鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.20  今の「西欧史」は片肺飛行

2016年03月22日 | キリスト教の正しい学び方



みなさま、こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、(臨時版)を終えて、本筋にもどります。

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いまわれわれは、キリスト教活動を西欧の歴史の中で把握する試みをしています。

そうすると、キリスト教活動の姿が立体的にみえてくるからです。

そこで今回も続けていくわけですが、ここで、是非とも確認しておくべきことがあります。




<キリスト教活動二つの系譜>

それは、紀元後二世紀以降のキリスト教活動には、明らかに異なる二つの系譜があるということです。


一つは、初代教会ではじまった、聖句自由吟味活動の流れです。

第二は、二世紀に出現したカトリック方式での活動の流れです。

この二つは実は併行して進行してきています。

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にもかかわらず、今日まで西欧史は、後者だけが存在するという前提で説明されてきています。

これはどう言ったらいいか、片肺のエンジンだけで飛行をしている状態というべきか。

飛行機は迷走し、眼下の風景もゆらゆら揺れて正確に観察できません。



筆者はこれまでにも、二つについてある程度のべてきました。

今回は、改めて二つを比較しつつ、今一歩踏み込んで述べてみましょう。





<初代教会方式>

初代教会方式での教会は独特な活動目標をもっています。

ひと言で言えばそれは「世界を知る」こと、「世界の全てを知る」ことです。

もう少し具体的にいうと、「霊界も含めた実在世界」の認識をすることです。

それを、個々の会員が自由に探究し、知ろうとするのです。

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そこではまず教会員個々人が、自由に聖句を吟味します。

そしてそれを、自らが所属する数人の小グループに持ち込んで再吟味します。

それによって個々人が、いわば「知」の充足をうるのです。

それが活動の主目標です。

初代教会方式の教会は、知を求める個々人の集合体なのです。




<カトリック方式>

カトリック方式での教会は、それとは対極的と言えるほどに異なった活動様式を取ります。

まず教会活動は、すべて職業聖職者が指導します。

そして彼らの活動の主目標は、信徒の集団である教会を、維持し発展させていくことにあります。


+++


この教会の信徒は聖書をあまり読まない大衆的信徒です。

指導者は、彼らを信徒集団としての一体性(まとまり)をもたせつつ、様々なサービスを提供し、献金を受け、教会を運営していきます。



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カトリック方式では職業教職者は、聖書のエッセンスを簡易にまとめたものだけを信徒に教えます。

それを教団本部が定めた唯一正統な聖書解釈だとして教えます。

信徒には聖書を吟味することを禁じます。

唯一にして正統なものがあるのでしたら、もう吟味する必要はありませんからね。

+++

一般信徒には聖書を読むことも、禁じます。

聖書の内容は複雑だから、素人の信徒がそれを解釈するのは危険だ、というのが理由の一つです。


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その状態で教会は、日曜には礼拝サービスを提供し、週日には信徒に葬式や結婚式などのサービスを提供します。

それらの費用や、教職者の給与や様々な教会活動の費用は信徒の献金でもってまかないます。

こうやって教会を発展させ成長させていく。

この面は、現代社会の会社、企業に共通しています。




<両方式の比較~カトリック教会~>

カトリック方式の教会はまた、この世に存在する他の多くの宗教教団と共通した性格を多く持っていきます。

たとえば日本の浄土宗や浄土真宗は次のような方式をとっています。

まず、どちらも、全国に存在する配下の寺(末寺という)を管理する本部(本山という)をもっています。。

そこが全国の支部寺(末寺という)を管理・運営するのです。

浄土宗の本山は京都の知恩院です。

浄土真宗は本山が二つあって(関ヶ原の戦いの後に分立)、西本願寺と東本願寺がそれです。

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本山は、各地の末寺(まつじ:まつでら、といわれることも多い)に自派の寺として運営する認可を与えています。

また、教会の正統教理を教える学校(神学校)をつくり、その卒業生に僧侶資格を与えます。

そして彼らに各地の末寺で働く許可を与えます。

信徒は、それらの末寺に所属する檀家となります。

そして、葬式などの諸サービスを受け、お布施(献金)をします。

末寺は集めた献金の一部を、本山に収めます。

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カトリックも同様なことをします。

信徒を教区に分け、そこに教会堂をたてます。

そこ(教区教会)に、信徒を所属させる。

これは日本の仏教での檀家に相当します。

そして、それらを本部で管理し運営します。

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本部には神学校も造ります。

そこを卒業した神学生に教区教会の諸行事を司る権限を与えます。

これが司祭です。

司祭は、様々なサービスを行い、信徒から献金を集め、それを本部に上納します。

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カトリック方式の教会では、一般信徒はもちろんのこと、一般の職業僧侶も教典をよみません。

