鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

天の王国には法と秩序と正義がある

2004年11月30日 | KINGDOM原理からの聖書解読
<民主国は最高か?>

 天のKINGDOM(王国:いわゆる天国)とは、創造主が王として統治する王国です。民主主義が最高、と小学校の時から学んできた我々は、それは独裁国で、いけないもの、と一瞬思ってしまうかも知れません。

 しかし、「民主主義がいい」というのは、知力にも、良心力にも限られている人間だけで、ある一つの世界(国家など)を統治している状況でいえることです。「どんぐりのせいくらべ」の状況では、その内の独りが裁量で思うままに統治したら、これはみんなで統治するよりまずいことが多いでしょう。

 ある世界の中での独りの人間の知力、情報力はちいさなものです。だから、情報がない、わからないが故での失敗は多々あるでしょう。人民の幸福を思う人間愛の力も、個々の人間には限界があります。多数のためよりも、「自分のため、自分の一族のため」でやってしまうことも、現実には多くなります。

<KINGDOMの統治者像>

 ところが、聖書がKINGDOMを統治していると教える創造主は、全知全能の存在です。また、創主は文字通り人民も造った方です。自分が造ったものに関しては、出発点から本性的に愛情を持っています。人間が子供を産むと、本能的に愛の意識がこみ上げてくるのと似ています。

 肉体を持つ人間が産んだ子に対して抱く親の愛は、創主の抱く被造物への愛のミニチュア版、模型、と言っていいでしょう。それも聖書の奥義思想です。

 ところが、創造主の愛は、人間の親が子供に抱く愛とは桁違いです。それはまず、全知全能を背景にしています。だから「あ、知らなかった、ごめんね」ということがありません。全てをわかった上で愛情を注ぎます。

 さらに、聖書が教える創主は、「豊かそのもの、幸福そのもの」、自らにおいては足りないところのない存在です。だから、自分の不足を埋めるために、子供より自分を優先させてしまった、ということが全くない。奪うことが無く、ただ、与えるだけ。創主の愛はそういう愛です。

 そういう何ともありがたい方が、天の王国は統治しておられる、そういう方が存在するのだよ、というメッセージを書いた本、これが聖書です。

      @      @      @

 だったら、そういう方が王として独りで統治してくれた方が、人民は幸福になるでしょう。その幸福は、限りある人間が集まって利害調整している民主政府が与える幸福とは桁違いに深く、広く、大きいです。この世では、そういう方がいないので、セカンドベストとして民主主義でやっているだけの話です。

<極楽に法はあるか?>

 天国というと、仏教文化圏で育った我々は、「ああ、極楽のことだ。キリスト教ではこれを天国と言っているんだ」と思います。だが、少し違います。

 極楽というとは、文字通り、「楽で楽しいところ、楽の極地が実現しているところ」というイメージです。食べたい放題、飲みたい放題、遊びたい放題、したい放題の、放蕩楽園のイメージ。

      @      @      @

 昔、1965年頃、「帰ってきたヨッパライ」というフォークソングが大ヒットしました。フォーククルセダーズという学生の音楽グループがつくったアマチュア曲で、彼らはこの一曲で一気に有名スターになりました。

 ヨッパライが交通事故にあって、天国に行き、地上にもどってくるという唄です。その一節に

 ♪ 天国よいとこ、一度はおいで
    酒はうまいし、ネエちゃんはきれいだ
     ウハ、ウハ、ウハ、ハ~ ♪

                   というのがありました。

 これを作詞した松山猛と、作曲した加藤和彦とは、昔、ある自動車会社のコマーシャルに一緒に出演したことが春平太にはありました。撮影の間の待ち時間が長いので、よく雑談しました。それでわかったこと、「こいつらは天国と極楽のコンセプトの違いが全然わかってな~い」。

 こいつらだけでなく、それが200万枚の大ヒットになるということは、大半の日本人もみなわかってない、ということであります。

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 天国は、正しくは「天における創主の王国」です。万物を創った創造主が「統治している」領国です。そこには、統治者の法があるのです。人民は、それに従って生きることが求められているのです。

 だが、この法は、全知全能者が人民の幸福だけをねらって発布している法です。だから、人民(天使、人間)が、それに沿えば幸福になるというガイドラインでもあります。沿わなければ幸福になれないので、沿った方がいいよ、というものです。

 そういうことを全知者は完全にわかるのです。また、それが全部わかる存在は、なにも、法を創るに他者を集めて会議する必要がありません。議論、検討、反省する必要もない。だだ、自らの知恵を口から発すればいいのです。

 以前、春平太は、「王国では王から出た言葉がそのまま法になる」と申しました。その理由は、今述べたようなことです。天の王様はいい加減なことをしているのではないわけです。

<法があれば秩序があり、正義がある>

 天の王国に法があるということは、それによって形成される秩序(order)がある、ということです。天の民は、王が出してくれる法を信頼し、それに従います。するとその領国には秩序が出来ます。

 こうして、法があり、秩序があると、それに沿うことが正義となります。天の王国における正義を、「天の義」と称します。義は英語でライチアウスネス(righteousness)です。

 前にも引用しましたイエスの教え

 「まず、創主の王国のとその義を求めなさい」(マタイ伝、6章33節)

 という聖句の「義」は、そういう意味を持っています。

 ~~KINGDOM原理からみると、聖書の論理はかくも簡単明瞭になります。
 
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Vol.20 『イエスをもっとも理解した弟子(1章)』

2004年11月30日 | ヨハネ伝解読
 バプテスマのヨハネ教団は、新しい教団です。著者ヨハネがこの教団の教祖の側近であったことは、この人の人柄を推察させてくれます。

 当時、イスラエルには、伝統的な国家宗教、ユダヤ教がありました。これがあるのに著者ヨハネは、バプテスマのヨハネ教団に参加し、その側近にまでなっていました。これは何を意味するのでしょうか。

 第一に、ヨハネは、強くかつ素直に真理を求める人だったことを推測させます。

 当時、伝統的宗教であるユダヤ教が、形式化してしまっていたことは、福音書にも記されています。ヨハネは、それに満たされないものを深く感じていたのではないでしょうか。

 そして、バプテスマのヨハネが新しい教えを始めると、いちはやくそれに参加してみた。側近というのは、通常、早期の参加者がなるものです。

 第二に、形而上学的な教えを吸収すべき、知力や霊感にも特別に恵まれた人だったのではないでしょうか。そうでなければ、側近にはなれないわけです。

 そういう人でありますからまた、師匠が、「あれこそまことの創主の子羊」というと、素直にイエスについていくことになるのでしょう。まだ、だれもイエスに付き従う人がいない段階でのことです。

      @      @      @

 著者ヨハネは、師匠の言葉を聞いて即座にイエスのもとに移った後、付き添って教えを受けるようになりました。その点、ペテロ、ピリポ、ナサニエルといった弟子たちとは違います。彼らは、兄弟や友達が付き従っている状況のなかで、加わっているのです。

 ヨハネは、知人の推薦が無くとも、誰も付き従ってない先生であっても、これと感じたら、即座に教えを請いに近づいていきました。そして、彼が教えを吸収する様は、やはり、弟子のなかで群を抜いてていたのでしょう。彼がヨハネ伝の中で、自分を「イエスが愛した弟子」といえたのはそれ故だったのでしょう。

 ここで「愛した」というのは、「もっとも愛した」という意味です。単に愛した、という意味でしたら、他の弟子をイエスは愛していなかったことになります。そんなはずはない。イエスは、いつも、すべての弟子を愛しています。

