鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す17  ~快男児ウイリアムズ「逃れの街」を創る ~

2015年02月28日 | 米国への無知を正す





トーマス・ジェファーソン(アメリカ独立宣言起草者。合衆国第三代大統領:1743~1826)に次の言葉がある。

「一生懸命やればやるほど、幸運に恵まれることを、私は発見した」

ジェファソンは宗教家ではないので、これは宗教的信念から出た言葉ではない。
人生の折々に彼が観察した社会事象を冷静に総合した経験則である。

そしてその経験の中には、バプテスト聖句主義者に一度ならずおとずれた幸運が多分に含まれているように、筆者にはみえる。

+++

ちなみに彼は早期からのバプテストウオッチャーだった。
バプテスト聖句主義者が訴えられた裁判を傍聴して「バプテストの言い分が正しい」と判断して以来、バプテスト描く国家作りに、彼は助っ人としての貴重な働きをした。

独立宣言の起草はその一つだ。

ジェファソンはバプテスト聖句主義者と共に教会活動をすることはなかった。
だが、その卓越した文章力でもって外からバプテストの援護射撃をした。




<ロジャー・ウイリアムズ>

彼の経験則を証明するような出来事が、バプテスト聖句主義者に降って湧いた。

1603年、英国のとある素封家の家に一人の快男児が誕生した。
母親の胎内にいるうちから強烈な自由精神を抱いていた、と後世に言われることになるこの男は、頭脳明晰、才気煥発で度胸もあった。

まずは素封家の息子の常として、英国ケンブリッジ大学にて神学を修めた。
抜群の成績で弁舌力にも優れた彼には、卒業前から複数のハイクラスな英国国教会の教区教会から、聖職への就任依頼が舞い込んだ。

ところがその一つに就職した彼はすぐに、問題を起こした。
ものごとを自分の心に秘めておくことが出来ない気質が、彼に説教で強烈な体制批判をさせたのだ。

本国に居づらくなった彼は、米大陸植民地のボストンに向かった。

植民地でも彼の才能は知れ渡っていた。
ボストンの英国国教会は大歓迎で聖職に迎え入れた。

ところがここでも彼は説教で国教会の腐敗を糾弾する。

そして今度は郊外にあるセイラムの教会の就任要請を受諾した。
だがそこでも彼は説教で「領主は植民地運営許可状をイギリス国王からでなくインディアンからもらうべきだった」といった類の主張をする。

ボストンの植民地議会は彼を本国に送り返そうとした。




<「逃れの街」を造る>

ところが彼は森の中に逃れ、セイラムにいる間に親しくなっていたインディアンの酋長から土地を売ってもらい、そこに住み着いた
いまのロードアイランド州の一部に当たる細長い土地である。

ウイリアムズはそこにプロビデンス(神意という意味)という名をつけ、理想とする町を建設し始めた。

この街の建設目的を彼は次のように述べている~。

「この町が良心の故に苦しめられている人々の避難所になることを私は望んだ。水面下で苦しむ同胞をみて、私は愛する友たちにこの町を贈ったのである・・・」。

ボストンを始めとするマサチューセッツ植民地の都市では清教徒(ピューリタン)が圧倒的多数派だった。
これらの町々からウィリアムズと理念を同じくする者がプロビデンスに流入してきた。
反逆者、不平分子として追放された者も多数逃げ込んできた。

ウイリアムズは彼らを暖かく迎え入れ、街が速やかに出来ていった。

彼はそこに「人民の権利と意志のみをベースにして運営される」自由政府を創設した。

政府と教会を完全に分離させ、政治的自由、宗教的自由の理念を実現した。




<植民地勅許状を獲得する>

ウィリアムズはさらに、その地を含む一帯に対する植民地勅許状を本国から得ようとした。
日本の滋賀県ほどの広さのその土地には、まだ誰にも開発特許状は与えられていなかった。

彼のプロビデンス政府は、国王から植民地設立認可状を得るべく、ジョン・クラークという医師を英国に派遣した。
クラークは実に12年間の奮闘の末、1663年、新国王に就任したチャールズ2世から勅許状を取得した。

勅許状には~、

  この地では「当人が市民社会の平安を乱さない限りにおいて、如何なる方法をもってしても、人を宗教上の見解の相違によって苦しめたり、罰を与えたり、脅して心の平安を乱したり、喚問したりしてはならない」

   ~と記した宣言も付せられていた。

これは聖句主義の望むところそのものであった。
こうして現在ロードアイランド州となっている地(マサチューセッツ州のすぐ下に位置している)に、実質上の聖句主義共和国ができたのだ。

人類類史上、画期的なことである。
アメリカ植民地が独立する100年以上も前に、こんな国が実現していたのだから。




<人類初の「信教自由」植民地憲法>

ウィリアムズはこの小さな植民地に信仰自由をうたった憲法を造った。

内容は英国教会、カトリック、長老派、組合派、メソディスト派その他いかなる教派教会の活動も禁じないというものだった。

聖句主義活動以外を認めないというのではない。、
真の信教自由とはそういうものである。

後に信教自由の原則をうたうことになるアメリカ合衆国憲法修正条項(権利章典)の内容は、ほぼこれを踏襲している。
合衆国の国家憲法が完成する一世紀半も前に、それと同質の憲法がアメリカ植民地の一つに作られていたのだ。

そしてこれは、バプテスト聖句主義者への巨大なプレゼントともなった。


  

<三界に家なし>

紀元後426年以降、聖句主義者が迫害されない世界はこの地上にはなかった。
彼らは1200年の間、文字通りの「三界に家なし」だった。
その彼らに、ウイリアムズという快男児が安住の地をプレゼントしたのだ。

バイブリシストたちほど、長期にわたって幻を追い続けた人はいない。

ジェファーソンの言葉~

「一生懸命やればやるほど、幸運に恵まれる」

~がここでも証明されていたように見えてならない。







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米国への無知を正す16  ~建国史の鳥瞰図 ~

2015年02月26日 | 米国への無知を正す




これからする米国建国の話は歴史の話である。
歴史の話は、個別的な歴史事実の組み合わせでなっている。

その組み合わせは、話し手の、人間と歴史に関する鳥瞰図・全体観によって決まっていく。
それを明示すると、話は、さらにわかりやすくなる。
やってみる。




<驚異のイエスゼミ>

日本の大学にはゼミナール(ゼミ)という制度がある。
大学の3,4年の二年間にまたがっておこなう専門課程の学生への講座だ。

そこでは少数の学生が、好みの指導教師をえらぶ。
選んだ教師に身近に接して、思うがままに質問し学んでいく。
この方式は、マスプロ講義では得られない、多大な効果を上げる。

筆者自身も学生時代、尊敬する指導教授のゼミ生として大いに恩恵を受けた。

+++

イエスと12弟子の関係も、このゼミナールに似たところがある。
弟子たちはイエスを選んで弟子入りした。
イエスは彼らを身の回りに置き、随時教えをしている。

ただし、その期間は、3年半もの長きにわたる。
しかもそれはいわば「フルタイムのゼミ」授業だ。
つまり、大学のゼミではゼミ生は自宅や下宿で生活し、ゼミに出てきて学ぶ。
ところがイエスと弟子はほとんど四六時中起居を共にしているからである。

野宿も多い。
森の中に逃れて暮らすときもある。
また、イエスの信奉者、サポーターの家で眠るときもある。

いずれにせよ、イエスゼミは常時共にいてのゼミだ。

凄い教育環境だと思う。




<弟子たる秘訣>

その間にイエスは弟子に、弟子として教えを習得する秘訣も伝えている。

「諸君が私の言葉のなかに留まるなら、諸君は私のほんとうの弟子になる」
   (「ヨハネによる福音書」8章31節)

~がそれである。

イエスはまた、卒業の秘訣も教えている。

それは「私(イエス)の言葉が諸君(弟子)の中に留まる」ようになることだという。
そうなったら~
「何でも求めなさい、それはかなえられる」とイエスは言っている(「ヨハネによる福音書」15章7節)




<直弟子が始めた初代教会>

かくのごとくにイエス・ゼミで学び続けることによって、弟子たちは深くイエスの教えを身につけた。

そして、イエスがいなくなった後に、命令通りその教えを宣べ伝え、キリスト教会を開始した。
これが前述した初代教会だ。

それは「家の教会」(後にスモールグループと呼ばれるようになる聖句自由吟味会)のリーダーを通しての連携体だった。

ここでの自由な聖句吟味で「真理らしきもの」に触れたとき、彼らは至高の幸福を味わった。
(前述したように、それには聖書という比類無き書物の特性も関与している)

この体験が知性を驚異的に活性化し、精神を広大なイマジネーションの世界に飛翔させた。

信徒たちの精神は、これを通して「これまでに自分がしてきた行い(良きこと、悪いこと)など、もはや重要でない」と感じるほどに解放された。

この活動方式は、30年間で全ローマ帝国に活動者が散在するほどに普及した。





<「物まね版」も一定の威力を発揮する>

後にカトリック教団となる教会の指導者たちが考案した教会、教理主義方式によるカトリック教会は、端的に言えば、その簡易な「物まね版」である。

具体的には、現在もカトリック教会、プロテスタント教会で行われている日曜礼拝中心の活動がそれだ。
信徒は日曜日に教会に出てきて、賛美歌を歌い、聖職者の説教を聞き、献金して帰宅する。

そして人は「物まね」に」よってでも、本家本元の持つ果実の「一定範囲」を味わうことが出来る。
その精神にも一定の活性化を得ることが出来る。

これは人間世界におけるまことに妙(たえ)なる法則だ。
この知識は人類の歴史を認識するための、必須にして巨大なる知識だが、人々はまだそれを自覚していない。




<「回転寿司」大普及する>

「物まねも本家の持つ一定の果実を味わわせる」との法則通りに、カトリック教会は本家本元方式の教会を量的には凌駕していった。

それは、本来職人の「対面寿司」からでた方式を「物まね」した回転寿司が、本家本元をその広がりにおいて凌駕していくかのごとくであった。

この教団はローマ帝国統治者にも一定の感銘を与え、ついにはその国教にまで上り詰めた。




<物まね集団による迫害の中で>

そこから「物まね」教団による、本家本元教会への激烈なる壊滅作戦が始まる。
教団は、聖句自由吟味活動をする集団を「神に逆らう違法者」として逮捕し、広場で公開火刑に処した。

最近のイスラム国家は、その想像を助ける情報をネットで流してくれている。

あの黒い衣装に身を包み、自動小銃を持った人々は、中世のカトリック軍隊の現代版だ。
彼らがとらえ火刑に処したヨルダンのパイロットの火刑画面は、中世の聖句主義者火刑の現代版だ。

中世には、処刑された人の数は、年平均4万人だった。
欧州の広場では日ごと夜ごと、聖句主義者の火刑場面が続いた。

長い長い欧州「中世」はそういう暗黒時代だったのである。

+++

だが、その中でも本家方式を受け継ぎ、これをつかんで離さない人々も多量に存続した。
彼らはスモールグループのリーダー間の草の根ネットワークを駆使しして、集団の一体性を維持した。

近代になると彼らは英国に移住した。
そして、ごく当然なようにして、英国の国力を爆発させた。

その彼らが、今度はアメリカ新大陸に移住したのだ。
その地が爆発しないわけがない。
これが筆者の米国建国史の鳥瞰図だ。

これを悟れば、「アメリカへの無知をただす」の理解は90%以上なったことになろう。




<精神・知性飛躍の秘訣>

ここで少し大きく出ておこう。
いま全人類に伝えておきたいことがある。

それは人間の精神と知性の爆発的成長の秘訣だ。
その効率を最大にする方法は「本家本元の方式」で聖句吟味活動をする、ということだ。

「聖書を」というと「ああ宗教だ、信者の信念からの言葉だ」と思う読者も多かろう。
だが、筆者のこの言は、信者の言ではない。

(信者の言なら、「聖書は神の言葉」というだろう。だが筆者はそういう考え方をしてきていない。聖書には吟味すると「これは真理だ!」と「思えるような」ものがある~といってきている)

筆者の鳥瞰図は、冷静、客観的、科学的、分析的、総合的に歴史を吟味した結果の事実判断だ。
この判断が人間の吟味を通して得られる洞察によることは、これから略説する米国建国史も傍証するであろう。







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米国への無知を正す15  ~聖句主義者、アメリカ大陸に移住 ~

2015年02月24日 | 米国への無知を正す




我々は欧州からの初期の移住者たちについて、概して素朴なイメージをもっている。
無人の荒野に散在するインディアンと戦いながら、好きな場所に自由に住み着いていったというのがそれだ。

だが、実際にはまず欧州の諸国家が、陣取り合戦をしている。
各々が自分の植民地域を区画し、欧州と同じ思想、同じシステムで統治を開始している。

そこに一般人民が、移住していったのだ。

植民地はまず、今のアメリカ合衆国の東海岸地域とその周辺につくられた。
当初植民地を所有した国は、スペイン、フランス、オランダ、英国だった。
この時代は王権が強く、植民地の所有者もまた本国の王様であった。

その後、植民地争奪の戦争が起き、英国が最終的勝者となった。
英国王はほとんどの土地の支配権を手にし、それを13の植民地に分けて統治した。




<三種類の植民地>

植民地はみな総督(ガバナー)と議会を持つ統治体になっていた。
これらは統治様態によって三つに分けることが出来る。


<領主植民地>

領主植民地は、植民地運営を志す英国貴族が英国王から勅許状をいただいて経営する植民地である。
初期にはニューヨーク、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア、ペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランドがそれだった。

彼らは勅許を与えられると当該地域の領主となって、総督(ガバナー)を任命して経営を委任し、他方で参議会議員を任命した。


<王領植民地>

王領植民地は国王の直轄領地であって、国王は直接に総督と参議会議員を任命した。
初期にはマサチューセッツ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、バージニアの四地域がそれだった。


