=聖句=
「創主の言葉は、諸君(ユダヤ教僧侶たち)のうちにとどまることはないのだ」(5章38節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38節の聖句について、もう少し考えましょう。
イエスはどうしてこんなきついことを言うんでしょうね。
ユダヤの僧侶たちの心がイエスの教えを締め出すように出来ているのなら、言ったって受け入れないはずでしょう。
だったら、こんなこと言ったって無駄ではないでしょうか。
この場は、もう少し愛想良く、
「みなさんは私より年輩者であるし、いずれきっとわかってくださると信じます」
などと言って、にっこり笑っておいた方が有効なのでは?
可愛くなっておいてあげたら、中には後で心を開いて仲間に加わってくれるものも出るのでは?
・・・こう思いたくもなりますよね。
<偽りは悪魔の専売特許>
なのに、どうしてズバリ率直にイエスは言ってしまうのでしょうか。
正解は「それしかできないから」です。
創造主は、真理の神(ゴッド)なのです。
万能といっても、できないこともある。
その代表が、偽ることです。
偽りは、悪魔の専売特許と聖書ではなっています。
その場のお愛想というのは、事実に反した偽りを含むものですよね。
精密に見るとそうです。
それでもって、角が立たないようにごまかすものですよね。
動機が善意であってもですよ。
創造主は、そういうことを言えないのです。
その意味では、万能者ではないのです。
<創主の言には現実は従う>
創主から出た言葉は、単なる「声」を超えたものを含めている~~それが聖書の、もう一つの鉄則です。
聖書では、創主の口から出た言葉には、被造界は従う。現実化することになっています。
物理学的にはこうイメージしたらいいでしょう。
「いのちというエネルギーを、その言葉のイメージに沿って物質化させる」といったように。
創主がもし、偽りを言ったらどうなるか。
こういう問いは空しいですよね。
そういうことはあり得ませんから。
あえて妄想すれば、偽りの言葉は現実を従わせることはない、ということか。
それも一つですね。
他には、もし現実が従ったら、被造界は創主の真理が通らない状態になってしまうとか。
これも一つ。
とにかく、こういう答え自体が空しいわけです。
<極めつけはルカ伝に>
イエスは、自分は創主の言葉をそのまま語っていると言ってましたね。
創主の言葉は、その場が角が立とうが立たなかろうが、発せられてしまいます。
イエスは真理しか言うことが出来ない存在なのですね。
(だからまた、その約束が全く信じるに価することになるのです)
@ @ @
イエスは“お上手”が言えない。その姿は、ルカによる福音書」の11章に端的に記述されています。
その37節以降に、あるパリサイ人(律法学者)がイエスを自分の家での食事に招待するところが出てきます。
イエスはそれを受けて、食事をいただいている。
なのにその最中に、パリサイ人について、ほとんど罵倒するがごとき意見を述べています。
しかも語り出したら止まらない。
招待者の面子、丸つぶれ。
われわれはついついかわいそうな気になってしまいます。
どうしてこんな子供のようなことをイエスはしてしまうんだろう?
お食事を提供してくれているホストに対して。
知恵で充たされた「人の子」だったのではないか?
「世」に生きている我々は、そう思ってしまいます。
しかし、イエスからすれば、そういうのは文字通り「世の知恵」なのです。
こういう知恵に長けている人は世の中にたくさんいます。
社会的に高い地位についている人にも、それがとてもうまい例が、たくさんあります。
イエスはそういう「世の知恵」は、全く持たない。
文字通りの偽りの出来ない真理の人。
真理ならば、御馳走提供者への批判になろうとも、それしか言えない。
それが創造主です。
それが、この上なく安心出来るお方、ということにも通じているけどですね。