鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

過去ログが楽しいブログ

2007年04月22日 | ヨハネ伝解読

                    

少し忙しくなって、新しい記事の追加が遅れがちです。
けれども、鹿嶋はこの「チャーチ」を、「過去ログに豊富な知識が蓄積されているブログ」「過去ログが楽しいブログ」になることを目標にやってきました。

 自分自身も、読み返して楽しく知識を更新しています。
 ご訪問の皆様、どうぞ過去ログをお楽しみになってください。

                     
                    

 気づいたら、遅いコメントも書き入れてください。
時間がたった後のコメントの方が、深いものになる場合が多いです。
思考の熟成度合いが高くなりますから。

では、お楽しみ下さいますことを。


                     

コメント (3)
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Vol.197『悪魔がユダに入った?』(13章)

2007年04月09日 | ヨハネ伝解読

 だんだん事態はクライマックスに近づいていきます。
イエスはユダが裏切ると宣言します。
 本日の聖句はこれです。

                                        
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「その弟子(ヨハネ自身)はそのままイエスの胸によりかかって、『主よ誰のことですか?』と尋ねた。
イエスは答えられた。『私が一切れのパンをソース(たれ)に浸して与える人物がそれです』。 
そして一切れのパンを浸して取りあげ、シモンの子、イスカリオテのユダにお与えになった。
ユダがパンを受け取るやいなや、悪魔が彼の内に入った」(13章25~7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 イエスはユダにソース(たれ)に浸したパンを与えました(26節)。ユダはそれを受け取りました(27節)。
これで裏切りは決まりです。彼には、もう、悔い改めて別の道に切り替える可能性はなくなりました。

イエスは彼に「君がしようとしていることを、急ぎするがいい!」という言葉を投げかけました(27節)。
それでもユダには(読まれているな・・・)という思いはもう湧かなかったと思われます。
彼は夢の中にいるかのような精神状態で、外に出て行ったでしょう。

                    

<ユダの内に入ったのは?>

 さて、ここでヨハネは「ユダがパンを受け取るやいなや、悪魔が彼の内に入った」と記しています(27節)。
日本では通常これは文字通り、「ユダの内に悪魔という霊的存在が入った」と解されています。

 ところが、「そうではない、これは『悪魔の思いが入った』という意味だ」という解読もあります。
本日は、これについて考えます。

 後者の立場とる人は、結構論理的な根拠を持っています。すなわち
~~悪魔や「天の諸々の悪霊」と記されている霊は天使が変質したものである。
そして聖書のどこにも、天使が人の身体の内に入ったという記述はない。
だから、悪魔や悪霊も人の内にはいることはないだろう。

 天使が人の意識に影響を与えるときは、いつでも、外側からである。
だから悪魔や「天の諸々の悪霊」も外側から影響を与える存在と解すべきである。

 こういう背景からすると「悪魔が入った」という聖句は、「悪魔の思いが入った」と解すべきだ。
それをヨハネは「悪魔が入った」と象徴的に記しているのだろう~~と。


                    


<「汚れた霊」とは何か>

 脇道に入ります。
 本日は、少し長くなります。


 上記の解読を読むと、次のような疑問も起きてきます。すなわち 
~~「天使や悪魔が人の身体の内にはいることはない」というのなら、
聖書の中で「人の内に入っている『汚れた霊』」とはなにか。
イエスは人の内から「汚れた霊」を追い出しているではないか~~と。 



 これに対して、上記の立場を取る人は、こう答えるケースが多いです。
すなわち~~聖書で「汚れた霊」と記されている存在は、死者の霊の内の一部のものでは無かろうか。
人間の霊は、生前肉体の中に入っていたのだから、人の身体の内に入るのはありうることだ~~と。


  たしかに、そういう解読も、論理的には成り立ちます。


                    


<人霊は死後天国か地獄かに直行する?>

 ところが日本の多くの教職者はこれを聞くと、ヒステリーを起こします。
もう論理は度外視して感情的になる。
何故かというと、彼らは「人の霊は死んだら即座に天国か地獄かのいずれかに直行する」という強固な通念を持っているからです。
(そんなこと聖書に書いてないのにね)

 で、ヒステリックに「異端だ!」と非難しますが、浅はかなことです。
というのはこの人たちは、自らの手で聖書の解読を試みたという経験をほとんど持っておりません。
業界仲間(牧師)がこぞってそういっているから、オウム返しにそう叫んでいるにすぎない。
その姿勢が浅はかなのです。



