鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.310『三位一体創造神の名はあるべき』(17章11節)

2010年10月29日 | ヨハネ伝解読


もうひとつ副産物を。
  創造神の名がなんであるかを吟味した結果、どうもそれはイエスらしいということになりました。
ついでに、聖霊の名もイエスらしいという解が浮上しました。
要するに、父・子・聖霊の名はイエスらしいとなりましたよね。


                   
 
このことは突飛なように見えますが、よく考えると筋の通ったことでもあるように見えてきました。

聖書には「父・子・聖霊は三つの創造霊(神)であると同時に、一つでもある」という思想が間違いなくある。
だったら、その「一つ」を示す名があってもいいでしょう。
いいどころか、その方が理にかなっています。
むしろ、それを示す名がない方がおかしいのではないでしょうか。

                   

そうすると、こういう反論も出るかもしれません。
「では三つであることはどうするか」と。

答えは簡単です。
父なる創造神、その独り子、そして聖霊、これがその三つ各々の名です。
こちらは、我々人間はわかりやすいですから、容易に用いています。


                    

<余談>

理屈っぽい余談をいいます。
(面倒に感じる方はスキップして差し支えありません)

フッサールという哲学者がいます。現象学という認識哲学の創始者です。
この人が面白い指摘を人間の認識についてしてくれています。

たとえば正方形というものを我々はイメージしています。
けれども、完全な正方形を人間は眼で認識しているだろうか。
人間のすることです。
どんな製図用具を用いて書いてみても、どこかに線のゆがみや、辺の長さの微妙な違いは出るだろう。
紙のムラだってでるはずだ。

では、正方形を書いて我々は何を現実上見ているか。
紙の下方に眼を置いて少し左側から見たとき平行四辺形をみている。
紙の手前から見る時は台形をみている。さらに少し右側にずれて見る時にはやはり平行四辺形をみている。そういう現象を見ている。
厳密な正方形は見ていない。

だけど、それらの平行四辺形や台形を見て、われわれはその源にあるものを正方形だと「理解」している。
こう考えて、フッサールは、これらの現象を「現出」とよびました。源にあると理解するものを「現出者」といっています。

まあ、こういう気づきのようなものは、理屈の枠組みではカントという哲学者も同じです。
かれはフッサールの「現出」を「現象」と呼び、「現出者」を「物自体」といっています。

三位一体の創造神を、この「現出者」や「物自体」のように理解するのも一案です。
父、子、聖霊は、「現出」なわけです。

あるいは三位一体の創造神は、父・子・聖霊が組み合わさった構造体のようにみるのもいかもしれません。
構造体となればそれはまたひとつの存在です。鹿嶋などは、こちらの方がしっくりきます。

いろいろ考えられます。
所詮人間のする理解です。


                    

<「一体」の具体的イメージ>

話を戻します。
イエスという一つの名があると、父・子・聖霊を一体のものとして受け止めやすくなる。
「三位を成分として持つ構造体が「一体」として名でもって示せることになる。
鹿嶋には、これによって聖書の論理の体系的理解が向上した感があります。

もう少し具体的には、父・子・聖霊が一体であることは、次のように理解できると鹿嶋は思っています。

父なる創主の「おもな」仕事は、世界を創造しその歴史展開の大枠を定めることです。
(だから世界はもう、御旨どおりの大枠で展開することが、予め決められているのです)

そして御子の「おもなる」仕事は、父が予め定めた歴史展開の細部を実現してあげることです。
(まるで人間社会で父を心から愛する息子が、父の遺志をこの世で実現していくように)

聖霊の「おもなる」働きは、イエスのなした仕事を人間が理解でき、記憶できるように助けることです。
(これによってイエスの仕事がこの世の一定の人間の心に保存されていきます)

こうして三つの創造霊は一体となって、世界の歴史を正確に展開していきます。


                    

我々はその中に住んでいる。
これはもう人間が泣こうが笑おうが、必ず実現されていく、これが聖書の思想です。

ともあれこの「一体となって働く」ことから人間は三者を「一体となった構造体」として認識することが可能になる。
その一体存在には、一つの名があるべきで、その名がイエスらしいというのは、理に合っているように鹿嶋は思えてきました。

                    

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Vol.309『「創造主の名」吟味による副産物(2)』(17章11節)

2010年10月24日 | ヨハネ伝解読

    創造神の名を吟味することによって得られた副産物は他にもありました。
今回は、祈りの終わりに発する言葉について追記します。

                    
                    


<「インザネーム」の意味>

  クリスチャンがお祈りをするとき最後に発する言葉があります。
英語で書くと(in the neme of Jesus)です。

これを日本では通常「イエスの名によって」とか「イエスの名を通して」とかいっています。

だけど、「インザネームオブジーザス」という英語はそういうふうに訳すのには基本的に無理があります。

「イン(in)」というのは本来、一定の広がりのある空間(質量といってもいい)をイメージして、
「その中において」という意味の語です。
(新約聖書の原語であるギリシャ語の聖書では、「エン」となっていますが、これは英語の「イン」に対応する語です)

