鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.80『創主は「偽り」の出来ない存在』(5章)

2005年07月28日 | ヨハネ伝解読


=聖句=

 「創主の言葉は、諸君(ユダヤ教僧侶たち)のうちにとどまることはないのだ」(5章38節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  38節の聖句について、もう少し考えましょう。

 イエスはどうしてこんなきついことを言うんでしょうね。
ユダヤの僧侶たちの心がイエスの教えを締め出すように出来ているのなら、言ったって受け入れないはずでしょう。
だったら、こんなこと言ったって無駄ではないでしょうか。

 この場は、もう少し愛想良く、

 「みなさんは私より年輩者であるし、いずれきっとわかってくださると信じます」

   などと言って、にっこり笑っておいた方が有効なのでは?
 可愛くなっておいてあげたら、中には後で心を開いて仲間に加わってくれるものも出るのでは?

   ・・・こう思いたくもなりますよね。

<偽りは悪魔の専売特許>

 なのに、どうしてズバリ率直にイエスは言ってしまうのでしょうか。

 正解は「それしかできないから」です。

 創造主は、真理の神(ゴッド)なのです。
 万能といっても、できないこともある。
その代表が、偽ることです。
偽りは、悪魔の専売特許と聖書ではなっています。

 その場のお愛想というのは、事実に反した偽りを含むものですよね。
精密に見るとそうです。
それでもって、角が立たないようにごまかすものですよね。
動機が善意であってもですよ。

 創造主は、そういうことを言えないのです。
 その意味では、万能者ではないのです。

<創主の言には現実は従う>

創主から出た言葉は、単なる「声」を超えたものを含めている~~それが聖書の、もう一つの鉄則です。
聖書では、創主の口から出た言葉には、被造界は従う。現実化することになっています。
 物理学的にはこうイメージしたらいいでしょう。
「いのちというエネルギーを、その言葉のイメージに沿って物質化させる」といったように。

 創主がもし、偽りを言ったらどうなるか。
こういう問いは空しいですよね。
そういうことはあり得ませんから。

 あえて妄想すれば、偽りの言葉は現実を従わせることはない、ということか。
 それも一つですね。
 他には、もし現実が従ったら、被造界は創主の真理が通らない状態になってしまうとか。
これも一つ。

 とにかく、こういう答え自体が空しいわけです。

 <極めつけはルカ伝に>

  イエスは、自分は創主の言葉をそのまま語っていると言ってましたね。
 創主の言葉は、その場が角が立とうが立たなかろうが、発せられてしまいます。
イエスは真理しか言うことが出来ない存在なのですね。
(だからまた、その約束が全く信じるに価することになるのです)

      @      @      @

 イエスは“お上手”が言えない。その姿は、ルカによる福音書」の11章に端的に記述されています。

 その37節以降に、あるパリサイ人(律法学者)がイエスを自分の家での食事に招待するところが出てきます。
 イエスはそれを受けて、食事をいただいている。
 なのにその最中に、パリサイ人について、ほとんど罵倒するがごとき意見を述べています。

 しかも語り出したら止まらない。
招待者の面子、丸つぶれ。
 われわれはついついかわいそうな気になってしまいます。

 どうしてこんな子供のようなことをイエスはしてしまうんだろう?
 お食事を提供してくれているホストに対して。
 知恵で充たされた「人の子」だったのではないか? 

 「世」に生きている我々は、そう思ってしまいます。
しかし、イエスからすれば、そういうのは文字通り「世の知恵」なのです。

 こういう知恵に長けている人は世の中にたくさんいます。
社会的に高い地位についている人にも、それがとてもうまい例が、たくさんあります。
 
 イエスはそういう「世の知恵」は、全く持たない。
 文字通りの偽りの出来ない真理の人。

 真理ならば、御馳走提供者への批判になろうとも、それしか言えない。
 それが創造主です。
 それが、この上なく安心出来るお方、ということにも通じているけどですね。

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Vol.79『旧約聖書はイエスを証言する本』(5章)

2005年07月25日 | ヨハネ伝解読

ヨハネ伝、5章、さらに進みます。
今回は、次の聖句です。

・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「あなた方(ユダヤ教の僧侶たち)は、聖書(旧約聖書)のなかに、永遠の命があると思って調べています。
だが、この聖書はわたし(イエス)についてあかしするものなのです」(5章39節)
・・・・・・・・・・・・・・・・


 36節で「私のなすわざが、私の裁きが創造主からのものであることを立証している」
という旨のことをいった後で、イエスは次のように話を展開します。

 「諸君(ユダヤ教の僧侶たち)は創主が(この世に)つかわしたもの(イエス)を信じない。
だから、創主からの言葉は、諸君の方の心に留まらないのだ」(38節)と。

 この背景には、「天のものと世のものとは絶対的に対立・敵対関係にある」という聖書の大前提が踏まえられています。
天は創主の支配下にあり、この世は悪魔の支配下にあるという把握です。
そういう「世」に、イエスは天の論理を持ってきて、注入し始めたというのが聖書の図式なのです。

 悪魔は、天の論理が見えないように「世」の人々に目隠しをしています。
世にドップリと漬かった人々には、それを自覚することすら出来ません。

 だから、人々の意識は、基本的に悪魔ベースの意識で満ちていることになります。
また悪魔には、創主のやることなすことにはすべて敵対するという本能が成立してしまっています。


                    


