鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

実は誰もがやってる心的作業

2022年08月31日 | 永続確信のための聖書解読

 

 前回、文字資料をもとに、現存していない歴史上の人物(の心情)を認識する方法として、マックス・ウェーバーの「追体験」と「動機の意味理解」を考察した。 

 

  この方法は、大歴史学者だけでなく、原理的には、俳優も小説家も用いているとも示した。 

  

  だが実は、この方法は、彼らだけでなく、我々一般人も日常用いているものである。 

 

 

<同情の心理> 

 

 我々は悲しむ人に同情するとき、その人の心に自分の心を寄り添わせて、その心理に共鳴・同化してわかろうとする。 

  類似の内的経験(波動)をもった共鳴箱が自分の心にもあることを期待して、共鳴するのを待つ。 

 

  共鳴・同化がなったと察知すると、自分の心の内にそれを内省感触して、相手の悲しみを認識する。

    それを日常用語で言うと「同情(情を同じくする)」となるのだが、追体験とはそれと同じ原理の作業だ。 

     ウェーバーの追体験は、我々生身の人間が日頃生活の中でやっている心的作業でもある。 

+++

 

  彼は、この日常的作業を過去の歴史上の人物の心理認識に適用したのだ。

   登場人物をめぐる背景の情報を収集し、自らがその中の主人公とイメージしてそれをおこなう。 

 

 前述した「シーザーを理解するのにシーザーになる必要はない」との彼の名言もその文脈で把握すべきだ。 

  ローマ史を認識する際、ジュリアス・シーザーになったとイメージし瞑想すれば、時とともに共感・同化がなっていく。 

 

 それを内省によって感知し、その知識を用いて歴史を理解する。 

  さすればその人と“近似的”な心理が自分の内に生成する、と彼はみた。 

   

 それをウェーバーは歴史学認識論として、確立したのだ。 

 

      (続きます) 

 

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「追体験」と「動機の意味理解」

2022年08月29日 | 永続確信のための聖書解読

 

  後の世代の我々にとって、福音書は、復活のイエスを認識する際の、文字資料でもある。 

 

 この文章によって、弟子たちが目にした復活のイエス・・・この姿に匹敵するような姿を見ることが出来るか。 

 筆者はそれを追っている。 

 

+++ 

 

 その考察に入る前に、学問である歴史学の認識方法をみておこう。 

  文献資料によって過去の人物や出来事を客観的でリアルに認識する方法は、歴史学の基底課題だ。 

  

<ウェーバーの方法> 

 

  マルクスと並んで世界最大の歴史学者とされてきたマックス・ウェーバーもその方法を考察した。 

   歴史上の人物を認識する鍵は、当人の心情把握にある。彼はその方法を、「追体験」による「動機の意味理解」だとしている。 

 

 <追体験> 

 

そこではまず歴史資料を熟読して、対象者が置かれた環境状況を入念にイメージする。 

 次いで、自分がその中の対象者となった気持ちになる。 

  そうしていると自分の感情が動く。それを内省して自覚する。 

 

そしてそれを対象者の感情の動きだと認識して追っていく。 

  この対象者の内的体験を、自分の心で追っていくのが「追体験」だ。 

 

<動機の意味理解> 

 

それに併行して、その自分の心情の動きを、対象者が置かれた歴史環境と関連付ける。 

 こういう歴史理解が「動機の意味理解」だ。 

 

 ウェーバーはこれが歴史認識のベストな方法だと考え、「シーザーを理解するのにシーザーになる必要はない」との名言を残している。 

 

 <役者だって> 

  

学問的に言うと難しく聞こえるが、それに類した心的作業は、俳優(役者)もしていることだ。 

 彼らは与えられた台本を読んで、自分が演じる役の人物がおかれた環境状況を想像する。 

 

そして、その時々のその役の人物の心情を、自分が当人になった気持ちになってイメージ(追体験)し、演技する。 

  その仕事を、深く豊かになす人が、名優と呼ばれる。 

 

<司馬遼太郎の方法> 

 

 歴史作家(小説家)も同じだ。司馬遼太郎が坂本龍馬を描く際にも、龍馬がおかれたその時々の状況を資料を読み込んで想像する。 

 

 そして、自分がその中で龍馬になった気持ちになって、自分の心の動きを内省観察する。これを龍馬の心情として物語に描く。 

 