だから文字通りで行きますと、「イエスの名『において』」となる。
だけど「名」というのは質量も空間的広がりももちませんから「名において」では意味をなさない。

困ってしまって、当初は苦し紛れに「名によって」とか「名を通して」をとかを考案したのでしょう。
以後、これが慣習化しているだけです。

 だから「名によって」にも「なお通して」にもいまいちはっきりしないところがありますよね。
それが苦し紛れのごまかしの痕跡になっています。

   本来の意味である「(一定の空間)のなかで」を活かした訳語はできないでしょうか。


                    

<「名」が示すドメインのなかで>

この問題の解決にこれまで考えてきたことが生きてきます。

「名」はそのもとにある領域をも現しうる、ということを我々は知りました。
これを援用すればいいのです。

イエスの名が三位一体の創造神のドメインを指していることを用います。
すると、適切な訳語は「イエスの名のもとで」であることがわかってきます。

この言葉は大きな役割を果たします。
祈っている自分が「三位一体の創造神『イエスの名』が示すドメインに属しています」ということを創造主に表明するのです。

創造主にとって祈っている当人が、自分のドメインに属しているかどうかは、大切なことだとかなりな確信を持って推定できます。
主はそれによって祈りに応えるどうかを判断するようにおもわれます。

創造神はもちろん「世」のドメインにいる人間の祈りには応じないでしょう。
また「そのどちらかをはっきりさせない祈り」にも応じないのではないかな。

その意味で、「イエスの名のもとで」と明示して祈ることは意味深いことなのです。
そういうことも17章11節を吟味したことによって鹿嶋にはわかってきました。


                    



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Vol.308『領域間で対立する事例』(17章11節)

2010年10月20日 | ヨハネ伝解読

  前回、イエスの名の下のドメイン(「天」の領域)は悪魔のドメイン(「世」の領域)のなかに造られていくもので、
この両者は根本的に対立関係にある、と述べました。

今回は、その具体例を見ておこうと思います。
各々のドメインに属する人の人生観の対比をみましょう。


                    

<人生観特質の対比>

「天」のドメインに属する人の人生観の特徴は、
「永遠のいのち(霊いのち)を確保することを第一義とし、
この世での百年ほどの肉体の幸福を二番目に大事なこととする」姿勢に見ることが出来ます。

それは
「創造主の王国(天国)とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすればこれらのもの(この世の人生に必要なもの)は添えて与えられるよ」(マタイによる福音書、6章33節)
というイエスの言葉に従った姿勢です。

他方、「世」のドメインに属する人の人生観は、この世の仕合わせだけに焦点を合わせるスタンスをもっています。
人生の最大関心事は、「この世の人生を出来るだけ楽しく生きること」だ。
永続する霊とか永遠とかいった概念はもちません。
霊といっても葬式などの時に死者の霊魂をちらっと思う程度です。


                    

これに関連してさらに、対照的な事柄が出てきます。

「世」の領域にも宗教はあります。神様という「見えない力ある方」への信仰心はあるのです。
だが、その信仰活動は「この世」の仕合わせだけを目指したものになっている。

たとえば、宗教施設で売られている「おみくじ」の中身を見てご覧なさい。
木の枝などに雪の花のように無数に縛り付けられているから、開いてみたらいい。
そこに書いてあることは「この世」の人生がうまくいくかどうかに関連することばかりです。
神様は、自分(人間)の目的がなるように働いてくれる存在として意識されています。

対して、「天」のドメインに属する人にとっては創造神は、人間がその御旨に従う対象です。
「人間は、霊に永遠のいのちを得ることを第一にすべし」というのは創造神の望みで、
人はそれに沿った行き方をしようとするのです。


+++

ところで、こういう文章から、「世」の領域に属する人の人生観をダメだと鹿嶋がいっていると誤解しないで下さい。
どちらがいいかについてはいっていない。

評価は観点によって色々出来るのです。
たとえば、「わたしは霊の永遠のいのちの確保を一番大事にする姿勢で生きている」といったら
「世」のドメインに属する人々は「バッカジャナカロカ、この忙しい世の中で」と思うでしょう。
それも一つの評価です。鹿嶋はただ、事実として対比ているだけです。


                    

<自尊心過敏>

対比を続けます。

「天」のドメインに属する人は、この世での事柄に関して
軽いタッチで応じる傾向を持ちます。基本的にそういう姿勢で応じるのです。
この世のことも大事だからいろいろ考え行いますが、「一番大事なこと」ではないんだからそうなります。

人にはこの世での自尊心がありますが、その処理も異なってきます。
「天」の領域に属する人には、自尊心が自分を縛るほどのものにはならない。
だから恥を極度に恐れることがない。知らないことは素直に尋ね、受け入れるべきことは受け入れます。
その結果、このドメインの人は常時成長します。

ところが「世」のドメインに属する人は、そうはいかない。
この「世」のことが全てですから、「世」のことに余裕を持って当たることが難しくなります。
だから基本的にテンションも大きくなる。結果、ストレスの強い人生になるんですね。

