<民主国は最高か?>
天のKINGDOM(王国:いわゆる天国)とは、創造主が王として統治する王国です。民主主義が最高、と小学校の時から学んできた我々は、それは独裁国で、いけないもの、と一瞬思ってしまうかも知れません。
しかし、「民主主義がいい」というのは、知力にも、良心力にも限られている人間だけで、ある一つの世界(国家など)を統治している状況でいえることです。「どんぐりのせいくらべ」の状況では、その内の独りが裁量で思うままに統治したら、これはみんなで統治するよりまずいことが多いでしょう。
ある世界の中での独りの人間の知力、情報力はちいさなものです。だから、情報がない、わからないが故での失敗は多々あるでしょう。人民の幸福を思う人間愛の力も、個々の人間には限界があります。多数のためよりも、「自分のため、自分の一族のため」でやってしまうことも、現実には多くなります。
<KINGDOMの統治者像>
ところが、聖書がKINGDOMを統治していると教える創造主は、全知全能の存在です。また、創主は文字通り人民も造った方です。自分が造ったものに関しては、出発点から本性的に愛情を持っています。人間が子供を産むと、本能的に愛の意識がこみ上げてくるのと似ています。
肉体を持つ人間が産んだ子に対して抱く親の愛は、創主の抱く被造物への愛のミニチュア版、模型、と言っていいでしょう。それも聖書の奥義思想です。
ところが、創造主の愛は、人間の親が子供に抱く愛とは桁違いです。それはまず、全知全能を背景にしています。だから「あ、知らなかった、ごめんね」ということがありません。全てをわかった上で愛情を注ぎます。
さらに、聖書が教える創主は、「豊かそのもの、幸福そのもの」、自らにおいては足りないところのない存在です。だから、自分の不足を埋めるために、子供より自分を優先させてしまった、ということが全くない。奪うことが無く、ただ、与えるだけ。創主の愛はそういう愛です。
そういう何ともありがたい方が、天の王国は統治しておられる、そういう方が存在するのだよ、というメッセージを書いた本、これが聖書です。
@ @ @
だったら、そういう方が王として独りで統治してくれた方が、人民は幸福になるでしょう。その幸福は、限りある人間が集まって利害調整している民主政府が与える幸福とは桁違いに深く、広く、大きいです。この世では、そういう方がいないので、セカンドベストとして民主主義でやっているだけの話です。
<極楽に法はあるか?>
天国というと、仏教文化圏で育った我々は、「ああ、極楽のことだ。キリスト教ではこれを天国と言っているんだ」と思います。だが、少し違います。
極楽というとは、文字通り、「楽で楽しいところ、楽の極地が実現しているところ」というイメージです。食べたい放題、飲みたい放題、遊びたい放題、したい放題の、放蕩楽園のイメージ。
@ @ @
昔、1965年頃、「帰ってきたヨッパライ」というフォークソングが大ヒットしました。フォーククルセダーズという学生の音楽グループがつくったアマチュア曲で、彼らはこの一曲で一気に有名スターになりました。
ヨッパライが交通事故にあって、天国に行き、地上にもどってくるという唄です。その一節に
♪ 天国よいとこ、一度はおいで
酒はうまいし、ネエちゃんはきれいだ
ウハ、ウハ、ウハ、ハ~ ♪
というのがありました。
これを作詞した松山猛と、作曲した加藤和彦とは、昔、ある自動車会社のコマーシャルに一緒に出演したことが春平太にはありました。撮影の間の待ち時間が長いので、よく雑談しました。それでわかったこと、「こいつらは天国と極楽のコンセプトの違いが全然わかってな~い」。
こいつらだけでなく、それが200万枚の大ヒットになるということは、大半の日本人もみなわかってない、ということであります。
@ @ @
天国は、正しくは「天における創主の王国」です。万物を創った創造主が「統治している」領国です。そこには、統治者の法があるのです。人民は、それに従って生きることが求められているのです。
だが、この法は、全知全能者が人民の幸福だけをねらって発布している法です。だから、人民(天使、人間)が、それに沿えば幸福になるというガイドラインでもあります。沿わなければ幸福になれないので、沿った方がいいよ、というものです。
そういうことを全知者は完全にわかるのです。また、それが全部わかる存在は、なにも、法を創るに他者を集めて会議する必要がありません。議論、検討、反省する必要もない。だだ、自らの知恵を口から発すればいいのです。
以前、春平太は、「王国では王から出た言葉がそのまま法になる」と申しました。その理由は、今述べたようなことです。天の王様はいい加減なことをしているのではないわけです。
<法があれば秩序があり、正義がある>
天の王国に法があるということは、それによって形成される秩序(order)がある、ということです。天の民は、王が出してくれる法を信頼し、それに従います。するとその領国には秩序が出来ます。
こうして、法があり、秩序があると、それに沿うことが正義となります。天の王国における正義を、「天の義」と称します。義は英語でライチアウスネス(righteousness)です。
前にも引用しましたイエスの教え
「まず、創主の王国のとその義を求めなさい」(マタイ伝、6章33節)
という聖句の「義」は、そういう意味を持っています。
~~KINGDOM原理からみると、聖書の論理はかくも簡単明瞭になります。
天のKINGDOM(王国:いわゆる天国)とは、創造主が王として統治する王国です。民主主義が最高、と小学校の時から学んできた我々は、それは独裁国で、いけないもの、と一瞬思ってしまうかも知れません。
