(写真はアトランタにおける「ベニーヒン、癒しのクルセード」2004年10月)
前回、“誰かが誰かの内にいる”とはどういうことか、を考えるにつけ、
雰囲気実体というものを持ち出しました。これが人の心の内に生成していることが、
「内にいる」ということではないか、と解読しました。
雰囲気実体に関することについては、Vol.212から215までの(14章~17章解読の基底知識・1~4)
で述べましたが、説明不足なところがあったように思います。
そもそも鹿嶋はこの言葉自体を~実体感覚とはいいましたが~まだ使ってなかったのでは、
という気がします。ここでそのあたりを追加しておこうと思います。
<再び俳句を>
そこで以前に取り上げた俳句をもういちど持ち出して、考えましょう。
「寒鯉や、少し離れて、父と母」
~~が、それでした。
鹿嶋はこれについて作者と読者の状況の相違と、各々の意識状態を考えてみました。
まず作者から。
作者の方では、まずこの実体感覚の契機になる物的実体が、先に眼前にあります。
彼の目の網膜には、まず眼前の物的実体が映ります。
この映ったものは、雰囲気実体ではありません。
これは認知科学でいう「原初知覚(primitive perseption)」というもので、
まだイメージ(表象)にもなっていないものです。
たとえば鹿嶋が向こうから近づいてくるのを誰かが認知する場合を考えます。
原初知覚とは、まだ、網膜に映った陰影や形や色が解釈されていなくて、
ただ、陰影や形や色だけが物的に認知されているだけの段階です。
その誰かさんは、これが何であるかを解釈しようとします。
その際、この陰影と形と色が意味をなすように、頭の中で加工をします。
この加工されたものがイメージ(表象)です。
以前から持っている鹿嶋のイメージと同じように加工したか、似せて加工したかはともかくとして、
加工し情報処理したもの、これがイメージです。
で、「あれは鹿嶋春平太だ!」と認識する。
こういうふうにイメージというのは、ただストレートに網膜に映ったものではなく、加工されたものです。
そしてその加工結果は一つだけとは限りません。
日本人とか、男性とか、宗教社会学者とか、鹿嶋と称されている存在に関して
出来上がるイメージは複数になり得ます。
実はこの加工は、ある観点から映像を見ることによってなされるのです。
国籍の観点からすると「日本人」と加工され、性別の観点からすると「男性」と加工され、
職業の観点からすると「宗教社会学者」というイメージに加工されます。
このようにイメージというのは個々ばらばらで複数のものとして作られますので、
鹿嶋はその特徴を言い表すために「イメージ断片」とかイメージ要素とかいうふうに呼ぶことにしています。
例示している俳句では、「寒鯉」と「父と母」と「少し離れたところにいる」の三つです。
これらはイメージ断片ですが、それを鹿嶋は今言葉で対応させて表記しているわけです。
<雰囲気実体は膨大な情報量を妊む>
ところがこのイメージ断片とは別に、人間はもう一つのものを意識に生成させることが出来る。
これが雰囲気実体です。
イメージを作成するのは、人間の精神能力のうちの知性ですが、
雰囲気実体は感性の働きで生成します。
そしてこの雰囲気実体には、ものすごい情報量が妊まれています。例示している俳句でいえば~
~~寒鯉のゆっくりと泳いでいる池、周囲の木々、池の周囲にたたずむ両親、
少し離れてみると知らないうちに年老いていた作者の両親の様、等をはじめとして
無数の原初知覚が妊まれています。
それらはまもなくイメージ断片になるものもありますし、
すでにそうなりかかっているものもあります。
加えてこの雰囲気実体には、両親がこれからいつまで共にこの世におられるだろうか、
という愛惜の感情も妊まれています。
それら無数の意識を渾然一体として妊んだ総体が雰囲気実体です。
(なお、これを「含む」といわないで「妊む」というのは、
雰囲気実体がそれらを渾然一体として孕む総体であることを示すためです。
「含む」には、複数の要素が含まれている、というニュアンスが感じられますから、
それが要素の集合体であると想像される恐れが生じます。
妊んでいるというのは、妊まれているものはまだ独立の要素として分離していない
というニュアンスをもっています。