そうしたなかで自尊心も過敏なものになりやすい。ベネディクト夫人が『菊と刀』で書いたように恥の意識も過敏になる。
その結果、知らないことを質問するのも躊躇する。また素直に他者の智恵を受け入れにくくなります。
結局自然に、持って生まれた素質だけでものごとに対処することになる。そこには持続的な成長はありません。

鹿嶋は、いろんな分野で、いい素質に恵まれながらそれを洗練させられなくて、
幼稚なままで年取っていく人を沢山見てきました。ホントに惜しいと思いました。

もちろん「世」のドメインに属していても、自尊心の処理のようなことを上手に出来る人もいます。
育った家庭環境がいいとか、友人関係がいいとかで「教養として」の謙虚さを身につけていて
それでもって知恵を働かせて処理する。
ですから、みんながみんなそうだとはいいませんが、処理できない人も沢山出ます。

ところが「天」のドメインに属する人は、全員処理できてしまいます。その意味で対照的です。

                    


<日米キリスト教会の雰囲気差異>

蛇足です。
話は少しややこしくなりますが、同じキリスト教会でもその雰囲気に対照的といっていいほどの
差異が生じることがあるようです。

米国に留学や仕事で一定期間暮らした日本人で、クリスチャンになる人が結構沢山います。
で、帰国すると日本の教会を探して通うのですが、しばらくすると行かなくなる人がこれまた結構出るんですね。
そしてクリスチャンも止めてしまう。推定では8割がそうなるそうです。

聞いてみたところでは、日本の教会は重苦しくてつまらないそうです。
そしてつまらないが辛いになり、苦しくなって行かれなくなってしまうという。

なぜでしょう。アメリカであんなに楽しかったのに。
どうして雰囲気が対照的なほどに違うんでしょう。

ひとつにはやはり、日本の教会には
「霊の永遠のいのち確保が第一で、この世の幸福は二番目に大事」という意識が薄いからではないでしょうか。
代わりに道徳に沿った生活姿勢を重視する。

けれども、道徳的なこと、律法をまもることは、霊の永遠のいのちの確保には少ししか関連していないのです。
ということは、霊のいのち確保に焦点が合っていないことでもある。

すると、この世のことに軽いタッチで対処するという姿勢がとれなくなるんですよね。
牧師さんや教会員がそうですと、教会にはテンションとストレスが満ちてしまう。
礼拝も重苦しくてお通夜のようになってしまう。

アメリカの教会でクリスチャンになった人には、それが耐えられないようです。
そんなわけで、帰国すると8割が棄教してしまうことが、アメリカ在住の日系クリスチャンの間で、
よく問題になっています。


教会は論理的にはイエスの名のもとの領域です。
同じ教会ドメインなのにそんなに違ってしまってはおかしいんですけどね。



                    




                    

 

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Vol.307『「創造主の名」吟味による副産物(1)』(17章11節)

2010年10月17日 | ヨハネ伝解読


  創造主の名を吟味することを通して得てきた知識をまとめてみます。

1. イエスの名は父・子・聖霊が一体になった創造神にスポットライトを与えてくっきりと浮上させる。

2. イエスの名は時として三位一体の創造神の代替認知物ともなり、
忙しい中で実体を霊感認識できない時にも、放念しないように保ってくれる。

3. イエスの名は、その統治領域(ドメイン)をも指し示す。
このとき名は、そのドメインの上に掲げられた国旗のような役割をしている。

~この知識から、副産物をも得ることが鹿嶋は出来ました。以下にそれを述べてみようとおもいます。


                    

<立場の総合的な自覚>

イエスの名が指し示すドメインは天国(天の創主王国)と同じ性質の領域です。
そして人間にとって、それは自分が生きているこの「世」のなかに出来あがります。

「世」は悪魔の統治下にあります。それは根本的に天国の法に敵対しています。
だから、イエスの名のもとにあるドメインは、敵地のなかに出来た陣地のようなものです。

これはどういうことか。
イエスの名を意識するということは、イエスの名の下のドメインと同時に、
自陣をとりまく敵地(「世)をも意識しているということです。
そういう総合的な認識があるということです。


                    

<「世」に混じらない人だけにしるしが>

この全体観によって弟子たちも、自分の立場を明確に認識できます。
それを認知するから、知らず知らずのうちに「世」に融合して行動することもなくなります。

この状態、まさにこの状態が弟子たちに限らず、三位一体の創造神が人間と共に働かれる大前提なのではないか。
祈りが聞かれ、しるしが現れる必要条件になっているのではないか。

創造神の名の吟味は、鹿嶋にその気づきも与えてくれました。
鹿嶋は、長い間、同じ信仰者であるのにある人にしるしが現れ、ある人に現れないことに疑問を持っていました。
その疑問に上記の気づきが一筋の光明を与えてくれたような気がしています。


                    




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Vol.306『創造主の名はどういう役割を果たすか(3)』(17章11節)