<自治植民地>

自治植民地は、植民地住民が総督と議会議員の選出に参加できる植民地である。
初期にはコネティカットがそれであり、後に認可されるロードアイランドもそうなっていく。

ちなみに後の1774年~独立戦争直前~マサチューセッツ(王領)植民地に総督と議員を住民選挙で決めることが認められ、ここも実質上自治植民地となる。




<最初の大量移住者は聖句主義者>

植民地では農地を耕す農民や日常品を生産する手工業者が必要だった。
これが本国で募集され、応募して認められたものが当該領有地に運ばれた。

一般人の主要な移住方法はそうであって、 この最初の大量移住者が聖句主義者だった。

新天地に夢を抱く人には、一攫千金をねらったベンチャー事業家もいた。
彼らもまた先駆的にアメリカ大陸に向かったが、数の上で多くはなかった。
また「一儲けして母国に帰ろう」という人種だから定住者にはなりえなかった。

英国一般市民の移住志向は強くなかった。
彼らは本国で迫害を受けることもなく、生活を送れている。
そういう人には見知らぬ土地への移住は魅力的ではないのだ。

早々と移住に踏み出す大量集団は聖句主義者以外になかったのである。
具体的にはそれは、英国近代バプテストとメノナイトだった。




<英国近代バプテストは東海岸と南部に>

バプテスト聖句主義者は南の領地を選び移民していった。

一般に南寄りの地域は冬が過ごしやすいし農業も容易である。
だから米大陸でも、早期の移住者が南の地域に住み着き、後の人が徐々に北の方に住んでいくことになる。

バプテスト聖句主義者が南部に住み着いたのには、もう一つ理由があった。
英国の近代バプテストは、アメリカ植民地に聖句の自由吟味活動が違法とされなくしてできる国の建設を夢見ていた。

彼らが多く住んだ地にはニューイングランドが含まれていた。
ここは大西洋沿岸の地域で、初期の政治活動の中心地だった。

彼らはバプテストと気づかれないようにして渡航したといいう。
数が多いと気付かれやすいので、少数に別れて移民登録し、他の渡航者に紛れ込んで乗船した。
当時聖句自由吟味活動は非合法だったからである。

+++

宗教活動が自由な国家が成るには、大枠として三つのステップが必要だった。

第一に、アメリカ植民地を独立国家にする。

第二に、その国に憲法を制定して法治国家にする。

第三に、憲法の中に信教自由の条項を確定する、この三つだった。

実際、彼らはそれを実現していくことになる。




<メノナイトは米加国境地帯に>

もう一つの大量移住聖句主義者グループ、メノナイトはバプテストとは対照的に北方の地域、それも西寄りの、現在のアメリカとカナダの国境の両側あたりに集中的に移住した。
これらの地はまだ植民地として運営されていなかったはずである。

今ではアメリカ側に住む人の数が多く、ノースダコタ州、アイダホ州、ワシントン州、オレゴン州などにメノナイトの教会がたくさんある。




<法定教会に登録される>

当時聖句主義者以外の欧州人は、国は国教をもつべきという思想に何の疑いも抱いていなかった。
だから王領植民地も領主植民地も公認教派の法定教会をおいた。

自治植民地も自分たちの法定教会を置く方針だった。
本国ではイギリス国教会(聖公会)、長老派教会、メソディスト教会、組合派教会などが、運営者に希望地区での公認を申請した。

領主は申請をおおむね容認したので、一つの領有植民地に複数の教派の担当地区が併存するのが通常だった。

進出した教会は、担当地区の法定教会として宗教活動を行った。

植民地住民は自分が住む地区の法定教会に登録され、聖日(日曜)礼拝に出席した。




<植民地での聖句吟味活動>

バプテスト聖句主義者は他方でひそかに聖句吟味のスモールグループ活動を行った。

植民地の領地は広大で、教会側も詳細な監視と規制をするのは困難だった。
それ故、少なくとも当初彼らは比較的自由に集会をもっていた。

だが時がたつと発見される集会も出た。
それ故に居住地を追放された者も出た。

横になって眠れないほど全身を鞭で打たれるというケースもあった。
ただし欧州で数限りなく行われた、広場での公開火刑は新大陸ではなかった。







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米国への無知を正す14 ~英国に近代バプテスト誕生す~

2015年02月22日 | 米国への無知を正す





「米国への無知を正す」といいながら、「教理主義教会・対・聖句主義」といった、キリスト教活動の違いについて長々と語らねばならない自分がもどかしい。

政治見識や陸・海・空軍の卓越した組織、武器、そして生産力・金融力などから説明できたらもっと納得されやすいのだろうに、と思う。

だが筆者は、戦前および終戦後の日本人民の貧しさを知り、米進駐軍兵士の物資の豊かさを目にした世代の日本人の一人だ。
筆者は、それらの違いの源を明確に直感した。

それは「ああ、人間が違う」であった。

この感覚は、筆者よりもう少し年上の若者も、少なからず抱いていたようだった。

たとえば数年後、いち早く米国留学の機会に恵まれた日本の青年男女は、米国の大学のカフェテリア(食堂)で、牛乳が好きなだけ飲めることに驚嘆したという。

そしてその脅威の豊かさをもたらすものも、なにはともあれ結局「人間のちがい」だと直感していたようだ。

+++

そして筆者はこうした人間の差を造るのが宗教であり、米国人の特質を形成しているのがキリスト教であるととも、漠然と感じてきた。

おおむね宗教には、人間に慰めを与え、生きる方向を提供し、精神を解放し活性化する力がある。

だが、筆者の見るところ、キリスト教の提供するイメージ世界は、その力においてやはり抜きんでていた。
聖書、とりわけ新約聖書のもつ人間への洞察力、罪の意識からの解放力には比類のないものがあった。

+++

そして、その力を探っていくと、聖句主義、教理主義という活動方式の違いを無視することができなくなった。
この二つの特質をよく認識しないことには、米国の持つ飛び抜けた明るさ、率直さ、知力、公共心等々が理解できないことがわかってきた。

だから、これは避けて通れないのだ。
そんなわけで今回も、今一歩踏みこんでいく。




<聖句主義者の影響>

聖句主義者からの教理主義教会の人々たちへの影響のおよび方には、なんとも、妙(たえ)なるものがある。

聖句主義者の雰囲気は、明るく、純真で、真摯でひたむきで、かつ、人なつこい。

彼らのそうした雰囲気は、実は、聖句吟味を通して得られる体験からきている。
究極の不変理論にタッチしたと確信したときの感動がそれだ。
この源からいのちエネルギーが湧き出で、霊にしみ入り霊魂が生き返る。

それ自体はやってみて体験しないとわからないものだから、外部者にはわからない。


けれども、聖句主義者が醸し出すその雰囲気は、教理主義者にも味わえる。

+++

この雰囲気に教理主義者たちは刺激された。
刺激を受けて「ああ、俺たちも教会生活をもっと心を込めて、純粋にやらなければ、ひたむきな姿勢を持たねば・・・」と思っていった。

つまり彼らは、その面から「物まね」をして行ったのだ。
そして人間の精神はこの物まねによっても、かなり活性化をするものだ。

前述した英国国教会での改革派ピューリタン、分離派ピューリタンの出現は、実はその一例だった。

同じく前述したジョン・ウェスレーも英国教会の司祭だったのに、信仰覚醒してメソディスト教会を始めた。

会衆派教会も、長老派教会の変化も、みな聖句主義活動が醸し出す雰囲気からの直接・間接の影響によって萌え出でたものだ。




<だが聖句主義方式までは行かない>

しかし、これらの人々は、教会を「教理なしで、個々人に聖句自由解釈を赦しながら運営する」というところまでは行かなかった。

もしそんなことしたら、教会は無政府主義者の群れになって、まとまりがつかなくなる・・・・そういう恐怖感が彼らにはあった。
それは、30階建てのビルの屋上から地上を見るくらいの恐怖感だっただろう。


だから彼らは「活性化した教理主義教会」に留まることになった。
英国に萌え出でた上記新教会は、みな、この性格のものだった。




<ピューリタン、聖句主義者を襲撃!>

ちなみに、後に新大陸ボストンの地で、ピューリタンが聖句主義者を激しく迫害するのもその関係である。
当時ボストンは分離派ピューリタンが集積する地になっていた。

もともと聖句主義者に刺激されて国教会から分離し、植民地ボストンにまできていた彼らだ。
ところが教理主義から脱却・飛翔するまでには至らなかったが故に、ボストンの街で聖句自由吟味活動を始めた聖句主義者たちを襲った。

人類史のなんと妙なることか。
感嘆するしかない。

これなど「アメリカの自由精神は分離派ピューリタンだったピルグリムファーザーズが創始した」という教科書的作り話を学んだものには、理解できないところとなる。
理解できないどころか、ここで目がくらくらする読者もいることだろう。

ピルグリム・ファーザーズがアメリカ建国の父というのは、真っ赤な嘘である。
このあたりについては、機会があれば後述することにして、話を戻そう。




<英国バプテストの出現>

ところが、この英国に産声を上げた聖句主義教会が、ただひとつだけあった。
バプテスト聖句主義教会がそれであって、創始したのは、イングランド国教会の司祭だったジョン・スミスである。

彼は分離派ピューリタンとなったが故に、国王ジェームス1世に国を追放され、仲間の二人と共にオランダに亡命した(1606年)。

ところがそこでメノナイト派の聖句主義者と交わりをもち、その聖句解読を聞いて目から鱗が落ちた。
彼はこれぞ福音の神髄と確信し、1609年、自ら水に沈んで再洗礼(浸礼)をした。
他の二人も続き、彼らは自分たちをアナ・バプティストと称しはじめた。




<アナ・バプテストとバプテスト>

ここでバプテストという呼び名について若干説明する必要がある。
これから語る、まことのアメリカ史にはこの名が頻繁に出てくるからだ。

バプテストの名もそもそもは聖句主義者への古くからのニックネームのひとつで、最初はアナ・バプテストだった。
アナは「再び」、バプテストは「洗礼する者」という意味である。
あわせて「再洗礼者」だ。

前述のように欧州大陸での聖句主義者の多くは山岳地帯に逃れ住んだ。
だが、彼らに接触した一般人のなかから、聖句主義活動の自由と精神性の深さに感動し、その群れに加わることを切望するものが持続的にでた。

この新参加者に聖句主義者はバプテスマのやり直しを求めた。
中世欧州の一般人民は幼児洗礼を受けてカトリック信徒ということになっていた。
聖句主義者は、これをバプテスマと認めなかった。

彼らは新参者を川に連れて行って全身をザブンと水に沈める「浸礼」をした。
川でやれば一般人の目に入る。
人々はそれをみて「あいつらはバプテスマを二度させる再洗礼者」だといった。
ラテン語でアナ・バプテストである。
そして後にこの「アナ」が省略されていった。
これがバプテストの名の由来である。




<メノナイト聖句主義者>

もうひとつメノナイトも紹介しておかねばならない。
この名は指導者メノ・シモンズ(Menno Simons)に由来している。


メノは本来裕福なカトリック教徒だった。
だが、聖句主義活動を目にして感動し、1536年にこの活動に身を投じた。
ルター宗教戦争勃発の十年後のことだ。

その彼に影響を受けて運動に加わった人々がメノナイトと呼ばれるようになった。

彼は「教会での教えをこの世での個々人の職業生活、家庭生活、日常生活のすべてに厳密に適用」することを重視した。
 これを受けた信徒は、温厚で、平和的で、法律遵守で、人徳があって、根気と我慢の強い人々の集団になった。

ちなみにこの会派の人々は、後に、カナダと国境を接する米国側の西海岸寄りの地域に移住する。
今の州で言えば、ノースダコタ、サウスダコタ、ワントン、オレゴンあたりである。




<理想国家も企画する集団>

さてスミスにもどる。
彼は英国に帰り、多くの有力者に呼びかけてバプテスト教会を開始した。
察するところ、彼のオランダ滞在中に、イングランド国教会の宗教統制は様変わりに緩和したのだろう。

スミスは英国教会の司祭だった人だ。
国教会の司教、司祭は、国王の下で人民の宗教心を担当する、国王に次ぐ権力者だ。
もちろん、地位も財産もある素封家の子弟しかなれない職位で、彼らは地域社会の指導者だった。
特にスミスは複数の書物も書く神学者でもあって、普通の司祭を超えた名士でもあった。

その彼が呼びかける人々もまた、社会的有力者や知識人が中心となる。
彼は、早期にカンファレンス(聖句主義の神学学会)まで開いて、神学方法論を論じ、教会を造っていった。

そしてこれが英国バプテストに特異な性格を形成した。
この集団は、聖書解読の自由が迫害されずに行える国家、社会の実現をも志した。
そのために社会の仕組みをどうすべきかを熱く議論する集団ともなった。

社会の有力者の思考は、自由な聖句吟味活動をひそかに個人の信仰生活で実践するだけに留まらない。
それを自由に行える国家体制設計の領域にまで展開するものなのだ。


+++

通常の聖句主義教会ではそうはなりえない。
活動は国家体制側から例外なく迫害されるので、地下活動的なものになる。
そういう活動には、いわゆるエスタブリッシュメントというか、現体制での社会地位を持った人にはそぐわない。
だから、メンバーはみな庶民となる。

メノナイトもそうであって、彼らは個々人が聖書の教えを職業生活、家庭生活、個人生活に厳密に適用することに価値をおいて生きる庶民だった。


+++

英国近代バプテストは、異例だった。


スミスは、死亡する1612年に後継者のために、信仰表明書(通常「信仰告白」と呼ばれる)も書き残している。
そこで「国家とクリスチャン信仰との分離独立(政教分離)」を明白にうたっている。