 そのなかで、ヨハネをもっとも愛したわけです。

 教祖というものは、自分をもっともわかってくれる弟子が、もっとも可愛いものです。理念を教える教祖と弟子とは、理念でもって交流し結びつくのです。「ヨハネ伝」で、ヨハネはいつものように、それを、あからさまに言わなかった。控えめに、ぼかして示しているのです。
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Vol.19 『著者ヨハネはバプテスマのヨハネの弟子だった?(1章)』

2004年11月29日 | ヨハネ伝解読
 ヨハネ伝の著者ヨハネは、はじめはこのバプテスマのヨハネの弟子だったのではないか。春平太はそう推定しています。それもかなり側近の弟子だったろう、と。

 そのことは、従来あまり気づかれていません。それは一つには、ヨハネ伝ではヨハネは自分のことを、直接表立った形で書いてないないからではないでしょうか。書くとしても、名前を出さないで、それとなく示しています。奥ゆかしいのでしょうか。

      @      @      @

 しかし、よく読んでみると浮かび上がってくるのです。ヨハネ伝にはこうあります。

 ーーーある日、ユダヤ教(イスラエルの伝統的な国家宗教)の祭司たちが、バプテスマのヨハネに尋問に来ます(1章19節)。ヨハネ教団のあまりの人気と急成長のために、訊ねておかないわけにいかなくなったのでしょう。

 ここでなされたやりとりに関しては、ここでは述べません。とにかく、ヨハネ伝では、「その翌日に」イエスがバプテスマのヨハネの方に近づいてきた、と記しています。

 するとバプテスマのヨハネはこう言います。

 「見よ、世の罪を取り除く創主の子羊」と(1章29節)。

   ~~これがイエスに関する「あかし」(証言)です。

      @      @      @

 そして、また「その翌日」に、イエスが歩いているのを見たバプテスマのヨハネはこう言っています。「見よ、創主の子羊」と(1章36節)。

 このとき、ヨハネと一緒に、二人の弟子が立っていました。そしてその二人は、なんと、イエスの方に行って、イエスについていってしまうのです。

 この二人がそのまま、イエスの教えを聞いて最初の弟子になります。未だかってない感銘を受けたのでしょう。ヨハネ教団をあっさり卒業して、できたてのイエス教団に入門です。

 その一人は、アンデレでした。彼はシモン・ペテロの兄弟でした。ペテロは、後に、イエスの弟子に加わり、ヨハネと共にイエスの両脇を固める人です。

 では、もう一人は? これが全く記されてないのですね。結論からいって、こういうケースは、著者ヨハネであると見て、ほぼ間違いないのです。

      @      @      @

 さてこのように、もう一人は著者ヨハネだった、としますと、このあたりの記述のなされた状況が一層明確に浮上してきます。

 著者は、バプテスマのヨハネの言動を、「日付つきで」具体的に記しています。

 バプテスマのヨハネは、ある日、ユダヤ教祭司たちの尋問を受けた。

 「その翌日」に、「近づいてきた」イエスをあかしした。

 そしてまた、「その翌日」に、こんどは「歩いている」イエスについてあかしした、

     ~~と記しています。

 こういう具体的な描写は、バプテスマのヨハネにくっついていないと出来ないことでしょう。著者は、少なくとも、それらの日にはバプテスマのヨハネのそばにいたのです。

      @      @      @

 ヨハネ教団はすでに大きな教団になっています。たくさんの弟子がいる。その中で、バプテスマのヨハネのそばについておられる弟子はそう多くはないはずです。

 少なくともイエスについていく日には、その二人は、バプテスマのヨハネの弟子として師匠の脇に立っていたのです。二人は側にいました。著者ヨハネは単なるバプテスマのヨハネの弟子だっただけではありません。教祖先生の側近だったのです。

      @      @      @

そして、「二人がイエスについて行った」と記した後、ヨハネ伝の描写は、一転してイエスの側にいる人の目線から、記されるようになっています。著者の目線が、バプテスマのヨハネの側からイエスの側に移っています。

 以後、彼は一貫してイエスの側近として居続けます。ペテロと共にイエスの両脇を固めました。水戸黄門の助さん、格さんのうちの、助さんような存在として、最後まで居続けました。

 そういうことも、この伝記が、取材をもとに書かれたのではないことから、わかってきます。著者が、「自分の目で見たこと」をもとに書いているもの、そういう特別なもの、であることが、我々に計り知れない興味を与えてくれます。

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Vol.18 『バプテスマのヨハネ、イエスを証しする(1章)』

2004年11月27日 | ヨハネ伝解読
ヨハネ伝1章には、「バプテスマのヨハネ」という人も出てきます。この人は預言者で、預言者とは霊感の豊かな人です。彼はイエスを見て「創主の子羊」と預言しています。

 そしてこの人物はヨハネ伝の著者ヨハネとは別の人です。春平太が、単にヨハネと書くときには、著者ヨハネの方を指しています。

      @      @      @

 バプテスマのヨハネは、イエスが宣教活動をする少し前に登場します。この人の教えは多くの人々を納得させたのでしょう、自然にヨハネ教団とでも言うべき教団が形成されてきていました。この集団は、相当に多人数だったように推測されます。

 聖書では彼の教えの内容は詳しくは記されていません。

「創主の国がこの世に近づいてきている。罪を悔い改めて、それを受け入れる準備をせよ」

 との主旨を述べたこと、それを容認した人にバプテスマを授けたこと等が記されているだけです。

 バプテスマとは、日本語では洗礼です。形としてはこれは、人を水の中にズボンと沈めて、そして、すぐに浮かび上がらせる行為です。だが、その意味するところからすると、それは3種類あります。

 第一は、このヨハネが民衆に行ったものです。これは、自らが罪ある存在と認めて、悔い改めの決意をした人に、授けるものです。

 第二は、このヨハネがイエスに授けたバプテスマです。これは、罪を悔い改めた者に授けるものではありません。イエスは、創主の子で、罪なき存在というのが聖書の鉄則だからです。

 では、どういうバプテスマか? この説明は長くなります。「春平太チャペル」の説教、『洗礼は不完全信仰での決断による』にかなり詳細に述べていますので、ご参照下さい。

 第三は、クリスチャンになる人が受けるバプテスマです。これは、イエスの教えを信じる前の旧い自分が死に、信じて新しく生まれ変わることを象徴するものです。

      @      @     @

 バプテスマのヨハネはこの時、「悔い改めよ!」と叫んで、どんどん第一のタイプのバプテスマを施していきました。彼の教えを信じ従う人が多数出て、ヨハネ教団は大きな教団となっていたようです。

 そこへ、イエスが現れます。するとバプテスマのヨハネは、

 「この人こそ、(悔い改めた)人の罪を相殺するいのちを持った方」

   ~~との旨の宣言をするのです。これは、「預言者ヨハネによる、イエスが救い主であるという証言」とも言われています。証言することを「あかし」するとも言います。
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Vol.17『全てのものは霊・イエスを通して出来たのに(1章)』

2004年11月27日 | ヨハネ伝解読
 そして、ヨハネは続けます。

「このロゴスははじめに創主と共にあった」(2節)

「すべてのものは、この方を通して創られた」(3節)

 ーーーと。すなわち、聖書の物語に出てくるすべてのものは、御子イエスを通して、創主が創られた、とヨハネは悟っていったのです。このばあいの「すべて」は、この世、宇宙の中にあるすべてのものです。

 (聖書には、この宇宙を超えた存在、天の王国、というのもあるという思想です。このあたりは、「KINGDAM原理からの聖書解読」のカテゴリーをご参照下さい)

 また、この場合のイエスは、身体を取ってこの世に来る前のイエス、すなわち、霊としてのイエスです。

      @      @      @

 御子(みこ)をとおして、というのは、イエスが父なる創主のエネルギーを受けて自ら創造していった、と解していいでしょう。子は父の財産を相続します。イエスは、

「あなた(父なる創主)のものは、みな、わたしのもの」(17章10節)

