またまた臨時版で~す。
この臨時版は、前の回の「ヨハネ伝解読」でのコメント欄の続きを、
本文に持ってきたものです。
この「チャーチ」の基本スタンスを知る上でとても大事なことに思いますので、
もう一度繰り返して書いておこうと思います。
じゅんこさんのコメントに対する応答という位置づけです。
<聖句主義①>
聖句主義とは、英語ではBiblicismといいます。
そのまま訳すと聖書主義にもなるのですが、それですと、後に述べる「教理主義」の人も
「私も聖書主義ですよ」と言うことが多くなりますので、
あえて「聖句(聖書に書かれている言葉そのもの)」主義と鹿嶋は訳すのです。
これはイエスの教えに関する正否の判断の最終的なよりどころを、聖句に置くという行き方です。
<教理主義①>
教理とは聖書の解釈のことです。教義ともいます。
聖書の解釈はいろいろにできます。ほとんどの場合に、複数の解釈が成り立ちます。
教理主義ではそのうちの一つ(の解釈の言葉)を正統なものと決めます。
誰が決めるかというと、教団の本部にいる上層部の人が決めます。
そして、この解釈(教理)が正統ということでもって、
教理書をつくってキリスト教活動をやっていこうという行き方が「教理主義」です。
米国でも、過半数がこの方式の教会です。
(これが聖句主義の影響を地盤から受けながらやっているという風景です)
<聖句主義②>
聖句は実に様々に解釈できます。
その真意を探求すればするほど、短い人間の人生では「これこそ正統」という解釈に
行き着くことは不可能とわかります。
それでも色々みんなで探求しているうちに、各々が納得した解読分だけ聖句がわかるだろう
~そういうわかりかたでいこう、という行き方です。
そういういきかたが最大に効果を上げるには、個々人の聖句解釈を
自由にしてあげるのが必要です。
そこで「聖書解釈の自由」という原則を自覚的にたててやります。
<教理主義②>
キリスト教活動の最初は、みな聖句主義でした。
「使徒行伝」に出てくる初代教会の時代は、みな聖書解釈の自由でもってやっていました。
しかし、この方式ですと、教団に統率がとりにくい、ということで、教理主義でやるグループも出てきました。
もう、教団として正しい解釈(の言葉)を一つ定めて信徒にはそれを教えてやっていこうという行き方です。
信徒さんにもその方を好む人がいたようで、こちらの教会も繁盛しました。
<教理主義は聖句を吟味しなくなる>
教理主義ですと、聖句を吟味しなくなります。なぜ?
聖句を吟味するのは、それがどういう意味かを理解したい、
すなわち妥当な解釈を求めたいからでしょう。
だけど、正統な解釈がもう決まっていたら、吟味する必要有りますか?
ないですよね。聖書を読む必要がない。だから、聖句を探求しなくなります。
教理書は読むかも知れませんが、聖書は読まなくなります。
これは自然にそうなりますよね。
<聖句主義は吟味をし続ける>
聖句主義は逆に、聖句を吟味し続けます。
指導者も「この解釈が正統」という結論を出しませんので
(当人としては、その時点での確信あるものをもっていますけれども、
集団としての結論を出させない。そういう知恵です)、
結局みんなで各々聖句をああでもない、こうでもないと探求することになります。
そのことを強調するために、鹿嶋は聖句「探求」主義とあえていうこともあります。
聖句主義で行けば、これもごく自然に、聖句「探求」主義になりますからね。
<聖句主義と教理主義は絶対に相容れない>
聖句主義と教理主義が両立することは絶対にあり得ません。
このこと、じゅんこさん、以上の説明でおわかりになるでしょうか?