<歴史学者特有の仕事> 

 

 といっても、役者や小説家の仕事は、歴史学者と全く同じではない。 

   歴史学は社会科学の一部だから、彼らは(社会)科学者だ。 

 

  科学者は客観性を求められる。 

 

  彼らには、歴史資料と自分の推測を、経験事実で常に検証する義務がある。 

   俳優や小説家にはそれはない。彼らは基本的に、想像を自由に巡らすことができるのだ。 

  

           (続きます) 

 

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初心に立ち返ろう

2022年08月28日 | 永続確信のための聖書解読

 

前回までの複数回、筆者のテーマは迷走してきた。 

 

振り返ってみると、筆者は、イエスの復活を弟子を初めとする人間が「五感認識した時点」に着目した。 

 それが世界に福音が本格的に始動した時点だと直感した。 

 

目撃者たちは、突然、「イエスは復活した。私はその証人だ」と死を恐れることなく語り始めた。 

 こうして、福音は述べ伝えられ始めた。 

 

 <同時代人は復活体をみている> 

  

それを知って、筆者は考え始めた。 

 ~そのイエスの復活を、弟子たちは実際に復活体を目で見て認知できた。 

 人々はそれをイエスの伝記(福音書)に書き残してくれた。 

 

ありがたいが、問題が残った。 

  

~以後の人間は、イエスの復活を福音書の記述文で知るのみだ。 

 

文章によって人はどの程度イエスの復活に確信を持つことが出来るか。 

弟子たちと匹敵するように、実在感を持てるか。 

イエスの復活体は眼前に浮上しうるか。 

 

 <聖霊と軽くは言うが> 

 

 牧師さんらは「聖霊がそれをしてくれる」と言葉では言う。 

 だが、聖霊を受けることは、そんなに容易ではない。 

 

 そもそも、聖霊を受けるには、イエスの復活への確信がなければならない。 

 そして、そういう「前段階の確信」は、五感認識によって得るものだ。 

 

五感認識が先なのだ。 

 

 

<奇跡も五感認知させるもの> 

 

 しるし(奇跡)についてもそうだ。 

 人はしるしをみて「(創造)神は生きていると実感できる」と言う。 

 

だから、宣教に奇跡は必要だと。 

 

 だが、その奇跡を「みる」のは、五感による。 

 五感認知は、先行的な役割を果たし続けるのだ。 

 

<統一教会問題が浮上> 

 

  筆者は、イエスの復活認知についても、五感的な認識を知ろうとした。 

 その考察の途中で、安倍さんが銃殺され、(旧)統一教会問題が突然マスメディアで一大テーマとなって浮上した。 

 

 統一教会の教義上の特質も、いずれはイエス復活の五感認知の問題を探求する中で、考察課題に入ってくる。 

   そこで、この機会にそれを論じておこうと、脇道に入ってしまった。 

 

<教会の思考停止機関化> 

 

 それが一段落しつつあるときに、FBで富田さんが「キリスト教会の思考停止機関化」の問題を提示された。 

 その提起の仕方が見事だった。 

 

 筆者は、これもまた出発点のテーマの議論に、いずれ含まれてくる課題だ、とまた脇道に入った。 

 脇道の脇道だ。 

  

+++ 

 

振り返れば、筆者は、ついつい時々の感情の流れに沿って、議論を展開してきた。 

 定年退官者生活が、そういう気分任せの行動を誘っているのかもしれない。 

 

 だが、それも一段落がついた。 

 次回からは、出発点の問題に立ち返って、考察を再開しようと思う。 

 

 (続きます) 

 

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キリスト教会の思考停止打開策(6)~初代教会はイエスの単独作品~

2022年08月22日 | 永続確信のための聖書解読

 

前回までに、聖句自由吟味方式と徹底した知識の個人主義を説明した。

 

今回は、それを実現した初代教会は、イエス単独の作品であることを示そう。

 

 <イエス、弟子の足を洗う>

 

 イエスは最後の晩餐で弟子の足を洗うというドラマチックな演技をしている。

  そして、「諸君が先生と呼ぶ私が、諸君の足を洗ったのだから、諸君も、互いに足を洗い合いなさい(奉仕しあいなさい)」といった。

 

この話は、通常、それっきりの出来事として、その後の出来事とのつながりが考察されていない

  だがそれは初代教会の成立と、密接につながっている。

 