   ーーーといっています。。

 だから、この世も本来はまた、御子イエスのものなのです。そして、彼は、人の姿をとって、本来自分のものであるところの、この「世」に来た。ところが「世」はそのことを知らなかった。知らないだけではなく、本来の所有者であるイエスを人々は受け入れなかった、とヨハネは説くのです。

 「彼は世にきていた。そして、世は彼をとおして創られたにもかかわらず、彼を知らなかった」(10節)

 「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」(11節)

                ーーーは、それを言っています。
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洗礼は不完全信仰での決断による

2004年11月26日 | 春平太チャペル
<今週の賛美歌>

 今週の賛美歌は「ああ めぐみ!」(聖歌、593番)です。
ああ めぐみ! (クリックすると賛美歌が流れます)


<今週の説教>

(聖句)

 「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)


+++++++++++++++++++++++

 教会に通ったり、バイブルスタディに出席したりして、聖書を学んでいる人がいます。こういう人が学んでいく間に「バプテスマ(洗礼)はいつ受けたらいいか」という疑問を持つことはよくあるようです。

 具体的には、聖書をよく知り、これを十分信じられるようにならないとだめなのか、そこまで行く前にしてもいいのか、というような疑問です。

      @      @      @

 しかし、それに答えるには、水のバプテスマというもののもつ、意味や力を考える必要があります。

 上記に掲げた聖句は、イエスの言葉です。これは
「信じる」
「バプテスマを受ける」
「救われる」

 ~~~の三つの部分からなっています。

1.まず、「救われる」です。

 これは聖書特有の用語で、「将来、最後の審判のとき、当人の霊が火の湖に送られるのはでなく、創主の王国(天国)に入ることを許可される」という意味です。

 聖書では、この宇宙は、将来火で焼かれて消滅するという思想です。そして、創主の王国である天国と、火の湖とが残ることになります(「KINGDOM原理」のカテゴリーに示した「聖書の空間理念」の図を参照して下さい。)

 そして、ミケランジェロの絵で有名な「最後の審判」が始まります。そのとき、「信じる」者は、当人の霊にある罪が、覆われて「罪なき者」とみなされます。そうして、創主の王国に入ることを許可される、ということになっています。

 後は、創主の身元で永遠に存続することになります。火の湖も永遠です。そして、そういう約束をイエスは与えたという思想です。これを「救い(salvation)」という語で表現して、救いの約束といっているわけです。

2.次に「信じる」です。

 何を信じるか、信じる対象は何か。これは一つには上記の約束です。そして、もう一つ重要なものがある。それは、イエスがそういう約束をすることが出来た根拠です。こちらは、罪なき創主の子イエス、死ぬ必要のないイエス、の身体が殺されることによって、人間の罪の代償を造った、という思想です。

 代償を受けられるというのは、人間のために準備された資格、という論理です。聖書に記された福音(よき知らせ)とは「そういう資格が準備されたよ」というメッセージ、知らせです。資格は本当だと信じて受諾しないと実現しません。

 たとえば、読者がある日突然、外務大臣に指名されたという知らせを受けたとします。ところが、そんなバカなことがあろうか、といって、本国の誰にも制約されない自由な旅をと、あらかじめ予定していた外国無銭旅行にぶらりと出かけてしまった。そうして、音信を絶ったらどうでしょうか。

 大臣の認証式はすぐに始まります。総理の小泉さんは帰国して受諾してくれるのを長く待つことは出来ません。それで、他の人を任命しますと、彼の資格は消滅します。資格は、そのメッセージを受諾しないと、実現しないのですね。

 ところが読者がそれを信じて受諾したらどうでしょうか。「田中真紀子だってしばらくつとめられた外務大臣だ。自分に出来ないはずがない」こう信じ、楽観して受け入れたらどうか。彼には外務大臣の資格が実現します。

<「信じる」意識は「確からしさ」の確率意識>

 「なら、信じた方が得だ」
 そう思うでしょうが、こういうメッセージを100%信じることは出来るでしょうか。それは無理な話でしょうね。

 「救い」の約束は、死後のことに関する約束です。だけど、将来実際にそうなるかどうかなど、自分が死んでもいない今の時点で、明らかになるはずがないではないですか。

 先を見通す千里眼があるなら別ですよ。だけど我々は、生まれてこの方、五つの感覚(五感)でしか、ものを認知できない状態で暮らしてきています。その結果、どうしても「見えるもの」を基盤にして物事を考えるようになってきています。そこに死後の約束を持ってきて、これを100%信じろと言うのは、言う方が無理というものです。

 当人が、「自分の意識は自分でわかる。私は100%信じている。バカにするな、勝手に決めつけるな」といったとしてもですよ。人間には、自分で自覚できない潜在意識というものもあります。

      @      @      @

 でも、全く信じられないわけではない。聖書のメッセージを学ぶ人は、一定の確からしさも感じてはいるわけです。そのように、救いの約束を「信じる」というのは、一定のパーセントの「確からしさ」を感じる、「らしさ」の意識、確率の感覚です。

 「本当らしさの感覚」を確率で言うならば、聖書の言葉を学び始めた出発点では10%かも知れません。あるいは、あるとき、理性的・論理思考が働いて、「見えないものが存在するかどうかの確率は、本来五分五分とみるべき」とかいって、50%になるかもしれません。論理的にはこれが出発点であるはずです。後にそれが60%に上がるかも知れません。

 しかし、それらは、どのみち、本当「らしさ」であることには変わりありません。それでいいのか、それでバプテスマを受けていいのか。これが冒頭に示した「聖書を学ぶ人が抱いていく疑問」だったわけです。

      @      @      @

 こうなると、やはり聖書と照らし合わせねばなりません。すると、その結論は、「それでいい、100%でなくてもいい」となりそうです。

新約聖書の「使徒行伝」には、初めて福音を聞いて、「これを信じた人」に、イエスの使徒たちは、即座にバプテスマをしています。信じたと言っても、その信仰は、そんなに成熟したものではないでしょう。

 同じ「使徒行伝」の8章26~39節にはこういう話も記されています。エチオピアの高官が、エルサレムに礼拝をしにきて、馬車で帰路をたどりつつ聖書を読んでいます。今や有名になっている

 「ほふり場にひかれていく子羊のように、毛を刈るものの前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。・・・」(イザヤ書53章)

 ~~という旧約聖書の中の聖書です。高官は、この「彼」が誰のことを言っているかわからず思案していました。

 他方、12使徒のなかにピリポと言う人がいます。このピリポに聖霊(創主の霊)が語りかけます。「高官に近づくように進みなさい」と。ピリポは高官に近づき、その「彼」がイエスであることを説きます。

 高官は、その解説を正しい信じます。そして道の途中でバプテスマを受けることを望みます。ピリポはそれに応じ、水のあるところが見つかった時点で洗礼を授けています。

 この時点で、高官には福音の論理構造が広く深くわかっているということはありえません。信仰も内容的には、そんなに成熟したものではないでしょう。信仰は未熟なままでいいのです。

<バプテスマの力>

3.さて最後は3の「バプテスマを受ける」です。

イエスが、「信ずるものは救われる」でなく、「信じてバプテスマを受ける」ものは救われるといっている以上、バプテスマには独自の役割があることに論理上なるでしょう。それが筋です。

 具体的には、「本当らしさ」の信頼感覚に、何かを与えるのが、バプテスマではないか。そういう推察が出来ます。その上で、次の聖句を読んでみましょう。


 「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)

 これはイエスはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川でバプテスマを受けられる場面です。              

 マルコ伝の著者マルコは、続いて、
 
 「すると天から『あなたは私の愛する子、私の心にかなう者である。』という声が聞こえてきた」(マルコ伝、1章11節)

 と、書いています。マタイ伝の著者、マタイも、この状況を同じように記録しています。

      @      @     @

 我々は当初これを読むと「へぇ~、不思議なことが起きるもんだなあ、やはり、イエスは違うなあ」と感じるくらいだと思われます。

 だが、次のような解読も可能です。聖書では、この世に現れたイエスは、「創主の子(Son of God)」という面と、「人の子(Son of Man)」という面との二面を持った存在です。この二つの面の相対的な関係が、水のバプテスマを境に、はっきりと変わっているのです。

 バプテスマ以前のイエスには、ダビデの子孫であり、大工の長男である、という「人の子」の面が前面に出ていました。創主の子という面は、いわばその影にありました。

 しかし、バプテスマを受け、水から上がられたイエスには、創主の子という面が前面に出ていたと見ることも出来ます。もうダビデの子孫という面は、遙か後方に退いたのだ、と。

 イエスが水から上がったその瞬間に、天から「これは私の心にかなう者」という声が下ったのは、それが「前面に出たこと」と関係していると解することが可能なように思います。

 この時だけではありません。これを境に、イエスは別人のようになります。自らを「創主の子」と公衆に宣言し、「天の父」から受けたという「天の言葉」を権威を持って教え、つぎつぎにしるしと不思議を現していきます。以後、それは、受難、十字架死、復活、昇天と、最後まで続きます。

 それ以前のイエスには、そうしたところは表に現れませんでした。こういう転換点に、水のバプテスマが位置しているのです。

      @      @      @

 これが「水のバプテスマのもつ効果」だと、春平太は解します。そして、これはイエスに関するものだけではなく、人間にも有効な一般的なもの、とみるべきではないか、と解読します。

 聖書の論理では、生まれたままの人間には、創主の子としての面はありません。世的な意識で満ちた、世的な面が100%の人間です。そのまま、自然に成長していっても、状況は同じです。

 しかし、聖書の言葉は、創主の意識を込めた、創主の王国から来る言葉です。聖書の言葉を学ぶ人間の意識には、創主の意識・思いが吸収されていきます。すると、ささやかであっても、創主の王国の意識が一面に出来ていきます。

 もう一方の面は、世的な意識の面です。人が聖書の言葉を吸収しても、当初それが形成する意識は背後に存在するのみです。前面にはこの世的な意識が出ています。聖書的にはそれが、聖書を学びつつある人間の状況と見ることが出来ます。

      @      @      @

 けれども、水のバプテスマには、この二つの面の、比重を(最低限)変化させる力がある。聖書の言葉が形作る意識の面が、前面に出て、その分、世的な意識が後方に退く、ということです。

 使徒パウロの次の聖句は、こうした推論を支持しているようにも見えます。

 「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼とともに葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ人への手紙、6章3~4節)

 ここでパウロが引き合いに出しているバプテスマは、水のバプテスマ(浸礼)です。そして受洗の際、受洗者が水に沈むのは、この聖句での「彼(キリスト)とともに葬られた」というのを象徴しているように見えます。そして、水から上がるのは「キリストが・・・死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた、新しいいのちに生きる・・・」を象徴しているように見えます。

 また、水のバプテスマを受けた人の体験にも、それを支持するところがあります。「とにかく洗礼を受けようとして受けたのだが、受けた後、自分が変わったことを感じる」という体験談を聞いたことが春平太は少なくありません。

      @     @     @

 さらに、もしそうだとしたら、どうしてそうなるかの論理も、知りたいところですね。次の聖句を読んでみましょう。

 「水と聖霊から生まれなければ創主の王国に入ることは出来ません」(ヨハネ伝、3章5節)

   ~~~これもイエスの言葉です。これと、先に挙げた今週の聖句とを並べてみましょう。