国教会の聖職者にして卓越した知識人であった人物が、こういう風に方法論を論理的に示して呼びかけるというのは、聖句主義活動には前例がないことだった。

これに社会の有力者や知識人が賛同して、指導層を形成した。
そこに数多くの一般人も参集したのが、英国近代バプテスト集団だった。




<新大陸へ!>

アメリカ大陸への移住の道が開けると、聖句主義者は真っ先に移住を志した。
ノンポリのメノナイトはカナダ国境近くの西海岸寄りの地域に移住した。

他方近代バプテストは東海岸寄りの南部地域に移住した。
とりわけニューイングランド地方には、多く住み着いた。
そこは植民地統治の中心地だった。





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米国への無知を正す13 ~教理主義教会と比較する~

2015年02月20日 | 米国への無知を正す




前回に示したスモールグループ聖句吟味会の事例を想起しながら、聖句主義教会と教理主義教会の活動を比較してみよう。

教理主義教会では教理を聖書より優先させて使う。

教理というのは聖書の中の基本的と思える聖句を選んで、それを組み合わせて造る聖書の簡易要約冊子である。




<ルター派教会の教理書>


これも実例を見よう。

いま筆者の手元に、『ハイデルベルク信仰問答』どいう題名がつけられている教理書の邦訳版がある(吉田隆訳、新教出版社)。
宗教改革で有名なマルチン・ルターが創始したルター派教会の教理書だ。

これは新書版110ページくらいの分量である。
全文をここで示すことはできないので、「目次」だけを示すと次のごとくだ。


+++++

・序   ただ一つの慰め
・第一部 人間の悲惨さについて
・第二部 人間の救いについて
  ・ただ一人の仲保者
  ・まことの信仰・使徒信条
  ・父なる神について
  ・子なる神について
  ・聖霊なる神について
  ・聖なる礼典について
  ・聖なる洗礼について
  ・イエス・キリストの聖晩餐について
  ・鍵の努めについて
・第三部 感謝について
  ・全生活にわたる感謝
  ・十戒について
  ・祈りについて

(以上)

+++++ 


中身の文章は問答形式で書かれている。
教理書は一般信徒にわかりやすくするために、この表現方式が採られていることが多い。
タイトルの『・・・信仰問答』(ラテン語のカテキズムの邦訳語)はそれを表している。




<隙間聖句の吟味も赦さない>

他方、聖書の邦訳版は、いま筆者の手元にある邦訳聖書でみると、旧訳・新約あわせて2071ページある。
聖書の文字は小さい。
上記教理書と文字の大きさを同じにしたら、その倍近くになるだろう。

つまり4000ページくらいに相当する。
その聖書から、基本的な聖句を抽出して造った110ページの要約版がこの教理書ということになる。

+++

だから抽出に漏れた聖句はいっぱいある。
それらはいわば、教理文の「隙間」に存在する聖句である。
前回取り上げた「マタイによる福音書」5章38~48節におけるイエスの言葉もそれだ。
こんな話は、教理の中に含まれていない。

そこでこういう疑問が生じる。
教理主義教会では教理の文章は絶対正統だとする。
まあ、それは認めましょう。
だけど、教理文から漏れた隙間の聖句は信徒が自由に解釈していいのではないか~という疑問だ。


ところが、教理主義教会ではそうはならない。
一般信徒が自由に解釈すると危険だということで、解釈を赦さないのだ。

また聖職者もそれには手を出さない。
解釈して他の教職者から「異端!」と攻撃されるのが怖いからだ。

つまり、教理主義教会では結局聖句吟味は全くしないことになる。




<儀式宗教への変質>

以上で、聖句主義教会と教理主義教会との違いが今一段と浮上して来たと思う。

前述したように、キリスト教会はイエスの直接の弟子たちによって始められた。
初代教会と呼ばれるこの教会での活動の中核は、スモールグループ(後に「家の教会」と呼ばれるようになる)での真摯な聖句吟味活動だった。

そこから得られる霊的感動が、教理主義教会で儀式による情感に置き換えられていったのだ。

改めて顧みると、よくもまあここまで変質したものだ、とも思えるが、事実そうである。

+++


その状態で信徒たちは、日曜日に教会に出席し、礼拝メニューだけをこなして献金して帰って行く。
彼らはキリスト教活動とはそういうものだと思っている。

そしていまや世界のキリスト教会の大半が教理主義教会になっている。
そこで、外部者も「キリスト教会とはああいう儀式的な宗教」だと思っている。

日本では実質上、教理主義教会しか存在しないので特にそうなっている。




<専門職人の寿司店と回転寿司店>

この状態は、今日の寿司店にたとえてみるとわかりやすい。

そもそも寿司なる料理品を開発し、その味を造り上げ、普及させたのは専門職人だ。
彼らが寿司店でもって高品質な寿司を提供していた。

だが、あるとき、大衆品質の寿司を大量に造り、皿に載せ、それをベルトに乗せて流すという方法が考案された。

それは安価で一定の寿司の味を備えていたので、大衆がエンジョイし、大発展した。
その結果、寿司屋とはサラが回転している店だと思う子どもが急増した。
専門職人寿司店に連れて行ったら「(ここでなく)お寿司屋さんに行こうよ」といったという笑い話もある。



いうまでもなく教理主義教会は、この回転寿司店に相当する。

ただし、寿司のようなハード的・物的な食べ物では、ある程度再現されたオリジナルな寿司の味を、誰もが味わうことが出来る。

だが、霊的感動といったソフト的・精神的なものにおいては、人は量産品のなかに、オリジナルなものがもっていた神髄を感受できなくなる傾向が大きい。

それを見逃さなければ、この比喩は、二つの教会活動方式を識別するに役立つかもしれない。








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米国への無知を正す12 ~バイブルスタディの事例~

2015年02月18日 | 米国への無知を正す




<言葉で言えば簡単>

この連載の話の大筋は簡単である。
米国という国、特に、その超国力(スーパーパワー)を造っている基盤は自由な聖句吟味活動である~というだけのことだ。

これを知ったら、理解は完了となるのだ。
だが、この活動の中身が今ひとつ感触できない。
言葉で説明されても、漠然とした気分から抜け出せない。

それが実状だと思う。




<バイブルスタディの事例>

そこで、今回は、聖句吟味会の事例を示そうと思う。

人々が聖句の奥義に接近し、「これは真理だ!」と思える知識に比較的うまく到達していったケースを想起してみよう。

筆者は2005~6年にかけてサザンバプテスト地域のバプテスト教会に参加する機会を与えられた。
教会では聖句吟味のスモールグループにも加えて貰い、その活動の体験もした。

毎週行う聖句吟味の総仕上げは、教会の小部屋に集っての日曜礼拝前のバイブルスタディであった。

会では前の週の会の終わりに、次の週の対象聖句を決定する。
それをうけてメンバーはまず各々、個人研究をする。
そして週日に少なくとも一回は、グループでの吟味会をする。

最後に、日曜日の教会礼拝の前に自分たちの小部屋に集まる。
そこで、礼拝と同じ時間をかけて(約60分)聖句の最終吟味を助け合うのである。




<「マタイ伝」でのイエスの言葉>

ある週のテーマに選ばれていた聖句は「マタイ伝」に記録された次のようなイエスの言葉であった。

・・・・・・・・・・・
「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを諸君は聞いています。
しかし、私はあなた方に言います。。・・・(中略)・・・あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬もむけなさい。・・・・(中略)・・・だから、諸君は、天の父が完全なように、完全でありなさい」
(「マタイによる福音書」、5章38~48節)
・・・・・・・・・・・



「目には目、歯には歯」というのは、旧約聖書に記されている律法(りっぽう)の中の一部であり、具体的には「殺傷事故においてはこうせよ」という創造神からの命令である。

律法は創造神(エホバ神)からモーセを通して与えられたとされていて、イスラエルの民には絶対に守るべき命令だった。

+++

グループメンバーは聖句を確認した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・
「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えねばならない。
目には目。歯には歯。手には手。足には足」
(「出エジプト記、21章23~4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・

以下、「やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷・・・」と続くその聖句に関する吟味が始まった。

鹿嶋はいまその時のメモを頼りに、討議の有様を要約的に示してみようと思う~




<「目には目」で争いは減るか>

「ゴッド(創造神)はなんでこんな命令を出すのだ?」

「おそらく人間の世を平和に保たせるためだろう。ゴッドは人類を調和のうちに存在させることを望むかただからね」

「そうか、調和(harmoniy)が平和(peace)をもたらすのだ」

「悪魔は反対に、分裂させ争わせるのを楽しむ存在という思想だよね、聖書では」
「悪魔のギリシャ語の原語はディアブロスだ。これは“分けへだつ者”という意味だから、そういうことになるね」

「ゴッドが“目を打たれたら目を打て”と命じているのも、人民に調和を保たせるためか?」

「わからんな・・・」

「こう考えられないか。・・・目を打てば、相手は目を打ってこなければならなくなる。律法は絶対の命令だからね。そこでこういう律法があると、”人を傷つけるのは危険だ、止めよう”という気持ちが増大するのではないか? すると社会には争いが少なくなるのではないか?」

「抑止力か・・・」
「そうだ、抑止力としても働くかもしれないよ、この律法は」

「だけど、イエスはここで“その抑止機能は完全でない”と言ってないか?」
「かもしれないね。 『諸君は完全でありなさい』とわざわざいうんだから・・・」

「文脈としてはそうなるな。 だけど、どうしてだ?」

「イエスの『右の頬を打つようなものには、左の頬もむけよ』というのはそれに繋がっていそうな気がする・・・」

「文脈上はね。だが、どう繋がるのだ?・・・」





<報復合戦も起こしうる>

~以下、細々となされた検討の大枠をまとめて記しておく。

・人間(A)には、感情が激するときもある。その時には、Bを打つことも起きうるだろう。
・するとBは律法の命令に従って、打ち返さねばならない。

・その時、Bの手がAの鼻も打ってしまったらどうなるか。
・もちろんAは、鼻を打ち返さねばならなくなる。

・だがその時、AがBの右の前歯まで打ってしまって、それが折れたらどうなるか。
・Bは律法を守るために、Aの右の前歯を折らねばならない。律法とはそういうものだから。

・ところがその時、Aの左の前歯まで折ってしまったらどうなるか。
・AはBの左の前歯を打たねばならなくなるだろう。

・このように、律法の「目には目を」には、報復の拡大をもたらす危険も含まれている。
・であれば、調和実現の「完全な」方法ではないことになる。



+++

「では、イエスの言う『右の頬を打ちに来たら左の頬も出す』行為はどうか」

「それはBが打ち返さないことだから、つまり『目には目』の報復をしないことになる。それで報復合戦は絶たれることにならないか?」

「いや、そうならないこともあるのでは? Aが勢いで、あるいは図に乗ってさらにBの左の頬も打ってしまい、Bが“おとなしくしてたらいい気になりゃがって”と反撃に出たら?」

「やはり、報復合戦になりうるな・・・」





<感触された奥義>

「だけど、そこでもういちど、Bが右の頬を出したら?・・・いや、次にも、その次にも出し続けたら?」
「そんなこと続けられたら、Aも打つ気が萎えていくだろうなぁ・・・」

「そうだ、そこで平和が来るのだよ。もう悪魔も破壊できない調和が・・・」
「かもしれないな・・・」
「かもしれないではなく、もう、そうとしかならないのだよ」

「忍耐だなあ・・。イエスはそれをいってるのか・・・」
「そうだ! そうなんだ!」

「そういうことならイエスの理論の方は完全ということになるか・・・」

~ここまできて、短い沈黙が起きた。
メンバーの胸に深い感動がこみ上げるのがみえた。
見ている筆者も、精神が覚醒された気持ちになった。

メンバーはしばし「これは奥義だ、真理だ・・」といった感慨に包まれていた。
そこでは、人の心が活性化し、浄化されていた。
「自分の利益になることをしよう」から「正しいことをしよう!」という思いに、意識の比重が移っていくのが見えるようだった。

スモールグループ・バイブルスタディではこういう果実が得られることもある。

もちろん、これが「絶対に」正しい究極の解読かどうかは、人間にはわからないだろう。
時がたてば、また、別の解読も出てくるだろう。
それであっても人の精神と「知」は活性化され、こころは浄化されるのである。




<ガンジーは奥義を使った?>

残り時間が少なくなった。
議論は雑談的になった。

「・・・この奥義って、インド独立運動でガンジーが使ったのではないか?」
「例の無抵抗運動か?」
「彼自身クリスチャンだったし、優秀な法律家だった。聖書の奥義も知っていたのではないか?」

「たしかに、デモ行進していた彼と同調者は英国兵に打たれても打たれても抵抗せずに、ただ、独立の意志を示し続けたな」
「国際ジャーナリズムがそれを世界に報じた。幸運もあったなぁ」
「幸運というか・・・アーメンだな」

「英本国の議会に、”もう独立させよう”という声が多数化し、無抵抗でもって独立がなった」
「究極の理論というのは、恐ろしい力を秘めているんだ。ガンジーはそれを知っていて使ったのだ・・・」

「知っていたかは、どうか・・・」

「私は知っていたと思うよ」


~スモールグループは、これに関連する聖句を、次週の吟味対象と決めた。
そして、全体礼拝の会堂に向かった。

+++

今回は、事例紹介でもって終えることにする。
バイブリシズム(聖句主義)活動に関するイメージが、読者の心の中で一歩でも具体化したら、幸いだ。









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米国への無知を正す 11

2015年02月16日 | 米国への無知を正す




バイブリシストたちの聖句吟味活動は、教会関係者だけでなく、英国人民全般の精神・知性をも飛躍させた。

聖書思想の十全な吸収は、実際上、スモールグループ活動をとおして初めて可能になる。
日曜礼拝に出て、牧師の説教を聞いて、献金して帰ってくるだけの教会生活では、聖書の深いところはなにも身につかないのだ。