教会本部には教団の正統教理があります。

それと異なる聖句解読をすると「異端!」として攻撃される。

だから、やはり実際には、聖書の奥義の探求はできなくなるのです。

+++

浄土真宗の職業僧侶も同じで、彼らは教典など探求しません。

そもそも彼らは漢文の解読能力を持っていない。

本部の学校では、漢文の音読だけを学びます。

それができれば、就任した末寺や檀家でのサービスは出来るのです。


ところが教典は漢文で書かれていますから、奥義の探求など出来るわけがない。

その状態で、経文の音読をして、日々の檀家サービスをこなしているのです。




<ベルグソンの「動的宗教」「静的宗教」>


すこし余談をします。

フランスの哲学者ベルグソンは宗教を「動的宗教」と「静的宗教」とに分けています(『道徳と宗教の二源泉』)。

動的宗教とは、教祖が霊感を受けて活き活きと語り、信徒が精神が活性化した状態で活動している時期の宗教です。

大発展する宗教は、発足当時には動的であるとベルグソンはいいます。




<静的宗教>

ところが教団が発展して社会的に大きな勢力になると、事態は変わってきます。

国家を運営する側の人の主たる関心は、国家社会の安定にあります。

そこで、大教団を現実社会を安定させる一機構として組み込もうとしてきます。

大教団も要求に応じて社会機構としての役割を増していく。


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その過程の中で、たとえば活動の儀式化も進みます。

言葉での説明が少なくなりそれが儀式に入れ替わる。

「まあ、難しいこといわないで従いなさいよ・・・」となるわけです。


儀式とは「教え」の内容を、シンボル化したものです。

シンボルとは、複雑な実在を簡易な事物で現した〈象徴した)代替認知物です。

これでもって「教え」を抽象化したのが儀式です。

この儀式の割合が、活動全体の中で、多くなっていくのです。

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こういうことが進むと、その宗教から当初の活力が減退していって、静的になる、とベルグソンは考えます。

その結果出来上がるのが、彼のいう静的宗教です。






<「哲学」の天才ベルグソンも初代方式教会には盲目>

これをいうとき、ベルグソンの意識にある手がかり、ほとんどもっぱらカトリック教会です。

彼は天才的哲学者ですが、宗教の知識は人並みでした。

彼の生きた近代フランスは、カトリックが圧倒的な国になっていました。

彼はそのカトリック方式の教会だけを経験素材として理論を立てているのです。

初代教会方式の聖句自由吟味方式教会活動には盲目なままで理論を作っています。

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けれども、カトリック的な方式の教団の性格変化を見るには、彼の理論は役立ちます。

浄土宗も浄土真宗も、戦国時代の後には大宗教になっていました。

ベルグソンの理論でいえば、静的宗教化していました。

その過程で、浄土真宗も、社会の一勢力として政治と組み合わさっていきます。

徳川時代に本山は、東(東本願寺)と西(西本願寺)に分けられました。

それは強大になった本願寺勢力を弱めるために、徳川幕府がうった政策の結果とみられています。




<発足に現実対処的な要素があった>

カトリック教会のケースでは、そもそもの発足の動機に、現実対応の要素が多分に含まれています。

聖書を読まず、聖書解読の意欲もあまりない大衆の参加希望者が、大量にやってきた。

担当者は、これに現実的に処していく必要性に迫られました。

その状況の中で、前述したような対応策が出来ていったのです。

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それもあって、カトリック教会には現代のサービス企業と共通した面もあります。

もちろん「イエスを信じることによって天国が約束される」という精神はあります。

キリスト教会ですからね。


++++

だが同時に、現代のサービス企業に共通する要素も運営面にはあるわけです。

そしてこの知恵が、「経営的」には、大成功をもたらし集団は急成長しました。

それは教団の規模と財力を急拡大させました。

ローマ帝国政庁も、これには関与せずにはいられなくなります。

教団も存続のためには、要望に相応に対処してかねばなりません。

そうこうしているうちに、やはり「世的」で政治的な要素は増大していくのです。

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コンスタンティヌス大帝は、そのカトリック教会を、公認宗教といたしました。

大帝は、公認主教の中でも、この教団をとりわけ優遇しました。

それによって、教団には世的・社会的な権力も増大していきます。




<「世の」権力者は権力を際限なく求める>

そして世的な性格を持った人間集団は、その権力をまずます大きくしたい欲望をもっていきます。

権力というのは便利なもので、人を説得の手間をかけずに従わせることを可能にします。

だから人はこれを一たび味わうと、もっと欲しくなるのです。

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カトリック教団は、ですから、自然に国教の地位を求めていくことになります。

教団に、国家の権力を具備させようとするのです。

そこで、大帝亡き後のローマ政庁に対して「国教化」への働きをかけ続けます。

大帝の後継者には、国教のマイナス面(前述しました)を洞察する力はありませんでした。

紀元後392年、カトリック教会はついにローマ帝国の唯一国教となります。




<初代方式の教会員は学者的>

他方、初代方式教会はどうでしょうか?