「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)

 ここで、「創主の王国に入る」と「救われます」は内容では同じことを言っていますよね。すると、「水と聖霊から生まれる」と「信じてバプテスマを受ける」も実質的には同じはず、となります。

 故に、「水のバプテスマ」とは「水と聖霊から生まれる」ことだと解せます。つまりこれによって聖書では、水のバプテスマには、聖霊の介入がある、という論理に明確になっていることがわかってきます。

 さらに、もうひとつ、イエスがバプテスマを受ける場面の聖句(前述)を、今一度ここに並べてみましょう。

「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)

 イエスが水のバプテスマを受けると、聖霊が下っています。そして、このイエスの時ほどに強烈ではないのですが、この聖句から「聖霊はバプテスマを受けたときその人に影響を与える」という解読を引き出すことも出来ます。

 そして、これをバプテスマに内在する効果だと理解しますと、バプテスマ前後の人の変化は、説明がつくことになるわけです。

 では、聖霊はどうしてそのとき下るのか? 
これについては、春平太は説明できません。

 論理的説明が不可であること、これすなわち、神秘です。そこは、神秘として、少なくとも当面、そのまま信頼して受け入れておこうと、春平太は思っています。

 まあ、神秘があるから宗教でして、なかったら実証科学です。科学でしたら、信頼とか信仰といった意識は不要です。聖書を解読していった後に残る神秘は、春平太は信頼して受け入れることにしています。

<バプテスマには意志による選択と決断が必要>

 以上で、バプテスマを受けることに関する、知識は概略得られたと思います。
最後に、春平太は、もう一つ確認しておくべきことを記して終わろうと思います。

 前述のように、バプテスマは知識も信仰も不完全な状況で、受けるものです。そういう状況を本人が自覚していて受けるわけです。

 そしてこれは実際には、当人の「意志」がないと出来ないものです。平たく言うと、「洗礼を受けたい」という欲求(wants)と、それに基づいた決断が必須になります。

  前述した、このエチオピアの高官は、ピリポからバプテスマを受けました。彼は、ピリポの解説を信じたばかりでしたが、すぐ洗礼を受けました。もちろん彼にはこの時点で「この書物を探究すれば真理に到達するのではないか」という直感、霊感があったでしょう。

 だが、「到達するのではないか」という予感だけではバプテスマを受けようという気持ちにはつながりません。やはり、探求したいという欲求と、「今後、探求するぞ」いう決断が加わらねば不可能です。

 知識の量や「ここに真理があるのではないか」という確からしさの感覚(これが人間の、信仰という心理の中身です)だけでは、いくらあってもだめだということです。

 人間には、完全を望む動機が埋め込まれています。やはり受けるには、「もう少し完全に近づかないと、いけないのではないか」というような反省というか、罪悪感のようなものは、他方から常に与えられます。

ところが、人間の聖書知識や信仰が100%の完全なものになることはありえません。だから、完全志向の心理に影響されますと、「もうこれで完全だ」と思えないが故に、バプテスマを受けないで生涯を送ることになります。

 信仰も、知識もカラシ種ほどに小さくていいのです。その状態で、その神秘的な力、「バプテスマの神秘」を信頼し、自らにすばらしい変化が生じることを期待して、水のバプテスマは「意志して」受けるべきものであります。

++++++++

 「私が変わって、バプテスマを受ける」のではありません。
 「バプテスマを受けて、私が変わる」のです。

 天の創主の王国の豊かさは、「先を争って奪い取るもの」というのが、イエスの教えです。
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Vol.16 『わたしの言葉は創主の言葉(12章)』

2004年11月23日 | ヨハネ伝解読





ヨハネの推論は展開します。
では、イエスの言葉とはなにか。
それは創造主から出た言葉にイコールである。

ヨハネは、それをイエスのーーー

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「わたしは、私自身の権威によって語っているのではない。私をつかわされた父ご自身が、言うべく、語るべく命じられたことを語っているのである」(12章49節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

          ーーーと、つなぎ合わせることによって悟りました。

 そうだ、イエスの言葉はすなわち創造主の言葉なのだ。
その言葉が肉体になったのが、この世に「人の子」となって住まわれたイエスの身体だったのだ。

ならば、あの方は、そもそもは創主の言葉だったのだ!


