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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

聖書知識は精神活動のインフラ

2015年01月12日 | 聖書と政治経済学




 聖書の知識は、基本が霊的な事柄で出来ていて、現世の知識と相容れない面が多いです。
だから、チャーチでは現世の政治経済問題などを語らない、という行き方もあります。
世的な事柄を語ると、「鹿嶋春平太チャーチ」の純度が下がるではないか、と懸念するわけです。


 だが、鹿嶋はいま現在、肉体をもって現世を生きています。
そういう人間として、政治経済・戦争・人間の獣性などを無視して続けると、苦しくなってきます。
そこでやはり現世の事柄を論じてしまうわけです。

+++

 でもその際、現世の思考と霊界的な思考との相互関係に関しては、やはり考えます。
当面鹿嶋の見解はこうです。

~すなわち、聖書の霊的世界の知識は現世の精神世界のインフラのようなものだ、とみるのです。
人間の精神はこのインフラ基盤の上で活動しているのであって、このインフラが、ややもすれば脆弱になりがちな精神世界を支えてくれるのだ~と考えます。
そしてその限りでは、現世の世的な事柄も論じていいと思うのです。





<インフラとは>

 インフラは英語のインフラストラクチャー(infrastructure)の略語です。
それは「基盤」「下部構造」といった原義を持っています。
それが転じて、社会経済学で道路、橋、水道、電力網など、人々の生活の基盤となる施設を指して用いられるようにもなりました。

 経済学ではこれは公共財とも呼ばれています。
私有財と区別されてのことです。

 自由主義経済社会では、個々人は利己心をベースにして営利を求めて経済活動をします。
それは市場価格の働きによって、結果的に個々人が社会に貢献するようになります。

 たとえば社会に鉛筆が足りなくなると、その価格は上昇します。すると鉛筆を造る人が増大し、鉛筆の量は具得ていきます。
逆に、過剰になると、価格は低下します。すると儲けが少なくなるので、鉛筆をやめてたとえばボールペンの製造に転じる人が出ます。
こうして市場価格が個々人の利己心に基づく行動を、社会にとって適正な状況に調整するのです。

 だが、市場価格の働きでは出来ないものもあります。今述べた道路、橋、水道、電気網などがそれです。
こういった広範囲なサービスの生産は利己心主導の私企業に任せきることが難しいです。

 私企業でおこなえば、それは私有財産として運営されます。
私有財産の用い方は、基本的に所有者の自由です。
だから、道路の所有者が「この部分はオレのものだから、親しくしている者しか通さないよ」と言うことも出来ます。

 だが、道路はみんなが必要とするものです。
だからこれはみんなの所有にして、みんなでありがたく使うようにしないと具合わるい、ということになります。
そこで税や寄付などとして公共機関に資金を集め、それでもってみんなのものとして造る、ということが必要になります。

 こうした公共財は、個々人が活動するための社会基盤とみることも出来ます。
その見方からこれら公共財がインフラストラクチャーと呼ばれるようになりました。

 そしてこの用語は、さらに、個人の日々の生活の基盤という意味にも展開できます。
住宅や通信回線などをさして用いるわけです。
もともと転用された言葉ですから、いろいろに展開されうる性格をもっています。

 そこで、これを個々人の日々の精神活動にも適用することも出来るでしょう。
つまり、人は精神活動、心理活動をしながら日々生活します。
そのための精神的な基盤を精神インフラと言うことも出来る。
鹿嶋はその意味で「聖書の知識は精神活動のインフラとして用いることができる面が多々ある」ととらえるわけです。
本日のタイトルはそういう意味合いで造りました。





<創造神という神イメージの供給>


 わかりやすくするために事例に沿って話しましょう。

 たとえば聖書は人間に「万物の創造神」という概念を供給します。

 人は、巨木や巨岩や建物や彫像などの「モノの中に内在している神」のイメージは自然に抱きます。
だが、それら全てを造った創造神という神イメージは、人の心に自然生成しないのです。
それは聖書の言葉によって、外から供給されて初めて心の内に形成されます。

そしてこの神イメージは人の心のなかで貴重なインフラとなって働きます。






<「存在根拠あり」の意識がもてる>


 人の知性は「自分の存在理由を知りたい」という思いを本能的に心に作り出します。
そしてその答えがない間は、人は自分に関して「ただ存在している」という意識しか抱けません。

 その間、知性は欲求不満状態に留められ、精神は宙ぶらりんで不安定な状態に置かれます。
われわれは「みんながそうだから」、と、通常は当たり前のように考えて生きています。
だが、実体はそうなのです。

 ところがそこに「万物を創造した創造神」のイメージが加わると、事態は変わります。
人間は自分がその神に「創造されたから存在している」と、存在根拠の意識を持てるようになるのです。
すると心はどっしりとしてきます。
創造神のイメージは、こうして人の知的意識に根底での安定をもたらすインフラとなって働くのです。







<存在物への肯定感が増す>


 人間の「ただあるだけ」という思いは、自分に対してだけに限らず、存在物一般に対しても抱かれます。

この「ただあるだけ」という思いは、ものごとに意味(価値)を感じていない意識を形成します。
いわゆる虚無的・ニヒルというのはこの心理状態です。

 人は通常、その心理状態をベースにして、事物の情報を受信して心に蓄積しつつ成長していきます。
知識は多くなるほど、心配事を増やします。
すると、神経の負担が増大の一途をたどります。
心は加重負担で過労に陥っていき、意識は鬱気分にならざるを得なくなります。

 情報化時代には、このスピードが非常に速くなります。
だから鬱病が増えるのです。

 だがここでも創造神のイメージが入ると事態は変わります。
すべての存在物が相応の目的をもって創られただろうという予感が心に生まれるのです。

 するとものごとに漠然ながら存在意義を感じられるようになります。
意義を感じれば、愛着も生まれます。
愛着が生まれれば、存在物を肯定する意識(アファメーション意識)が湧きます。

 万物の創造神という神イメージは、こうした心的姿勢を形成します。
この姿勢が心的エネルギーを増大させ、鬱気分を払拭する力を創ります。
これによって精神も復元し、知的向上心も再生・持続します。






<個別事例を大局観に位置づける習慣が身につく>


 まだあります。
創造神は時空にわたって無限なる存在です。
このイメージを心に抱くと、人は事物をそういう広大な全体観の中に位置づけてみるようになります。

 この位置づけは、個々の物事に明確な「理念としての」意味を人の心に形成します。
そうでなくとも人間は物事に意味を「感じて」暮らしますが、それは感慨であって漠然としたものです。

 明確に理念としての「意味」を心に形成すると言うことは、実は「解釈」することでもあります。
そして明確な解釈は物事への明確な意志決定と確固とした実践行動をもたらします。

+++

 余談になりますが、「プラグマティズム哲学」の集大成者、ウイリアム・ジェイムズはこの「位置づけ」を彼の認識論の大前提においています。

 プラグマティズム哲学は、19世紀後半に米国で起きた「アメリカに適した哲学」の追求のなかで創案されました。
研究者たちは、人間はみな実線生活のなかで認識を行うものであることに着目し、そこでの妥当な認識を追求しました。

 その哲学の集大成者・ジェイムズは、そこで全体観が個別事例の明確な意味をあたえることを示唆しています。
これは一つの発見です。
彼は著書の中で、この全体観のことを宇宙観と表現しています。

+++

 プラグマティズムは結果的に、欧州の科学認識論と対極に位置する、米国学問の認識論となりました。
欧州では、事象の細部を詳細・精密に分析することに最大の価値を置いていたからです。

 そして、この米国流認識論の重要項目である全体観を、「万物の創造神イメージ」は最も力強く人間心理にあたえるインフラになっているのです。









<「人間は肉体と霊から成っていて霊は永続する」と教える>


 もう一つ、聖書の提供するインフラ知識を語っておきましょう。
聖書は「人間は肉体と霊とからなっていて霊は永続する」との知識を明確に供給しています。

 もちろん人間はこの種の意識を、自然なままでも「漠然とは」もっています。
死んだら葬式しますし、お墓を造って手を合わせますしね。
夜暗闇の中で長い髪の毛が前に垂れ下がった女性を見ると、ぞっとしますよね。
これは霊的なものを連想しているからです。
そういう意識はありますが、それは消極的で弱いものです。
  
 その状態で、人は肉体を明確に目にしています。
そしてその肉体は死んで腐って風化しておしまいであることが、はっきり目に見えています。
ハッキリ見えるから、その意識は積極的で強いです。
その結果、人の心の内では「人間は死んでおしまい」という意識の方が優勢になっています。

 これは人生へのスタンスを基本的に「捨て鉢」にします。
「どうせ死んでおしまいだから・・・」とやけくそな気持ちを心に形成する。
この意識は人間の、自己の「生(せい)」に対する愛着心(生きようという執着心)を薄くします。

 ところが「霊は永続する」との意識を「明確に」持てば、事態は変わる。
「死んで終わりではない」という意識は心の内で積極的で力強いものになります。
積極的になれば、人はこちらの意識を、肉体への意識より優先していきます。
同じ積極的なら、「永続する」ほうが心が安定して気持いいですからね。

 その結果、生への愛着心が増大し、よき人生を望む気持ちも強くなります。

 これが精神エネルギーを沸き立たせます。
すると、様々な面にわたる向上心も高まり、かつ持続するようになります。
「人間は肉体と霊とからなっていて、霊は永続する」という明確な知識は、このような働きをするインフラなのです。







<知識インフラにもメンテナンスは必要>

 
 聖書の霊的知識は、以上に見てきたように現世の生活においても精神のインフラを形成します。
これは意識のベースでしっかり効きます。
だが社会経済のインフラと同様に、時間と共に劣化していきますので、メンテナンスが必要です。
そしてこのメンテナンスの対象は、精神的なイメージですから、心の中で想起再生して鮮度を維持してあげることが必要となります。

 霊的なイメージ知識は物的なインフラのように常時目に入るものではありませんので、鮮度の劣化は速いです。
想起と再吟味は周期的になされるのが好ましいでしょう。

 聖書知識が供給するインフラは、まだまだあります。
だがまずは、今回述べた二つのイメージを試してみられることをおすすめします。
トライしてみればわかりますが、この二つからだけでも、精神の動きが変化することを自覚できるでしょう。







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中国理解のための「儒教」、「国民国家」、「共産主義」

2014年12月28日 | 聖書と政治経済学





 前回に鹿嶋は中国の日本への賠償放棄における儒教思想の影響や分祀の要求の真意などについて述べた。
この機会に、中国における人民統治の全体像把握も試みておこう。





<儒教は家族重視姿勢を浸透さす>

  儒教は中国人に家族・一族重視の姿勢を深く強固に形成した。
この姿勢が、幕藩国家を最高の国家とするという思想を人民にもたらした。

 人民の土着の心情はその国の国家観を決める。
それは各地方の部族国家(藩)を温存し、それらを巧妙に中央朝廷で統合していく、というシステムを人民に支持させた。
清朝国家、すなわち、清国は日本の徳川幕藩体制と類似の構造的の幕藩国家だった。





<西欧列強は国民国家だった>

  対して、清国を侵蝕してきた西欧国家は国民国家の制度を持っていた。
国民国家とは、人民が民族国家に最高の価値を感じて、全民族が一体化するシステムの国家である。
この制度が機能すると、国の富や武力は向上する。
西欧列強の強さの一大要因がこれだった。




<明治国家の決断>

 日本の明治維新指導者は、幕末にそれを素早く読み取った。
そこで維新がなるや版籍奉還と廃藩置県を速やかに実施した。
これで人民は、自分の藩に最高の価値を置く心情から、強引に脱皮させられた。