 そこで、イエスはこういうのです。

~~そういう意識で占められている人の意識には、創主からのメッセージ、創主の意識を込めた言葉は留まらないのだ。
すぐに、嫌悪して意識から締め出してしまうことになる、潜在意識がそういう働きをするのだ~~と。


                    


<旧約聖書はわたしを証言している本なのだ>

 イエスはこれをユダヤ教の僧侶たちに向かって言っています。

 僧侶は、当時のエリートです。
彼らとしては「何を言っているのだ。我々は(旧約)聖書を教典とし、創主について長年学び続けて来ている。
こんな若造に何がわかるのだ」と思うほかありません。

 ところがイエスは、少しもひるまず、こうカマすのです。

 「あなたがたは、(旧約)聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べている。
だが、この聖書は私について証言している本なのだ」(39節)と。

 ~~~出た~!。キリスト教では、旧約聖書はどう解読すべきであるかの答えがここにあります。
だから5:39の聖句は、とても大切な聖句なのです。

 ここで「永遠のいのち」というのは、イエスを通してこの世にもたらされるもの、という、ことになっています。
後の11章で「私はよみがえりです、いのちです・・・」(11章25節)というイエスの言葉はそれを言っています。

 また有名な

 「私が道であり、真理であり、いのちである」(14章6節)

                     ~~もそうです。


                    

<「救い主」も私のことだ>

 イエスの思想はこうです。

~~~旧約聖書はわたくし、イエスについて述べたものなのだ。
そこで到来すると預言されている「救い主」とは私のことなのだ。

~~~その救いとは、ユダヤ人を他国への隷属状態から救うという意味ではない。
かつてダビデが建てたような独立の王国を、再建するという意味ではない。
人の霊を罪ある状態から永遠に救うという意味だ。

