鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

天皇即位フィーバーの背景にあるもの

2019年10月23日 | 政治見識のための政治学

 

 

天皇即位式典の情報を、全地上テレビはこぞって、しかも長々と流すことになりましたね。この機会に、天皇なる存在の正しい理解を示してみます。

現代の我々には、まず明治維新時点に焦点を置いて論じるのがいいです。

+++

明治新政府は、参事会を最高決定機関として開始されました。西郷、大久保、岩倉、大隈ら数人余の参議の合意でことが決定されました。


その決定の宣布に天皇が関わるのですが、これを考えるには、政治というものの本質を知る必要があります。
残念ながら当面、日本の政治学専門書も大学の政治学講義も、これらに盲目な状態でいますので、そこから語ります。

 

<国家の一体性>

政治は具体的には、政治権力を握った担当者によってなされていくリアルな活動です。自然に出来上がっていくものではありません。

その際、担当者の最初にして最大関心事は人民の「一体性」です。

その度合いは、打っていく政策の浸透度と効力を左右します。

また、一体性が崩れて分裂までいくと、政府そのものの存在が無となります。

そうなると政権者個人の存続、生存もできなくなる危険が産まれます。

+++

だから担当者は、なによりもまず、国論の一体性の形成に非常な努力をします。

出来上がった後にも、その維持に神経を使い続けます。

 

<「五箇条の御誓文」>

 

日本史の教科書では明治維新に関して「五箇条の御誓文」というのが出てきます。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に始まる5つの命題がそれです。

これまでは藩主や家老たちが決めてきた事柄を、これからはみんなが参加して公論でもって決めるのだよ、という宣言です。

これを読んだ生徒は、「そうだ、明治からはみんなで議論して決めていく時代に入るんだ」、と鮮烈な印象を受けます。

+++

だが、教科書のなかでこの話は立ち消えになっていきます。「万機公論」とは最後まで「理を通して」決定するという方式で、素晴らしいのですが、焦点から消えていく。


それは「理を通す」ことには「分裂による一体性喪失」の危険が伴走しているからです。百論続出して「まとまりが」つかなくなってしまう。その危険も大きいのです。

+++

これを和らげるために、維新の主導者たちが用いてきたもの、これが天皇です。
当時、天皇というのは、特別な神秘的存在というイメージが人民の間に濃厚でした。

そこで、明治新政府主導者は、最高決定機関だった参議会の決定に天皇というのをかませようとしました。

参議会の決定を最後に天皇にあげて、その決定を「みことのり」として下させるという方式をとったのです。

 

<天皇に「みことのり」させる>

いったん「みことのり」として降りてきたとなれば、政府の政策への反対は大いに抑制されます。

幕末から明治初期の当時、西欧列強は日本の植民地化を虎視眈々と狙っていた。そういう時代でした。

+++

こういう環境の中で国論が割れれば、各国は思い思いにその一方に荷担し、分裂をさらに拡大しようとするでしょう。それがすすんで、政府が機能しなくなったら、もう、列強の思うがままです。

かつて、インドも中国も英国によるその政策にやられました。

 

幕末日本でも、英国は薩摩を支持援助し、フランスは幕府を援助する姿勢を示していました。

そのまま二つに割れて、国内戦争になれば、最終的には勝者の側を支持した国の手に、国家統治の実権は握られます。

たとえば薩摩側が勝ったとすれば、薩摩は英国の意向のままになる。

すると英国の利権にあずかるべく、みんな英国側に~軍隊を携えて~加わってきます。

かつて中国がされたと同じ植民地状態です。

 

<非合理ゾーンを持ち込む>

そこで、明治新政府は天皇による「みことのり」を持ち込んだのです。

これは万機公論での「理」とは異質な、非合理要素です。神秘イメージ満載の天皇によって、万機公論に非合理要素をもちこむ。この手段でもって「もう公論はそこまでにしよう」という圧力をかけられるのです。

これは一体性の形成・保持には極めて有効でした。このようにして、明治の国難においては、天皇という存在は、相応の役割を果たしたのでした。

 