 清国はそれが出来なかった。
地方に藩閥国家が割拠していた。




<始皇帝の儒教弾圧>


 その精神基盤を形成するのが儒教思想だった。

 秦の始皇帝の天才は、これを見抜いていた。
彼は漢民族を統一して初めて民族国家中国を物理的に確立した。

 彼は同時に、精神的にも国民国家を建設しようとした。
人民が中国という民族国家に、藩(地域国家)以上に価値を置く国家を造ろうとした。

 そのために、儒教思想が障害となった。

 この思想は家族運営をベースにして国家運営を考える思考様式を持っている。
それが結果的に、家族重視、一族重視、地方国家(藩)重視の姿勢を生むからだ。

 儒学者は、儒教思想を超越する国家作りに反対した。
始皇帝は儒教の書物を焼き、儒学者を捕らえて生き埋めにした。

 だが、中国を国民国家にするには、始皇帝の25年の統治期間は短すぎた。
儒教はすでに一般庶民の心情深くに染み込んでいた。

 中国では以後清国時代まで幕藩国家のままできた。






<孫文革命も国民国家を遠望>

  そしてついに清朝中国は列強に侵蝕され始めた。
辛亥革命における孫文も、国防力を高めるため、国民国家を遠望していた。
国民党活動での蒋介石も、また国民国家を遠望していた。

  だが、出来なかった。
中国では人民を、自由意志をあたえつつ国民国家に誘導することはあまりに困難だった。

  これをすると、人民は土着の一族重視姿勢に収束していってしまうのだ。
国民国家を実現するには、強権国家からの上からの強制が必要だった。

 毛沢東の天才はこれを見抜いた。
かれにとって共産国家思想は、実は、国民国家実現のための道具であった。
それを知るには、共産制国家をその構造から認識せねばならない。




<マルクス思想は強権国家思想>

 マルクスは資本主義制度の矛盾と、その不平等性をあばきだし、その根源にある私有財産性をなくせば「自動的」に理想社会は実現すると説いた。

 だが、彼には人間集団の「運営」を見る目が皆無だった。
私有財産をなくし、国家財産にすれば、それらは巨大な経済財となる。
そしてその運営義務は国家統治者(官僚)のもとに集中する。

 巨大な経済財を中央政権の理想で運営する際には、必然的に、膨大な生産計画書の作成とその実施のための「命令」が必要になる。

 つまり、共産主義国家は、全人民を「命令=服従」のシステムで運営する国家となるのだ。

 一つの「思想」で人民を「命令=服従」のシステムに組み込んだのは、人類史上初めてのことではない。

 西欧中世を通して国教の地位を得たカトリック教団は、1200年にわたってそれをした。
この体制が、産業革命と市場経済システムによって崩壊した。

 共産主義、社会主義思想は、このシステムの国家を復活させたと見ることも出来る。





<毛沢東、共産主義思想で国民国家を実現>

 毛沢東がこの共産主義思想を掲げたのは、すぐれて国民国家実現のためだった。
むろん彼はスローガンとして平等社会の理想も掲げた。
地主の農地を農民に暴力的に没収させた。

 だがごく短い間を置いて、その土地を農民から没収し、国家の管理下に置いてしまった。
農民はだまされたことになるが、毛沢東からすればそれは予定の行動であった。


 彼は同時に、諸分野に共産制を実施することによって儒教の一族最重視思想を粉砕した。
共産党独裁体制は、中国を国民国家にするに不可欠な手段だったのだ。

 いまもそうである。
儒教精神は人民の心情に浸透しきっているからである。




<周期的な民主化運動>

 戦後、市場経済方式を度乳すると、西洋から民主制、自由選択システムの思想も入った。
人間の心底には自由選択システムを求める意識も深く横たわっている。

 この思想は、若者が先行的に受け入れやすい。
そこで中国では民主化の要求が主に若者の運動となって周期的に現れることになった。
天安門事件もそうだし、昨今の香港における学生の民主化デモもそれだ。

 だが、中国では当面一党独裁の強制システムがないと、の国民国家状況は維持できない。
そこで、ある程度運動をさせておいた後に、リーダーをシンボルとして罰する。

 これが現代中国である。

 この国には人口が日本の10倍もいて、それが多民族で構成されている。
それが複数の異民族に隣接している。
中国の統治は日本の何十倍も難しいのではなかろうか。

 我々はそれをよく知って、中国を見なければならない。
でないと、中国という国がわからなくなってしまう。

 実際、今の日本人のほとんどがその「わからない」状態にある。
フェースブックに提示される意見にもその現状が絵のように表れている。

(中国論  以上)










************




 今年もクリスマス休暇期間を過ぎ、残すところあとわずかになりました。
新年を迎えるにあたり、若干の付言をしておこうと思います。

 鹿嶋は日本人の中国へ無知・盲目を非常に憂えています。
これを打開する必要を痛感しています。

 現実に、こんなことも考えます。
傲慢と評されることを承知で、多くの日本人が、鹿嶋のこの情報を身につけ、さらにそれを踏まえて中国知識を豊かにして行かれることを期待し勧めよう~と。

 だが、実際にはそれは相当困難であるように思われます。

 理由は一つには、こういう広域的な話を追っていると、人は非常に疲れることにあります。

 人は、通常は自分の等身大の身辺のことをイメージ世界におさめて生活しています。
その世界を広げると言っても、せいぜい家族や親族や友人、あるいはクラブ活動や同窓会、勤務する会社などまでです。

 それでも等身大からイメージを拡大していくと、その思考のために必要な精神エネルギーは加速度的に増大します。
イメージ世界が拡大するにつれて、不確かな情報は増大し、そのイメージを心に保つための精神作業が増えていくからです。

 なのにそれが民族や国家などにまで拡大すると、その世界のイメージを心に保持するだけで大変となります。
ましてや中国のような異文化国家の事柄を思考するのは、なお一層疲れることです。

 それには自分の直接経験から中国人の心情を追体験せねばなりません。
この作業が精神的に重労働なのです。





<特殊事情もある>

 以上は一般的に言えることです。
鹿嶋がここに述べた中国論は、さらに特殊な事情によって出来上がっています。

 それは、例外的な恵みの結果でもあるのです。
これらの恵みをあげてみますと~

・中国研究のために必要な時間と研究費を得られました。

・日本の中国研究者(中国語の通訳が出来る)と共に、中国の諸都市に一度ならず立つことが出来ました。

・日本人研究者の通訳のおかげで中国での中国研究者から、活きた本音の情報を引き出すことができました。

・日本人研究者の通訳のおかげで、タクシーの運転手からも身辺情報を得ることが出来ました。

・国内で、日本の大学で教鞭を執る中国研究者と、本音の会話をすることも出来ました。

  (文献による中国紹介はまだ不十分なところが多く、親しく交わった上での私的会話で初めてわかることが多いのです)

・日本人の中国研究者からも多くの情報・見解を得ました。

  (中には中国人を夫人にしている人もいて、その日常生活からの比較文化論的発見には啓発されるところがおおいにありました)

 また、これは自分でいうと自負・自慢に聞こえるでしょうが、敢えて述べておきます。
こんなところで自慢などしてなんになりましょうか。

・鹿嶋自身に、異国の識者に人なつっこくできる気質が備わっていました。

・友好的な雰囲気の中で、相手の本音を引き出す方向に誘導していくという、いわば発問誘導力のようなものも鹿嶋にはありました。

 ~ともあれこのようなきわめて例外的な条件に恵まれて、鹿嶋の中国論は不十分ながらも形成されました。
それは、顧みて比較すれば、以前の中国知識が滑稽に見えるほどに向上したものでした。

 それによって鹿嶋はまた、妥当な中国理解を心に造ることは、日本国内で仕事に従事する生活をしていたのでは難しいことも痛感しました。

 この種の情報を、国内生活者がかみ砕き吸収するには多くの追体験作業が必要になります。
その精神作業は膨大になり、やれば非常に疲れて、ほとんど不可能になるのです。





<創造神イメージの有効性>

 けれども、これにも打開の道があります。
それは広域イメージ世界の思考に慣れることです。

 そしてそうした慣れを国内にいながら訓練して造る方法があります。
それは、聖書にある「万物の創造神イメージ」を抱き、その懐の中で展開する物語を吟味する(出来れば小グループで)という方法です。

 万物の創造神は人間の描きうる最大スケールの世界イメージです。
万物を造った存在は、時間的にも空間的にも無限の範囲に及ぶ無限者です。

 聖書にはこの中で展開する壮大な物語が描かれています。
天地が創造される記述も、ノアの大洪水の話もみなそうです。

 この極大な時空イメージとその中で展開される壮大な話を吟味していれば、自然に慣れが出来てきます。
慣れれば広域思考への持久力も身についてきます。

 さすれば民族や国家のイメージなど楽に心に保てるようになります。
これは実は中国事項だけのことではありませんが、提供される中国情報も楽々とイメージに納められるようになるでしょう。


(完)







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メリークリスマス・2014!

2014年12月20日 | 聖書と政治経済学



            



 クリスマス週末となりました。
クリスチャンの皆様には、クリスマスお目出度うございます!

 こんな時の話題に、中国問題、分祀問題はないでしょう。

 そこで、福音メッセージをお伝えします。
イエスは「人はパンのによって生きるにあらず、創造神から出る言葉によって生きる」と言いました。

 その言葉が福音(良き知らせ)のメッセージです。
今日は、その神髄を凝縮したことばをお送りします。

 それは「イエスに頼る心をもつ」・・・・これだけです。
「今の世」のことも、来たるべき「次の世」のことも、みなイエスに頼ってしまう・・・それだけです。



        


 それを巡る話は、拙著『私のヨハネ伝解読 1』(Kindle電子ブック)における「初めに」に示されています。
今回皆様へのクリスマスプレゼントとしてこのシリーズの第4分冊に、無料ダウンロード期間(12月21~25日)をもうけました。
(¥0、と表示されているのを確認してダウンロードして下さい。課金されません)

 第1分冊にしたらいいのに、との声も聞こえそうですが、この分冊はすでに無料期間を提供しています。
そして、Kindleブックスでは、無料期間は各本につき一回だけしか提供できません。
そこで、今回は第4分冊をプレゼントといたします。


 ここには、福音の真髄を示す短文を再録しておきます~




        

***

・・・福音(よき知らせ:グッドニュース)メッセージは、二階建てになっています。
そして神髄は、一階部分に凝縮されています。
福音の究極のゴールもここにあります。


<福音の一階部分>

 その一階部分は、自分個人が「恵み(福)」を受ける方法です。
これは「イエスに頼る心を持つ」だけです。

 なぜそうなるかの知識は漠然としていていいです。
漠然としたままで、「今の世も、死後の世も」すべてイエスに頼る・・・それだけでいいです。

 不思議なことに、それで心の深い平安が体験できてきます。
物質的、経済的な環境も好転していきます。

 これは福音の神秘です。
神秘というと、感情的なものだと思えてきますが、それだけではない。
神秘がなかったら、話は福音(宗教)でなく科学になってしまいます。

 神秘「主義」は避けねばなりませんが、神秘は福音の必須要素です。
やってみたら体験できるものです。

***

        



 
 ~以上です。簡単ですね。
では心ある皆様、イエスに頼る心を持ってみましょう。

 これは「自然に持てるようになっていく」ものではありません。
自分の意志で抱くものです。少なくとも最初は。

 では皆様、福音の恵みを体験されますように!

 メリークリスマス!



