鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<イエスの血と「いのち」の力>(4・・・最終回)『天の「いのちの川」も呼応する』

2011年03月29日 | イエスの血の権能

 「イエスの血の権能」最終回です。
 (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    

イエスの血の主要なところは、天の創主王国における「いのちの川」に流入していると前回解読しました。
そしてこれは地上と呼応していると鹿嶋は考えます。

イエスの血を求めると、大きな問題にはいのちの川の「いのち(血)」が祈りに呼応して瞬間的に天国より下ってくる。
それはいのちエネルギーの凝縮体となって嘆願者の祈り求めるものを覆う。こう考えられます。

                    

<地上で繋ぐものは天でも>

 それを鹿嶋は聖書の次の思想から推定します。マタイ16章19節にイエスの次のような言葉があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私は君(ペテロ)に天国の鍵を与える。貴君が地上で繋ぐものはすべて、天においてもつながれている。
地上で解くものはなんでも天においても解かれている」(マタイによる福音書、16章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この言葉は次のような背景のもとにイエスの口から発せられています。
イエスは宣教の途中で弟子たちに「諸君はわたしを誰だというか」と問いかけました。これに対して弟子のペテロは~

「あなたは生ける神の子キリストです」と答えます。右のイエスの言葉は、これを受けて語られたものです。
「繋ぐ」とか「解く」というのは抽象的な言葉ですね。それ自体の意味を解読するには神学的考察がしっかりいるでしょうが、
ここではその問題はスキップしておきましょう。

そうしておいてこのイエスの言葉をみると、そこには「地上のものと天国のものとが呼応する事がある」という論理を読み取ることができます。
 ですから、ペテロのようにイエスが創造主の子で救い主だと心から信ずる者の言動のある部分には天でも呼応がなされる、と考えられます。

                    

<天のいのちが降りてくる>

 そこで「イエスの血!」と天に向かって願い叫ぶと、大きな問題の場合は天のいのち凝縮体が瞬時に降りてきて嘆願者を覆うと考えられるのです。
そうした意味で、信じるものには「イエスの血(いのちエネルギーの凝縮体)」は
実質的には遍在(何処にもあまねく存在)することになりますね。

 いのちエネルギーは栄光という究極の光をも発します。その光は悪魔の持ち物である闇に打ち勝ちます。
いのちは死にも打ち勝ちます。そうやって悪魔のわざをも追い出します。

                    
(「人間は悪魔の敵として創られた」というのは聖書論理の大前提です。これを軽視したら真の福音理解はなりません)
                    

 いのち凝縮体は悪霊を追い出します。肉体のいのちを増幅し、病を追い出して癒しをもたらします。
目に見えない悪魔の攻撃をブロックします。その一端を外から見た人間はそれを「奇跡」というわけです。

 どうも福音に力をもたらす実体は、イエスの血だったようです。
この世に肉体をまとって生きている人間にとって、「イエスの血」は奇跡を呼ぶみなもとだったようです。
前述の『イエスの血の力』の著者ホワイト師はこういっています。

                    
 「祈り、賛美、礼拝、静かな時・・・それらはみな創造主に近づくための手段であって、血の代用とはなりません。
腐敗に効く惟一の特効薬はイエスの血なのです。
だからこそ、サタンはなんとかして教会から血の教えを取り除こうとしてきました」(89頁)
                    

 鹿嶋はその「血」の論理を自己の聖句解読(神学理論)に入れてきませんでした。
真の福音は権勢を伴うべきものと思いながらも、実体験が得られなかった。宣教活動に力が伴わなかった。
反省したときから少しずつ状況が変わってきた感触があります。

                                                (完)

                    

 

 

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<イエスの血と「いのち」の力>(3)『イエスの血はいのちエネルギーの凝縮体』

2011年03月27日 | イエスの血の権能


 「ヨハネ伝」はイエスの身体(肉と骨)は「創造主から出た言葉(思いが凝縮したもの)」からなったものだといっています。
これが神学でいうインカーネーション、すなわち肉化だということは、前回に述べました。

                    

 そうするとイエスの血はどうなるでしょうか? 
これは難しいですよ。聖書にはこれに関する直接的な記述はありません。これには神学的思考が必要です。

 聖書の論理には創造主の言葉にはいのちが伴うという鉄則があります。そのいのちが血に対応すると考えられる。
つまり創造主から出た「いのちエネルギー」が液状形態をとったのがイエスの血と考えられるわけです。