しかし、「民主主義がいい」というのは、知力にも、良心力にも限られている人間だけで、ある一つの世界(国家など)を統治している状況でいえることです。「どんぐりのせいくらべ」の状況では、その内の独りが裁量で思うままに統治したら、これはみんなで統治するよりまずいことが多いでしょう。
ある世界の中での独りの人間の知力、情報力はちいさなものです。だから、情報がない、わからないが故での失敗は多々あるでしょう。人民の幸福を思う人間愛の力も、個々の人間には限界があります。多数のためよりも、「自分のため、自分の一族のため」でやってしまうことも、現実には多くなります。
<KINGDOMの統治者像>
ところが、聖書がKINGDOMを統治していると教える創造主は、全知全能の存在です。また、創主は文字通り人民も造った方です。自分が造ったものに関しては、出発点から本性的に愛情を持っています。人間が子供を産むと、本能的に愛の意識がこみ上げてくるのと似ています。
肉体を持つ人間が産んだ子に対して抱く親の愛は、創主の抱く被造物への愛のミニチュア版、模型、と言っていいでしょう。それも聖書の奥義思想です。
ところが、創造主の愛は、人間の親が子供に抱く愛とは桁違いです。それはまず、全知全能を背景にしています。だから「あ、知らなかった、ごめんね」ということがありません。全てをわかった上で愛情を注ぎます。
さらに、聖書が教える創主は、「豊かそのもの、幸福そのもの」、自らにおいては足りないところのない存在です。だから、自分の不足を埋めるために、子供より自分を優先させてしまった、ということが全くない。奪うことが無く、ただ、与えるだけ。創主の愛はそういう愛です。
そういう何ともありがたい方が、天の王国は統治しておられる、そういう方が存在するのだよ、というメッセージを書いた本、これが聖書です。
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だったら、そういう方が王として独りで統治してくれた方が、人民は幸福になるでしょう。その幸福は、限りある人間が集まって利害調整している民主政府が与える幸福とは桁違いに深く、広く、大きいです。この世では、そういう方がいないので、セカンドベストとして民主主義でやっているだけの話です。
<極楽に法はあるか?>
天国というと、仏教文化圏で育った我々は、「ああ、極楽のことだ。キリスト教ではこれを天国と言っているんだ」と思います。だが、少し違います。
極楽というとは、文字通り、「楽で楽しいところ、楽の極地が実現しているところ」というイメージです。食べたい放題、飲みたい放題、遊びたい放題、したい放題の、放蕩楽園のイメージ。
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昔、1965年頃、「帰ってきたヨッパライ」というフォークソングが大ヒットしました。フォーククルセダーズという学生の音楽グループがつくったアマチュア曲で、彼らはこの一曲で一気に有名スターになりました。
ヨッパライが交通事故にあって、天国に行き、地上にもどってくるという唄です。その一節に
♪ 天国よいとこ、一度はおいで
酒はうまいし、ネエちゃんはきれいだ
ウハ、ウハ、ウハ、ハ~ ♪
というのがありました。
これを作詞した松山猛と、作曲した加藤和彦とは、昔、ある自動車会社のコマーシャルに一緒に出演したことが春平太にはありました。撮影の間の待ち時間が長いので、よく雑談しました。それでわかったこと、「こいつらは天国と極楽のコンセプトの違いが全然わかってな~い」。
こいつらだけでなく、それが200万枚の大ヒットになるということは、大半の日本人もみなわかってない、ということであります。
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天国は、正しくは「天における創主の王国」です。万物を創った創造主が「統治している」領国です。そこには、統治者の法があるのです。人民は、それに従って生きることが求められているのです。
だが、この法は、全知全能者が人民の幸福だけをねらって発布している法です。だから、人民(天使、人間)が、それに沿えば幸福になるというガイドラインでもあります。沿わなければ幸福になれないので、沿った方がいいよ、というものです。
そういうことを全知者は完全にわかるのです。また、それが全部わかる存在は、なにも、法を創るに他者を集めて会議する必要がありません。議論、検討、反省する必要もない。だだ、自らの知恵を口から発すればいいのです。
以前、春平太は、「王国では王から出た言葉がそのまま法になる」と申しました。その理由は、今述べたようなことです。天の王様はいい加減なことをしているのではないわけです。
<法があれば秩序があり、正義がある>
天の王国に法があるということは、それによって形成される秩序(order)がある、ということです。天の民は、王が出してくれる法を信頼し、それに従います。するとその領国には秩序が出来ます。
こうして、法があり、秩序があると、それに沿うことが正義となります。天の王国における正義を、「天の義」と称します。義は英語でライチアウスネス(righteousness)です。
前にも引用しましたイエスの教え
「まず、創主の王国のとその義を求めなさい」(マタイ伝、6章33節)
という聖句の「義」は、そういう意味を持っています。
~~KINGDOM原理からみると、聖書の論理はかくも簡単明瞭になります。