鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.250『罪へのパウロ見解とヨハネ見解』(15章6節)

2009年03月30日 | ヨハネ伝解読
前回の「罪を犯さないようにすることが、創造主・イエスを放念しての独り相撲の克己勉励になりやすい」
という点について、もう少し考えておこうと思います。

これには律法と福音との微妙な関係が関わっています。

 聖書の思想では、「福音が与えられても律法は廃れていないので、
罪も又存在している」ということになります。

そして詰まるところはイエスの贖罪によって許されるとしても、
罪は避けるべきものだというのが聖書の思想です。

福音のこの構造は微妙で複雑です。
聖書での、福音の持つ許しと律法に反する罪との関係は、
よく見極めていく必要があるように思われるのです。


                    

鹿嶋は聖書のエッセンスは次のようだと思います。
「罪は出来る限り犯さないように努めるべきである。
でも、罪を犯すことはこの世では完全に避けられるものではない。
そこで、最終的な許しを信頼しつつ、罪をなるべく避ける」というものです。

                    


ところがこのあたりの微妙な関係の認識を難しくしているものが聖句にあるように思います。
つまり、人間の罪に対する姿勢のニュアンスが、
パウロの言葉とヨハネの言葉との間でずれがあるように思えるのです。
強調点が違うと申しましょうか。たとえばパウロはこういいます。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて、
私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
・・・(中略)・・・あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがありません。」
(「ヘブル人への手紙」12章1~4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

この聖句には、意志の力による罪との戦い、罪の回避を強く訴える姿勢があります。
他方、ヨハネはそうではないのです。
彼は霊(潜在意識)の状態を重視します。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・罪とは律法に逆らうことなのです。
・・・(中略)・・・だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。
・・・(中略)・・・罪のうちを歩む者は、悪魔から出たものです。
悪魔は初めから罪を犯しているからです。」(「ヨハネの第1の手紙」3章4~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


霊がイエス(天)のうちにとどまっているか、悪魔(世)のうちにとどまっているかで、
罪を犯す犯さないは自動的に決まっていくのだ、といっています。
(すると、意志は問題にならなくなります)

次の聖句などは、ヨハネの姿勢を決定的に示しているのではないでしょうか。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・だれでも創主から生まれた者は、罪のうちを歩みません。
なぜなら、創主の種がその人のうちにとどまっているからです。
その人は創主から生まれたので、罪のうちを歩むことが出来ないのです」
(「ヨハネの第1の手紙」3章9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


「創造主の種」とは聖霊と解していいと思われます。
聖霊がうちにあると、罪を犯そうとしても犯せないのだ、といっているのです。


                    

<律儀さが裏目に>

前回、書きましたように、パウロの意識にはイエスの血による罪の許しが併存しています。
けれども、上記の聖句には言葉の上ではそういうものはほとんど顔を見せておりません。
だから、読む者はついつい独り相撲の道徳的戦いにきわめて入り込みやすいのです。

 そこに日本人の律儀さが関与して、事態はますますそうなりやすくなっています。
その結果、残念ながら道徳キリスト教が蔓延するのです。

どうしたらこういうことは避けられるのでしょうか?
日本人が聖書を適切に認識するためには、アイデアを出すべきところだと思います。


                    






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Vol.249『独り相撲の宣教したらいかんよ』(15章6節)

2009年03月27日 | ヨハネ伝解読
22日から26日まで、中国・大連に出張のためしばらくご無沙汰しました。
大連はアカシアの都市ですが、白い花が咲くのは五月の中旬。緑の葉が出るのが4月の後半で、
今は枝ばかりの冬のアカシア大連でした。昼の気温は5度前後でした。日本の1月2月ですね。


                     

日露戦争に勝利しての1907年以来、1945年の敗戦まで、日本の租借地、つまり、ほぼニッポン国でしたので、
至る所に日本帝国統治時代のものが残っています。旧満鉄本社も大連にありました。
日本のお偉方たちが泊まった旧やまと旅館(ホテル)もそのままの状態で、ホテルとして営業していました。

                    



さて、最後の晩餐におけるイエスの遺言を追うことを続けましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「私の内にとどまっていないものは誰でも、(切り取られた)枝のように外に投げ捨てられ枯れてしまいます。
そういう枝はかき集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまいます」(15章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    

ブドウの木と枝のたとえ話はまだ続くのですね。イエスにはホントに珍しいことです。
15章6節では「私の内に留まらないものは、枯れ果てて、火の中に投げ込まれて焼かれてしまう」といっています。