                    




<異端を叫ぶには正統な解読を持つことが必須>

 ~~脇道のままです。

 異端って何でしょうか? これは「正統」の反対語です。
だから人を「異端!」これを叫ぶためには本当は、「これが正統」という解読を一つ持っていなければならない。
ところが非難者たちは確信のある解読など持ってないんですね。
だから、「あなたが異端という根拠は?」と問われると逃げ回ります。

鹿嶋はかつて、あるキリスト教関係の新聞社で連載を始めました。
そうしたら、ある牧師から新聞社にたれこみが入った。
「鹿嶋春平太というのは異端の牧師と交流がある!」と。

鹿嶋は新聞社に申し入れました。
「その牧師さんと、何処がどう異端なのか紙上論争しましょう。読者の前で堂々と」
そうしたら当の“タレコミ”牧師さんどうしたと思いますか?
「いや、私はその理論をよく知らないので・・・」と逃げる。

鹿嶋は「知らないでいい。それ以前のところで論争できる。そもそも異端とか正統とか
いうことについてどう考えるか。
そこで十分論争できる」と追求しました。
すると「それもあまり考えたことないので・・・」と逃げの一手。
結局、名も名乗れないで、逃げ通してしましました。

 ・・・浅はかの一語。

 これが日本の教職者の現状。
我が国でキリスト教界が一般ビジネスマンから信用を得るのはまだまだ先と予測せざるを得ません。


                    


<唯一の正統基準は「使徒信条」>


~~余談が続きます。

 聖書解釈が正統であるかどうかについて広く承認されてきた基準は、これまでのところ
「使徒信条(ニカイア信条の文章を整理したもの)」以外にありません。
そして、そこには「我は天地の創り主、全能の神なる創造主を信ず。われはそのひとり子イエスキリストを信ず・・・」とありますが、
「われは汚れた霊は死者の霊と信じるにあらず」などとは書かれておりません。



 「汚れた霊」をどう解読するかは、正統異端を分ける要素にはなっていないのです。
イエスを創主の子と解するか、人間の子と解するか、は基準になっていますけれど。


                    


<盲信と卑屈さとの混合>

 明確な根拠もなく他者を異端と叫んで非難するような信仰を、盲信といいます。
文字通りの盲信。
のみならず、この非難者たちには、村八分にされないためにひたすら多数派につこうという、卑屈さが観察されます。

 多数派についていれば、いじめられることもないだろう、活動を妨げられることもないだろう、
という卑屈さが見られるのです。

 
他方、前述の後者の立場の人々には、聖書を調べ、解読を進めていったという形跡が明確にあります。
天使が人の肉体に入ったという記述はあるかどうか、
イエスに追い出された霊はどう叫んでいるのか、
悪霊であるのになぜわざわざ「汚れた霊」という呼び名を当てているか、
---などの疑問を持ち、聖句を少しずつ詰めていった形跡があります。


 鹿嶋は、どちらの解釈が正しいかを言っているのではありません。
いやしくもキリスト教の教職者となったらなら、同業者の顔色をきょろきょろうかがって暮らすのを止めろ、
聖句をきちんと読んで自分で「考える人になれ」と言っているのです。


                    


 もうひとつ見逃してならないのは、後者の人々の見解は断定でなく、
「ではなかろうか」という可能性として意識されているということです。
聖書には直接「汚れた霊とはこれこれのことだ」と書いたところはありません。
他の様々な聖句から推論していったにしても、
それは「・・・ではなかろうか」「・・・の可能性が高い」ということにしか、人間にはいえない。
そういう自覚があります。


 他方、非難者は前述のように、そんな思惟過程など踏んでいないのです。
文字通り多数派についてヒステリーなだけ。
悲しいことに、日本の教職者のほとんどは、まだ、このレベルにあります。



                    

<原点に戻れば希望は出る>

 聖書勉強中の皆様は、こんな事書いたので失望されるかも知れませんね。
どうしましょう? 
いや、何もがっかりすることなど無いのです。
日本には、まだ、「福音」は入っていないと考えたらいいのです。

 ヘボンさんらの努力で聖書という書物が邦訳された。「書物」はとにかく入った。
これからそれに正しい姿勢で取り組んでいけばいいのだ、と。

 そのことに、気づきさえすれば、前途は暗くありません。
早く気付いて原点に立てばいいのです。


                    



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Vol.196『ヨハネ以外の弟子は愛さなかった?』(13章)

