鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.11 「人間と比較しつつ天使を(7)~~あの純真なダビデ少年が~~」

2006年10月31日 | “エホバ”の奥義

                    

前回の話に関して、すこし説明不足な点があったようです。

 権能を持つと被造物は横暴になりやすい、という点を、人間の事例で理解しておく必要がありました。

天使は見えませんから、我々の現実的な意味理解は、人間の例を通してみないと無理なんですね。

 そうですね、ダビデ王のケースで見てみましょうか。

                    

 あのダビデさん、純真そのものの少年だったダビデが、王になったら「信じられないような横暴」をしてしまっています。

 ある人妻の色香に惑わされて、王宮に呼び寄せ自分の女にしてしまう。

そして、その夫である戦士を激戦地に送らせて死ぬようにしてしまう。

・・・横暴ですねぇ~。


+++


 あのダビデ少年がどうしてそんなになってしまったのか? 

王になって、そういうことができる権能を手に入れてしまったからでしょう。

 正確には権威ですが、権威というのは日常的に使っていると、それが「外から与えられた資格」であるということがわからなくなってしまいます。

自分に身についた権能だという感覚になって混同していってしまいます。

もう権威も権能も同じ、要するに権力です。

                    

 ダビデさんも最初は、王になっても出来れば部下にも「納得させて」やりたいと思ったでしょう。

相手に事情を説明してやらせようとはしたでしょう。

庶民の羊飼いから成り上がった方ですから。

+++

 だが、本来、そんなコトしなくても命令だけで動かせる地位にいるのですからね。

だんだんと説明したりしてるのが面倒になってくるんですね。

日々の業務が非常に多い立場ですからね。

それに2年目3年目になると同じような命令事項がでてきます。

 「ええい、もういちいち説明なんかしておられない」 それで命令だけで「わぁっ~」とやってしまうことが多くなります。 

配下の官僚に「丸投げ」してしまうことも増加します。

お前ら、よきに取りはからえ、とね。 

こうして官僚の権力も次第に増大していきます。

 で、それが習慣になる。これすなわち、横暴になるということですよね。

+++

 田舎の家族で特別扱いされた(特別な権威を与えられた)長男、長女はそのミニチュア版みたいなものですね。

 人間の力は、こういう心理変化、心の動向に逆らうことは出来ません。

だから、米国でも大統領(強大な権威を与えられている)は二期、8年を上限にして、それ以上は法的に出来ないようにしてるんですね。

                    

余談です。 

(だから、日本の政治も、早く早く、政権交代が可能な体制にしないと、完成しないんですね。

別に春平太は、民主党のファンでもなんでもないんですが、日本のために、この政党に、一日も早く一度政権を担当させねばならないんです。

 小泉君が郵政民営化をした時点で、日本の次の最重要政治課題は、そこに来ています。

 能力に不安があっても、それはやらせていれば速やかに習得していきます。

なのにその必要を一貫して言い続け、支援し続けている財界人は、京セラの稲盛さんだけなんですね。

情けない。

人々の投票行動も、日本の知的民度の低さを露呈するのみでね。

しょうもない民族・・・当面は・・・。

でも、早く気づかないと・・・)




                    

話を戻します。

 だけど、アメリカ大統領だって肉体を着た人間ですよ。

自ら風になって人間を吹き飛ばしたり、炎になって人間を焼き殺したりなどできません。

悪霊を追い出したり、病を癒してしまうことも出来ません。

それでもせいぜい「8年まで」としないと、大統領に横暴の気質が出来上がってしまう。

+++

 天使は、前述のような不思議の全てが出来るんですよ。

強大な権能です。

この状態で自由にしておいたら、もう、横暴・凶暴になること間違いないでしょう。

軍隊の規律で厳格に縛ってあげる状態で、そういう存在として(創造主が)創るのは適切なことなんでしょうね。


(続きます)


                    




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Vol.10 「人間と比較しつつ天使を(6)~~軍隊状組織にいるように創られた?~~

2006年10月29日 | “エホバ”の奥義
 
                    


 天使の、人間と違った一つの特性を示唆する聖句があります。

 マタイによる福音書では、イエスを捕らえに来たユダヤ教大祭司のしもべの耳を、ペテロが切り落とす場面が記されています。そのときイエスがこう言っています。

 
「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びます。
それとも、わたしが父にお願いして、12軍団よりも多くの御使いを、いま私の配下に置いていただくことが出来ないとでも思うのですか。
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょうか」
(マタイによる福音書、26章52~54節)

                    


 この聖句から、少なくとも一部の天使は軍団として組織されているいることが伺われます。

しかし同時に、天使は全て軍団の中にいる可能性もあります。

 前者の場合は、軍団に組み込まれていない天使がいることになります。

軍隊というところは、命令→服従、で行動することが厳格に守られている集団です。

そこに組み込まれていない天使がいるとすれば、おそらく自由な立場にいることでしょう。

 後者の場合は天使は全員、命令→服従の軍隊組織に組み込まれるていることになります。

                    

春平太は、後者だと考えています。

どうしてか?

 一つには、天使には強烈な権能を与えられているからです。

火にも風にも変容することが出来、悪霊を追い出せ、人間の病も癒すことが出来ます。

天使といっても被造物です。前述したように無数の天使が人間と同じように、各々個性的な性格、感情、意志を与えられているようです。

 こういう被造物を、自由な環境に置くと、どうしてもわがままで横暴になりやすいものもでるでしょう。

強力な権能を持ったものがそうなると人間がそうなったケースの何千倍も困った存在になるでしょう。

 実際、創主の命令に従わないで、自分の王国を造ろうとした天使もいました。

これが変容したのが、サタンでしたよね。

聖書の世界は、この変容天使をどう処理するかの物語という性格を基本的に持っています。

                    

 もう一つは、天使が人間のように肉体を持つ存在として創られていないことでしょう。

すると、病で苦しめられ、苦しむことはありまえせん。

強大な権能を持つ上に、弱みがないわけです。

 人間にとっては病は忌むべきものです。

だが反面、病というのは、わがままで横暴な人間を、素直で柔和にする力を持っています。

 日本の田舎ではいまでも、長男や男の子がいない家庭での長女を特別待遇する習慣が根強く残ってます。

彼らが、スポーツとか、芸事とか、あるいは勉強などで自ら訓練する機会を与えられないと、とてもわがままに育つことがよくあります。

 こうして大人まで育ってきますと、非常に困った状態になります。

この傲慢さでは今後の人生を誤るのが目に見えている、と思わざるを得なくなっていても、周囲はどうしてあげることも出来ません。

 ところが、こうした長男、長女も、大病をしたりすると変わるのです。

素直で、柔和で、謙虚になったりします。物事に感謝する心が育ったりします。

 まだ医学的に対処が出来ていない病に襲われますと、最初は突然の無力感、不安感、恐怖に襲われます。

そしてあがこうとしますがどうにもならないことを徐々に悟ります。

すると、見えないものに頼ったり、感謝したりという心を持たざるを得なくなって、素直になったりするのです。

 家族もひたすら助けようとします。

すると従来当たり前だと思っていた家族の助力を意識できるようになります。

そして愛に触れて感謝するようになるのです。

ですからもしその病から結果的に回復できた場合には、病があったことが唯一の救いであったことになるでしょう。

 春平太は、自らの親戚関係でそういう例を最近も見ました。

                    

