鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.233『「雰囲気実体・再論」を脳生理学と照応させると』(14章~17章解読の基底知識・6)

2008年06月28日 | ヨハネ伝解読
             
前回に述べた理屈は、鹿嶋は基本的には哲学者ベルグソンに負っています。
彼は雰囲気実体などという言葉は使っておりませんが、
鹿嶋がこの言葉を使うに付けてのベースは、この天才が提供してくれているのです。

                    


<ベルグソン先生の知性と感性>

 彼の認識論の骨子の一つは、知性の認識は明晰であるが、感性のそれにくらべるとその量はきわめて少ない。
感性はというと、その認識は混沌とした総体であって、
明晰ではないがその量は膨大なものである~というところにあります。

 そして、これは戦後発展した脳生理学の知識と、とてもよく符合しています。
それはあたかもベルグソン先生は、戦後、実験科学的に明かされていく脳生理学の知識を、
すでに、内省という方法でもって先覚していた~という風に、鹿嶋には感じられるほどです。

 先回の話を一層明確化するためにも、いま、脳生理学の知識と照らし合わせてみましょう。

                    


<脳生理学の右脳と左脳>

脳生理学の代表的な成果は、右脳と左脳との認識能力を明かしたことです。
左脳は、言語脳です。これは今日ではもう常識化していまして、、
脳梗塞などで左側の脳がやられると、言葉がしゃべれなくなることでもって明らかになっています。

 そしてこれは、前回、知性と述べたものに対応しています。知性というのは、ベルグソンのとらえ方です。
これはイメージ断片を一つ一つ作り出し、言葉にします。
この仕事に左脳の能力は対応しているわけです。

一方、右脳はというと、こちらはベルグソンのいう感性に対応しています。
これは全体を一気に認識する能力を持っています。
全体は多様で整理されていなくて、混沌としていますが、それをそのまま総体として認識します。

                     


<速読術が証するもの>

 右脳の驚くべき能力は、速読術によって証明されてきています。
速読術というのは、右脳の感性を開き、それを読書に利用する技術術です。
右脳は映像的に物事を把握する力をもっています。
この右脳を使って、一ページに盛り込まれた情報を一気に総体として認識してしまいます。
それをページをどんどん送って次々に行うのです。

 そしてそれをハードディスクに保存するように記憶してしまう、これも右脳の力です。
日本ではこうした速読力が実際に少なからぬ数の人々に実現しているようです。
それが、右脳・感性の驚くべき力の証明になりつつあるのです。

 鹿嶋が前回に述べた雰囲気実体を心に生成させる、というのは、この右脳の能力に対応しています。
雰囲気実体は膨大な情報を妊んでいるというのも、これが心に生成することが、
実在そのものを認識することだ、というのも、
右脳にあると明らかになりつつある認識と記憶の能力に対応しています。

                    

<ベニーヒンの癒しの鍵も?>

 そして聖書の中で「え?」というところも、この右脳的な認識能力を使うことを思い浮かべると、
納得できそうなところが少なくないように思います。

 たとえば、ヨエル書に~

 「その後、わたしは、私の霊をすべての人に注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ」
(ヨエル書、2章28~9節)

~という聖句があります。これはペテロも引用して説教しています(使徒行伝、2章16~8節)

 突然の預言内容で、読む者は面食らうところですが、
右脳が突然開かれる(そして霊感が開ける)という具合に考えたら、
そんなに突飛なことでもなさそうに見えてきませんか。
 

                    


 ともあれ、この能力が可能にすることの一つを雰囲気実体という言葉を使っていうと、
「雰囲気実体を心に生成させる」ということですね。
また雰囲気実体は、聖書解読のみならず、聖書に述べられている力を
人間が発揮するための鍵にもなっていそうな予感がします。

 ベニーヒンクルセードの映像を見ていますと、
彼が時々自分の胸に向かって「はい、主よ(Yes, Lord!)」といって
癒しなどの不思議を進める場面があります。
彼は何に向かってそういっているのでしょうね。
もしかしたら、自分の内に生成している、イエスないしは聖霊の
雰囲気実体に向かっていっているのでは?・・・・。