 <弟子たちは「教会開拓」していない>

 

 復活後イエスは、弟子たちに「教会を創ること」を命じた。

  だが、弟子たちは、今日いわゆる言うところの「開拓(教会開拓)」を一切していない。

 

最初の教会である初代教会は、よくみると、すべてイエスが創っている。

 

+++

 

「使徒行伝」2章に記録されたのは、その状態だ~。

 

「マルコの部屋」で聖霊が降臨し、120人の弟子たち異言を語った。

  聖霊降臨の轟音に驚いてエルサレム神殿参拝者たちはマルコの部屋に飛び込んだ。

 

 彼らは、ペテロの聖書解読に感銘し、そのような解読をしたいと、弟子たちの仲間に加わった。

  新参加者は、その日だけでも三千人いた。

 

 こうして始まった初代教会では、弟子たちは、教会開拓の努力を全くしていない。

   

<開拓は上下関係を生む>

 

なぜか? 

 開拓という仕事は、弟子聖書解読を教え、イエスの教えを伝えることからはじまる。

   すると、必然的に、先生と弟子の関係、上下関係が最初から形成される。

 

 弟子たちは、自然に新教会員に君臨することになる。

  イエスはそれを避けるために、自らの手で初代教会のすべてを開始させたのだ

  

<自由吟味方式は歴史の産物だが>

  

 以後も新参加者は続いた。

  こうした人々の群れ(教会)を運営するには、新参加者を数人のスモールグループに分け、各々に自由吟味をさせるしかなかった。

 

聖句自由吟味方式は、弟子たちの知恵で制作されたものではなく、「これしかない」として始められた方式である。

 この部分だけをみれば、歴史的偶然の産物でもある。

 

+++

 

だが、これはイエスが引き起こした出来事の一部だ。

  

イエスはなんと、十字架刑で殺され、復活する以前に、もう聖霊降臨を起こすことを決めていたのだ。

 最後の晩餐の時に、もう決めていた。

 

だから、弟子の足を洗って見せた。

 人が人に君臨しない信徒の群を、自ら創始すると決めていて、弟子の足を洗った。

 

 わざわざ、そういう演技をしてまでして、君臨を戒めた

 

<教会思考停止機関化の構造>

 

驚くべきこと

 こうして初代教会では、聖句自由吟味方式が創始されたのである。

 

後に、この方式はカトリック教団などによって、迫害され、歴史記録から抹殺されていく。

 プロテスタントも、その亜流だから、右にならえをする。

 

 (このあたりの詳細は、ミード著、鹿嶋訳・解説『バプテスト自由吟味者』に記されている)

  

そのプロテスタントの方式を、日本の教会は継承している。

 だから、信徒の「思考停止」はごく自然に起きるのだ。

 

それが、この数回の記事で示した、「富田さんの提起された問題(教会での思考停止)の構造」である。

 この問題への考察と対策は、これで終わりにしよう。

 

(完)

 

 

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キリスト教会の思考停止打開策(5)~知識の個人主義~

2022年08月17日 | 永続確信のための聖書解読

 

 聖句自由吟味者の小グループでは、同意できる解釈が多く見出される。 

  各々その恩恵を受けて、自己の解読を発展させる。 

 

  だが、その先にすすむと、互いに個々人の見解を尊重しつつ議論する。 

 

+++ 

 

 グループ吟味会においても、リーダーは、各人が細部においては自分の世界観、人生観を抱いた状態で吟味会を解散する。 

 

  彼は会を閉じるに当たって、結論めいたことは何もいわない。 

 

 

<科学者は普遍的な理論を追求する> 

 

 科学者の探求は、現実世界に広く適用できる、普遍的な仮説を制作し社会に役立つことをゴールとする。 

  

  彼らは研究成果によって社会から報酬を与えられる。 

  

<自由吟味者は生きる知恵を探めようとする> 

 

 自由吟味者は、聖句から掘り出した知恵を、生きる自分の日々の生活に活かすことを目指す。 

 

  解読成果が自分個人の生活をより確信深いものにしてくれることが喜びだ。 

 

 

<到達した日々の解読がその人の真理> 

 

  彼らは、聖句の微妙な意味合いをも、細部にわたってマニア的に探求する。 

 

 筆者はサザンバプテスト教会で、会員に聞いてみたことがある。 

  「”これは真理だ” という理論でなくても判断の基準、生きる道具になるかのか」、と。 

 