2010年10月10日 | ヨハネ伝解読

 前々回と前回で、
「名という記号は認識対象にスポットライトを当ててその輪郭を明確にする」ことと「名は対象のシンボル、
すなわち、認知代行物にもなる」ことがわかりました。

                     

<統治領域も示す>

   今回はその次に行きます。「統治領域を持つ実在の名は、その領域をも示唆しうる」というのがそれです。

理屈っぽくいうとそうなりますが、例を挙げるとわかりやすいでしょう。

太平洋戦争当時、硫黄島は日本の統治領域でした。そこには日の丸が掲げられていました。
その国旗はただかっこよさのために掲げられているのではなく、この島が日本の統治領域だということをも内外に向かって示していました。

統治領域は領有領域といってももぼいいでしょうが、英語ではドメインとかテリトリーとか言います。

ところが第二次大戦が終盤になると米国がそこに戦を仕掛けました。
そして戦いのなかで米国の優勢が明らかになると、幾人かの米国軍人が丘の頂上に星条旗を立てました。
まだ日本兵の残党が撃ってくるかもしれないのに、危険を冒してそれをした。

この島が米国のドメインになったことをいち早く示すためです。

このように、国旗はただ国家のしるしであるだけでなく、そのもとにある空間はその国の統治領域であることをも示しています。
そういう機能を持っているのです。

  この旗に、日本とかアメリカとかいう国名が書かれているとイメージしたらいいでしょう。
日の丸や星とストライプの図柄は国名を迅速に認知するための代行認知物の役割をしています。

イエスの名は創造神の名でもあります。万物の創造神は万物の統治者です。
ですからイエスの名はやはりその名のもとにある統治領域をも意味しえます。


                    

<天国には創造神の名が置かれている>

聖書にはその思想が出ています。
「第一列王記」を開いてみましょう。8章29節。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                                                         
「そして、この宮、すなわちあなたが『わたしの名をそこに置く』とおおせられたこのところに、
夜も昼も御眼を開いて下さって、あなたのしもべたこの所に向かってささげる祈りを聞いて下さい」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この聖句はソロモン王が神殿を建設する際に、創造神に祈った言葉です。
ここでの「あなた」は創造神であり、その方がソロモンに「わたしの名をソロモンが造って捧げたこの神殿に置く」といっています。
かっこいいからそうするの? それだけでないでしょう。この神殿が自分のドメインであることを明示するためです。

 旧約聖書の幕屋や神殿は、天国(天の創主王国)の模型(ひな形)です。
聖書はそういう論理になっています。だからこの聖句は、天国にも創造神の名が置かれていることを示唆しています。
  そして、天国は王である創造神の統治があまねく貫徹した領域であることを、この名は示しています。


                    

<「世」におけるイエスの名>

 さて、17章11節の聖句に戻りましょう。
ここでイエスは弟子たちに自らが運んだ父なる創造神のことば(天の言葉)を宣教させようとしています。

舞台はこの「世」です。

「世」(宇宙)は創造神が一時的ながらサタンに統治権を与えた空間です。
サタンの名が書かれた旗がはためいているとイメージしてもいいでしょう。

弟子たちの宣教はそのなかでなされるものです。
教えを心に留める人の集まりは、創造神のドメインとなります。
それは悪魔のドメインのなかに天の王国の論理が貫徹する空間を作っていく活動にほかなりません。
敵国のなかに、自国の陣地を造っていくようなものだ。

  出発点では、まず弟子たちの心にイエスの言葉が留まっています。
その一点だけが創造神のドメインだ。四面は敵の領地です。


                    

<名によって弟子を一つに>

聖句におけるイエスの祈りは、この小さなドメインに創造主の名を掲げて下さいと、願い求めています。
  その名が掲げられれば、この空間は創造主の統治領域であることが「明確に」内外に対して宣言されます。

内に対してとは、弟子たちに対してです。
弟子たちは、自分たちが「世」とは対極の性格を持った領域にいることを明確に自覚できるようになります。
するとこのドメインでの基本理念が、これまた明確になる。
それによって彼らはそれを共有することをまた明確に自覚できるようになる。

基本理念の自覚的な共有は人間集団が一体化する鍵です。
 このようにして、イエスの名は弟子たちを「一つに保つ力」を持つのです。


                    

外に対してはどうか。イエスの名は、万物を統治する創造神の名です。創造神は全能で全てに勝る王です。
この名が掲げられたドメインには、敵は戦いを挑むことは出来ません。

悪魔の攻撃手段の一つは、相手を分裂させることです。
サタンの原語は、ギリシャ語でディアブロス。「わけへだつもの」という意味です。
悪魔はなんとかして弟子たちを分裂させよう、一つにさせないようにしよう、とする。
だがイエスの名が掲げられた領域には、その力は及ばないのです。

対外的にもイエスの名は、弟子たちの一体性を守ります。

だからイエスはその名を弟子たちの上に掲げて下さいと、祈り求めているわけです。

今回は、ここまでにしましょう。


                    


 

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Vol.305『創造主の名はどういう役割を果たすか(2)』(17章11節)

