鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.171『裁きの証拠と、コーヒーのクリープ』(12章)

2006年08月31日 | ヨハネ伝解読
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「いまこれからはこの世が裁きを受ける時です。
この世の君が追い払われます」(12章31節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 


 前回の続きです。聖句は前回と同じです。

 「この世が裁かれる」の「この世」とは、悪魔の支配下にある世ですよね。
ですからこれは要するに「悪魔が裁かれる」と言うことであります。
 
 えぇっ? 悪魔って裁かれてなかったの?
 裁かれてなかったんですよ。どうしてって、証拠を出してないからです。
 悪魔への裁きが可能になるのは、創主に「敵対し刃向かう」という本性を
彼が証拠として明確に見せたときであります。

                 


 サタン天使は、天の創主王国のなかで、自分が創主のように賛美される世界をつくろうとしました。
そうするとき彼は少なくとも、創主から意識をそらしています。

 創主から意識をそらせば、創主から放射されている「いのち」というエネルギーは霊に吸収・充電できなくなるのが聖書の論理です。
アダムもイブも(従ってその霊を受け継いでいる後の人類も)そうなって充電不全に陥ったというのが聖書の思想です。
サタンもそうです。

 しかしこのサタン天使の場合は、意識をそらすだけにとどまってはおりません。
創主の世界と同じ形に自分のワールドをつくろうとした。
創造主が王として統治している王国である天国、ここの中に作ろうとした。

 これはもう「対抗」です。
アダムもイブもそういう世界を作って創主に「対抗しよう」とまではしませんでした。
「知恵の木の実を食べたら創主のように賢くなれるよ」と欺されて食べただけでした。

 このサタン天使の場合は、自分の世界を作ろうとしています。
これはもう対抗です。
そういう意識を持つと、いのちエネルギーの充電度は、不全になってゼロに向かうだけでなくなってしまう。
ゼロ点を通り過ぎてマイナスになっていく。こうイメージしたらいいのではないでしょうか。

                 


イメージしやすいように、グラフで示してみました。
横軸の左の端は、エデンの園で「知恵の木の実を食べる」という罪を犯していない前のアダムの霊の状態です。
いのちエネルギーの充電度は100%、完全充電です。

 ところが食べた後は、横軸の右の方に移動します。
つまり、充電が不完全化していく。
かなりゼロ点に近づいているのが現代の人類の霊状態ではないか、ということでそのあたりにいまの「人間」を位置づけました。

 ところがサタンは更に右の方で、右の端に位置しています。
創主に「対抗」するんですからもう、いのち充電度はゼロを通り過ぎてマイナスに向かいます。
その端っこはマイナス100%です。いのちのマイナス100%。

 で、「いのち」のマイナス値は「死」ですよね。
「いのちエネルギー」の反対は「死のエネルギー」です。
ですから、サタンの霊のいのち充電度がマイナス100%ということは、
死のエネルギーの充電度がプラス100%ということです。

 サタンは死のエネルギーに充ちた存在です。
この霊は、いのちエネルギーを吸い取ってしまいます。
そして被造物に死をもたらすことが出来る存在。
だからサタンは「死の権」をもつもの、という道理になってます。
これが聖書の論理です。

                 


 霊は意識の本体です。
その意識のあり方は、いのちエネルギーの充電度で決まります。
充電が低ければ、ますます創主から離れた意識状態になりやすい。

 ところが、悪魔の場合、低いなんてものじゃない。
創主の世界のような世界を自分のものとしてつくろうとする。
これは特別です。充電度がマイナス100%、死のプラス100%です。

 この状態は創主と対極のものです。だからその意識は、おしなべて創主に敵対するものとなるのです。
創主は自ら幸福そのものな方で、人間にそれを分かち与えようとする。
すると悪魔は、それを妨げ人間に不幸をあげようと奮闘する。
うまく不幸に出来ると快感を得る。にやりと笑う。そういう図式です。

                  


 悪魔はそういう本性になっています。ただしまだ、創主に敵対する行動は表に出ておりません。
そこに創主の子イエスがやってきます。そして、天国と同質の空間をこの世に作り始めます。
それがイエスによって「御国」がやってきた、ということです。

 牢の中の支配者である牢名主は、そこに自分の支配の及ばない空間ができるのを許すことは出来ません。
断固、排除せざるを得ません。
排除すると言っても、イエスは元いたところに帰ってくれませんので、これは殺すしか有りません。

 悪魔は、本性上、これを殺してしまおうという意識を持ってしまうことになるのです。
本性がそうですから。
実際にはユダヤ人の意識に働きかけて、イエスを殺してしまいます。
これによって、悪魔の本性の証拠が現れてしまいます。

 殺したらもう、容疑者は「そんなつもりはないよ。勝手に推察しないでよ・・」とうそぶいても通らなくなる。
言い抜けは通用しなくなります。すなわち、それでもって裁きは確定するのです。
イエスを殺すという行為によって、前々からあった容疑は証拠づけられる。
かくして裁きは「有罪」と決定するわけです。

                 


 12章の場面に戻ります。
悪魔は、すでにイエス殺しをするしかなくなって、動いています。
イエスは、それに敢えて抵抗をしません。殺させて証拠を挙げようとします。
だから「今この世(悪魔)が裁かれる時が来た」といっているわけです(31節)。

                   


 なおこの機会に付言しますと、
世というのは悪魔の支配下にある世界であり、悪魔の性質が行き渡っている空間である、というのは聖書の基本理念です。
様々なドラマは、この舞台の上で展開しているわけです。

 ところがそういうイメージは、クリスチャンや牧師さんのなかにほとんど出来ていないことが多いんだよね。
そうするとキリスト教が「愛、愛・・・」とか、「神は愛です・・」とかだけを叫んでいるようになります。

 そして、秋田の「幼児連続殺人事件」や「プール吸水口での幼女死亡事件」のような幼い子供の悲劇ニュースを耳にすると
「神様の思し召しがわからなくなった・・・」という。
悪魔論のないイメージ世界でやっているから、嬉しいことも悲しいこともみんな神様から来るもの、と思うしかなくなってるんですね。

 これも知的な一般人にとってキリスト教が、かったるいものになっている理由です。
ホントに「かったるくてつきあっておられない」と言ってたビジネスマンがいたもんね。
むかし、「クリープを入れないコーヒーなんて・・・」というCMキャッチフレーズがありました。
クリープだけじゃないよね。「わさびを入れないお寿司なんて・・・」ピリリとしたところがなくて、かったるいよね。
「悪魔論のないキリスト教」もおんなじことになるんですね。

