鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

ヨハネ伝解読、Vol.325 『 臨時版「別れる時代がきたか?」』

2012年01月26日 | ヨハネ伝解読


 「ヨハネ伝解読」 今回も臨時版です。
しかしヨハネ伝の知恵がいろいろ出てきます。
今回は、日本列島が新しい時代に入ってきていることを、福音の論理で示そうと思います。


鹿嶋はこれまで、「聖書の論理はいのちエネルギーの論理」だと言ってきました。
聖書からはいろいろと論理体系が引き出せますが、核心はそれだと思っています。

敢えて言えば、他の論理はその周囲をぐるぐる回っているものです。
ニッポン道徳キリスト教などは、一番外側かもしれません。

                    

<いのちの凝液体>

ヨハネ伝で著者ヨハネは、イエスの身体が創造神の「ことば」が肉体になったもの、
という洞察を記していました。

「初めに、ことばがあった。ことばは創造神とともにあった。ことばは創造神であった。」(1章1節)
「ことばは人となって、わたしたちの間に住まわれた。」(1章14節」)

  これを神学では肉化(incarnation)といっています。

ヨハネはまたイエスの「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠のいのちを持つんだよ。
その人をわたしは終わりの日によみがえらせるよ」(6章54節)
    ~ということばも記録しています。

 ヨハネはまた、このことばを聞いて「これはひどい話だ」と
イエスの元を去っていった人がたくさんいた、とも記しています。

だが、ヨハネ自身はのちにこの意味を悟ります。

創造神から出ることばはすなわちいのちエネルギーでもあります。
イエスの肉は創造神からでるいのちエネルギーのいわば凝固体だったと悟るのです。

またイエスの血は、その凝液体だったといえる。
 凝液という語は辞書にありませんが、凝固が結集して固体になるのなら、
同じく結集して液体になる凝液があったっていいでしょう。
鹿嶋はこの語を使いますよ。

                    

<「罪赦される」は「血の凝液で被われる」こと>

話は飛びます。
 前述の臨時版、  <イエスの血と「いのち」の力>(8)『放射能時代への聖書的打開策』
~で鹿嶋は、奇跡を連発してきたベニーヒンの先生であるホワイト師の説を援用しました。
  ホワイトは「イエスの血」をあがめ唱えると、いまでも当たり前のように「しるし(奇跡)」が現れると、
たくさんの事例と体験を示して述べています。

余談ですが、ホワイトは聖霊のバプテスマも、イエスの血を唱えたら
あっという間に簡単に受けられたという例も挙げています。

鹿嶋にはこれも驚きでした。鹿嶋は聖霊を受けるのにさんざん苦労したからです。
まる二年かかった。それがそんなに簡単に受けられるとは・・・。
この人の『イエスの血の力』(オアシスクリエイト刊)にはホントに感銘を受けました。

  話を戻します。
 その彼は、罪の許しに関してもイエスの血から独特の聖書解読をしています。

許しは英語ではatonementで日本語では「贖い(あがない)、贖罪(しょくざい)」です。
そしてこのアトーンメントの原義は「被うこと(covering)」だというのです。

だから「罪許される」ということの真意は、「罪が消えてしまう」、とか、
「罪が清められてしまう」とかいうのではない、という。
それはイエスが流した血によって、「罪が被われる」という意味だというのです。

 これは「ああ、そうですか」と聞き流す話ではないんだよね。
なぜなら罪許されるにはイエスの血への信頼が必須だと言うことになるから。
イエスの血の自覚がない贖罪は空虚だと言うことになるからです。

では「イエスの血」がどうしてそんな決定的な力を持つか。
ここからはホワイト説ではなく、ヨハネ神学です。

それはいのちエネルギーの凝液体だから、となる。
この凝液体が、霧が被うように当人の身体を被う。
すると創造神は「その罪を見ない」ということになります。

罪が清められて当人が「雪のように白くなる」(という歌詞の賛美歌がある)んじゃないんだよね。
その罪が「ないもの」と創造神が見なす。これが許しの実体だとホワイト思想ではなります。

 鹿嶋はこれ的を射ていると直感します。
なぜなら「最後の審判」でイエスを信頼してきた人の霊は「裁きをバイパスする」
というのが聖書の思想だと解してますから。

これは罪なき者と「見なされる」のであって、
その時点では(天の創主王国に入ったらどうなるか知りませんが)罪は持っていると解しているから。
またイエスを信頼したら罪がなくなりますといわれても、そういう感触はどうしても得られませんから。

  ともあれ、ホワイトは「イエスの血の自覚」を福音の決定的要素だと確信していますので、
「血なしの福音は邪宗」とまでいっています。

                   