<人材の劣化>

ところがそういうと「ほらこのように天皇様は日本のためにお役立ちなのだ」という人々が、これまた非常に多い。「純朴者の国」ニッポンの現状です。

これには政治学教科書や政治学者の無能もあずかることろ大きいのですが、とにかくホントに純朴です。

 

+++

現実にはこの「みことのり方式」は長期的には大きなマイナス面も持っていた。この方式は、公論という合理的領域に、神秘という非合理領域をもちこむ方式で、マイナスも大きいのです。

政治権力ゾーンに身を置いていると、多大な社会経済的利得が得られるのが世の常です。

そこで、この非合理ゾーンに働きかけて、自分の子弟を政治業務を行うポストに就けてもらおう、とする親が必ず現れます。親は子に弱いのです。

こうして、人事面で理の通らない行為がおこなわれ、これが人財の劣化をもたらします。

この動向は、時を追って拡大します。同類はあい集まります。非合理な神秘ゾーンの力でポストを得た劣等人材は連携します。そしてまた、非合理ゾーンの人事を行っていくからです。

こういう人材は、徐々に決定機関にも紛れ込んでいきます。この動向は時の流れの中で増えていきますから、ついには、決定事項の大半に、「公論で決す」要素が通じなくなってしまう状況に、至るのです。

 

<福沢諭吉・対・井上毅(こわし)>

 

 長期的視野に立って、この事態を避ける方式を推奨したのは福沢諭吉でした。彼は政府に入ることを好まない人でしたが、明治政府は、福沢の意見を求めることが多かった。福沢は英国風の議会政治を強く提唱しました。

 ところが顕著に短期的視野にたち、公論制による一体性の弱体化を危険視する長州官僚がいた。これが井上毅(こわし)です。

熊本藩士あがりの彼は、福沢の言論力の影響を恐怖し、福沢が東京圏に入ることを禁止すらしました。

そうして「みことのり方式」をとりいれさせました。

 

+++

 

 みことのり方式は、後に天皇の絶対権として、明治憲法の中に法的に組み込まれて続行されていきました。

その結果、指導層の能力劣化動向はどんどん進展し、明治末期にはすでに、最高決定機関の人材は「中もの~大物でなく~」で占められるようになりました。

昭和に入った時点では、「小(こ)もの」までもが「愛すべき存在」となって混入した。こうして日本の最高決定機関は「中・小もの」しか、参加できない集団となりました。

対中国、米国への戦争に負けてから、やっと最高決定者たちの無能が論じられるようになりました。

だが、それは昭和初期にはすでにピークに達していたのです。

 

<責任逃れも産んでいく>

「みことのり」要素の介入は、もう一つ、これも巨大なるマイナスを産みます。それは決定機構の交代が非常に困難になること、がそれです。


「みことのり」を出す人は天皇ですが、これによって、最高決定機関の全員に多かれ少なかれ権威の色彩が付加されます。

機関構成者にも「不可侵」のニュアンスが付け加わる。

これによって、彼らはお粗末な決定をしても、取り替えられ難くなります。それが結果的に、責任をもってものごとを論じ尽くすことを妨げていくので、責任の所在も曖昧になっていくのです。


その結果、誰も責任をとらない、というのが当たり前という状況が出来上がっていきます。これもまた重要なマイナス面となります。

 

(第一回・・・完)

 