                  

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臨時版:福音から悪魔論が抜けていく理由

2006年08月27日 | ヨハネ伝解読
 「ヨハネ伝解読」ここで一息ついて考えておくべきことがあります。

                 


 十字架死に向かって進むイエスが、弟子たちになす教えはどんどん深くなっていきます。
天使から悪魔に関する話にまで入ります。
そこで悪魔についても論じざるを得ないのですが、これは読者の方にはあんまり歓迎されないんですね。

 この原因は、結構深いところにあります。
いうなれば、「悪魔に関する論議は福音から取り除かれる傾向が強い」んですね。おもなる理由は二つあります。

                 


<天使論が前提になる>

 一つは、悪魔論を考えるには天使論が十分吟味されていることが必要であることです。
聖書では悪魔は天使が変質した者という思想ですからね。
ところが天使というのは、通常あまり考察されてきていないんですね。
天使とはどういう存在かがはっきりしていない。必然的に、悪魔論も明確なものに成りがたいです。

 そこで、まあ、そういう部分はなるべく避けましょう、とされる傾向が大きいんですね。

<対処策なしだと気持ちが暗くなるのみ>

 しかし、直接効いているのは、もうひとつの理由でしょう。
それは、「悪魔についての知識には、これに対処する政策論が伴うことが必須」だと言うことです。

 聖書では悪魔は、人間に不幸をもたらすのが楽しみで、うまくいったら快感を得る存在です。
だが、その中身の知識を具体的にあれれこ聞いているだけでは人は恐怖感が募り気持ちが暗くなるだけなんですね。
自然の情としてそうなります。

 やはりそれにどう対処できるか、の知識がセットになって伴っていないといけない。
それが同伴していないと、悪魔に関する知識が増すほど心情的に暗くなるのみ、怖くなるのみです。

 だが、確信ある打開策を見出すのは難しいんですね。
そこで、福音を語るときには、悪魔の話はやめよう、ということになりがちなんですね。

                 


<結論だけだが・・>

 だけど、12章からのイエスの教えには、「創造主・対・悪魔」という背景が明確に浮かび上がってきます。
これを避けて解読をするわけにはいけません。
そこで、何らかの対処策を提示しておかねばなりませんが、これは大仕事です。

 悪魔のわざに対処するには、通常は、霊的な力が必要になります。
ところが霊力とか霊感とかいうものには、素質上の個人差があるんですね。
努力である程度いける範囲もありますけれど、限度があります。
ベニーヒンとかキャサリン・クールマンとかオーラルロバーツなんて存在は、そうたくさん出るわけでもありません。

 「対処するにはベニーヒンクルセードに行きなさい」なんてのも対処策になりません。
特別に霊力に恵まれなくても、創主を信頼する個々人が自ら対処できるなにかが必要なんですね。
それを巡って全クリスチャンは一度聖書解読を本格的にやる必要がある。春平太はそう思っています。

 で、鹿嶋もこれまで探求してきているんですが、まだ、不十分です。
だけどここでなにもないんでは、これからしばらくの「ヨハネ伝解読」は、読んだ人を苦しくさせるだけ、
となりますので、不完全ながらも出しておきましょう。結論のみを。

 当面の結論は、

  「(イエスの名のもとに)イエスの血を唱える」

                    ~~です。

 「イエスから流れ出た血を繰り返し宣言すること」がかなり有効だという証言が少なからずあります。
これをすると、その人の周囲から呪いが消散していき、また、悪しき者からの呪いがそこに入れなくなる~~という論理です。

 たとえば「マクスウェル・ホワイト『イエスの血の力』オアシスクリエイト刊」、
英書では Larry Huch著,“ Free at Last”, Larry Huch Ministries刊、などがそれを記しています。
神学的な解読がもうすこし充実したら、鹿嶋もその聖句上のつながりを、またここに書きたいと思っています。

                 

<病気も神様が与える?>

 ともあれ、現状では、語られるほとんどの福音が、悪魔論をすっぽり抜いたものになっています。
それによって福音から暗さはなくなっていますが、問題も生じています。

 悪魔を無いことにすると、人間に影響を与えるところの、おもなる霊的な存在は神様だけとなります
(天使も霊的存在ですが、これは創主のみ旨にそって働きますので、創主と一つにして考えていいのです)。

 そうなりますと、目に見えない事象の原因を霊的に考えるとき、みな神様に持って行くことになります。
論理的にそうなるのです。

 病気に関してもそうなります。
難病にかかったクリスチャンが、「これは神の与えた試練です」といっている光景をよく目にできます。
「神様は、病気も与えるの?」という疑問も出るでしょうが、
おもなる霊的な存在が神様だけだったら、論理的にそうしかなりませんから、どうしょうもありません。

                 


 だけど、「創造主は人間に病気も与えるかどうか」というのは聖書解読の上でも大きなテーマですよ。
そう簡単に結論していいものでしょうかね。

 それに、この世のことがみんな神様から来るものだとすると、おかしなことも起こりやすいです。
難病の本人が「私の病気は神様が与えてくださったものです、すべてに感謝です」といってる一方で、
教会では「彼の癒しを求めてみんなで祈りましょう」なんていって、祈っている。

 これでは神様も困るんでして、

 「お前ら、病気が欲しいのか要らないのかどっちなんだ!」

            ~~~となるでしょう。
さらに、教会でみんなが彼の「癒し」を祈って、それを本人が感謝してるとなったら、これはもうオチにもなりません。
やはり悪魔論がないと、福音も矛盾を内包していくことになるんですね。



                  




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Vol.170『この世は悪魔の支配下』(12章)

2006年08月25日 | ヨハネ伝解読
「ヨハネ伝」にもどります。
12章の終わりまで続けて、また他の話題に転じようと思っています。
(本文を開いて、図が大きすぎる場合は、開く前に図だけをクリックして見てください。)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「いまこれからはこの世が裁きを受ける時です。この世の君が追い払われます」(12章31節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 


 12章30節で、雷のように天に響き渡った声を、イエスは「この声は私のためでなく、あなたがたのためのものだ」といった、とヨハネは記しています。

どういうことでしょうね。イエスはこれを、「私を元気づけるためのものではないよ、諸君がこれから起きていくことを納得できるように諸君の耳に聞こえるように示されたものなんだよ」と言っているんではないでしょうか。であれば、これも「しるし」すなわち奇跡的な出来事ですね。「奇跡」は、見えない世界のことを受け入れやすくするものですからね。