~~~これが本当の、根本的な救いなのだ。罪の奴隷となっている状態から、解放するという意味なのだ。

~~~けれども、こういう論理はあなた方の心には留まらない。
なぜなら、これは天からの論理、創主の論理だからだ。
悪魔の意識に満ちている君たちの心は、締め出すことしかしないのだよ。


                    


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Vol.78『イエスの“わざ”が「正しさ」を証明する』(5章)

2005年07月24日 | ヨハネ伝解読
 

=聖句=

 「私(イエス)は、自分自身の権威でによってはなにもできません。私は創主の告げられるままに裁きます。そして、その裁きは正しいのです。・・・」
  (ヨハネ伝、5章30節)

・・・・・・・・・・・・・・

 これはなにをいっているでしょう。

 前回、聖書では、すべて善というのは創主の内にあると申しました。人が善をなすとは、創主に意識をつなげて行為することだけによって可能になります。

もちろんそれは、御子イエスの場合も同じです。イエスはここで

 「自分は自分をつかわされた方、すなわち創造主から聞くままに裁く。」との旨をいっています。ならば「その裁きは正しい」となる道理です。

<イエスの正しさに人間の証人はいらない>

 この聖句に続いてイエスは、「自分の正しさを証する証人(人間の)は要らない」という旨のことをいっています。

 証人とは、ある人の主張が正しいと証言する人です。聖書の世界ではこれは重要な存在です。旧約聖書では、証人は裁判で最終的な正否を決める最終的手段になっています。

 「すべて人が犯した罪は、一人の証人によっては立証されない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」(申命記、19章15節)
 
             ~~~などはそれを示しています。

 ところがイエスは、自分の裁きが正しいことを証するのに人の証言は不要なのだ、と言うのです。どうしてでしょうか?

 理由はこうなるでしょう。
 そもそも「旧約聖書のなかで証人によって立証せよと書いてあるのは、人間同士で立証する際の話」です。人間同志で人間が証明するには、それが最善の方法なのでしょう。

 だが、新約聖書には創主の御子が登場します。彼は「善悪基準の究極の源である創造主の言われるままに言動している」存在です。彼には、そのことが人間の証言よりもはるかに正確な証拠なのです。

<私(イエス)のわざが正しさを立証する>

だけど、イエスが創主の言われるままにしているかどうかなど、人間には認知できませんよね。人間に、それを知る手段は与えられていないでしょうか。

 目で認知できる証拠は与えられている、とイエスは言います。イエスの行う「わざ(いやしなどの奇跡)」がそれだとイエスは言います。


=聖句=
  「しかし、わたしには・・・もっと力あるあかしがあります。父が私に成就させようとして与えてくださったわざが、父が私を(この世に)つかわされたことを証明するのです」(5章36節)

 イエスを父なる創主がこの世につかわした、ということであれば、その裁きは正しい、ということになります。もう、創主からつかわされたものの裁きは、創主の裁きと同じですから、正しいのです。

 問題はむしろ、イエスのわざが、イエスが創主からつかわされたものであることを、どうして証明することになるのか、というところにあります。

<創主でなければできないわざ>

その理由は割合簡単です。旧約聖書民族である当時のユダヤ人の意識の中には「万物の創造主でなければできない」ものが明確にあったからです。

そもそも旧約聖書には「この世には万物を創造した創造主がいる」という存在観が確固としてあります。その方は、言葉によってこの宇宙の中のすべてを創造された方です。

 そういう、すさまじい力を持った存在は「ただお一人おられるのみ」である。他にはいない。そういう存在観です。それがあるから、イエスの「私のわざが私の裁きが創主からのものであることを立証するのだ」という論理がわかることになるのです。

      @      @      @

 逆に言うと、そういう創主観がなかったら、イエスがここでいう論理はわかりません。

 もちろん、イエスのなしているわざは、それまでだれもしなかった類のことでありました。悪霊を追い出し、脚萎えを立たせ、盲人の目を開き、死人を生き返らせる・・・これらのわざは、霊媒師や占い師などのすることを遙かに超えた桁外れなものでした。

 けれども、唯一の創造主というイメージが明確なかったら、「だからこの方は、創造主から送られた方」という風にはつながっていきません。

 だから、たとえば日本人にはここはわかりにくいところです。日本では、クリスチャンであっても聖書のゴッドを「神」と呼んでいます。ところが日本の神という概念には、霊媒師や死者の霊などとは桁違いなレベルの不思議をなす方、というニュアンスはないのです。

 聖書の真の理解には、その状態では不可能です。だから春平太は、ゴッドを創造主(つくりぬし)ないしは創主(そうしゅ)と呼ぶことが必要、と言い続けているのです。
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Vol.77『聖書での善悪基準は単純明快』(5章)

2005年07月19日 | ヨハネ伝解読


 ヨハネ伝、5章、すこし前に進んでみましょう。
今回は、次の聖句です。



=聖句=

 「善を行った人々が復活していのちを受け、悪を行った人が復活して有罪の宣告を受けるときがきます」
   (ヨハネ伝、5章29節)

・・・・・・・・・・・・・・・・

これは何を言っているのでしょうか?

世上言われるところの「人は生前の行いのよしあしに応じて裁かれる」という意味でしょうか。そう受け取られやすいところですが、そうではありません。

<意識状態が問題>

 聖書での善悪は、創造主に意識がつながっているかどうか、で一義的に決まります。意識がつながっていれば、創主の善悪基準で行為することになります。すべての善の源は創造主であり、すべての悪の源は、悪魔である~~これが聖書の善悪の枠組み。単純明快です。

新約聖書時代の人間について言えば、イエスを通して創主に意識がつながったかどうか、と言うことですね。換言すれば、イエスの言葉を受け入れたかどうか、です。

 意識がつながり、意識波動が協和していれば、霊のいのち充電度は高まっています。完全充電ではないにせよ。そうすれば、霊は意識の源ですから、その意識も聖なる様相を高めるでしょう。さらば、その人の行いも、創主のみ旨にかなうものが比較的多くなるでしょう。

 そういう意味で、行いではありますが、行いは意識から生じます。その意味で、論理の焦点は、意識の方にあります。それが聖書の論理です。
 
<道徳的に独り相撲してしまう>