                  鹿嶋春平太




                   



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分祀は国際社会の義務

2014年12月11日 | 聖書と政治経済学





 現世の政治問題は、「チャーチ」では出来るだけ少なくしたい。

そうした中でも、これはいま緊急に述べておかねばという問題もある。
分祀(先の戦争で最高指導者と明示された人々の遺骨を、一般戦死者の遺骨と別に納めて拝すること)がそれである。
これに関する拙論をここに提示したい。



<異民族と境界を接する国>

 日本は四面を海に囲まれていて、しかも東側には太平洋という大海原がある。
そのため、異民族に侵入されたり征服されたりする危険がきわめて小さな中で国家運営が出来てきた。
これは世界の中では異例なことである。

 他のほとんどの民族国家は異民族集団と接している。
こうした国家では、統治の安定性を必要とする度合いが遙かに高い。
国家の一体性が弱まると、すぐに異民族侵入の危険が生じるからだ。
そのため統治者は、自らの定めた秩序(法)が厳格に守られることを求める。
だから秩序に反する者を、違反が悪であることを人民に周知させるためのシンボルとして、厳罰に処した。




<中国での伝統的刑罰>

 中国はその一典型であった。
この国では、秦の始皇帝が統一国家を実現して以来、犯罪者の一族の墓を三代さかのぼって破壊し消滅させた。

 これは中国人にはきわめて大きな苦しみを与える罰則だった。
なぜなら中国では古来より陰陽思想が人民の心に浸透しているからだ。

 この思想では、現世の家を陽宅(ようたく)とし、死後の家を陰宅(いんたく)とする。
両者は対をなしていて、そのセットでもって家系は存在していると考える。
だから陰宅がなければその家系は存続し得ないことになる。
墓が消滅させられるのは、一族が消滅することなる。
これに儒教の家族に高い価値を置く思想が加わって、墓の破壊は彼らを恐るべき絶望状態に落とし込んだ。

 重要な秩序の違反者には同時に、現世においても罰が加えられた。
一族は三代にわたって扱いとなり、その間、強制労働の日々を送らされた。

 ちなみに最近、北朝鮮でこの制度が実施されていることが報じられた。
また中国では現代にもこの刑罰が、慣習的になされているという見方もある。
むろん、ヒューマンライツ思想が普及した現代では、法文に明記されることはない。
だが、一党独裁での刑事法では大枠だけを定めて、実施段階に恣意性が多く残されるのが通常である。
実行段階でなされる余地は十分にあるのだ。



<集団行為の場合>

 中国ではまた重要な秩序違反行為が集団でなされたときには、その指導者をシンボルとして罰した。
その上で他は許すという方式がとられた。

 集団での犯行は多くの場合、政治的理由を持つ。
反体制的運動などはその代表である。
こうした場合、全員を罰すると多数者に恨みと復讐心が残る。
これがさらなる反乱の種になる。
だから、他は不問に付した。

 近くは五人組事件に、こうした例を見ることが出来る。
これは現統治体制の転覆を謀るクーデター行動であった。
このような運動が5人だけでなされることはあり得ないが、共産党政府は協働者を不問に付し、5人だけをシンボルとして罰した。
公開裁判で広く報道し、有罪宣告を下した。

 さらに近いところでは、小泉首相の時に彼が行った靖国参拝に対する暴動がある。
中国国内で多数が暴徒化し、日本食レストランや日本の店舗を破壊した。
日本大使館の建物の一部も破壊した。

 これを心ゆくまで続けさせた後、中国当局は、指導者のみを捕らえ、他は不問に付した。
シンボルとして指導者を罰することでもって、「これは悪いことだ」という表明を人民に行ったのである。



<シンボルは単純な代替認知物>

 シンボル(象徴と訳されている)とは、定義するならば「広大で複雑な中身を持ったものを単純に認識させるための代替認知物」となる。

 法には「・・・をするな」という禁忌の命令が大きな比重を占めている。
それは一般的・全般的な命令として公布される。
だが、一般的なメッセージの記憶は人間(特に大衆)の意識のなかでは、時と共に薄れていくものだ。

 ところがこれを少数の犯罪人によってシンボルとして示すと、人はその禁止の命令をはっきりと認識する。
具体例を見る毎に、記憶が明確になり、以後も想起再生が容易になる。




<終戦後の賠償免除>

 以上の一般論に加えて、中国と日本の間には独自な事情も加わっている。
中国には陰陽思想と並んで儒教というもう一つ強固な行動原理がある。

 この思想では、国家統治は家族の統治になぞらえて考えられる。
家族運営において、家父長は家族員に徳を持って対する。
家族員はこれに忠孝を持って応える。
この関係がなれば家族は順調に運営されていく、と考える。

 国家運営では君主は家長に、人民は家族員になぞらえられる。
家父長は人民に徳を持って対する。
人民はこれに忠孝を持って応える。
これで国家は安定的に運営されていくとする。

 そして国際関係もまたその枠組みで考えられた。
中国から見て朝鮮や日本は家族員であった。
中国は親で、朝鮮はその長男、日本はその弟であった。
中国は朝鮮や日本に徳を持って対する。
朝鮮と日本はこれに忠孝をもって応じる。
(朝鮮はこの原則を歴代守り続けてきている)
これで中国から見た国際関係はうまく運営されていく、と考えられた。

 この思想は、長い伝統の中で、中国の為政者の意識の根底に根付いていた。
それが日中戦争での敗戦国になった日本に、戦争賠償金を免除するという行動を生んだ。
時の中国の代表者・蒋介石がその恩恵を与えてくれた。

+++

「政治見識のための政治学」の項でも述べたが、当時中国元首としての行動を容認されていた彼は、8月15日に当時臨時政府を置いていた重慶から「以徳報怨」(徳を以て怨に報いる)なる有名な言葉を含めた演説をした。
そこで彼は、日本が中国本土で与えた損害への賠償請求はしないと宣言し、日本軍に降伏を求めた。
計上された対日請求額は当時の金額で500億ドルにのぼっていたといいう。

+++

 蒋介石のこの政策には様々な思惑が絡んでいたという批判もあるが、政治決定に多様な思惑が絡むのは一般的なことだ。
むしろ、そうしたなかでも「徳を以て怨に報いる」と宣言できたことが驚異的だ。
そして、巨額な戦争賠償金を免除した。
儒教思想がなかったら出来ない決定だ。
親が子のわがままに報復するわけにはいかない。
中国は自分の「子」を許したのだ。




<最高責任者のシンボル化はせよ>

 この時、蒋介石は「だが中国侵略の最高責任者は明確に罰せよ」とは言わなかった。
それは、当時まだ日中戦争の最高責任者が公式に明らかになっていなかったからである。
極東裁判で最高責任者が明示されると、中国の指導者は「これは他の戦死者とは別にしておかねばならない」と主張した。

 他の戦死者は、最高指導者の命令の下に徴兵され戦争行為をした。
この人民と、指導者の骨は共に置くべきではない。
一族全てを罰しなくてもよい。
彼らを拝することも容認しよう。
だがせめて当人の骨は、他の人民戦死者に紛れ込ませてはならない。
それが趣旨だったはずだ。

 シンボルとして提示することによって、日中戦争は間違いであり悪だったと、明確に示し続けねばならない。
前述のように大衆はシンボルがあって初めて善悪の認知を続けられるからだ。
中国はそのシンボルを求めたのだ。




<奇異な国際心理>

 だが、日本では人民も政治家の大半も、これがどうしても理解できない。
四面を海に囲まれ、アジアヨーロッパ大陸の東の果てに位置していることによって形成されてきた心理慣習が、その理解をブロックしている。

 だがこれは国際社会では奇異な事象なのである。
中国だけでなく、欧州の諸国も異民族と境界を接して国家運営をしてきた。
中国と同様に、秩序の緩み、国家の一体性の緩みを恐れる気持ちは大きかった。
だから、重要な秩序を犯したものから指導者を選び、これをシンボルとして罰した。

 隣国の政権者に取って代わったときには、従来の政権者を間違った秩序のシンボルとした。
平時においても、反秩序の行動について、その指導者をシンボルとして提示し続けた。





<悲惨体験はトラウマを産む>

 中国は日中戦争・第二次大戦を経て、日本が海を越えて侵入してくる隣国であることを体験で悟った。
だから、これが間違いだったと人民が明確に認知することを切望する。
でないと、また状況次第で同じことをしてくる危険のある国だと認識しているからだ。

 この認知を可能にする方法は、最高責任者を誤りのシンボルとすることのみだ。
(「戦後70年の平和行動を評価してください」、などは、子供の台詞なのだ)
これをしないので、隣国は常時トラウマの恐怖の中で暮らすことになっている。
この恐怖感は悲惨な体験をしたものでないとわからない。
だから分祀をしろと主張しているのだ。

 そして見逃してならないのは、これは中国だけの感情ではないということだ。
間違い(悪)のシンボルを掲げることは、国際社会では当然の義務なのだ。
分祀は、一国内の政治上の問題に留まるものではないのだ。




<指導者の美学を生む面もある>

 日本には「同じ戦争の犠牲者なのに可愛そう」という同情論もある。
だが、三代にわたって一族に過酷な刑罰を科すわけではない。
当人だけ、しかも、その骨を別の場所に納めるだけだ。
個人がそれを拝することも自由だ。

 戦時においては、国家全体が「命令=服従」のシステムで運営される。
最高指導者は、その中で、命令する側の頂点に立った人だ。
それくらいの処遇はむしろ進んで受けるべきだ。
指導者として立った時点で、それくらいの覚悟は定めているべきなのだ。

 別の場所に納めると、国民の一体性意識にマイナスを及ぼす、という懸念もあるだろう。
だが、それはプラスの面も発揮する。
分祀されて毅然として立っている姿が、指導者への美意識を生む。
それが国民の一体性意識を高める面もあるのだ。





<国際社会での義務>

 だが、それは国内でのことだ。
分祀はすぐれて国際的な政治問題である。
それは国際社会における義務なのだ。

 ところが日本は政治のトップまでもがそれをわからない。
「他国の政治問題に口出しするな」などといっている。
国際社会ではこれは素っ頓狂な言葉なのだ。

 日本がシンボルの機能に無知蒙昧なままでいるので、隣国民族である中国人としては、過去に受けた残虐行為を訴求し続けるしかない。
諸事例を提示し「忘れるな、思い起こせ」と訴求し続けるほかなくなる。

 ところがそれは日本人には、自国民全体への非難メッセージに聞こえてしまう。
これを耳にし続けると、日本大衆の心には、やり場のない怒りが蓄積していく。
これが嫌中意識を生んでいく。

 同時に、中国人も自らの発するメッセージで、悲惨な体験を再想起し、それによって自分を傷つけ、トラウマを深めることにもなる。
こうして、このメッセージは双方の心中に恐怖と憎しみと呪いの意識を蓄積していく。

 歴史事態は、50パーセントくらいまでは、緩慢に進行する。
だが、残りの半分は一気迅速に実現する。

 蓄積されていく怒りはひとつの偶発事件によって暴発しうる。
両国民は、まるで悪魔が仕組んだかのような道を、それに向かってなすすべもなく前進している。
我々は、昔の悲惨さに戻ってはならない。
そのため、「国際社会の義務として」一日も早く分祀をすべきである。

(以上)






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(臨時版3) Sabiaさんとの対話

2014年10月18日 | 聖書と政治経済学




前回の(臨時版2)にSabiaさんがコメントを下さいました。
この方との交流はもう20年近く続いていて、よくつきあってくださると感謝しています。
素晴らしい読書家で、教養人で、情報エンジニアでおられます。

このたびのコメントも、考えさせられるものがありました。
コメント欄に置いておくのはもったいなので、鹿嶋の応対とともに、本文に転記させていただきます。
(前にも、そうさせていただいたことがありました)