                 


 本日の聖句はその次です。ついでイエスはこう言っています。「今この世が裁かれるときがきた。この世の君(支配者)が追い払われます」と。

 突然何をおっしゃいますか、死を前にして思考が飛躍しちゃったのですか!・・・とも言いたくなるところですが、実はこれは聖書の物語の基底に横たわる大前提を踏まえた言葉です。聖書には暗黙の大前提がある。それはこの世は暫定的に悪魔の支配下にあるという思想です。その、通常は暗黙になっているところを、イエスは明確に言葉にしたのです。

 ここからイエスの教えは、一段と深く、霊的な領域に入っていきます。

                 


 ここで「この世」とは我々の通常言うところの宇宙が対応しています。図に見るように宇宙は天の創主王国の一角につくられた暗闇という思想です。創主から与えられた職務に「背いた天使」がいた。創主は「暗闇の空間」をつくり彼らはそこに追い落とされた、というストーリーが聖書には埋め込まれているのです。時期的には聖書の「創世記」の冒頭に記された出来事以前の話となります。

 このあたりについては、春平太の著書にある「聖書の空間理念」をご参照下さい。ここでもその図を冒頭に出しておきました。どういう論理でこういうイメージ図になるかは『誰もが聖書を読むために』(新潮選書)をご参照下さい。

 ともあれ、その暗闇に、「背いた天使」の長とその部下たちは追い落とされるのです。そして、裁きの時までそこに閉じこめられている、というのが聖書の思想です。

                 


 その天使長は創主に反抗することによって悪魔に変身(その構造は後に述べます)しています。これが聖書におけるサタンのイメージです。彼は反抗することによって、創造主に刃向かう性質を持つように変質してしまっているのです。

 だが、その性質はまだ具体的に「刃向かう」行為となって表に現れてはいません。証拠は出していない。創造主は「理」と「義」で行動する方ですから、被造物を裁くにも、筋道だった方法でしか行えない道理です。

 だから現段階ではサタン天使は容疑者です。そういう容疑でもって、悪魔と彼に従った部下の天使たちは牢屋に閉じこめられているのです。そしてこの牢屋が宇宙(世)、という論理になっています。

<牢名主は牢の中の支配者>

 悪魔は、その裁きの時までは、そこでの牢名主です。牢名主は牢屋の中では親分です。彼は牢名主として認められた資格の範囲でもって、この世(宇宙)の中で君臨しています。だから「世の君」なんですね。

 このあたりは創主も容認しているという論理です。しかし、その牢を含めた全てを究極的に統治するのは、創造主です。牢の中でのこと以外では悪魔の支配権は通用しません。また、牢の中でも、究極の王様である創造主やその御子には彼の支配権も通用しません。

 そういう状態で、悪魔は一時的に牢名主としての振る舞いを認められている。その中に、創主はどういうわけか人間を創っているんですね。だから、人間も彼の支配する世界の中にあります。

 でも、罪を犯す(創主から意識をそらす)以前には、悪魔も人間を支配の下に置くことが出来ませんでした。アダムとイブが罪を犯してからは、悪魔の支配権の中に入って、蹂躙されうる状態にある、という風景です。

 で、そこにいま、人の姿をとった御子イエスが来ている。~~これがこの12章の時点での聖書の持つ世界構図なのです。福音書の話はその基本枠の中で展開しているのですね。

                 


 なお、「この世の君が追い払われます」については、後に解読します。君というのは君主、すなわち、支配者と言うことですが、これが追い払われるというのはどういうことかを言うには、少しスペースが必要になりますので。

                 
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臨時版:聖句主義と教理主義

2006年08月22日 | 聖句主義と教理主義
 またまた臨時版で~す。


 この臨時版は、前の回の「ヨハネ伝解読」でのコメント欄の続きを、
本文に持ってきたものです。
この「チャーチ」の基本スタンスを知る上でとても大事なことに思いますので、
もう一度繰り返して書いておこうと思います。
じゅんこさんのコメントに対する応答という位置づけです。

                


<聖句主義①>

 聖句主義とは、英語ではBiblicismといいます。
そのまま訳すと聖書主義にもなるのですが、それですと、後に述べる「教理主義」の人も
「私も聖書主義ですよ」と言うことが多くなりますので、
あえて「聖句(聖書に書かれている言葉そのもの)」主義と鹿嶋は訳すのです。
 これはイエスの教えに関する正否の判断の最終的なよりどころを、聖句に置くという行き方です。

<教理主義①>

 教理とは聖書の解釈のことです。教義ともいます。
 聖書の解釈はいろいろにできます。ほとんどの場合に、複数の解釈が成り立ちます。

教理主義ではそのうちの一つ(の解釈の言葉)を正統なものと決めます。
誰が決めるかというと、教団の本部にいる上層部の人が決めます。
そして、この解釈(教理)が正統ということでもって、
教理書をつくってキリスト教活動をやっていこうという行き方が「教理主義」です。
 米国でも、過半数がこの方式の教会です。
(これが聖句主義の影響を地盤から受けながらやっているという風景です)

                  

<聖句主義②>

 聖句は実に様々に解釈できます。
その真意を探求すればするほど、短い人間の人生では「これこそ正統」という解釈に
行き着くことは不可能とわかります。
それでも色々みんなで探求しているうちに、各々が納得した解読分だけ聖句がわかるだろう
~そういうわかりかたでいこう、という行き方です。

 そういういきかたが最大に効果を上げるには、個々人の聖句解釈を
自由にしてあげるのが必要です。
そこで「聖書解釈の自由」という原則を自覚的にたててやります。

<教理主義②>

 キリスト教活動の最初は、みな聖句主義でした。
「使徒行伝」に出てくる初代教会の時代は、みな聖書解釈の自由でもってやっていました。
しかし、この方式ですと、教団に統率がとりにくい、ということで、教理主義でやるグループも出てきました。
もう、教団として正しい解釈(の言葉)を一つ定めて信徒にはそれを教えてやっていこうという行き方です。
 信徒さんにもその方を好む人がいたようで、こちらの教会も繁盛しました。

                


<教理主義は聖句を吟味しなくなる>

 教理主義ですと、聖句を吟味しなくなります。なぜ?
聖句を吟味するのは、それがどういう意味かを理解したい、
すなわち妥当な解釈を求めたいからでしょう。

だけど、正統な解釈がもう決まっていたら、吟味する必要有りますか?
ないですよね。聖書を読む必要がない。だから、聖句を探求しなくなります。
教理書は読むかも知れませんが、聖書は読まなくなります。
これは自然にそうなりますよね。

