前回の「罪を犯さないようにすることが、創造主・イエスを放念しての独り相撲の克己勉励になりやすい」
という点について、もう少し考えておこうと思います。
これには律法と福音との微妙な関係が関わっています。
聖書の思想では、「福音が与えられても律法は廃れていないので、
罪も又存在している」ということになります。
そして詰まるところはイエスの贖罪によって許されるとしても、
罪は避けるべきものだというのが聖書の思想です。
福音のこの構造は微妙で複雑です。
聖書での、福音の持つ許しと律法に反する罪との関係は、
よく見極めていく必要があるように思われるのです。
鹿嶋は聖書のエッセンスは次のようだと思います。
「罪は出来る限り犯さないように努めるべきである。
でも、罪を犯すことはこの世では完全に避けられるものではない。
そこで、最終的な許しを信頼しつつ、罪をなるべく避ける」というものです。
ところがこのあたりの微妙な関係の認識を難しくしているものが聖句にあるように思います。
つまり、人間の罪に対する姿勢のニュアンスが、
パウロの言葉とヨハネの言葉との間でずれがあるように思えるのです。
強調点が違うと申しましょうか。たとえばパウロはこういいます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて、
私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
・・・(中略)・・・あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがありません。」
(「ヘブル人への手紙」12章1~4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この聖句には、意志の力による罪との戦い、罪の回避を強く訴える姿勢があります。
他方、ヨハネはそうではないのです。
彼は霊(潜在意識)の状態を重視します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・罪とは律法に逆らうことなのです。
・・・(中略)・・・だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。
・・・(中略)・・・罪のうちを歩む者は、悪魔から出たものです。
悪魔は初めから罪を犯しているからです。」(「ヨハネの第1の手紙」3章4~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
霊がイエス(天)のうちにとどまっているか、悪魔(世)のうちにとどまっているかで、
罪を犯す犯さないは自動的に決まっていくのだ、といっています。
(すると、意志は問題にならなくなります)
次の聖句などは、ヨハネの姿勢を決定的に示しているのではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・だれでも創主から生まれた者は、罪のうちを歩みません。
なぜなら、創主の種がその人のうちにとどまっているからです。
その人は創主から生まれたので、罪のうちを歩むことが出来ないのです」
(「ヨハネの第1の手紙」3章9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「創造主の種」とは聖霊と解していいと思われます。
聖霊がうちにあると、罪を犯そうとしても犯せないのだ、といっているのです。
<律儀さが裏目に>
前回、書きましたように、パウロの意識にはイエスの血による罪の許しが併存しています。
けれども、上記の聖句には言葉の上ではそういうものはほとんど顔を見せておりません。
だから、読む者はついつい独り相撲の道徳的戦いにきわめて入り込みやすいのです。
そこに日本人の律儀さが関与して、事態はますますそうなりやすくなっています。
その結果、残念ながら道徳キリスト教が蔓延するのです。
どうしたらこういうことは避けられるのでしょうか?
日本人が聖書を適切に認識するためには、アイデアを出すべきところだと思います。
という点について、もう少し考えておこうと思います。
これには律法と福音との微妙な関係が関わっています。
聖書の思想では、「福音が与えられても律法は廃れていないので、
罪も又存在している」ということになります。
そして詰まるところはイエスの贖罪によって許されるとしても、
罪は避けるべきものだというのが聖書の思想です。
福音のこの構造は微妙で複雑です。
聖書での、福音の持つ許しと律法に反する罪との関係は、
よく見極めていく必要があるように思われるのです。
鹿嶋は聖書のエッセンスは次のようだと思います。
「罪は出来る限り犯さないように努めるべきである。
でも、罪を犯すことはこの世では完全に避けられるものではない。
そこで、最終的な許しを信頼しつつ、罪をなるべく避ける」というものです。
ところがこのあたりの微妙な関係の認識を難しくしているものが聖句にあるように思います。
つまり、人間の罪に対する姿勢のニュアンスが、
パウロの言葉とヨハネの言葉との間でずれがあるように思えるのです。
強調点が違うと申しましょうか。たとえばパウロはこういいます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて、
私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
・・・(中略)・・・あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがありません。」
(「ヘブル人への手紙」12章1~4節)
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この聖句には、意志の力による罪との戦い、罪の回避を強く訴える姿勢があります。
他方、ヨハネはそうではないのです。
彼は霊(潜在意識)の状態を重視します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・罪とは律法に逆らうことなのです。
・・・(中略)・・・だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。
・・・(中略)・・・罪のうちを歩む者は、悪魔から出たものです。
悪魔は初めから罪を犯しているからです。」(「ヨハネの第1の手紙」3章4~8節)
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霊がイエス(天)のうちにとどまっているか、悪魔(世)のうちにとどまっているかで、
罪を犯す犯さないは自動的に決まっていくのだ、といっています。
(すると、意志は問題にならなくなります)
次の聖句などは、ヨハネの姿勢を決定的に示しているのではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・だれでも創主から生まれた者は、罪のうちを歩みません。
なぜなら、創主の種がその人のうちにとどまっているからです。
その人は創主から生まれたので、罪のうちを歩むことが出来ないのです」
(「ヨハネの第1の手紙」3章9節)
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「創造主の種」とは聖霊と解していいと思われます。
聖霊がうちにあると、罪を犯そうとしても犯せないのだ、といっているのです。
<律儀さが裏目に>
前回、書きましたように、パウロの意識にはイエスの血による罪の許しが併存しています。
けれども、上記の聖句には言葉の上ではそういうものはほとんど顔を見せておりません。
だから、読む者はついつい独り相撲の道徳的戦いにきわめて入り込みやすいのです。
そこに日本人の律儀さが関与して、事態はますますそうなりやすくなっています。
その結果、残念ながら道徳キリスト教が蔓延するのです。
どうしたらこういうことは避けられるのでしょうか?
日本人が聖書を適切に認識するためには、アイデアを出すべきところだと思います。