訪問者の皆様、これに関して思うところあれば、是非、コメント欄に記してください。




・・・・・・・・・・・
(Sabiaさん)

主の恵みを実感すること (SABIA)
2014-10-07 20:08:15


結局、人間の努力なんてたかが知れている、ということに尽きるのでしょうけど、
それが納得できるためには、圧倒的な主の恵みを実感できてこそではないかと思います。

狭い井戸の中で、いくら精密に論理的に考えてもわかるものではない。
大海を知らなければ始まらない。

人間中心の考え方から自由にならなくては、
何事も努力次第、努力に比例するはずだという思いから逃れられないと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(鹿嶋)

救いと受賞との峻別 (鹿嶋春平太)
2014-10-11 08:56:04


この問題をSabiaさんと議論するのは、はじめてですね。
「頼るだけ」となれないのには、もう一つ原因があると思っています。
「救い」を得るのと、「賞を受ける」のとが峻別して認識されていないことがそれではないかと。

+++

賞は、働きによって天国に行った後に与えられます。
働きは賜物をいただいて行うものだと思います。
圧倒的な力は賜物に伴うものです。

対して救いは、ただ頼るだけで与えられます。
その恵みは緩やかで、気がついて振り返ると「ずいぶんと状態が良くなったなあ」と感じられるようなものだと思います。

「救い」は自分の意志で選び取るものだと思います。
「頼るだけ」程度のことは、人間はその弱い力でもってしても、意志でもってなしえます。
「アホらしい、頼らないよ」と思う気持ちの中で、
「でも、ここはチャッカリ頼っていただいておくか」と選択するだけのことです。

+++

圧倒的な恵み、つまり、賜物を体験するには、まず創造神の側に移動しなければなりません。
賜物は、救いを受ける資格を得た人だけに、与えられるからです。

そして、その移動は、自分の意志で容易に出来るのです。
すると、「圧倒的な恵み(賜物)を受ける」可能性も開ける。

賜物は創造神の方から、一方的に与えられます。
賜物は、創造神の選びによるのですね。

まず楽な選択を人間にさせて、選択した者から選んで賜物を与える。
この点、福音の論理というのは、実によくできているなぁ、と感心します。

+++

この順番を認識し損ねて悲壮感に酔い続けている人が、日本にはとても多いように、鹿嶋にはみえます。

本末転倒して勝手に酔っている。

「何かを得るには克己勉励によるしかない」という姿勢が骨身に染みこんでいるのでしょうか。


福音の一階メッセージを伝える聖歌(490番)を掲載しておきますね。
(クリックすると、曲が流れるはずですが・・・)









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(臨時版2) 「どちらの側に入るかが根本」

2014年10月04日 | 聖書と政治経済学




前回の記事を見て、口頭で次のような見解をくださった方がいました。

~「只頼るだけという、そんな程度の信仰で救われるとは、とても思えない。
福音のために、命をかけて働くほどの信仰を持った人もいるではないか。
そのために殉教した人もいるではないか。

そういう人が救われるのはわかる。
だけど、ただ頼るだけだった人が、こうした深い信仰の人と同様に救われるとは、どうしても納得できない」

~こういう見解です。

実はこれはよ~くある意見です。
そこで鹿嶋はそれへの応答を、このブログに書いておこうと思います。
**君、お読みくださいね。







ここでは結論だけしか言えませんが、聖書には、この世は悪魔の支配下にあるという世界観があります。
一時的ではありますが、悪魔はこの世では牢名主のような権威をもつことを認められているのです。
(これについては、「聖書の空間理念とその説明」のところで述べてありますので、それを参照してください)

この世界観の中では、人は皆産まれて以来悪魔の支配下、悪魔の側に存在していることになります。
自然なままでは、悪魔の側に入っていることになるのです。





そこにイエスが現れました。
イエスは創造神です。
彼はこの世にきて「創造神の陣営」を構築します。

するとイエスに頼るのは、悪魔の側から出て、創造神の側についたことになります。





そして時が至って最後の審判になると、イエスの側についた人は天国(創造神の統治が貫徹している天の創造神王国)に入れられます。
悪魔の側に留まったままの人は、全員、悪魔と一緒にブルドーザーでザァッと搔き集められて火の池に投げ込まれることになります。

~大雑把なものですが、これが聖書の示す人類史の大枠です。
そこでは根底的な問題は、創造神イエスの側についたか、悪魔の側に留まったか、になるのす。

この大枠の中では、創造神イエスの側についた人の信仰の程度がどうであるなどは、二次的な問題にすぎなくなります。

そもそも、人間の自力の信仰など、創造神から観たらたかがしれているのです。
深いと言っても、頼っているだけの信仰と大差はないことになる。

だから、頼るだけでいいとなります。
「幼子のように頼るだかでいい」にはそういう深い意味が含まれているのです。




これは奥義です。
けれどもそんな奥義など知らなくてもいい。
只頼るだけでいい、というのが福音の一階メッセージです。

結局、ただ頼るだけでいいのです。








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(臨時版)~福音メッセージは二階建て~

2014年09月21日 | 聖書と政治経済学




ここでまた、このブログ「鹿嶋春平太チャーチ」の全体像を示しておきたいと思います。

チャーチですから、その本道は福音のメッセージを発信することにあります。

いま論じている「戦争発生のメカニズム」は側道です。
本道を進む時に、精神に攪乱要因をもたらす問題に、理解を提供しています。

理解は心を静めるのです。

+++

本道の福音(よき知らせ:グッドニュース)メッセージは、二階建てになっています。




<福音の一階>

一階は、自分個人が「恵み」を受ける方法です。
これは「イエスに頼る心を持つ」だけです。

なぜそうなるかの知識は漠然としていていいです。
漠然としたままで、「今の世も、死後の世も」すべてイエスに頼る・・・それだけでいいです。

不思議なことに、それで心の深い平安が体験できてきます。
物質的、経済的な環境も好転していきます。

これは福音の神秘です。
神秘というと、感情的なものだと思えてきますが、神秘です。
神秘がなかったら、話は福音でなく科学になってしまいます。

神秘主義は避けねばなりませんが、神秘は福音の必須要素です。




<福音の二階>

二階は、福音の一階のメッセージを他者に発信する際に必要な知識です。

イエスに頼る心を持つと、福音の恵みが体験できていきます。
すると人の心には、この喜びを愛する他者にも持たせたい~との思いが発生することが多いです。

その際には、一階のメッセージを超えた知識が必要になってきます。
発信を受ける人の心には、受け入れるのに、多くの障害があるからです。


+++

我々は、生まれて以来多くの事象を五感で経験認識してきています。
そのいくつかをまとめて一般化し、一般論的な知恵としてもってもいます。
科学認識の成果である医学知識も持っています。

それらとの関係が、心の中でつかないからでしょう。
それらの、我々が既に持っている五感ベースの知識との繋がりが、つかないのです。

関係がつけられない情報を受け入れたら、意識は分裂気味になり、心の安定が崩れます。
だから、まずはとにかく、否定しておくしかない。
そういう反応が心理に起きて、一階メッセージを肯定的に受け入れられないのです。





<幼な子のように>

このことにつき、イエスはこう言っています。
彼が「父」とよぶ創造神に語りかける中でこういう旨のことを言っています。

「父よ、あなたはこの真理を、世の知識が豊かな者ほど、わからないものとされました。
幼児のように、知識のないものほど、わかりやすいものとされました。
あなたのなさったのは、何と妙(たえ)なることでしょうか」~と。

そして、イエスはこういってもいます。
「結局、幼な子のように受け入れる者が、最も救われやすいのだ」~と。




<神学>

だが、神秘の世界のメッセージは、「見えない世界」の話です。

ところが今述べたように、現実に我々は生まれて以来、
五感経験をベースにした知識、すなわち科学的知識を蓄積してきています。
これとの関係をつけないことには、われわれの「知性」は納得しません。


そこで、発信者たちは、既成の経験知識との関係をつける知的作業を、自然にするようになりました。
これが神学です。

英語ではセオロジー(theology)です。
これは学問科学でいう「理論(theoly)という言葉の語源にもなっています。

鹿嶋は、この領域の知識のためにたくさんの言葉を費やしているわけです。
それに「側道」情報を添えている。

以上がこの「チャーチ」の全体像です。
これを意識におきながらお読みいただくと、このブログの理解は飛躍すると思います。






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35 <戦争発生のメカニズム>2~獣性は上昇する~

2014年09月18日 | 聖書と政治経済学



人の獣性は、平時には知性のコントロール下にあります。

だが、それは容易に上昇もしやすいものです。
上昇して、知性の上位に立ってしまうこともあります。

いわゆる「喧嘩早い」人というのは、この獣性上昇が比較的容易に進んでしまう人でしょう。
また、いわゆる暴力団員になる人も、比較的獣性が上昇しやすい気質の人が多いでしょう。
彼らが一般人を脅す時には、この獣性上昇の容易さを示唆して恐怖を与えるのでしょう。

だが、程度の差こそあれ一般人の心にもこの性質は存在しています。


               






<戦時体制下での獣性上昇>


国が戦時体制に入ると、その中にいる国民には獣性上昇の力が加えられます。

たとえば、人民は、昔で言う赤紙一枚で徴兵されます。
彼らは戦場に兵士として送られる予定で、兵舎で訓練されます。

第二次大戦中の日本の兵営では、古年兵が夜ごとに初年兵を並ばせてビンタをしました。
これには、古年兵が加虐趣味を満たす動機もあります。
新人時代に先輩にやられたことを、新たな初年兵にやって気を晴らす動機もあるでしょう。

だがそれは、初年兵の心にいち早く獣性が浮上する慣性を形成する効果も発揮しました。

戦場の前線現場では、敵を殺さなければ殺されます。
その際、知性が「相手も父母がいるだろう」、とか、「妻子がいるだろう」、とか思ったら殺せません。
獣性が上位にきていないと殺せないのです。

知性はそれを悲しむでしょうが、前線に出る兵隊にはそれをさせねばなりません。

+++

知性の納得抜きで夜ごと殴られると、初年兵の獣性も上昇が容易になっていきます。
獣性が刺激を受けたら速やかに知性の上に浮上しやすくなるのです。
こうすると初年兵は、戦場で比較的知性との葛藤に苦しまずに敵を殺せるようになります。

ヒョウがシマウマをくい殺すような、殺戮行為が自然に出来るようになります。





<極刑にしてください!>


日中戦争で日本は敗戦国となりました。
中国大陸においても終戦後、多くの日本兵がは戦犯として裁かれました。
かつて、中年の日本兵が中国での法廷で裁かれた場面の記録フィルムが、テレビ放映されたことがあります。

中国人の老人が証人として登場し、当該日本兵の残虐行為を涙ながらに証言しました。
突然家に入ってきて、無抵抗な息子夫婦と孫を家畜を殺すように斬り殺した、と。

被告の日本兵士は、法廷でその行為を悔い悲しみました。
自分がなぜあのときそんなことを平気で出来たかがわからないままに、「私を極刑にしてください!」と絶叫していました。

戦の間には彼の意識は獣性主導になっていたので、自然に殺せたのです。
そして終戦で捕虜となり、もう殺し合わなくていい状況におかれました。
すると彼の獣性は下位に沈み、意識が知性上位にもどりました。

獣性上位にならねば、国民としての役目を果たせないところに戦争の呪いがあります。

(続きます)