「火に投げ込まれ焼かれる」というと、最後の審判で「火の池」行きになることが連想されますが、ここはそうではないようです。
弟子たちに、イエスがいなくなった後の福音宣教について注意事項を語っている場面だからです。


<道徳的に苦闘する宗教か?>

 前の5節まででは、イエスは「宣教は私に繋がってしなければいかんよ」と繰り返し述べていました。
ここではそれを裏から言っています。
つまり、そういう宣教をしない場合はこうなるんだよ、と具体的に述べているところと考えられます。

 もっと具体的には例えばどういう状況が考えられるか。こんな場面です。
宣教者が福音の教えでもって自分の道徳的過去を照らし出してしまいます。
すると人間誰にでもあるところの過去の道徳的に恥ずかしいことがらが、色々浮かび上がってきます。
あのときあんなコトした、こんなコトしてしまった、と・・・。

 そして、ああいうことを繰り返さないためにはどうしたらいいか、と悩みます。
してはならない、とわかっていながらまたするかもしれない自分と苦闘をします。
パウロの次のような言葉をとりだして、「そうだ、パウロもまたそうだったんだ・・」と、ひたすら苦闘をします。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・わたしは、内なる人としては創主の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、
わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見ます。
わたしは、なんというみじめな人間なのでしょうか。・・・」(「ローマ人への手紙」、7章22~4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 するともう意識がそれで満たされてしまい、イエスや創造主のことがそっちのけになってしまうのです。
独り相撲ですね。春平太はこれを道徳キリスト教と名付けています。
また、これが日本にあまりに多いのでニッポンキリスト教とも呼んでいますが、
こういう心理状態で宣教したらイカンよ、とイエスは言っているのです。



                    

 パウロも、上記のようなことをくだくだしく言っていますが、彼の場合、心のもう一方の隅にはイエスがいます。
イエスと父なる創主が意識されているのです。
そして、将来又道徳的罪を犯す自分ではあるが、イエスがその全てを相殺してくれたんだ、と確信しています。
そして人間、その確信が強いと、過去において自分がしたことなど(善きことも含めて)もう問題でなくなってくる。
どうでもよくなってくるのです。

 宣教すべきは、このことである。こういう心の解放である。なにものにもとらわれなくなった自由な心である。
にもかかわらず、人間はその途中の道徳的・律法的罪のあたりで引っかかってしまって、
そこで苦闘をし、独り相撲をしやすいのだ。
そうなったらイカンよとイエスは念入りに言っているのです。


                    


でも、そういう苦闘を聞いて、同感し、「そうだよなあ・・・」と同調する人も世の中にはいるものです。
ではそういう人を確保したら、伝道がなったことになるのか?というと、
イエスはそうではないと言っています。
そういう宣教者も、宣教されてそういうキリスト教の信徒になった人も、
みんな、最終的には枯れ枝のようにかき集められて捨てられるんだよ、といっているのです。

 なぜ? それは冷たいんじゃないの? 
この人たちも一生懸命なのに・・・という疑問も湧くでしょう。
でもイエスはそれは枯れ枝だ、と断言しています。
この意識状態は福音の根本目的である「創造主を信頼して繋がる」という心理と、あまりに無縁だからです。

 イエスにつながらないというのは、創造主につながらないということです。
創造主につながらない存在は、創造主には「つまるところはどうでもいい」存在なのですね。
冷たいようですが、これが聖書の鉄則であります。「つまることろは」ですよ。

創主のこの世に対する最大で究極の関心事は、
「天(創主)につながるもの」を作ること、ということがここに浮上しています。


                    


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<臨時版>11 「聖書ってどんな本?」

2009年03月01日 | スモールグループが世界を救う
                                        

しばらくぶりで、SG議論用テーマをたててみましょうか。

本日もBGMはmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて春平太チャーチを開くと
BGMのある状態で読むことが出来ます)



さて、こういう場面を想定してみてください。
「この人は福音の世界には遠い人だなあ・・」と日頃感じていた人がいた。


                    



ところが、どんな波動を受けたのか、天使が働いたのか、ある日こんなことを言いました。

「な~んか、聖書が気になって仕方ない気分だ。
ねえ、聖書ってどんな本?」

さて、こういう場面では、どう答えますか?
また、どう答えたらいいでしょう?

また、いろんな意見が交わせたら嬉しいです。
新参加者も歓迎ですよ。


                    

コメント (39)
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