鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す24  ~バージニアを第二の信教自由州に~

2015年05月15日 | 米国への無知を正す






本題に戻る。

他のすべての会派が宗教税制を求める中で、聖句自由吟味主義者だけは、自由献金制制を主張し続けた。

当時、聖句吟味主義者は州議会で単独としては最大会派を形成していたと推察されるが、いかんせん、他の全会派が宗教税を支持するなかでは、劣勢に立っていた。


  
 

だがここでもジェファーソンの経験則「懸命に努め続ける者には幸運が舞い込む」が実現した。
ジェームズ・マディソンと当のジェファーソンその人が劣勢会派の弁護に回ったのである。

別稿でも述べたが、マディソンは「フェデラリスト」という連載で、
中央集権政府でなく、州の独立性も担保した連邦政府の構想を展開していた才筆で、
当時米国の最高の知性だった。

後に彼は、ワシントンの大統領就任演説の草稿も書いてあげている。

ニューヨーク(1789~1790)からフィラデルフィア(1790~1800)へと移った合衆国首都が、
どの州に含まれることもない独立都市としてワシントンDCに設計されていったのも
彼の案による。

ジェファーソンもまた、独立宣言を起草した俊英で、後にワシントン初代大統領の国務長官を、
ジョン・アダムズ二代目大統領の副大統領をつとめ、そして自ら第三代大統領にもなっている。

かれは以前に、聖句吟味主義者が法廷に引き出された裁判を傍聴したときすでに、自由吟味主義者の言い分がは正しいとの認識を持っていた。

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二人は聖句吟味主義者を弁護した。
宗教人と距離を置いた位置にある二人の政教分離必要論には、説得力があった。

政教分離思想を理解する人が徐々に増えていった。
一定数の長老派牧師や一般信徒も支持に周った。
すると流れが変わり、ついに聖句吟味主義者の案がバージニア議会で承認された。
時は1785年、2年後には憲法制定会議が始まろうとしている年だった。



<バージニア州議会として活動可に>


合衆国憲法が制定され、それに信教自由条項が挿入・修正される前にバージニアに政教分離が確定したのである。
すでに120年前に、ロードアイランド州にそれは実現していたが、バージニア州での政教分離の実現は大きな意味を持っていた。

この州は、それにマサチューセッツ州とニューヨーク州を加えると、人口が全米13州の半分を超えるという強大州だった。
加えて、旧王領植民地だったこともあって、知性豊かな人材がそろっていた。

その面において、同じ信教自由州のロードアイランドを凌駕していた。

バージニアでは、政教分離の議決がなると、言論を罰する法律はすべて廃棄されていった。
そうなっても、恐れていた州民の無政府主義化は起きなかった。

これら一連の働きで、バプテスト聖句吟味主義者への信頼は急増した。

かくして、聖句吟味主義者は州政治の主導権を手中に収め、対外的に「バージニア州議会の衣装を着て」その主張を表明することが可能になった。

バージニアはロードアイランドに代わって聖句吟味主義者の活動本部となった。

彼らは、憲法制定会議の段取りと、そこで提出すべき憲法草案の作成にとりかかった。
憲法制定会議開催の根回しをし、二年後の1787年にそれを実現し、かつ、その重大会議を主導していったのだ。





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