<聖句主義は吟味をし続ける>

 聖句主義は逆に、聖句を吟味し続けます。
指導者も「この解釈が正統」という結論を出しませんので
(当人としては、その時点での確信あるものをもっていますけれども、
集団としての結論を出させない。そういう知恵です)、
結局みんなで各々聖句をああでもない、こうでもないと探求することになります。

 そのことを強調するために、鹿嶋は聖句「探求」主義とあえていうこともあります。
聖句主義で行けば、これもごく自然に、聖句「探求」主義になりますからね。

                


<聖句主義と教理主義は絶対に相容れない>

 聖句主義と教理主義が両立することは絶対にあり得ません。
このこと、じゅんこさん、以上の説明でおわかりになるでしょうか?
 ここがポイントなのです。

 聖句主義は、個々人の「聖書解釈の自由」を認め、大原則にします。
教理主義は個々人がそういうことをするのを許しません。
正統な解釈がもう決まっているのですから。
あとは教団の教理書(解釈書)を学習すればいいのですから。
だから、教理主義者は聖句主義者を撲滅しようとしていきます。
これも自然な流れです。

                


<日本人は無意識の教理主義者>
 
 日本の信仰者は、そういうことを自覚していません。
最大の理由は、日本にはまだ教理主義のやり方しか入っていないことにあります。
聖句主義は日本にはまだ入っていないのです。

 照らし合わせるものがありませんので、
自分たちのしていることが特徴あるものだという自覚すら出来ないのです。
(鹿嶋はそれを知らせるために『キリスト教のことが面白いほどわかる本』中経出版、を書きました。
じゅんこさん、よかったらお読み下さい。
たしかテキサスの方に、日本の商品をとってくれる通信販売業者がありました)

 世界が女ばかりで出来ていたら、女は自分が女であるということを自覚できません。
日本に教理主義だけしかなかったら、教理主義者は自分が教理主義でやっている
という自覚が持てません。

 それでいて、実際には教理主義でやっている。
 だから、じゅんこさんが通われた日本の教会のようなことが
(元旦に親族の会合に行ったらもう送り迎えしないというような)、
ごく自然に起きるのです。

教職者の方々は、一つの解釈を正統で、他は正統でない(異端)と信じるのです。
聖書を信じるのではなく、自分の解釈を聖句の代わりに信じるのです。
そして信徒をきつく縛ります。

 カトリックが国教だった欧州では、縛るどころか、宗教裁判にかけて火あぶりにしました。
それを自分が「神に奉仕している」と信じて行いました(イエスが預言した通りのことです)。
いま、火刑にはしないけれど、質的には同じことをやっています。

今も異端尋問所も異端審問官もあるそうです。
ちなみに、今の法王は異端審問官の出身だそうです。
ドスの効いた話ですね。

                



<聖句主義の行き方をよく知った上で>

 じゅんこさんは、好奇心の強い純朴な方だと感じます。
しかし、その状態のままで鹿嶋の解読に伴走してこられますと、
それを、正統な解釈だと受け取りつつ進まれる可能性があります。

 あるいは、「何か最終的に正しい解釈が人間に得られるだろう・・」
という意識を持ちつつ伴走されるでしょう。
すると、解読が進んでいくと、「もしもこれが正統でなかったら、自分は救われないのでは・・・」
という不安が早晩やってきます。
するともうシュリンクしてしまう。
「福音の自由」は無くなってしまいます。

 おまけに、もう何が正しい解釈だかわからなくなって、精神混濁の状態になります。
こんなことなら「十字架で救われた」といった初歩的な解釈だけ知ってる方がよかった・・・、
ということになります。

 ~~それは春平太が最も避けようとしていることなのです。

 鹿嶋が、コメントの最後に書いた~~

>鹿嶋の「当面の」見解は以上です(また、新しい眼が開けるかも知れません)。

~~という言葉を、読み流してくださってはまずいです。
鹿嶋の解読でじゅんこさんが目を開かれるところがあっても、
それも春平太に「当面」見えていることにすぎない、と把握することをこのチャーチは求めます。
聖句主義だとそうなるのです。そして、それは春平太チャーチのよって立つ足場なのです。

                


<聖句は誰にでも解読できていく>

 聖書に書いてあることは、人間の根本に関わることです。
「自分は何故存在するか、何のために生きるのか、
自分をとりまく世界はどうなっているのか、死んだらどうなるのか・・・」
~~これらは、人間幼い頃から誰もが抱く疑問です。

 聖書には、それへの応答が書かれています。
ですから、誰にでも一定の理解(解釈)が出来る内容のものです。

ただ、その解読の度合いが、人によって少し進んでいたり、初歩的であったりするだけのことです。
進んでいたって、みな「その時点でのもの」でして絶対の正解ではありません。
だから他者の解読は自分の解読を進める上で、助けにするだけでいいのです。
そして、時間がたったら、その解読の未熟な面も見えてきますので、
その時は、自ら進んだらいいです。

たかが人間のやる解読に、心酔したらいけません。
初歩的でいいから自分で考えていく。まずこのスタンスをしっかり維持することです。
その上で他者の解読をつまみ食いすべきです。

 初歩的であっても、各々そういう段階からマイペースで段々と深めていくのが聖書です。
それ以外に、「身についた」聖句解読は出来ないと思います。
だから、どんな初歩的にな人でも、その人のペースで進ませるべきなのです。
自分自身もそうすべきです。ここに「聖書解釈の自由」の神髄があります。

                


<論理力の源も聖句主義に>

 じゅんこさんは、観察力のすぐれた感性に恵まれた方だという印象を受けます。
そういう人は、受信内容がとても豊富になりますから、
これを論理的に整理するのに苦労します。
つまりその分、論理力、知力も訓練してあげねばならなくなるのです。

 その訓練に世界最高の方法があります。それが聖句主義による聖書探求です。
これ、理屈でなく、鹿嶋春平太、一年間現場で確認したことです。

だけど、理屈でもわかることですよね。
人間が心の一番奥深くに抱いている問題を、聖書を手がかりに言葉で整理していくんですから・・・。
もやもやしていた意識の最深部が言葉にされ明確化されていく。
こうして意識の根底がすっきりしていきます。


                    