                    


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Vol.232『雰囲気実体・再論』(14章~17章解読の基底知識・5)

2008年06月24日 | ヨハネ伝解読
(写真はアトランタにおける「ベニーヒン、癒しのクルセード」2004年10月)



前回、“誰かが誰かの内にいる”とはどういうことか、を考えるにつけ、
雰囲気実体というものを持ち出しました。これが人の心の内に生成していることが、
「内にいる」ということではないか、と解読しました。

雰囲気実体に関することについては、Vol.212から215までの(14章~17章解読の基底知識・1~4)
で述べましたが、説明不足なところがあったように思います。
そもそも鹿嶋はこの言葉自体を~実体感覚とはいいましたが~まだ使ってなかったのでは、
という気がします。ここでそのあたりを追加しておこうと思います。


                    

<再び俳句を>

そこで以前に取り上げた俳句をもういちど持ち出して、考えましょう。

「寒鯉や、少し離れて、父と母」

~~が、それでした。

鹿嶋はこれについて作者と読者の状況の相違と、各々の意識状態を考えてみました。

                    

 まず作者から。

 作者の方では、まずこの実体感覚の契機になる物的実体が、先に眼前にあります。
彼の目の網膜には、まず眼前の物的実体が映ります。
この映ったものは、雰囲気実体ではありません。

 これは認知科学でいう「原初知覚(primitive perseption)」というもので、
まだイメージ(表象)にもなっていないものです。
たとえば鹿嶋が向こうから近づいてくるのを誰かが認知する場合を考えます。
原初知覚とは、まだ、網膜に映った陰影や形や色が解釈されていなくて、
ただ、陰影や形や色だけが物的に認知されているだけの段階です。

 その誰かさんは、これが何であるかを解釈しようとします。
その際、この陰影と形と色が意味をなすように、頭の中で加工をします。
この加工されたものがイメージ(表象)です。
以前から持っている鹿嶋のイメージと同じように加工したか、似せて加工したかはともかくとして、
加工し情報処理したもの、これがイメージです。

で、「あれは鹿嶋春平太だ!」と認識する。

 こういうふうにイメージというのは、ただストレートに網膜に映ったものではなく、加工されたものです。
そしてその加工結果は一つだけとは限りません。
日本人とか、男性とか、宗教社会学者とか、鹿嶋と称されている存在に関して
出来上がるイメージは複数になり得ます。

 実はこの加工は、ある観点から映像を見ることによってなされるのです。
国籍の観点からすると「日本人」と加工され、性別の観点からすると「男性」と加工され、
職業の観点からすると「宗教社会学者」というイメージに加工されます。
このようにイメージというのは個々ばらばらで複数のものとして作られますので、
鹿嶋はその特徴を言い表すために「イメージ断片」とかイメージ要素とかいうふうに呼ぶことにしています。

 例示している俳句では、「寒鯉」と「父と母」と「少し離れたところにいる」の三つです。
これらはイメージ断片ですが、それを鹿嶋は今言葉で対応させて表記しているわけです。


                    


<雰囲気実体は膨大な情報量を妊む>

 ところがこのイメージ断片とは別に、人間はもう一つのものを意識に生成させることが出来る。
これが雰囲気実体です。

イメージを作成するのは、人間の精神能力のうちの知性ですが、
雰囲気実体は感性の働きで生成します。

そしてこの雰囲気実体には、ものすごい情報量が妊まれています。例示している俳句でいえば~

~~寒鯉のゆっくりと泳いでいる池、周囲の木々、池の周囲にたたずむ両親、
少し離れてみると知らないうちに年老いていた作者の両親の様、等をはじめとして
無数の原初知覚が妊まれています。
それらはまもなくイメージ断片になるものもありますし、
すでにそうなりかかっているものもあります。