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聖句主義への無知が産む弊害

2018年03月01日 | 政治見識のための政治学






バイブリシズム(聖句主義)という活動を理解するのは難しいですね。

もう少し説明を追加しましょう。





<知らないことの弊害からアプローチ>


今回は「聖句主義を知らないが故の弊害」をあげつらってみましょう。

まず、「聖句は膨大な内容を持っていて、絶対的な解読は人間にはほとんど出来ないという認識が曖昧になる」という事象から。

聖句主義はその認識を肝に据えて、そこから~ある意味、開き直って~出発しています。

ところがこの行き方を知らないと、そのあたりが曖昧なままになります。

+++

そして、漠然と解読出来ると思ったりして解読を試みますが、毎回、上手く行かない。

そこで、、これは自分の知力が足りないからではないか、と思ったりもします。

「密かに」そう思う。 だってばれたら「あいつは駄目だ」と烙印を押されることを恐れますからね。

そして、こういうことを繰り返していると、人間の心は萎縮していきます。






<「救い」の確信も>


たとえばこれはいわゆる「救い」への確信にも影響しています。

「正しい」解読があると思っているので、自分の聖書解釈では「救われないのでは・・・」と漠然と感じることになる。

その結果、「救い」への解釈も浅いものとなり、怖くなって萎縮することにもなるのです。


+++


こうなると~「確信のない」聖句解釈状態で~誰か他の人(牧師さんとか、三浦綾子さんとか)の解釈にしがみつく、ということもします。

そして、一旦しがみつくと、他者に向かってはそれを自己の見解だと断定的に表現しやすくなります。

こういう人はまた、他の解釈を見ると「異端!」とヒステリックに非難したりもします。


+++


もうどうしょうもない・・・といった感じですが、理由は次のところにあります。

実は、確信無く鵜呑みした他人の解釈は、人間の意識の中で不安定な状態にあるのです。

すると人はその不安感から逃れようとして他者を非難します。

他者を非難してると、一時的に自分の解釈が確信あるもののように錯覚できますからね・・・。


+++


余談ですがここには「キリスト者の自由」はありません。

またこうした信者の群れに、ビジネスマンなど知的な一般人が加わりたいと思うことは、ほとんど起きません。







<全般的影響を示唆する事例>


話を戻します。

バイブリシズムへの無知が、広く日本人の思考全般をを萎縮させていることも示唆する事例を、鹿嶋のこのブログへのコメントでもって示してみましょう

このブログでひところよくコメントを書いて下さった方に「石ころ」さんというペンネームの方がおられました。

彼女など、ひたすら福音の真髄を求め続けておられて、台所で料理しているとき、突然聖霊を受けた人でした。

その彼女ですら、こんなコメントを寄せてこられました。


(コメント)

・・・・・・・・・・・・

主を知る自由を知りました (石ころ)

2006-07-26 07:21:35

初めまして、何時も学ばせて頂いています。

始めて(バイブリシズムの思想を)目にしたときには、かなりショックを受けました。

20年以上の信仰生活の中で、このように聖書を読む事が許されるのだとは、思いもつきませんでした。

しかし、間違いに出会ったときの、ザワザワとした違和感はありませんでした。

新しい自由を知って、「・・すべからず、・・すべし」は、主を探求していないと思えるようになりました。

「吟味しなさい」というみことばは、誰にでも、御霊の導きがあるということだと思っています。

何も恐れることはない、主を知りたいとワクワクして読ませて頂いています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



+++


~次の方も教理統一主義的な思考に流れる傾向を言っておられます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
はじめまして (Cissac)

2006-07-31 11:51:22

はじめまして、lukeさんのページで紹介があり、そこから飛んできました。

4年ほど前にイエス様を救い主として受け入れた者です。


聖句主義、教理主義とありますが、聖句を追求すると言いながらも

知らぬ間に教理でガチガチ

ということもあるのかなと思っています。

(後略)
・・・・・・・・・・・・・・


+++

~次の方、SAITOHさんは、鹿嶋に代わって解説して下さっていますが、同時に、やはり、日本人は教理統一方式敵思考に流れやすいことを指摘されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自ら考えることがカギ (SAITOH)

2006-07-27 01:51:44

まず、自分で考えること、探求し続ける姿勢が大事なのだと思いますよ。人生の問題に正解はないように、聖書の解釈にも解答はありません。

知れば知るほど、面白みが増してくる、と同時に自分の愚かさも見えてきて、人の意見を聞こうと思うようになります。

枠が必要だと思うなら、使徒信条、あるいはニカイア信条あたりで、十分なのではないでしょうか。仮に、それにも囚われずに解釈するとしても、解釈するだけなら問題はありません。

特定の立場、教義を絶対視してしまうことが問題なのです。

しかし、往々にして、そうなってしまいがちですね。

そして、特定の教理を選び取って、それに従うこと(悪く言うと思考停止ですけど)がキリスト教信仰だと考えている人が多いようにも思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回はこれくらいにしておきましょうか。







