~~「ヨハネ伝」にもどります。
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=聖句=
「真理を言います。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の麦のままです。だが死んだら、豊かに実を結びます」(12章24節)
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イエスはエルサレムに入りました。そこではもう、イエスに会いたい、一目見たいという人ばかりです。中にははるばるエルサレムに上ってきたギリシャ人もいて(20節)、もう、会いたい、会いたいと大騒ぎ・・。一緒に記念撮影でもできたら、故郷への大変な土産になる・・といったところでしょうか。
彼らは弟子のピリポのところに行って、頼みました。
「イエス先生に会わせて下さいよ!」
ヨハネは、これを記すに際して(ピリポはガリラヤ地方のベッサイダの出である)と付記しています(21節)。
このギリシャ人たちも、ベッサイダに住んでいたのでしょうか。そうであれば、同郷の人からの頼まれごとです。ピリポも冷たくするわけにはいきません。「どうしたものか・・」とアンデレに相談します。「そうだなぁ、とにかく先生に口利きしてみようか」ということで、イエスにその旨を告げました(22節)。
その時、イエスは「時が来た」と判断したのではないでしょうか。「人の子が栄光を受けるときが来た」と言った、とヨハネは記しています(23節)。
この時点でまでイエスは、エルサレムの神殿の、おそらく中庭で、依然として多くの奇跡を行っていたようです。
「(イエスは)このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった」(12章37節)
~~とありますから。奇跡は説教で教えるための「しるし」であります。
こうした中で、前述のギリシャ人が、対面したい、と言ってきたのですね。イエスは考えたのではないでしょうか~~もう群衆は説教に耳を傾けなくなってきた。スター的興味の対象としてやってくる人の方が多くなってきた~~イエスは「もう教えるべき時期は終わった」と判断したのではないでしょうか。
すると次は「死ぬこと」となります。イエスは直接そうは言わないでこう言いました。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の麦のままである。しかし、もし死んだら、豊かに実を結ぶようになる」(24節)と。
---私の身体の内にある、無限のいのち、これは父なる創主から私のうちに注ぎ込まれているものだ。それは、今は私の内にとどまっている。癒しなどのしるしを行うときは流れ出すけれども、基本的には留まっている。しかし、私の肉体が死んでなくなったらどうなるか。無限のいのちは、信じる全ての人類に流れ込むだろう。このようにして、飛躍的に豊かに実を結ぶのだ---
あるいは・・
~~私が身体を着てこの地上にいるうちは、私は一時点に一カ所にしかいられない。癒しもそこでしかなしえない。だが、私が死んで復活し、天の創主王国に昇ったら、無数の聖霊を地上に送る。その方が地上のあらゆるところで癒しなどの働きを豊かにすることになるでしょう~~~
イエスはそう言っているような気が春平太にはします。
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=聖句=
「真理を言います。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の麦のままです。だが死んだら、豊かに実を結びます」(12章24節)
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イエスはエルサレムに入りました。そこではもう、イエスに会いたい、一目見たいという人ばかりです。中にははるばるエルサレムに上ってきたギリシャ人もいて(20節)、もう、会いたい、会いたいと大騒ぎ・・。一緒に記念撮影でもできたら、故郷への大変な土産になる・・といったところでしょうか。
彼らは弟子のピリポのところに行って、頼みました。
「イエス先生に会わせて下さいよ!」
ヨハネは、これを記すに際して(ピリポはガリラヤ地方のベッサイダの出である)と付記しています(21節)。
このギリシャ人たちも、ベッサイダに住んでいたのでしょうか。そうであれば、同郷の人からの頼まれごとです。ピリポも冷たくするわけにはいきません。「どうしたものか・・」とアンデレに相談します。「そうだなぁ、とにかく先生に口利きしてみようか」ということで、イエスにその旨を告げました(22節)。
その時、イエスは「時が来た」と判断したのではないでしょうか。「人の子が栄光を受けるときが来た」と言った、とヨハネは記しています(23節)。
この時点でまでイエスは、エルサレムの神殿の、おそらく中庭で、依然として多くの奇跡を行っていたようです。
「(イエスは)このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった」(12章37節)
~~とありますから。奇跡は説教で教えるための「しるし」であります。
こうした中で、前述のギリシャ人が、対面したい、と言ってきたのですね。イエスは考えたのではないでしょうか~~もう群衆は説教に耳を傾けなくなってきた。スター的興味の対象としてやってくる人の方が多くなってきた~~イエスは「もう教えるべき時期は終わった」と判断したのではないでしょうか。
すると次は「死ぬこと」となります。イエスは直接そうは言わないでこう言いました。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の麦のままである。しかし、もし死んだら、豊かに実を結ぶようになる」(24節)と。
---私の身体の内にある、無限のいのち、これは父なる創主から私のうちに注ぎ込まれているものだ。それは、今は私の内にとどまっている。癒しなどのしるしを行うときは流れ出すけれども、基本的には留まっている。しかし、私の肉体が死んでなくなったらどうなるか。無限のいのちは、信じる全ての人類に流れ込むだろう。このようにして、飛躍的に豊かに実を結ぶのだ---
あるいは・・
~~私が身体を着てこの地上にいるうちは、私は一時点に一カ所にしかいられない。癒しもそこでしかなしえない。だが、私が死んで復活し、天の創主王国に昇ったら、無数の聖霊を地上に送る。その方が地上のあらゆるところで癒しなどの働きを豊かにすることになるでしょう~~~
イエスはそう言っているような気が春平太にはします。