ここは、われわれ日本人が特に注意すべきところでしょう。われわれは、宗教というのは道徳的に良い行いを教えるものという信念のような先入観を固く強く持っているからです。

 だから、聖書の中でも、それらしきところがあるとすぐにそちらに解釈していってしまう。そして、道徳的に清くなろうと独り相撲してしまうのです。

 実際、明治維新以降、日本に入ってきたプロテスタントキリスト教は、そういう受け取り方がなされた傾向が強いです。それが、そのまま今日まで来ています。最近、少しづつそうでない動きも始まってきていますが、大勢は道徳教のままです。

 世界史の教科書に出てくる欧州中世の免罪符は、この行い基準を持ち込んで作り出されたものです。これを買うこと、すなわち、寄付することでもって救われるという。だがこれは文字通りの行いですよね。当時のカトリック教団は、聖書をそういうふうに解釈して教理をつくったわけです。

 そして、“それは間違いだ、「救いは信仰(信頼)によって」得られるのだ”、といって批判したのがマルティン・ルターでした。有名な宗教改革は、これへの賛同者が多かったことによって軌道に乗っていったのでした。

 以前にも、ウイクリフやフスなどがカトリック批判をしてきましたが、社会運動としてメジャーな流れをつくったのは、ルターでした。そして宗教改革のもう一人の立て役者カルヴァンは、この思想をベースにして新しい制度を作り定着させたのでした。

<裁きの場に出るため復活する>

 なお、前の25節の聖句の意味も、これでよりシャープに解読できるようになりそうです。ここで、イエスは

 「死んだ人たちが創主の子の声を聞く時が来る。・・・そして、聞く人は生きるであろう」

 と言っていましたね。
 この「生きる」は、24節の「(霊が)永遠のいのちを受ける」という意味ではどうもないようです。

この「生きる」は、死んだ人の霊が新しい身体を着て復活する、ことを言っているようです。裁きを受けるための前段階。復活して、みんな最後の裁きの場の前に立たされる。

 そして、イエスの言葉を受け入れて、創主と意識がつながった人は、この裁きをバイパスする、と聖書ではされています。そして、永遠のいのちを受ける(いわゆる「救い」を受ける)。

 後の29節で裁きの話が出てきますので、順番からすると、そういうことになりそうです。


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汎神論に向かう21世紀日本人の霊界意識

2005年07月18日 | 春平太チャペル

 21世紀に入って、日本では相変わらず宗教化の志向が続いていますね。
ビジネスマンや奥様族に、この傾向のものを学び始めている人が増えているみたい。

<体験的霊界論セミナー大盛況>

本屋の店頭から推察しますと、これにはオピニオンリーダーがいるようです。
まず最近売り出し中は、天外伺朗(てんげしろう)さん。
この方はソニーの研究所でCDプレーヤーやロボット・アイボなどの新技術開発をリードされた技術者(本名は土井さん)です。
その本業と論調とが科学的であることが相まって、ビジネスマンに信頼されやすいようですね。
科学的アプローチでもって、霊的な現象に論究する。
最近では、インディアンの世界に入っていって、そこで観察したことを科学的な論調で解説しておられます。
これを、ビジネスマン向けセミナーでやっておられる。
そこでは瞑想法も教えています。
参加者が多く、静かなブームなようです。

もう少し古いところでは船井幸雄さんもその一人です。
経営コンサルタント会社・船井総研の創業者です。
彼は以前から、霊的な世界のことをビジネスマンに紹介していました。
米国・カナダでの輪廻の研究を紹介した、福島大学の先生の論文を、ビジネスマンに紹介したりしていました。

この傾向はすすみ、最近「人は生まれ変わる」とかいう本を出しました。
自らも、輪廻の理論を研究し、その成果を発表したものです。

ビジネスマン世界では、相変わらずセミナーブームです。
最近は、心理学セミナーというのが流行している。
そこでの講師も、霊感的な話を多くする人が受けているようです。
衛藤とか言う先生は、その代表なようです。

<科学は経験をベースにする認識手法>

こういう現象を、ある日本のキリスト教指導者に話したことがあります。
「いよいよ日本にも福音伝道の土壌が満ちてきた」と喜んでおられました。

しかし、鹿嶋にはそう話は簡単でもなさそうだ、と思えてなりません。

霊界への「科学的」アプローチというのは、瞑想体験や霊視(霊が見えること)などの感覚的な体験を手がかりになされます。
常に、体験をベースに霊的世界を論じていくわけです。
科学というのは、そういう経験主義をベースにする認識の手法ですから。

それ故にまた、ビジネスマン・奥様族に信頼されるわけです。
上記のようなセミナー講師は、瞑想法も体験させ、受講者個々人にも霊的体験を味わわせています。
その体験につなげて、霊界論を述べますので、受講者は安心感をうるのみならず理解もしやすいわけです。
自らの体験につなげて、なるほどなるほど、と話を納得できますからね。

<聖書メソッドは「言葉から霊感へ」>

だが、こうして得られていく霊界理論と、聖書の教える霊界理論とは大きな隔たりのある点を持っています。
聖書では、霊界のすべてを統率する全能者として、創造主(英語ではゴッド)の存在を教えます。
そこでは、ものには“いのち”があることについて、否定はしませんが、それは創主を源とし、そこから放射されているもの、という認識をします。
そこで、霊界理論を学ぶ究極の目的は、この創造主を知ること、となってきます。
聖書で「知る」というのは、「体験する」という意味です。
だから、結局は体験手認識を求めるのですが、その出発点は体験ではありません。
特殊なケースをのぞいて・・。

創造主は、出発点では、言葉によってその理屈を知ることから始まります。
言葉とは、聖書の言葉です。
これを聖句といいます。

まず、聖句でもって、論理として学習する。
それによって、ゴッドのコンセプト(イメージと考えていい)を、論理的に詳細に知ります。
体験は、その後で求めます。
創造主の体験をゴッズ・プレゼンス(God's presence)といいます。
(日本では「神の臨在」などと言われていますが、これを神と言っていてはだめだ、と鹿嶋は繰り返し伝え続けています)
が、ともあれ、聖書では、まず言葉による学習、それから、体験という方向に進みます。

<人の霊感は全方位>

どうしてそんな迂回的なことをするか。
創造主は、簡単には霊感的に体験することができないからです。

人間の霊感というのは、全方位なものです。
そして、聖書では、この世には様々な霊がいる、と教えています。
そして、創主以外の霊は、みな究極的には、危険な霊だという論理です。

それもあるから、まず、霊感の方向を正しくコンセプトでもって定めることが必要だ。
それには、言葉(概念、コンセプト)の助けを得ることが必要なのだ。