しかし、天使には肉体がなく、したがって病もありません。

傲慢になったら対処してくれる病がありません。

そういう存在が強大な権能を持って自由でいるという状態は、天の創造主王国としてもとてつもなく困ることなのです。

 だから、誰も自由に置かないようにしてあると春平太は推察します。

全員が、規律の厳格な、軍隊状の組織の中にいるように造られていると解します。

それが、聖書の筋の通った解読だと考えています。


 (続きます)

                    





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Vol.10 「人間と比較しつつ天使を(5)~~天使を動かす「権威」~~」

2006年10月27日 | “エホバ”の奥義
 
                    

癒しや悪霊追い出しにも、実は天使が関わっているのではないか、と思わせる聖句があります。前にも引用したと思いますが~~

 「イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊(デーモン)どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった」(マタイによる福音書、10章1節)

                    

<権威と権能>

 ここで「権威」をお授けになった、と記されているところに春平太は注目いたします。権威は英語でオーソリティです。これはある権能(パワー)あるものに命じて働かせる資格をいう言葉です。

 権威と権能とは対照的な概念です。自衛隊員は権能を持っています。武器を使って敵を破壊するパワーを持っている。しかし、安倍総理大臣にはそんなパワーはありません。優男風ですし、素手の自衛隊員と戦っても一発で倒されるでしょう。

 けれども安倍総理には、ことあるときには自衛隊員に命令を発して動かす権威を持っています。そういう資格を職務上与えられているのです。これが権威と権能の関係です。

                    

<イエス、弟子に権威を授ける>

 さて、聖句に戻りましょう。
 イエスは弟子たちに権威を与えた、と記されています。権能を与えたとは書いてありません。

もし権能を与えたのでしたら、弟子たちは汚れた霊を自力で追い出せる、そして、病をいやせる、そういうパワーを身につけてもらったことになります。だが、そう書いてはなく、権威を与えられたと記されています。

 権威、すなわち、誰かパワー(権能)あるものに命じて、働かせることの出来る資格を、イエスから与えられています。

                    

<人間が創造主に命ずることはない>

 では、病を癒す権能を持っている存在とは何でしょうか。霊的存在であることには間違いないでしょう。通常の考え方では、聖霊か天使かと言うことになりますよね(春平太は聖霊は自ら病を癒す存在ではないと解しておりますが当面通説に合わせておきましょう)。

 でも、この場合、聖霊であることはあり得ないでしょう。弟子たちは人間ですよ。被造物ですよ。被造物が創造主たる聖霊に命令を発することなどありえませんからね。

 すると、残るは天使となります。弟子たちが汚れた霊を追い出し、病を癒しているとき、実は天使が働いて追い出しているのです。道理としてそういうことになりますよね。

このように、不思議な力が働く場面では、実は天使が働いていることが多いのです。わざわざ記されていませんが、聖書の記する場面では天使が活躍している状況が実に多い。こういう雰囲気を感じながら聖書を読むことはとても大切なことだと春平太は思っています。

  (続きます)

                    


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Vol.10 「人間と比較しつつ天使を(4)~~紅海に道を出現さす~~」

2006年10月25日 | “エホバ”の奥義

                    

~~ヘブル書の聖句に戻ります。


 「また、御使いたちについては『創主は、御使いたちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる』と言われれているが・・」(ヘブル人への手紙、1章7節)

 風はどうでしょうか。天使はペンテコステの日に風になっただけでしょうか。

                    

旧訳聖書「出エジプト記」のこれなどどうでしょうか。

 「その時モーセが手を海の上に差しのばすと、エホバは一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んでいった。水は彼らのために右と左で壁となった」(出エジプト記、14章21~22節)

 風で海の水が押しのけられるというのは、十分あることです。今でも台風の時に高潮が怒りますね。あれは強い風が海の表面の水を、吹く方向に押しのけるので、風に吹かれている海面が高くなる現象ですよね。

 日本列島から見て東の方の、太平洋のある位置から海の水の表面が日本列島に向かって押しのけられますのでその分、日本列島側は海面が上昇します。それで陸から見ると、平常時より海面が高くなって押し寄せてくるようになるんですね。

 このように風は海の水を押しのけることが十分出来ます。もし、天使の軍勢が一列の風になって水を拭きのければ、その位置だけは水がなくなって、海面に海底の土が現れる。それが道になってイスラエル人が歩いて渡った、という事態は十分にあり得ることなんですね。天使が風になるというのならば、ということですけれど。

                    

 ついでにこの場面から、エホバ神の状態を記述した聖句もみておきましょう。上記の場面に続いて、こういう事態が起きています。エジプトの軍隊もまた、紅海に出来た道に入ってイスラエル人を追いかけます。すると~~

 「朝の見張りのころ、エホバは火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営をかき乱された。その戦車の車輪を外して、進むのを困難にされた。・・・」(出エジプト記、14章24~25節)

 エホバは「火と雲の柱のうちから」エジプトの陣営を見おろし」とあります。そういう有限な存在の「うちから」というのですから、エホバはやはり有限な大きさを持った存在なんですね。

 ところが、父なる創造主は時間的無限者であるだけでなく、空間的に無限者なんですね(このあたりは『神とゴッドはどう違うか』新潮選書、に書きました)。だから「自分以外の全てを私が創った」といえるわけです。もし空間的に有限だったら、その外側の存在に対して「私が創った」というのが苦しくなります。

 どうも、エホバは父なる創主とは違う存在のような気がするなあ・・・。創造主は万能だからなんでもできるという解釈もあるでしょうが、聖書を詳しく考察してみると、どうもそうでないようですよ。

 創造主にも出来ないことがある。たとえば「偽りを言うこと」です。これはできない。空間的に無限な存在が、有限な存在に変容することも、出来ないんじゃないかなあ・・・。

                    

 ともあれ上記の場面に戻ります。イスラエル人がかわいた海の底を渡りきると、海の水は元に戻ってしまって、エジプトの軍勢はみんな溺れて死んでしまいます。水を分けていた風がなくなってしまったことになるでしょう。