ここがポイントなのです。
聖句主義は、個々人の「聖書解釈の自由」を認め、大原則にします。
教理主義は個々人がそういうことをするのを許しません。
正統な解釈がもう決まっているのですから。
あとは教団の教理書(解釈書)を学習すればいいのですから。
だから、教理主義者は聖句主義者を撲滅しようとしていきます。
これも自然な流れです。
<日本人は無意識の教理主義者>
日本の信仰者は、そういうことを自覚していません。
最大の理由は、日本にはまだ教理主義のやり方しか入っていないことにあります。
聖句主義は日本にはまだ入っていないのです。
照らし合わせるものがありませんので、
自分たちのしていることが特徴あるものだという自覚すら出来ないのです。
(鹿嶋はそれを知らせるために『キリスト教のことが面白いほどわかる本』中経出版、を書きました。
じゅんこさん、よかったらお読み下さい。
たしかテキサスの方に、日本の商品をとってくれる通信販売業者がありました)
世界が女ばかりで出来ていたら、女は自分が女であるということを自覚できません。
日本に教理主義だけしかなかったら、教理主義者は自分が教理主義でやっている
という自覚が持てません。
それでいて、実際には教理主義でやっている。
だから、じゅんこさんが通われた日本の教会のようなことが
(元旦に親族の会合に行ったらもう送り迎えしないというような)、
ごく自然に起きるのです。
教職者の方々は、一つの解釈を正統で、他は正統でない(異端)と信じるのです。
聖書を信じるのではなく、自分の解釈を聖句の代わりに信じるのです。
そして信徒をきつく縛ります。
カトリックが国教だった欧州では、縛るどころか、宗教裁判にかけて火あぶりにしました。
それを自分が「神に奉仕している」と信じて行いました(イエスが預言した通りのことです)。
いま、火刑にはしないけれど、質的には同じことをやっています。
今も異端尋問所も異端審問官もあるそうです。
ちなみに、今の法王は異端審問官の出身だそうです。
ドスの効いた話ですね。
<聖句主義の行き方をよく知った上で>
じゅんこさんは、好奇心の強い純朴な方だと感じます。
しかし、その状態のままで鹿嶋の解読に伴走してこられますと、
それを、正統な解釈だと受け取りつつ進まれる可能性があります。
あるいは、「何か最終的に正しい解釈が人間に得られるだろう・・」
という意識を持ちつつ伴走されるでしょう。
すると、解読が進んでいくと、「もしもこれが正統でなかったら、自分は救われないのでは・・・」
という不安が早晩やってきます。
するともうシュリンクしてしまう。
「福音の自由」は無くなってしまいます。
おまけに、もう何が正しい解釈だかわからなくなって、精神混濁の状態になります。
こんなことなら「十字架で救われた」といった初歩的な解釈だけ知ってる方がよかった・・・、
ということになります。
~~それは春平太が最も避けようとしていることなのです。
鹿嶋が、コメントの最後に書いた~~
>鹿嶋の「当面の」見解は以上です(また、新しい眼が開けるかも知れません)。
~~という言葉を、読み流してくださってはまずいです。
鹿嶋の解読でじゅんこさんが目を開かれるところがあっても、
それも春平太に「当面」見えていることにすぎない、と把握することをこのチャーチは求めます。
聖句主義だとそうなるのです。そして、それは春平太チャーチのよって立つ足場なのです。
<聖句は誰にでも解読できていく>
聖書に書いてあることは、人間の根本に関わることです。
「自分は何故存在するか、何のために生きるのか、
自分をとりまく世界はどうなっているのか、死んだらどうなるのか・・・」
~~これらは、人間幼い頃から誰もが抱く疑問です。
聖書には、それへの応答が書かれています。
ですから、誰にでも一定の理解(解釈)が出来る内容のものです。
ただ、その解読の度合いが、人によって少し進んでいたり、初歩的であったりするだけのことです。
進んでいたって、みな「その時点でのもの」でして絶対の正解ではありません。
だから他者の解読は自分の解読を進める上で、助けにするだけでいいのです。
そして、時間がたったら、その解読の未熟な面も見えてきますので、
その時は、自ら進んだらいいです。
たかが人間のやる解読に、心酔したらいけません。
初歩的でいいから自分で考えていく。まずこのスタンスをしっかり維持することです。
その上で他者の解読をつまみ食いすべきです。
初歩的であっても、各々そういう段階からマイペースで段々と深めていくのが聖書です。
それ以外に、「身についた」聖句解読は出来ないと思います。
だから、どんな初歩的にな人でも、その人のペースで進ませるべきなのです。
自分自身もそうすべきです。ここに「聖書解釈の自由」の神髄があります。
<論理力の源も聖句主義に>