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「真理が含まれている」という信頼で

2018年02月25日 | 政治見識のための政治学



こんにちわ。
クリスチャンの方には聖日ですね。

今回は、少し理屈っぽくなります。






前回までに「神語」「いのちの書」など、人間にはわからない項目が聖書にある、ということを見てきました。

これらをフォローしてきてくださって、とまどいを感じてしまわれた方もおられると思います。

のみならず~

「聖書には結局人間には解らんところがある」という事実に直面して、聖句探究の意欲を失ってしまう方も少なくないでしょう。

そこには、日本の精神土壌、ひいては福音の土壌とでもいうべき、深く大きな問題が横たわっています。





<宗教教典に関する通念>


その一つは、われわれ日本人が宗教教典に関して抱いている通念です。

一般の宗教教典を筆者はそんなに多く読んでるわけではないのですが、読んだ限りでは、一般の経典は、「これが正しい教えだ」と明確に教えています。

哲学書や倫理書のようで、内容のあいまいなところはほとんどありません。

教典とはそういうものだという通念がわれわれにはあります。

だから、「聖書には結局解らんところがある」といわれると、もう、「そんな本なら・・・」とやる気がなくなりがちになるのです。



    


<聖書への信頼心は維持する行き方>



だが、キリスト教活動には、不明な点があると認めながらも、教典(聖書)に対する「信頼心」を心に保ち続けて吟味を続けるという行き方もあります。

それはバイブリシズム(聖句主義)というやりかたです。

これはわれわれ日本人が一般の「宗教」なるものに抱く予想よりも、はるかに深い認識論を持っています。

これについて述べてみましょう。

すこし理屈っぽくなりますが、大切なところですのでやってみます。






<「真理がある」という信頼>


この方式は、「これぞ絶対的に正統という聖句解釈は、人間の短い生涯においては得られない」という考えの上に立っています。

そのうえで、「でもこの書物の中には真理(不変の知識)が最大に含まれている」という信頼を抱きます。

この信頼が、聖句にあれこれ解釈を巡らしていく意欲を維持するのです。


+++

それが実際に起きている様を確かめるために、鹿嶋は米国サザンバプテスト地域に丸一年間、滞在しました。

そこでは、数人のスモールグループでの相互吟味を生かしつつ、この方式を続行していました。

複数の教会にその参加を許されて、鹿嶋はみずから、相互自由吟味活動を実体験もしました。






<聖句自由探求者への質問>

これに併行して鹿嶋は、聖句主義に立つ教会の執事(信徒の代表者)や教職者に面談調査しました。

彼らバイブリシストは一様に、個々人に「聖書解釈の自由(Freedom of Bible Interpretation)」を認めます。

さすれば解釈は個々人によって分かれるのですが、それでよしとします。

+++

すると外部者から「諸君は究極的な唯一の真理は認めないのか?」という疑問が当然の如くに投げかけられます。

同じ質問をしてみた筆者に、彼らは一様に応えました~。

「それが存在することは否定しないが、そうしたものが人間個々人の短い生涯で見出されることはありそうにない」~と。





<真理は動態的なもの>

ついでこんな外部者的質問もしてみました。

「では、真理なしでやるのか」~と。

彼らは~

 「膨大な内容を持つ聖句に対し、個々人が吟味を試み解読したものが、その人にとっての(その時点での)真理だ」

                              ~と応じました。


つまり彼らには「真理は一つ」ではなく、「個々人が各々持つもの」だったのです!

また同時にそれは、個々人の中で成長する「動態的」なものでもあったのです!





<教理統一方式と比較すると>


これをカトリックやプロテスタントなど、教理統一方式をとる教会と比べると、その特徴がよくわかります。

これらの教会にとっては、真理は不変でただ一つで「静態的」なものです。
(そういう信念で示しているのが「教団教理」です)