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34 <戦争発生のメカニズム>1

2014年09月04日 | 聖書と政治経済学





このブログ「鹿嶋春平太チャーチ」のチャーチは教会です。

チャーチでの活動には本道があります。
それは「霊のいのちの回復」活動です。




イエスは~「人間 = 肉体 + 霊(霊魂)」・・・であることを明確に示しました。

肉体は短期間に死んで消滅します。
霊は永続します。

~人はまず自分の霊魂を知るべきである。
霊魂の喜び、祝福を優先的に求めるべきである。

なのに人は肉体だけ考えて、霊のことを考えない。
霊を考えねば、死後の永遠なことを考えない。

~こう指摘して、イエスは霊が祝福を受ける方法を人間に提供しました。






~創造神は今の人類の祖先アダムを創り、その中に「いのちの霊」を吹き込んだ。
かくして人は、創造神と直接交われる存在になった。
これを妬んだ悪魔は、その交信の道を、切ってしまおうと誘惑し、そして、成功した。

もう「いのち」という霊のエネルギーは、人の霊に吸収・充電されなくなってしまった。
交信のパイプを切られた人間の状態が「罪人」である。

これは道徳的な罪をいうのではない。
霊の罪は人を根底的に殺す。

「罪の報酬は死」、という。
人間は創造神の「いのちエネルギー」が入らなくなり、死んだのだ。

イエスはそういう人の世に来られて、もう一度、通路を形成してくださった。
人間は「罪によって死に、イエスによって再び生きる道を与えられた~。

+++

~聖書はそれを証言しています。

その証言を解き明かし伝える活動が「チャーチ」の本道なのです。






それからしますと、「聖書と政治経済学」の話は、これはもう「側道」です。
政治経済学は、人間の肉体の生命が安楽の内に全う出来るすべを考えます。
政治経済学の知識はその成果なのです。
それに限らず、医学、物理学、化学、法学などの学問(科学)というものは、
みなすべからく肉体が生命を安楽に全うするすべを探求する知的活動です。

ところが情報化時代になって、この側道の方のトラブル情報が大量に流通してくるようになりました。
すると人は側道の事柄にわずらわされて、「霊のいのちの問題どころでない」、という心理になりがちです。

鹿嶋は、この「側道の問題」にある程度の心理的解決を提供する必要を感じました。
そこで、政治経済学的問題への解説を提供しようとしてきました。

しかし、チャーチが本道を進むべきことに変わりはありません。
そのために、ここで最大の側道問題に理解の筋道を与えておいて、本道に戻りたいと思います。

人間の肉体生命の安楽な全うを妨げる最大の要因は「戦争」です。
昨今、集団的自衛権の問題を初めとして、戦争への危険の増大が叫ばれるようになっています。
そこでこの戦争発生に関する一つの理解を提供して、読者諸氏の「世の思い煩い」を軽減できたらと思います。






<戦争発生のメカニズム>


戦争を発生さす誘因は複雑です。

だが、その基本形は昔の部族国家間での衝突・紛争にあります。
そこでこれを素材にして、人間の戦争心理を考えることから始めようと思います。

近代の国民国家間の戦争はそれが複雑化したものです。
そこで古代の部族間の争いを、人間の個人心理を基底において考える。
そうするとわかりやすくなると思います。





<動物的本性と知性が併存>






人の意識は、大きく分けて、動物的本性と知性とからなっています。
心理学者マズローは、有名な欲求五段階説を残しました。
彼は人間の欲求を生理的欲求と精神的欲求との二つでとらえることから思考を開始しています。

生理的欲求とは、食欲、睡眠欲、性欲など、および、安全欲求(身の安全を求める欲求)です。
これは動物的本性に対応しています。

精神的欲求とは、愛情欲求、尊敬欲求、自己実現欲求などです。
これは知性に対応しています。

要するに、人の意識は肉体的本性から発するものと、知性活動から発するものとからなっている~というのがマズローの基盤見解です。

鹿嶋はその認識は妥当だと思っています。





<動物的本性には獣性が含まれる>

そして鹿嶋は、この動物的本性には獣性が含まれているとみています。
人の意識には間違いなくこの性質が存在するようなのです。

獣性の典型は、アフリカのヒョウやライオンがシマウマを襲う行為にみられます。
彼らはシマウマなどの群れを追いかけ、群れから遅れたものにかみつき殺し食べます。
そこには殺されるものへの同情や哀れみは皆無です。

そして人間にもこのたぐいの心理本性があるのです。

我々一般人には、それを直接観察する機会はもてません。
特に、平和の時代には、それが発露した姿を現実の中に観察できる機会は日常的には少ないのです。

だが、創作劇の中では描かれています。
かつてのシリーズテレビドラマ「必殺仕置人」がその一例です。
そこで正義の仕置き人が悪代官や悪徳商人を殺す場面に、人の獣性がリアルに描かれていました。

仕置人が裏社会でなすお仕置きは、毎回クールそのものです。
これら悪者に対する憐憫の情などは、みじんもありません。
人間にも、獣性があるのです。






<相手の獣性に怯えて攻撃に突入>

獣性はお互いによく知り合っている人間同士の間では、知性の上位に来ることは通常ありません。

だがよく知らない相手に対してはそうではない。
相手の心の中で獣性が知性より優位になって自分を攻撃してくる可能性を感じて、恐れを抱きます。

古代には、有力者の家族は大家族でした。
その有力家族が他の家族を従えて部族を形成しました。
これが、家父長が生殺与奪の権を持ったり、闘争集団を従えたりして国家の形態をなしていました。

こういう部族があちこちに出来ました。

生産力の弱い時代です。
みな飢餓の危険の中で生きています。
それ故、部族がより安定的な食生活を求めて移動することも多くありました。

すると他の部族に接触することも起きます。
彼らは互いに、相手の獣性優位の行動に恐怖を抱きます。
これが長引くと、このテンションに神経が耐えられなくなます。

そこで、「やられる前にやってしまおう」、という心理に自然になります。
そう考えることによって、テンションの苦痛から解放されようとするのです。
その結果部族間戦争があちこちで起きました。

これが戦争勃発の基礎メカニズムです。

+++

有力部族が他部族を従えると、今度は、各地に小国家が出来ていきました。
日本の戦国大名国家や欧州各国での諸侯国家がそれです。

これら小国家のあいだにおいても、上記と同じ原理で戦争が起きました。
人間社会は、基本的に戦争が起きやすい仕組みになっているのです。


(続きます)








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『自己神欲が諸悪を産む』の更新方法

2014年07月30日 | 聖書と政治経済学




・鹿嶋春平太『自己神欲が諸悪を産む』をKindle版で購入して下さった読者の皆様へのお知らせです。
・このほど、コンテンツを更新しました。
・更新は無料で、下記の手順で速やかに出来ますので、よろしくお願いします。

・更新は大幅で、改訂版とも言うべきものになっていますのでお勧めいたします。
・方法は二つあります。




<更新手順1>

①: amazonnのホームページの右上にある、アカウントサービスのメニューから MyKindle をクリック。

② 出てきたページで、サインインする。

③ MyKindle内にこれまでに購入した本のリストが出てくる。

④ 更新したい本の 右側にある「アクション」にポイントを合わせる。

⑤浮上するメニューから「コンテンツの更新」を選択。

⑥更新を希望する端末を選ぶ(複数持っている場合)

⑦ 「端末に配信する」をクリックする。


~これで、購入者様ご自身の手での更新が可能になります。
万一、不都合が出ましたら、次の方法でお願いします。



<更新手順2>

1.https://www.amazon.co.jp/gp/help/customer/contact-us? をクリック。


2.サインインする。

3.「カスタマーサービスに連絡」のページが出る。

4.「Kindle」をクリックし、自分のもっているkindle端末を選ぶ。


5.「お問い合わせ内容」で「Kindle本について」を選ぶ。

6.「詳細内容」で「その他」を選ぶ。

7.「おすすめの問い合わせ方法」で、「チャット」を選ぶ (1分で担当者が出る)。

8.そこで、本の題名を言って、コンテンツを最新にして欲しいと伝える。

9.「しばらくお待ち下さい」→ 更新 →「更新しました」との応答を得て、完了。


~なお、 4.では端末は一つしか選べませんが、複数持っている時には、チャットで「全てを更新して下さい」と伝えれば応じてくれるようです。

~また、更新すると旧コンテンツに書き入れたハイライトや書き込みはすべて消えます。

そのため更新は読者個々人が申し出るシステムになっているようです。

「全ての購入者の端末を更新して下さい」と著者が言って、一斉にやってもらえたら便利なんですけどね。

(以上です)


http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E7%A5%9E%E6%AC%B2%E3%81%8C%E8%AB%B8%E6%82%AA%E3%82%92%E7%94%A3%E3%82%80-%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E7%9F%A5%E6%81%B5-%E9%B9%BF%E5%B6%8B-%E6%98%A5%E5%B9%B3%E5%A4%AA-ebook/dp/B00I993P2O/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1406679697&sr=1-1&keywords=%E9%B9%BF%E5%B6%8B%E6%98%A5%E5%B9%B3%E5%A4%AA%E3%80%80%E8%87%AA%E5%B7%B1%E7%A5%9E%E6%AC%B2%E3%81%8C%E8%AB%B8%E6%82%AA%E3%82%92%E7%94%A3%E3%82%80






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33<創造神イメージと広域集団運営能力>

2014年06月03日 | 聖書と政治経済学



ここで「広域集団」ということばを導入しよう。

広域集団の代表は、株式会社と国民国家である。
株式会社は、個々人の少額の資金を株券を発行して集め、広域にビジネスを展開する方式だ。
国民国家は、同一言語を話す民族全体を集合させて、人民の主要関心事を国家に置かせる方式だ。

これらを運営する能力が近代統治力である。
統治力はガバナビリティともいう。

そしてこの近代的能力を産む精神土壌は、ほとんど創造神の神イメージによって形成されるものなのである。




<在物神文化>

人間は自然なままでは、在物神文化を創っていく。
この土壌からは、個人商店や地方豪族国家が自然発生する。
地方豪族国家は、日本の江戸時代には「藩」という形を取った。

これからすると、株式会社や国民国家は、広域集団なのだ。




<維新指導者がなした広域集団化>

明治維新国家政府の指導者たちは、西欧の創造神文化土壌の成果を、コピーし、なぞって強引に取り入れた。
集団の広域化と、その運営技法を強引に導入した。

渋沢栄一は、幕臣だったが、幕末にフランスに派遣され西欧の株式会社に感嘆した。
そして、明治日本にこれをひたすら移植し続けた。

西郷隆盛ら明治政府指導者は、版籍奉還・廃藩置県という荒療治をして日本を国民国家に改造した。

これら指導者は、日本の植民地化、属国化の危機に驚嘆して突発的に指導的地位に立った。
武士階級から、たまたま大集団運営能力を持った器が少数出た。




<司馬遼太郎氏が見た夢>

司馬遼太郎氏は、これを日本人本来の能力とみて、それへの能力回帰を歴史小説という手法で訴え続けた。
だが、明治の大集団運営者の出現は、実のところ突発的現象であった。

以後、大正、昭和と時が流れる中で、広域集団運営能力を持った人材は枯渇していった。

そういう精神土壌がないので、これは必然的なことだったのだ。

こうして国家レベルでの統治能力低下がものすごいスピードで起きる。
在物神のみという文化土壌では、この劣化現象自体が自覚できない。

司馬氏は昭和の日本にこの現象を見て驚きあきれ、憤慨の中で憤死した。




<天皇とマッカーサーの会見>

戦前までは天皇は国家元首であり、国家事項の最終決定権者であった。
彼は戦後にマッカーサーと会見したとき、「日本人には軍事手段を持たせないことを希望した」という。
憲法9章の「戦争と軍備の放棄」の条項が出来た原因には諸説あるが、鹿嶋はこの依頼は事実だったと確信している。