2010年10月09日 | ヨハネ伝解読


 前回、固有名詞が意識に出現すると、人間は突然認識対象を明確に心に形成できるようになることがわかりました。
以後、その名はその対象を意識する毎に働いてくれます。

今回はその続きです。名の「認知代行機能」について。

                    

<名の認知代行機能>

「名」は認知対象を先行的に照らし出すと、それだけに留まらずさらに新しい働きを人の心理の内でしていくようになります。
まず、時と共に連想するイメージを伴うようになります。
すぐ後で鹿嶋の例で示しますように、それによって一定の意味を帯びるようになります。
すると人は対象実在を認識する作業を、この名を想起することでもって代行させていくこともできるようになるのです。

  例を挙げましょう。実在は本来限りなく多様な面を持っています。
鹿嶋春平太という実在は、宗教社会学者だけでなく、人間、男、日本人、老年者など限りありません。
それだけでなく、実在は動き続けています。
鹿嶋の肉体だけを見ても日々刻々と老化しています。気分も動き続けています。実在は活動態なのです。
英語ではこれをゴーイングコンサーンといいます。




こういう実在そのものを認識するには、対象全体を感性にド~ンと受信しなければならない。
動きを持って微妙に変化していく様を、感性で追わねばなりません。 これは精神的に大仕事です。

ところが 人間は生活するなかで、鹿嶋だけでなく沢山のものを認識していかねばなりません。
それら一つ一つについて、こういう認識の仕方をしていたら、疲れてしまって身が持たなくなります。
実生活のなかで、ものの認知に当てられるエネルギーは限られているのです。

 こういうとき、一定の連想イメージを伴って意味を持つようになっている名は、助けになります。
その名でもって実生活に差し支えない限りで、実在の認知を代行させたらいいのです。

たとえば読者のみなさんの意識のなかでは、鹿嶋という名には聖書と宗教社会学者といったイメージ要素は
連想されるようになっているでしょう。そこで鹿嶋を認識する時はこうなります。
「鹿嶋って何物」というとき、わざわざ鹿嶋に対面して直感内容をド~ンと得ることはない。
鹿嶋の名に聖書と宗教社会学者を連想させて、それでもって鹿嶋の認識を代行させます。
「ああ、聖書が好きな宗教社会学者だ」それで鹿嶋という実在の認識を代行させる。
それで日常には十分用をなすのですね。

  こちらは楽ですよ。鹿嶋という記号(名)は、簡素ですし動きません。聖書という記号も宗教社会学者という信号も動きません。
このセットでもって認識した方が遙かに楽です。エネルギーがかからない。

                      

<「シンボル」は代替認知物>

この認識の代行物が「シンボル」です。
ものの名(記号)はそれが指す実物の代替(代用)認知物になります。
だから記号論では、記号をサインというだけでなくシンボルともいうようになっています。

>「象徴」はわからない>

 日本ではこれを象徴と邦訳していますが、苦労なことです。
シンボルという語の由来を詳しく理解しない状態でつくった訳語ではないかとおもわれます。

日本国憲法には「天皇は日本の象徴」とありますよね。
日本国憲法は戦後のGHQ占領時代にアメリカ人が原文を作ったていますので、
英語の「シンボル」を日本語にしなければならなかった。困ったでしょうね。

ですからこの意味、大人でも多くはわかってないのです。
これを小学校で教えられるんですから、生徒も大変でしょうね。

「先生、象徴って何ですか?」
「ウ~ン、英語でシンボルって言うんだよ」
「そのシンボルって何ですか?」
「だから象徴って言うんだ。要するに天皇陛下はえらいって言うことだ」

もう吉本喜劇の掛け合い漫才です。


                    

                                    

日本という現物(実在)は、実に多様な内容を持っています。
それの全てをいちいち認知していたんでは、精神エネルギーが持ちません。
外部者(外人)も、いきなり豊富な内容を示されたら、かえってわからなくなってしまいます。

そこで、単純なもので認知を代行させるわけです。
「日本ってどんな国?」
「フジヤマと芸者の国だ」
これで外人さんは一応イメージが結べますから、わかった気持ちになってくれます。
(いまでも日本人は男はちょんまげ結って、女は芸者さんの姿してると思っている外人さんは多いんですよ)

「天皇は日本の象徴」という場合、天皇陛下は日本の代行認知存在になっておられます。
「日本って何なんだ」「それを簡明に知りたかったら、天皇を見よ」
こういってるんですね。

イエスという名は、そういう認知代行物の役割も持つようになっています。
「三位一体の創造神って何なんだ?」 これに対してイエスの名は、
たとえば父、子、聖霊、一体、といった一定の連想イメージを伴って、
その神を簡明に代行認識させる役割をも受け持っているわけです。

今回は、そこまでにしましょう。


                    



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Vol.304『創造主の名はどういう役割を果たすか(1)』(17章11節)

2010年10月05日 | ヨハネ伝解読
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Vol.304『創造主の名はどういう役割を果たすか(1)』(17章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前の三回で得た結論に沿って、
「父、子、聖霊の名は一つでありイエスであるらしい」と言うのを踏まえてさらに吟味を続けましょう。
                    
17章11章の終盤には、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたの御名のなかに彼らを保って下さい。それはわたしたちと同様に彼らが一つとなるためです」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~という聖句があります。

                    
これはどういうことでしょう。
創造主の御名イエスのなかに弟子たちを一つに保ってくれという。そうして弟子たちを一つにしてくれ、という。

難しいなぁ~。
イエスという名がそんな効力を持つのでしょうか?