聖書の創造神は人民の一人ひとりに幸福を与えようという志向に満ちている。
イエスの十字架刑死もそのための働きとなっている。

その「全員を愛する」思想が、聖句主義活動を通して、初めて英国一般人民の心深くに浸透したのだ。
従来、欧州の社会思想でその幸福が考えられた対象は、有産・貴族階級の人間だけであった。

端的に言えば、庶民は彼らと同価値の「人間」ではなかった。




<経済学が始まった>

新しい思想はロックやヒュームら哲学者にも浸透した。
彼らは人民基点の国家論、統治論を展開した。
国王は彼らを迫害したが、読書階級にもそれを受け入れる姿勢が育っていた。

英国に「経済学」という新学問が現れたのも、それによる。
経済学は英国エディンバラ地方に住むアダム・スミスの『国富論』によって開始された。

だが、この書物の英語名は「ウエルス・オブ・ネイションズ(Wealth of Nations)」である。
直訳すれば、『諸国民の豊かさ』だ。

彼はそこで「各々の国の人民ひとりひとりの物的豊かさ」を実現する方法を問うている。
この新視野から次々に発見された理論知識をこの本に集積させている。

こうした視野は、聖書の思想を一定水準以上に深く吸収して形成された人間観によってはじめて産まれるものである。
そしてそれは聖句吟味活動がなかったら、現れ得ないものなのだ。




<新視野は産業革命も生んだ>

バイブリシズムの聖句吟味活動の影響は国家論、統治論、経済学といった知的・学問的世界に及んだだけではなかった。
財貨生産の現場においても一大革命を発生させた。

産業革命がそれである。




<作業の細分化、単純化、機械化>

産業革命とは要するに、生産が機械化されることによって、生産能力が飛躍的に上昇する事件をさす。
それは生産過程で起こされた一連の工夫の成果だった。

まず、作業の分業化を進める。
すると各作業は細分化され単純化される。
するとそれは機械に置き換えやすくなる。
そこに適切な機械を考案する。
そしてそれでもって、従来人の手で行われてきた作業を置き換える。

英国ではこういう事態が、生産現場のあちこちで、相互連鎖的に、まるで仕掛けてあった花火が噴火するようにして次々に発生した。
これを後世の人々は産業革命と呼んでいるのだ。



<繊維工業から開始>

工夫と変革は繊維工業から始まった。
紡績、織物の作業で機械化が進み、大量に商品が生産できるようになった。

だが、よくみると、このために必要な工作技術、すなわち冶金・金属工作などの技術は、既に遠くローマ時代にほとんど存在していたものだ。

英国で起きたのは、それらを全人民の生活向上の観点から新しく組み合わせていくビジョンの発生のみだ。
けれどももしそれがなかったら、生産者の視野は貴族階級の人間の快適な生活を実現することだけに占められていく。
そうすれば社会の生産エネルギーは、有産階級向けの精巧で芸術的な手仕事製品の生産にもっぱら向けられていただろう。

聖句吟味活動がかもしだす雰囲気によって、全人民の生活便宜、向上への願望が生産者の視野に入っていった。
軽工業部門の産業革命は、そのごく自然な結果だったのだ。



<重工業部門にも進展>

軽工業部門での生産方法の工夫が常態化すると、それが重工業部門の作業にも向かうのは、自然な動向であった。

事態は、軽工業で使われた機械の改善、蒸気機関などの動力機関、さらには鉄道など交通機関の発明にまでに進展した。
それらで弾みの付いた知的向上心はさらに、武器や軍艦など軍事手段の改善にも向かう。
英国では、こうした広範囲な産業革命が進展した。




<無敵艦隊を撃破する>

この情報を得ることなくして、近代英国に戦を挑んだ、スペインであった。
この旧大国は、英国での産業革命を知らずして、英国との海戦に乗り出した。
田舎国だから無敵艦隊によって容易に踏みつぶせるものと思ったのだ。

ところが英国側では、武器軍艦の技術だけでなく、戦の戦略・戦術設計から戦士の現場での戦いかたに至るまで、その創意工夫によって飛躍していた。
知らぬということは恐ろしいものである。
無敵艦隊は全滅した。

以後、英国は七つの海を支配する黄金時代を迎える。
エリザベス王朝、ビクトリア王朝の時代を通して大繁栄するのだ。





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米国への無知を正す 10

2015年02月15日 | 米国への無知を正す




バイブリシストの活動に覚醒されて、英国のキリスト教活動全般も激変した。
新教派の教会が、次々に出現したのだ。




<メソディスト教会>

そのひとつがメソディスト教会である。
これはジョン・ウエスレーが創始した新教会だ。

彼はオックスフォード大学で神学を学んだ後、英国教会の司祭となって働きつつ、創造神を礼拝するベストな方法を模索した。
馬に乗って巡回伝道をしつつ、晴天下の野原ででも礼拝を導きもした。

音楽の才に恵まれた弟の、チャールズ・ウエスレーが次々に造る新賛美歌も大胆に採用した。

このように様々な礼拝方法(メソッド)を試行していく彼の集まりに、人々はメソディスト(方法にこだわる連中)という呼び名をつけた。
キリスト教活動者への名前は、ほとんどがニックネームに始まっている。

この教団は大発展し、派遣された宣教師たちが日本でも青山学院、関西学院などを創設している。




<長老派教会>

スコットランド地域で開始されていた長老派教会の発展も加速度化した。
この教会は、もともとはカルバンのスイス、ジュネーブの改革派教会が英国に移植されたものである。

英国ではこの教会は、教会員から選ばれる長老という役職に、大きな権限を与えていた。
長老はプレスビテリー(presbyter)とかエルダー(elder)とか呼ばれる。
人々はこれに着目して、この教会を長老派教会(Presbyterian Church)と呼ぶようになった。

この教会も大教会になった。

このニューヨークの支教団が日本では明治学院を創設している。




<会衆派教会>

これは一般教会員(会衆)の総会での決定に、最高権威を与え、重要事項はすべてここで決定する方式をとる教会である。
会衆はコングりゲーション(congregation)だ。

人々はこれにコングリゲーショナル・チャーチ(会衆派教会)のニックネームをつけた。

日本では組合派教会とも呼ばれている。
会衆がコントロールするのは、運営面からいうと労働組合に似ているからだろう。

この教団の米国の支教会は、密航してきた新島襄を受け入れた。
新島はクリスチャンとなった後、宣教師としての支援を受けて日本にわたった。

そして教団の財政支援を受けて、同志社英学校を創設している。
今の同志社大学の前身である。




<国教会の変身>

このように新方式の教会が次々に出現し、その各々に多数の信徒が集った。

だがこうして各々が大教会になると、英国教会の立場はおかしなことになる。
国教会とは国教制のもとで、国の宗教を自教会のもとに統一するための教会である。
なのに、あちこちに出現する新興教会をなすがままにさせるしかなくなっている。

こうして、英国教会はもう国教会としての機能を果たせない、ひとつの大教会のようになってしまった。
端的に言えば、ひとつの大型のプロテスタント教会のように実質上なってしまったのだ。




<英国教会はエピスコパルチャーチに>

英国教会のこの有様は、その呼び名に反映していった。
もはやアングリカン・チャーチ(英国家の国教会)の名は実体からあまりに離れている。
そのためか、エピスコパル・チャーチ(episcopal church: 司教、司祭など カトリック風の監督をもった教会)のなが普及した。

日本ではこれを監督教会とか聖公会とかに訳している。

聖公会は日本では後の立教大学を創設している。

+++

いずれにせよ、英国では国教制はほぼ完全に瓦解してしまった。
キリスト教活動は大幅に自由になった。

当時、大陸のフランス、スペインなど大国では、国教カトリック教団が強大な宗教統制をふるっていたことを考えると、この変化は奇跡的ともみられる。

この事象は、バイブリシストの活動が人民の精神を覚醒し活性化することによって起きたのだ。

聖書の奥義を見出していく活動はかくも人間精神を覚醒するのだ。

驚くべきことである。







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米国への無知を正す 9

2015年02月14日 | 米国への無知を正す





人間は科学をもってしては、究極の理論知識(真理)に至ることは出来ない。
前回それを確認した。

そして聖書を通してのみ、そこに至る希望があることをみた。

・・・これは少なくとも中世以来の、欧州社会の大前提(常識)となった。

この希望をとりまいて人が集まる場が教会である。
教会は社会のありかたを規定し、国家のあり方、その運営方法にも影響を与えていく。

・・・このあたりについては、カトリック教団も聖句主義者の教会も同じ見解だ。

だが、その教会の運営方法は対極的だ。





<カトリック方式>

カトリックは、一般信徒は無知なので、聖書の解釈を自由になどしたら、教会は分裂してしまう、と考える。
それが蔓延したら、社会も国家もバラバラになってしまう。
だから、聖職者の方から統一的な解釈を与え、それでもって統率して行かねばならない、と考える。

またそれ故、解釈を自由にさせている聖句主義教会は、社会をバラバラにする無政府主義者養成所のようなものだ、と危険視する。




<バイブリシスト方式>

他方、聖句主義者はそんな心配は要らない、という。
教会員がスモールグループに分かれて聖句を自由吟味すれば、教会員の知性は成長する。
その結果実際にはメンバーの間で多くの合意がえられていく。

そのグループのリーダーたちが連携することによって、教会全体の一体性は柔軟に保たれていく、と考える。

もちろん、軍隊などのように上からの規律と命令でもって統率し、一体性を形成するほうが目的に効率的に沿う集団もある。
そのことについては、バイブリシストは否定をしない。

だが、こと聖書の中に真理を見出していくというような知的活動に関しては、成員の思考を自由にして自発的に連携させた方が、何倍もの成果がえられる、と考える。
そして、国家もその思想で設計し、運営して行くことが可能だとするのだ。




<二大エネルギーの衝突を含みつつ>


聖句主義者の数も膨大だった。
だから欧州史の底流には、この対極的な二派の思想的エネルギーの衝突が続いていたことになる。

そして、話は飛ぶが、その争いの決着が、米国大陸において、バイブリシストの勝利となってついた。
彼らの思想と方式が新国家の構造に結実した。

・・・鹿嶋はいま、そこにいたるまでの過程を説明しようとしている。
物語はこれから、宗教改革の時代に入る。

+++

ヨーロッパ中世には、上からの既成派であるカトリック側が、自由連携派の聖句主義者を圧倒し続けた。
ボクシングで言えば、聖句主義側を青コーナーに追い込み、ストレート、アッパーなどの乱打を続けた。
今の若者言葉で言えば「ボコボコにし続けた」のである。




<ルター宗教改革を起こす>

だが、「祇園精舎の鐘の音には諸行無常の響き」がある。
この世の政治権力が永遠に続くことはない。

1517年、ルターの宗教改革運動が勃発した。
ドイツの諸侯たちは、ルターを支持して自らの領地内にルター方式の教会を造っていった。

カトリック教団は、これをつぶしてしまわねばならない。
つぶさないと、彼らの欧州一円支配に穴が空いてしまうのだ。

教団の軍隊の主力は、強国フランスとスペインの軍によって構成されていた。
彼らは、これを用いて、何としても改革勢力を撲滅しようとした。

だが、ドイツ諸侯の抵抗もつよく、宗教戦争は長期化した。




<英国にも宗教改革が勃発>

このとき、海の向こうの英国でも宗教改革が勃発した。
国王ヘンリー8世が、ドイツでなされている戦の機会を捉えた。
王は突然、それまで国教だったカトリックの僧侶たちを追放し、そして新しい国教会、英国国教会を設立した。
もちろん、カトリック教会はお払い箱だ。

カトリック軍はドイツでの反乱の鎮圧にほとんどの勢力を使っていた。
海の向こうにわたって、この謀反をつぶしてしまう力は残っていなかった。

こうして、カトリックの欧州一円支配体制は、まず、英国であっけなく崩れた(1534年)。
ドイツでその支配体制に風穴が空くのは、その後のことである(1555年)。




<聖句主義抑圧体制が弱まる>

英国で国教会が出来ると、この地での聖句主義者への迫害は突然ゆるやかになった。
従来国教だったカトリックの僧侶たちは、取り締まりのプロだった。
彼らの探索と追求は緻密かつ執拗で陰湿だった。

だが、突然国教会の僧侶を始めた教職者は、取り締まりに関してはいわば素人集団だった。
だから統制能力が備わっていないうえに、新しい国教会の諸儀式を間違いなく執り行うのに大変だった。





<草の根ネットワーク>

「英国で聖句吟味活動の抑制が急緩和した!」・・・この情報は欧州大陸の聖句主義に燎原の火のごとくに広まった。

聖句主義者はスモールグループとリーダーの連携によって、非公式ネットワークをしっかり形成してきていた。
彼らにとって、その情報パイプはいのちであって、情報はまるで、各人がメールリストを持って交信するがごとくに、速やかに共有された。

バイブリシストは、「聖句吟味の自由があるところならどこにでも移住する」という民である。
これには「イミグレ」というニックネームもつけられていた。
彼らは密かにして(無政府主義の問題児とされていたので)かつ、速やかに英国に大量移住した。




<英国人を活性化する>

バイブリシストは、迫害が激しいときにはアンダーグラウンドに潜る。
だが、緩やかになると、表に出てくる。
欧州においても、平地に教会を造ったときもあった。

権力者の宗教迫害というのは波を打つのだ。
その周期は約20年とする研究もある。

だが英国では迫害はほとんど常時おだやかだった。
バイブリシストたちは社会の地表に出て活動した。

その彼らの聖句吟味活動を見て、英国人は大覚醒を受けた。




<庶民への影響>

まず一般庶民には、その知性と活性化された精神に感銘を受けた。
そして、この活動方式を自分たちの信仰活動に取り入れるものが多く出た。

英国の首相を務めた、マーガレット・サッチャーの両親も、この活動に密かに参加しただろうと思われる記述が、彼女の自伝になされている。

雑貨屋だった両親の店に、2~3人の大人たちが密かにやってくる。
そして両親と共に聖書を広げて勉強し、また、密かに消えていく。
こういうことが毎週あった、と、彼女は記している。