彼らは応えた~ 

 

「聖句を、個々人が吟味してその日に得た解読」、それが「当人のその時点での真理(真の知識)」だ。 

  有限な人生を日々生きる人間個々人にとって、「これ以上に頼れる知識はありえない」~と。 

 

+++ 

 

 彼らの解読は、誰にも通用する絶対の真理ではない。 

 

  だが、それは、自己の経験も動員して、日々深化する動態的な知識だった。 

 

 そして筆者の観察では、それは教理主義教会で、牧師や教団指導者に与えられる教理知識より、遙かに、深い。 

 

 この行き方は「知識の個人主義」の極とでもいえるかもしれない。 

 

(続きます) 

 

 

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キリスト教会の思考停止打開策(4)~自由吟味者の真理観~

2022年08月13日 | 永続確信のための聖書解読

 

 

<「究極絶対の解釈」は存在するが> 

 
 

 聖句自由吟味者は、聖書の「究極絶対の解釈」(真理)の存在を否定しない。 

 

 たが、それは創造主だけの知ることで、人間が限られた生涯のなかで到達するのは不可能だと考える 

 

 その前提で日々の知識深化を求めて聖句の吟味解読を続ける。 

   実際、スモールグループ活動は、初代教会発足後2000年たったいまも続いている。 

 

+++ 

 

 自由吟味者のこの姿勢は科学者の研究姿勢と同じだ。 

 

 科学も、究極の真理には人間は到達できないと前提しつつ、それを遠望・憧憬して前進する認識活動だ。 

 

 具体的には、仮説を立て、それを限りなく修正し続け、途中で得られる仮説を、現実社会に活かしていく。 

 
 

<主要対象領域は霊界> 

 
  だが、両者の探求する対象領域は異なる。 

 

 科学のそれは、宇宙や地上の事象、つまり物質世界である。 

 

 自由吟味者は被造界の全てを知ろうとするが、その主要対象は物質世界よりも霊的世界(霊界)だ。 

  

 彼らはまた、物質世界のことも、霊界からの影響を考慮して認識しようとする。 

 

(続きます) 

 

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キリスト教会の思考停止打開策(3)~知的・学問的探求姿勢~

2022年08月10日 | 永続確信のための聖書解読

 

 初代教会に集まったメンバーは、聖句を手がかりにして「世界の全てを知る」ことを切望していた。 

 

 彼らは、使徒ペテロの、予想もしなかった聖句解釈に感銘を受けた。 

   それが現に目の前で起きている「異言」現象を見事に説明していることに驚嘆した。 

           (『使徒行伝』2章14-40節)

 

  彼らは、自分もペテロのように聖書を解読して「霊界も含めた実在世界」を、知りたいと参集した人々だった。 

  

 

<自由吟味は「知的・学問的」だった> 
 
 

 自由吟味方式での探求対象は宗教経典(聖書)だ。 

    だが、メンバー個々人は、その解読によって、世界に関する「知」を深化させることを目指していた。 

    彼らは霊界を含めた「実在」を知ることに重点を置いていた。 

 

 この姿勢は、宗教者というより、学者的・研究者的だ。 

  

 初代教会はすぐれて、「知」を求める個々人の集合体でもあった。 

   

<スモールグループは「学会」> 

 

 彼らはまず個々人で、聖句を自由吟味した。 
 
   解読結果を、自らが所属する数人のスモールグループに持ち込んで再吟味した。 

 

 そこでの議論も、研究者的になる。 

   結果的にモールグループも「学会」の性格が濃厚な会となった。 

   

  学会では学者はいろんな人の研究報告を聞き、議論をする。 

    そしてそれらの情報を自分の知識に生かして会を去る。 
 
  聖句自由吟味活動は、そうした会合を毎週繰り返す、知的・学問的研究の性格を濃厚に持った活動となった。 

  
(続きます) 

 

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キリスト教会の思考停止機関化と打開策(2)~解釈自由原則~

2022年08月09日 | 永続確信のための聖書解読

 

    初代教会は「個人の聖句解釈自由」の原則で活動した。 

 それでも実際には、教会員たちが各々が全く勝手放題に聖句解釈し教会がバラバラになるようなことは、起きなかった。 
 

  彼らは、各自の解読をたずさえて、所属する(数人の)聖句吟味グループに集まった。 

   「聖句には究極の真理がある」という希望を共有して自由吟味会を実施した。 
 
 

