だんだん事態はクライマックスに近づいていきます。
イエスはユダが裏切ると宣言します。
本日の聖句はこれです。
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=聖句=
「その弟子(ヨハネ自身)はそのままイエスの胸によりかかって、『主よ誰のことですか?』と尋ねた。
イエスは答えられた。『私が一切れのパンをソース(たれ)に浸して与える人物がそれです』。
そして一切れのパンを浸して取りあげ、シモンの子、イスカリオテのユダにお与えになった。
ユダがパンを受け取るやいなや、悪魔が彼の内に入った」(13章25~7節)
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イエスはユダにソース(たれ)に浸したパンを与えました(26節)。ユダはそれを受け取りました(27節)。
これで裏切りは決まりです。彼には、もう、悔い改めて別の道に切り替える可能性はなくなりました。
イエスは彼に「君がしようとしていることを、急ぎするがいい!」という言葉を投げかけました(27節)。
それでもユダには(読まれているな・・・)という思いはもう湧かなかったと思われます。
彼は夢の中にいるかのような精神状態で、外に出て行ったでしょう。
<ユダの内に入ったのは?>
さて、ここでヨハネは「ユダがパンを受け取るやいなや、悪魔が彼の内に入った」と記しています(27節)。
日本では通常これは文字通り、「ユダの内に悪魔という霊的存在が入った」と解されています。
ところが、「そうではない、これは『悪魔の思いが入った』という意味だ」という解読もあります。
本日は、これについて考えます。
後者の立場とる人は、結構論理的な根拠を持っています。すなわち
~~悪魔や「天の諸々の悪霊」と記されている霊は天使が変質したものである。
そして聖書のどこにも、天使が人の身体の内に入ったという記述はない。
だから、悪魔や悪霊も人の内にはいることはないだろう。
天使が人の意識に影響を与えるときは、いつでも、外側からである。
だから悪魔や「天の諸々の悪霊」も外側から影響を与える存在と解すべきである。
こういう背景からすると「悪魔が入った」という聖句は、「悪魔の思いが入った」と解すべきだ。
それをヨハネは「悪魔が入った」と象徴的に記しているのだろう~~と。
<「汚れた霊」とは何か>
脇道に入ります。
本日は、少し長くなります。
上記の解読を読むと、次のような疑問も起きてきます。すなわち
~~「天使や悪魔が人の身体の内にはいることはない」というのなら、
聖書の中で「人の内に入っている『汚れた霊』」とはなにか。
イエスは人の内から「汚れた霊」を追い出しているではないか~~と。
これに対して、上記の立場を取る人は、こう答えるケースが多いです。
すなわち~~聖書で「汚れた霊」と記されている存在は、死者の霊の内の一部のものでは無かろうか。
人間の霊は、生前肉体の中に入っていたのだから、人の身体の内に入るのはありうることだ~~と。
たしかに、そういう解読も、論理的には成り立ちます。
<人霊は死後天国か地獄かに直行する?>
ところが日本の多くの教職者はこれを聞くと、ヒステリーを起こします。
もう論理は度外視して感情的になる。
何故かというと、彼らは「人の霊は死んだら即座に天国か地獄かのいずれかに直行する」という強固な通念を持っているからです。
(そんなこと聖書に書いてないのにね)
で、ヒステリックに「異端だ!」と非難しますが、浅はかなことです。
というのはこの人たちは、自らの手で聖書の解読を試みたという経験をほとんど持っておりません。
業界仲間(牧師)がこぞってそういっているから、オウム返しにそう叫んでいるにすぎない。
その姿勢が浅はかなのです。
<異端を叫ぶには正統な解読を持つことが必須>
~~脇道のままです。
異端って何でしょうか? これは「正統」の反対語です。
だから人を「異端!」これを叫ぶためには本当は、「これが正統」という解読を一つ持っていなければならない。
ところが非難者たちは確信のある解読など持ってないんですね。
だから、「あなたが異端という根拠は?」と問われると逃げ回ります。
鹿嶋はかつて、あるキリスト教関係の新聞社で連載を始めました。
そうしたら、ある牧師から新聞社にたれこみが入った。
「鹿嶋春平太というのは異端の牧師と交流がある!」と。
鹿嶋は新聞社に申し入れました。
「その牧師さんと、何処がどう異端なのか紙上論争しましょう。読者の前で堂々と」
そうしたら当の“タレコミ”牧師さんどうしたと思いますか?