 加えてこの雰囲気実体には、両親がこれからいつまで共にこの世におられるだろうか、
という愛惜の感情も妊まれています。
それら無数の意識を渾然一体として妊んだ総体が雰囲気実体です。

(なお、これを「含む」といわないで「妊む」というのは、
雰囲気実体がそれらを渾然一体として孕む総体であることを示すためです。
「含む」には、複数の要素が含まれている、というニュアンスが感じられますから、
それが要素の集合体であると想像される恐れが生じます。
妊んでいるというのは、妊まれているものはまだ独立の要素として分離していない
というニュアンスをもっています。
雰囲気実体自体が一つのホリスティックな総体であることを示唆するのはこの方が良さそうなのです。)


                    


<発生の順序はどうか>

 原初知覚とイメージ断片と雰囲気実体とはどういう順序で俳句作者の意識に形成されるでしょうか。
原初知覚が最初であるのは明らかでしょう。後の二つはどうでしょうか。
 
 俳句が出来るには、まず、雰囲気実体がドシンと作者の心にあることが必要でしょう。

次に作者は、多くのイメージ断片をそこから絞り出し、それを言葉にします。
俳句という芸術は、5・7・5という少ない音節の言葉しか許しませんので、
その全てを表現することは出来ません。
作者は、頭脳に浮かんだイメージ断片・言葉の中から、選び抜いて
「寒鯉」「少し離れて」「父と母」という三つを残し、
それらの順序を決めて俳句の形式に納めて創作を完了させます。
つまり、雰囲気実体が先で、イメージ断片・言葉が後です。


                    


<読者はどうか>

 では、読者の方ではどうでしょうか。
 読者の眼前には、この俳句の作者が目の前にしていた物的実体はありません。
ですから、それを見て彼の網膜に映し出される原初知覚もありません。

 読者においてはまず、作者が提示した言葉が、読者の脳内にイメージ断片のセットを形成します。
次いで、それを契機にして雰囲気実体が意識に生成します。人間にはそういう順序もあると思われます。
つまり、先にイメージ断片が形成され、次に雰囲気実体が生成するという順序もありうる。

人間一般で見ると、イメージ断片と雰囲気実体との発生順序は一義的ではない様に見えます。

原初知覚を得て、それからイメージ断片を作成して、それで終わる場合もあるでしょう。
また、そのイメージ断片を契機にして雰囲気実体を生成させる場合もある。
そして、雰囲気実体を心に生成させて、獲得したそれからイメージ断片、言葉を引っ張り出す場合もあるでしょう。

 だが、俳句作者においては、その順序はほとんど最後に示したものでしょう。
芸術家である彼のメーンコースは、まず、雰囲気実体をドシンと心に生成させ、
感動を受け、そしてそれを限られたイメージ断片・言葉に定着させるというものでしょう。

 一方、俳句鑑賞者はまず、言葉からイメージ断片を意識に形成し、
それを契機にして、心の内に雰囲気実体を生成させます。そしてそれをしみじみと味わいます。

 もちろん雰囲気実体が生成しない人も人間一般にはたくさんいます。
だが、そういう人にとっては「寒鯉や」の俳句は、味も素っ気もない
単なる言葉の羅列でしか過ぎない。彼は鑑賞者にはならないわけです。


                    


 また、生成する雰囲気実体は、作者のものと全く同一ということはないでしょう。
だが、近似的なものは生成する。人間の精神はそれができるように造られているはずです。
人間の間で心情をわかり合うようなコミュニケーションが成りたっていることが、それを証明しています。


                    


<作者と読者とのリアリティ感の差異は?>
                    
このように考えてきますと、次のような疑問がわき上がります。
すなわち~言葉によるイメージ断片のセットを契機にして読者の心の内に生成した雰囲気実体は、
作者のものと近似的な雰囲気実体です。
それは一定の現実感、リアリティ感を読者に与えるでしょう。
だが、作者は物的実体に直面しています。
この作者の心に生成した雰囲気実体と読者のそれとをくらべてみると、そのリアリティ・実在感に差はないだろうか、
やはり読者のものはリアリティが薄いのではないか~と。