 こういうふうに、あるとき風起きたり、止んだりするのは、天使の軍勢が風になったり、風であるのを止めたりする想像した方がリアリティが高くありませんか。つまり、風自体が意志を持った実体である(構成されている)というイメージです。

 もちろんエホバの意志で、自然現象としての風が吹いたり、吹き止んだりするという解釈も、お好みな方は、されてもいいんでしょうが。

     (続きます)

                       

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Vol.9 「人間と比較しつつ天使を(3)~~雲の柱、火の柱~~」

2006年10月24日 | “エホバ”の奥義

                    

「これは天使ではないか」と想像させてくれるところは他にもあります。
「出エジプト記」に「雲の柱」「火の柱」というのが出てきます。

 エホバに命じられて、モーセはイスラエルの民をエジプトから脱出させ、カナン(今のイスラエル地域、エルサレムのある地域)の地に導いて行きます。彼らを助けるエホバは次のようにした、と旧約聖書には記されています。

 「エホバは、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んでいくためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」(出エジプト記、13章21~22節)

 この二つの柱を、物質の柱と考えるのもいいでしょう。エホバが不思議を起こして、そういう柱を作ったとね。

                      

<天使が変容して巨大な火の柱に>

  だけど、これは天使が変容したものと推察することも出来ます。3~4百万人ともみられる群衆の前方で、彼らに進路を示すのですから、この柱は長さも太さも巨大だったでしょう。これを物質だとすると一寸イメージは不安定になりませんか。

 物質の雲の実体は、水蒸気ですよ。水蒸気がそんな巨大な柱になって民族の前を進むとはね。時とともに蒸発していかないかしら。火もそうですよ。物質の火は何かが燃焼して出来るものでしょう。燃料の何かは燃え尽きていかないのかしら。そもそもそんな巨大な火の柱を作るような燃料は、空中にとどまるだろうか。重くて地上に落っこちないでしょうか。

 これが天使だとすると、春平太はすっきりします。天使は無数にいます。数多くの天使が群れをなして、雲のようになったり、火に変容したりして巨大な柱を作っていくという風景です。またこうなるとその光景はとてもロマンチックだと思いませんか。

                      

<前を進んでいた「神の使い」>

 この解読を正解だと確信させてくれる聖句があります。

 エジプトの労働力となっていたイスラエル人がいなくなってはいけないと、エジプトの王様パロとその全軍勢は、イスラエルの民を追いかけます。ところがつかまえることが出来ない。次の聖句はその理由を記しています~~

 「ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らの後を進んだ。それで雲の柱は彼らの前から移って、彼らの後ろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった」(出エジプト記、14章19~20節)

 イスラエルの陣営の前を進んでいたのは、雲の柱、火の柱でしたよね。ところがここで聖句はその雲の柱を「神の使い」といっています。神の使いとは天使ですよね。この聖句自体が、雲の柱を天使だと言っているんですね。

 また、この雲の柱は、位置を移動するんでしょ。逃げるイスラエルの民と、追いかけるエジプト軍との間に入るため、イスラエル陣営の後ろに移動します。こういうところなど、水蒸気の雲じゃ話の繋がりが悪くありませんか? まあ、エホバ神が水蒸気のかたまりを動かしたと考えることも出来ましょうが。

 それに移動した雲は、真っ暗な雲に変わってますよね。こういうところなどは、天使の本領発揮ではないでしょうか。もちろん、これもエホバ神が水蒸気のかたまりを黒くしたとも言えます。そう解釈したい方は、もうご自由にどうぞ。

           
                    

<再臨のイエス>

 雲と言えば、新約聖書でイエスが再臨するときにも登場するね。

 「その時、人々は、人の子(イエス)が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです」(マルコによる福音書、13章26節)

~~この雲も、天使じゃないかなあ。再臨のイエスが水蒸気の雲に乗ってくるなんて変だもんね。いよいよ再臨することになるイエスには、多数の天使が付き従うのでしょう。彼らの軍勢が雲のように見えるか、あるいは、そう見えるように変容しているか、とにかくその方がリアリティが高くありません?

 「偉大な力と栄光を帯びて」というのも「力ある天使を付き従えて」という内容だとぴったりするようだし・・・。とにかく光景が壮大でロマンに満ちるよね。

 (続きます)

                    

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Vol.8 「人間と比較しつつ天使を(2)~~風となり炎となる~~」

2006年10月23日 | “エホバ”の奥義

                                        

 「エホバの奥義」続いています。

 前回、天使の人間と共通したところを見ました。姿形の原型が同じでした。
今回は、違うところの一つを。天使は変容する、と聖書は記しています。

                    
                    

~~ヘブル書の次の聖句を読んでみましょう。

 「また、御使いたちについては『創主は、御使いたちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる』と言われれているが・・」(ヘブル人への手紙、1章7節)

~~「御使いたち」、と、「ご自分に仕える者たち」、とは同じ実体です。天使をさしている。別々の存在をさして「ある者は風となり」また「ある者は炎となる」という意味ではないですよね。天使は風にも炎にもなるのです。

                    

 さあ、そうすると、わざわざ天使だと書かれていなくても、「これは天使ではないか」と推察できるところが聖書から浮上してきませんか。

 使徒行伝を開いてみます。2章です。

 「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同が座っていた家いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが、炎のように分かれ、ひとりびとりの上にとどまった」(使徒行伝、2章2~3節)

 この風のようなものは、天使ではないかなあ、と。舌のように分かれた炎のようなものも、天使ではないだろうか、とね。

                    

 続いて聖書を見ますと、

 「すると一同が聖霊に満たされ、御霊(みたま)が語らせるままに、色々な他国の言葉で語り出した」(使徒行伝、2章4節)

~~とあります。有名な初の「聖霊のバプテスマ」の場面で、ここでは聖霊が人々の内に入ったと解します。通説でもそうなっています。だが通説では、その前の風や炎も聖霊だろうと(漠然と)解されているのが通常です。

 けれども、それは天使というものの特性に留意しないでいるからであって、これをきちんと把握したら、風と炎は天使であると解読したほうが、適切そうです。

 天使は、創造霊たる聖霊に仕えるものです。いま、ここにいる人々に聖霊が臨むに当たって、先だってそのルートを掃ききよめるということは、大いにありそうなことではないでしょうか。聖霊は汚れたところには来ない方、というのが聖書の論理です。

 まず、風で世的なチリを吹き飛ばします。次いで、炎で世的な垢を焼き滅ぼします。
そうなったルートを聖なる霊は通るわけですね。

                    