 これによって、思いっきり深く広く聖句を吟味することができた。

   また、合意・共有できる基本原理も見えてきた。 
 

 それらが積み重なって、共有する聖書の世界観も形成されていった。

  だが、その見解が個々人の解読を束縛することはなかった。 
     「個人の聖句解釈自由」の原則が根底で効いていたのだ。

 

 <グループとしての結論は出さない> 

 
 グループリーダーは細部での違いは尊重してグループとしての結論を出さずに解散した。 

   それらの吟味は将来の課題として残した 
 
 
 吟味・解読していくと「これは真理だ!」と皆で確信する解読に至ることもある。 
 
  それは彼らの心に、深い感動を沸き上がらせた。 
 
 

<「しるし」も現れた> 
 

 神髄に触れるような解読に至ると、ちから(「しるし」という)が現れることも多かった。 
 
   それによる感動とよろこびもメンバーの心深くに浸透した。 
 
 

 「家の教会」(小グループ)は、教会発足後30年で、全ローマ帝国に散在するようになった。 

 

(続きます) 

 

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キリスト教会の思考停止機関化と打開策(1)

2022年08月06日 | 永続確信のための聖書解読

 

(下記、Tomita様の論考は、とても参考になりました。 

   私、鹿嶋は、これからしばらく、その解明策を記してみます) 

 

@@@@@

 Masaki Tomita 

  

人は思考停止を求めている。 

理不尽な労働、虐待に満ちた家庭環境、差別、不幸などで追い詰められた精神状態にある人は、精神の自由なんて求めると、それと不自由な自分の現実とのギャップがあり過ぎて、かえって苦しんでしまう。 

 

 そこに宗教がやってきて、「あなたの苦しみの原因は罪のせいなのだ」と教えてくれる。 

苦しむ人は、まるで原因不明の自分の病気に病名をつけられた時のように救われた気持ちになる。 

  そうやって、答えを与えられた安心感から、人は思考停止に陥ってゆく。 

 

・・・・(中略)・・・・・ 

  

 宗教は「罪を退ければ、天国に行ける(この世の苦しみから解放される)」と教え、信者は必死に罪だと教えられることを避けようとする。 

 

   その際、自分が罪を避けるだけではなく、その宗教が罪人だと指定する人のことを攻撃したり排除しようとする。 

 

   そうやってスケープゴートを作ることで、宗教は求心力を増してゆく。 

     これらが、カルトが流行し、キリスト教会でさえもカルト化する理由である。 

  

 しかし、本来キリスト教会は、人を思考停止に追い込む社会を改善してゆくべきものなはずだ。 

 

 @@@@@@

 

富田氏が提起された問題の解明策を述べる。 

策は一つしかないが、言葉としては簡単。 

 

「スモールグループでの聖句自由吟味方式」だ。 

これは現在も、米国南部のサザンバプテスト教会で広く実施されている。 

 

だが、この方式をいきなり理屈で説明されてもわかりづらい。 

それが出来上がった歴史的状況をみるのがいい。 

 

 **********************

 

 聖句自由吟味集団は、人間の知恵でなく、歴史的偶然によってできている。 

新約聖書の『使徒行伝』を参照されたい。 

  

+++ 

 

 場所は今のイスラエル国のエルサレムという街。 

  そこでイエスキリストは十字架刑で殺され、復活し、数百人の人々の前に現れた。 

 

 弟子たちに「自分の教えを地の果てまで(全世界に)宣べ伝えよ」と命じて天に昇っていった。 

 

+++ 

 

 昇天する前に、イエスは弟子たちに「エルサレムにとどまっているように」と命じた。 

 

  120人ほどの弟子たちは「マルコの部屋」と後に言われる、神殿周辺の大部屋に集まって祈っていた。 

 

@@@ @@

 

余談だが~ 

 新約聖書には、イエスを迫害するユダヤ人たちの記録がたくさん書かれている。 

  その一方でイエス集団を経済的に支える富者たちもたくさんいた。 

 

 福音書に記録されている「アリマタヤのヨセフ」もそうだ。

  彼は死んだイエスが葬られるために、所有していた豪華な墓を提供した。 

   それは巨岩の横腹をくり抜いて作ったルームで、入り口は大きな石で閉じられるようになっていた。 

 