そこで鹿嶋は教理統一方式の観点からの質問も投げかけてみました~。

「そんな相対的なものは真理と言えないのでは?」という(批判含みの)質問をした。

すると彼ら聖句自由吟味主義者は、こう答えました~。

「有限な人生を生きる、現実の人間個々人にとって、それ以上に確信して頼れる真の知識(真理)が他にあるとは思えない」~と。






<「プラグマティズム」の真理観は聖句主義思想の援用>


このバイブリシズムの真理観を、ほとんどそのまま援用して、有名な「プラグマティズム」哲学を構築した人が、米国の哲学者、ウイリアム・ジェイムズです。

彼は学問屋さんですから、このあたりの用語をきちんと定義しながら話を進めています。


彼は真理(truth)といわないで、「真の観念(true ideas)」と言い換えてこう言っています~。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「真の観念とは、われわれが同化(assimilate)し、効力あらしめ(validate)、確認し検証する(corraborate and berify)ことのできる観念である。
偽なる観念とは、そうでない観念である。・・・(中略)・・・そしてこれが真理の意味である。」
 (『プラグマティズム』、ウイリアム・ジェイムズ著、桝田圭三郎訳、岩波文庫、1957、p.147..)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~ジェイムズの認識哲学は、米国のその後の知的文化を方向付け、今日に至っています。






<沼に咲いた一輪の蓮花>


ハーバード大学というのは、神学校から始まっています。

それはピューリタンの教理統一思想一色だったボストンの街のただ中に成立していた、バイブリシズム活動の牙城でした。

いってみれば、教理統一思想の沼に咲いた一輪の蓮の花(聖句主義の)のような性格の学校でした。


ジェイムズの認識哲学はその土壌のうえに咲いた学問知識の花といっても過言ではない。

端的に言えば、ジェイムズは、その土壌から醸し出される思考の雰囲気を、本能的に吸収し、自己の認識哲学にチャッカリ援用したと言う観があります。



<味わい深い認識哲学>


だが、その土壌を形成している聖句主義は、さらに深い基盤を持っています。

聖句を最終権威とし、それとの照応をしながらグループ吟味もすすめるという実践活動などがそれです。

余談ですが、実はそれは、米国という国家の性格の根底を決めているのです。

これについては、また詳論したいのですが、とにかくバイブリシズムはそれほどに含蓄深い認識活動です。

この活動が、人間の知性と霊感を育てる力には計り知れないものがあります。

これを、姿勢としてでもいいから身につけたら日本人は変わるでしょう。


+++

この詳細を日本人にお知らせする第一報が、先日出版した~


『バプテスト自由吟味者』フランク・S・ミード著、鹿嶋春平太訳・解説、編集工房DEP刊、株式会社かんぽう発売

           ~でした。



お読みになれば「目からうろこ」の連続となるでしょう。

アマゾンが扱ってくれています。






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「黙示録」での「いのちの書」も謎だらけ

2018年02月20日 | 政治見識のための政治学


前回の続きです。

「黙示録」をみましょう。
まず、この聖句から~。




・・・・・・・・・・・・・・・・
「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」
                      (黙示録、20:15)
・・・・・・・・・・・・・・・・






<天国行きの人の名簿らしいが・・・>

~これなんか、普段聞いている「天国行き、地獄行き」の話が連想されて、わかったような気持ちにとてもなりやすい聖句ですね。

火の池は聖書の「地獄」ですから、ここにに投げ込まれるのは、「いのちの書」に名前が記されていない者」・・・というのは納得しやすい。

だけど、これも「いのちの書」の中身についてはなにも述べておりません。





<天の「都」に入れる人の名簿なの?>

~次の聖句もそうです。



・・・・・・・・・・・・・・
「しかし、すべての汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都には入れない。
小羊のいのちの書に名前の書いてある者だけが、入ることが出来る」
                         (黙示録、21:27)
・・・・・・・・・・・・・




~このでの「都」は~鹿嶋の聖書解読では~天国(天の創造神王国)の中に出現する城壁都市エルサレムです。

それは天国の一部でして、それすなわち天国ではない。

そして通常は、天国に入れるか入れないかが「いのちの書」に名前が記されているかいないかで決まることになっています。

すると天国に入るのは「都」に入るための必要条件の位置にありますよね。

だからこの天国の代わりに「都」(天のエルサレム)をストレートに持ってくるのは、ちょっと「いのちの書」の効力範囲を限定しすぎている観もあります。

が、まあ。ここはそういう細かいことは抜きにして、ざっくり言っていると解することもできるかもしれない。


+++


だけど、これたも「いのちの書」の中身がわかりませんので、つまるところは断言は出来ませんよ。

もしかしたら、この書物には、さらに詳細に、天国に入れた人の中で都に入れる人の名を記しているところがあるかも知れませんしね。

「いのちの書」はわからんことだらけの神秘の書ですね、被造物である人間には。





<「記されている名」も消されることがある?!>


~さらにわからんことが出ていますよ「黙示録」には。




・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・わたしは、あなあたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。・・・・(中略)・・・しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。
彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」
               (黙示録、3:1-5)
・・・・・・・・・・・・・・・・・