      @      @      @



創造主は、万物の創り主であり、万物が出現する前から、永遠の過去から、
ただ一人で存在してこられた方~というのが聖書の基本思想です。

すると、御子イエスとは何になるだろう?

この方は、創主の言葉、ロゴスである。これは間違いない。
すると、それは創主「から出た」ことになるだろう。

そうだ! あるとき創主から言葉が出た。これが創主の子イエスの本質だったのだ。

創主から出た言葉「によって」造られたのではない。
それだったら被造物になってしまう。
そうではなくてこの方は、創主の内の内から「出た」言葉そのものだったのだ。


      @      @      @


ヨハネは、そう悟っていきました。
かくして、彼がイエスの伝記を書くとなれば、そこから始めるしかなくなりました。
彼はおもむろに第一筆を記しました・・・・。

 「はじめに言葉(ロゴス)があった。」

 そして、こう続けました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「言葉(ロゴス)は創主と共にあった。ロゴスは創主であった」(1章1節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼はこの聖句によってのみヨハネ伝を始めることが出来たのです。

~こう気がついたとき、春平太は、ヨハネという人物の知性と霊性の深さに圧倒されました。







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Vol.15 『身体は言葉が変化したものだった(1章)』

2004年11月23日 | ヨハネ伝解読




ヨハネの頭はグルグルと回ります。
そうだ、あの方の教えのエッセンスは、理屈としては簡単だったのだ。

 「わたしの言葉が諸君の内に留まるようにしなさい」

 ~これだった。
イエスの言葉が、自分の意識の内に、霊の内に留まっていること、それがゴールだったのだ。

 それをあの方は~

 「わたしの肉を食べ、血を飲まねば・・・」

 ~と言われたのだ。
これは喩えではない。喩えならこんな表現になるはずがない。事実そのものを言っているのだ。
あの方の肉、血の実体は、言葉だったのだ・・・。

これが、ヨハネの内で最後まで残った疑問への解えでした。
そして、この解答が、ヨハネ神学の門を開きました。

門に入った第一歩には1章14節の聖句がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「言葉(ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ~がそれです。ヨハネによる福音書は、ここを起点にしています。
そして、このヨハネ神学の大半は、ヨハネ伝の第1章に凝縮しています。





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Vol.14 『私の言葉が諸君の内に留るなら(15章7節)』

2004年11月23日 | ヨハネ伝解読





 「イエスの身体とは何だったのか?」
 この疑問があるときヨハネの中で、もう一つのイエスの教えと結びつくときが来ました。

もう一つとは~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「・・・わたしの言葉があなた方の内にとどまっているならば、何でも望むものを求めなさい。
それらは与えられます」(15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


   ~であります。ここにも「言葉」が出てきます。

前述のように、言葉は意識を含めています。
イエスの言葉が人の内にとどまるというのは、その言葉の含むところの意識が留まっている、
ということでもあるわけです。

つまり、その人の中に、イエスの意識が内住すると言うことだ。

そうなると、その人が何か意識活動をしたり行動しようとするときも、
内住したイエスの意識がそれをリードするようになります。

つまり、イエスの意識でもって言動するようになる。
そうなったら、その人の望むものは何でも、創主に祈り求めたら、与えられる、
---とイエスはいうのです。


+++

 実際、そのことが後に使徒たちに生じたという記述が、「使徒行伝」になされています。
たとえば~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「また、エルサレム付近の町々からも、大勢の人が、
病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、(使徒たちのもとに)集まってきた。
その全部の者が、一人残らずいやされた」(使徒行伝、5章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ーーーにそれが示されています。
使徒たちの癒しの祈りへの答えが、このように与えられたわけです。


      @      @      @


 大変結構なことです。だが、こうなるのは容易ではありません。

聖書には、天の王国の意識と、この世の意識は絶対的な対立関係にある、という鉄則のような思想があります。
この世のものの意識は、基底的に悪魔に影響されている、という把握があるからです。

悪魔は、天の王国の王であり、天の意識の源である創造主と絶対的な対立関係にある存在です。

 だから、イエスの言葉が我々の内に入っても、通常は、留まらないことになるわけです。
留まるというのは、その言葉がいつも自分の内で活きて動いていることです。
動いているから、いつも自覚できている。忘れようとしても忘れられない、という状態です。

これが、なかなか難しいのです。
我々の内にある「世」の意識が、「天」の意識を含んでいるイエスの言葉を、吐き出させてしまうからです。

基本的に異質であるが故に締め出してしまうことになる。
それが現象としては、すぐに忘却してしまうという姿になるわけですね。


      @      @      @


 イエスの言葉がこの世にすむ人間の内に留まるには。いわゆる、「知ってる」くらいではダメです。
少なくとも「身について」いないといけない。

身に付く、というのは、たとえて言えば、その言葉が完全に消化されて、
その人の血肉として定着してしまうことですね。
もう、締め出そうにも締め出すことが出来ないように、血肉に同化していることであります。

+++

 ・・・ヨハネは、この考えに至ったのではないでしょうか。
そして、そのとき彼の内で、言葉とイエスの身体とが結びついた。
天啓のごとくに結びついた。

「そうだ! あの方の身体は、言葉だったのだ。
創主から出た言葉が人の身体の形に化したものだったのだ!」
~と。





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Vol.13 『刺したら血と水が出た(19章)』

2004年11月23日 | ヨハネ伝解読






 イエスの身体とは何だったのだろうか? という疑問に対する、ヨハネの思索の続きです。

 「私の肉を食べ、血を飲むということなしには諸君の内にいのちは無い」というイエスの言葉、
そして、「これは私の肉であり、血である」といって
パンと葡萄酒を弟子たちに与えた最後の晩餐での出来事・・・。

 これに加えて、ヨハネは後にさらにショッキングなことを観察します。
十字架上で死んだイエスの脇腹を、ローマの兵士が槍で突き刺します。
おそらく死んでいることを確認するためでしょう。すると~、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「即座に血と水が流れ出た」(19章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ~のでした。
他の人々は、その凄惨な場面を観て気持ちが動揺したことでしょう。
だが、ヨハネは、衝撃を受けつつ、これをじっと観察していました。

だから「これを見たもの(自分のこと)が証言している。その人は、自分が真実を語っていることを知っている」
とダメを押すように書いているのです。ヨハネだけが、これを書いています。

 ここでヨハネの心に残ったこと、それは~
「この方の身体は、人間の身体とは別のものだったのではないか・・・」
~これであります。

そして、そのことは、後に彼にとって貴重なヒントになったに違いありません。

そのことと、イエスが「わたしの肉を食べ、血を飲まなければ、あなた方に命はないんだよ」といったこととは、
何らかのつながりがあるのではないか・・・、こういういう思考展開ですね。
こういう仮説を心に浮上させるヒントになったと思われるのです。

イエスの身体がそういう別物であった。だから、「飲食するといのちが得られる」と言っておられたのではないか・・・。

あの方がこの世に生きておられた際の、あの身体とは、結局何だったのだろうのか・・・。
ヨハネの思惟は続きます。





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Vol.12 『パンは肉、葡萄酒は血(ルカ伝、22章19-20節)』

