鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

(臨時版3) Sabiaさんとの対話

2014年10月18日 | 聖書と政治経済学




前回の(臨時版2)にSabiaさんがコメントを下さいました。
この方との交流はもう20年近く続いていて、よくつきあってくださると感謝しています。
素晴らしい読書家で、教養人で、情報エンジニアでおられます。

このたびのコメントも、考えさせられるものがありました。
コメント欄に置いておくのはもったいなので、鹿嶋の応対とともに、本文に転記させていただきます。
(前にも、そうさせていただいたことがありました)

訪問者の皆様、これに関して思うところあれば、是非、コメント欄に記してください。




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(Sabiaさん)

主の恵みを実感すること (SABIA)
2014-10-07 20:08:15


結局、人間の努力なんてたかが知れている、ということに尽きるのでしょうけど、
それが納得できるためには、圧倒的な主の恵みを実感できてこそではないかと思います。

狭い井戸の中で、いくら精密に論理的に考えてもわかるものではない。
大海を知らなければ始まらない。

人間中心の考え方から自由にならなくては、
何事も努力次第、努力に比例するはずだという思いから逃れられないと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・



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(鹿嶋)

救いと受賞との峻別 (鹿嶋春平太)
2014-10-11 08:56:04


この問題をSabiaさんと議論するのは、はじめてですね。
「頼るだけ」となれないのには、もう一つ原因があると思っています。
「救い」を得るのと、「賞を受ける」のとが峻別して認識されていないことがそれではないかと。

+++

賞は、働きによって天国に行った後に与えられます。
働きは賜物をいただいて行うものだと思います。
圧倒的な力は賜物に伴うものです。

対して救いは、ただ頼るだけで与えられます。
その恵みは緩やかで、気がついて振り返ると「ずいぶんと状態が良くなったなあ」と感じられるようなものだと思います。

「救い」は自分の意志で選び取るものだと思います。
「頼るだけ」程度のことは、人間はその弱い力でもってしても、意志でもってなしえます。
「アホらしい、頼らないよ」と思う気持ちの中で、
「でも、ここはチャッカリ頼っていただいておくか」と選択するだけのことです。

+++

圧倒的な恵み、つまり、賜物を体験するには、まず創造神の側に移動しなければなりません。
賜物は、救いを受ける資格を得た人だけに、与えられるからです。

そして、その移動は、自分の意志で容易に出来るのです。
すると、「圧倒的な恵み(賜物)を受ける」可能性も開ける。

賜物は創造神の方から、一方的に与えられます。
賜物は、創造神の選びによるのですね。

まず楽な選択を人間にさせて、選択した者から選んで賜物を与える。
この点、福音の論理というのは、実によくできているなぁ、と感心します。

+++

この順番を認識し損ねて悲壮感に酔い続けている人が、日本にはとても多いように、鹿嶋にはみえます。

本末転倒して勝手に酔っている。

「何かを得るには克己勉励によるしかない」という姿勢が骨身に染みこんでいるのでしょうか。


福音の一階メッセージを伝える聖歌(490番)を掲載しておきますね。
(クリックすると、曲が流れるはずですが・・・)









コメント (2)
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(臨時版2) 「どちらの側に入るかが根本」

2014年10月04日 | 聖書と政治経済学




前回の記事を見て、口頭で次のような見解をくださった方がいました。

~「只頼るだけという、そんな程度の信仰で救われるとは、とても思えない。
福音のために、命をかけて働くほどの信仰を持った人もいるではないか。
そのために殉教した人もいるではないか。

そういう人が救われるのはわかる。
だけど、ただ頼るだけだった人が、こうした深い信仰の人と同様に救われるとは、どうしても納得できない」

~こういう見解です。

実はこれはよ~くある意見です。
そこで鹿嶋はそれへの応答を、このブログに書いておこうと思います。
**君、お読みくださいね。







ここでは結論だけしか言えませんが、聖書には、この世は悪魔の支配下にあるという世界観があります。
一時的ではありますが、悪魔はこの世では牢名主のような権威をもつことを認められているのです。
(これについては、「聖書の空間理念とその説明」のところで述べてありますので、それを参照してください)

この世界観の中では、人は皆産まれて以来悪魔の支配下、悪魔の側に存在していることになります。
自然なままでは、悪魔の側に入っていることになるのです。





そこにイエスが現れました。
イエスは創造神です。
彼はこの世にきて「創造神の陣営」を構築します。

するとイエスに頼るのは、悪魔の側から出て、創造神の側についたことになります。





そして時が至って最後の審判になると、イエスの側についた人は天国(創造神の統治が貫徹している天の創造神王国)に入れられます。
悪魔の側に留まったままの人は、全員、悪魔と一緒にブルドーザーでザァッと搔き集められて火の池に投げ込まれることになります。

~大雑把なものですが、これが聖書の示す人類史の大枠です。
そこでは根底的な問題は、創造神イエスの側についたか、悪魔の側に留まったか、になるのす。

この大枠の中では、創造神イエスの側についた人の信仰の程度がどうであるなどは、二次的な問題にすぎなくなります。

そもそも、人間の自力の信仰など、創造神から観たらたかがしれているのです。
深いと言っても、頼っているだけの信仰と大差はないことになる。

だから、頼るだけでいいとなります。
「幼子のように頼るだかでいい」にはそういう深い意味が含まれているのです。




これは奥義です。
けれどもそんな奥義など知らなくてもいい。
只頼るだけでいい、というのが福音の一階メッセージです。

結局、ただ頼るだけでいいのです。








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