昭和天皇は、政権を握った軍部指導者の国家的決定のすべてに伴走してきた。
戦後振り返ってその無能ぶりにほとほとあきれ、絶望的な気分になった。
日本人には武器を持った大集団の適切な運転できない。
ここで刃物を持たせたら、またどうなるかわからない。

天皇の依頼は、十分な信憑性を持った事実だと鹿嶋は確信している。




<戦後の日本統治者も同じ>

アメリカは、戦後日本の武力運営を一手に引き受けてくれた。
そのおかげで、日本は繁栄できてきた。

だが、その中で、国家統治者のガバナビリティの幼稚さは続いている。
続くべくして続いている。

国際社会で、日本の国家運営担当者は、失笑されつつ応対されている。
まともに相手にされないで応対されている。

民主党政権者はその極地を示したが、自民党政権者も基本的には同じだ。

これは起きるべくして起きる現象である。
国家政府だけでなく、大規模株式会社にもそれは起きている。
東京電力という広域集団の中で、運営能力の幼稚化と、それによる成員の能力劣化、諸部門での運営能力劣化は露呈した。

この中で、米国の指導下から独立したら、悲劇は必然的だ。
戦前に劣らぬ国家暴走が起き、人民は悲劇のどん底に陥れられるだろう。




<創造神の神イメージを学ぶべき>

日本人が創造神の神イメージを学ぶ必要は、もう「待ったなし」だ。

かといって、従来の在物神を捨てなくていい。
そもそもそんなことは出来ない。
伝統文化には、民族の精神を潤す力もあるし、それはそのままでいいのだ。

そのままでいいから、創造神の神イメージを心して学ぶことだ。
これによって、「自分たちの伝統的神イメージが在物神のそれである」ことを初めて自覚できる。
その長所・短所も初めて距離を置いて認識できる。

この効果は計り知れない。
これが精神の覚醒なのだ。
もちろん、これですべてが解決するのではない。

だが、後のことは、民族の知性とそれこそ「神のあわれみ」に希望をおく以外に、道はないのだ。







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32<創造神概念から展開される世界観>

2014年05月05日 | 聖書と政治経済学





前回、創造神の神イメージは、世界観を作り出していくと述べた。
その有様を、聖書の中に、今少し具体的にみてみよう。

在物神は、もののなかに存在するとイメージされる神である。
この神は、もののなかに感慨として感じられる神であって、言葉による定義がない。
神の理屈を持たない。

一方、万物の創造神は、言葉でもって説明される(定義される)神のイメージである。
言い換えると、概念を持った神メージである。

概念に記号をつけたのが言葉だから、言葉で定義される神イメージと言ってもいい。

すると、人間は「それなら筋としてこういう属性・性格も持っておられるはず」という思考をすることが出来る。

このように、神の性格を(聖句で確かめながら)論理的に探っていく知的活動を「神学」という。
神学は英語でセオロジー(theology) で、これは科学で言うところの理論(theory)の語源になっている。

いまその思考を若干やってみる。
読者諸氏は、しばし、神学をお楽しみいただきたい。




<創造神の属性>

まず第一に、万物の創造神なら、その方は時間的無限者のはず・・・という筋から行こう。
つまり、無限の過去から無限の未来にわたって存在する永続者ということだ。
なぜか?

もし創造神に存在に初めがあるならば、それ以前のものは「自分が創った」とは言いがたい。
だから無限の過去から存在し続けておられる方となる。

同様なことが、未来についてもいえる。
もしもある時点で存在に終わりがあるならば、それ以後のものは「自分が創った」とはいえない。
だから、無限の未来にわたって存続する方となる。

以上二つをまとめると、「万物の創造神は、時間的無限者」という道理になる。

第二に、それに似たことは、空間的にも言える。
万物の創造神ならば、その方は、空間的にも無限の広がりを持った無限者であるはず、ということだ。

なぜなら、もしも空間的に有限な存在ならば、その外側のものは「自分が創った」とは言いがたいからだ。
以上二つをまとめると、万物の創造神は時間空間的無限者ということになる。


すると第三に、さらに次のことも言えるようになる。
時間的空間的無限者ならば、万物の創造神はあらゆる場所にあらゆる時点に遍く(あまねく)存在するはずだ。
これを遍在という。
万物の創造神は遍在者という道理にもなるのだ。

第四に、遍在するなら、その方は移動することがない方だともいえる。

移動というのは、自分が存在しない地点に動いて行くことである。
だがあまねく遍在する方には、その必要がない。
万物の創造神は動くということがない方なのだ。

第五に、遍在者ならば、全存在にわたって全てを認識されることになるだろう。
故に、万物の創造神は全知者ともなる。
我々人間の全時点における言動についても、全て認識しておられるという道理になる。

第六に、もし「最後の裁き」のようなものが将来あるならば、その方は人間を全員正確に裁かれるだろうとも言える。
遍在者は、全員に関してすべてを認識しているからである。

第七の属性は、「創造者」であるということからくる。
それは、万物の創造神は、エネルギーの総元締め、源のはずということである。

これは近代物理科学の知識によって出てくる道理だ。
いまや物理学では、「エネルギーと物質とは相互転換しあう関係にある」ことを明らかにしている。

すると、創造神が物質を創造するわざとは、「エネルギーを物質に転化させるわざ」ともなる。
であれば、万物を創造した神はそのエネルギーの源で、総元締めということになる。




<御子イエス>

ここで御子イエスについても、神学的に考えておかないわけにはいかない。
創造神の御子イエスは、創造神以上にポピュラーな「みんなが知ってる」聖書の主人公だからである。

御子イエスはこの世に人の姿で現れる前には、霊としての御子イエスである。
そして彼は、実は創造神の創造のわざの協働者と神学上なる。

「ヨハネ伝」冒頭の聖句はそれをいっている~、

・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「はじめにロゴス(理法)があった。 ロゴスは創造神と共にあった。 
ロゴスは創造神であった」(1章1節)
「この方は初めには創造神とともにおられた」(1章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・

「ヨハネ伝」の文脈ではこのロゴスが御子イエスとなっている。
ロゴスは日本語で言えば理法である。
そして「全てのものはこの方(理法)を通して創られた」と「ヨハネ伝」はいっている。




<創造の協働者>

では理法とは何だろう。
それはエネルギーを物質に転化する際、その事象を無秩序なものではなく、筋道立ったものに整序する働きだろう。
水という物質を、「すべて、二個の水素と一個の酸素とが結合してなっているように」創造する、といったごとくだ。

ヨハネ伝では、この働きをした存在が御子イエスであるとしている。
そしてそれを御子の「働き」というのではなく、「その理法が御子だ」と言っているのである。

またヨハネは、「無限者である創造神は、この御子を当初理法の霊として自らの内に抱き持っていた」としている。
それをヨハネ伝の著者ヨハネは「ロゴスは創造神とともにあった。ロゴスは創造神であった」と記している。

ともあれ、後に地上の人間の中で様々な活動をする「人の子」イエスは、原点ではロゴスという創造霊だったと、聖書は言っているのである。

霊としての御子イエスは、その意味での協働創造者であった。
これが聖書にみられる論理である。

創造神はこの御子(ロゴス)と協働して、最初に、巨大な霊的空間を作るのだ。
これが天国(天の創造主王国)で、天国は被造空間なのである。




<御子は父ほどに偉大ではない>

さて聖書では御子もまた力ある存在で、多くのわざをしていると記されている。
だがその力は、父なる創造神が与えてくれるエネルギーによる。

御子のなす創造のわざもまた、父からのエネルギーを被造物に転化さすことによってなされるのだ。
創造神がエネルギーの源で、総元締めならば、神学上そういう論理になるのである。

それが示すように、御子は父なる創造神ほどには偉大ではない。
御子イエスもまた「父は私より偉大」といっている。
そして力あるわざをするときには、常に父に祈り求めている。

でも御子は、父なる創造神と協働して創造のわざをする。
その協働の仕方にはその主導状態によって二つありそうである。

+++

一つは、創造神が主導する創造のわざである。
天国という有限の被造空間をつくる創造のわざは、この創造神主導だったと思われる。
創造神は、この空間を、御子イエスに「相続させるために創った」というのだからである。

相続というのは、我々人間の間では、親が死ぬとなされる。
だけど、父なる創造神は永続者で死なない。
そういう世界で「相続させる」というのは、「与える」ということになる。
がともあれ、この天国の創造は創造神主導による創造だとみられる。

+++

ところがそれ以降の創造のわざは御子主導でなされたという道理になりそうだ。
御子は与えられた天国の統治、運営をすることになるからである。

まず御子は天国という霊的な被造空間に父なる創造神の名を置く。
(この名がイエスであることが後にわかってくるが、それについてはユーチューブの「ヨハネ伝解読」49~「父・子・聖霊の名とは何か~を参照されたい)


そしてそこに造霊、天使(御使い)を数多く創る。
その際、御子は天使に自由意志をもたせる。
その自由意志でもって父の名を賛美させようとする。

コンピューター用語でいうと、御子はそういうプログラミングをし、実施したことになる。




<聖書の世界史は、御子による「バグ修正」物語>

ところが御子は父なる創造神のように完全な存在ではない。
それもあってかこのシステムからは、バグが生じた。

具体的には、賛美を担当する天使の長が、自由意志を用いて、自ら創造神の名のように賛美されたいとの欲望を抱いてくれてしまった。

そして、天使長は天国の一角で、配下の天使に自分を賛美させ始めた。
これは想定外の事態である。バグである。

そこで御子は自らこのバグの修正に入っていく。父なる創造神に祈り、導きと助けを得ながらの修正である。
この御子によるバグ修正が、全世界空間の歴史展開の基本的大枠に聖書ではなっている。
(それはもう、壮大な修正作業となる)

以後のこの作業をもう少し具体的に述べると・・・・、
霊イエスは天国の一角に宇宙という暗闇を創る。
そこに創造神に反逆した天使たちを追い落とし、閉じ込める。

その宇宙空間に地球を創り、そこに動植物や人間を創る。
以後、おなじみの物語に繋がっていく。

人間が、悪魔にだまされて原罪を犯す。
御子イエスがマリアのおなかを通して、人の姿で地上に現れる。

そして、「人の子」イエスは罪がないのに十字架で刑死させられて、人の原罪の代償を創る。
そうやって、信じるものを罪から救う。
・・・等々となる。

こうした一連の物語が、時間空間的無限者である、万物の創造神の概念を出発点として展開するのである。




<在物神の神イメージからは>

こうした論理展開は、在物神の神イメージからは生じない。
在物神は、もののなかに存在すると漠然とイメージされる神だからである。

この神は、もののなかに感慨として感じられる神であって、言葉による定義がない。
概念、理屈を持たないので論理展開の生まれようがない。

それは人がものを見るとき、そこに内在すると漠然とイメージされ、短時間に忘れられる神である。感性に受信された内容は短時間に消えるのだ。
それはまたその物質を見るとき、意識に浮上し、そしてまた忘れられる。
そういう神イメージだからである。







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31<日本と欧米の神イメージ鳥瞰図>

2014年04月21日 | 聖書と政治経済学



<日本の神イメージ鳥瞰図>


前回には、世界の神イメージを鳥瞰するための物差しとはどんなものか、その概念を述べた。

今回はその物差しを具体的に図示し、その上に、具体的な神イメージ形成媒体を位置づける。
具体的神イメージ媒体の提示は、日本の事例から始めよう。





最初に図の矢印線の上部を右から左に見ていこう。

まず、巨木、巨岩が出ている。
これは日本では各地の田舎で巨木や巨岩の内に神がイメージされ、礼拝されていることを示している。

その左側は動物だ。

日本では動物にも神が内在するとイメージされている。
狐や蛇などが祀られ、礼拝されている。お稲荷さんは狐を祀った神社だ。


その左側は骨(人骨)である。

仏舎利とは釈迦の骨のことである。
東南アジア諸国には、これに神が内在するとイメージして拝む国があるが、日本人も同じ心情だ。
それに先祖の骨。
これに神(霊)が内在するというイメージは、日本人には極めて濃厚だ。