それによって、明確な“人格”をもったゴッドを知るのが第一歩だ。
それを学んでいる間は、体験的な霊感は得られない。
だけど、このステップは必要。
(ニッポンキリスト教は、これがすべてだと思って、この段階でとどまっていますけどね。だから、正常な神経の持ち主は、あきれて、離れてしまっていますけどね。ニッポンキリスト教は特殊ケースです)
これが聖書の論理です。

<結局汎神論に至る>

現代日本の科学的、体験的アプローチによる霊界理論には創造主に関する明確なコンセプトがありません。
面白いことに、万物の創造者が存在することは、否定していないのです。
だけど、それはバクゼ~ンです。
だから、意識の中ではとおくにかすんでいます。
存在してもしてなくても、どうでもいいような存在。

それでいて、世の中を霊的に見ることに目覚めていますので、霊的なものは感じます。
それを自然や道具など物質に感じていきます。
すべてのモノに”いのち”(という霊的ななにかなにか)があることを感知しています。
その結果、汎神論(pantheistic view)に至っています。

汎神論とは、「すべてのものは神であり、かつ、神の中にある」という思想です。
それは「宇宙が神」という思想につながっています。

これはアメリカインディアンにとてもポピュラーな思潮です。
彼らの場合、この思想は生活・伝統行事の中での霊感体験とも融合しています。
天外さんが、インディアンの風習に傾倒して行かれるのも、納得ですね。
こういう方向は、前述したように、手応えはありますけれど、宗教思想の類型においては、汎神論という原始的なタイプです。

<多神論もあるよ>

類型にはいろいろあって、多種類の神がいるという思想もあります。
これは多神論(plytheietic view)といって、古代のギリシャに代表的に見られます。
東洋にも伝統的にこれが多いです。

<有創主論>

 聖書の教える見解は、有創造主論(theism: atheism無創主論の反対語)に含まれます。
(これを有神論と日本人は訳していますが、間違いです。繰り返し鹿嶋が述べてきているように)
有創主論とは、人格を持った創造主がいる、という見解です。
聖書では、その中でも、創主は「人間を、自ら代価を払って罪ある状態から買い戻そうとする」、そういう人格を持っている存在と考える。
そしてまた、「人間が個人的な関わりを持つことのできる存在」という思想です。
こういう創造主が存在すると前提するので、聖書のような豊富な内容を持った論理体系ができるのです。
ただ、漠然と創造主がいるようだ、という前提からは、単純な論理体系の思想しかできません。
(だからまた、懸命になって霊的体験を得ようとするのでしょうけど)


<ウイリアム・ジェームズの心理洞察>

天外さん的霊界理論に傾倒しているあるビジネスマンと、鹿嶋は話したことがあります。
彼は「これからは科学ではない。宗教でもない。宗教は、理屈だけだ。理屈で人を縛る。これからは霊的世界の科学的な探求なのだ。我々はもう一歩先を行っている。科学・宗教はもう古い!」と張り切っていました。

理屈だけの段階にとどまっているのは、宗教ではなく、現代日本の仏教やキリスト教など「官僚化し形骸化した伝統宗教」だけに対して当てはまることです。

なのに、この人にかかると、シャカもキリストも、霊界を理論でもって探求した人になってしまうんですからね。
で、瞑想による霊的体験をベースに波動理論などの科学を用いることのできる我々は、シャカやキリストより先に行っている~~となるんですから。

まあ、そんなことで幸せでいられるならば、それもいいことにするか。

「人間は、これまで気づかなかった世界に気づくと、その瞬間心地よい統一感を心に得る。そうするとしばらく、自分は世界のすべてを悟ったのだという陶酔感に浸る」

~~哲学者にして心理学者のウイリアム・ジェームズはこういう主旨のことを言い残しています(W.ジェームズ『「プラグマティズム』)

こういう段階にある人には、何を言ってもムダであります。
もちろん「時がよくても悪くても(福音を)のべ伝えなさい」というイエスの命令はあります。
福音伝道者は従うべきでしょうが、その土壌の性質をよく悟った上で行動すべきでしょう。

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Vol.76『イエス「癒し」の構造』(5章)

2005年07月18日 | ヨハネ伝解読
=聖句=

 「父なる創主が自らいのちの源であるのと同じように、それと全く同じように父はその子をもいのちの源となるようになさいました。」
         (ヨハネ伝、5章26節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ヨハネ伝、同じ聖句への考察を続けます。

 今回は、癒しについてです。
イエスがなした癒しも、「いのち」というエネルギーによると考えると、物理的なイメージがしやすくなります。

<長血の女のケース>

 ルカによる福音書(マタイ、マルコにも)に、12年間も生理が止まらなくて苦しんだ女の話が記されています。彼女はイエスに近づき衣の端に触れます。すると、たちどころに癒されてしまうのです。

 この時、イエスはこういったと記されています。「誰かが私に触った。私から力が出ていったのを感じた」と。この力が、すなわち、いのちエネルギーなのでしょう。イエスからあふれるいのちエネルギーは、彼の衣の端にも蓄積されていたという論理です。

 彼女には、触れれば癒されるという確信がありました。固い信頼のもとに手を伸ばして触れたのです。

 そうしたら、いのちエネルギーは彼女の身体に流れていった。これが癒しの構造です。イエスは彼女にこういっています。

 「あなたの信仰があなたを救ったのです」(ルカによる福音書、8章48節)

 ここでの「信仰」は、信頼です。信頼とは、相手が必ず希望したとおりにしてくれるという、確信です。この女は、イエスの衣に触れる際に、必ず願いが応じられる、という確信を持っていた。それが癒しを可能にした、とイエスは教えているわけです。

 それ故、このイエスの言葉はキリスト信頼において、とても重要ですね。本当に祈りが聞かれるかどうか、という気持ちは、クリスチャンでも多くの人が抱いています。その答えは、ここにありますね。すなわち、

 「祈りが聞かれるという確信をもって祈るかどうか」が分かれ道になっている。これが聖書の教える原則だったのですね。

<パウロの手ぬぐいからエネルギーが>

 話を戻します。 
 衣に触れていやされた、というのと似たような癒しの記述は、同じくルカの書いた「使徒行伝」にも記されています。

「使徒パウロが身につけている手ぬぐいや前掛けをとって病人に当てると、病気が取り除かれ、悪霊が出ていった」(「使徒行伝」19章12節)。

 これもパウロの霊に吸収蓄積されたいのちエネルギーが、彼の身につけていたものにも蓄積されるに至っていた、と理解できます。そして、それが流れ出して癒しがなされたというわけです。