こちらはカトリック方式教会と対極と言っていいほどの性格をもっています。

まず、この集団はとても学者的、研究者的です。


活動の主目的が、霊界を含めた実在を知ることにあるのですから。

目的が個々人の「知」の深化にあるのです。

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初代方式の教会はまた、聖句解釈の自由を大原則にしています。

だから、各々が自分の解読結果、自分の聖書解釈をもつことが出来ます。

これも学者的です。

学者は学会に出ていろんな人の研究報告を聞き、議論をします。

だが、結局はそれらの情報を自分の知識に生かそうとしますからね。

そうした意味でも、初代方式の教会活動は、学会と共通した性格になっているのです。





<カトリック方式の教会員は小中学生的>

対してカトリック教会では信徒は、教団教理を正統な解釈として与えられます。

こちらは、日本の小学校、中学校の生徒のようです。

日本の義務教育では、学会で定説となった知識を教師が一方的に与えるのみですからね。

その知識の吟味は許されません。

カトリック教会の信徒は、日本の義務教育の学校生徒のような性格を持つことになるのです。




<自由吟味方式はキリスト教界のみのもの>


では、ほかの宗教はどうか?

たとえば仏教界に教典の自由吟味活動する方式の寺などあるのか?


ありません。

他の宗教界でも、初代方式のキリスト教会のような活動は、見当たりません。

初代方式の教会活動は、全宗教界においてもユニークそのものです。

全くもって特異な活動なのです。


+++

この方式の特性を、今ひとつ踏み込んで把握しておくことが必要です。

キリスト教の正しい認識にも、今後の歴史把握のためにとても重要なのです。

考察の糸口としては、どうしてこんな活動がキリスト教の分野で可能になったのか、などが有効だと思われます。

そして、一つにはそれは、聖書という教典の特異性によるところが大きそうです。


そこで、この辺りから説明に入りたいと思います。

だがそれには、かなりな言葉を費やさねばならない予感がします。


従ってそれは次回にまとめて論じることに致しましょう。



(「キリスト教の正しい学び方」   第20回  完)










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(臨時版)日本学校教育の疾患と打開法

2016年03月18日 | キリスト教の正しい学び方




みなさんこんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、ここで臨時版を差し挟みます。

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「生徒の万引き記録をとりちがえ、やってない生徒を自殺させた」・・・という事件が最近ありました。

聞いた当初私は唖然としました。

だが、しばらくするとそこには教育の深い疾患が感じられてきました。

原因は単に担当女教師のずさんさにだけあるのではないのではないか。

もっと深く広範なところに遠因があって、それは、日本学校教育の根底的な疾患に根付いているのではないか。

また、テレビに登場したあの校長の、「人畜無害なニコニコおじさん顔」にも、なにかのつながりがあるようにも感じられてきました。

わたしはそれを、根底的なところにまで踏み込んで考えてみようと思いました。




<理想の人間像が教育の土台>

教育思想の背景には、理想とする人間観、人生観があるものです。

その上で、教えられる生徒を、それに近づけていこう、とする。

そこから方法は産まれるはずです。

日本の事例で考えてみましょう。




<武士道>

日本の学校教育は、明治から始まりました。

その際の理想人間像は武士道のそれだけでした。

武士には、武士道という人間思想があった。

そして日本の明治以前の時代には、人間観をベースとした教育思想を持てるのは、武士だけでした。

それ故、結局武士道人間像だけが人間の理想像として作用したのです。

+++

そこでは「武士たるものは自分が属する藩の存続発展のために役立ち、必要とあれば”死ぬ”ことの出来る人間たるべし」、と考えられていました。

「武士道とは死ぬことと憶えたり」という言葉は、それを端的に示したものです。






<普段は事務仕事をする>

といっても、藩のために「死ぬ」場面はそう頻繁にあるわけではありません。

武士の普段の仕事は、藩の運営のための事務仕事でした。

農民が農地を耕すように、普段には一兵卒として効率よく事務仕事をこなすのが武士の理想でした。

またそれらを道徳観を持って行うための「論語」の知識をもつことも理想として加えられていました。

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つまり、最低限「読み、書き、そろばん」ができ、論語の知識を持ち、「ここと言うときには」恐れずに死ぬことのできる人間、これが武士の理想像でした。

そこで武士教育の教師も、そうした人間を育てることを教育の責務と考えていました。




<「命令=服従」の学習方式>

武士は、戦の時には戦う軍人でもあります。

軍隊の行動原理は「命令=服従」です。

戦の時、話し合いでことを決めていては、敏速な集団行動が実現しないからです。

+++

この鉄則は、論語や、読み書きそろばんを教える際にも貫徹しました。

武士の教師は、学習させる際にも、自然にそれに沿った行動様式を取りました。

生徒に定番の知識を与え、その吸収を「命令し従わせる」のです。

「信之介、わかったか、では復唱してみろ!」と言うがごとくです。

そうすることが教育の神髄だという信念を、教師も教えられる側もごく自然に持っていました。




<国民国家実現は急務>

その状態で、日本は西欧列強に囲まれ、植民地にされる危機に立たされました。

植民地にされないためには、西欧のさまざまな事物を吸収しなければなりません。

明治新政府は、西欧近代国家を目指して、日本再構築を開始しました。

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西欧列強は人民が「国家」を意識して結集する、いわゆる「国民国家」を実現していました。