 ありそう、という判断は、人間世界との共通面から推測しています。相撲界で、横綱というのは、しめ縄なんぞ締めておりますところからいたしますと、特別に浄められた存在、ということなのでしょう。神道の論理ですね。しめ縄で区分けされた向こう側は、「浄化されたところ」と言うわけで、そこにいるのは神様だけというわけです。

 で、その横綱が土俵入りする姿を見ましょう。一人で登場しない。前後に「露払い」と「太刀持ち」の力士がいます。この「露払い」が、神性ある存在が通る道を、前もって浄めているんですね。

                    

 福音書にもその種の記述はありますよ。いよいよイエスが働き人として登場するときには、突然一人で登場してませんよね。自分で登場して、「エ~、わたくしはこれから諸君の罪を取り除く子羊で~す」なんて名乗りを上げたりしてませんよね。

 バプテストのヨハネが先に登場します。そして「悔い改めよ、天国が近づいた」と、露払いします。全ての紹介をこのヨハネがします。イエスはただそこに、厳かに登場するだけです。

~~そんなわけで、春平太には上記の解読の方が適切だという確信が、当面強いです。業界の皆の衆はそうでない。それは十分承知ですが、こちらのほうにより強い確信を与えられるんだからしょうがないよね。聖句主義ではこれでいい。みんなそうしたらいいんです。

 (続きます)

                    

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Vol.7 「人間と比較しつつ天使を(1)~~姿は同じ~~」

2006年10月22日 | “エホバ”の奥義

                    

 しばらくつれづれなるままに天使をみてきました。
結構、人間と共通するところがあるんですね。
考えてみれば、当たり前かも知れません。同じ被造霊として創られた2者ですからね。
その面では共通したところがあるはずです。

 だけど、違うところもあります。
それらを人間と比較しながらみていったら、けっこうはっきりすること多いのではないか、と思えます。

                    

<姿は似ている>

 まず、姿形(すがたかたち)、これは似ているのではないでしょうか。
 ただし、天使は霊で、変化しますからどこが似ているか、把握しづらいです。
だが、原型というのがあると思うんですね。
 現在、過去、過去分詞と色々変化する英語に原型があるように。

 その原型は、人間と同じだと春平太は解します。
頭が一つで、目が二つあって、手と足が二本ずつあって、二本の足で立って歩いて・・・・・といったように。

けれども「原型を人間と同じに創られた」と言ったら、人間中心の間違った解読になります。天使の方が先に作られているのですからね。人間の方が天使の原型に似せて作られた、ということになるはずです。

                    

<天使はイエスの形に似せて>

 では、天使の原型はどのように考え出されたかというと、これはイエスの原型に似せて創られた、と春平太は現時点では解しています。霊としてのイエスも、父なる創造主からその様な姿の霊として出た、分離したと考えられるのです。

イエスが最初です。天使は、創造霊であるイエスに仕える霊ですから、続いてイエスに似た形に作られたとしても、おかしくないですよね。

                    

<創世記の「われわれ」も>

 そうすると、「創世記」1章の次の聖句も、明確に解釈できるようになります。

 「そして創造主は仰せられた。『われわれに似るように、我々のかたちに、人を創ろう』・・・」(創世記、1章27節)

 この創造主はイエス(霊としての)です。そのことはヨハネ伝につなげるとわかってきます。

 「この方(イエス)はもとから世におられ、世はこの方によって創られたのに、世はこの方を認知しなかった」(ヨハネによる福音書、1章10節)

 では、イエスが「われわれに似るように」と言ったときの「イエス以外の存在」とは誰かというと、これが天使となるんですね。天使は創造主に仕える霊ですから。このときイエスに付き従っている天使がいたとしても不思議はないでしょう。

                    

 なお春平太は自分の解読が通説と違っていることをよく知っています。大多数は、「われわれ」を「父なる創主と子なるイエスと聖霊」だと言っています。すると「われわれのかたちに似せて」の「かたち」の解釈に困りますよね。困った結果、この「かたち」は「霊的な特質」だとか何とか言っています。

 これは日本だけでなく、米国でも概してそうです。春平太が1年間身を置いた南部聖句主義地域の教会でも、神学でもそうでした。そういうことを知った上でも、春平太は上記の解読のほうが上質だという確信を捨てることが出来ない状態でいるわけです。

(続きます)

                    

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Vol.6 「ヨハネだって“ホトケの顔も三度!”となる」

2006年10月21日 | “エホバ”の奥義
                       

 前回出てきた、北のイスラエル王国の王様、アハブ王の物語をもう少し考えましょう。
エホバも、彼に付き従った天使も、どうしてこの王様を殺してしまったのでしょうね。
なにか、かわいそうな気もします。

<王様も悪いが>

 この王様は、普段からエホバの御心に従わなかったのでしょうけれど・・・。
何百人もいる預言者たちが、王様の都合のいいような預言をする有様です。王様の普段の言動がそういう状況をつくってきたのでしょう。

                     

<預言者たちもよくない>

 だけど預言者たちもよくないんだよね。
今で言ったら、この人たちは宗教家でしょう。
彼らは、エホバ神の御心を霊感でキャッチしてそのまま述べる存在ということで人々に信頼されています。それで食っている。

 にもかかららず、彼らはそのまま言っていない。
王様の欲望を読んで、それに沿ったことを言う。そして、それを自分の霊感による受信内容だと称しています。

 その方が、社会経済的利得になるからでしょうが、よくないですよね。
 一般人から信頼されている宗教者という身分、それがありながらこんなことをやっているんだから。

                    

<処置は厳しい>

 これに対する、エホバや天使の行動は厳しいですよね。
 王様の間違った方向を加速して、後戻り出来ないようにしています。預言者たちの口が(さらに)偽りを言うように動かしてしまうのですから。

                     

<「悔い改め」には誘わない>

 もう少し暖かい方法は採れないものでしょうか。アハブ王やその預言者たちが「罪を悟って、悔い改めるように」働くというようなことは・・・。

 エホバとその天使がここでそのような道を取らなかった、ということは記憶しておくべきに思います。

                     

<愛弟子ヨハネにすら冷酷な心が・・・>

 ただし、人間の心にも暖かいものだけでなく、こういう冷酷な意識もあるようです。
 ルカ伝の9章に、こういう話が出ています。

~~イエスはエルサレムに向かう途中でサマリア人の町を通ります。例の「サマリアの女」のサマリアですね(「ヨハネ伝」4章)。あのとき彼女とその村の人々は、イエスの言葉を真理だと信じましたよね。

 今回、弟子たちは、イエスがそこで休憩できるように、準備をしようとします。ところが期待は裏切られました。

  「しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」(ルカによる福音書、9章53節)