 これが人の知力を基底から高めていくのです。
日本人の知力水準向上の鍵も、聖句主義で聖書を楽しむことがどこまで普及するか
にかかっていると、春平太は確信しています。

 聖句を自由に、マイペースで少しずつ解読されていく楽しみを味わわれたら、
ごく自然に、じゅんこさんの論理整理力も向上していくこと請け合いです。
努力などしなくても、自然に上昇していくのです。
また、そうなれば、同じ足場に立つ日本人が一人増えたことになり、春平太もjoyfulです。


            (またまた臨時版でした)


                




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Vol.169『しるしの多くは天使が実施』(12章)

2006年08月17日 | ヨハネ伝解読

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「そこに立っていた群衆のあるものは、これを聞いて『雷が鳴った』といった。他のものは『天使が彼に話しかけた』といった」(12章29節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                


 前回ヨハネは、「私は栄光を与えてきたし、これからも栄光を与える」という声が天から響いてきた、と記していました。今回は、これに対する群衆の反応です。

 ある者は「雷が鳴った」といった、とヨハネは記している(29節)。このことから我々もどういう響きだったかが想像できそうです。雷がゴロゴロと轟くような音だったんですね。

 また「他の人はこれを『天使の声だ』といった」とヨハネは記しています。実際には、どうだったと解すべきでしょうか。鹿嶋は天使だろうと思います。

                


 雷ならゴロゴロというだけで、その音に意味はありませんよね。だが、これは意味を持った言葉としての音ですから、少なくともこれはなにか霊的な存在が発した声であるとすべきでしょう。

 ではどんな霊的存在か。聖書で霊的存在とされているのは、創造主と天使と人間です。そのうち人間は肉体を持っていて重いですから、空でもって声を発することは出来ません。創造主はどうか。具体的には「父なる万物の創主」と聖霊がそれに当たるのですが、どちらも可能性は少ないでしょう。

 聖書の思想では万物の王でもある創造主は、自ら地表近くにやってきてこういう細かい働きをすることはあまり考えられません。聖霊もまた自らこういう動きをしないでしょう。ここでは聖霊が、天使に命じてさせたというのが最もありそうです。


 聖書では「ゴッドがなさった」と記してある場面でも、実際には、天使にさせたという解釈する方が妥当なところがたくさんあります。癒しもそうですね。人の身体の病の部分は汚いことがよくありますよね。聖霊は高貴な方ですから、みずからそういうところに手を出すというのは筋が通りにくいのです。

 で、天使に命じます。天使は火にもなり、風にもなる力ある霊です。病の部分を癒す力も持っているはずです。このように通常、霊的な働きをするのは天使であるとする方が筋が通るのです。

                


 こういう解読を妨げるのは、我々に与えられてきている天使の絵でしょう。たとえばまるまる太った赤ん坊に羽が生えたよう絵がありますよね。キャラメルの箱に付いているやあつ・・・。私たちは子供の頃から、あれを天使だと教えれてきました。

 だけどあれは違いますよ。あれはキューピットという、ローマの神話に出てくる全く別の存在です。これをエンゼルマークとかいってキャラメルに付けた製菓会社も責任大きいなあ。こういうことするから我々は天使というとそういうものをイメージする習性が出来てしまっています。

 聖書における天使は霊的存在ですから、背中に羽根など付けなくても空を飛ぶことは可能です。大人の男性に羽根を付けた絵も、聖句を読まない人向けのものですね。

 天使は霊ですから、通常目に見えません。そうしたなかで、時に応じて人間の目に見える存在に変身することも出来ます。様々に変身するとは言いますが、ホームポジションというか、原型はあるのではないか。原型は人間と同じ形ではないか、と鹿嶋は推定しています。

 ともあれ天使は、すなわち「天(創主)の使い」です。創主の命令に従って働くのを本分として創られた被造霊です。ですから、雷のような音は天使が立てた、というのが、いちばん妥当な解読だと思います。

                

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臨時版:旧約聖書の上手な解説

2006年08月15日 | ヨハネ伝解読

旧約聖書の知識をとてもわかりやすく解説してくださっているブログを見つけました。関西弁が驚くほど効果的ですね。絵もわかりやすいなあ・・・。

                 


これも鹿嶋のブログにないものです。鹿嶋チャーチは新約聖書中心のブログですので。旧約聖書は新約の解読に関連のあるところを拾い上げる方式でやりますから。

http://blogs.yahoo.co.jp/squawk_roko/36377398.html

今回も、SAITOHさんのブログ(ブックマークにあります)人脈からたどりました。Sabiaさんともいいますが、この人のヒューマンネットワークは今や一つの資産ですね。お人柄でしょう。クリスチャン交信のハブのような存在になってきておられます。

                 


お使いの Yahooのブログは人々の交信が進むように設計されているようです。鹿嶋はもう新しいブログ使用のマニュアルを習得する意欲が無くて、gooにお世話になり続けていますが。

                 


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Vol.168『父の名とは何か?』(12章)

2006年08月14日 | ヨハネ伝解読





 ~~「ヨハネ伝」今回は死を前にしたイエスの祈りの言葉です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「『・・・父よ、み名があがめられますように』すると天から声がした。『わたしはその名に栄光(力、栄誉)を与えてきたし、これからも与える』」(12章28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                
                



 イエスはさらに弟子たちの前で大声で祈った~~とヨハネは記しています。


 「父よ、あなたの名に栄光が与えられますように!」(28節)。

 すると天から声が響いてきました。

 「私は栄光を与えてきたし、これからも栄光を与える」

                


 ここでいう「あなたの名」すなわち「父なる創造主の名」とは、具体的に何でしょうか?
クリスチャンの多くは、具体的に何かを考えておりません。漠然と「エホバだろうなあ・・」と意識している程度です。でも、それだと他の聖句との繋がりがあまりつなないようなので、なにかはっきりしない。で、漠然とやり過ごしているのが実情ではないでしょうか。

 これを解読させてくれる手がかりは、17章にあります。詳しくはそこで考えるとして、ここでは結論のみを記しておきます。

ここでイエスが「父なる創主の名」というのはイエスです。「エホバ」ではありません。すると「旧約に出てくるエホバは何だったのか」、という疑問がわくでしょうが、この解読も根気の要る一仕事です。これについては、このヨハネ伝の解読が一通り終わった後、考察したいと思っています。

 そういうテーマは他にもあります。ユダは何故裏切ったのか、というのもそれです。これについてはこれまでにも鹿嶋の見解を若干述べてきましたが、本格的に考えると長くなります。後でまとめて述べるべきでしょう。

