉にとって代えて像で示すことを聖書が禁じていることを承知で、造形物使用に踏み出した。
カトリック教団は紀元後392年以来西ローマ帝国の唯一国教として統治に参加してきた。
だが帝国は476年、ゲルマン民族に征服された。
そこで教団はこの新支配民族への布教を志した。
ところが、当時、ゲルマン人は文字をもたなかったのだ。
口伝だけによるカトリック思想伝道ではその範囲に限りが出る。
出来れば、イエス像やマリア像、十字架などの造形物を使いたい。
だが、それは聖書が禁じている。
教団は大いに思案したあげく、ついに造形物使用に踏み切ったのである。
そして実際、以後カトリック配下のキリスト教徒の創造神イメージは、ゲルマン人に限らず在物神イメージ化していった。
そこで、もしマリア像などを図に書き入れるなら、右寄りの、在物神ゾーンに近いところに描くことになるだろう。
だが、話が複雑になるので、取りやめた。
<在物神ゾーンが圧倒的に大きい国>
左右に矢印をもつ線の下方には、在物神ゾーンと創造神ゾーンとを区分する縦の点線が描いてある。
図に描いてみると日本では在物神ゾーンが圧倒的に大きいことが改めてわかる。
在物神イメージ礼拝が繁栄しまくっていて、在物神の神イメージが創造神の神イメージを圧倒しているのだ。
<異民族に征服された経験のない民族>
日本で在物神イメージが圧倒的に生い繁ってきたのは、つまるところは、異民族に征服、支配される事態が起きなかったことによる。
在物神礼拝というのは、時の流れの中でその礼拝の様式が慣習化し、伝統となっていく。
するとその伝統が礼拝様式の存在感を増す。
人民は昔から続いている宗教として、理屈抜きにぞの様式を恐れ受け入れるようになる。
かくして在物神の神イメージの影響力は時と共に強くなっていくのだ。
さらにこの礼拝様式は社会文化の色彩を帯びていって、民族の宗教文化となって固定化もしていく。
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だが、宗教文化というのは、異民族に征服されると徹底的に破壊される。
征服者は、自民族の文化による精神支配を確立し、支配を安定化しようとするからである。
日本も、朝鮮を併合した後、その伝統的宗教文化を破壊し、全国にくまなく神社を造ってこの被支配民族に礼拝させた。
第二次大戦の終了と共に日本の支配から解放されると、今度は朝鮮政府が神社の破壊を行った。
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宗教心理上の理由もある。
かつては征服者が自らの神を信じて征服戦争をするのが普通だった。
彼らは、自分たちを勝利させた神が被征服地の神々と同居することへの怒りを恐れ、敗者の神を征服地から徹底的に取り除こうとした。
そこで既存の神々が内在すると信じられていた物体を徹底的に打ち壊した。
ともあれ、在物神礼拝によって形成される宗教文化は、征服されると破壊される運命にある。
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だが、四面を海に囲まれた日本国では、異民族に征服されるという経験をせずにきた。
その結果、在物神宗教は破壊されることなく、自然のままに繁殖していった。
かくして、在物神礼拝は日本中に蔓延するに至っている。
いまや日本人は「宗教」というとほとんど反射的に在物神宗教のみをイメージするようになっている。
「鰯の頭も信心から」というフレーズもそこからきている。
そこにはこういう思いがある。
・・・物の中に理屈抜きに神の存在を信じるのなら、その物はなんでもいいはずだ。
醜くて臭くて、すぐに腐っていく鰯の頭だって、そのなかに神の存在を信じれば、人はそれを拝するのだ・・・と。
こういう極端な例を挙げて、宗教なんてそんなものだといっているのである。
<境界線を動かしてみえてくる各国の神イメージ状況>
異民族に征服された経験を全くもたなかった国というのは、世界では極めて少ない。