日本にもこの体制の確立が急務でした。

軍人である武士が、各々自藩のために命を賭けている状態では、国家としての一体性が形成できないのです。




<「藩」を「国家」に置き換える>

そこで、新政府は命を賭けるべき対象だった「藩」を「国家」に置き換えました。

「藩籍奉還」と「廃藩置県」を強行し、藩を消滅させた。

そして、天皇を国家のシンボルとして、人民の意識を国家に結集しようとしました。

徴兵制でもって、武士だけでなく、日本人全部が軍人になりうるようにもしました。

こうして西欧並みの「国民国家」の実現に突き進んだのです。





<武士道ベースの教育哲学でばく進>

そういうわけで、西欧にならって造った学校でも、そこでの教育方法の型は、江戸時代の武士道のままでした。

理想の人間とは、必要なときには(藩ではなく)国のために恐れず「死ぬ」人間だ。

近代国家に役立つ人間になるには「西洋の学問から得られる定番知識」を身につけることも必要だ。

学校では、そういう国民を造るべく、知識の吸収を「命令=服従」の方式で、やらせました。

初期に学校教師になるのは、武士あがりの人々でしたので、それはもう自然な帰結でもありました。




<日本軍人は強かった!>

この方式は、日清戦争、日露戦争で大いに効力を発揮しました。

学校で訓練された「命令=服従」の行動様式は、すなわちそのまま、軍隊の求めるそれだったのですから。

日本政府は以後も戦の可能性の中にあり続けました。

だからこの軍国的な学校教育方式は、大正、昭和になっても続けられました。

+++

その勢いで、日本は中国を侵蝕し、東南アジアから西欧諸国を追い払い、みずからの植民地としました。

「父よあなたは強かった!」


(昭和14年の軍歌の一節:  一番の歌詞は・・・


  「父よあなたは強かった   兜(かぶと)も焦がす炎熱に

    敵の屍(かばね)と共に寝て 泥水すすり 草を噛み

      荒れた山河を 幾千里     よくこそ撃って 下さった」)


      https://www.youtube.com/watch?v=5XXggeAttdw



日本軍は破竹の進撃を続けました。

進撃の半分は、武士道教育で育った人間の惰性によるものでもありました。




<米国に張り倒されても無思想教育に走るのみ>

惰性は止まりにくいものですが、日本の指導者はとくにそうした全体的な方向運転は苦手でした。

この動きは、米国に張り倒されてやっと止みました。

太平洋戦争で、原爆のダブルパンチを食わされ、第二次大戦で敗戦してやっと止んだのです。





<一億総懺悔>。

すると日本人は、それまでの全ての事柄について総懺悔を始めました。

純朴の民なんですね。

学校教育については「天皇現人神思想にだまされてきた!」と気付いた。

その勢いで「もう思想教育なんてゴメン」となって、戦後の学校教育は「無思想教育」となりました。

+++

ただし無思想といっても、全く何もないのでは行動できません。

総懺悔の空白地帯の中に、長年すり込まれてきた人間観が残存しました。

教育の基礎には、武士道の人間観が潜在したのです。




<命令調ベースの知識供給>

これはもう、他にこれといった思想が見付からなかったことによります。

日本の思想資源はあまり豊かでなく、その人間観は単純なのです。

だから日本人には、教育方法の改善も、難しかった。

その結果、今も、学校では定番知識が命令調ベースで提示されます。

そしてそれを素直に吸収する生徒が、いい生徒、となっています。




<何故か「自分の頭で」考える子が出ない>

ところが、そうやっていたら、何故か「自分の頭で考える」姿勢が強く産まれません。

創意工夫の力の強い子が例外的にしか出てきません。

平和の中では、それが問題にされたりしてきます。

にもかかわらず、その原因がよくわかりません。

具体的な対策もイメージに浮かびません。

それが日本の教育界の実情です。





<西欧は「自由意志を働かせる」教育>

なぜか?