~鹿嶋の解読ですけど、ここで「生きている」というのは、「霊感が活き活きと働いている」という意味でしょう。
「実は死んでいる」というのは、「その霊感が枯れてしまっている」と解せられます。

福音は霊の次元の言葉ですからね。
人間は霊感が枯れたら、福音もこの「世」の話のように受け取ることになってしまいますからね。

+++

その「霊感が活きている」ものに着せられているのが「白い衣」というわけです。

そして、「この人の名はいのちの書から消されることはない」といっている。

ならば「霊感が枯れてしまった人の名」はいのちの書から消されることがある、となりませんか。






これは大変だ。

「いのちの書、には~

「イエスを創造神の子で救い主と信じたら、その人の名が記される」

      ~というだけではないことになる。


つまり、「これで決まり」となるわけではなく、その記されていた名は「消されることもある」という!


だったら「どの程度霊感が枯れたら」消されるんだ。

いったい「いのちの書」ってどうなっているんだ?


・・・だがそうした内容の論述はここでも一切ありません。







<世の初めから名が記された者?!>


~次の聖句はまた驚きですよ。


「いのちの書」に記されてない名前は「世の初めから記されていない」とも言っている!

だったら「いのちの書」に記された名前も「世の初めから記されている」ことになるでしょう。

聖句を見てみましょう~。




・・・・・・・・・・・・・・・・
「地に住む者で、ほるられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼(海から上ってきた獣)を拝むようになる」
                                  (黙示録、13:8)
・・・・・・・・・・・・・・・・




ここで「海から上ってきた獣」とは悪魔(の化身)をいっていますが、とにかく彼を拝むようになるものは、「世の初めから」いのちの書に名前が記されていないもの、という。

そんなこと、創世前から決まっているというのなら、人間の自由意志の働きなんて、意味なくなるんじゃないの?

人間はロボットと同じか?

まるでカルバンの「予定説」じゃないの・・・。


+++

~ここだけじゃないよ。

次の聖句でも同じことをいっている。



・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れないところから上ってきます。
そして彼は、ついに滅びます。 地上に住む者で、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、
その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現れるのを見て驚きます」
                           (黙示録、17:8)
・・・・・・・・・・・・・・・・



「底知れないところから上ってくる」存在は悪魔です。

そのことは、それ以前の千年間、悪魔は「底知れないところ」に閉じ込められている~と言う聖句に対応しています。(「黙示録」20:1-3)

がともかく、ここでも「世の初めからいのちの書に名が書きしるされていない者」(「黙示録」、13:8)とある。

「世の初めから記されている名」って一体どういう名なんだ?!






<親が役所に登録した名ではない>


人間が通常「オレの名」と思ってる名前でないことは確かでしょう。
それは、この世で親が付けて役所に登録した名ですからね。

「世の初め」よりず~とあとに現れた名だ。

これが鹿嶋春平太とかルーク唐沢なんてなると、さらに後に当人が造った名だからね。
問題にもなりません。

+++

それとは違う名が創世の初めからあるのか。
「ある」とせねば筋が通らないよね。

たとえば創世前からすでに、後に創造されることになる人間用に、名のリストが「いのちの書」には、づら~と準備されている~というように。

「いのちの書」に名が書きしるされるべき人間には、その名が一つずつ、各人にその都度割り振られ与えられ、て記されるのか。


でもその名ってなんなんだ。


+++


ダビデやヨハネは「いのちの書」には「名が書かれている」というところまでは言っています。

それ以上何も言ってないと言うことは、その名は人間が読めない文字によって書かれている、と受け取るしかないよね。

だったら、彼らはそれが「名」であることをどうしてわかったんだ、という疑問は残りますけどね。






「いのちの書」はそういう「被造物にはわからない言葉」で記されていると考えるしか、我々人間には容認するすべがない書物です。

するとそれは、鹿嶋が述べてきた「神語(かみご)的な」言葉という思想に、つながるのではないでしょうかね。

であれば、鹿嶋の「神語仮説」は、突拍子もないどころか、聖書という書物に結構しっくりする仮説ではないか、と思う次第です。










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「神語アリ」の思想は聖書にちりばめられている?