一応の国を造った民族で過去に異民族に征服されたことのない例は、日本民族の他にないのではないか。
現代の国際社会に生きる日本人は、このことを、心して自覚することが極めて、極めて必要である。
その特性を神イメージ図の境界線で示してみたのが上の図だ。
日本の状況は、境界線が極端に左方向によったものとなっている。
では、欧州、米国はどうか。
欧州にも古代の昔には在物神礼拝は伸び伸びと生い茂っていただろう。
だが、紀元後になるとローマ帝国政府が全欧州を統治下に置いた。
そして392年にカトリック教団が、西ローマ帝国の唯一国教になった。
教団は、全人民をカトリック教徒にすべく、在物神礼拝を破壊し続けた。
それは、1517年にルターの宗教改革が起きるまで続いた。
その結果、欧州ではカトリック教団の教理(ドグマという)に則った創造神礼拝が圧倒的に優勢になった。
かくして欧州の神イメージ状況は、上の図に示すならば境界線は大きく右方向に移動する。
そして右端に近いところに位置することになる。
米国でも境界線は右端に近い。
だが、その内容は欧州とは異質である。
米国大陸には、カトリック教団に迫害された聖句主義者(個々人の聖句自由吟味を生命とするキスト教活動者)たちが近世に大量に移住した。
そして彼らの信ずるキリスト教活動方式の思想をベースにして国家を作った。
聖句主義の方式は、信徒のキリスト教活動を最も活発化し力強くする。
それ故、米国での状況を上の図に示すならば、境界線の位置は欧州に似て右端に近いものになるが、聖句主義者たちの生き方が、それを極度に右端に移動させているのである。
<創造神イメージがもたらすもの>
創造神の神イメージでは、神の属性が聖書の中の「言葉で」示される。
それらの言葉(聖句)を論理的につなげると、創造神は時間的、空間的無限者であることもわかってくる。
また、万物を創造した方であれば、全知全能の力を具備しているといいうイメージも出てくる。
さらに聖書には、創造神がこの宇宙と地球と人をどのように作ったかも「言葉で」示されている。
そこから人間はいかにあるべきか、そのためにいかなる社会、国家を作るべきか等に関する考えも自然に出てくる。
であるから、これらの政治課題を常時的に意識し、考える状態に、創造神の神イメージを持つものは自然になっていく。
それ故、この神イメージを多くの国民が持つような国家では、人民の政治資質も向上していくのだ。
国民個々人の政治資質が高いのは、民主制が機能するための必須条件である。
また、そうした人民の中からは、高い政治見識を持った政治家も多く生まれやすい。
<在物神イメージがもたらすもの>
他方、我々日本人は、世界的には異様な神イメージ状況の中で、それが当たり前のような気持ちで暮らし物事を判断している。
その結果、宗教とは在物神を拝むもの、との感覚が骨の髄にまで染みこんでいる。
在物神イメージの神は、その性格や属性が言葉でもって説明されることがない。
それは感慨としてのみ心に抱かれるものだからだ。
そして感慨としての神イメージには理念がない。
理念のないところからは、歴史観、世界観、人間観は出てこない。
心に世界観、人間観がなければ、政治意識や思想が常態的に存在することはない。
そういう意識からは政治資質は自然育成されない。
日本人はその典型であるから、そこには政治見識を持った人が多数生成することはない。
<米国からの脱却を望むなら>
日本人は、早くそのことに気づくべきだ。早く、早く気付くべきである。
気づけば、米国の統治下から脱却して日本は対等な政治行動をとるべき、といった幼稚な考えが、いかに危険なものかもわかってくる。
戦後70年間の日本の平和は、米国の世界統治の中にいたからこそありえたものだ。
その平和があったからこそ、大人は高度経済成長に没頭することが出来た。
狭いながらもマイホームを楽しむことも出来た。
若者も70年代フォークを頂点に創作活動に集中でき、若者文化を創ることができたのだ。
どうしても米国からの政治的独立が欲しければ、まず創造神の神イメージを身につける手立てを講ずることだ。