明治維新で西欧の学校制度を真似たにもかかわらず、西欧の教育観を踏み込んで知ろうとしなかったからです。

その土台にある、西欧が理想とする人間観を認識するための、地道な努力をしなかったからです。

+++

西欧の教育方式は、武士道方式とは対極的なものです。

+++

それは聖書の人間観をベースにしてできています。

聖書は、「創造神は人間を”自由意志を持つように”つくった」という思想を持っています。

一旦そう造ったからには、創造神は、人の「自由意志領域に立ち入って強引に動かす」ことはしない。

「万物の創造主」は本来、何でも出来る全能者なのに、そういうことは決してしない。

聖書には、その論理が貫徹しています。

+++

そして、実際に人に「自由意志でもって知識を吟味」させてみます。

すると、事実として人間の精神は最大の活性を発揮するのです。

そこで、西欧の学校では、自由意志を働かせて知識を吟味して学ぶように、生徒を誘導します。




<発端は聖句自由吟味活動に>

こんな方式がどうして考案されたのか。

実はこの方式は、初代教会でなされた、「小グループでの聖句自由吟味活動」として誕生しています。

それが紆余曲折を経て(本シリーズで明かしますが)西欧に広まり、学校教育も、この方式でなされるようになっているのです。

+++

実は鹿嶋がこの「キリスト教の正しい学び方」で明かそうとしている最大のテーマは、そのことの歴史的な実態です。

だが、実際には今話はその途中です。

だからこの(臨時版)は、はからずも、その課題を先取り的に示してしまうことにもなっているのです。




<日本でもセンスのある教師は>

ここで、留意しておくべきことがあります。

日本の学校に、輸入された西欧文化の中に、西欧教育の「自由意志方式」を察知した教師もわずかながらいたということです。

彼らはそれを、日本の学校制度の中で、臨機応変に試みました。

+++

これは、持って生まれた「教育センス」でもってなされるものです。

どの社会,いつの時代にもセンスのある人間はいるものです。

彼らは、自由意志を発揮させて得られる教育効果を、本能的に悟ってやってきているのです。

+++

そして彼らは日本では少数者ですから、その成果が目立ちます。

だから語りぐさにもなってきました。

けれどもれでもって、日本にも西欧風の「自由意志方式」が大いにあったのだ、と一般化してはなりません。

そういう印象に飲まれてはなりません。

大勢としては、そういうものは日本にはなかったのです。

日本の大勢は、武士道方式だったし、いまも基本はそうなのです。

+++

繰り返しますが、センスのある教師は例外的に少数でした。

日本の大多数の学校教師は「命令=服従」ベースによる「知識の刷り込み」しか知りません。

その実情を踏まえていないと、教育問題は夢想の中に蒸発していってしまいます。




<指導者資質を殺いでいく>

日本の教育事例に戻ります。

武士道ベースの教育は、現場の一兵卒を育てるには適合しています。

だが、それは同時に、人の内にある指導者資質を殺ぐ働きをします。

+++

軍隊であっても、指導者に求められる資質は、現場の兵卒のそれとは一線を画します。

指導者は、戦の「全体像」を動態的に認識しつづけていなければなりません。

そして対応する戦略を常時考案し実施しつづけてなければなりません。

「自分の頭で考える」能力とは、そういう能力をいうのでして、これは指導者の地位を占めたものは絶対にもたねばならない。

(なのにその地位を、自己の利得を主目的として占めたものが多数になった結果が、昭和の悲劇でした)

+++

そういうことを漠然と認識するのは容易です。

だがその能力がどうやったら育成されるかを「具体的にイメージする」ことは難しい。

司馬遼太郎さんが描く、明治の指導者は少数の別格でした。

その資質の人間を多数育成することは日本の学校教育には出来ませんでした。

出来ないままに、兵卒人間を量産し続けた。

そして、米国に張り倒されて敗戦して、ようやっと眠りから覚めたのが今の日本です。





<本質抜きの民主教育>

目が覚めた状態の中に、戦後、教育改革の衣装を着て登場したのが民主教育です。

「これまでは封建主義だった。これからは民主主義を教えねばならない」。

~こういって生徒に自治会などをさせました。

だが、それは民主主義という思想のもつ本質に無知なままでおこなわれました。

ただ、形として、民主政治のまねをさせただけでした。




<定番「旧約解釈」の自由吟味活動>

西欧民主主義の根底は、定番だった旧約聖書の解釈を、自由に吟味することから発しています。

まず、個々人が自由に解読し、それを、数人の小グループに持ち寄って自由吟味する。

そこから産まれる個性的な解読を、できうる限り活かして全体社会の決定が出来ることを彼らは願った。

その願いから、民主制という、多数決にして少数意見に留意する決定制度が考案されたのです。

その精神を日本人は味わっていない。

だから、民主教育もまた、命令でもって押しつけられる定番思想になってしいるのです。




<定番知識も吟味すれば精神は活性化>

教科書にある知識は、学界で定説化している定番知識です。

こういう知識であっても、自由吟味させれば、人間の精神は(もちろん子供の精神も)活性化します。

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西欧の自由意志ベースの教育では、精神の活性度は最大の鍵です。