 もちろん、パウロは人間です。そのいのちエネルギー吸収率には上限があります。イエスのそれとは、資格において及ぶべくもない。

 けれども、彼は聖霊を受けていましたし(詳しくは後述します)、そして耐えざる祈りの人でもありました。加えてイエスの教えに関する神学的理解は、群を抜いていた。そのあたりから、理解が可能かと思われます。

<激しくイエスのエネルギーを奪い取る>

 ただし、イエスが行った癒しの大半は、言葉を発することによってのものです。これも、こうイメージしたらどうでしょうか。その言葉に従って、彼のうちに蓄積されているいのちエネルギーが患者に向けて流れ込んだ、と。

 すると、上記の女性の場合はどうなるでしょうか? 

 イエスのもつ力に関する信頼がきわめて高いと、別の状況も起きる、ということでしょうか。すなわちイエスが意図しなくてもイエスに触れると、その力が流出してしまって、それを受けることが出来る、と。

 イエスから、いのちエネルギーを、激しい信頼と確信で奪い取ってしまうわけですね。そういう力の原理も聖書には秘められているかも知れません。

<癒しの契機は一つではない>

 そうすると、癒しには二つの契機がある、という道理になりそうですね。
 第一は、イエスの方から言葉を発するという事態です。
 第二は、癒しを受けようとするものが、激しく強い、イエスの力への信頼・確信をもって、創主(イエス)の方にタッチするという事態です。
  (もちろん、このタッチは、物理的なものだけではない。祈りによる、意識波動的なタッチも含めているでしょう)


 このように、癒しにも複数の契機があるというのは、とても面白いですね。
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Vol.75『いのちの「源」となる「権威」』(5章)

2005年07月16日 | ヨハネ伝解読
依然、前回と同じ聖句です。


=聖句=

 「父なる創主が自らいのちの源であるのと同じように、それと全く同じように父はその子をもいのちの源となるようになさいました。
 そして、創主はその子に裁きをする権威を与えられました。彼が人の子(the Son of Man)だからです」
         (ヨハネ伝、5章26~7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 
 
 (被造物に対して)いのちの源となる権威、および、最後の裁きをする権威が、父なる創主から自分に与え(委譲)られている~~~イエスはここでこういっています。

権威とは、力を発動させられる資格、だったですね。では、この場合の「力」って具体的には何でしょうか。

 まず、「いのち」。繰り返し申しますように、いのちとは一種のエネルギーのような概念、と春平太は考えています。そして、エネルギーとは力であります。イエスは、そういうエネルギーを発動させる資格を与えられている、というわけです。

 では、「(最後の)裁き」での力とは? 結論的に言いますと、これは天使です。最後の裁きはイエス自らが直接行うものではありません。力ある天使が、イエスの命令でもって行うものです。黙示録にそのことが示されています。

 天地を動かす資格、というのはそのままで理解しやすいでしょう。だが、「命の源となる権威」は必ずしも自明ではないですね。それがイエスに与えられているという、その構造を考えてみましょう。

<創主に意識を向けて祈る>

 いのちというエネルギーは、そもそもは父なる創主が源となって放射されているものです。それが人の霊にも天使の霊にも吸収される。そしてイエスにもまた吸収されるものです。

 吸収されるためには条件があります。それは霊の意識波動が創主のそれに合っているということです。

 そのためには、創主に意識を向けます。そうしておいて、自己の意識波動を創主のそれに合わせるようにします。これはすなわち、「祈り」です。聖書での祈りとはそういう作業を言っています。

 これがうまくいく度合いに応じて、創主からのいのちエネルギーは当人の霊に吸収され蓄積されていく。物理学的に言えば、そういうことだと思われます。

 イエスも祈っています。自らが、いのちの源そのものではないのですから、祈る必要があったのです。彼は弟子たちより、よく祈ったと聖書に記されています。夜通し祈ってもいます。

<人間の意識には創主意識との協和に上限がある>

 もちろん、イエスの弟子たちも祈っています。パウロも祈っています。
いのちエネルギーは、彼らの霊にも流入します。しかし、その流入の度合いが、イエスの場合、別格と言うことになるのです。

 聖書ではイエスは、創主の言葉が聖霊によってマリアに身ごもった存在、という道理になっています。対して一般の人間は、アダムの子孫です。だから人類は、罪を犯して、いのちエネルギーが不完全充電になったアダムの霊の資質を受け継いでいる~~そういうことになっています。

 聖書では霊は、意識体でもあります。人の霊のうちのいのちの欠けた部分、すなわち死の部分から出てくるのは、創主の意識と協和する聖なる意識はでない。

 だから、人間も祈るのだけれど、やはりその分、創主から来るいのちエネルギーの吸収には、絶対的な上限があるということになるのです。これがアダム以降の人間の「資格」です。

<イエスの意識は創主と完全協和しうる>

 ところがイエスは聖霊によって乙女マリアにやどった子ということになっています。アダムとはつながっていない。だからイエスの霊には、そういう死(罪)の部分がないことになります。

 だから、創主の意識と完全協和することが出来るようになっているのです。これがイエスの資格です。

 その資格を行使して、実際に意識を完全協和させる。これがイエスの祈りという作業です。

 イエスが祈ると、父なる創主から放射されるいのちエネルギーは、完全協和で、百パーセントイエスの霊に流れ込んできます。それが、イエスの身体から、手から、時には衣からもあふれ出る。(彼の癒しなどはその結果と解せられます)

 この状態は、常時的です。するとそれはあたかもイエスが命の源になっているがごとしとなる。結果的にイエスは父なる創主と同じに、いのちエネルギーを発射し、その源となることが出来ている。

 これは、その権威を与えられているみて少しも差し支えない状態である~~これが、イエスが「いのちの源になる権威を与えられている」、の中身だと思われます。 

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Vol.74『力と権威はどう違うか』(5章)

2005年07月16日 | ヨハネ伝解読
~~~鹿嶋春平太です。
 梅雨も明けて、暑い夏が始まりましたね。
 みなさん、暑い夏には、聖書を読みましょう。
 読んで考えましょう。
 この「ヨハネ伝解読」がその参考になれば幸いです。

