「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)
今日も創り主を想いましょう。
ヨハネ伝13章に出てきて我々を悩ませる「栄光(glory)」は、
イエスが教えた祈り方であるところの「主の祈り」にも出てきます。
そしてここでもこの教えが意味するところを難解にしています。
これについても少しここで考えておきましょう。
「主の祈り」は伝統的に、次のような日本語で唱えられています。
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天にまします我らの父よ。
願わくば御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天になる如く、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを、我らが許す如く、我らの罪をも許したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と榮とは、限りなく汝のものなればなり。
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(なお、イエスが教えた祈り方は、マタイ6:9~12とルカ11:2~4に記録されていますが、
いずれにおいても、最後のフレーズ「くにと力と栄えとは・・・」はありません。
だがそれだけでは「主の祈り」としてはまとまりが今ひとつということで、後でくっつけられたのでしょう)
この祈りの言葉には最初から難しいフレーズが並んでいます。
でも、ここではグローリーが出てくる、最後の所だけを考えておきましょう。
「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」というところです。
この日本語は、何いっているのか、わかりにくいです。
<「くに」って?>
まず「国」という訳がいけない。この英語はkingdomで、これは創造主が王として統治する王国です。
これは天にあるので天の創主王国といってもいい。聖書で天国というのはこの意味です。
それを「くに(国)」と一語で言ってるんですからねえ。
わかるはずがない。わからないのが正常です。
~~何でこんな訳にしたんでしょうね。多分、語呂(口調)がいいようにしたのでしょう。
「くにとちからとさかえとは・・・」とやれば口調がいいでしょ。
どうせわからないんだから、語呂のいいので行こう、といったところだったのでしょう。
(どうして最後に、天の王国はあなた様のものですから、ということになるかは、
後の「ちから」「栄誉」が終わってからまとめて述べましょう)
<「ちから」はエネルギー>
次は「ちから」です。
これは訳語としてそれでいいのではないでしょうか。
力はエネルギー(いのちエネルギー)です。
天の王国は、創主様、あなた様のものであり、
そこから発する力もあなた様のものだ、といっているわけです。
<「栄え」はここでは「栄誉」がいい>
そしてグローリーが出てくる。これを「栄え」と訳しているのですが、意味は不明でしょうね。
栄えは繁栄というのが、通常の理解でしょう。
だけど、繁栄があなた様のものです、といったんではなんだかわかりません。
以前に、グローリーというのは、基本的にいのちというエネルギーであり、
そこから「力」と「栄光」という光とが派生し、栄光から栄誉が派生するといいました。
それをふまえると、ここは誉れ、栄誉とするのがいいように思われます。
すると「天の王国とそこにみなぎる力と栄誉はあなた様のもの」ということになります。
どうしてそんなことを言うか?
わけは次のように考えられます。
すなわち、それまでのフレーズでは、「~~してください、してください」とお願いしていますよね。
そこで最後に「この様にあなた様にお願いするのはこういう理由によってです」といってるわけです。
その理由を言うのがこの最後のフレーズ。
その理由の意味は、「この宇宙をも含む天の王国も、そこにみなぎる力(エネルギー)もあなた様のものだから、
あなた様でしかできないから」であり、
そしてそれをしてくだされば、「そのみわざにたいしての栄誉もまたあなた様のものでありますから
(私たちはあなた様を誉めたたえますから)」どうぞしてください
~~ということになるでしょう。
全能の創主に何かしていただく場合、被造物にできるのは誉め讃えて感謝することだけですから。
<「限りなく」は「永遠に」>
なお付言すれば、これに続く最後の「限りなく汝のものなればなり」も何言ってるのか分かりづらいですね。
まず「限りなく」、がいけない。これは「何時までも変わりなく、永遠に」という
時間的なことをいっています。
だが、「限りなく」ですと、空間的に限りなくという意味をも含んでいて、漠然としてしまいますね。
「すべてが・・・」というニュアンスになって、意味がぼけてしまっている。ダメですね。
<「汝」とは何じゃ!>
もうひとつ「汝」。これは「分からない」を通り越して「いけない」。
創造主様に向かって「なんじ」とはなんですか!
昔はどうだったか知りませんが、今の日本語では、汝というのは、同等以下の相手を指して使う単語ですよ。
牧師さんが「汝、罪人よ!」と会衆を指して言ったりしている。
仰ぎ見るべき存在に向かっていう言葉ではない。
被造物が、自分をお創りになった創造主に対して、使う言葉ではありません。
日本語では、やはり「あなた様」とかいわないと、何言ってるのか分からなくなります。
現代日本ではこの「主の祈り」は礼拝時に多くの教会で唱えられています。
だけど、ほとんど意味が分からないままに出席者は唱えているでしょうね。
意味が分からないで唱えているのは、呪文と同じです。
日本の福音活動には手直しをせねばならないところがまだ多く含まれていそうですね。