2007年04月03日 | ヨハネ伝解読



~~ニュースがあります。


                    

<ついに「神」が「創造主」に!>

 先日NHKハイビジョンTVをつけたら、ベートベンか誰かの歌付きのクラシック曲を放映していました。
ドイツでのコンサートで歌はドイツ語でした。画面に邦訳語のテロップが流されていました。


 それはいつもの通りですが、よく見て驚いた。
従来「神がどうこうした」と流されていたところが「創造主がどうこう・・・」となっているではありませんか! 
見続けていたら、以後全て「創造主が・・・」となっておりました。


 「やっとここまできたか・・・」と感慨を深くしました。

                    

 『神とゴッドはどう違うか』(新潮選書)で、ゴッドを神と訳すのは殆ど間違いで、
創造主又は創主と訳すべき、と活字発信したのが1997年2月でした。
即座に四日市教会の堀越暢治(のぶじ)牧師から「よくいってくれた」との電話が来てお会いしました。

 主催したメールリスト「聖書サロン」「せいしょ議論」の一部の人からも賛同を得ました。
だがメンバーの中でこれが福音伝達上の大きな問題であることを深く認識した人は、
この私のブログにもコメント下さるSabiaさんお一人だったのではないかと思っています。

 かほどに理解者は少数でした。だが私は以後の書物で「創造主」と言い続けてきました。
このブログでもそれを通してきました。


                    


 10年がたちました。そうしたらなんと、NHKで訳語を作る人がそうなったようです。
書物を読んでくださったのでしょうか。このブログを見てくださったのでしょうか。


 ハイビジョン番組担当の方だけかも知れません。ドイツ語担当の訳者だけかも知れません。
だが、たとえ一部においてであろうとも、NHKのなかで正しい訳にする動きが出たのは画期的。
従来考えることも出来ない姿でした。

 日本に正確な福音が伝わり始めるかも知れません。


                    



 では本日の聖句にまいりましょう。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「弟子たちの一人で、イエスが愛しておられた者が、イエスのみ胸の近いところで席に着いていた。
そこで、シモン・ペテロは彼に合図をしていった。
『誰(これからイエスを裏切る者とは)のことをおっしゃったのか、聞いてくれ』」
(13章23~4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 前回の続きです。
弟子たちはイエスに「このうちの一人が裏切る」と言われても誰のことかわかりませんでした(22節)。
それほどに、ユダは普通に行動していた。弟子の一員として働き続けていたのです。


 だから、聞いたものは互いに顔を見合わせます。
その後、ペテロがイエスの隣に座っていた弟子に言います。「誰なのか聞いてよ・・・」


                    


 ここでヨハネはその弟子を「イエスが愛した弟子」と書いています(23節)。
これを文字通りに取りますと、疑問が湧いてきます。
 「え? ではイエスは、他の弟子は愛していなかったの?」と。


 そんなことはないはずです。この13章の最初の1節でヨハネは
「イエスは自分のものとなっている者たちを、最後まで愛された」といっています。
そして、ほかの弟子たちも、父なる創主がイエスのものとして与えられた存在であるということに、
聖書ではなっています。イエスは他の弟子も愛していたのです。


                    

 だったらこれはどういうことでしょうね?
 どうも「弟子の中でも、先生はこの弟子をもっとも愛しておられた」とヨハネはいっているようです。
これをあからさまに最上級で表現はしなかった、ということではないかと思われます。


どうしてか? この「最も愛された弟子」とは実は著者ヨハネ自身だからです。
彼は自分で自分のことを指していっているのです。


 実際、イエスはヨハネを最も愛していたようです。イエスの教えを最も理解していたからであります。
それもあってのことでしょう、イエスは自分が十字架上で死んでいくときに、
生母マリアのことをヨハネに託してもいます(ヨハネによる福音書、19章25~6節)。


 後世の人々は、イエスの第一の弟子はペテロである、と考える傾向にあります。
ペテロにはスター性がありますから。言うことやることが絵になる。
だから、そういう印象を後世の人々に与えるがちです。
だが、実際にはそうではない。ヨハネが第一の弟子だったのです。


                    


 ヨハネは、毛沢東に寄り添って助け続けた周恩来のような存在でありました
(その周恩来をも毛沢東は最後には抹殺したことを示唆する資料が、最近出ておりますけど、
イエスはそういうことはしません)。