じゅんこさんは、観察力のすぐれた感性に恵まれた方だという印象を受けます。
そういう人は、受信内容がとても豊富になりますから、
これを論理的に整理するのに苦労します。
つまりその分、論理力、知力も訓練してあげねばならなくなるのです。
その訓練に世界最高の方法があります。それが聖句主義による聖書探求です。
これ、理屈でなく、鹿嶋春平太、一年間現場で確認したことです。
だけど、理屈でもわかることですよね。
人間が心の一番奥深くに抱いている問題を、聖書を手がかりに言葉で整理していくんですから・・・。
もやもやしていた意識の最深部が言葉にされ明確化されていく。
こうして意識の根底がすっきりしていきます。
これが人の知力を基底から高めていくのです。
日本人の知力水準向上の鍵も、聖句主義で聖書を楽しむことがどこまで普及するか
にかかっていると、春平太は確信しています。
聖句を自由に、マイペースで少しずつ解読されていく楽しみを味わわれたら、
ごく自然に、じゅんこさんの論理整理力も向上していくこと請け合いです。
努力などしなくても、自然に上昇していくのです。
また、そうなれば、同じ足場に立つ日本人が一人増えたことになり、春平太もjoyfulです。
(またまた臨時版でした)
この臨時版は、前の回の「ヨハネ伝解読」でのコメント欄の続きを、
本文に持ってきたものです。
この「チャーチ」の基本スタンスを知る上でとても大事なことに思いますので、
もう一度繰り返して書いておこうと思います。
じゅんこさんのコメントに対する応答という位置づけです。
<聖句主義①>
聖句主義とは、英語ではBiblicismといいます。
そのまま訳すと聖書主義にもなるのですが、それですと、後に述べる「教理主義」の人も
「私も聖書主義ですよ」と言うことが多くなりますので、
あえて「聖句(聖書に書かれている言葉そのもの)」主義と鹿嶋は訳すのです。
これはイエスの教えに関する正否の判断の最終的なよりどころを、聖句に置くという行き方です。
<教理主義①>
教理とは聖書の解釈のことです。教義ともいます。
聖書の解釈はいろいろにできます。ほとんどの場合に、複数の解釈が成り立ちます。
教理主義ではそのうちの一つ(の解釈の言葉)を正統なものと決めます。
誰が決めるかというと、教団の本部にいる上層部の人が決めます。
そして、この解釈(教理)が正統ということでもって、
教理書をつくってキリスト教活動をやっていこうという行き方が「教理主義」です。
米国でも、過半数がこの方式の教会です。
(これが聖句主義の影響を地盤から受けながらやっているという風景です)
<聖句主義②>
聖句は実に様々に解釈できます。
その真意を探求すればするほど、短い人間の人生では「これこそ正統」という解釈に
行き着くことは不可能とわかります。
それでも色々みんなで探求しているうちに、各々が納得した解読分だけ聖句がわかるだろう
~そういうわかりかたでいこう、という行き方です。
そういういきかたが最大に効果を上げるには、個々人の聖句解釈を
自由にしてあげるのが必要です。
そこで「聖書解釈の自由」という原則を自覚的にたててやります。
<教理主義②>
キリスト教活動の最初は、みな聖句主義でした。
「使徒行伝」に出てくる初代教会の時代は、みな聖書解釈の自由でもってやっていました。
しかし、この方式ですと、教団に統率がとりにくい、ということで、教理主義でやるグループも出てきました。
もう、教団として正しい解釈(の言葉)を一つ定めて信徒にはそれを教えてやっていこうという行き方です。
信徒さんにもその方を好む人がいたようで、こちらの教会も繁盛しました。
<教理主義は聖句を吟味しなくなる>
教理主義ですと、聖句を吟味しなくなります。なぜ?
聖句を吟味するのは、それがどういう意味かを理解したい、
すなわち妥当な解釈を求めたいからでしょう。
だけど、正統な解釈がもう決まっていたら、吟味する必要有りますか?
ないですよね。聖書を読む必要がない。だから、聖句を探求しなくなります。
教理書は読むかも知れませんが、聖書は読まなくなります。
これは自然にそうなりますよね。
<聖句主義は吟味をし続ける>
聖句主義は逆に、聖句を吟味し続けます。
指導者も「この解釈が正統」という結論を出しませんので
(当人としては、その時点での確信あるものをもっていますけれども、
集団としての結論を出させない。そういう知恵です)、
結局みんなで各々聖句をああでもない、こうでもないと探求することになります。
そのことを強調するために、鹿嶋は聖句「探求」主義とあえていうこともあります。
聖句主義で行けば、これもごく自然に、聖句「探求」主義になりますからね。
<聖句主義と教理主義は絶対に相容れない>
聖句主義と教理主義が両立することは絶対にあり得ません。
このこと、じゅんこさん、以上の説明でおわかりになるでしょうか?