2004年11月22日 | ヨハネ伝解読






前回の続きです。

イエスはまた、十字架にかけられる直前に、弟子たちにパンと葡萄酒を与えています。
そのとき「パンは私の肉、葡萄酒は私の血」といって、食べさせ、飲ませしています。
「最後の晩餐」と通称される有名な場面ですね。天才画家、レオナルド・ダ・ビンチもこれを描いています。

この場面は、マタイ伝(26章26節)にも、マルコ伝(14章22-4節)にも、
また、ルカ伝(22章19-20節)にも記されています。

これは、象徴的な場面でしてね。たくさんの証人がいるわけです。
だから、共観福音書では、みな、これを書くことになるのが自然でしょう。

+++

 代表は「ルカ伝」でしょうね。そこでは~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「私を記念するために、このことを行いなさい」(19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ~というイエスの命令も記されています。
今日、キリスト教会では通常、これに従って、いわゆる「聖餐式(せいさんしき)」を行っています。





<ヨハネは「聖餐命令」以外のことを書いている>

 他方、ヨハネ伝では、これを記していません。
ヨハネは三つの共観福音書を読んだ後に、「これまで書かれてこなかったことを書くか・・・」
といって、イエスの伝記を書き始めたのですから。

 代わりにヨハネは、そのときイエスが「弟子の足を、一人一人洗っていったこと」を、詳細に記しています(13章)。
イエスの片腕、助さんとして、いつもぴったり付き添っていたヨハネの面目躍如といったところです。

+++

 書いてはいませんが、ヨハネはこの聖餐命令で、イエスが「私(イエス)の肉を食べ、血を飲む」
ということが、決定的であると示唆しています。

この場合は、「パン(肉の象徴)と葡萄酒(血の象徴)」を用いて、
シンボリックに、象徴的にやって示している。
なぜそうされるのだろうか・・・これも疑問として、ヨハネの心に残ったに違い有りません。








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聖書の空間理念

2004年11月20日 | KINGDOM原理からの聖書解読
<写真は「聖書の空間理念の図」(『聖書の事がよくわかる本』中経出版、より)クリックすると拡大します>
 
 聖書の論理をKINGDOM原理から解読していこう、というのがこのカテゴリーです。キングダムというのは、正確にはKingdom of Godというべきで、それは文字通り「創主の王国」です。王国ですから、そこは民主国や共和国のように、人民が統治している国ではなく、王が統治しているく国です。そこでは、王から出た言葉がその国の法になる。これは前回のべましたね。

 そして、天の王国での王は、万物の創造主、イエスが「父なる神」と呼んでいる存在です。それがあるというのが聖書の思想です。では、それはどこにあり、どうなっているか、我々の住んでいる地上の世界とどういうつながりをもつか? これが今回のテーマです。

 それをまず図で示したのが上記の写真です。見えにくいかも知れませんが、円が三つ描いてある事はわかるでしょう。これらの円は、球体を表しています。

 一番外側の大きな円(球体)これが「天の王国」Kingdom of Heavenです。その中に描かれている二番目の円が、我々の存在する宇宙です。そして、その中に、小さな点のように描かれているのが、我々が住んでいる地球です。

 聖書を解読していくとその空間理念は、どうもこういう風になっていそうです。実際の解読過程については『誰もが聖書を読むために』(新潮選書)をご参照下さい。

      @      @      @

 さて、聖書ではこの天の王国の法と、宇宙でなされている法とは違う、という思想です。そして、宇宙はいずれ火でもって焼かれ、消滅する“うたかた”の存在となっています。だから、そこでの法も、かりそめのものであって、真の法は天の王国の法、真の正義は天のキングダムの正義、と教えます。これはもう、聖書論理の大黒柱です。

 加えて、天の王国は宇宙やその中の一点にすぎない地球上などとは、比較にならない豊かな国です。これはもう、何千倍、何万倍、何億倍という豊かさです。(そのすさまじい豊かさは、たとえば『黙示録』21~2章に、示されています)

 そして、人間は、天の王国の法に沿って生きたら、この豊かさや幸せを受けて暮らせる、(のみならず、死後もその霊が永遠に幸福に生きられる)という思想です。人間はそういう風に造られてるよ、という、これがKINGDOM原理です。

 後に、イエスの口から出るーーー

 「まず創主の王国とその義(法)を求めなさい。そうすればこれらのもの(物的な富)は(必要の何倍もが)添えて与えられます」
   (マタイ伝、6章33節)

 ーーーという言葉も、そういう背景・意味をもっています。

      @      @      @

 ところが人間は、地球上、すなわち宇宙の中に住んでいますから、天の王国の法など認知できません。宇宙の中の法が、法のすべてだと思って暮らしています。だから、本来の幸福が得られないで、暮らすことになるしかない。自然にそうなります。

 その結果、チンケなところで、グチャグチャやっている。この地球上に富豪といわれる人もいますけれど、そんな富は天の王国で与えられる富に比べたら、塵も同然、チンケもいいとこ、という思想です。

 そんなこと言っても、人間、宇宙の中で生活してるから、どうしょうもないじゃないの・・・。ところが、「必ずしもそうではないよ」、とも聖書は言っています。

 イエスが天の王国の法を持って、この地上に天の王国からやってくる。そして、王国の法を教え、それが支配する王国を、小さいながら、この地上に造っていく(つまり、天の王国と同質の空間をこの宇宙の中に作っていく)ーーーこれがKINGDOM原理からみた聖書の論理です。

 聖書には、バプテスマのヨハネという預言者が出てきます。イエスがこの世で王国の法を教える活動を開始するのを、その直前に預言した預言者ということになっています。彼は、人々に

 「悔い改めよ、天の王国は近づいた」(マタイ伝、3章2節)

 と、宣言しています。

 また、イエス自身も、教えを開始するに当たって、

 「時が来た。創主の王国が近づいた! 悔い改めて、よき知らせ(福音)を信じよ」
             (マルコ伝、1章15節)

と、宣言したと、聖書にあるのもそういうことです。
 聖書の内容は、深淵広大にして膨大です。しかしKINGDOM原理から解読していくと、かくも簡単明瞭になるのです。
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心の芯の空洞を埋めたのは?

2004年11月19日 | キリスト教活動の歴史
<写真は「ベニー・ヒン癒しのクルセード」:2004.10.14.アトランタ」(文中に説明あり)>


鹿嶋春平太です。今回、少し長いです。

 前回、イエスの教えが急速に広がった理由を一口に言えば、人々の「心の芯の空洞を埋めたから」と書きました。空洞は、「人間死んでおしまいだから、究極的には生きていく意味はない、虚無である」、という漠然とした意識が形成していました。みなさんにもあるでしょう。

 イエスの教えは、「永遠」という世界を持ち込む事によってここを埋めました。歴史の中で、具体的にいいますと、まず、「古代ローマ帝国」市民の心の空洞を埋めました。当時この人民の心には、この空洞がとりわけ、ポッカリと空いていたからです。

 イエスの教えは、今のイスラエル地域で始められ、以後、西方のローマ帝国方面に宣教されていきました。それが、帝国人民の心の空洞を埋め、心の琴線にタッチしたのです。

 この心理状況を、今回、ここで詳しく考えたいと思います。それをローマ市民に限ったことでなく、人間一般について考えてみたいと思います。その上で、当時のローマ市民には、この空洞がとりわけ明確に自覚されていた、という事を説明いたします。

<物理的イメージと純イメージ>

 まず準備知識として、「物理的イメージ」「純イメージ」という言葉を説明いたします。
 人間は友人とかいった物的な対象を認識する場合にも、その人の姿が写真のように、自分の目の網膜に映ったそのままを、心に描いているのではありません。それらの映像の中から、あるものを選んで残し、他の映像は切り捨てて、その人をイメージしています。