 師匠にぴったりついて深く理解するという人は、一般には目立たないものです。
影のように寄り添い続けますから。行動に表面的なメリハリがない。
だから、彼の本質的なところはわかられにくいのでした。


 ヨハネは学者タイプの人でした。そして控えめでした。
そういう人が、自らを最愛の弟子だと確信していながらも、
ただ「イエスが愛した」と書き記すというのは、ありうることです。


 そんなこと書かなければ、もっと控えめなんじゃないか・・・。
日本人的な感覚で言えば、そうかも知れません。
だが、ヨハネはそれは出来なかったのでしょう。
この福音書を書いているとき、ヨハネはもう晩年にさしかかっています。
弟子の中での自分の位置については、やはり一言、書きとどめておかないではいられなかったのでしょう。


                    



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Vol.195『イエスの心が動揺するとき』(13章)

2007年04月01日 | ヨハネ伝解読

本日の聖句はこれです。

                                        
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「イエスがこれらのことを言われた後、深く心を動揺させられた。そしてこう公言された『諸君に真理を言います。諸君の中の一人がこれから私を裏切ります』」(13章21節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                        

 この21節からは、イエスがユダの裏切りを預言する場面に入ります。ヨハネはこの時の状況を記述するのに、10節分ほどのスペースを当てています。

 ヨハネはまず~~

 「諸君のうちの一人が、私を裏切ろうとしています」(21節)

 ~~とイエスが言おうとするときに、「深く心を動揺させられた」と記しています。全てを見通しているイエスが、どうして心を動揺させるのでしょうか? 本日はこれを考えます。


                    


考えられる理由の一つは、みんなが激しいショックを受けるのがわかるから、でしょう。

 12人の弟子たちは、3年間近く、共に旅暮らしをしてきたのです。イエスの新しい教えを述べ伝えるべく、時には馬鹿にされたり、野宿して旅をしたりしてきた。苦労を共にして生きてきました。


 その仲間の一人が、こともあろうに先生を裏切るとは・・・。弟子たちには激しい衝撃でしょう。こういう衝撃を与えることがわかっているからイエスの心は動揺した、という推察です。


                    


 だが、おそらくそれは本質的な理由ではないでしょう。もっと深い理由があると思われます。


  この「ヨハネ伝解読」でははじめて言うことですけれど、聖書には「『創造主から出た言葉は、現実を従わせる』すなわち『必ず実現する』という鉄則」があります(このあたりの詳細は、拙著『誰もが聖書を読むために』新潮選書を参照してください)。


 そしてイエスは「私の言うことは父なる創主が語っておられること」といっています。父なる創主と完全に意識が共鳴しているのです。すると、イエスの言葉にも創造主と同様な力がある道理になります。


                    


 そのイエスから「誰々が私を裏切る」という言葉が出たら、どうなるか。もう、現実はそれに従うしかない。もう、当人は気がついて悔い改める可能性を、完全に失うことになります。


 イエスは、ユダが以前より自分の精神世界の外にいることを知っています。だが、ここまでは、ユダが悔い改めてイエスワールドに入る道は残されてきました。


 ところが「裏切る」というその言葉を口から出せば、もうユダは悔い改めの可能性を断たれることになる。ユダの心は悔い改めが(したくても)出来ない状態になり、ストレートに裏切りの行動に入っていきます。イエスが心を動揺させたことの根源的な理由はそこにあると鹿嶋は解します。


                    


 イエスが、わかっていても心を動揺さすことは、以前にもありました。
 前の11章でラザロを生き返らせようとした時、イエスが激しく心を動揺させられた、とヨハネは記しています。


 これも状況が一転していく時に起きています。


 死んで四日もたったラザロを、衆人の前で生き返らせることは、世の勢力に対するイエスの宣戦布告でもありました。本山エルサレムの近郊でこれをやったら、イエス人気はエルサレムの神殿でも沸騰します。

 そうなればもう、ユダヤ教の高僧たちは従来のようにイエスの活動を見逃しておくことが出来なくなる。殺すしか無くなるのです。


  するとイエスの十字架刑死を含む一連の事件が、実現していきます。ドミノ倒しのように展開します。その入り口のテープカットが、ラザロを生き返らせるという仕事でした。

  これを契機にイエスには、拷問を受け殺される、というすさまじい事態が始まります。それを前にして、イエスの心は、やはり騒いだのでしょう。新しい局面を開始するとき、イエスの心は(一時的ながらも)揺れ動くようです。

                    

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