これはもう、言うまでもなく、聖句吟味のスモールグループ活動である。
迫害が緩やかといえども、活動を大見得きってすることはできず、このように密かに行ったのだ。

もちろん、それによって、彼女の両親の精神と知性は急速に活性化したに違いない。
そういう知的な家庭環境にあったが故に、雑貨屋の娘が英国総理までいくことができた。

筆者は身分を言っているのではない。
一人の小売商の娘が、知的に成長してオックスフォード大学に進み、政治家の道を歩んで行くには、その家庭の知的環境が実際問題として大きな役割を果たすことを言いたいのだ。




<国教会聖職者にも衝撃を与える>


また、英国教会の聖職者、司教、祭司たちも、バイブリシストの活動の誠実さ、霊性の深さに衝撃を受けた。
彼らは、翻って、自分たちの国教会本部の教会運営を反省した。
すると、その諸制度は、世的な色合いの濃いものを含んでいることが見えてきた。

その中から、国教会の改革運動を開始するものが現れた。
もちろん、本部から抑圧を受け、懲罰も受ける。

だが、抑圧される毎に、彼らの改革志向は強くなり、行動も過激化した。
なかには、命知らずの改革運動をする聖職者も出た。

そうした彼らは外部者からピューリタンと呼ばれていった。
外部の人々の目には、彼らは「純粋な野郎たち」と見えたのである。




<ピューリタンなる名の由来>

ちなみに、ピューリタンというのはニックネームであって、この呼び名は古代・中世からある。
早くからその名を与えられたのは、他ならぬ、聖句主義者であった。
人々は、彼らの世的志向が薄く、霊的意識の濃い姿を、やはり「ピュアー」だと感じたのである。

その意味で、英国でのピューリタンは、英国近代ピューリタンと言うべきだろう。
そしてこの「ピューリタン」を日本では清教徒と邦訳している。




<分離派清教徒>

だが国家権力を背景とする国教会本部の力は強かった。
改革に携わった司教、司祭たちは追放され、職を失った。
過激なものは懲罰を受けた。

そして彼らの中から、国教会の改革は要求しないが、教会活動は自分たちが正しいとする方式でやらせて貰う、という聖職者が現れた。

信徒にも、彼らに賛同するものが出た。
彼らは分離派ピューリタン(Separatist)と呼ばれた。
国教会から分離して教会活動をする者、という意味である。

これだって国教制度からしたら、違反である。
だが、本部にたてついて改革活動をするものほどには、受ける制圧は強くはなかった。

筆者は英国近代性教徒は、この分離派ピューリタンと、先に教団改革運動をした聖職者とを区分するために、後者を改革(派)ピューリタンと呼ぶべきだと思っている。
だが、そういう用語は、当面教会史には現れていない。




<「清教徒」知識の漠然さ>

理由は、清教徒に関しては、教会史家にも漠然としてよくわからないところがあるからだ。
わからないから、ピューリタンに関して詳細に記述する用語が作れないのだ。

読者が改めに歴史教科書を開いてみると、英国のピューリタンがどうして出現したかの記述がないことに気付くだろう。

専門書でさえも、英国での清教徒は突然現れたようにしか書いていない。
その出現理由のところが穴になっている。

バイブリシズム活動の知識が皆無だからだ。
だから、清教徒が出現するゆえんに対して、全くの盲目になるのだ。
清教徒概念が明確に出来ないのは、その結果である。

+++

ともあれ、この清教徒、とりわけ、分離派ピューリタンは、これから英国史、そして米国キリスト教史に一定の役割を果たす。
それも一気に語りたいが、長くなるので、次回以降にまわそう。






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米国への無知を正す8

2015年02月13日 | 米国への無知を正す







キャロルという教会史研究者は、1200年間にわたる、カトリック教団による聖句主義者への迫害を、非公式資料を掘り出してつぶさに調べた。

彼の推計では、この間に処刑された聖句主義者は約5千万人という。
驚異的な数だ。
イスラム国もこれを聞いたら、「参りました」と尊敬して頭を垂れるだろう。

割り算すると1200年間も、年平均にして4万人ずつ殺されたことになる。
遺体の処理だけでも大変だったろう。




<明かされ始めた歴史>


こうした様も、国家権力側のカトリック教団は、すべて覆い隠してきた。
だが「隠されたものはいずれ明らかになる」との聖書の思想は貫徹するのか、21世紀近くになると、事実が公に示されるようになった。

帚木 蓬生 (はばきぎ ほうせい)という作家がいる。
精神医師でありながら、小説を書くという人だ。

このひとが『聖灰の暗号』 (新潮文庫)という小説で、カタリ派という聖句主義者の一派の悲劇を描いた。

300人近くの指導者がとらえられ、フランスの街の広場で夜ごと火刑に処せられていった状況を克明に描写している。

フランスに行ったとき、カタリ派の子孫という青年が彼に近づき、「小説家なら描いてくれ」と口伝されているカタリ派の悲劇を伝えた、という。
帚木氏は調査を進め、上記小説を書いた。

このようにして、事実は徐々にではあるが、明かされ始めている。




<何がバイブリシストたちをそうさせたか>


さてそこで懸案の問題が出てくる。
それほどまでにされても彼らが守った聖句主義活動には、一体どのような魅力があったのか、ということだ。

極寒の冬がやってくるピレネーやアルプス山脈での山間の生活。
そこに周期的にやってきて仲間を逮捕し処刑していくカトリック軍隊。

そんな生活をしても手放すことの出来ないほどのかけがえのない喜びがあるのか。
あるとすれば、一体、自由な聖句吟味のどこがどのようにしてそれを与えるのか。

そのことがわからなければ、この一連の連載は、中身の空虚なものになる。
逆に、読者にそれを納得させられたら、本稿の目的はかなり達せられたことになるだろう。

その重要事項に、これから取り組んでみよう。
話はふたたび、聖書という書物の特性にかかわってくる~。




<「万物の創造神から」に鍵がある>


聖書(特に旧約)を考えるとき、われわれは聖句の中心が「万物の創造神」からのメッセージ受信記録だと「信じて」書き留められた受信記録集だということを見逃してはならない。

もちろん実際にそれが万物の創造神からのメッセージ記録であるかどうかを、100%知ることは人間には出来ない。

モーセはそう「信じて」記録したのであり、イスラエルの民もそう「信じて」文書を保存してきた。

この「信じて」は現代風に言えば「そういう前提で受信され、書き留められ、保存されてきた」となる。
そう受けとめてこのメッセージを改めて考えてみよう。





<天動説と地動説>

まず、もしも、「創造神から」が事実であるとしたら、どうかから考えよう。

そうであれば、聖書は、他のどの書物にもない、ものすごい情報の集積集だということになるだろう。

そのことは、人間が造る理論知識に比べてみると、明らかになってくる。

人間の造る理論知識の中で最も信頼の置けるのは科学の理論だと、現代では考えられている。

それを天文学の理論知識を例にとって考えよう。
科学知識の性格を、わかりやすく示してくれるからである。

<天動説>

天文学の理論知識の中に、天動説といわれているものがある。

「天空は我々の住む地面の上を回っている」という理論である。
朝が来て空が明るくなり、昼が来て、その次に夜が来て暗くなり、また朝が来るのもそのためだという説である。

人類は長いこと、これが正しい説だと思ってきた。
一般庶民も僧職者・学者もそれが当然だと思ってきた。

<地動説>

ところが望遠鏡が発明されたりしたら、天動説では説明のつかない事象が見えてきた。

これに対してコペルニクスは、地面の方が動いているという理論を考え出した。
ガリレオも同じ理論を出した。

そうしたらすべての現象が説明されていった。
この理論はいまでは地動説と呼ばれている。

科学では天動説のような理論を、仮説(仮に設定した説:英語はhypothesis)と呼ぶようになっている。
「(新しい事象が見えてきたら)修正される余地のある理論」という意味だ。

だけどガリレオの地動説だって修正される運命にある理論である。

天体観測技術は進む。
観察内容はさらに広がる。
そうすれば彼の天体理論も内容がまた修正されていくことになる。
実際、ハップル望遠鏡が発明されたりして、その通りに今日までなってきている。




<科学理論は仮説改善を繰り返す>

では、科学は「もうこれ以上修正されることはない」という究極の理論にたどり着くことは出来るのか?

できない。

+++

人間は有限な存在であり、その認識可能範囲は有限だからだ。
その認識範囲を広げていくことは出来るが、無限の世界にまで至ることは出来ない。

そのことは天文学以外の他の理論知識についても同じだ。

科学とは、新しくわかった観察事項を取り入れて、従来の仮説を修正してより成熟した仮説を作り上げる作業でしかありえないのだ。

人間は物事を理解しようとして理論を頭の中で作る。
だがその理論は、観察出来る範囲が広がると変わるべき「仮説」であり続けるのだ。

当人が「これこそ究極の理論!」と思っていても、時がたてば変わって行く運命にある。
科学というのは、人間が営む、終わりのない仮説修正の営みなのだ。





<「万物」を創ったのなら>

ところが、もしも、もしも・・・「すべての存在である万物」を作った創造神がいたらどうなるか。
そしてこの創造神が人間に幻などでメッセージ(啓示)を与えてくれているとしたらどうか。

テレビを造った人間は、テレビの存在目的も仕組みも全て知っている。
創った側は被造物の全てを知っている。

万物を造った創造者ならすべての被造物のすべてを知っているはずだろう。
それを踏まえて造られる理論は、究極の理論になるだろう。

そしてもしも人間がこれをメッセージとして受信して言葉に記録していたらどうなるか。

その記録の中には究極にして不動の理論があるだろう。
あるいは少なくともその真理を知る手がかりが埋め込まれているはずとなるだろう。

ちなみに英語では究極の理論をトルース(truth)という。
邦訳聖書を造ったヘボン先生はそれに漢字の「真理」をあて、「まこと」とふりがなを振っている。




<真理は諸分野にある>

なお、真理というと「真理は一つ!」という常套語が跳ね返ってきそうだが、聖書の真理はそうではない。

究極の理論は、あらゆる分野にありうるのだ。

人間の構造に関する真理があり、その霊魂と思いに関する真理もあり、自然や動植物に関する真理もあり、創造神や天使に関する真理もあり、世界の歴史展開に関する真理もある。

その一つ一つに究極の理論はありうるので、聖書吟味の題材は尽きることがない。
聖書研究会がテーマ欠乏で続かなくなることはない。





<真理への可能性をどう受け止めるか>

ともあれこのように聖書は、人間に真理に至る「可能性」を提供する夢の本なのだ。
それは「万物の創造神からのメッセージであるかも知れない」ということから来る。
これは、驚くべきことである。
こんな可能性は、他のどの書物も持っていない。

+++

そこで次に、この「可能性」の扱い方、それへの対応の仕方を考えよう。

現代の平均的日本人に一番多い反応は「そんなバカな・・・」である。
「万物の創造神からのメッセージ記録集?・・そんなバカな・・・、サヨウナラ」という。

これは可能性はゼロだと認識する対処方法だ。


第二は、日本の教会でよくある風景で、牧師さんがいう「聖書は神の言葉だと信仰でもって信じなさい!」といいう方法だ。
これは上記とは逆に、「100%真理があると信じて」対処する方法である。

「信じる」というのは「見えないものを存在すると認識する」というひとつの認識方法である。
この方法を採るというのは、相応に筋が通った対処方法である。

一般に人は、そういう二通りの対処方法を取る。
可能性がゼロ%というのと、百%との二通りだ。



<五分五分から出発する>

だが、鹿嶋はこれらはどちらも感情的で「知」の欠けた姿勢だと思う。

そして、もう一つの方法、第三の「知的・合理的な方法」があり得ると考える。

それは「その可能性は五分五分」という認識から出発するという方法である。

そもそも「世界に万物の創造神がいる」「その方がモーセたちに幻を示して、預言者はこれを記録した」といったことは、人間には見えない世界のことだ。

むろんモーセ自身にもそうである。
だから彼は「信じて」記録しているのである。

そしてこれら「みえないこと」は人間には、存在するとは言えない、と同時に「存在しないと証明すること」も出来ないことがらだ。

だったら、その可能性は知的・合理的には五分五分ではないだろうか。
それをゼロだとか100%だとかいうのは感情的なのだ。

+++

そこでまず、五分五分という合理的な点に立つ。
感情的にあらざる、知的な認識に立つ。

これは聖句に究極の理論(真理)ありとの期待と信頼を50%持っている状態だ。
そこから出発する。
吟味の船出をする。

バイブリシズムとはここからはじまる行き方である。
そして、やっていくと「これは真理だ!」と深く確信することに遭遇する。
すると、その信頼確率は6分4分になるだろう。
さらにその体験を重ねると、7分3分にもなりうる。

そういう過程をたどった人が、バイブリシズム活動を続ける人であるように観察できる。

聖句吟味のスモールグループ活動をする人の心理はこのようにして説明できると鹿嶋は思っている。




<信仰を確率の心理で見る>

余談だが、鹿嶋はこの考えを口に出して牧師さんに怒られたことがある。
「7割の信頼とは、何ですか! そんなの信仰じゃない! 全面的に信じなさい!」。

でもこういう確からしさの確率心理でもって、信仰を理解するという道もあるのではないか。
その道に目が開かないことが、宗教をやたら感情的なものにしているのではないか。