       ~~とあります。
 ユダヤ人の聖地エルサレム(サマリヤ人の聖地ではない)にイエスが向かっていることを知って、嫉妬してヤキモチ焼いたんでしょうか。そこのところはわかりませんが、弟子たちは、彼らに対して怒りを抱きました。

 「先回、我らの先生イエスにあんな素晴らしい教えを受けたのではないか」
 「癒しも受けたのではないか」
 「あんなに喜んていたのではないか・・・」
 「なのに義理も人情も、こいつらにはないのか・・・」

~~こう言ったかどうかはわかりませんが、とにかく、怒った。そしてこう言ったと記録されています。

  「弟子のヤコブとヨハネが、これを見ていった。『主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか』」(ルカによる福音書、9章54節)

~~激しいですねえ。 弟子たちも、このとき少し調子に乗っていた嫌いがありますが・・・。
 実はこの旅でイエスは、12人の弟子たちに悪霊を追い出し、病気を治す権威をさずけて途中の村々に福音を 宣べ伝えさせています。弟子たちもそうやって癒しながら旅をしているんですね。自分たちの霊的な力に関しても、腕におぼえある状態でした。だから「天から火を呼び下して・・・」という言葉も、自然に出たのでしょう。

 だがそれにしても、このときの弟子の心は冷酷ですよね。
 とりわけヨハネと言えば、「ヨハネ伝」の著者ヨハネです。イエスを最もよく理解していて、温厚な人柄だというイメージです。実際、普段はそういう人だったでしょう。

 でもそのヨハネの心からも、こういう冷酷な思いが出るんですね。「こんな罪人たちはもう悔い改めさせる必要ない。焼き殺してしまえばいいんだ!」という。

 人間ってそういうものなんでしょう。「仏の顔も三度」というのはこの心理をいうのでしょうし。アハブ王に間違いの道をどんどん進ませた、エホバとその天使に共通した意識を心の一部にもっているんですね。

                    

<イエスは戒めた>

そしてイエスはヨハネとヤコブのこういう思いをよしとはされませんでした。聖書には~

   「しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた」(ルカによる福音書、9章55節)

~~とあります。

(続きます)

                    

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Vol.5「天使にも色々な存在が」

2006年10月20日 | “エホバ”の奥義
                    


  聖書では人間は、一人一人個性を備えているように創られていることになっています。
みんな、世界で一つのオンリーワンです。

いま、地球上に60億もの人間が生きています。
その各々が皆違います。
クローン人間を別にすれば、一人として他者と同じ人間はいません。実に多様です。

                    


聖書では、天使も沢山造られているのです。
60億よりももっと多いと推察されます。

その天使も、一人一人皆違います。
天使は人間のように、たくさんの個性が記述されてはいませんが、全く同じ存在は一人もいないでしょう。ロボットや機械ではないし、クローン天使なんてのはいないでしょうから。

 聖書では、人間は沢山個性的存在が記述されていますね。アダム、イブをはじめ、その子供たち、そしてノア、モーセ、アロン、アブラハム、ヤコブ、イサク、サミュエル、サウル、ダビデ、ソロモン、イザヤ、さらにイエスの弟子たちの、ヨハネ、ペテロ、ピリポ、トマス・・・盛り沢山です。
 聖書は、人間に対するメッセージということに、聖書ではなっていますので、人間に関する記述は多いのでしょう。

                     

 これに比べると、個々の個性ある天使に関する記述は遙かに少ないです。

 名前が記されて行動が記述されている一人は、ミカエルです。この方は、戦いの天使、戦士の御使いだと思われます。
 
 「ユダの手紙」に次のような聖句があります。
 
 「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことをせず『主があなたを戒めてくださるように』と言いました」(ユダの手紙、9節)

 これからしますと、ミカエルは一定の天使を率いるかしら(天使長)であるとわかります。ヘブライ語に詳しい方から「エル」という接尾語は「長」を意味する、と教えられたことがありあます。春平太は確かめてはおりませんが、まあ、そうでしょう。

 それからするとガブリエルというのもまた、天使長となりますね。彼は主のみ言葉を運ぶ役割をしているようです。

 この聖句からはまた、天使は軍団のように組織されている存在であるとも推定できます。実際、他の聖句でも、**軍団の天使、といった表現が出てきます。だから、組織の「長」が存在することになるんですね。

                    

 上記の聖句にもどりますと、ミカエル天使長にはもうひとつの性格もうかがえます。戦う天使の長であるにもかかわらず、謙虚であるようなのです。「悪魔を自らののしらず、さばかず、『主が戒めてくださるように』と言って」いますからね。

                    

 かというと、気の荒いというか、怖いというか、裁いてしまうような気質の天使もいるようです。「第二歴代史」の18章にこんな記述も出てきます。

~~この話の当時、ユダヤ人の国家は北と南に分かれていました(その間に「サマリア」地域がありました)。北の王国はイスラエル国で王様はアハブでして、南の王国はユダ国で王様はヨシャパテといいました。

 北のアハブ王は、、南のヨシャパテ王を誘って、ラモテ・ギルアデという街を攻め取ろうとします。ヨシャパテ王はエホバ神の意図を知ろうとします。で、当時の常として、その善し悪しを預言者に預言させようとするんですね。預言者はエホバ神のみむねを感知する存在ですから。

 で、アハブ王は、「よろしい、聞いてみましょう」と受けて、預言者を4百人(すごい数ですね)召し集めます。ところがこの預言者たちがいい加減というか、お追従やさんだったようです。王様の意向がわかっているんで、それに沿うようなことを答えるんですね。

 「神様はあなたがたを勝たせます」と。

 しかし、南のヨシャパテ王は、おかしいと察知するんですね。そこで、「この北の国にはエホバのみこころをそのまま正確に言う預言者はいないのか?」と尋ねます。

 そこに登場するのがもう一人の預言者ミカヤです。彼も最初は、呼びに来た使いの者の願いを聞いて、400人の預言者と同じような答えをいいますが、「真実を言え」と言われて、逆の悪い結果を預言します。その内容はこうです~~

~~エホバは言われた「誰か、アハブ王を惑わして、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか」と。するとひとりの霊(天使です)進み出て「この私が彼を惑わします」といった。エホバが「どういう風にやるか」というと、その霊(天使)は答えた。「アハブ王の全ての預言者の口で偽りを言う霊となります」と。するとエホバは「そうしろ」と言われた~~と。