<放射物質はいのち吸い取り物質>

またまた話が飛びます。
こんどは放射能。

  臨時版、  <イエスの血と「いのち」の力>(8)『放射能時代への聖書的打開策』
  で、鹿嶋は、原子核を分裂させると膨大なエネルギーが放出される、とのべました。

またも余談ですが、原子炉ではその3分の1を使って水蒸気タービンを回して
電気を起こしているそうです。
あとの3分の2は地球上に放出されてしっかり温暖化を引き起こしてる。
原子力発電は地球温暖化を起こさないというのは大嘘。小出裕章さんの証言です。

  話を戻します。
こんどは鹿嶋の聖書的解釈です。

分裂でできた新物質が放射能物質ですが、
これは本来保有しているべき大量のエネルギーを放出したので、
ひどいエネルギー欠乏症候群になっています。

エネルギーは聖書の思想では「いのちエネルギー」です。
これが大量に欠乏しているので、新物質は近づくものすべてからエネルギーを吸い取ろうとします。

 いのちエネルギーを吸い取らずにいられない状態。
これはマイナスのエネルギーを持っている、と言い換えることもできます。
この性質が百万年以上続く。これが聖書的に見た放射性物質の実体となります。

 こういう物質がこのたび福島原発から吹き出しました。
史上最大の想像を絶する量が吹き上げた。
そして収束どころか、いまも吹き出しつつあって止められない。

その粉じんが大気に舞い、地上の土や水に降りおりて、それがまた風で舞い上がります。
この春一番の季節は、非常に危険だと言います。(マスクは必帯だそうです)。

  地球上すべてがそうですが特に日本列島は
マイナスのいのちエネルギーに覆い尽くされることになってしまいました。

                    

<未曾有のことではない>

しかしこれは聖書的にはまったく古今未曾有ということではありません。
(誰ですか?{みぞうゆう}なんていうひとは!ああ、麻生君か、まあしょうがないなぁ・・・)

マイナスのいのちエネルギーとはすなわち「死のエネルギー」です。

そして悪魔、死霊(悪霊)はそれを発する存在であり、
すでにこの「世」(宇宙)に存在していると聖書は示しています。

放射性物質がそれに加われば、死のエネルギーは増幅されることになります。


                   

<別れていく時代>

ではこれに人間はもう侵蝕されていくしかないのか。
ホワイト神学はそうではないと言います。
  「イエスの血」いのちエネルギーの凝縮液、凝液がある、と。

この凝液によって、霧に被われるように被われたらいいのだ、となる。
イエスの血の力を信頼し、あがめ、唱え、求めればそれは簡単に実現するのだと。

  だけど、放射能と悪魔が連合した死のエネルギーは以前より強いんではないの?
心配ない。そこは聖句が保証しています。

「光はやみの中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(1章5節)

創造神から出るいのちエネルギーは死のエネルギーを相殺・中和してなおかつあまりがあるのです。

そうだとすると、事態はこうなるでしょう。

イエスの血の効能を信頼して求めるものに、相殺は実現します。
他は死のエネルギーに肉体を侵蝕されていきます。

怖がることなどありません。打開策が存在しているのですから。

ただ今まで曖昧だったものが、そういう風に明確に別れていくだけのことかもしれない。

福音的には、日本列島はそういう時代に新しく入りつつあるというだけの話かもしれません。


                    


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ヨハネ伝解読、Vol.324 『 臨時版「新しい本について(2)」』

2012年01月09日 | ヨハネ伝解読

 もう少しご報告がてらに「聖句主義」を紹介する本の原稿について述べてみます

聖句主義は日本ではマイナーであるキリスト教というテーマの中の、
さらにマイナーであるところの「聖書をどう扱うか」というテーマである。
こんなものは日本では売れない~出版担当編集者のこういった見解を前回に示しました。

これについては若干の議論をしたときもありました。今回はそれを示してみます。

鹿嶋の見解を以下にまとめて記します~

~「だが、聖句主義活動は長い間、歴史に記されないできた活動で、マイナーだったが、
実は現代の民主主義制度という大きな事項の発生源になっている。

  聖句主義活動は人に聖書のただ一つの正統な解読は人間には見出せない、
ということをしかと体験させる。だから個々人の聖句解釈を自由にする。

その体験から出た制度が近代民主主義だ。
  もしも人間にただ一つの正統な答えが見出せるならば、多数決などいらない。
その真理でもって社会のことを決定すればいいからだ。

 それがわからないから、なるべく多くの人が求める決定をしようとして多数決をするのだ。
このように民主主義制度は聖句主義思想を土台にしているのだ。

 このような由来を歴史を通して深く知らないと、結局国民はそのやり方を「なぞる」だけになる。
そういう浅い理解でもって運用する民主主義制度は、真の機能をしない。
今の日本に見るようにだ。だから聖句主義の歴史を知ることは今の日本に大切なのだ。」

                    

