もうひとつ副産物を。
創造神の名がなんであるかを吟味した結果、どうもそれはイエスらしいということになりました。
ついでに、聖霊の名もイエスらしいという解が浮上しました。
要するに、父・子・聖霊の名はイエスらしいとなりましたよね。
このことは突飛なように見えますが、よく考えると筋の通ったことでもあるように見えてきました。
聖書には「父・子・聖霊は三つの創造霊(神)であると同時に、一つでもある」という思想が間違いなくある。
だったら、その「一つ」を示す名があってもいいでしょう。
いいどころか、その方が理にかなっています。
むしろ、それを示す名がない方がおかしいのではないでしょうか。
そうすると、こういう反論も出るかもしれません。
「では三つであることはどうするか」と。
答えは簡単です。
父なる創造神、その独り子、そして聖霊、これがその三つ各々の名です。
こちらは、我々人間はわかりやすいですから、容易に用いています。
<余談>
理屈っぽい余談をいいます。
(面倒に感じる方はスキップして差し支えありません)
フッサールという哲学者がいます。現象学という認識哲学の創始者です。
この人が面白い指摘を人間の認識についてしてくれています。
たとえば正方形というものを我々はイメージしています。
けれども、完全な正方形を人間は眼で認識しているだろうか。
人間のすることです。
どんな製図用具を用いて書いてみても、どこかに線のゆがみや、辺の長さの微妙な違いは出るだろう。
紙のムラだってでるはずだ。
では、正方形を書いて我々は何を現実上見ているか。
紙の下方に眼を置いて少し左側から見たとき平行四辺形をみている。
紙の手前から見る時は台形をみている。さらに少し右側にずれて見る時にはやはり平行四辺形をみている。そういう現象を見ている。
厳密な正方形は見ていない。
だけど、それらの平行四辺形や台形を見て、われわれはその源にあるものを正方形だと「理解」している。
こう考えて、フッサールは、これらの現象を「現出」とよびました。源にあると理解するものを「現出者」といっています。
まあ、こういう気づきのようなものは、理屈の枠組みではカントという哲学者も同じです。
かれはフッサールの「現出」を「現象」と呼び、「現出者」を「物自体」といっています。
三位一体の創造神を、この「現出者」や「物自体」のように理解するのも一案です。
父、子、聖霊は、「現出」なわけです。
あるいは三位一体の創造神は、父・子・聖霊が組み合わさった構造体のようにみるのもいかもしれません。
構造体となればそれはまたひとつの存在です。鹿嶋などは、こちらの方がしっくりきます。
いろいろ考えられます。
所詮人間のする理解です。
<「一体」の具体的イメージ>
話を戻します。
イエスという一つの名があると、父・子・聖霊を一体のものとして受け止めやすくなる。
「三位を成分として持つ構造体が「一体」として名でもって示せることになる。
鹿嶋には、これによって聖書の論理の体系的理解が向上した感があります。
もう少し具体的には、父・子・聖霊が一体であることは、次のように理解できると鹿嶋は思っています。
父なる創主の「おもな」仕事は、世界を創造しその歴史展開の大枠を定めることです。
(だから世界はもう、御旨どおりの大枠で展開することが、予め決められているのです)
そして御子の「おもなる」仕事は、父が予め定めた歴史展開の細部を実現してあげることです。
(まるで人間社会で父を心から愛する息子が、父の遺志をこの世で実現していくように)
聖霊の「おもなる」働きは、イエスのなした仕事を人間が理解でき、記憶できるように助けることです。
(これによってイエスの仕事がこの世の一定の人間の心に保存されていきます)
こうして三つの創造霊は一体となって、世界の歴史を正確に展開していきます。
我々はその中に住んでいる。
これはもう人間が泣こうが笑おうが、必ず実現されていく、これが聖書の思想です。
ともあれこの「一体となって働く」ことから人間は三者を「一体となった構造体」として認識することが可能になる。
その一体存在には、一つの名があるべきで、その名がイエスらしいというのは、理に合っているように鹿嶋は思えてきました。