 で、アハブ王は、偽りの預言者の言葉に惑わされて、戦に出て行って流れ矢に当たって死んでしまいます。

 ・・・こういう天使もいるんですね。また、この天使に、「行って、やれ!」と命じたエホバもなにやら怖いですね(これが父なる創造主なんでしょうかね)。

~~とにかく、天使にも色んなキャラクターの存在がいるということですね、聖書では。人間に、純朴な人から複雑な人、善良な人から邪気の多い人、知的な人から情緒的な人と、色んなのがいるように・・・。

(続きます)

                    


      
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Vol.4「聖書には三種類の霊的存在が登場する」

2006年10月19日 | “エホバ”の奥義

                   

エホバが創造主でなかったら、何である可能性があるのか。
それが霊的存在であることには違いないでしょう。
では、聖書に登場する霊的存在とはそもそも誰か。
3つのグループに分けられます。(他にありません)

                    

第一は、創造主のグループ。父なる創主と、ひとり子イエス、そして聖霊です。
第二は、天使(御使い)のグループです。ミカエル、ガブリエルといった名をもった天使が登場しています。
第三は人間のグループです。人間も霊的存在なのです。

ただし、人間の霊は肉体を着ています。そして、肉体があることによって、増殖することが出来ます。新しい肉体(子供)を生むと、霊も枝分かれして増えていくという存在です。

                    

天使も人間と同じ創られた霊、被造霊です。
しかし、肉体を持っておりません。だから増殖はしません。
無数の天使は、最初からその数だけ創られたというのが、聖書の論理です。

しかし、肉体を持たないから、病などで苦しめられることはありません。
その点、人間は肉体を攻撃されて、病になったり、死に脅かされたりします。
肉体というのは、霊に比べたら弱い存在なのです。

                    

さて、もしエホバが創造主でなかったら、彼は以上の3つの内のどのグループにはいるでしょうか。人間であるはずないですよね。肉体を着ていませんから。
すると、答えは簡単。天使のグループに入ります。、

えっ? そんな・・・。 まさか・・・。 そんなこというのは、カミサマへの冒涜じゃないの? 怖い、怖い。

~~だけど、論理ではそうなるんだよね。筋を通せばそうなる。人間には論理というものが与えられているんだから、まあ、それを使うのは許してもらいましょう。

そして恐れず大胆に、推論を進めましょう。

            (続きます)

                    

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Vol.3「“父と子と聖霊の名によって”と言ったのに」

2006年10月18日 | “エホバ”の奥義

                    

変なことはまだありますよ。

新約聖書にはイエスの言葉がたくさん記録されています。
イエスは父なる創主についても、たくさん語っています。
にもかかわらず~~

     「父なるエホバ」

      ~~と一度も言っていませんよね。
祈るときも「エホバよ!」と言っていませんよね。

変ですよね・・・。

                                        

~~またイエスは

「では諸君は全ての民のところに出て行って、彼らを私の弟子としなさい。父と子と聖霊の名によって、バプテスマを授けなさい」(マタイによる福音書、28章19節)

 ~~と弟子たちに命じています。
 で、弟子たちはどうしたかというと、イエスの名でバプテスマをほどこしています。

                    

後に弟子のペテロも~~

「『悔い改めなさい。そしてあなたがたひとりびとりが罪の許しをうるために、イエスキリストの名によって、バプテスマを受けなさい。・・・』」(使徒行伝、2章38節)

~~と言っています。

そこにもエホバの名は出てこない。
エホバが創造主であったならば、これは全くおかしいことですよね。

                    
                    
だけど・・・、創造主でなかったら、これは別におかしな話ではない。逆に筋の通った話となるのです。

そこで、「もし創造主でなかったら・・・」という方向で思考を進めてみましょう。

(続きます)

                    


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Vol.2「これどう思う?」

2006年10月17日 | “エホバ”の奥義
                    

検討を始めましょう。

まず、創世記の18章を開きます。

 「エホバ(主と表記されているのをエホバに戻します)はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。・・・彼が目を上げてみると、3人の人が彼に向かって立っていた」(18章1~2節)
 ~~とあります。

                     

エホバが3人なんておかしいですよね。それで読み進みますと22節に~~、

「その人たちはそこからソドムのほうへと進んでいった。アブラハムはまだ、エホバの前に立っていた」(18章22節)

~~とあります。
さらに19章に進みますと、

「その二人の御使いは夕暮れにソドムについた」(19章1節)

~~とあります。
 どうも、3人のうちの2人(18章22節の「その人たち」)は、御使いであったようです。
彼らがソドムに向かったので、アブラハムの前にもう一人が残ったのですね。これがエホバです(22節)。そういうことになります。

このことからわかるのは、エホバは3人のうちの一人として、人の姿でアブラハムの前に現れていることです。

                    

で、新約聖書の「ヨハネ伝」にポ~ンと飛びます。
1章にこうあります。

 「創造主を見たものはまだひとりもいない。ただ父のわきにおられるひとり子の神が、創造主をあらわしたのである」(1章18節)

あれっ? おかしいですね。エホバが創造主だったら、これをアブラハムは目の前で見ていますよ。
なのに、ヨハネ伝では「創造主を見たものはまだひとりもいない」といっています。

                    

ヨハネは福音書の著者であって、彼の言葉はモーセ(創世記の著者)ほどの権威はない?
だったらこれはどうでしょうか?

「父(創造主)から出たものだけが父を見たものです」(ヨハネによる福音書6章46節)

これはイエスの言葉です。
イエスは父なる創主を見たのは、自分だけだといっているのです。
この言葉を記しているのはヨハネですが、いくらなんでも記録間違いということはないでしょう。

エホバを「神様、神様」とお呼びのみなさん、これはどういうことでしょうか?
(続きます)

                    




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Vol.1「もうはじめましょう」

2006年10月16日 | “エホバ”の奥義
                    

「ヨハネ伝解読」はいよいよ佳境に入ります。
が、その前に、ひとつ考えておきましょう。
旧訳聖書に出ている「エホバ」についてです。
 日本の信仰者はこれを神、神と呼んで、創造主なる神だと思っています。
イエスのいう、「父」なる神ですね。

                                      

でも少し聖書を詳細に見て考えてみると、これにはおかしなところが多々あるのです。
これからそれを見ていこうと思うのですが、その前に、周知の事実を確認しておきましょう。
日本語の口語で訳した聖書には、「エホバ」という訳語は出ておりません。
原語でエホバとなっている単語は「主」となっています。

しかし、文語文の訳書(『旧新約聖書』では、エホバとなっています。
で、これが口語の訳書になると「主」になるのですが、『新改訳聖書』では若干良心的で、「主」という文字が太字になっています。つまり、原語でも「主」(英語のLord)となっているところは、細字で印刷しており、エホバとなっているところは「主」を太字にしているのです。
そうやってかろうじて原語との対応をつけているわけです。