雰囲気実体自体が一つのホリスティックな総体であることを示唆するのはこの方が良さそうなのです。)
<発生の順序はどうか>
原初知覚とイメージ断片と雰囲気実体とはどういう順序で俳句作者の意識に形成されるでしょうか。
原初知覚が最初であるのは明らかでしょう。後の二つはどうでしょうか。
俳句が出来るには、まず、雰囲気実体がドシンと作者の心にあることが必要でしょう。
次に作者は、多くのイメージ断片をそこから絞り出し、それを言葉にします。
俳句という芸術は、5・7・5という少ない音節の言葉しか許しませんので、
その全てを表現することは出来ません。
作者は、頭脳に浮かんだイメージ断片・言葉の中から、選び抜いて
「寒鯉」「少し離れて」「父と母」という三つを残し、
それらの順序を決めて俳句の形式に納めて創作を完了させます。
つまり、雰囲気実体が先で、イメージ断片・言葉が後です。
<読者はどうか>
では、読者の方ではどうでしょうか。
読者の眼前には、この俳句の作者が目の前にしていた物的実体はありません。
ですから、それを見て彼の網膜に映し出される原初知覚もありません。
読者においてはまず、作者が提示した言葉が、読者の脳内にイメージ断片のセットを形成します。
次いで、それを契機にして雰囲気実体が意識に生成します。人間にはそういう順序もあると思われます。
つまり、先にイメージ断片が形成され、次に雰囲気実体が生成するという順序もありうる。
人間一般で見ると、イメージ断片と雰囲気実体との発生順序は一義的ではない様に見えます。
原初知覚を得て、それからイメージ断片を作成して、それで終わる場合もあるでしょう。
また、そのイメージ断片を契機にして雰囲気実体を生成させる場合もある。
そして、雰囲気実体を心に生成させて、獲得したそれからイメージ断片、言葉を引っ張り出す場合もあるでしょう。
だが、俳句作者においては、その順序はほとんど最後に示したものでしょう。
芸術家である彼のメーンコースは、まず、雰囲気実体をドシンと心に生成させ、
感動を受け、そしてそれを限られたイメージ断片・言葉に定着させるというものでしょう。
一方、俳句鑑賞者はまず、言葉からイメージ断片を意識に形成し、
それを契機にして、心の内に雰囲気実体を生成させます。そしてそれをしみじみと味わいます。
もちろん雰囲気実体が生成しない人も人間一般にはたくさんいます。
だが、そういう人にとっては「寒鯉や」の俳句は、味も素っ気もない
単なる言葉の羅列でしか過ぎない。彼は鑑賞者にはならないわけです。
また、生成する雰囲気実体は、作者のものと全く同一ということはないでしょう。
だが、近似的なものは生成する。人間の精神はそれができるように造られているはずです。
人間の間で心情をわかり合うようなコミュニケーションが成りたっていることが、それを証明しています。
<作者と読者とのリアリティ感の差異は?>
このように考えてきますと、次のような疑問がわき上がります。
すなわち~言葉によるイメージ断片のセットを契機にして読者の心の内に生成した雰囲気実体は、
作者のものと近似的な雰囲気実体です。
それは一定の現実感、リアリティ感を読者に与えるでしょう。
だが、作者は物的実体に直面しています。
この作者の心に生成した雰囲気実体と読者のそれとをくらべてみると、そのリアリティ・実在感に差はないだろうか、
やはり読者のものはリアリティが薄いのではないか~と。
鹿嶋は、物的実体に直面するしないは、そのリアリティ感に本質的な優劣を生じさせることはないと考えています。
つまり、メージセット断片からであっても、物的実体を目の前にしたのに
劣ることのないリアリティ感覚で人の心には、雰囲気実体の感覚は生成しうる、と思っています。
いうなれば読者の意識内に生成する雰囲気は単なる幻影でもなく、妄想でもありません。
この感覚意識は、時として物的実体の光景を目の前にする時以上の、臨場感と重さをさえもちえます。
こういうと禅問答が連想されそうですが、人はこうした認識能力を与えられている。
人間に与えられた想像力というのはそこまでの力を持っていると春平太は考えています。
~~以上、俳句という芸術における人間の認識構造の中に、雰囲気実体を位置づけて説明してみました。
少し長く、また理屈っぽいものになりました。
次回には、これをもう少しわかりやすくできたらと思っています。