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=聖句=
「いまこれからはこの世が裁きを受ける時です。
この世の君が追い払われます」(12章31節)
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前回の続きです。聖句は前回と同じです。
「この世が裁かれる」の「この世」とは、悪魔の支配下にある世ですよね。
ですからこれは要するに「悪魔が裁かれる」と言うことであります。
えぇっ? 悪魔って裁かれてなかったの?
裁かれてなかったんですよ。どうしてって、証拠を出してないからです。
悪魔への裁きが可能になるのは、創主に「敵対し刃向かう」という本性を
彼が証拠として明確に見せたときであります。
サタン天使は、天の創主王国のなかで、自分が創主のように賛美される世界をつくろうとしました。
そうするとき彼は少なくとも、創主から意識をそらしています。
創主から意識をそらせば、創主から放射されている「いのち」というエネルギーは霊に吸収・充電できなくなるのが聖書の論理です。
アダムもイブも(従ってその霊を受け継いでいる後の人類も)そうなって充電不全に陥ったというのが聖書の思想です。
サタンもそうです。
しかしこのサタン天使の場合は、意識をそらすだけにとどまってはおりません。
創主の世界と同じ形に自分のワールドをつくろうとした。
創造主が王として統治している王国である天国、ここの中に作ろうとした。
これはもう「対抗」です。
アダムもイブもそういう世界を作って創主に「対抗しよう」とまではしませんでした。
「知恵の木の実を食べたら創主のように賢くなれるよ」と欺されて食べただけでした。
このサタン天使の場合は、自分の世界を作ろうとしています。
これはもう対抗です。
そういう意識を持つと、いのちエネルギーの充電度は、不全になってゼロに向かうだけでなくなってしまう。
ゼロ点を通り過ぎてマイナスになっていく。こうイメージしたらいいのではないでしょうか。
イメージしやすいように、グラフで示してみました。
横軸の左の端は、エデンの園で「知恵の木の実を食べる」という罪を犯していない前のアダムの霊の状態です。
いのちエネルギーの充電度は100%、完全充電です。
ところが食べた後は、横軸の右の方に移動します。
つまり、充電が不完全化していく。
かなりゼロ点に近づいているのが現代の人類の霊状態ではないか、ということでそのあたりにいまの「人間」を位置づけました。
ところがサタンは更に右の方で、右の端に位置しています。
創主に「対抗」するんですからもう、いのち充電度はゼロを通り過ぎてマイナスに向かいます。
その端っこはマイナス100%です。いのちのマイナス100%。
で、「いのち」のマイナス値は「死」ですよね。
「いのちエネルギー」の反対は「死のエネルギー」です。
ですから、サタンの霊のいのち充電度がマイナス100%ということは、
死のエネルギーの充電度がプラス100%ということです。
サタンは死のエネルギーに充ちた存在です。
この霊は、いのちエネルギーを吸い取ってしまいます。
そして被造物に死をもたらすことが出来る存在。
だからサタンは「死の権」をもつもの、という道理になってます。
これが聖書の論理です。
霊は意識の本体です。
その意識のあり方は、いのちエネルギーの充電度で決まります。
充電が低ければ、ますます創主から離れた意識状態になりやすい。
ところが、悪魔の場合、低いなんてものじゃない。
創主の世界のような世界を自分のものとしてつくろうとする。
これは特別です。充電度がマイナス100%、死のプラス100%です。
この状態は創主と対極のものです。だからその意識は、おしなべて創主に敵対するものとなるのです。
創主は自ら幸福そのものな方で、人間にそれを分かち与えようとする。
すると悪魔は、それを妨げ人間に不幸をあげようと奮闘する。
うまく不幸に出来ると快感を得る。にやりと笑う。そういう図式です。
悪魔はそういう本性になっています。ただしまだ、創主に敵対する行動は表に出ておりません。
そこに創主の子イエスがやってきます。そして、天国と同質の空間をこの世に作り始めます。
それがイエスによって「御国」がやってきた、ということです。
牢の中の支配者である牢名主は、そこに自分の支配の及ばない空間ができるのを許すことは出来ません。
断固、排除せざるを得ません。
排除すると言っても、イエスは元いたところに帰ってくれませんので、これは殺すしか有りません。
悪魔は、本性上、これを殺してしまおうという意識を持ってしまうことになるのです。
本性がそうですから。
実際にはユダヤ人の意識に働きかけて、イエスを殺してしまいます。
これによって、悪魔の本性の証拠が現れてしまいます。
殺したらもう、容疑者は「そんなつもりはないよ。勝手に推察しないでよ・・」とうそぶいても通らなくなる。
言い抜けは通用しなくなります。すなわち、それでもって裁きは確定するのです。
イエスを殺すという行為によって、前々からあった容疑は証拠づけられる。
かくして裁きは「有罪」と決定するわけです。
12章の場面に戻ります。
悪魔は、すでにイエス殺しをするしかなくなって、動いています。
イエスは、それに敢えて抵抗をしません。殺させて証拠を挙げようとします。
だから「今この世(悪魔)が裁かれる時が来た」といっているわけです(31節)。
なおこの機会に付言しますと、
世というのは悪魔の支配下にある世界であり、悪魔の性質が行き渡っている空間である、というのは聖書の基本理念です。
様々なドラマは、この舞台の上で展開しているわけです。
ところがそういうイメージは、クリスチャンや牧師さんのなかにほとんど出来ていないことが多いんだよね。
そうするとキリスト教が「愛、愛・・・」とか、「神は愛です・・」とかだけを叫んでいるようになります。
そして、秋田の「幼児連続殺人事件」や「プール吸水口での幼女死亡事件」のような幼い子供の悲劇ニュースを耳にすると
「神様の思し召しがわからなくなった・・・」という。
悪魔論のないイメージ世界でやっているから、嬉しいことも悲しいこともみんな神様から来るもの、と思うしかなくなってるんですね。
これも知的な一般人にとってキリスト教が、かったるいものになっている理由です。
ホントに「かったるくてつきあっておられない」と言ってたビジネスマンがいたもんね。
むかし、「クリープを入れないコーヒーなんて・・・」というCMキャッチフレーズがありました。
クリープだけじゃないよね。「わさびを入れないお寿司なんて・・・」ピリリとしたところがなくて、かったるいよね。
「悪魔論のないキリスト教」もおんなじことになるんですね。