そもそもこんなことをしなければならないところに、なにか不自然さを感じませんか?
エホバはエホバでいいじゃないですか。
どうして「主」に変えなければならないんでしょうね。
そういうところにすでになにやらワケ有りなにおいが漂います。

                    

でも、日本人はこれを「カミ、カミ」と呼んで創造主だとしています。
結論から言うと、まあ、それでも100%間違いではない。
「まあ、それでもいいからやっていてください」というところですが、最近春平太、もう考えを語るべき時だと思わされることがありました。

                    

~~福音関係の他のブログを訪問していたときのことです。
そこによくコメントされる方の文章がありました。
こんな文です。

「ヘブル書は、・・・(中略)・・・、新約を信頼する故に、神様の御性質を見ようとしない私達の過ちを矯正してくれます。・・・(中略)・・・聖書は全巻を通して読まなければいけないのですね。旧約から神様の御性質を学ぶ時、本当に神の前で謙遜になれ、神に自分をささげることができるように思います。・・・・(後略)・・・」

 鹿嶋は、この文の中に、「創造主の性質は旧約の中に表れている」という考えを見ます。そしてその背景に「なぜなら創造主は旧訳聖書に登場しているのだから」という考えがあることを察します。この方は、今後も旧訳聖書に創造主の性質をより正確に見ていこうとされるようです。
熱心な方だからどんどん入っていかれれるでしょう。
また、そういう信仰者は他にもおられるでしょう。

                    

 熱心な方ほどそうなっていく。これを目の当たりにしたとき、春平太は、もうこの件で沈黙を守るのも限界ではないかと思わざるを得なかったのです。
鹿嶋は、この問題に取り組むのを出来るだけ、最後の最後まで引き延ばそうとしてきました。
このヨハネ伝を解読していけば、いずれ、この問題は避けられなくなるのですが、ぎりぎりまで扱わないようにしようとしてきました。

日本人の信仰者や牧師さんの頭の固さ、慣習による呪縛の強さを繰り返し体験してきましたから。自分と違った解読に遭遇すると強迫観念に駆られるようにして非難する癖にも、いやというほど直面してきましたから・・・。
しかしもう始めましょう。

(続きます)

                    
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Vol.181『創主の命令が“いのち”とは?(2)』(12章:最終回)

2006年10月12日 | ヨハネ伝解読


(図は『聖書が面白いほどわかる本』中経文庫より)

                  

~~聖書を読むとき、福音を考えるとき、わたしたちはそこでの鉄則を常時意識しているのが理想です。

 ~~聖書の考えでは、われわれは、広大な創主王国(創造主が王として統治する王国、すなわち天国)の一角にある小さな暗闇(宇宙)の中に生きています。我々から見ると、我々の頭上遙かなところに宇宙の外郭があります。それを越えた外側に、広大な創主王国があって、宇宙を取り囲んでいる。

 こう語っているいま、そういう天国の中の暗闇にわれわれはいるのです。そういう創主王国が有り続けている。そういう感覚が意識に常駐することが理想なのです。

 天の創主王国を統治するのは王なる創造主から出た言葉であって、そこではそれが永遠の法である。その中の一角にあるこの「世」では、人間の作った(悪魔の影響下で)法でもって、統治がなされている。それでもって善悪を考え、適法、合法を考え、裁きをしている。そういうイメージです。

~~そういう「世」に創主の子イエスがやってきて、父であり天国の王である創造主の言葉をそのまま語る。だから彼がこの世に来て語っている言葉は、その創主王国の法そのものである。だが、「世」はその受け入れを拒否する。それを認めない。

~~「世」は一時的なものであって、将来消滅する。すると全空間が天国の法、すなわち、創造主から出た言葉によって統治され、裁かれる(最後の審判)ときが来る。

 この「ヨハネ伝」もそういう世界の中で我々は読んでいるわけです。著者ヨハネもこの意識を維持しつつ書いています。

                  

 では前回の続きを考えましょう。
聖句も同じです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしは自分の権威でこれを語っているのではありません。わたしをこの世に送られた父が、言うべきこと、語るべきことを私に命じられているのです。私はこの命令が永遠のいのちをもたらすことを知っています」(12章49~50節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                  

 前回、徒弟制度における親方と弟子職人の関係を考えました。弟子は親方の言うことなす事の全てを「理解」することはできない。だから弟子なのですが、とにかく、将来成長するまではわからない。

 そのわからない親方の言動を身につけるには、それを命令と受け取って、素直に従うのがいい。そうして、親方に同化するのが親方の技能を“身につける”もっとも効率的な道だ、と申しました。

                  
 
 これは創造主と人間についても同じです。
 もともと、創主は全知者です。それが聖書の鉄則であり、イエスの教えの大前提であります。創主以外の存在が、創主の命ずることを全て理解しようと言うのは、聖書の前提に矛盾した話です。

 だから、創主の命令には、必ず、全部は理解できないところがある。イエスだってそうでした。マタイによる福音書によれば、イエスは、いわゆる大艱難の時が、「何時来るかは、創主だけが知っている、自分にはわからない」と言っています。

 「その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、また子(イエス自身のこと)も知らない。ただ父だけが知っておられる」(マタイによる福音書、24章36節)

    ---が、その聖句です。そういうところがイエスにおいてすらあるわけです。

                  

 されば、創主と一致度を高めるには、命令に従うという方法しかありません。この点、徒弟制度におけると同じです。一致度とは意識の一致度です。父なる創主以外の存在が、自らの意識を創主の意識に最も近いものにする方法、これは命令に従う以外にないのです。

                  

 では、意識が一致すればどうなるか。創主から放射されている「いのちエネルギー」はその存在の霊(意識体)に完全吸収されます。そういう状態が続きます。ということは、永遠にいのちを受け続けると言うことになる。これが永遠のいのちです。

 また、そういう人が病人に手を置けば、そこからいのちエネルギーが病人に向けて流出します。そうすれば、癒されるというのが道理です。いのちエネルギーというのは、創造主が物質を創造する際の源、原料というのが聖書の論理ですから。

                    

<物質はエネルギーの一形態>

 エネルギーと物質は相互に転化する。近代になってアインシュタインはこの法則を見出しました。エネルギーは物質になりうるし、物質もまたエネルギーに転化し得ます。

 そしてその根源形態はエネルギーの方である。アインシュタインはそれを「物質はエネルギーの一形態」という言葉で示しました。

 聖書の思想で行きますと、このエネルギーは、創造主から放射されている「いのちエネルギー」ということになります。

 このエネルギーが流れ込めば、病人の痛んだ身体細胞は更新されます。いたんだ細胞はエネルギーとなって昇華し、注入されたエネルギーが新しく完全な細胞に転化するとイメージしてもいいでしょう。