ここがポイントなのです。
聖句主義は、個々人の「聖書解釈の自由」を認め、大原則にします。
教理主義は個々人がそういうことをするのを許しません。
正統な解釈がもう決まっているのですから。
あとは教団の教理書(解釈書)を学習すればいいのですから。
だから、教理主義者は聖句主義者を撲滅しようとしていきます。
これも自然な流れです。
<日本人は無意識の教理主義者>
日本の信仰者は、そういうことを自覚していません。
最大の理由は、日本にはまだ教理主義のやり方しか入っていないことにあります。
聖句主義は日本にはまだ入っていないのです。
照らし合わせるものがありませんので、
自分たちのしていることが特徴あるものだという自覚すら出来ないのです。
(鹿嶋はそれを知らせるために『キリスト教のことが面白いほどわかる本』中経出版、を書きました。
じゅんこさん、よかったらお読み下さい。
たしかテキサスの方に、日本の商品をとってくれる通信販売業者がありました)
世界が女ばかりで出来ていたら、女は自分が女であるということを自覚できません。
日本に教理主義だけしかなかったら、教理主義者は自分が教理主義でやっている
という自覚が持てません。
それでいて、実際には教理主義でやっている。
だから、じゅんこさんが通われた日本の教会のようなことが
(元旦に親族の会合に行ったらもう送り迎えしないというような)、
ごく自然に起きるのです。
教職者の方々は、一つの解釈を正統で、他は正統でない(異端)と信じるのです。
聖書を信じるのではなく、自分の解釈を聖句の代わりに信じるのです。
そして信徒をきつく縛ります。
カトリックが国教だった欧州では、縛るどころか、宗教裁判にかけて火あぶりにしました。
それを自分が「神に奉仕している」と信じて行いました(イエスが預言した通りのことです)。
いま、火刑にはしないけれど、質的には同じことをやっています。
今も異端尋問所も異端審問官もあるそうです。
ちなみに、今の法王は異端審問官の出身だそうです。
ドスの効いた話ですね。
<聖句主義の行き方をよく知った上で>
じゅんこさんは、好奇心の強い純朴な方だと感じます。
しかし、その状態のままで鹿嶋の解読に伴走してこられますと、
それを、正統な解釈だと受け取りつつ進まれる可能性があります。
あるいは、「何か最終的に正しい解釈が人間に得られるだろう・・」
という意識を持ちつつ伴走されるでしょう。
すると、解読が進んでいくと、「もしもこれが正統でなかったら、自分は救われないのでは・・・」
という不安が早晩やってきます。
するともうシュリンクしてしまう。
「福音の自由」は無くなってしまいます。
おまけに、もう何が正しい解釈だかわからなくなって、精神混濁の状態になります。
こんなことなら「十字架で救われた」といった初歩的な解釈だけ知ってる方がよかった・・・、
ということになります。
~~それは春平太が最も避けようとしていることなのです。
鹿嶋が、コメントの最後に書いた~~
>鹿嶋の「当面の」見解は以上です(また、新しい眼が開けるかも知れません)。
~~という言葉を、読み流してくださってはまずいです。
鹿嶋の解読でじゅんこさんが目を開かれるところがあっても、
それも春平太に「当面」見えていることにすぎない、と把握することをこのチャーチは求めます。
聖句主義だとそうなるのです。そして、それは春平太チャーチのよって立つ足場なのです。
<聖句は誰にでも解読できていく>
聖書に書いてあることは、人間の根本に関わることです。
「自分は何故存在するか、何のために生きるのか、
自分をとりまく世界はどうなっているのか、死んだらどうなるのか・・・」
~~これらは、人間幼い頃から誰もが抱く疑問です。
聖書には、それへの応答が書かれています。
ですから、誰にでも一定の理解(解釈)が出来る内容のものです。
ただ、その解読の度合いが、人によって少し進んでいたり、初歩的であったりするだけのことです。
進んでいたって、みな「その時点でのもの」でして絶対の正解ではありません。
だから他者の解読は自分の解読を進める上で、助けにするだけでいいのです。
そして、時間がたったら、その解読の未熟な面も見えてきますので、
その時は、自ら進んだらいいです。
たかが人間のやる解読に、心酔したらいけません。
初歩的でいいから自分で考えていく。まずこのスタンスをしっかり維持することです。
その上で他者の解読をつまみ食いすべきです。
初歩的であっても、各々そういう段階からマイペースで段々と深めていくのが聖書です。
それ以外に、「身についた」聖句解読は出来ないと思います。
だから、どんな初歩的にな人でも、その人のペースで進ませるべきなのです。
自分自身もそうすべきです。ここに「聖書解釈の自由」の神髄があります。
<論理力の源も聖句主義に>
じゅんこさんは、観察力のすぐれた感性に恵まれた方だという印象を受けます。
そういう人は、受信内容がとても豊富になりますから、
これを論理的に整理するのに苦労します。
つまりその分、論理力、知力も訓練してあげねばならなくなるのです。
その訓練に世界最高の方法があります。それが聖句主義による聖書探求です。
これ、理屈でなく、鹿嶋春平太、一年間現場で確認したことです。
だけど、理屈でもわかることですよね。
人間が心の一番奥深くに抱いている問題を、聖書を手がかりに言葉で整理していくんですから・・・。
もやもやしていた意識の最深部が言葉にされ明確化されていく。
こうして意識の根底がすっきりしていきます。
これが人の知力を基底から高めていくのです。
日本人の知力水準向上の鍵も、聖句主義で聖書を楽しむことがどこまで普及するか
にかかっていると、春平太は確信しています。
聖句を自由に、マイペースで少しずつ解読されていく楽しみを味わわれたら、
ごく自然に、じゅんこさんの論理整理力も向上していくこと請け合いです。
努力などしなくても、自然に上昇していくのです。
また、そうなれば、同じ足場に立つ日本人が一人増えたことになり、春平太もjoyfulです。
(またまた臨時版でした)