 血液の様態をとったいのちエネルギーですね。これがイエスのとっている肉体の中を流れて肉体にエネルギーを供給した。
そしてその実体は、人間の血のような充電式液体電池というエネルギーの容器ではない。
そういう「物質」ではなくいのちエネルギーそのものである。
ですから霊に蓄積されたいのちによって「充電」される必要はイエスの血の場合にはない~そう考えられます。

 創主の言葉がイエスの肉体の様態を採っているあいだは、イエスの血は骨肉にいのちエネルギーを供給し続けました。
だがイエスの肉体が死んで復活して、再び霊イエスになると
その霊体にはもういのちエネルギーを供給する必要は無くなったと考えられる。

 その役割がなくなると、イエスの血はどうなるか。
それは凝縮したいのちエネルギーとして独自に存在し続けるという道理になるでしょう。
それは人間の血のように、消滅してしまうことはない。
人間の血は液体充電池という物質ですから、身体から流出したらひからびて雲散霧消してしまうのですが、
イエスの血はエネルギーそのものですから不滅です。エネルギー不滅の法則に則って存在し続けることになります。

                    


<イエスの「霊体(言葉)と血」は地上にも>

 ではそれはいまどこにあるとかんがえられるか。
イエスの身体は肉体から霊体(ロゴス)となって復活し、天の創主王国に昇りました。ですから今、天の創主王国にあります。

だがその一方でイエスは自らの言葉をこの地上に遺しました。
この言葉はロゴスであり霊体ですから天におけるイエスの霊体(ロゴス)に呼応しています。

 では血(いのちエネルギーの凝縮体)はどうだと考えられるでしょうか。血は肉体に伴うものです。
だから、その主要なところはイエスの霊体と共に天の創主王国にのぼったと考えるのが自然です。

では天国でそれはどういう状態にあるか。
それは黙示録の次の聖句における「いのちの川」に流れ込んでいると鹿嶋は推察します。


                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「御使いはまた、私(ヨハネ)に水晶のように光るいのちの川を見せた。
それは創造主と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。
川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。
また、その木の葉は諸国の民を癒した」(黙示録、22章1~2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~がその聖句です。

                    

 けれども全ての血が天に帰ってしまったのではない。
他方においてイエスは、この世で大量の血を身体から流出させました。これはそのまま地上に留まっていると考えるべきでしょう。

  『イエスの血の力』の著者、マクスウェル・ホワイト師はその書の中で次のような事件を書いています~

 1945年に夫人が熱湯化したオートミールを誤って腕の肘にかけひどいやけどを負いました。
生まれたばかりの三男を風呂に入れられなり、激痛の中で「イエスの血!」を数回唱えました。
すると数分後に激痛は消え幼児を風呂に入れられるようになった。そして夕方には痕跡さえ消えていた~と。

 これはこう理解することもできます。
地上で信じるものがイエスの血を叫び求めると「地上で流され地上に残されたイエスの血」が嘆願者のやけど部分を覆った。
イエスの血はいのちエネルギーの凝縮体ですので、それがいのちを与えたちどころに癒しが実現した~と。

さらに大きな問題には、天の創主王国からいのちが降下してくるとおもわれます。それについては次回に考えます。

                      

            

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<イエスの血と「いのち」の力>(2)『「イエスの肉体」の特性について』

2011年03月26日 | イエスの血の権能

では、イエスがこの世でとっておられた肉体における血はどうなるか?
 これは人間の血の論理とは全く別物になります。聖書の思想ではイエスの血は、人間の血と大きく異なっているのです。

                    

  イエスの血の特性をつかむには、まずイエスがこの世でとられた肉体の性質についての聖書の思想を知ることが必要です。
そしてそれには前段階として、聖書における「肉(肉体)と血」の概念をつかんでおくことが大切です。
 聖書では肉とは、血以外の全ての要素を意味しています。つまり、肉、骨、臓器等々の全てです。
そして血とは、それらに「いのちエネルギー」を供給するものとして、別個に考えられています。