 「正統な解釈が人間に見出せるという前提でしているのが教理主義活動だ。
だがそれは結果的に人の意識を縛ってしまう。
人間には「真理は一つ」という本能的な期待の思いがあるから、
その前提に知らず知らずに心を奪われてしまう。

 日本の教会でそれに意識を縛られ苦しんでいる信徒は多い。
信徒だけでなく、牧師さんも自分の解釈が違っていないか心底でびくびくしながらやっている。
無自覚の内に「正解が一つある」という教理主義的思想にとらわれているからだ。

これが聖句主義という行き方を知ることによって自覚できるようになり、打開できる。」

                    

 「日本ではキリスト教会での問題はマイナーだが、問題は教会だけではない。
「真理は一つ」の通念は教育界をも縛り傷つけている。
教科書の知識が絶対の真理だとして教えられるものだから、
生徒は自分でものを考えることができなくされている。

 個人の聖句解読を自由にして、
それでもってグループがばらばらになることのない状態を知れば、教育も変わるのだ。
聖句主義史の知識は、それ自体はマイナーであっても、
現代日本のメジャーな問題につながっているのだ。

こういう風に、物事を深い源から知ることが、
西洋の知識を「なぞっているだけ」から日本人を解放する。
日本人が付け焼き刃でない、深い哲学をもつ最上の契機にも
聖句主義史の知識はなるのだ。」

                   

 「 北関東大災害によって、日本人の姿勢も変わってきている。
深い原理を知ろうという人が増えてきている。
「鹿嶋春平太チャーチ」のアクセスも更新しないのに増加傾向をたどっている。」

 ~こんな見解を鹿嶋は述べました。

対して編集者はこう述べました~

   「本作りをしていると事態は逆に感じる。
大災害を契機に日本人はますます手っ取り早くノウハウを求めるようになってきている。
そういう本しか売れなくなっている」

~彼は残念そう不本意そうに語りました。
実感のこもった声はそれが事実であることを告げていました。
この流れを一冊の本で変えることなど不可能、と
その表情は語っていました。

                     

             

 

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ヨハネ伝解読、Vol.323 『 臨時版「新しい本について」』

2012年01月08日 | ヨハネ伝解読

こんにちわ。

   ブログが更新されないまま日がたち新年に入ってしまいました。
懸案の本の出版のために苦闘しておりました。いまも続行中です。
「聖句主義」に関する本がそれです。

ところがこのテーマが障害になっている。
このキリスト教活動方式は日本人の全く知らない行き方なんですね。

のみならず日本ではキリスト教自体がマイナーな領域である。
さらにその中の聖句の扱い方の一つというのは、「辺境の中の辺境」となる。
そう出版社は言うのですね。

 だからそれを紹介するだけでは、多くの人が買うことはない、と推定される。
出版不況のなかでそういうものを出すのは、勘弁してくれと接触してきた出版社いうのです。

                      

 だけど、日本に聖句主義という方式を紹介するのはとても有益です。
この知識がないから日本では無自覚の内に教理主義的な意識が働いてしまう。
それに思いを縛られて苦しんでいる人がたくさんいる。

 そうしたなかで聖句主義という行き方をこのブログで知ることによって、
やっと日本での教会活動からくる縛りから解放されたという、
感謝の声がこれまでもコメント欄に寄せられてきました。

 鹿嶋はその実状を痛いほど経験してきましたので、
聖句主義の情報を日本に伝えることはとても大切だと思っているわけです。

 それに聖句を自由に吟味する方式は、今の日本社会を改善し民主化する鍵にもなります。
その意味でも大切なことです。

 そしてこの情報を収集することは自由な立場にいる鹿嶋だけにできたことだとみていますので、
これを本にして読めるようにしておくのは鹿嶋の責務のように思えてならないのです。

                  

 そこでこのテーマを、今の日本の現実問題とのつながりをつけて示すという作業に入りました。
これが思ったより大変でした。着手するときにはこんなに難しいと思いませんでした。
今も苦闘しています。

 その過程で、本の仮題も複数出てきました。
『聖句主義~隠されてきたキリスト教史~』
『幸福社会の編成原理~バイブリシズム史が示すもの~』などです。

 この原稿はこういう風に、様々に仕立て直し・衣装替えをすることができることもわかりました。
これも新しい発見です。そして今も、毎日修正のアイデアが出てきて止まりません。
それが明け方に出てくるので、起床してすぐにそれを書き留めるという生活を続けています。

 そんなわけで、この「鹿嶋春平太チャーチ」の更新が滞ってすみません。
鹿嶋はライフワークで苦闘しています。どうぞご理解ください。
  そしてもしこんな原稿の出版可能性を吟味してみようという物好きな編集者がおられましたら、
ぜひお知らせくださいますことを。



                                       

 

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