そもそも、「創意工夫する」とか「自分の頭で考える」のは、精神と「知」の活性がなければできません。

とりわけ、指導者にもなり得る人物を育てるには、その精神の活性化を最大目標にすべきです。

定番知識をすり込んであげるだけでは、生徒の精神は、倦怠化し、鈍化します。

そうなった人間は、兵卒として使うしかなくなるのです。




<認識論的にいうと>

今回の「万引き取り違え事件」にもどりましょう。

教師にとっても、校則は一つの定番知識です。

それは本来、教育思想を背景として出てきているものです。

だが、吟味しなければそれは、単なる定番知識のままとなります。

+++

定番知識のままでただそれを見ていると、人は飽きます。

これに直面していると、人の精神も知性も鈍化します。

それは不快な状態だから、人間はあえて対面しなくなる。

今回の女教師もその一人と推測されます。

+++

そして彼女に限らず、日本の教師の大半は、そういう精神状態にあります。

そして、これらの教師たちは、実際のところ、知の活性化している外部のフリーの教師(塾などの)たちの教育活動を妨げています。

実例をいいます。

たとえば、小学校の学校教師は、音楽で、「スタッカート」だけを正しいとし、「スタカット」「スタカート」とあると、間違いにしてしまいます。

成績をつける権威をかさにきて、そういうことを平気でやっている。

これがたとえば、音楽の本質を教えようとする、音楽塾の外部教師を、苦しめています。




<校長のなすべきこと>

学校教師は、それを、自己保全のためにやっています。

小さなクレームで職を失う恐怖で、やっている。

立場が弱いが故にやっている。

++

実は、校長の大きな任務は、この恐怖を取り除いてあげることにあります。

この状態の打破を促すべく、現場の教師たちに校則の自由吟味をさせる。

そのことへの恐れを取り除いてあげるのが、すぐれた校長や教頭です。

+++

ところが、校長自身がそれを怖がっていたらどうなるか。

何もしないで、人畜無害なニコニコおじさんでいるしかないでしょう。

鹿嶋は、テレビに出てきた校長の顔、姿にそういう保身動機を見るのです。





<例外的校長>

しかしここにもやはりセンスのある人物はいます。

この校長は、現場教師に吟味の自由を与え、活性化する働きをします。

しかしここでも、日本ではそれは、きわめてわずかしかいません。

この人は、人畜無害の空気のような存在でないと、校長になりにくい中で、一種の有能さで校長になった。

そういうケースが多いです。

だがそういう人物は、日本ではごくわずかで、多数派にはなりがたいのです。




<根底的打開策>

この事態はどう打開されうるか?

唯一の打開策は、多くの日本人の意識が変わることです。

それは知識の自由吟味がいかに活力社会を造り上げてきたかを示す「歴史事実」を知ることで、実現するのです。

+++

人は、個人に知識の自由吟味を許すと、その集団社会が無政府状態になると直感し懸念します。

だが、現実にはそうはならない。

集団の成員は、基本的な原理を共有するようになる。

だから無政府状態にはならない。

これは歴史のなかの事実をみて知る以外にありません。

+++

鹿嶋は、多くの日本人がこれを知ることが、カギだと思っています。

日本が、指導力、ガバナビリティの欠如によって崩壊するのを救う唯一の道だと思っています。

この「キリスト教の正しい学び方」シリーズを書いている大きな理由がそこにあります。

だけど、それにも歴史事実を示すことが必須です。

だから、「調べて書く」「調べて書く」を繰り返しています。

+++


それゆえ、本来それは、結論的なところで述べるべきものです。

けれども、今回のあまりに哀れな事件に触発されて、先走ってしまいました。

また、本論に戻ります。



(臨時版: 「日本学校教育の疾患と打開法」  完)