 その上でイエスの肉体を考えましょう。この実体について明確に述べたのは使徒ヨハネです。
彼が「ヨハネによる福音書」を書き始められたのは、イエスの肉体に関する啓示を聖霊から受けたからです。
鹿嶋はこのブログでの「ヨハネ伝解読」を始めるに当たり、そのことを述べましたが、そのいくつかを要約してもう一度ここに示してみましょう.
引用部分は『 』で示します。Vol.の次の番号は、「ヨハネ伝解読」における記事番号です。



                    

  Vol.6(2004年11月13日)
『ヨハネ伝19章に次の記述があります。
イエスが十字架にかけられたとき、ヨハネはその下に、イエスの生母マリアとともにいます。
死んでいくイエスをじっとみています。死んだイエスの脇腹を、ローマの兵士が槍で突き刺します。「するとすぐに血と水が」出ます。
 ヨハネは、それを記してすぐに、次の文を追加しています。
(それを観た者が証言をしているのである。あなた方が信じるためである。
彼が言っていることは真実である。彼自らが、自分の言っていることを真実だと知っているのだ)と。

 「それを観た者」とか「彼」とは、著者であるヨハネ自身のことです。
これほどに重ね重ね「私は自ら観たのだ。これは真実なのだ・・・」とヨハネが言うところは、他にありません。
ここは異例にくどい。どうしてでしょうか。

 ヨハネは、この「血と水が出た」という事実のなかに福音の神髄をみるからであります。
だから、この事実を読者がいい加減に読んだり、あるいは「まさか・・・」と思うような解釈をしたのでは、もう核心が明かせないと思うからであります。
 それ故に彼は、自分が間違いなくみたのだ、と繰り返すのです。
また、それは自分がみたものに関して、確認を繰り返していることでもあります。
「あれは夢ではない、幻想ではない。私は間違いなく血と水が出たのをみたのだ」と。 
彼は、そう自らの認識を確かめているのです。
なぜ、血と水が出たのか。ヨハネ伝は、それに対する答えから始まります。その答えとは、有名な「はじめに言葉があった」(1章1節)であります。』

                    

Vol.7(2004年11月13日)
『 =聖句=
 「初めに言(言葉)があった。言は創主と共にあった。言は創主であった」(1章1節)』

                    

  言葉というのは「思い」の凝縮したものです。
そして思いは聖書用語では「霊」です。創造主のことばとは創造主の「思い」の凝縮したものであり、創造主の霊(創造霊)です。
これが御子イエスの実体だったということをヨハネは「始めに言葉があった・・・言葉は創造主であった」と記しています。
そしてこの創造霊が霊イエスとして宇宙とその中の全てを創造した、との霊感を受けてそれをそのまま記しています。

                    


Vol.17 (2004年11月27日) 『ヨハネは続けます。

「すべてのものは、この方を通して創られた」(1章3節)

 聖書の物語に出てくるすべてのものは、御子イエスを通して、創主が創られた、とヨハネは悟っていったのです。
このばあいの「すべて」は、この世、宇宙の中にあるすべてのものです。
(聖書には、この宇宙を超えた存在、天の王国、というのもあるという思想です。このあたりは、「KINGDAM原理からの聖書解読」のカテゴリーをご参照下さい)

 この場合のイエスは、身体を取ってこの世に来る前のイエス、すなわち、霊としてのイエスです。
 御子(みこ)をとおして、というのは、イエスが父なる創主のエネルギーを受けて自ら創造していった、と解していいでしょう。
子は父の財産を相続します。イエスは~

「あなた(父なる創主)のものは、みな、わたしのもの」(17章10節)

   ーーーといっています。
だから、この世も本来はまた、御子イエスのものなのです。
そして、彼は、人の姿をとって、本来自分のものであるところの、この「世」に来た。ところが「世」はそのことを認知しなかった。
しなかっただけではなく、本来の所有者であるイエスを人々は受け入れなかった~とヨハネはのべています。

 「彼は世にきていた。そして、世は彼をとおして創られたにもかかわらず、彼を認知しなかった」(1章10節)

 「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」(1章11節)』


                    