                    
                                        

<記号論を援用する>

 それを探求するに、まず、イエスに限らず、「名」というもの一般の持つ効力についてから考えましょう。
それには記号学(記号論)という学問知識が助けになります。

この学問は19世紀に創始され、20世紀前半に公になっています。
創始者はフェルディナンド・ド・ソシュールというフランスの認識哲学者です。
彼は「名」というものが人間の認識活動に果たす役割について、
次のような主旨のことを述べています。

「名という記号(信号)は認識対象を現実から先行的に切り取る」と。


                                                                                

<砕いて言えば>

難し言い方ですが、要するに、言ってることはこうです。

人間は互いにいろんな信号(記号)を発しながら暮らしています。
言葉はその記号の代表的な一つです。
で、その言葉のなかでたとえば「金(ゴールド:gold)という名がさす物質は、
鉱物のなかの一種類のもの」でどういう性質のものかを我々は知っています。
鉱物の内の黄色く輝いて、変質しなくて、一定の柔らかさがあって、様々な形に加工できるものだ。
これはいまや常識ですね。

                    

 けれども、この名が世の中に出現する以前にはどうだっただろうか。
その時期には、こういう種類の物質を知っていたか。はっきりとは知らなかったでしょう。

 もちろんこの名がない段階でも、人はある程度のぼんやりとした認知はいたします。
なにか黄色で光り輝くものを雰囲気としては心に描く。

だがそれは漠然とした認識です。
時がたてばすぐに消えていきますし、漠然としているから
輪郭というか、境界線がはっきりしない。

境界線が曖昧だから、他の物質と容易に混同されていきます。

だが、そのとき「金」という言葉(記号)がつくられたらどうなるか。
なんと不思議なことに、そのばくぜんとしていた対象が、突然はっきりするでしょう。
それに照らされて、メリハリを持って人の意識に現れるでしょう。
ソシュールはそのことを発見したんですね。

そういう認知作業を人は、直感的に瞬時にしていることを見出した。

それができると認識はさらに進みます。現物を見てもっと様々な属性を詳細に見出していく。そして各々言葉にすると金という概念の定義もできていきます。

が、ともあれ対象に関する最初の明確な認知は「金という名」が出来ることによって可能になっています。
ソシュールが「現実実在(雑多で混沌としている)のなかから「先行的に」切り取る
(この場合は金という物質を)」というのは、要するにそういうようなことなようです。


                    

<もう一つの比喩「名はスポットライト」>
                    
 ここで「先行的に切り取る」ということをもう少しわかりやすくしましょう。
「切り取る」というのは比喩表現です。所詮はたとえだ。
いってみれば、皮の表面にいろんな模様を描いたリンゴがあって、
そこから同一の模様だけをナイフで切り取るといったイメージで、たとえです。

比喩はものごとをわかりやすくするために造るものです。
だったらもう一つ作ったっていいでしょう。
名は対象に「スポットライトを当てる」というたとえを追加しましょう。

こういうイメージです。
後に金として認識される物質は、複雑で混沌としたなかに混じり込んでいます。
そこに「金」という名が出現すると、それがライトになってその物質だけを照らし出す。
スポットライトがあたって目の前に金という物質だけが浮上する。
これがその物質を明確に意識させる、というイメージです。

この比喩を加えると、もっとわかりやすくなるんじゃないかな。
がとにかく、名というのはそういう不思議にして素晴らしい効能を持っているんですね。


                    

<余談>

ここで一服、余談です。
言葉だけでなく仕草や造形物や音楽なども人間が発信する記号であり、信号なんですね。
人間の認識構造をそういう人間が使う記号から明かしていくという仕事は、
19世紀になって初めてなされたものです。

これは偉業と言っていいんじゃないかな。
ギリシャ以来多くの哲学者が様々な認識論を展開してきましたが、
ソシュールがとったこの視角には誰も気付きませんでした。それを彼はやった。驚くべきことです。

ついでに記しておきますと、彼はこれを論文にも本にもしなかった。
真に独創的な人というのは、発見の面白さや興奮に満足してしまうんでしょうか。
超越的な知識(当初はそうです)を凡人にわかりやすく言葉を費やして説明する仕事は、
これに比べればあまりに面倒くさくて面白くない仕事なんでしょうか。とにかく、書かなかった。
で、大学で講義だけした。それでおしまい。

そうしたら聴講した学生が後年、とった講義ノートを印刷、出版したんですね。
講義がなされたのが19世紀の終盤、ノートを冊子にしたものが出版されたのは1913年だそうです。
この聴講生がそれをしなかったらどうなったか。
ソシュールの画期的な仕事はこの世から消えてしまっていたでしょうね。
なんともドラマチックなことです。