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Vol.19 驚異の征服力がキリスト教土壌を急拡大

2016年03月02日 | キリスト教の正しい学び方





みなさま、こんにちわ。

きょうもまた、「キリスト教の正しい学び方」を進めて参りましょう。

+++


前回、古代ローマ国は、まるでキリスト教を受容するべく準備された受け皿のようだった、と申しました。

この観点からローマ帝国をもう少し見ておきましょう。

+++

古代ローマ人のもつ征服力は、近代以前の人類史では空前絶後です。

バリスタという強力な弓兵器、合理的な軍団編成・運営方式、闘技場(コロッセイム)に今もみられる土木建築技術・・・どれをとっても、その先進性は驚異的です。

これでもってして、ローマは短期間に全欧州、および、アフリカや中東の地中海沿岸地域を領地に収めました。




<スコットランドは強かった>

ただし現代のイギリス本島(ブリテン島)の、北半分は領有できませんでした。

ウェールズ地方とイングランド地方は征服しましたが、今のスコットランドにあたる地域は残りました。

スコットランド軍は、例外的に強かったようです。




<驚異の土木建築力>

そこでローマはスコットランドとの境界線に、ブリテン島を東西に横切る長大な城壁((ハドリアヌスの長城)をつくりました。

1万五千人の兵士が、厚さ3メートル、高さ6メートル、長さ120キロの城壁を建築した。

わずか5年間で完成させたといいます。

ブルドーザーのない古代のこの時期に、こんなことをやってのける人間集団〈国家)があったなんて、うそのようです。




<一体性維持の問題>

話を戻します。

破竹の勢いで領土が拡大すると、国家としての一体性を維持するのが大仕事になります。

有力な将軍の駐在地が地方に分散していくからです。

彼らは政治的にも有力者で、その地の統治者となります。

この人たちの精神が首都ローマの中央政庁と相呼応する状態を保つ努力が、帝国の一体性維持に必要になるのです。




<弾力的な権限配分>

しかしこの問題にもローマ人は卓越した才能を発揮しました。

彼らは皇帝と元老院との権限配分を柔軟に調整することでもって対応しました。

一体性向上の強力な決め手は、皇帝権力の強化です。

いわゆる五賢帝時代は、聡明な皇帝が、強化された帝権を用いて適確な統治を行った時代です。

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皇帝の能力が凡庸化すると、各地を実質的に統治している将軍の政治力が相対的に強くなります。

こういうときには、元老院の権限を強化して危機を乗り切ったでしょう。


   

<ディオクレティアヌス帝の四分皇帝制>

そうしたなかで再び有能な皇帝が出ました。

ディオクレティアヌス帝です。

彼は自らの指揮下に政権を集中させると、帝国を四つの地域に分けました。

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一つは皇帝に、三つは副帝に統治させた。

この副帝たちは一年ほど経つとその地域の皇帝になります。

実質、四皇帝制へといいう大改革を行ったわけです。
〈彼自身はそうしておいて、あっさりと引退してしまいました)

この時代は四分皇帝時代ともいわれます。




<拡大し続けた快適空間>

ローマは隣接地を征服すると、そこに小ローマを造っていきます。

そこで市民権を得ているものは、快適な生活をします。

鳥瞰すると、こうした快適空間は欧州と地中海沿岸地域で拡大していきました。

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こういう空間に住むと、市民は永遠理念を求めるようになります。

このようにして、ローマ帝国はキリスト教の受け皿を拡大していきました。



<永遠理念の役割>

現世的な快適社会に住むと、人は何故永遠理念を求めるのか。

「肉体は死んで消滅する」という事実がもたらす、自己への空虚感を深く感じるようになるからです。

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そしてそこに永遠世界の理念が入ると、意識が変わってきます。

永遠世界の理念は、人間がその中に自分を位置づけ、自己に永遠の属性イメージを抱ける道を開くのです。

たとえば、霊的世界の理念は永遠世界の理念です。

これをもち、人間は肉体だけでなく霊からも構成されている、という概念をもつと、事態は変わります。

人は自分に永遠の属性があるというイメージを得るのです。




<自価意識が急上昇する>

するとそれは、当人の自価意識を急上昇させます。

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「自価意識」とは、「自分という存在が、が存在する価値あると思う意識」です。

人間は現実社会で様々な価値理念を造って、自分に付加しています。

それで自価意識を造り、精神に活性を得て生きている。

自価意識は、日々生きる人間の精神と知性の活力の基盤として働いているのです。

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ところが、本体の自分が「死んで消滅しておしまい」ならどうなるか。

価値とは所詮、本体に付加される「意味のイメージ」です。

そのご主人が消滅したら、価値〈世的な)は空しいものとなってしまいます。

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人はそういうことを、本能的に感じつつ生きています。

だから、人が通常自覚している現世的な自価意識は希薄で弱いものなのです。

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ところが「肉体が死んでも、自分の霊は永続する」との理念をもつと、それに付加される価値イメージも安定化します。

それによって、自価意識は持続的になり、強く濃厚になります。

さらにその価値が、霊的なものとしてイメージされるならば、自価意識は飛躍します。

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キリスト教思想は、その永遠理念を供給する強靱な論理体系を持っています。

だから、それはローマ帝国空間では、「砂漠での泉」となって市民の心に染み込んだのです。

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当時キリスト教はローマ統治下の空間では禁教でした。

にもかかわらず、キリスト教活動は、地下運動として拡大し続けました。




<聖セバスチアン事件>

そこに、後に「聖セバスチアンの殉教」と命名される事件が起きました。

皇帝のお膝元で起きた。

皇帝の親衛隊長、セバスチアンがキリスト教信徒だと発覚したのです。

彼が他の信徒を密かに助けていたことがわかった。

皇帝の取り巻きは激怒します。

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セバスチアンは、弓の射手に取り囲まれ、矢を射られ続けるという刑に処されます。

その矢がハリネズミの針のような状態になった、との言い伝えもあります。




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余談です。

この場面を描いた絵画「聖セバスティアンの殉教」に心をとらえられた少年が、戦前の日本にいました。

後の作家・三島由紀夫です。

彼は、この絵に「自らの肉体的生命以上の価値を抱く崇高さ」を感じ取り、鮮烈な感銘を受けた。

そして、戦後の日本国家にそれがないことを嘆き、天皇親政を取り戻そうとしました。

天皇に再び「そのために死ぬ価値ある対象」になってもらおうとしたのです。

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彼は「盾の会」という集団を組織し、彼らと共に、市ヶ谷の自衛隊駐屯所の総監室に突入した。