 話は前後しますが、イエスの肉体についていま少し詳細にみてみましょう。

Vol.10 (2004年11月13日) 
『ヨハネにとって、最後まで残った疑問は、一体、主・イエスの身体とは何なのだ、ということでした。
この疑問は、後年まで残ったと思われます。そして、ある時ヨハネの意識に、天啓のごとくにひらめいた答えが、ロゴス(言)の肉化だったのです。
「そうだ、あの方の身体は、創主から出た言葉が肉体化したものだったのだ」と。
生母マリアの胎(子宮)のなかで育ったといえども、人間の身体と同じ物質で出来ていったものではなかったのだ、と』


                    


  宇宙とその中の全てを創った霊イエスが、乙女マリアの胎に宿って人の姿をとった。
これが「人の子」イエスです。これに神学では「肉化」という概念を与えています。
英語ではインカーネーション(incarnaion)です。だからイエスの肉体は人間の肉体とは本質的に別物という思想なのです。

 ヨハネは十字架上のイエスの脇腹をローマ軍の兵士が槍で突いた時、血と水が出たという謎を考究し続けました。
その結果イエスの肉体は創造主のことばが肉化したもの、との解に至りました。

 そのことが、イエスの「私の肉を食べなさい」なる教えに繋がり、さらにそれがイエスの血の特性につながっています。
それについては次回から述べていきますが、とにかくイエスの肉体は人間の肉体とは別物、という認識は福音に不可欠の骨子です。
この認識無くして、福音はないといってもいいほどです。
「イエスが人間としてこの世にこられた」というような漠然とした認識のみをベースとする思想は、真の福音ではないのです。
                          
(続きます)

                    

 

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<イエスの血と「いのち」の力>(1)『人間の血の効能について』

2011年03月24日 | イエスの血の権能

衝撃的な大災害が起きました。「ヨハネ伝」解読を中断して、「イエスの血の権能」をについて述べようとおもいます。
これはSESAMEさんからリクエストいただいていたテーマです。

  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
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<人間の血といのちエネルギー>

まず人間の血の効能から考えます。
 鹿嶋の著書を読んでくださっている方はおわかりでしょうが、春平太は従来、
聖書では「人間は肉体と霊とからなる」という思想だ、と理解してきています。

そして霊(霊体)は「いのちエネルギー」の充電式乾電池のような役割をしていて、
創造主から放射されるいのちはそこに充電され、
そこから肉体にいのちが供給される、としてきました。

 だから、霊が肉体を抜け出ると肉体は運動エネルギーが無くなって、循環運動を止める。
それが肉体が「死ぬ」ということだ、と理解してきました。
 これでもって、肉体の「生の理論」は完結していたので
「血」という要素の効能が介入する余地がなくなっていました。

 今回その「血」を介入させての理解体系を修正しようとおもいます。
どうもそれがもっと詳細な聖書の人間構造論でありそうに思えてきているのです。

                    

<血は充電式液体電池>

 具体的には、「霊のいのちエネルギーは血に充電される」と理解いたします。血を充電式液体電池のようにイメージするのです。
そして「その血がエネルギーをもって体内をめぐって、身体の各所にいのちエネルギーを供給している」と考えるのです。

 すると、こんな事態も理解可能になります。
たとえば病院で人が臨終を迎える時、まず血圧が下がります。あるいは交通事故などで出血多量が起きると人は死にます。
これは「いのちエネルギー」の運搬量が急低下して身体各部の器官の運動力が衰え、
循環運動が維持できなくなることによる、と説明できるようになるのです。

 人間の老化に関しても、血から説明を加えることができます。
人間の血のいのちエネルギー蓄電量は年齢と共に低下していく、と考えるのです。
丁度携帯電話の充電式リチウム電池の畜電力が使っていると低下していくようにです。
かくのごとくに年齢と共に蓄電量が低下し、それが充電能力の低下につながる。
それ故に肉体の機能は低下し、ついには血の放電に充電が間に合わなくなって老衰死していく、
と考えることができる。こういう論理も成立しうるわけです。

                    

次回はイエスの血について考えます。


                    

 

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2011年03月20日 | ヨハネ伝解読

福島原発

5号機、6号機への通電がなり、冷却装置が
作動し、水温が15~20度ほど、下降した模様です。

3号機への注水が成功し、
水温が低下した模様です。本日、4号機への注水が
試みられるようです。

併行して1~4号機への
通電の回復が試みられるようです。

多少の受信誤差はあるかもしれませんが
概要は以上のようです。

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