 では、本日の聖句から。

・・・・・・・・・

=聖句=

 「父なる創主が自らいのちの源であるのと同じように、それと全く同じように、父はその子をもいのちの源となるようになさいました。
 そして、創主はその子に裁きをする権威を与えられました。彼が人の子(the Son of Man)だからです」
         (ヨハネ伝、5章26~7節)

 
 ここではイエスは、創主から自らに与えられた権威について述べています。

 「創主と同じにいのちの源である権威」(26節)と

 「最後の審判で裁きを行う権威」(27節)

            がそれであります。

もちろん、26節では権威という語は表面に現れておりません。原文を英語に移し替えた文ではこうなっています。

 「-----He(the Father) gave to the Son also to have life in Himself」

 しかし、後に明らかになりますが、ここでは実質的には、イエスに与えられた権威について述べているのです。

 だから、この英文はalso とtoの間にthe authorityを補うべきところでしょう。続く27節では裁きの「権威」について述べていますし。

 そこで、まず権威という言葉を吟味しておくことが必要でしょうね。英語ではオーソリティー(authority)です。

     @      @      @

 言語学者に聞いてみたいと思っていますが、権威という言葉は、もともと日本語にはなかったのではないでしょうか。英語など西欧の言葉を翻訳してはじめて出来た言葉ではないでしょうか。我々には何かなじめいところがあるのです。

 結論から言うと、それは「物的な力(英語ではパワー:power)を発動させる資格」のようなものでしょう。たとえて言えば、軍隊や警察、これは物的な力そのものです。しかし、その「力を発動させる資格」は、日本では究極には総理大臣に与えられています。

 総理大臣は、通常そんなに腕っ節も強くありませんでしょ。武器を携えて歩いているわけではない。だからパワーそれ自体を持ってはいませんよね。

 けれども、彼は、自衛隊を命令でもって発動させる資格を持っています。もちろん、憲法が許す範囲においてですけれども。それが権威です。総理は「権力」を持つ、という場合の、権力の実体は、詳細に見ると、物的な力を発動させる資格だったんですね。

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Vol.73『無限に対比すれば一億もゼロになる』(5章)

2005年07月10日 | ヨハネ伝解読

=聖句=

  「これはまことのことです。死んだ人たちが創主のこの声を聞くときがきます。
そのときは、今すでにきています。そしてそれを聞く人たちはいのちを得るでしょう」
(ヨハネ伝、5章25節)

 ヨハネ伝解読、前回と同じ聖句を今少し解いていきます。
前回、春平太はこう解読しました。

 ~~創主から言葉が出ると、現実は100%従う。だから、将来なることは、今なっていると同じなのだ~~と。

 でもこういう意見もでるかも知れませんね。たとえ百パーセント成るとしても、「今成っているのは、今味わえる。将来のものは、今味わえない」と。その面でやはり違うのだ、待ち時間の有る無しにおいてちがうのだ、と。

 たしかにそうですね。そういう「味わうときが早いか遅いかの違い」は問題なように見えます。

<永遠と一時的なもの>

 だが、そういう違いは、聖書の視野の中では、ほとんど無に等しいことになります。聖書では、それが必ず100%なるか(真理か)どうか、ともうひとつ、「それが永続するかどうか」、が最大関心事です。

 聖書では、常にものごとを永遠(無限)と対比させて教えています。これは、聖書のもう一つの隠れた鉄則です。

 「死んだ人たちが、創主の子の声を聞く」(24節)、

 この状況はどのみち、時が満ちたら100%の確立で実現します。実現したらその結果の状態は無限に存続します。それまでの待ち時間は、たとえ一億年でも有限です。

 有限な時間の長さは、無限の時の流れの中では、ないに等しいものです。無限な時の中では、有限な待ち時間は、ゼロに収束します。

 時は流れることを止めないのです。有限な時間は、何億年であっても確実に過ぎ去ってしまうのです。そして、その後に続く、無限の時間に比べれば、それは、無かったのと同じになっていくのです。

「浪花のことも、夢のまた夢」であります。

筆者にこんな言葉をくれた西欧人がいました。

 This also will pass.
What is important is whether it is eternal or not.

 かくして、創主の論理では、「将来味わう」と、「今味わう」のとは同じとなるのです。将来と今との間の時間など、無に帰してしまいます。

<物理的イメージ世界と純イメージ世界>

 なにか、屁理屈を言ってるにすぎない、と感じられるかもしれません。が、そうではないです。この論理を知ることによって、我々は、現世的にも大きな利益を受けます。
 
 考えてみてください。我々は今、目に見える物的な世界の中で生きています。通常目に入ってくるものは、物質的なものです。それが目の網膜に写って、その映像に刺激されて世界とはこういうものだ、というイメージ(イメージ世界)を意識に形成しますね。いわば「物理的イメージ世界」です。