総監に革命の必要を説くためでした。

そして説得がならぬとみると、切腹し、同志に首をはねさせて死を遂げました。

「自分のいのち以上に価値ある理念のために死ぬ」という理想を自ら実践したのでした。

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話を戻します。

セバスチアン事件を契機に、ローマ政庁はキリスト教徒絶滅政策を開始しました。

ちなみに、この政策はディオクレティアヌス帝がやったと通常、言われています〈教科書もそうなっている)。

だが、実際にはそうではなかったようです。

この皇帝はキリスト教には寛大だった。

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303年から始まるキリスト教徒絶滅作戦を主導したのは、共同皇帝ガレリウスでした。

広域統治の天才、ローマの帝国政庁は、あの広大なローマ領地全土で、絶滅大作戦を展開しました。

地下運動のキリスト教活動を見つけ出し、信徒を捕らえ、見せしめの拷問をしたうえで殺していく。

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闘技場で流血の殺し合いを楽しむローマ人です。

闘技場の定番メニューは、午前中が動物と剣闘士の戦い、昼休み時間が罪人の公開処刑、午後が剣闘士同士の殺し合いだったという。

〈こんなのを年中楽しんでいる連中と、戦場で出会いたくないなぁ〉

彼らは、処刑においても合理的で残忍でした。

魚を料理するかのように、キリスト教徒とカトリック教会の指導者を拷問し、処刑しました。

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ところがガレリウスは311年に、性器が腐るという過酷な病にかかりました。

今で言えば糖尿病だったのでしょうか。

神罰でもイメージしたのか、この年に、迫害解除布告が出され絶滅政策は終了します。

ガレリウスは、その年に死んでいます。




<中央政庁の権威失墜する>

9年近くにわたる国家的大政策が失敗に終わってしまいました。

こうなると、中央政庁の権威は失墜します。

各地の皇帝や将軍たちは、国家統一を目指して戦争を開始しました。

そして、コンスタンチヌス1世が最終勝利をおさめ、内乱は収束しました。

彼は四分皇帝の一人、コンスタンティウスの息子です。





<「大帝」キリスト教を公認する>

帝国を再統一したコンスタンチヌスは「大帝」と称せられるほどに強大な皇帝権力を手にしました。

そして何と、313年にそれまで禁教だったキリスト教を公認したのです。

従来禁教だった最大の理由は、キリスト教が「創造神をローマの皇帝より上位におく思想」をもっていたことでした。

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だが、大帝はここでウルトラCのアイデアを実施した。

カトリック教団を抱き込み、活用する政策です。

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彼は「創造神は、天上天下のすべてを統治する存在であるが、地上の世の統治はローマ皇帝にゆだねている」という思想を教会に容認させたのです。

大帝はローマ人のもつ「現実的で広く体系的な思考」の資質をすぐれて体現した人物でした。





<公認のままに留め続けた>

カトリック教団内部に「次は国教に」という動きが生じるのは、時の勢い、自然の理です。

だが大帝は生涯、カトリック教会を公認宗教の一つにとどめ置きました。

国教ではキリスト教思想は、「ローマ帝国の一体性に貢献する理念にならない」と洞察したからでしょう。

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宗教に限らず、思想理念は、自発的に受け入れる余地を残してはじめて人々の心の内で躍動するものです。

外から受容を強制すれば躍動は止み、人心から理念のスピリットが抜け、外枠だけが残っていきます。

こうして思想は形骸化していくのです。

+++

カトリックの教えも国教として強制されればそうなるでしょう。

さすればその中に組み込まれた皇帝崇拝の教理も市民の心の中で形骸化していくでしょう。

そるとそれは帝国の一体性を支える機能をはたさなくなっていく。

大帝はそういう、人間精神の深淵を洞察していたのでしょう。




<首都を東に移す>

その一方で大帝はもう一つの国家スピリット維持手段をうちました。

再統一した帝国の首都を、ローマ市から東のコンスタンチノープルに移したのです。

従来の首都ローマは、現世快楽主義が蔓延し、諸思想が入り乱れて精神的にも魑魅魍魎の様相をなしていた。

大帝はこの都市で帝国精神を維持するのは無理と洞察したのでしょう。

首都を東に移しました。

+++

けれども西のローマ市はカトリック教会の本拠地です。

そこでは相応になすべき統治業務があって、すべての機能を移転することは出来ませんでした。

+++

その結果、ローマ帝国は事実上の分割統治的な状態になりました。

そして時とともに二つの統治空間は西ローマ帝国と東ローマ帝国と呼ばれるようになりました。

今回は、ここまでにしておきましょう。


(「キリスト教の正しい学び方」   第19回  完)










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