 鹿嶋は、物的実体に直面するしないは、そのリアリティ感に本質的な優劣を生じさせることはないと考えています。
つまり、メージセット断片からであっても、物的実体を目の前にしたのに
劣ることのないリアリティ感覚で人の心には、雰囲気実体の感覚は生成しうる、と思っています。

 いうなれば読者の意識内に生成する雰囲気は単なる幻影でもなく、妄想でもありません。
この感覚意識は、時として物的実体の光景を目の前にする時以上の、臨場感と重さをさえもちえます。
こういうと禅問答が連想されそうですが、人はこうした認識能力を与えられている。
人間に与えられた想像力というのはそこまでの力を持っていると春平太は考えています。

~~以上、俳句という芸術における人間の認識構造の中に、雰囲気実体を位置づけて説明してみました。
少し長く、また理屈っぽいものになりました。

次回には、これをもう少しわかりやすくできたらと思っています。


                    





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Vol.231『“誰かが誰かの内にいる”とは?』(14章20節)

2008年06月15日 | ヨハネ伝解読
(写真はカルバンの住居があった地を示す看板。
先回の写真「カルヴァン通り」は坂道になっている。
標識のある地点から少し登ると住居跡地に到着する。
看板が埋め込まれている塀の内側を入り口から覗くと、
3階建てくらいのアパートのような建物があった。
かつてそこにカルバンの住居があったという)


 「最後の晩餐」におけるイエスの、弟子たちへの最後のインストラクション、さらに次に進みます。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「その日が来た時、諸君は、私が父(創造主)の内にいること、
また諸君(自身が)私の内にいること、
そして、私が諸君の内にいることを知るでしょう」(14章20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 うわぁ~難しい! イエスの教えはどんどん深くなっていきますね。
でもとにかく何とか追ってみましょう。


 まず「その日」というのは、前回に述べた日、すなわち
「諸君(弟子たち)が私(イエス)が生きていることを知って、
自分たちも生きようと立ち上がっていく日」です。

 問題は、「誰かが誰かの“内に”いる」ということの意味ですね。


                     

<「内にいる」は精神的なこと>

 ここで「内に」と訳された言葉の原語のギリシャ語はεν(大文字ではΕΝ)で「エン」と発音します
(個々の語の発音はε、Εが「イプシロン」、ν、Νが「ニュー」)。
対応するローマ字に転換すると「en」となるのですが、
意味は英語のinに相当します。そこで英訳聖書では通常、inとなっています。

 英語のinという語は、「中に」、「内に」、「おいて」など、色んな意味を持っていますよね。
文章の中では単に「に」と訳されているケースもあります。
が、いずれにしても、結構漠然とした言葉です。
これを、難しいこの聖句で使うのですから、ますます漠然とした気配になります。

 鹿嶋はこれをとりあえず「うちに」とか、より具体的には「中に」と定めて考えてみようと思います。

 まずこの聖句で、「内に」とか「中に」とかいうのが、物理的な意味でないことは明らかでしょう。
物理的なものが他者の内に存在したり、同時にまた他者が自分の中に存在する、などというのは不可能だからです。
ならば話は精神的・霊的なことでしょうね。


                    


<イエスが雰囲気実体として心に生成>

そこでまず考えやすいところで、「霊的な意味で、イエスが弟子たちの内にいる」とはどういうことかについて~。

これを考えるに2月17日の記事、

 Vol.212『言葉、イメージ断片、意識実体』(14~17章解読の基底知識・1)

~~の知識を援用しましょう。

                    


 ここで鹿嶋は、人の心の中(脳神経系)には言葉という信号によってイメージ断片が作られ、
それを契機として胸の内に実体感覚が生成することを示しました。
ベルグソンという哲学者は、この感覚の生成が実在を認識した状態であると考えています。
そしてその認識は雰囲気として認識した状態になるといっています。
この知識をいただいて、心の中(胸の内)に生成するものを「雰囲気実体」ということにします。