 他にもあります。「ペテロは本当にイエスを裏切ったのか?」というのもそれです。鹿嶋は裏切ったのではない、という解読をしています。だが、これも長くなりますので、後に補論的に示します。

                


 読者の多くは驚かれるでしょうが、もう一度結論のみを言います。

 ~~ここでイエスが「あなたの名」といっているのは「イエス」です~~


 父なる創主はその名に「栄光」を与えてきたし、これからも与える、という。その栄光とは力であり、いのちエネルギーであり、創造の光であり、栄誉であります。(それについてはVol.116で申しましたが、ここでは、力に重点を置いて理解していいでしょう)

 要するに父なる神は「これから、驚くべき創主の力を現す」というのです。それを「イエスという名に対して」現す、という。それでイエスという名にますます栄誉が加えられるという論理です。

 この解読によって、新約聖書のその後の論理がみんな筋が通ってきます。そうしないと通りません。通らない解釈をしているのだから、多数のクリスチャンは本日の聖句を漠然と受け取るしかない状態で今日まで来ているのです。

                

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ネットで参照出来る聖書

2006年08月12日 | ヨハネ伝解読
ネットで参照出来る聖書の一つです。
「電網聖書」といいます。

http://www.cozoh.org/denmo/

「ヨハネ伝解読」で、そのあたりの聖句を眺めたいときに便利です。
(ブックマークの最下段に入れておきました)
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臨時版:イエス関係系譜

2006年08月12日 | キリスト教活動の歴史
~~面白いブログを見つけました。
イエス関係の系譜を説明したものです。

http://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/38744170.html?p=1&pm=l

これも鹿嶋のブログにはないものです。

鹿嶋はおもに福音の論理構造を探求しています。
特に、この世に生きる人間との関わりで調べます。
ですから、上記のような知識収集は他の方にしていただくお仕事になります。

天人皇士さんに感謝です。








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Vol.167『このために世に来た』(12章)

2006年08月10日 | ヨハネ伝解読


~~死に向かってのイエスのインストラクションは続きます。

                


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「今、わたしの心は困惑しています。『父よ、これからの時が私に来ないように』と言おうか。しかし、私はこの時のためにこの世に来ているのです。だから、私はこの苦しみの時を通らねばならないのです」(12章27節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                


 「この時」とは、激しい肉体と精神の苦痛を経て死ぬ時です。肉体の苦痛とは、鞭打たれ、手足に太い釘を打ち込まれ、十字架に張りつけられて呼吸困難に陥っていく苦痛です。精神的な苦痛とは、人間に罵倒され、からかわれ、馬鹿にされるという苦痛です。

 ヨハネはこうした状況をこの「ヨハネ伝」の冒頭に概論していました。

 「全てのものはこの方(イエス)によって創られた」(1章3節)。

 「彼(イエス)はこの世に来ていた。そして、世は彼によって創られたのであるけれども、彼を知らなかった」(1章10節)

 「彼は自分のところに来たのに、彼の民は彼を受け入れなかった」(1章11節)

 ~~これを具体的いえば、こうなるでしょう。

 人間は、この世に来る前の、創造霊としてのイエスによって創られた被造物なのだ。創造者であるイエスは被造物の所有者であり、主なのだ。なのに、その被造物にイエスは、罵倒され、からかわれ、愚弄され傷つけられ殺されるという時を体験することになるのだ~~と。

                


 イエスは出来ることなら、この体験の時が来ないようにしたいのです。だがこう言います。

 「しかし私はこの時のために世に来ている」

 自分は傷つけられ十字架死するために、それによって人類が癒され救われる道を切り開くためにこの世に来ている、という。だから、イエスは「自分はこの時を通ることになる」というのです。

 
                


 イエスが十字架で殺されることによって、人類に救いの道が開かれる。これにはたくさんの論理体系が背景に埋まっています。今この段階で全てを示すわけにはいきませんが、これは「人間の霊に対する効果について」の論理である、ことには違いありません。

 ですからこれは、人は肉体だけでなく霊からもなっている、という前提を「明確に」踏まえなければわかりません。この大前提を日本の信仰者の大半は、まだぼんやりとしか捕らえていないというのが鹿嶋の観察です。霊なるものに正面から対面して考えてはいないんですね。だから「十字架による救い」も漠然と理解している状態にみえます。

                


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Vol.166『栄誉って何?』(12章)

2006年08月06日 | ヨハネ伝解読

~~もうひとつ「ヨハネ伝」いきますが、留意したいことがあります。
12章からのイエスの言葉は、独立したバラバラの聖句として読んだら解読が浅薄になります。これからは言葉が出る背景を常に意識に留めて読まねばなりません。

               


 11章で、イエスは、ラザロという青年を、死んで四日たってから生き返らせました。四日という時間は、もしかしてラザロは仮死状態だったのでは・・・、という疑問を完全に断ち切るものでした。死体が腐って悪臭を放つ時間ですから。これを生き返らせたということで、イエスの持つ力への人々の信頼は決定的になりました。

 しかもこの事件は都エルサレムの近郊で起きました。遠くガリラヤ地方で起きたのなら都に噂が達するまでに情報は曖昧さを増すでしょう。ところが近郊ですから、その噂は濃厚なリアリティを持ってエルサレムに参拝する人々に広がりました。

 もう、イエス人気は鰻登り、イエスの名はローカルブランドから一気に全国ブランドになりました。ユダヤ教信徒だった人々の多くも、イエスに向かって殺到します。ここにきて体制側のユダヤ教僧侶たちはイエスを殺そうという決定を下さざるを得なくなりました。

 イエスは一旦エルサレムから離れた地に退きます。が、まもなく一転して殺意に充ちた都に向かって進み始めました。いよいよ死ぬ時が来たと判断したのです。

 弟子たちはこれから先生イエスの死に直面するようになります。その時のための教えをイエスは弟子たちに向かって始めているのです。12章以降のイエスの言葉は、そういう性格のものです。「肉体のいのちよりも、霊のいのちを重視するんだよ」も「いまはとにかく私に従うんだよ」も、そういう背景のなかでイエスが語った言葉です。

今回もその背景を意識において聖句を解読していきましょう。 

               


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
=聖句=
 「私(イエス)に仕えようとするものは、私に従わなければならなりません。そうすればその人はわたしの居るところに共に居ることになるのです。そして、私の父は私に仕えるすべての人に栄誉を与えます」(26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 前回の続きです。聖句も同じです。