 友情の念が強いときには、いい映像を組み合わせてその友のイメージを造っています。弱いとき、さらには、憎しみを持つときには、従来いい気持ちのしなかったような映像も組み合わせてイメージします。このように、我々がある対象を認識している場合、それは、目の網膜に映った映像のままでなく、それらを選択したイメージを心に造って認識し、記憶や知識を形成しているのです。

 次にその映像(イメージ)には二つの種類があります。一つは、人間や自然など、外部の物的なものを網膜(や鼓膜)に受けて出来る映像です。これを春平太は「物理的イメージ」と呼びます。

 もう一つは、そういう物理的な像が網膜に移らなくても、心に描いてしまうイメージです。これを「純イメージ」と呼びましょう。たとえば、ミッキーマウスや白雪姫、こういうものは物理的な世界には存在していません。けれども、ウオルト・ディズニーはそれを心にイメージし、そして、あのような形の人形やアニメキャラクターにして出現させたのですね。

      @      @      @

 前回、「我々は生まれて以来、五感に入ってくる物的なものを認識して世界イメージを造っている」という主旨のことを申しました。これを今述べた言葉で言いますと、人間は自然なままだったら「まず物理的イメージだけで」世界はこういうものだ、とイメージするという事であります。

 そして、物理的イメージの世界では、「すべては無常であり、崩れ、消滅する」という世界観に自然になります。物的存在は、そういうものですから。

 次に、「イエスは永続するもの(永遠)を持ち込んだ」といいましたね。そういうものは、物的な世界にはありません。だが、網膜に移った物理的映像を起点にしなくても、純イメージとして、人間はイメージを描く事が出来るのですね。つまり、イエスは「純イメージ」として永遠の世界のイメージを人々に提供したわけです。

<純イメージ世界の現実感について>

 さて、そうすると、イエスの教えの説得力は、それをいかにリアルに感じさせるか、にかかってきます。この永遠という純イメージ世界の教えに対して、教えを聞いた人々がいかに現実感を抱くか、ということがポイントになるのです。

 現実感が薄かったら、それは、心の琴線に触れません。現実感の事を英語でリアリティといいます。もしも、イエスの教える世界イメージを、物理的イメージ世界と同等に、いや、それ以上にリアルに感じる事ができたら、どうでしょか。それは、人々の心の奥底にタッチし、人を動かす事になるでしょう。

 だがそもそも、純イメージが物理的イメージに勝るほどに、リアルに感じられることなどありうるでしょうか。それがあるのです。人の想像力、イマジネーションにはそういう能力が備わっている。カール・ポパーという哲学者はそれがある事を論証しています。彼は、人間の意識の中にあるそういう世界に「第三世界」という名前まで付けています。

<ディズニーランドで抱くリアリティ感>

 このことを、私たちはディズニーランドですでに体験しています。ここで展開されるイメージ世界は、現実に対応する物的なものがない、夢の世界です。もちろん、そこにはミッキーマウスや白雪姫の人形や、シンデレラ城があります。これらは、物的な存在ですが、これは、来客の意識の中に夢の世界、純イメージ世界を形成するのを触発する道具にすぎません。触媒のようなものです。

 ところが、東京ディズニーランドの中に2時間、3時間、半日といると、我々はこれにリアリティを感じていきます。「こんなものは、作り話だ」という意識を持たなくなっていきます。ということは、まるで、その世界が現実のような感覚を持っていくということです。だから、大人も、知らず知らずのうちに、楽しんで園内を歩き、乗り物などに乗ってしまうのです。

 もちろん、そうでない人もいます。春平太の知人にも、「こんなものは子供だましの、作り話だ」という意識が一向に変わらない人もいます。彼は、入園してしばらくすると、「つまらない」といって帰ります。彼は、商売人です。

 しかし、大半の大人は、その世界にリアリティ感を抱いていきます。そうなってもらうために、ディズニーランドは徹底した配慮をしています。たとえば、遊園地なら定番となっている観覧車は置きません。どうしてか? 観覧車で高く上がると、公園の外の世界、ビジネスビルなどが見えてしまいます。

 これは物理的イメージ世界のものです。これが意識に入ってくると、来客は、純イメージ世界だけに浸っている状態から引き出されてしまいます。いわゆる、日常的現実の世界に引き戻される、というのは、その結果の状態です。そうすると、徐々に出来つつあった純イメージ世界のリアリティ感が、壊されてしまうのです。

 これを逆に言いますと、こうなります。人間は一定時間、純イメージ世界に完全に浸り続けていると、意識が自ずとそれに集中していきます。その状態を続けていると、人はそれにリアリティ感を持って行くようになる、そういう風に、人間の心理は出来ているということです。

 そのために、ディズニーランドを囲む塀も、内部のどこからも外が見えないような高さに作られています。がともあれ、そういう中にいることによって、我々は、ここの純イメージ世界を、「第三の現実世界」として、それを実在すると同じ感覚で心に抱き続けます。多くの人は、この公園において、そういう体験をすでにしている、ということであります。

<マズローの「欲求五段階説」>

 哲学よりもうすこし身近な学問では、マズローの「欲求五段階説」心理学があります。彼は人間がいろんな欲求を満たしていった後に、最後に表面化するのは第五段階の欲求「自己実現欲求」だということを見出しました。そしてそれが充足されると人はその瞬間、至高体験を得る、と観察しました。至高体験とは、これ以上にない喜びの体験、という事です。

 自己実現とは、自分が理想とする自分のイメージ(セルフイメージ)を実現する、ということです。理想とは、実現の困難なものです。通常は単なるイメージ・夢でしかあり得なかいものです。

 ところがあるときこれが実現する(リアルなものになる)ことがある。すると、その瞬間、人間には自分の意識にある他のすべてのイメージ要素も驚くほどリアルなものとして感じられるようになります。いうなれば、それまで白黒だったイメージ要素が、一気に、天然色カラーに色づくという感じですね。人間の心理は、そういう風に出来ているようです。

 色づくイメージ要素の中には、物理的対象を持たない純イメージもあります。単なるイメージでしかないものです。これがものすごくリアルに感じられることによって、人の意識は、物理的イメージの枠から解放されます。イメージ世界がそこから、解放され、それを超えたところにまでリアルな広がりを持つ事になります。

 物理的イメージ世界は、無常の世界、すべてはいずれ死んで消滅する世界です。これから解放され、それを超えたところにまで意識が広がるという事は、純イメージ世界にまで、という事です。その世界もが物理的イメージ世界に勝るとも劣ることなくリアルに見えてしまいます。

 すると、永続するイメージ世界も、リアルに感じられてしまいます。そうなると心の奥にあった切なる欲求である永続欲求も、イメージの中で現実のものとしてリアルに満たされるようになるのです。

 このとき、人の心は、至高の喜びを得ます。なぜなら、一番心の奥底にあった、深い欲求、願望が満たされるのですから。そしてそのときまた、人の精神は驚くばかりの活性化をして、飛躍します。

<しるしと不思議は純イメージ世界のリアリティ感を増すもの>

 イエスは、その道を教えたのです。意識世界が白黒でどちらかいえば、憂鬱だったのが、一転して総天然色カラー映像にする道を。クリスチャンはよく証し(あかし)というのをします。自分がイエスの教えを信じてクリスチャンになった前後の体験記ですね。
 
 そこで、ほとんど定番のごとくによく聞かれるのが、このイメージ世界の天然色化の体験です。彼らは口をそろえるようにして、イエスを信じる決心をしたら突然「目に入ってくるもの、見るものすべてが新しくなった」と証言します。一見奇異なようですが、マズロー心理学からしたら、ごく当たり前の話です。