すると上記の「イエスが弟子たちの内にいる」というのは、
弟子の意識の中にイエスが雰囲気実体として生成している、ということになります。

                    


 さてここで、はっきりさせておきたいことがあります。

それは「弟子の心の中に生成しているのは、主観的なイエスのイメージだけなのか」
あるいは「イエスの雰囲気実体という実在が実際に生成していて、
それをそのまま弟子たちは感知しているのか」ということです。

 鹿嶋は後者だろうと考えます。
すると、心の中には雰囲気という「気」的存在が生成しているということになります。
そしてこの考えは、実は、聖書の存在観に適合するのです。
聖書ではこの「気」的存在をズバリ「霊」として把握していますから。

が、ともあれこういう意味で「雰囲気実体としてイエスが弟子たちの心の内に生成している」というのが
「イエスが弟子たちの内にいる」という聖句の意味になります。


                     


<イエスの内にも弟子の雰囲気実体が生成している>

これを「諸君(弟子たち)が私(イエス)の内にいる」という聖句にも当てはめましょう。
そうすると「イエスの心の内には弟子たちの雰囲気実体が生成している」ということになります。

 さらに「私(イエス)が父(創造主)の内にいる」は、同様に
「父なる創造主の心の内にイエスの雰囲気実体が生成している」という意味になります。

                    


<まとめていうと>

~~で、以上をまとめていいますとこうなるでしょう。

 「父なる創造主の心の中にイエスの雰囲気実体があって、
そのイエスの心の中に弟子たち一人一人の雰囲気実体が存在し、
そしてその弟子たちの心の中にイエスの雰囲気実体が存在する」となる。

そしてそのことが「その日」つまりイエスが復活して弟子たちがイエスが生きていると確信し、
自分たちも生きるんだと立ち上がるその日に、
上記のことが「わかるよ」とイエスは予告しているのですね。


                    


~~これをもう少しわかりやすくするために、弟子の心理を追体験するようにして書き直してみますと・・・

 弟子たちは復活したイエスに会い、再度インストラクションを受け、天に昇っていくイエスを見ます。
 → それらの経験によって「イエスは地上にはいなくなったけれども間違いなく生きている」と確信します。
 → すると彼らの心の内には、イエスの雰囲気実体が手応えもって感知できるように生成しているのです。

 その体験を通して、弟子たちは
「このようにイエスの心にも自分たちの雰囲気実体が存在するんだ」と確信します。
 → さらにその感覚を通して、
「このように創造主の心の内にも御子イエスの雰囲気実体がしっかりと存在するんだ」と体感します。

現時点の春平太にはそういう解読になります。
そしてもし、この解読が妥当でしたら次のことがいえそうです。
すなわち、上記のような実体感覚を得たとき弟子たちは
「俺たちはもう何でもするぞ!、出来るぞ!」
と心底思うことになっただろう、と。

これはイエスがこのインストラクションをしている「最後の晩餐」の時点より
もう少し先の出来事になりますが。


                    


 でも、こういう見えない世界のことには、他にもいろんな解読が成り立つでしょうね。
そういう聖句に関して人間が~教団の統率者たちの検討の末といえども~
一つの解釈を正統と定めるのには、根本的に無理があるんでしょうね。


                    



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Vol.230『復活した私を見て諸君も生きていくんだよ』(14章18~19節)

2008年06月09日 | ヨハネ伝解読
(写真はスイス、ジュネーブの「カルヴァン通り」の標識。
宗教改革運動の拠点・ジュネーブ教会にカルヴァンはこの道路を歩いて通った)