 イエスを訪ねてきて質問している,ユダヤ教の高僧ニコデモも支援者だった。

   当時ユダヤ教の高僧は、超高所得の金持ちでもあった。 

 

 最後の晩餐でイエス集団の夕食や部屋を提供したのも、その一人だろう。 

  そして、この「マルコの部屋」もまた、富豪の支持者が提供していたはずだ。

  それはエルサレム神殿のすぐ外側の一等地にあった。 

 

@@@ @@@@@

 

  ~本題に戻る。 

  そこで奇跡が起きた。 

 

 轟音が生じ、弟子たちに聖霊が下り、彼らは自分の知らない他国の言葉(後に異言と呼ばれる)で、語り出した。 

   轟音はエルサレム神殿に参拝に来ていた人びとの耳にも入った。 

 

 「なにごとか!」とマルコの部屋に飛び込んだ彼らは、自分の国の言葉で酒に酔ったかのように語っている人びとを見て仰天した。 

+++ 

 

 そのとき、弟子のリーダー格だったペテロが立ち上がって語り出した。 

   彼はこの出来事を、聖書(この時には旧約聖書しかない)の聖句を独自に解釈して説明した。 

 

 聞いたことのない新解釈だが、現にそこに起きた出来事を説明している。 

   目からうろこが落ちた参集者たちは、自分もそのような解釈ができることを切望して、弟子たちの群れに加わった。 

    情報は広がり、新参加者はこの日だけでも3000人いた。 

 

+++ 

  

 だが、使徒たちには「これが正しい」といえるような、一致した解釈法はなかった。 

   参集者のおのおのが、聖霊に導かれて新解釈をえてくれることを望むしかなかった。 

 

 そこで彼らを数人のグループに分け、そのうち一人の家で聖句の相互吟味・解読をさせた。 

 

 リーダーを一人選ばせ、彼に議論を調整させた。 

   各グループの連携も、リーダー会議を通して行わせた。 

  

+++ 

  

 この小グループ体が後に言われるようになる「家の教会(house church)」だ。 

 

 これら小教会の連携体がキリスト教史における初の教会だ。 

    これが後に初代教会と言われるようになる。 

  

(続きます) 

 

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「創造主アリ」の世界観は科学知識を産む

2022年08月02日 | 永続確信のための聖書解読

 

  前回、「創造主アリ」の世界観が「真理」という理念を生み、それが科学という認識手法を生み出した~といった。 

 

 今回は、この世界観がもっと包括的に科学の生成に貢献していることを示そう。 

 

<「客観的」な視点> 

 

        ******************** 

          「創造主を恐れることは、知恵の始め」 

                (『詩編』111章10節) 

        ******************* 

 

                ~という聖句がある。 

 

 ここで「恐れる」とは意識することであり、

  「知恵」とは、聖書で言う「被造界」に関する知恵、知識を言っている。  

 

 被造界には物質界も霊界もあるが、物質界についてみると、次のこともわかってくる~、 

  すなわち、世界観に創造神の意識があると、物質界をその方の視点から眺めることが出来るようになる。 

 

 その視点とは、物質界を「外から客観的に」みる視点だ。 

   そしてその視角こそがまさに「科学」の出発点になるのだ。 

 

<物質界に意識が埋没> 

 

 ところが、「創造主ナシ」の世界観だけでいると、被造物だけにしか存在意識が保てなくなる。 

   すると自分の意識も、その中に埋没してしまう。 

 

    かくして、物質界を外部から~距離を置いて~見る目がなくなり、科学の芽は育たなくなるのだ。 

  

<物質を味わい尽くす> 

 

  だが一方で「物質界のみ」の世界観にも相応の利点があることを見逃さないでおこう。 

    この意識でいると、被造界を深く探求していくようになる。 

 

    これは職人精神を育成する。 

 

   たとえば日本の料理職人は、素材(自然材料)を探求し味わい尽くそうとする。 

    その結果、日本料理は繊細な「旨み(うまみ)」を世の中に提供して人々を楽しませている。 

 

   これを「神のみむねに反する」とかいってわざわざ否定する必要などない。 

     両方の世界観を~「信じる」でなく~「知れば」いい。 

 

    「知る」ということであれば、どちらも、意識に保つことが出来るのだ。 

 

(続きます) 

 

 

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