 イエスは、この方法を理屈として提供するだけでなく、それを体験する手助けもいたしました。
彼は様々なしるしと不思議(奇跡)を行ったと、聖書にあります。

 奇跡とは、通常の物理的世界では、あり得ない出来事です。それが現実にありうることを目の前で見ますと、人は、イエスの教える純イメージ世界のイメージも、リアルに感知することになります。

(そして、法則通りに至高の喜びを得ます。この状況は、現代ではベニー・ヒンクルセードという癒しの聖会にも見る事が出来ます。世界にテレビ放映、インターネット放映もされているこの聖会では、癒された本人もさることながら、ヒーラー説教者ベニー・ヒン自身が、そして、聴衆が至高の喜びに満たされ、歓喜している姿を我々は見る事が出来ます)

 マズロー心理学理論に当てはめますと、ここではマズローのいう自己実現を、自己でなく、イエスがやってくれるという理解になります。それで、人は至高体験を経験出来るのです。そして、イエスは、その力が、イエスの教えを宣べ伝える人にも現れうるようにしていった、というのが聖書の思想です。

 使徒たちは、ローマ市民の前でも、教えを述べ伝えました。そして、多くの場合にしるしと不思議も伴ったようです。それがローマ帝国の人民たちに至高体験をもたらし、イエスの教えに対する確信を深めさせていったのは、想像に難くありません。

 永遠の自分がある、それを幸福なものにする事が出来る、という確信は、精神エネルギーの根源です。それは人間の心の空洞を、そのものズバリで埋めてしまいます。代替的な手段による、心理的補償作用ではない。そのものズバリです。

 そして、それによる心の充実と至高の喜び(joy)が、人の人生を意識の根底において、「うつろ」から充実に転じさせ、精神を沈滞から活性化に転じさせるのです。

 イエスの行った事が、いかに根源的な人間革命であったか、その構造がこれである程度ご理解いただけたと思います。この喜びが、ローマ帝国人民の心に燎原の火のごとくに広がったのです。
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Vol.11 『「ことば」が肉体に変化した! (1章14節)』

2004年11月19日 | ヨハネ伝解読





さて人間の姿でもってこの世にしばらくおられた
イエスの肉体についてはどうでしょうか。
これに関するヨハネの神学に進みましょう。





<ことばが人となって世に住まわれた>

彼はこう言っています~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「ことばは人となって、わたしたちの間に住まわれた」
 (1章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

イエスの身体は創造主から出た「ことば」が変化したものだ
~これがヨハネがたどり着いた結論でした。

+++

それだけみたら「ええっ?」というところです。
「もういやだ、ついていけない!」と投げ出したくもなります。

だがこれまで見てきたように、ヨハネは
創造主から出た「ことば」は「生き霊イエス」となって独立分離した、
と解していました。

彼はその霊が、一気にこの世での肉体に変化した、と認識したのです。





<インカーネーション!>

その最大の根拠が、ヨハネが確認し続けた観察でした。
十字架上のイエスの脇腹を、ローマ兵士が槍で突き刺したとき「血と水」が出た。

こんなことは、人間の肉体では起きません。

「一体、処女生母マリアの胎(子宮)のなかで何が起きていたのだ?」

ヨハネのうちで最後まで残った疑問
「一体、主・イエスの身体とは何だったのだ」に対して、
ある時天啓のごとくに答えひらめいたのでしょう。

その答えが「ことば(ロゴス)の肉化」だったのです。
「ことば」は創造主から出て分離独立した「生き霊」です。
その霊が処女マリアの胎に直接入った。
そして肉体した、とヨハネは悟りました。

後年、このヨハネの認識は真理だと多くの神学者が承認します。
そしてこの「創主から出たことばが肉体になった」ことに対して、
神学用語が形成されます。

「インカーネーション」(incarnation :肉体化) がそれです。







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イエスの教えのどこが心を打ったか?

2004年11月17日 | キリスト教活動の歴史

 キリスト教は、今から約2000年前にイエス・キリストの開始した教えです。この教えに魅了された人が、彼の死後急速に増大し、今日では、世界最大の宗教となりました。

 キリスト教文化圏の人口は、世界の33%、ほぼ3分の1います。第二位はイスラム教で、約20%。世界三大宗教の一つといわれる仏教は意外に少なく、その文化圏の人口は、6%。ヒンズー教の13%についで第四位です。(『キリスト教年鑑2003』キリスト教新聞社)

 どこにその魅力があったか、一口に言うのはとても難しいです。その教えは、宇宙を超えた広大な空間にわたる世界の歴史から、人間の最適な生き方にいたるまで、多岐多様にわたっています。

 「聖書思想の基礎知識」など他のカテゴリーの記述を参考にして、読者の皆様に各々考えてほしいところです。逃げるわけではありません。後に示しますように、実際、それがもっとも正当な方法なのです。

 そうした中でも、あえて一つあげるとしたら、それは人間に「永遠」という視点を明確に提供し、永遠に幸福に存在し続ける方法を提示したことでしょう。

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 我々人間は、特殊な人をのぞいては、物質しか認知できません。生まれてこの方、それを五感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)で捉えて暮らしてきています。

 物質は、みな、変化し、消滅していきます。木も草も動物もそうです。人間の身体も、100年もすれば、循環運動が出来なくなり、死にます。死んだら、身体は、腐って崩れて消滅します。幼いときより、そういうものだけを認知してきた我々の意識には、すべては無常で消滅するという知識を、当然のように持つに至ります。

 この知識は、我々の心にさらに派生的な意識を形成していきます。その重要な一つは、「人間生きても結局無意味ではないか」、という意識です。どうしてでしょうか? だって、どうせいつか死んで消滅して無くなってしまうのなら、今、人生でしている事はみな究極的には意味のないものとなるでしょう。この意識を、虚無とかニヒルともいいます。

 そして、どうせ死んでなくなってしまうのなら、人生無意味、という論理は子供の頭にもわかるようです。早くは、5歳頃に、遅くとも8歳くらいには、人間はそういう虚無意識を心の片隅に漠然と持つようです。皆さん、振り返っていかがですか?

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 こうした虚無意識は、心の芯のところに空洞のようなものを造ります。すると人間は、心の底から真に積極的に生きる事、物事を志向することが出来なくなります。それがちょっとした事で傷つく、エネルギーにかけた心を造ります。また、少しの苦しみで自殺を考える意識も造ります。

 今日本では、毎年、3万5千人近くの人が自殺しています。交通事故での死者の3倍にも上ります。もちろん、他の人は、何らかの形で生きている間での目標を掲げて、学び、働いています。しかし、そういう人でも、その心の芯が空洞になっている事には変わりありません。

 これは、人間の根底的な問題です。我々は、意識の一番根底で、これが何とかならないか、という願いを持っています。しかし、これはいかんともしがたいと悟っているので、我々の心理は、この欲求を自覚できない奥部屋に押しやっています。そうして、事実を自覚できないようにしているのです。マズローという心理学者が造った、有名な「欲求五段階説」は、人間心理のそういう実態を踏まえて造られています。

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 この、人間にはいかんともなしようのない問題に、イエスは答えを提供したのです。

 彼の答えはこうでした。すなわち、ーー人間は肉体だけでなく霊というものからなっている。肉体は死んで消滅するが、霊は永続する。人の意識は霊の中で存続する。その霊は永遠に幸福になる事が出来る。ーーでした。そして、その霊が永遠に幸福になって存続する方法を教えたのです。

 加えて、彼は、自らの教えをしるしと不思議(奇跡)でもって、証拠しました。自分だけでなく、自分の教えを説く弟子たちにも、そのしるしが現れるようにしていきました。それによって、彼の教えは、人々の心の奥底を打ちました。心の琴線にタッチした。そして、信徒は急速に増大を開始したのです。
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