前回「イエスに仕えようとするものは、イエスに従わねばならない」という聖句を考えました。今回はまず、その次の「わたしの居るところに共に居るだろう」という聖句を考えましょう。これは~~

「(私に従えば)、その人は私が本来居るべきところである天国に、私と共に居ることになる」

 ~~という意味だと思われます。イエスはこれから殺され、復活して天の創主王国に戻ります。そこに、自分に従う者たちのための家を整えておく、と約束しています。これからそれが実現されていくことを言っているのでしょう。

               


 では次の~~
   「私に仕える全ての人に父は栄誉を与える」
                ~~はどうでしょうか。

 これは「その天国で、その人は父なる創造主から賞を与えられるだろう」という意味だと思われます。栄誉は英語ではオナー(honor)となっています。

               
               

 栄誉って何でしょうね。栄光とどう違うでしょうね。さらにそれは、いのちというのとどういう関係にあるのでしょうか。わかったようでわからないところですね。そのくせ、こういう言葉は、頻繁に出てくるんですね。

 春平太は、こう理解しています。源は「いのち」というエネルギーであると。このエネルギーが全ての「力」のもとでもある。そして、そのエネルギーはまた、光を放っている。その光が栄光(Glory)です。

 これは物質の光とは違う。それは、光子(こうし)という素粒子が走ることによって出来ています。一秒間に地球を七回り半する、という光は、この素粒子の光です。それが地球から宇宙の果てまで行くのには750億年から1000億年の時間が必要だとも言われています。素粒子は聖書の思想では被造物です。光子(こうし)は被造の光です。

 ところが栄光という光は、その空間を一瞬にして通過する。これは被造物としての光ではなく、創主から直接発せられるいのちエネルギーを伴った、いわば創造の光です。いのちエネルギーの光といってもいい。そういう概念のものです。

               


 栄光の光は、肉眼には直接は見えません。しかし、霊は認知します。人に関しての根アカ、根クラというのは、その光の多い、少ないを感知しての言葉ではないかと思われます。目には見えなくても、人(の霊:潜在意識)はそれを根底的な明るさ、暗さとして感知するというように・・・。

 そして、単なる物質の明るさを超えた、何か、根底的な明るさに対しては、人は賞賛したくなるようです。暗さ、闇は賞賛しません。つまり、栄光のあるところは賞賛される。その賞賛が栄誉です。グローリーあるところにはオナーが伴うといったところでしょうか。

               


 以上を端的に言えばこうなるでしょう。いのちは力であり、光(栄光)であり、また、栄誉でもある、と。いのち、力、栄光、栄誉は本来同根で一つなのだ、と・・。すると、イエスに従った人は、天国で、あたらにいのちを受ける。

(これで人は、霊のいのち充電が完全になるのかなあ、と鹿嶋は思っています。天の創主王国に入れられるかどうかが決められる「最後の審判」では、イエスを信頼した人の霊はまだ不完全充電なのです。これが「覆われて」完全と「みなされて」王国に入るのですから。)

(入ったときには「みなし完全充電」。それがこの栄誉を受ける段階で、賞としていのちを受けて完全充電されて、文字通りの完全になり、一人前になるのかなあ・・と)

~~すると、いのちは栄光に輝き、人々はそれを栄誉と感じるのだ、ということになります。

 なお、聖書の思想では、「いのちエネルギー」は父なる創主から放射されています。そしてイエスと聖霊はその意識が創造主と同質ですから、この両者を通しても放射されます。結果的にはそれはイエスから発していることにもなるのです。

 だからイエスもまた、いのちであり、力であり、栄光であり、栄誉である、ということになるでしょう。「わたしはいのちである」と言ったイエスの言葉も、そういう点から理解することが出来るでしょう。

               

(この聖句は、別の解読も出来ます。栄誉を文字通りの「何かの賞(ほうび)」と解するのです。天の王国には、イエスを「信頼」するだけで入れますよね。ところが「仕えた」人は、それを超えてイエスの言葉に従って「働いた」ひとです。この「働き」に対しては、別になにか賞が与えられる、と解します。)

(この解読には、栄誉は賞としてもその「賞」というのがなにかはっきりしない、という短所はあります。が、他方において、パウロの「賞を目指して走る」という旨の言葉とうまくつながるという長所もあります。みなさん各々考えて、ご意見をどうぞ)

               

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臨時版:印象的な「証し」

2006年08月03日 | ヨハネ伝解読

~~またまた臨時版です。
いわゆる「お証し」ですけど、印象的でしたので・・・。
鹿嶋のブログにはないものですし。

               


「どうしてクリスチャンになったのですか?」ってよくきかれます。でも、ちゃんと話すと長くなるんです。お暇なときに読んでください。

http://blogs.yahoo.co.jp/sybhc579/folder/1455872.html


               

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Vol.165『仕えるものは従うもの』(12章)

2006年08月02日 | ヨハネ伝解読
~~前回の「ヨハネ伝」でのコメントは鹿嶋の分がもう少しありますが、とりあえず、「ヨハネ伝」をもうひとつ進めますね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
=聖句=
 「私(イエス)に仕えようとするものは、私に従わなければならなりません。そうすればその人はわたしの居るところに共に居ることになるのです。そして、私の父は私に仕えるすべての人に栄誉を与えます」(12章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

               


続いてもうひとつ、意味深いイエスの言葉をヨハネは並記しています。これが本日の聖句です。

 ここで「私(イエス)に仕えるものは私に従うべき」というのは意味がわかりにくいですね。これにはこの地域に特有な人間観が背景になっています。それは人間を基本的に「自由人と奴隷」に二分類する考え方です。

 自由人とは、自分のしていることが全体の中でどういう位置にあるか、どういう意味を持っているかを知っている人です。いわば、全体観を持ちうる人であります。この人は、仕事に関しても自分の判断で臨機応変に対応できます。

 奴隷とは「全体観を与えられていない人」です。英語では、スレーブだけでなく、サーバントというのも詰まるところはそれに当たります。全体感がなかったら、人は言われたとおり与えられた職分を果たすしかありません。

               