その左側は社殿だ。

日本の社殿礼拝は、在物神礼拝が発展したものである。
日本人は社殿を作り、その中に神が臨在すると考えて礼拝する。
だからその本質は在物神礼拝である。

社殿の中にイメージされる神は様々である。

各地の神社には、昔からその地の有力な豪族であった氏(うじ)が祀られている。
いわゆる氏神様がそれである。

武将の霊や知者賢人の霊も祀られている。
東京には日露戦争での戦勝将軍の霊を祀った神社もある。
全国の戦死した軍人集団の霊を祀った神社も九段にある。

さらに左には、仏壇を記した。

仏壇はいわば神殿の個人所帯版だ。
そこにはその家の先祖の霊がいるとイメージされて祀られている。

その左は彫像で、これはいわば在物神の容器である。

代表は仏像で、そのうちに神(霊)が存在するとイメージされている。
観音像は観音菩薩が内在しているとイメージされている像だ。

お地蔵さんは地蔵菩薩の内在をイメージする像だ。
これは石で造られている、日本の各地の道路や路地には地蔵が沢山ある。




<創造神ゾーン>

今度は左の端から、矢印線の上を右に見ていこう。
こちらは創造神を示す記号である。
具体的には言語(言葉)だ。

言葉自体が神を含むものとして拝されることはない。
それは創造神のイメージを人の心に形成させる信号である。

万物の創造神の神イメージは、言葉という記号を組み合わせ、連ねることによって示されるのだ。

言葉は造形的な形をもっていない。
それゆえ、「非造形記号」と赤字で記してある。

+++

造形的記号もある。
十字架やイエス像、マリア像がそれだ。

これらは像ではあるが、在物神の内在をイメージさせる像ではない。
本来は、万物の創造神イメージを形成させる信号たることを意図して造られる。

だが、聖書では創造神を像で示すことを厳しく禁じている。
「十戒」の第二の戒め「私(創造神)を像に刻むな)」がそれである。

おそらく一つには、人間の在物神形成本能を見通してのことだろう。
つまり「像にすると人は、時と共にその中に神が内在するというイメージを持っていく」という洞察があると思えるのだ。

+++

だがカトリック教団はゲルマン民族にキリスト教を布教する際に、それを使った。
教団は、言葉にとって代えて像で示すことを聖書が禁じていることを承知で、造形物使用に踏み出した。

カトリック教団は紀元後392年以来西ローマ帝国の唯一国教として統治に参加してきた。
だが帝国は476年、ゲルマン民族に征服された。
そこで教団はこの新支配民族への布教を志した。

ところが、当時、ゲルマン人は文字をもたなかったのだ。
口伝だけによるカトリック思想伝道ではその範囲に限りが出る。
出来れば、イエス像やマリア像、十字架などの造形物を使いたい。

だが、それは聖書が禁じている。
教団は大いに思案したあげく、ついに造形物使用に踏み切ったのである。

そして実際、以後カトリック配下のキリスト教徒の創造神イメージは、ゲルマン人に限らず在物神イメージ化していった。

そこで、もしマリア像などを図に書き入れるなら、右寄りの、在物神ゾーンに近いところに描くことになるだろう。
だが、話が複雑になるので、取りやめた。




<在物神ゾーンが圧倒的に大きい国>

左右に矢印をもつ線の下方には、在物神ゾーンと創造神ゾーンとを区分する縦の点線が描いてある。
図に描いてみると日本では在物神ゾーンが圧倒的に大きいことが改めてわかる。
在物神イメージ礼拝が繁栄しまくっていて、在物神の神イメージが創造神の神イメージを圧倒しているのだ。






<異民族に征服された経験のない民族>


日本で在物神イメージが圧倒的に生い繁ってきたのは、つまるところは、異民族に征服、支配される事態が起きなかったことによる。

在物神礼拝というのは、時の流れの中でその礼拝の様式が慣習化し、伝統となっていく。
するとその伝統が礼拝様式の存在感を増す。
人民は昔から続いている宗教として、理屈抜きにぞの様式を恐れ受け入れるようになる。
かくして在物神の神イメージの影響力は時と共に強くなっていくのだ。

さらにこの礼拝様式は社会文化の色彩を帯びていって、民族の宗教文化となって固定化もしていく。

+++

だが、宗教文化というのは、異民族に征服されると徹底的に破壊される。
征服者は、自民族の文化による精神支配を確立し、支配を安定化しようとするからである。

日本も、朝鮮を併合した後、その伝統的宗教文化を破壊し、全国にくまなく神社を造ってこの被支配民族に礼拝させた。
第二次大戦の終了と共に日本の支配から解放されると、今度は朝鮮政府が神社の破壊を行った。

+++

宗教心理上の理由もある。

かつては征服者が自らの神を信じて征服戦争をするのが普通だった。
彼らは、自分たちを勝利させた神が被征服地の神々と同居することへの怒りを恐れ、敗者の神を征服地から徹底的に取り除こうとした。
そこで既存の神々が内在すると信じられていた物体を徹底的に打ち壊した。

ともあれ、在物神礼拝によって形成される宗教文化は、征服されると破壊される運命にある。

+++

だが、四面を海に囲まれた日本国では、異民族に征服されるという経験をせずにきた。
その結果、在物神宗教は破壊されることなく、自然のままに繁殖していった。
かくして、在物神礼拝は日本中に蔓延するに至っている。

いまや日本人は「宗教」というとほとんど反射的に在物神宗教のみをイメージするようになっている。

「鰯の頭も信心から」というフレーズもそこからきている。

そこにはこういう思いがある。
・・・物の中に理屈抜きに神の存在を信じるのなら、その物はなんでもいいはずだ。
醜くて臭くて、すぐに腐っていく鰯の頭だって、そのなかに神の存在を信じれば、人はそれを拝するのだ・・・と。

こういう極端な例を挙げて、宗教なんてそんなものだといっているのである。




<境界線を動かしてみえてくる各国の神イメージ状況>

異民族に征服された経験を全くもたなかった国というのは、世界では極めて少ない。
一応の国を造った民族で過去に異民族に征服されたことのない例は、日本民族の他にないのではないか。

現代の国際社会に生きる日本人は、このことを、心して自覚することが極めて、極めて必要である。

その特性を神イメージ図の境界線で示してみたのが上の図だ。
日本の状況は、境界線が極端に左方向によったものとなっている。

では、欧州、米国はどうか。

欧州にも古代の昔には在物神礼拝は伸び伸びと生い茂っていただろう。
だが、紀元後になるとローマ帝国政府が全欧州を統治下に置いた。
そして392年にカトリック教団が、西ローマ帝国の唯一国教になった。

教団は、全人民をカトリック教徒にすべく、在物神礼拝を破壊し続けた。
それは、1517年にルターの宗教改革が起きるまで続いた。
その結果、欧州ではカトリック教団の教理(ドグマという)に則った創造神礼拝が圧倒的に優勢になった。

かくして欧州の神イメージ状況は、上の図に示すならば境界線は大きく右方向に移動する。
そして右端に近いところに位置することになる。


米国でも境界線は右端に近い。
だが、その内容は欧州とは異質である。

米国大陸には、カトリック教団に迫害された聖句主義者(個々人の聖句自由吟味を生命とするキスト教活動者)たちが近世に大量に移住した。
そして彼らの信ずるキリスト教活動方式の思想をベースにして国家を作った。

聖句主義の方式は、信徒のキリスト教活動を最も活発化し力強くする。
それ故、米国での状況を上の図に示すならば、境界線の位置は欧州に似て右端に近いものになるが、聖句主義者たちの生き方が、それを極度に右端に移動させているのである。




<創造神イメージがもたらすもの>

創造神の神イメージでは、神の属性が聖書の中の「言葉で」示される。
それらの言葉(聖句)を論理的につなげると、創造神は時間的、空間的無限者であることもわかってくる。

また、万物を創造した方であれば、全知全能の力を具備しているといいうイメージも出てくる。

さらに聖書には、創造神がこの宇宙と地球と人をどのように作ったかも「言葉で」示されている。
そこから人間はいかにあるべきか、そのためにいかなる社会、国家を作るべきか等に関する考えも自然に出てくる。

であるから、これらの政治課題を常時的に意識し、考える状態に、創造神の神イメージを持つものは自然になっていく。
それ故、この神イメージを多くの国民が持つような国家では、人民の政治資質も向上していくのだ。

国民個々人の政治資質が高いのは、民主制が機能するための必須条件である。
また、そうした人民の中からは、高い政治見識を持った政治家も多く生まれやすい。




<在物神イメージがもたらすもの>

他方、我々日本人は、世界的には異様な神イメージ状況の中で、それが当たり前のような気持ちで暮らし物事を判断している。
その結果、宗教とは在物神を拝むもの、との感覚が骨の髄にまで染みこんでいる。

在物神イメージの神は、その性格や属性が言葉でもって説明されることがない。
それは感慨としてのみ心に抱かれるものだからだ。

そして感慨としての神イメージには理念がない。
理念のないところからは、歴史観、世界観、人間観は出てこない。
心に世界観、人間観がなければ、政治意識や思想が常態的に存在することはない。
そういう意識からは政治資質は自然育成されない。

日本人はその典型であるから、そこには政治見識を持った人が多数生成することはない。





<米国からの脱却を望むなら>

日本人は、早くそのことに気づくべきだ。早く、早く気付くべきである。

気づけば、米国の統治下から脱却して日本は対等な政治行動をとるべき、といった幼稚な考えが、いかに危険なものかもわかってくる。

戦後70年間の日本の平和は、米国の世界統治の中にいたからこそありえたものだ。
その平和があったからこそ、大人は高度経済成長に没頭することが出来た。
狭いながらもマイホームを楽しむことも出来た。
若者も70年代フォークを頂点に創作活動に集中でき、若者文化を創ることができたのだ。

どうしても米国からの政治的独立が欲しければ、まず創造神の神イメージを身につける手立てを講ずることだ。






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30 <世界の神イメージを把握する物差し>

2014年04月18日 | 聖書と政治経済学


前々回、鹿嶋は次のことを述べた。
・人は全体観の中に、物事を位置づけその意味を定める。
・全体観は広範囲であるほど、影響力が強い。
・最大の全体観は「神」イメージを含む全体観である。

今回は、さらに進んで、世界の神イメージのありかたを鳥瞰しよう。
それは諸民族の世界意識・全体意識を知るに役立つはずだ。

世界の神イメージを鳥瞰するには、そもそも人間はどんな神イメージを抱きうるかを、あらかじめ原理的に考察しておくのがいい。
そして、すべての神イメージをその中に位置づけられる物差し・尺度を造るのだ。
するとそれをいわば公分母にして、その上に個別的な事象を分子として位置づけていくことができるだろう。





<在物神>

尺度の一方の極は、人が自然物の中に存在するとイメージする神とすべきだろう。
人間は神覚的動物といわれる。
自然なありのままの状態でいれば、物の中に神を覚えイメージしていく。