 これが創主による癒しの物理学的イメージです。これを「癒しは創主の光線」という外国の牧師さんもいます。その光線が通っていくようにするのがヒーラーの仕事だと。その方は多くの人を癒しておられます。この方に脳腫瘍を癒された日本人女性を春平太は知っています。

                  

(“癒し”はいのちエネルギーの流入による>

 こういうと次のような懸念が湧くかも知れませんね。いのちエネルギーが病人に流れ込んでいったら、手を置いた人のエネルギーが少なくなってしまうんではないか、と。確かに流出していけばそうなります。

 だが、その人の意識波動が創主の意識波動に似ていたらどうか。もう一方で、創主から放射され続けているいのちエネルギーが、この人の霊に大量に流入し、充電されていきます。だから、その貯蔵量は何時までも減少することはないわけです。

 これが「永遠のいのち」の意味です。どうして永遠に貯蔵量が豊富なままになるのか。創主の命令に行為を合わせるからです。それによって、創主以外の存在にとっては、出来うる最大の精神的同化を、行うから、ということになりますね。

                  

 イエスにとっては、そういう経過説明は不用でした。彼は、父なる創主の命令というのは、(それに従うことによって)永遠にいのちエネルギーを吸収させるためのチャンスでした。それはまた自分の資産ともなったわけです。

 創主がある人に命令を発するというのは、その人にとってはそういう資産をあたえてもらえる絶好の機会なんですね。イエスにとってはそのことが、あまりにも自明ですから、経過説明など要らなかったわけです。

 だから、「父の命令は永遠のいのち」と、一言で言った。そういうことになるでしょう。それにしても、こうしたイエスの言葉を何十年かたっても忘れずにいたヨハネという人も、ほんとうにすごいですね。

 まあ、聖書の思想では、それは聖霊が可能にしたのだ、ということになりますけれども。そのことは、これから(後の章に)出てきます。しかし、聖書というのは、すごい本ですね。こんな論理体系、人間が頭で考案するなんてありうるでしょうか。

 春平太は、ありえないと素直に思えるんですけどね。もうかなわない、バンザイです。春平太の頭が弱いだけかなあ・・・。

(12章・完)


                    


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Vol.180 『創造主の命令が“いのち”とは?(1)』(12章)

2006年10月10日 | ヨハネ伝解読


 
 前回に解読したことは、福音の鉄則であり、大枠です。

 ~~創造主から出た言葉は、天の創主王国を統治する永遠の法である。その一方で、この「世」で我々は、人間の作った(悪魔の統治下で)法でもって、善悪を考え、適法、合法を考え、裁きをしている。

~~しかし、「世」の法は一時的なものであって、将来消滅し、全空間が天国の法、すなわち、創造主から出た言葉によって裁かれる。そしてイエスがこの世に来て語っている言葉は、その天国の法そのものである。

 聖書によればわれわれはそういう広大な世界の中で生きているわけです。この枠組みは福音の鉄筋構造ともいうべきものであります。福音の細部を検討するときにも、この構造を意識に留めた状態でなさないと、大局から外れた解読、無意味な解読をすることになるでしょう。

                  


 さて、それを踏まえて本日は次の聖句に参ります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしは自分の権威でこれを語っているのではありません。わたしをこの世に送られた父が、言うべきこと、語るべきことを私に命じられているのです。私はこの命令が永遠のいのちをもたらすことを知っています」(12章49~50節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                    

 12章も終わりに近づきました。次回で最終回です。

 49節でイエスは「創主は自分にこう語れと命じられた」と言っていました。それに続いて50章で「創主の命令が永遠のいのちであることを自分は知っている」といっています。

 これはどういうことでしょうね。「創主の命令・イコール・永遠のいのち」とは?
次回と2回に分けて、考えてみましょう。

                  

<命令と説得>

 この解読にはまず、命令という言葉の意味から考えていく必要があるように見えます。命令とは何でしょうか。それは、相手に対して、理解できないところがあってもいわれたとおりに行為することを求める、そういうメッセージですよね。

 「理解できた分だけやってくれ」というのでは、命令ではありません。そういう前提でのメッセージは、命令ではなく、説得であります。

 その場合は、相手はすべてが理解できるまで質問してきます。説得して行動を求める方の人は、説明を加えます。しかし、どうしても理解できないところが残ったら、聞く方はその部分については、相手が求めているように動くことはしません。これが説得です。

                  

この二つを比較することによって、わかってくることがあります。行為を促す方と、促される方との、意識の一致度を比べてみましょう。どちらが高いか。命令に従って行動する場合の方が高いです。

 わからなくても、言われたままにすることでもって、命令を受けた側は、命令を発した側と、より高度に精神的に同化しているのです。

 これが「説得と理解」で行きますと、少し違います。理解できないところは、期待されたようには動かないのですから、両者の同化度、一致度は低いのです。

                  

<徒弟制度の特質>

 この違いは、弟子が師匠から技術を修得する際の姿勢に関係があります。そもそも弟子入りするというのは、師匠は自分を超えたところを持っていると認めるからでしょう。そして超えたところは、言葉で言われても理解しきれないのが多いです。

 そこで師匠は、わからなくても言われたとおりにやってみろ、と言います。やっている内にわかってくるだろう、と。これが同化を通しての修得です。徒弟制度というのは、そういう要素を含んでいる。だから、技術の伝達が速やかに行くんですね。

 ところが、弟子入りしたのに、理解と納得ができなければ言われたようにはしません、というのがいたとします。この弟子は、自己流の中でくるくる回るだけです。師匠が身につけたものを速やかに修得することは出来ません。

 そういう場合、師匠はどうするか。昔は問答無用で殴ったそうです。大工さんの場合は、金槌で頭をこつんとやった。昔は、そうやって弟子を育てたそうです。

                  

<同化が最も効率的>

 小説家になりたいと思う人がいます。なるために最も効率のいいのも、最初にこの同化を行うことなようです。弟子入りしないで、独学で技量を高めようとする場合にも、これはうまい、と思う作家の文章を真似る、写経するのが一番なようです。

 反復していると、不思議に、その人の技量が自分に乗り移ってくるんですね。このようにして、一定の段階まで高速度で技量を上げます。それが済んだら、その上に自分独自のものが積み上がっていきます。

 人間の個性というのは、しぶといものなんですね。誰かを徹底してコピーし、同化しても消滅しない。一定の修得をすると、ある時、自然に登場してきます。だから安心して同化したらいい。このあたりの呼吸が、ものを修得するコツなようです。

 ~~で、次回に続けます。

                    


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