特に日本ではそれが著しいのではないか。
使途パウロのいう「信仰に知を」という言葉は、これを戒めているのではないか、と鹿嶋は思っている。





<奥義に触れたときの感動>

スモールグループで聖句を吟味していって合意に至ると、突然奥義を知った気持ちになることがある。

これには「これは真理だ!」という感動が伴う。
「これは人間ではとても考え出せない」との確信も伴う。

この時得られる知的喜びには非常に深いものがある。
それがまた、驚異的な知的向上心を沸き立たせる。





<参加者が絶えなかった>

聖句主義活動をするものが、殺戮されながらも、活動を止めなかったのは、この喜びを捨てられなかったからではなかろうか。

5千万人殺されても、彼らは消滅することがなかった。
おそらくその総数も増大傾向をたどりすらせよ、減少はしなかったと思われる。

彼らの活動に触れて、感銘を受けて群れに加わった人々が絶えなかったからだ。

この動向は常時的で、現代でも続いている。
キリスト教系の新聞などには、「***教会(教理主義教会)から一群の信徒がバプテスト教会(聖句主義教会)に移動した」、といった類のニュースが周期的に現れている。




<教会生活の相違>

教理主義教会の信徒は、日曜日に礼拝に出席して、賛美歌歌って、牧師の世間話のような説教を聞いて、献金して帰ってくる。
そういう教会生活からは聖書の奥義は悟られ得ない。
必然的にそこから得られる霊的恵みには限界があるのだ。

対してバイブリシストたちは、自由な聖句吟味を個人で行い、週日にも自主的に集って語り合う。
その上で日曜日の礼拝の前に小部屋に分かれて、礼拝と同じ時間、スモールグループ吟味会をする。

それから全員が礼拝堂に集まって創造神を讃美し、牧師のメッセージを聞き、そのできばえをまたスモールグループメンバー同士で事後的に品定めしたりもする。
グループでランチしたりした後、また、夕方、メンバーの一人の家に集まって交わりをもち、こうして一日を教会デーとする。

その生活に触れて、若者が教会移動する動向も、米国では緩やかだが持続している。
これらのことから、迫害時代のバイブリシストの心理も推察できるのである。





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米国への無知を正す 7

2015年02月11日 | 米国への無知を正す





これまでみてきたように、カトリック教団というのは後発教団であり、世的な現実の必要に上手く対応していく、という性格も兼ね備えた人間集団だ。

キリスト教会の源流は、この教団ではなく初代教会であったことも、示してきた。

そしてこのカトリック教団が、4世紀末(392年)に、ローマ帝国の唯一国教の地位をえてしまう。
教科書に書かれている「国教になった」というのは、この教団なのだ。

なのに、教科書にも専門書にも、そして、世の識者と言われる人々の言葉にも、「キリスト教が国教になった」とある。
全くおかしい。

もうここから、人類のキリスト教理解は、迷路に入っていくのだが、どうしてそうなってしまったかは、これからの説明で徐々に自ずから明らかになっていくだろう。

+++

カトリックが帝国の国教の地位を得た一要因は、この教団組織のもつ体質がローマ政庁のそれに似た面を持つからである。
帝国政庁が自らの体質に合うが故に、国教とした面が多いのだ。
だが、それもおいおい示唆されていく。




<宗教の統一を望む>

カトリック教団が国教になるまでには、様々なドラマがある。
それ自体、政治事象として興味あるところだが、そのあたりは当面省略しよう。

とにかく、カトリック教会は帝国の唯一国教になった。

すると、教団は全ローマの人民を、自分のキリスト教方式に統一しようという意志を強く持つことになった。
この教団は教理主義方式で教会運営をするので、そもそもからして、信徒の聖書解釈を教団が正統とするひとつの解釈でもって統一してきた。

その体質が、国教になって、西ローマ帝国下の全人民に向かったのである。

まあ、新体制の発足で張り切ったことも含めて、これは人間の自然の情だろう。
カトリック教団は、いまや、国家の宗教庁の位置にあるから、法令を発布して人民に命令することが出来る。
ローマ帝国下の全ての教会に、カトリックの教理に従って活動することを求める気は自然に湧いてくるのだ。

+++

ところが、これに従わない教派があった。
初代教会以来、聖句主義方式で活動を行う教会がそれである。

彼らは教会員を教理で縛らず、個人の聖書解釈自由を大原則として、聖句探求をしてきている。
この大原則に、カトリック国教教団の要求は正面衝突するのだ。





<教理主義と聖句主義は水と油>


初代教会系統の聖句主義教会とカトリック教団とは、そもそも全てにおいて対極的だった。
それは根底的な相違なので、相容れるのは容易でないのだ。

+++

カトリックではプロの僧侶だけが聖句解釈を行い、幹部が検討あってこれが正統という教団教理を一つ決める。
これを信徒に与え信徒はこれに従う。
信徒が直接聖書を読むことも実質的に禁止だ。

+++

対して聖句主義教会では信徒全員がスモールグループで直接聖句を吟味しあう。
各々が自分の解釈を持ち寄って突き合わせ吟味する。
そういう活動は個々人の思考を自由にしていないことには成り立たないので、個人の聖句解釈自由は活動の大前提になり、これはゆずれないのだ。

+++

教団運営方式も対照的だった。
教理主義教会は職業僧侶が階層管理システムを形成し、一般信徒を統率する。

他方、聖句主義教会は聖書自由解釈を個人に認めた小グループの任意連携によって全体が動いていく。
それは相互理解と合意を積み重ねる民主主義の極のようなシステムである。

たとえ対等合併であっても、こういう二つが合併することは困難である。
なのに話は吸収合併だ。
カトリック教団自らは変化することなく、相手に同化してこいという。
不可能な話だった。




<カトリックランドを目指す>
 
ディズニーランドは、園内の全空間にウォルト・ディズニーのコンセプトが貫徹している。
カトリック教団も帝国のカトリックランド化をめざし、人民をすべてカトリック信徒にしようとした。
まあ、一般人民は従っただろう。
従えば政府が提供する公的便益を受けられるし、就業の機会を取り上げられることもなくなるからだ。

だが、聖句主義者は従わなかった。
しかも彼らの数は膨大だった。
なにせ、当初ローマ帝国全土に広がった教会はみな聖句主義教会だったのだから。
その状態が紀元後1世紀中は続いたので、彼らの集いは全欧州大陸にくまなく存在していた。




<幼児洗礼法を考案する>

カトリック教団は対策を打った。
まず416年に幼児洗礼法という法律を施行した。

幼児洗礼とは「子供が生まれたらすぐに洗礼をほどこす」行為である。

ちなみに洗礼とはバプテスマの邦訳語であって、聖書ではイエスの教えを信じた者を素早く水に沈めて浮かび上がらせる行為となっている。
これを浸礼という。

 カトリック教団はこれを滴礼(水を額に垂らす方式)に簡略化した。
生まれたての子供を水に沈めるわけにはいかないのだ。
そしてこの滴礼を幼児にさずけることを全人民に義務づけた。

幼児洗礼というのはよく出来たイデアである。
これをしておけば、赤子は将来みなカトリックのクリスチャンということになる。
彼らが大人になる頃には聖句主義者の大人も死んでいなくなるだろう。
かくして「イッツ・オートマチック」、宇多田ヒカルの歌のように、全人民が自動的にカトリック教会員になる仕掛けであった。





<洗礼をめぐる神学論争>


ところが聖句主義者はこの法律にも従わなかった。
自らの子に幼児洗礼を施すことを拒否し、西欧地域の至るところでカトリック教会との争いを起こした。

ここでバプテスマに関する両者の思想の違いを若干見ておこう。
このあたりを理解していかないと、以後の話が浮いてしまうからだ。

バプテスマはイエスの命令に従っておこなう行為である。
復活して現れたイエスは弟子たちにこう命じている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音(イエスの教え)を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます」
(『マルコによる福音書』16章15~16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで「救われます」というのは「人間の霊が将来天国(天にある創造主の王国)に入る資格を得る」という意味である。
聖書ではこれを「救い」を受けると表現する。

さて、この聖句でイエスが「信じてバプテスマを受けるものは」といっているように、聖書ではバプテスマは信じた者に授けるもの、となる。
そしてこの思想は信仰者洗礼(believer's Baptesma)という神学用語をも生んでいるくらいで、今日では聖句解釈の常識となっている。

+++

聖句主義者は「生まれたての赤ん坊に信じる、信じないの判断など出来ない」と、幼児洗礼法に従わなかった。
だが、カトリックは教理主義教会であって、教団の公会議で承認された教理(解釈)を、聖句より優先して用ることができる。

彼らは幼児洗礼を肯定する教理を作り出して、押していった。

ここでの両者の見解の対立点をみよう。
読者も、教養のために、この程度のことは知っておいていい。

わかりやすくするために、論争がなされたと想定して示してみよう。

・・・・・・・・・

聖句主義者「幼児洗礼は聖句に反する」
カトリック教団「いや、そうでもない。洗礼で救われるのはその行為に秘蹟(sacrament)が伴うからで、生まれたての幼児はこの神秘的な力によって救いが与えられるのだ」

~秘跡とは文字通りでは神秘なる痕跡である。
カトリックはこれを「霊によって起きる神秘な賜物」とした。
これがあるから幼児も洗礼で救われるとしたわけだ。


・・・・・・・・・

聖句主義者「そんなことで、赤ん坊には信じるという心理が働かない事実が、解消されるとは思えない」
カトリック教団「そうかもしれないけど、その点は、成人して堅信(confirmation)礼で補えばいい」

  ~堅信礼というのは「受洗した後に行う儀式」であって、これには信仰を強める秘跡がともなう、という教理を教団は造ったのである。

 カトリックは国家権力側だ。
こうして、ローマ帝国下の人民は、子供が生まれたらすぐに洗礼を施さねばならないとした。
この制度は西ローマ帝国滅亡後の欧州国家においても続行されていった。




<「逮捕・殺戮」の開始>

だが聖句主義者は「秘蹟や堅信礼などの神学理論(教理)は聖書に則らない詭弁」と解して断固拒否した。

そこで国教側は新たな対策を考案した。
「幼児洗礼法に従わない親は処刑」との法令を追加したのだ。
前の法律施行後、10年間のリードタイムをおいた426年のことであった。

+++
 
教団は国家の軍隊を用いて聖句主義者の居住地を襲わせ、とらえ、殺さえた。
聖句主義者はピレネーやアルプスの山々の谷間に、あるいはスイスの僻地にのがれて活動を続けた。
軍隊はそれを探索してまたとらえ、殺すを繰り返した。

記録にはないが、カトリックの本拠地、イタリー、フランスから遠い北欧の地にも多く逃れたであろう。

これが宗教改革までの1200年の長きにわたって延々と続いた。
(この事実は公式歴史記述のなかではすべて覆い隠されている)

聖句主義者にとっては、これは今流に言えば、全欧州がイスラム国になったような状態だったろう。





<異端審問裁判所>

その間、思想検査もエスカレートし、異端審問裁判所という機関までできた。
異端とは正統とする教理に沿わない理論という意味である。
カトリック教団は自らの教理に沿わないことを述べるものは、聖句主義者でなくても異端と判決して処刑した。
(ジャンヌダルクも、この制度で有罪宣告を受け火刑に処せられている)

+++

コペルニクスはそれを恐れて自らの地動説を二十年間隠した。
ガリレオは地動説を述べたかどで告発され自説を撤回させられ、以後軟禁生活のなかで生涯を終えた。

教団教理は天動説であり、それに反する理論は異端だったのである。




<「中世暗黒時代」の内実>
 
こういう社会体制では例外なく秘密警察が使われ、人民同士の密告も常にある。
人民は互いに疑心暗鬼になり「いつ何時、誰になんで告発されるかわからない」とおびえて暮らす毎日を送った。

これでは精神は萎縮し、知性も恐怖で萎えてしまう。
自発的な探究も発見も発明も出なくなる。
世に言う中世暗黒時代の実態は、こういう「精神の暗黒時代」だったのである。


その反面中世には、古代にあったような大きな戦争は起きなかった。
これをもってして中世を評価する向きもある。
だが平和にもいろいろある。
人民を恐怖の中において「心の平安を奪い、精神・知性の活力を衰えさせて実現する平和、単に戦争がないだけの平和」が幸福な平和と思う人は、現代では少ないだろう。





繰り返すが、聖句主義者のこの壮烈な歴史は、すべて(カトリック権力によって)封印されてきた。
その慣性が現代にまでも続いてきていて、事実は歴史の教科書にもまったく書かれない。

必然的に現代でも読者には、この話は全く馴染みのないものとなり、「直ちには信じられない」ものともなる。
読者諸氏はおそらく、少しフォローすると「疲れてしまう」ことになったのではないかと思う。
言いたくないけど、これを書く鹿嶋も通常より何倍も疲れる。



(続く)







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米国への無知を正す 6

2015年02月10日 | 米国への無知を正す





「米国への無知を正す」といいながら、オレはどうして教会の話など細々としているのだ?・・・

そうだ、要するに、米国の持つ力は、想像を絶するといっていいほどに活性化した精神・知性によって出来ていること、そして、それは聖句主義というキリスト教活動方法からでていることを、説明するためだ。

そのためには、聖句主義活動とはどんなものであるか、わかって貰わねばならない。

これがなかなか難しいのだ。
読者は、そんな活動を見たことがない。
言葉での説明には限度がある。
だから、鹿嶋は、ますます言葉を重ねる。

そういうことをやっているのだな・・・。




けれども、もし読者が聖句主義活動の現場を観察されたら、事態は突然わかりやすくなる。
そして、それは簡単にできるのだ。

米国在住の方は、電話帳を開く。
近辺の「バプテスト教会」と記されているところに電話する。
「ある事情でスモールグループでのバイブルスタディを見学したい」
~といえば、大歓迎で見せてくれる。

約束の日曜日の時間に、玄関で歓待担当者が待っていて見せてくれる。
これもサザン・ホスピタリティーだ。

+++

バプテスト教会は、南部のバプテスト地域には、クルマで5分走る毎に見えてくるくらい、たくさんある。
しかし、北部の、教理主義教会が優勢な地域でも、街にひとつはある。