「いや、私はその理論をよく知らないので・・・」と逃げる。
鹿嶋は「知らないでいい。それ以前のところで論争できる。そもそも異端とか正統とか
いうことについてどう考えるか。
そこで十分論争できる」と追求しました。
すると「それもあまり考えたことないので・・・」と逃げの一手。
結局、名も名乗れないで、逃げ通してしましました。
・・・浅はかの一語。
これが日本の教職者の現状。
我が国でキリスト教界が一般ビジネスマンから信用を得るのはまだまだ先と予測せざるを得ません。
<唯一の正統基準は「使徒信条」>
~~余談が続きます。
聖書解釈が正統であるかどうかについて広く承認されてきた基準は、これまでのところ
「使徒信条(ニカイア信条の文章を整理したもの)」以外にありません。
そして、そこには「我は天地の創り主、全能の神なる創造主を信ず。われはそのひとり子イエスキリストを信ず・・・」とありますが、
「われは汚れた霊は死者の霊と信じるにあらず」などとは書かれておりません。
「汚れた霊」をどう解読するかは、正統異端を分ける要素にはなっていないのです。
イエスを創主の子と解するか、人間の子と解するか、は基準になっていますけれど。
<盲信と卑屈さとの混合>
明確な根拠もなく他者を異端と叫んで非難するような信仰を、盲信といいます。
文字通りの盲信。
のみならず、この非難者たちには、村八分にされないためにひたすら多数派につこうという、卑屈さが観察されます。
多数派についていれば、いじめられることもないだろう、活動を妨げられることもないだろう、
という卑屈さが見られるのです。
他方、前述の後者の立場の人々には、聖書を調べ、解読を進めていったという形跡が明確にあります。
天使が人の肉体に入ったという記述はあるかどうか、
イエスに追い出された霊はどう叫んでいるのか、
悪霊であるのになぜわざわざ「汚れた霊」という呼び名を当てているか、
---などの疑問を持ち、聖句を少しずつ詰めていった形跡があります。
鹿嶋は、どちらの解釈が正しいかを言っているのではありません。
いやしくもキリスト教の教職者となったらなら、同業者の顔色をきょろきょろうかがって暮らすのを止めろ、
聖句をきちんと読んで自分で「考える人になれ」と言っているのです。
もうひとつ見逃してならないのは、後者の人々の見解は断定でなく、
「ではなかろうか」という可能性として意識されているということです。
聖書には直接「汚れた霊とはこれこれのことだ」と書いたところはありません。
他の様々な聖句から推論していったにしても、
それは「・・・ではなかろうか」「・・・の可能性が高い」ということにしか、人間にはいえない。
そういう自覚があります。
他方、非難者は前述のように、そんな思惟過程など踏んでいないのです。
文字通り多数派についてヒステリーなだけ。
悲しいことに、日本の教職者のほとんどは、まだ、このレベルにあります。
<原点に戻れば希望は出る>
聖書勉強中の皆様は、こんな事書いたので失望されるかも知れませんね。
どうしましょう?
いや、何もがっかりすることなど無いのです。
日本には、まだ、「福音」は入っていないと考えたらいいのです。
ヘボンさんらの努力で聖書という書物が邦訳された。「書物」はとにかく入った。
これからそれに正しい姿勢で取り組んでいけばいいのだ、と。
そのことに、気づきさえすれば、前途は暗くありません。
早く気付いて原点に立てばいいのです。