 もちろん、そうした物理的刺激を起点にしていない、イメージ世界も、ある程度は心に持っています。人間には、想像力というすばらしい能力も与えられていますから。

 たとえば言葉だけを起点にして描くイメージ世界もあります。白雪姫やピーターパンなどのいる世界は、そういうものでしょう。春平太はそれを、物理的イメージ世界と区別するために、「純イメージ世界」といっています。

 我々の心の中にはそれもありますが、通常、高いリアリティを感じているのは、物理的なイメージ世界だけです。だからホントの世界とはそれだけだと思い、ほとんどもっぱらそれが世界のすべてだと主観的に思って生きています。

 そこでは、すべてが変化しています。生成し消滅する。すべては時間的に有限です。

 また、みな変化していますから、将来のことはすべて不確実性のなかにあります。今成っていることは100%成っていますが、将来成ることは、何パーセントかの確率で持って成るだろうとしかいえません。

 我々は、そういうイメージ世界の中でほとんどもっぱら生きてきています。だからそれが当たり前であり、それ以外の論理など無いと思って生きてきた。

するとそれを、一つの特徴有る「考え方」だとは決してみることができません。それ全てだから。それしか目に入らないから。

      @      @      @

 イエスはそこに、永続するものが存在する、純イメージ世界を持ち込みました。その世界の論理を知り、それに一定のリアリティを感じるようになると状況は一変します。永遠なものがある世界イメージが意識に併存するようになる。すると我々は、ものごとを、永遠と対比してみることができるようになります。

 ヨハネは、そのイメージ世界を強烈に提供する、イエスの言葉を記録しておいてくれました。その考え方を記録しておいてくれました。

 それを読むことによって、われわれは、それが全てで当たり前だと思っていた考え方、世界の見方を、はじめて距離を置いて眺めることができます。新しい視角から吟味することが出来るようになったのです。

 われわれの「知性」は、この時新しい活動領域を得ます。われわれは、ヨハネのしてくれた仕事によって、新しい知性を獲得することが出来るのです。

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Vol.72『「将来成り、今成っている」は矛盾か?』(5章25節)

2005年07月04日 | ヨハネ伝解読

=聖句=

  「これはまことのことです。死んだ人たちが創主のこの声を聞くときがきます。
そのときは、今すでにきています。そしてそれを聞く人たちはいのちを得るでしょう」
(ヨハネ伝、5章25節)

・・・・・・・・・・・・・・・・


 ヨハネ伝、5章が続きます。

 25節から29節までは、「最後の裁き」の内容を語ったところです。

 「死んだ人たちが、創主の子(イエス)の声を聞く時が来る」(25節)、

 とイエスは語っています。

 最後の審判の時には、これまでに死んだ全ての人間の霊が、ある種の身体を着て復活し、イエスの声を聞くことになる、というのです。

      @      @      @

 そして、次が難しいです。

 イエスは同時に、

 「そのときがいますでに来ている」(25節)

           と言った、とヨハネは記しています。

 これはどういうことでしょう。将来そういう時が来る、と言っておいて、すぐ続いて、「そのときはすでに来ている」というのは矛盾しているではないか。将来と今をごっちゃにして言っているのではないか、と。

 そのとおりです。我々が生きる現世の常識からしたら、それは矛盾です。将来のことと、今のことは別なのであります。これは同一には決してならない。

      @      @      @

 ところが、よく見ると、それは人間の側に立った論理なのですね。

 人間にとっては、将来のことは不確実性の世界にあります。
 あることが成るといっても、それは確率100パーセント未満の話になります。将来のことは、100%成るとは人間には言うことが出来ない。

 これから展開する世界に関して、人間が認識出来る範囲は有限です。認知可能範囲の外から起きてくることは、予測できない。だから、すべては不確実性の中にあるのです。

 そういう状況では、今成っていることと、将来成ることとは、これはもう全く別になりますよね。今のものは100%成っていますが、将来のことはそれより確率は低いですからね。ということは、成らない可能性もある、と言うことだ。

<創主の論理は別>

 ところが、イエスは創主の論理に立って語っているのです。そして創主においては、将来百パーセント成ることはあるのです。それは、創主の口から言葉となって出たことです。これはもう、100%成る。多くの人は気付いていませんが、これは、聖書の鉄則です。

 別の面から言いますと、創主から出た言葉には、現実、ないしは物質は、百パーセント従うのです。従ってその通りになるのです。

 読者は、是非、あらためて聖書で確認してください。たとえば創世記で、創造主が何かを出現させる時には、例外なく言葉を発しています。そして、そのあとで、天も地も動物も人も出現しています。

 イエスがいわゆる奇跡を起こす時も同じです。「立て」「歩け」「(目よ)開け」「(熱よ)引け」「(嵐よ)静まれ」・・・こうした言葉が発せられてから、奇跡は起きています。

 創主から出た言葉は、人間の言葉にはない、力を伴っていると理解すべきでしょう。エネルギーを伴っていると言ってもいいかも知れません。聖書では、そういう論理になっています。
 
 創主の子イエスの口から出た約束も、将来百パーセント成るのです。

      @      @      @


 するとこういうことになるのではありませんか。「将来百パーセント成るのなら、今成っているのと同じこと、あるいは、今成ったのと同じ」なのだ、と。

 だから、イエスは「将来そうなる」といって、かつ、「それはもうすでに来ている(なっている)」といえるのですね。

 この論理はわれわれにはなかなかぴんときません。人間は、不確実性の世界に慣れきっているからでしょう。それ以外の世界があるなどとは、考えたことも無いからでしょう。
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