米国では信教自由のためか、小さな街にも代表的な教派の教会はワンセットそろっている。
長老派、メソディスト派、ペンテコステ派などとならんで、バプテスト派の教会も必ずひとつはある。
米国在住者は恵まれている。

+++

しかし、日本でも大きい都会には、バプテストの名を付した教会が電話帳にひとつならずある。
そこに電話して、「スモールグループバイブルスタディをしているか?」と尋ねる。
やってると答えたところに「観察したい」との目的を言って行けばいい。

教会という所は「来る者拒まず、去る者追わず」の行動原理を持っている。
訪問したからと言って、「次回も、次回も・・・」と言ってくることはない。
ましてや、命まで取られることなどないから、安心して訪問したらいい。

知的・精神的活動は、現場を見ると認識が飛躍する。





・・・ということで、情報の補充を続ける。
今回は、カトリック教会に代表される教理主義教会の台頭と成長を示す。

我々は、キリスト教会というと、カトリックもバプテストも同じようなもの、と考えている。

だが、そうではない。
聖句主義教会と教理主義教会とは、まるで、別の宗教であるかのように、異質なのだ。

聖句主義教会の正確な理解をうるには、教理主義教会の特性を知ることが必須なのだ。
では始める・・・。





<教会参加者の質が変わる>

初代教会は爆発的成長をした。
新らしい宗教運動が急成長をみせると、いつの時代にも当初、近隣者は気味悪く感じるものだ。
初代教会に対しても、人々は恐怖し、また怒りを抱いて信徒の集会を襲撃したりした。

だが教会の成長は続行した。
教会開始後30年で、信徒はローマ帝国全土に広がった。
これほどに普及して、かつ「思ったほど有害でないな」とひとびとが知るようになると大衆の教会へのイメージは変わっていく。

聖句主義活動をするクリスチャンがいのちを投げ出しての社会貢献も大いにしたこともあって、迫害は急速に和らいでいった。




<癒やしも食料も与えてくれる>

初代教会では発足以来、参加者は生活面でも助けあっていた。

『使徒行伝』の(2章44~45節)には「信徒はもてるものを使徒たちのところに提供し、使徒たちはそれを信徒の必要に応じて分け与えていた」という記録もある。
加えて教会には、病の癒しも相変わらず現れていた。

こうして教会は大衆にもそんなに迫害されなくて「この世的な利得が得られところ」となった。

すると、参加者の質は変わってくる。
生活の世話や癒やしを受けられること主たる目的にして教会に参加してくる人が多くなる。

紀元二世紀に入ると、キリスト教会にはこの動向が急進した。
このころ、イエスの直接の弟子たちは、もう死んでいなかった。




<指導者が聖書の要約をつくる>

キリスト教会は「来る者拒まず、去る者追わず」という人間集団だから、世的な利得を主目的にしてやってくる人も受け入れる。
すると信徒の数は急増するが、新たな運営上の問題も浮上した。

こういう人々はスモールグループに編成してあげても、聖句自由吟味方式は実行できないのだ。

まずこういう参加者は聖句への探究心をあまり強くもたない。
裕福だがビジネスが忙しく、教会活動に多くの時間を割くことが出来ない人もいたはずだ。

それでも指導者たちは彼らに聖書の思想を知ってもらわねばならなかった。
加速度的に増えてくる新参加者の一人一人を手ほどきするには、相手の数が多すぎる。
担当指導者たちは結局聖書を簡素に要約して、「これがキリスト教の教えだよ」と示すしかなくなった。





<教理書を持つ教会、持たない教会>

この聖書の簡素な要約冊子が、(教団の)教理書だ。
今も、カトリックは「カトリック教理集」、ルター派は「アウクスブルグ信仰告白」、長老派は「ウエストミンスター信仰告白」、カルバン派は「カルバン信条」等々の冊子をもっている。

聖句主義教会のバプテスト派やメノナイト派は、教理書を持っていない。

+++

新教会指導者の仕事は加速度的に増えていった。
わかりやすいエッセンスの要約を一つだけ作るの労力のかかる仕事である。
指導者たちは同じことを教えねばならず、聖書を吟味しあって解釈の合意に至る必要があった。

聖句主義活動をしている信徒の指導者には、そういう仕事は全くない。
聖書の要約は信徒個々人がスモールグループ活動を通して各々の心に形成していったからである。

教理主義方式の教会は、必然的に、管理部門の大きい、頭でっかちな組織になるのである。





<教理主義教会は、霊的感銘を補填せねばならない>
 
教理主義教会の指導者の新業務は他にも出てきた。
聖書の要約を与えてしまうと、もう聖句探求の醍醐味はない。
奥義の発見をしたときの「真理を見出した!」という霊的感動もない。

そこで霊感の充足不全を、教会は様々なサービスで補填せねばならなくなる。
それは彼らに教会員の自覚を維持させるためにも必要だった。

(ちなみに真理に触れたという実感の欠如を補うには二つの方法がある。一つは演出である。
もう一つは厳格な律法で縛って上げることである。規律は宗教的感触も与えるのだ。
そして教理主義教会は主に前者の方法を採った)

その方策の代表は荘厳な雰囲気での儀式であった。
指導者たちは日曜日に厳粛な礼拝儀式を開催して大衆信徒を出席させ、敬虔な気分にしてあげた。
献金でもって壮大な礼拝堂(聖堂)の建設もした。

音楽は霊感を開く効果を持つので賛美歌の合唱も取り入れた。
礼拝を導く際には僧侶は壮麗な式服で登場した。
 
指導者はこうした礼拝儀式を毎週準備し実施した。

また指導者たちは週日にも、一般信徒の日常生活の折々に適した神秘感ある儀式サービスを提供した。
近親者が死んだら葬送の儀式をし、結婚には結婚式をし、子供が生まれたら祝福の儀式をしてあげた。
信徒はその時々にあらたまった霊的な気持ちなることができた。





<指導者需要が急増し職業僧侶が出現>

新方式教会では指導者の仕事は急に膨大になり、指導者への需要も増大した。
時とともにボランティア奉仕者だけではとても応じきれなくなり、定まった給金を受け取る職業僧侶が出来ていった。

職業として専念させると僧侶の奉仕能力は洗練され、多様化していく。
会堂設計に優れたものも現れた。
音楽編成能力に卓越したものも出た。
神学(聖書解釈学)能力に秀でた者は神学校設立に貢献し、後継僧侶を養成した。




<階層管理組織での統率が必要になる>

新方式の教会にはもう一つ独特の課題が生じてきた。
大衆信徒をまとめて教会の一体性を維持することがそれである。

初代教会なら、信徒は聖句主義活動で世界理念を共有しあって自発的に一体化する。
だが後から大挙して参加してくる大衆信徒にはそれはなく、指導者の方から統率してあげねばならなかった。

そのためには、多数の僧侶自身も管理階層を形成し整然と行動する必要となる。
まず自分たちが命令系統の中で組織的に行動し、信徒をその管理体制の中に組み込んで教会をピラミッド型組織となすのだ。

+++

職業僧侶の管理階層の職位は、司祭、司教、大司教であった。
司祭の職務は、各地の教会の礼拝や聖餐(イエスの肉と血を記念するため、パンと葡萄酒を口にする行為で、イエスはそれを命じていった)の儀式を執り行うこととした。
この職位は会社でいえば課長、係長に相当するだろう。

司教の職務は、そうした教会や司祭を地区ごとにまとめて統率することであった。これは部長である。
大司教のそれは、司教の管理する地区をさらに複数集めて管理統率することであった。これは重役だろう。

教団全体に関わる事柄は、当初は大司教の会議で決めた。
だが後年教皇(法王ともいう)という最終決定の絶対的権限をもった社長を登場させる。
これで大司教の会議で意見が分かれて膠着状態が続くようなこともなくなる。





<信徒には楽な教会>

新方式の教会では、大衆信徒の教会活動はとても楽である。
日曜礼拝はみなプロがお膳立てしてくれている。
信徒は日曜ごとに礼拝に出て座っていて、礼拝が終われば献金して帰ってくればいい。

教会はまた、結婚式や葬式も厳粛にやってくれる。
これは大衆にとって、とても属していやすい教会なのだ。

また教会側としても、教理主義方式ですると、一度に大量の信徒に対応しやすい。

信徒は加速度的に増大し、献金総額も膨大になり、教会は国際的大企業のようになった。
多国籍マスプロ大学のような大機関となった。

すると、僧侶の中に自分たちの教会こそが普遍的であるという考えも起きてくる。
「普遍的」すなわちラテン語の「カトリック」である。
教会には早くから自分たちの教会をカトリックであると自称する風潮が芽生えていった。




<五大教区と教皇の出現>

新教会は布教地域を五つの大教区にに分けて管理した。
ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムがそれで、五大教区と呼ばれる。

そのうち、ローマ大教区の大司教は、常にローマ帝国政庁と直接交渉する地理的状況にあった。
当時は、電子メールもファックスもない。

すると制度上は五大教区の大司教の会議で決定すべき事項も、実際にはローマ大司教がローマ帝国政庁と話し合って決定することが多くなる。
それを事後的に大司教会議が追認するのだ。

この状況が進むなかで、ローマ教区から、自らの大司教を教会全体の教皇にすべきという案が出てきた。
もちろんそれには相応の聖書的な根拠がつけられていて、他の大司教はそれを受け入れた。

だが、コンスタンティノープル大司教だけはそれを容認しなかった。
彼はそのような聖書解釈には無理があると主張し、最後に、他者と別れて独自な教団としてやっていく道をとった。
そして自らの教団をギリシャ正教と称した。

英語ではグリーク・オーソドックスである。
グリークは主要テリトリーがギリシャだということを示し、オードドックスは「正統」という意味の用語であった。
つまりわれわれこそが正統なキリスト教会だと言ったのだ。

ローマ側も対抗した。
彼らは従来内々で用いてきたカトリック(普遍的)の語を使って、自らをローマ・カトリック教会と公言した。
「ローマ」は中心的テリトリーがローマだ、という意味である。

両者は「俺たちが正統」「俺たちこそ普遍的」と主張しあったわけだ。
が、ともあれこうしてカトリック教会という語が一般に用いられる名称になった。

+++

以後アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの大教区は事実上、ローマ大教区に吸収合併されていく。

他方、ギリシャ正教会は、後にイスラム教勢力に押されて、事実上、ロシアを本拠地としていくが、名前だけはギリシャ正教会のままでやっていった。

そして、ローマ・カトリック教会は後に、ローマ帝国に公認宗教とされ、さらに帝国の唯一国教となっていった。

(続く)







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米国への無知を正す5

2015年02月09日 | 米国への無知を正す




前回、第4回はわからなかったなぁ。
話に実感がともなってこない。
書いてる本人がそう言うのだから間違いない。

今回は、知識を補充して、なんとか実感をもてる方向にすすめてみよう。





<すでに霊感受信集があった>

補充知識の第一は、聖書という教典の中身である。
今の話では、旧約聖書が対象になるので(初代教会が出来るときには、旧約聖書だけしか存在していない)、これを主眼に述べよう。

この教典は、キリスト教の教典の一部に後になるのだけれど、開祖イエスが現れる400年も前にもう存在していた。

これは全く特異なことだ。
通常、宗教の経典は、開祖がなくなってから弟子がその教えを書いて保存しようとして作り始める。

ところが、キリスト教では、その教典は開祖が出現する前から既に存在していたのだ。

+++

旧約聖書は、霊感のとびきり優れた人物に示された幻(映像)の記録が中心になっている。

昔、イスラエル民族に超霊感者が周期的に出た。
かれらは預言者と呼ばれた。
幻で示されたメッセージを「言」葉にして「預」かる「者」という意味だ。





<モーセは過去を映像で見せられた>

最初の超霊感者は映画『十戒』にも描かれたモーセだ。
彼は、自らを「万物の創造神」と称する神から、幻を示され、記録した。


彼のその記録は、旧約聖書冒頭の五冊の書物として収録されている。
これを「モーセ五書」といい、その最初の書物が「創世記」だ。

この冒頭に、世界が創られる様が記されている。
モーセはその時には生まれていないのにどうして知ったかというと、その様を「幻で見せられたから」、となる。

彼はノアの箱舟とその時の大洪水の話も記している。
これもモーセが生まれるズ~と前の話だ。
では「モーセはどうしてそんなことが書けたの?」というと、これも「幻で示されたから」となる。

このようにモーセには、彼以前の出来事が幻で示されている。

そして、後の超霊感者(預言者)には、未来の幻が示される。

彼らはそれを歴史物語として記述することもあれば、詩の形で記録することもある。
がともあれ、その霊感記録集が旧約聖書の中核なのだ。

イスラエルの民もまたこれを「万物の創造神からのメッセージの受信記録と信じて」保存してきた。




<解読のいる教典>

さて、その幻の記録である。
それらはバラバラの事件として示されている。
その繋がりは説明されていない。

比喩(たとえ)でもって示されている話も多い。

だから、そのままでは、人間には筋道だった理解が出来ない。
これを理解するために、人間は「解釈」をする。
言い換えれば、聖句(聖書に記された言葉そのもの)を解読するのだ。




<初代教会では信徒も聖句解読をした>

イエスも、多くの解読を示して見せた。

弟子たちも、初代教会に集まった信徒たち(後の)に、聖句解読をして説明した。

そして参集した信徒たちもまた、小グループに分かれて、みんなで助け合って聖句を吟味し解読をした。

吟味・解読していくと「これは真理だ!」と皆で深く確信する解読にも至ることがある。
それは彼らの心に、深い感動を沸き上がらせた。

+++

神髄に触れるような解読が出来ると、ちから(しるしという)が現れることも多かった。
まあ、このあたりについては「まゆにつばする」読者もいるだろうが、その人は気楽に眉唾してたらいい。
とにかく、そういう体験を初代教会方式の活動をしている人々は、周期的にした。