 もともとこの思想は、中東やギリシャ世界での家庭運営の基礎になっている考え方でした。

 これらの地域の資産家市民の家庭は、大家族でした。上には血のつながっている家族員が自由人としております。彼らは家族運営ための全体的情報を主人より与えられています。

 その下には奴隷が多数居ます。彼らには料理の専門家とか、財務の専門家もいます。家庭の事務仕事を一説仕切る執事もいます。これで奴隷なのです。

 日本で奴隷というと、鞭打たれて牛馬のように働かされる肉体労働者を連想しますよね。でも西欧のサーバントというのはそうではないのです。だから邦訳に困ってしまいます。他にいい言葉がないので奴隷と訳すしかないのですが、そうすると、鞭打たれる肉体労働者がイメージされてしまう。

 それを避けるためここでは、奴隷人と言いましょう。自由人と奴隷人。苦肉の策ですけどね。で、その奴隷人とは、全体観が与えられてない人です。高度な工芸技術、事務技術を持っている人でも、全体観が与えら得てなかったら奴隷人です。

 家族に関する全体観がないと、全体の中で自分は何をしているのか、何をすべきかの判断が出来ません。そこで命ぜられるまま、従順にその義務を果たすのみとなります。そういう意識で仕事をするしかないわけです。

               


 こういう人間分類の仕方は、聖書にもあります。キリスト教が西洋に普及するにつれて、この考え方が西欧にも入りました。その結果、こういう人間観が西欧人の意識にも存在するようになっています。人間を、自らのすべきことを全体観を持って自分で判断できるタイプと、判断できないので命じられるままを行うしかないタイプに基本的に分ける考え方が・・。

 国際化時代に入りましたので我々日本人も、この感覚は知っておくべきことでしょう。そして、民族丸ごと奴隷人の方に組み入れられることのないように、注意いたしましょう。

               


 本日の聖句でもイエスもそれをベースに言っています。「私(イエス)に仕える」ということは、イエスが命じたままに「従う」ことだというのです。自分の判断でなすべきことをしていくことではないのだよ、と。

 なぜならこの段階で、弟子たちはイエスの持っている全体観には、至り得ていないですから。

 (実はもうしばらくすると、イエスは弟子たちに全体感を与えます。そして弟子たちを「兄弟」と呼ぶようになります。イエスと同じ自由人になったのですから。だが、それにいたるにはまもなく始まる衝撃的なレッスンを通過させる必要がありました。それまでは弟子たちは、とにかく従うということだけが正解の道なのでした)

               


 「まもなくわかる、だから、今は私に従うんだよ・・・」

    ~~優しいですね。そして、これから始まるすさまじい肉体的、精神的拷問を考えると、それがわかっていながらこういう優しさをもって弟子に対することが出来るイエスは、すごいですね。これだけでも、人間技をかけ離れていると思いませんか・・・。     

 しかし、「従う」状態から抜け出た弟子もいました。イスカリオテのユダがその人でした。彼はすでに、自らの判断で行動する状態に入っておりました。

               

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Vol.164『肉体のいのちは愛しても、失うことになるよ』(12章)

2006年08月01日 | ヨハネ伝解読
~~「ヨハネ伝」続けます。
前回の聖句に続いてヨハネが書き残したイエスの言葉が、本日の聖句です。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「自分のいのちを愛するものは、それを失います。
この世での自分のいのちを憎むものは、永遠のいのちを得ることになります」(25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

               


意味深くも難しい言葉ですね。
だが、人間を肉体と霊からなっているとするイエスの思想を踏まえると、その論理がわかってきます。

 肉体はこの世でのものです。そして、循環運動が止まったら腐り、崩壊します。
つまり、死んだら消滅するわけです。

 他方、霊はこの世でも肉体のうちに存在している。そして、実は人の意識の本体になっています。
また霊は、肉体が死んでもそれを抜け出て意識体として永続します。
そして、霊が創主の発する意識波動と共鳴するような意識を持つと、
そのなかには“いのち”というエネルギーが永遠にとどまります
~~こういう思想が本日の聖句の基礎にあるのです。

               


 ここで「自分のいのちを愛するものは」という言葉の中の「いのち」は、この世での肉体のいのちを言っています。
そしてそれは「愛してもいずれ失う」ものなのです。死んだら肉体は無くなりますからね。

 他方「この世での自分のいのちを憎む」とはどういうことでしょうか。
憎むという言葉が強烈ですね。憎まないと永遠のいのちに至れないのか、と思ってしまう。
しかし、これは前の「愛する」と対比させて言っているものにすぎません。

 肉体のいのちを、霊のいのちよりも「軽視する」という意味にとっておいていいと思われます。

               


 今、イエスは自らの肉体のいのちを、人類のために与えようとしています。
これからそれを実行に移すに際して、弟子たちに肉体と霊に関する真理を述べているのですね。

 「肉体のいのち」も大切でないことはないけれど、それ以上に「霊のいのち」を重視することが、
霊に永遠のいのちをうるために必要なんだよ、と教えています。

               

この人間観、人間構造観を知ったら、苦しみから一挙に解放される人々が日本には沢山いるでしょうね。
たとえば鬱病で苦しむ主婦の方が急増しているそうです。
聖書の人間観からすると鬱というのは、心(意識体、霊)の「いのちエネルギー」不足から来るもの、となります。
(いのちエネルギーが増えたら理屈抜きにジョイがやってくるのです)

実際、鬱と言っても、症状は無気力状態になるのが多いようです。
ごはんを炊くために米を洗う気力も起きない、といったように。精神エネルギーの欠乏状況ですね。

これに対して、「きょう出来た小さなことで自分をほめてあげましょう」などという療法をしてるようですけど、
表面的な症状対処法ですね。これでは鬱病の急増に歯止めをかけることは出来ません。

(エンジンが弱ってしまって、トロトロしか走らなくなった車の持ち主に
「ここではこうハンドルを切って・・ここでは・・・」と運転指導してるようなモンですからね。
エンジンのチューンナップをしてあげなきゃ・・・)

根っこのところを解決しないと・・・。聖書は原因を明確に提示するだけではありません。
その解決法もはっきりと提供してくれるのです。


聖書の人間構造観を知ることです。すぐには「信頼の置けるもの」と思えなくてもいいですから、とにかく知ることです。
そういう理論がイメージの中に出来るだけでも、意識に新しい方向が出てくるのです。

福音は、死後の幸福だけに関するものではないんですね。
今のこの世の人生で、苦しみ、問題を根底から解決するパワーを持ったものです。

だが現状では「道徳的に縛ってくる」教えだという漠然としたイメージが先に来るんですね。
惜しいですね。どうやったらこれを日本人の意識から取り除くことが出来るんでしょうね。

               




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