                                        

<普通名詞による「名」>
                    

話を戻します。記号論のこの知識を援用させてもらいましょう。
それでもって創造主の「名」が提供する認識上の役割を浮上させていきましょう。
 
 まず、日本人に馴染みの「神」から。神も「金」と同様に、名を示す言葉です。
われわれは、この語があるおかげで、現在神の語が指している対象を即座に、直感的にイメージ出来ます。

ただし、日本語の神が指す対象は、多岐にわたっています。
「八百万(やおよろず)の神」というくらいですから。

日本語の「神」は不思議な力を持つ全ての存在を指していまして、
死んだ人間も、動物も、山も大木なども様々なものを対象に含めます。
もちろん、創造神も含みます。
生きた人間も含みます。松下幸之助さんなど、生きてる時から「経営の神様」といわれました。
それだけではない。「山の神」というのもあるという。どんな神さんかと聞いたら、自分の奥さんだといってました。
まさにやおよろずです。

こういう名で照らし出される認識対象はひどく漠然とします。
境界線も明確でない。
偶像も容易に含んでいきます。

だから、聖書のゴッド(ヘブライ語のエロヒム)の邦訳語としては、不適切きわまりないんですね。

                    
                    
                    
<創造神も普通名詞>

では、創造神(創造主でもいい)をもってきたらどうでしょうか。

こちらはの語は、神よりもずっと狭く限定的な対象を指しています。
聖書のゴッドに重なるところが遙かに多いでしょう。でも完全にピタリとまではいかない

これも神と同じく、普通名詞だからです。

普通名詞は、依然として複数のものを含みうる広い概念なのです。

創造神は英語ではクリエーターです。
だがこのごろ、広告表現を造る人もクリエーターと言います。


                    
                    

<固有名詞の力>


そのものズバリを指すにはやはり固有名詞です。
普通名詞は、一定の属性を示唆していますよね。
固有名詞はそうした属性の全てを併せ持つ対象全体を指します。
指し示す対象はそれそのもので、その意味で別格の記号ですね。

 そこで聖書の創造神を「イエス」と明示したらどうでしょうか。
すると人間は、万物を創造した唯一者とそれに関して聖書が述べていることをすべてまとめて一気に意識するようになります。
イエスという名は、聖書の伝える神の全体像を人間に効率的に意識させる最大のものなのですね。
これに比べると、「創造主」という語は「いまいち」ということになります。


                                        

<聖書を読む目的達成の鍵>
                    
聖書を読む最大の目的は、万物の創造神がどんな方かをよく認識することです。
御子イエスを知るのも、父なる創造主を知るためだと、御子イエス自身が教えています。

そしてそれに最初のスポットライトを当てるには、創造主という名をもってきてもある程度は行きます。
だが、イエスという固有名詞でもって照らすと最もトータルな形でシャープに浮上する。

まずこの名を心に浮かべることが、万物の創造主で唯一者で、みずから御子および聖霊と一体になった存在であること等々のもろもろの属性を含む存在そのものを
直感的に先行認知する鍵だったのです。

言い換えると、イエスの「名を意識して」スタートすることが、聖書が伝える神の全体像を浮き彫りにしていく鍵だったのですね。

+++

そしてこの「名」が、この地上で弟子たちを一つに保つと、17章11節ではいっています。
父と御子が一つであると同様に、弟子たちも一つに保つという。

どうやって?
次回にそれを考えましょう。

                    



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Vol.303『創造主の名は何か(3)』(17章11節)

2010年10月04日 | ヨハネ伝解読

みなさんこんにちは。
聖書の内容は無限です。人間の解釈に絶対の正解はありません。
だから面白いのです。
みんな自分の納得する解釈をし、創造的誤読を楽しみましょう。

それが不安でならない人は、教理主義教会に行って下さい。
そこでしっかり縛ってもらって下さい。


                    


さて本日は「聖霊の名は何か」です。

「父と子と聖霊の名」エスらしいのなら、聖霊の名もイエスと推定できます。
だけど、「聖霊の名はイエス」とずばり記した文章は聖書にはありません。

だったら、直接的でなくても推定を支持してくれる聖句はないでしょうか。

ありました!
この「ヨハネ伝」ですでに読んでいました。14章26節を開いて下さい。イエスの言葉です。

「父がわたしの名においてお遣わしになる聖霊は、諸君等に全てのことを教えてくれるよ。
また、わたしが諸君に話したすべてのことも思い出させてくれる」

聖霊も「イエスの名において(in my name)」創主が遣わすという。
この「おいて」の意味は後に詳しく吟味する必要がありますが、
とりあえずここでは「イエスの名を与えて」と解しましょう。そういう可能性もありますから。

そうすると聖霊の名もまたイエスらしいということになります。


                    

またそうだとすると、この17章11章の終盤の聖句、
「あなたの御名のなかに彼らを保って下さい。それはわたしたちと同様に彼らが一つとなるためです」
も独特の意味を持ってきます。