たとえば森の中で巨大な樹木に遭遇すると、その中に本能的に神を覚える。
日本ではそれの周囲にしめ縄を張って外部の事物と区別し、内側を掃き浄めてそれを礼拝したりする。
そういう様式はとらないにせよ、他の民族もこの種の巨木のなかには神イメージを抱くだろう。
巨大な岩にも同様な感慨を抱くだろうし、山や川や空にも同じ感慨を抱く。

これらは物の中に存在するとイメージされる神だから、在物神といっていいだろう。



<礼拝は崇高感をもたらす>

人は神イメージを抱くと、それを礼拝する。
真摯な礼拝姿勢は、人に崇高感をもたらす。
そして崇高感は、自分が存在するに値するという自価意識を高める。
すると、道徳・規律を守ろうとする感覚も強くなる。

その結果、人は自らの内に「統一感」を増していく。
それは快適であり、かつ、心身の健康に良い。

だから人は在物神としての神イメージを抱くと、それを礼拝しようとする。
この行為が宗教と一般に呼ばれる。
この場合は、在物神宗教である。



<創造神>

もう一方の極には何を置くべきか。
それは聖書が供給してくれる神イメージ、「万物を創造した創造神」だろう。

在物神は自然物の中に存在するとイメージされる神だ。
創造神はその自然物の外にあって、その全てを懐に含むとイメージされる神である。
物の内にあるとイメージされる神と外にあるとイメージされる神・・・形式的にも対極の条件を持つ。

人の心の内でのイメージの出来かたも対極的である。
在物神は人間の意識に自然にめばえる神イメージである。
創造神は外から言葉で与えられて初めて心に形成される神イメージだ。

社会的影響力においても対極だ。
在物神を礼拝する宗教は多くの人々の心を捕らえている。
創造神を礼拝する宗教は、具体的にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教だ。
今世界人口は、キリスト教圏とイスラム教圏をあわせると半数近くに達する。



<創造神イメージの生成と展開>

創造神という神イメージが、外から言葉で与えられて初めて人の心に形成される状況を少し具体的に見ておく。
それは聖書に詳細に記述されている。

聖書の記述では、創造神イメージは、万物の創造神自らが人間に導入していく。
その方法は次のようになっている。
まず、アブラハムという感性のとびきり豊かな人間を選び、彼に家族を引き連れて父祖の地を出よと命ずる。
彼の家族は、推定200人近くの奴隷やラクダなど動物ももった一大集団である。
父祖の地は、今のイラクの中の一地域である。

創造神は、自分が指し示す方向に移動せよ、と命じカナン(今のイスラエルやシリアのある地域)に導いていく。
途中の地点で定住もさせるが、また旅立たせる。
人は一地点に定住すれば、自然に在物神を造っていく。
それから周期的に脱却させる必要があったのである。

創造神は自分に忠実なアブラハムの子孫を繁殖させて一民族とし、それを自分のメッセージの受け皿にしようとした。
これがイスラエル民族である。彼らはユダヤ民族とも呼ばれる。

創造神はそこから自らの神イメージが全人類に普及するのを遠望していた。
聖書が描く歴史には、そう記されている。




<イエス、創造神イメージに民族の壁を越えさせる>

この神イメージは後にこの民族の中に出現するイエスによって、民族を超えて普及させられていく。
その主たる流れは、まず、発生地エルサレムから地球を西回りする形で今の欧州大陸への普及である。
ついで、近代になると今のアメリカ大陸に普及する。

日本には、戦国時代に欧州からの宣教者によって導入される。
カトリック教団の修道会、イエズス会の修道士が導入する。
その先駆者が歴史教科書に出てくるザビエルである。

明治維新期には米国大陸から来たヘボンを初めとする宣教師がやってきて創造神イメージの伝道に努める。
ヘボンはこの時、聖書の初の邦訳を実施した。
こうしてはじめて創造神の神イメージを記した書物(教典)を日本人は好きなときに読めるようになった。
これは画期的なことであった。



<在物神に満ちた国>

にもかかららず、創造神の神イメージは日本では素直に育たなかった。
全国にあまりに盛んに在物神イメージが生い茂っていたからである。


聖書でのイエスの言葉に似せて言うと、創造神イメージはイバラが生い茂る地に落ちた種のような運命をたどった。
人々は聖書の中から道徳や処世訓を中心的に取り出した。

そのなかで創造神の神イメージは、素直に人々の心に吸収されることはほとんどなかった。

この状態は今日まで続いている。
次回にはそれを神イメージの物差しを使いながら、見ていこう。






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29 <世界理念の不在は短期的利点を生む>

2014年04月02日 | 聖書と政治経済学



前回、日本には人民に深く共有される世界観、全体観がないと述べた。
だが多くの読者は、そう言われても、ピンと来ないと思う。
当然なことだ。人は自分の属する世界しか知らなかったら、その特徴を認識することはできない。
特徴とは、異なった世界と比較して初めて認識できるものだからだ。

世界には、人民に広く浸透した世界観を持つ国々がある。
一つは西欧国家で、これは創造神ベースの世界観をもつ。
この世界観が、究極的に安定した全体観を提供することは前回述べた。

こういう全体観は「ここは長期的・大局的にどうしよう・・・」と思案する場面で強力な思考材料になる。
そういう場面は、個人の人生でも国家の歴史でも実は数多く起きるので、世界観は判断材料として常時重宝される。




<儒教の世界観>

そうした世界観をもつのは、西欧諸国だけでない。
実は漢民族の中国にも人民に深く浸透した世界観がある。
孔子が教えた儒教思想がそれである。

紀元前の、漢民族が小国家に別れていた春秋時代末期のことである。
思想家・孔子は国家観、国際関係観の明確な理念を漢民族に提供した。

彼の世界観は家族関係をベースにしている。
孔子は家族がよく治まるには、家父長が徳を持って家人に対し、家人は孝を持って応えることが必要と説いた。

彼はまた、国家が治まる方策も家族統治から類推して説いた。
君主が人民に徳を持って対し、人民はそれに忠を持って応えるのが、国が治まる秘訣と教えたのである。

この思想は後に国家間の調和形成の手法にも適用されていく。統一後の漢民族国家・中国と朝鮮、日本の関係についてもまた、家族からの類推でもってあるべき関係が説かれていく。

いわく中国と朝鮮、日本の関係は親子のようなものである。中国が親で、朝鮮と日本はその子である。
中国は親としてこの二国に徳を持って対する。
朝鮮、日本には子として中国に忠を持って応じる。
そうすれば国際社会は調和すると考えられた。

ちなみに朝鮮と日本との関係は、朝鮮が兄であり、日本が弟だとされた。
子は親に対して貢ぎ物を持って朝見(臣下が参内して天子に拝謁すること)した。
それを受けた中国は親だから、貢ぎ物の何倍もの土産物を与える。
結局それは、経済的には貿易のようなものとなるので朝貢貿易とも呼ばれた。

それは子たる国家にとっては常に利益になる。だから朝鮮は、短い周期の朝見を甘え求めた。
一方中国はそう頻繁に経済的負担を負うことはできないので、要望にそのまま応じられなかった、という。

なお、日本は周期的な朝貢貿易を中国に対してしなかった。
その意味では可愛くない子だった。
そんな態度をとれたにつけては、四面を海に囲まれることによって形成された独立性の高さも、大きな要因だったろう。

ともあれ儒教では国家間の調和もまた家族との類比において考えられていた。




<儒教思想は超わかり易い>

儒教の思想は、一般人民にも非常にわかりやすかった。家族での親子関係は、庶民もまた日々直接に体験しているからである。
それ故に孔子の家族統治論はわかりやすく、その知識から類推していく国家統治論、国際関係論もまた、庶民にもわかりやすかった。
その結果、中国では孔子の儒教思想は、全人民の心に深く浸透した。




<儒教思想は農民の小作化にも歯止めをかけた>

前述のごとく、人民に広く深く、かつ長期的に浸透した世界観は、「これは長期的大局的にどうしよう・・」というような決定事項で人間の行動を方向付ける。
儒教思想は中国人の行動を力強く方向付けた。

たとえばそれは、小農民が小作化しないという事象も産み出している。
欧州史では、小自作農は時の流れの中で、窮乏化し、大地主に借金を積み重ねていく。
そしてそれが返済できなくなって土地を手放し、小作人化していく。

この動向は欧州では普遍的に進展した。
そして経済学は欧州で生成したが故に、他国の経済学徒これをユニバーサルな経済法則のようにして学ぶ傾向を持った。小農民の小作化はあたかも法則のようなイメージで学ばれたのである。


ところが、この事象は中国では生じなかったのである。
大地主は小農が土地を手放す一歩前で、貸金の返済を赦したからだ。

そこには儒教思想が強力に働いていた。
儒教では家族をベースに人間世界を思考する。それが家族を重視するく心理を形成する。
加えて儒教では、上位の強者が下位の弱者に「徳」を持って対することに至上の価値をおいていた。
この世界観が、大地主に小農民の所有地を取り上げる一歩前で、貸し金の返済を赦すという行動をとらせた。
この事態は、中国が西欧流の近代化を進めるための障害にもなっていく。
だから歴史は一筋縄では捕らえられないのだが、とにかく中国では儒教の世界観がかくも強い影響力を発揮してきているのである。




<日本人に強力な世界観はない>

これをみれば、日本には庶民レベルにまで浸透した強力な世界観がないことを納得できるだろう。
繰り返すが、全体観は「ここは長期的・大局的にどうしよう・・・」と思案する場面で、照応すべき強力なイメージとして働く。

ではそうした全体観を持たない日本のような国では、人民はどうなるか。
参照すべき世界観は、人の行動を制約する面も持つ。日本人にはそういう制約要因がないことになる。
すると人々は、重大局面で目先の実利をストレートに追う行動を取りやすくなる。

実際、日本の明治維新政府がそれだった。
彼らは、西欧の技術を躊躇なく取りに行かれた。

「今の国際社会では、物的暴力手段(軍隊)の強い者が結局他者を征服する。そういう弱肉強食の論理が露骨な社会だ」と彼らは観察した。
そして西欧の軍事技術が対外戦争に有効だと知ったら、迷うことなくいただきにいった。

その姿を司馬遼太郎は『坂の上の雲』の秋山兄弟に明快に描いている。
維新政府の軍事指導者は、兄の秋山好古に、「お前は脚が長いから西洋の騎馬戦術を学んでこい」と、簡単に決定してフランスに遊学させる。弟の真之は、「学問では上位に行かれないから」と、一高から海軍学校に明快に籍を移す。

司馬遼太郎のこの小説は、そうやって、軽々と実利的に動いて行く日本と日本人の姿も描写している。




<儒教は清国の足かせになった>

当時の清朝中国政府にはそんな行動はとれなかった。
彼らの意識には儒教思想による世界観が濃厚にあった。

西欧諸国は各々自らの然るべき立場を悟り礼節を持って中国に対応する。中国もまた彼らに徳を持って対する。
清国には国際諸国を調和させる方式は、これ以外にイメージできなかった。

つまり、清国が儒教の精神でもって行動する。そうすれば他の国にもしかるべき身分・立場を悟るだろう。これによって国際関係は治まっていくべきものだ。そうとしか考えられなかった。
だから西欧軍事技術をストレートに取りに行くことはできなかった。

それが日本との差を生んだ。
日本は、西欧技術を取り入れ、驚くべき迅速さで強兵国家を実現した。
そして列強の一員として、ついには西欧列強とともに中国の領土と資産の「かじり取り」に入っていったのである。

それが人道的にいいか悪かったかは別として、少なくとも、日本は西欧列強に征服される悲劇からは脱がれ得た。

人民に広く深く浸透した全体観がないことは、このように短期的には利点として働くこともあるのだ。




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