この感動とよろこびが初代教会方式の活動者(つまり聖句主義で活動する人々)の心深くに浸透した。
この方式の小グループ(家の教会)は、教会発足後わずか30年で、全ローマ帝国に散在するようになった。

(この活動はいまもそっくりそのまま、米国南部のバプテスト教会や、北西部でのカナダとの国境線近くのメノナイト教会で行われていて、行けば簡単に観察させてくれる)


次回には、教理主義教会が台頭してくる様を述べよう。


(続く)






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米国への無知を正す4

2015年02月08日 | 米国への無知を正す




ここまでくると、もう、米国のキリスト教のことを書かないわけにはいかくなる。

平和な世界を造り運営するといいう建設的なビジョンをフーバーらの心の中に生んでいった土壌。
後進国から吸い上げ得る国益よりも、人類が近代兵器で殺し合うことのない世界の方をより強く求める政治家が政府で優勢になっていった土壌。

こんな人間たちを生む土壌が、なぜ北アメリカ大陸の一国にできたのか。

宗教の話は難しいけれど、もう、キリスト教のことを書かないわけにはいかなくなるのだ。




だけどこれを理解して貰うのは超難問である。

佐藤優(まさる)という国際政治評論家がいる。
鈴木宗男事件のとばっちりを受け、自分も有罪判決を受けた元外務省官僚だ。

同志社大学神学部の大学院修士課程まで出て、おそらくそのキリスト教知識を期待されて外務省に採用されたと思われる人で、出獄後は売れっ子の著作者になっている。

その彼がこんなことを言っている~。

「日本では、キリスト教の知識を欠くと欧米の歴史はわからない、といわれ続けてきた。
だが、どの知識を欠くと欧米文化のどこがわからなくなるか、に適確に答えられる人は誰もいない」~と。

つまり、全日本人にキリスト教の知識がまるで暗い穴であるかのように、すっぽりと抜け落ちているというのだ。

その通りだと鹿嶋は思う。
と同時にかくいう佐藤も、鹿嶋に言わせるとキリスト教活動の根底がわかっていない、と思う。

読者を脅すつもりは筆者にない。
むしろ、誰もわかっていないから、安心せよ、といっているのだ。
安心して、虚心坦懐に鹿嶋の説明をフォローするならば、その読者はキリスト教のなんたるかが、わかってくるはずだよ~と。

まあ、そうはいっても説明は大変だ。
だが、筆者はyamamotoさんが、米国に住んで、誠実にキリスト教を手探りしておられるのフェースブックのコメント欄でをみて、敢えてエネルギーを注いでみる気になった。
この方一人だけでもわかってくださればいい、と思って書くことにした。

この話は長くなる。
そこで、今回はキリスト教のアメリカへの影響をみるための、予備知識となる。




<まず教科書の分類を放念>

読者にはまず、これまで学んできたキリスト教活動の教科書的分類を放念してほしい。
従来、教科書に限らず、専門書においても、キリスト教会は根底的にカトリックとプロテスタントとに分けられると説明されてきた。
だがそれは後述するように、浅薄で表面的な知識だ。

鹿嶋は敢えていう。
キリスト教活動は、根底では聖句主義方式と教理主義方式とに分けられるべきものなのだ。
この知識を持たないと、キリスト教理解は根無し草になる~と。




<聖句主義と教理主義>

まず言葉だけにでも目を慣らしておこう。
キリスト教活動とは教典である聖書を解釈し、学んでいく活動だ。
そのやり方には二つある。

一つは、個人の聖書解釈を自由にし、数人のサークルで相互吟味させ、合意できる解釈をみだしていくというものだ。
この行き方を聖句主義という。
細部は後に述べる。
今は、名前を覚えて欲しい。

第二は、教会の指導者たちが「正しいと思う解釈」を一つ造り、これを一般信徒に学ばせていく方法だ。
これを教理主義という。
これもまずは名前だけを覚えておかれたい。




<「初代教会」の開始>

キリスト教会はイエスの直接の弟子たちの元に、多くの人々が集まることによって始まった。
イエスがいなくなった後、その約束通り弟子たちに、病の癒やしをはじめ様々な奇跡が現れた。
驚き集ってきた人々に、弟子たちはその理由を聖書(当時は旧約聖書)を解き明かす形で示した。

弟子たちは、参集した人々を数人からなる小サークル(これをスモールグループという)にわけた。
リーダーを選ばせ、その一人の家で聖書の自由吟味会を続けさせた。
(後年これが「家の教会」と呼ばれるようになる)

教会全体の一体性は、リーダー間の任意連携によって実現された。

こうして始まった史上最初の教会は初代教会と呼ばれる





<聖句主義>

初代教会では、活動は聖句主義方式で行われた。
もっともこの名は後年後継者たちが呼ぶようになっていくもので、初代教会ではそんな風に自覚することなく活動は行われた。

聖句主義は英語ではBiblicism(バイブリシズム)という。
鹿嶋がそれを聖句主義と邦訳しているのである。

バイブリシズムの「イズム」というのは、「~を上位に置く」という意味の接尾語である。
バイブリック(Biblic)というのは、「聖句的」「聖句に照らして」という意味である。
聖句に最終権威をおき、いかなる解釈よりもそれを「上位に置く」からバイブリシズムなのである。





<教理主義>

他方、教理主義は英語ではCreedalismないしはDoctrinismである。
教理とは解釈の別名だから、言葉の上からすると「聖句の一解釈を聖句そのものより上位に置く」活動方式となる。

だが、キリスト教史ではこの言葉は、もう少し具体的に「ある教団本部の高名な職業僧侶や権威筋が作成した解釈」という意味になる。
これを聖句よりも実質上上位に置くという意味で、教理主義なのである。

+++

この方式が出現する事情は次の如しだ。

聖句というものは深く多様な中身を持っていて、教会の全員が納得するような単一の解釈に至ることは容易ではない。
それ故、解釈を素人の信徒に自由にやらせていたら、教会がバラバラになってしまうという懸念も出る。
それが、解釈を教団本部の権威筋のものに統一して活動しようというアイデアを産む。
これに則ってやるのが教理主義教会だ。

解釈の統一は実際上、教理を聖句の「上位に置いてしまう」ことによって実現する。
そこで、この行き方は教理主義となるわけだ。

+++

教理主義教会は初代教会より100年以上後になって出現している。
現在この方式をとる教会は、米国では北部において多数派を占めている。

対照的に、聖句主義方式の教会は南部において圧倒的な多数派となっている。





<解釈自由の原則とスモールグループ>

聖句主義教会では「個人の聖句解釈自由」の原則で活動する。
一つの解釈に最終権威を与えることをしなければ、必然的にそういうことになる。
解釈自由にすると個々人は、思いっきり深く広く聖句を吟味することができる。

それでも、教会員たちが各々が全く勝手放題に聖句解釈し教会がバラバラになるようなことは実際には起きない。
彼らは数人の聖句吟味グループをつくって活動する。
「聖句には各々究極の真理がある」という信頼と期待を共有して吟味をおこなう。

すると実際には合意・共有できる解釈も出てくるのだ。
そしてそれを積み重ねていくことによって、聖書の世界観の大枠は合意されていく。

もちろん細部での違いは出る。
聖句主義者たちはその違いを尊重してグループとしての結論を出さない。
そしてその吟味を次の課題として残す、という方法をとる。

直感的な話だが、教会の組織形態を見ると、聖句主義者の教会組織はスモールグループが連携したバレン型になる傾向を持つ。
「初代教会 = 聖句主義教会=バレン型教会」という感じだ。




<教理主義教会はピラミッド型>

対照的に、教理主義教会の組織はピラミッド型だ。
こちらはプロの聖職者が階層を形成して一般信徒を統率管理する。
その代表がカトリック教会で、管理階層は上から、大司教、司教、司祭だ。
後にこれに教皇(法王)という絶対権者が付け加えられる。

これは、社長、部長、課長と言った管理階層をもつこの世の会社などの組織と同じだ。
だからこちらは「カトリック教会=教理主義教会=ピラミッド型教会」という感じにでもなろう。




<プロテスタントはカトリックから分派したもの>

プロテスタント教会は、ず~と後の16世紀になって、カトリックから分派した教団である。

1517年にカトリック僧侶だったマルチン・ルターは、教団の改革運動を起こした。
当時、カトリックは法王(教皇)という絶対権者を教団の頂点に据えて教団運営をしていた。




ルターは、教皇などという存在は聖書的根拠を持たない、と指導層を批判した。
宗教改革を起こし、教皇抜きの教団を開始した。
これがルター派教会で、ドイツから北欧地域に広がった。

後にカルバンも法王を持たないカルバン派教会を造っていった。
こちらはスイスを拠点とし、オランダ、イギリス、フランスに広がった。
スイスのカルバン派は改革派と呼ばれ、オランダのそれはオランダ改革派、イギリスのそれは長老派、フランスのそれはユグノー派と呼ばれた。



プロテスタントとは「抗議するもの」という意味である。
つまり彼らはカトリックの中にいて、カトリック指導層の教団運営に抗議し、カトリック改革を行ったのだ。

その結果出来た法王のないカトリック的教会がプロテスタント教会なのである。
こういう、十数世紀も後に派生したな教団が、キリスト教活動の一方の根底になるわけがない。

たとえば両者とも教理主義教会だ。
いわゆる宗教改革運動は本質的に、教理主義教団の中で起きたコップの中の嵐なのだ。

ルターもカルバンも、カトリック教団のとる教理主義方式については、何の疑問も持たなかった。
これだけでもう、カトリック、プロテスタントという類型が活動の根底を示さないことがわかる。




この教理主義教会の他方の極に聖句主義教会があるのだ。

キリスト教の影響を見るときには、この教理主義教会か聖句主義教会かという点が決定的に重要になる。
今回の知識を用いて、次回にそれを語ろう。


(続く)






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米国への無知を正す3

2015年02月07日 | 米国への無知を正す





われわれは、第二次大戦後の70年の平和が自然に出来たと思っている。
終戦直後から進んだ民族独立の動向も、自然に起きたとの印象を持っている。

だが、真実は全然そうではないのだ。
すべては米国のイニシアティブで、そのギブ(無償の働き)によってなされている。

米国は、戦争を終結させただけではない。

大戦に巻き込まれた先進国の人民も、戦後極貧の中にあった。
この貧しさが、彼らの心に再び弱小国の侵略・搾取への欲求の灯をともす危険は大いにあった。

米国はこれに対しても、先手を打っている。
ガリオア・エロア資金でもって、オーストリアやドイツを初めとする欧州諸国、また日本や韓国などの極貧状態の人民に食料援助を与えている。

「もう二度と世界大戦を起こさせない」という米国の意志と働きには、日本流に言えば、神がかり的なものがあったのだ。





<日欧の戦後映画文化も>

そのおかげで戦後70年の世界平和が維持されている。

欧州のヌーベルバーグ映画も、アランドロンやジャンポールベルモンド、ソフィアローレン、マルチェロマストロヤンニら名優の映画文化も、この傘の下にあってこそ実現している。

日本の日活映画ブームも、石原裕次郎映画も、70年代の若者フォーク文化も、我々は当たり前のようにして享受してきた。

だが実はみな米国が造り維持してきている、この平和の傘の下で可能になっているのだ。





<米国だけが起こし得た奇跡>


繰り返すが、傘は第二次世界大戦中に造られている。
米国の政治指導力が、この大戦末期を格好のチャンスとしてとらえ、列強諸国の姿勢を変えさせた。

人類史ではそれまでは、強国が統治能力の劣った後進国を征服して隷従化させ、そこから利益を吸い上げる、という行為は世界の常識だった。

強国の統治者にとってこれは、自国の人民の物欲、獣欲を短期的に満たさせるに最も有効な方法だった。

だから先進国民国家の統治者たちは、人民の欲望に従って弱肉強食の植民地政策をとってきたのだ。

+++

米国だって、物理的には条件は同じだ。
自国の国益極大化だけに重点を置いていたら、弱者の植民地化と収奪を選択できる状況にあった。

なのにこの国の統治者はその機会を自ら放棄した。
そして他の列強諸国をも、自らの理想ビジョンの方向に、基本路線を転換させた。

これは地球上に起きた、ほとんど奇跡といっていい出来事である。





米国内で、この世界運営思想が、早くも第一次大戦勃発の時点に発生したのも奇跡だ。
前述のように、フーバーは戦争、革命、平和を研究する機関すらスタートさせた。

研究が進み、その成果が国家統治の担当者にも浸透した。


通常の人間国家では、こんなことは起きえない。
フーバーのような思想家かつ実践家がいたとしても、統治者レベルにこの思想が浸透し保全されることなど起きない。

保存されていたからこそ、世界大戦というのっぴきならない事態に列強国が飲み込まれている事態を、天与のチャンスとして素早くとらえることが出来たのだ。

まことに脅威ずくめである。




<従軍慰安婦を問題に出来るのも>

いま我々は、大戦中に国際常識を180度転換させた、米国のその恩恵の中で人生を享受できていることを自覚せねばならない。

繰り返すが、この大戦を機に、理想の国際社会観が一転し、世界運営の思想も方式も過去の人類史と真逆になったのだ。

韓国が抗議している戦前日本軍の強制慰安婦問題も、この常識転換があってこそ可能になっていることを悟らねばならない。

人類の常識が従来のままだったら、征服国が被征服国の女性を性奴隷にするなど、当たり前のことだった。

この常識変革がなかったら、賠償請求というアイデアもそもそも起きなかったろう。
万一誰かが賠償請求を起こしたとしても一蹴されただろう。

もちろん、こういう抗議ができるようになった世界ができたのは、日本人にも幸福なことである。

だが、これが世界常識の一大変革の結果であること、を知らねばならない。

新たな国際関係の常識が米国によって奇跡的に造られたからであることを、
日本人も韓国人も共に悟らねばならない。


(続く)








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