それを考えるにはまた「イエスの名において」の意味を吟味せざるを得なくなるなあぁ~。
次回に試みましょう。


                    



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Vol.302『創造主の名は何か(2)』(17章11節)

2010年10月03日 | ヨハネ伝解読
「ヨハネ伝解読」依然17章11章です。

前回イエスという名は、父親ヨセフではなく、創造主が与えたものだったと確認しました。

本日は「あなたの御名」です。
もう一度聖句を掲げましょうか。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父よ、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。
それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」(17章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


「あなたがわたしに下さっているあなたの御名」でもってイエスは、
「創造主は御子にイエスという名を与えただけではない。その名は『あなたの名』です」
と言っています。

これはどういうことか。
振り出しから考えますと、「あなたの」というのは所有格代名詞ですよね。
だから、イエスという名は「創造主が所有していた」ということになる。

<「手持ち」の名か、自分の名か>

これってどういうこと?
筋としては二つ考えられます。
一つはイエスという名を創造主が「手持ちとして」もっていた、という意味。
これを御子に与えたという筋道です。

通常の感覚では、そうでしょうね。だが、もう一つありうる。
それは父なる創造主が、この名を「自分につけた名として」所有していた、という筋道です。

「えっ?!」ですね。
それはないんじゃないの? 創造主にはエホバという名があるでしょ?
 という声が聞こえそうですね。

だけど、旧約聖書に出てくるその名は、じつは創造主の名ではないことを、
このチャーチのカテゴリー「エホバの奥義」で鹿嶋は述べています。ご覧下さい。
とにかく、そういうことだから、父なる創造主の名もイエスであって、
創主はそういう我が名を御子にも与えた、という筋も成り立ちます。


                    

<父と子と聖霊の名>

 どちらか一つを確定する手がかりを与える聖句はないでしょうかね。

『マタイ伝』を開いて下さい。28章19節にこんな言葉があります。

「それゆえ諸君は出て行って、全ての国の人々を弟子にしなさい。
そして父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)をさずけ、
わたしが諸君に銘じておいた全てのことを守るように教えなさい」


                    


これはイエスが弟子に与えた命令の言葉です。
この「父と子と聖霊の名」って何でしょうか。

今度は『使徒行伝』を開きましょう。
2章38節にこんな聖句があります。

「ペテロは彼ら(人々)に答えた『悔い改めなさい。
そして、それぞれ罪を赦していただくために、
イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい』」


                    

これはイエスの弟子ペテロの言葉です。
なんと彼はイエスに「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを授けよ、
と命じられていたのに、「イエスの名によって」受けろと人々に言っています。

だけど、ペテロがイエスの命令に従わないはずはありません。

むしろここからは「父と子と聖霊の名」イコール(=)「イエスの名」という等式が推論できるでしょう。


                    

「え?!」ふたたび「エッ?!」ですね。
「お戯れを・・・」という人もいるんじゃないかな。

でも、弟子たちが父と子と聖霊について、
各々別の名を言ってバプテスマを施しているという記述は聖書にはありません。

もちろん、右の二つの時点の間に、何があったかを示す聖句もありません。
その間の過程は謎だ。
だから、等式は明証されてはいないのです。


                    

<創造主の名は奥義?>

けれども事態を裏から考えてみましょう。
明証されていないが故に、
我々はこの等式がなりたつ「可能性」そのものにすら通常気がつきません。
この等式の可能性は奥の方に隠れている。

でも、実は奥義ってそういうものではないでしょうか?
聖書には、創造主の名は実はイエスであって、その名を御子に与えたのだ、
という思想が奥義として埋め込まれていたのではないでしょうか?

次回は「聖霊の名」について吟味しましょう。


                    




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Vol.301『創造主の名は何か(1)』(17章11節)

2010年10月02日 | ヨハネ伝解読

「ヨハネ伝解読」301回目です。。
17章は全部イエスが創造主に語りかける言葉です。
本日は11節に入ります。
(sesameさんお待たせしました)


(右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父よ、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。
それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」(17章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 
ここでの焦点は、まず「あなたがわたしに下さっているあなたの御名」 です。
ここで「あなた」は創主で、「わたし」はイエスですよね。これは問題ない。

次に「創造主が下さっている御名」について考えましょう。
これは「イエス」ですね。創造主の御子の名はイエスです。これも問題ない。

ただしこの聖句では、「エスの名は創造主が与えたものだ」とイエスは祈りの中で言っています。
ホントでしょうか。


                    

マタイ伝を開いてみましょう。1章20~21節。

「彼(ヨセフ)がこのことに思いをめぐらせているとき、主の御使いが夢に現れていった。
『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っているのは聖霊によるのです。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
この方こそ、ご自分の民をその罪からすくってくださる方です』」

なんと確かにこの名は創造主が与えた名だったのですね。
創造主によって御使いを通して与えられていたもので、
父親ヨセフが~中国から取り寄せた易学書の姓名判断など参考にしたりして~決めたものでは
なかったのでした。

次回は「あなたの御名」について吟味しましょう。


                    

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