 鹿嶋春平太です。

皆さん、梅雨の季節の中でも、元気にしておられますか?
 力に充たされて生きましょう。これから活躍するイエスの弟子たちのように。

本日も同じ「最後の晩餐の場面」ですが、少し先に進みます。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしはあなた方を孤児のようにはしません。(私は去って行きますが)、
またあなた方のところに帰ってきます。
しばらくしたら、世は私を見なくなります。
だが、諸君は私を見ます。
そして、私が生きている(と知る)が故に、諸君も生きるでしょう」
(14章18~9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

14章の18節、19節では、イエスは自らの十字架死と復活を預言しています。
18節では、復活をそのものズバリで預言しています。
 
 「わたしはあなた方を孤児のようにはしません。
(私は去って行きますが)、またあなた方のところに帰ってきます」(14章18節)

 今、私たちには新約聖書があります。だから、それが具体的に何を指しているかわかります。
しかし、弟子たちには、この時点では、何を指していっているか、
よくわからなかったのではないでしょうか。「先生、何言ってるの?」と。


                    


<難解なところは優しく繰り返す>

 イエスには、それは承知なのでしょう。
 次いで、イエスは同じ内容のことを繰り返します。

 「しばらくしたら、世は私を見なくなります。だが、諸君は私を見ます」(19節)。

18節と19節とはいってることの中身は同じです。
だが18節では、イエスは「自分の視点から」自分の十字架死と復活を
述べています。ですけど、弟子たちにはぴんと来ません。

 それを承知のイエスは、こんどは同じことを聞き手である弟子たちの視点から
表現してあげている。これが19節です。
この優しさ、入念さには春平太は感銘を受けます。
なかなかこういう風に人を教えることは出来ないと、体験上思うものですから。


                    

<私が生きてると知ったら生きられるからね・・>

次いでイエスはいっています。

「そして、私が生きている(と知る)が故に、諸君も生きるでしょう」(19節)

 その前の「世は私を見なくなります」の「世」は、先回の「聖書の空間理念図」
で示しましたところの「天に対する世」です。これはもう「この世的に」考えます。

「彼はたしかに十字架上で息絶えた。みんなそれを見ている。
念のために、兵士がイエスの脇腹を槍で刺したではないか。間違いなく死んでいた。
彼が復活して現れたって? 冗談じゃない、単なる幻を見たのでしょう。
そういう現象はまま現れるものだよ・・・」と。

 「世」の人間からすると、どうであろうと「イエスは死んでもういない」ということになるのですね。
しかし弟子たちにはイエスは告げていきます。諸君はそれが間違いなく「復活した私だ」と認知するだろう、と。

なぜなら、弟子たちは、前もってそういうことが起きると聞いているのだから。
「ああ、あのとき言われていたことが起きているのだ」と。
(そのためにイエスはいま、前もっての予告をしているのですね)

        
 するとどうなるか? 
弟子たちは、「イエスは生きておられるんだ!」と、体験上知ります。
人は体験したら確信します。その結果、イエスが今も生きておられるから、
自分たちもイエスが地上にいたときと同じように生きていい、
生きるべきだと、思うことが出来るようになる、というのです。


                    

 そういうことを、まもなく拷問を受けるということがわかっている状況で、
イエスは静かに愛情込めてインストラクションしています。
驚くべきことではないでしょうか。
感動的でないでしょうか。

 実際イエスは復活して、弟子たちの肉眼に見えるようにして現れます。
こうしたことを通して弟子たちの心の内には時と共に、
イエスが教えていったこと全体への確信も生まれていきます。
だから、それらを証言しつつ宣べ伝えることになるのですね。


                    

 こうしたことを聖書で読める状況にある、現代の信頼者たちもまた
「イエスは永続者であって、今も生きている」という確信を持つことが出来ます。
単に、「あのとき復活した」というだけではなくですね。

ならば、現代の信頼者たちもみな、
「イエスが生きているから、自分たちも生きよう」という元気を得ることが出来るでしょう。
肉体を持って生きるこの世での人生には、苦難が多いです。
だが、最低線のところでこの「イエスが生きているのだから・・」という元気を得られるという。
信頼者にとってこれはありがたいことではないでしょうか。


                    


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