2018年02月18日 | 政治見識のための政治学






先回鹿嶋は、「神語アリ」の思想(仮説)は、そう突拍子もないアイデアでもないのでは・・と申しました。

それらしき思想は、結構聖書にちりばめられているようにもみえるのです。

今回は、このことを聖句と照合しながら考えてみます。

+++

これに相当する代表的な例は「いのちの書」ですね。

この言葉は聖書には沢山出てきます。

まず、これからみてみましょう~。





<「正しい者」が書きしるされる書物>



・・・・・・・・・・・・
「彼ら(ダビデに敵対するもの)が、いのちの書から消し去られ、
正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように」
          (詩篇、69:28)
・・・・・・・・・・・・




~ここでは、「いのちの書」には「正しい者」が書きしるされ、「悪しき者」は消し去られる~といってるようです。

だとしたら、この書は人間にとっても、重要な書物ですよね。

だが、その内容については、ダビデは何も書いていません。

どうしてでしょうね。






<聖と呼ばれる者が書きしるされた書物>



・・・・・・・・・・・・

「シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。
みないのちの書にしるされたものである」
                   (イザヤ書、4:3)
・・・・・・・・・・・・・・・



~これはどうでしょうか?

ここでイザヤは「いのちの書」には「聖と呼ばれる様になるもの」が書きしるされる、といっています。

だけど、それ以上のことは何も述べられていません。
説明なし。

何だって言うんだ・・・。






<福音を広める者は記されている>



・・・・・・・・・・・・・・・・
「ほんとうに、真の協力者よ。あなたに頼みます。
この人たちは、いのちの書に名の記されているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、
福音を広めることで私と協力して戦ったのです」
               (ピリピ人への手紙、4:3)
・・・・・・・・・・・・・・・・



~パウロも「いのちの書」をいってるんだよね。

手紙の中で当たり前のように言っている。

クレメンスたち~福音を広める~同労者の名は「いのちの書」に記されている、と言っています。

だけど、それがすなわち、パウロが「いのちの書」を読めたことにはなりませんよね。

パウロはクレメンスたちの働きを見て、その名はいのちの書に記されているに違いないと推測(確信)して書いている(名前の文字を見たわけではない)可能性が大きいでしょう。


+++

ヨハネが見せられた幻を記した「黙示録」にはこの書物名がなんどか出てきます。

次回にはその聖句をレビューしてみましょう。









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「神語アリ」の考えは平安をもたらした

2018年02月14日 | 政治見識のための政治学






今回は少し先に進みます。

前回鹿嶋は「歴史展開のすべての枠組は神語によって定まっている」という仮説でこれからやっていく、と申しました。

すると思いがけないことが鹿嶋の心に起きました。

平安が深まったのです。




<創造神への”恐れ”>


この仮説を抱く前には、創造神に暴君的な面もある、という恐れをも感じてきていたようだ、と気付きました。

なんてったって、創った側は創られて側よりも文句なく上位者ですからね。

被造物たる人間にとっては全能者ですからね。

旧約聖書の~

「陶器師が自由に創り、気に入らないものを割ってしまうのは、創る側としては当然ではないか」との旨の聖句もこの恐れを産んでいました。

預言者イザヤがそういう預言をしています。

引用しておきましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・
「おまえたたちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じにみなされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか、『彼が私を造ったのではない』と。
陶器が陶工に言いうるのか、『彼には分別がない』と」
     (「イザヤ書」29:16)
・・・・・・・・・・・・・・。




・・・・・・・・・・・・・・・・
「災いだ、土の器のかけらに過ぎないのに自分の造り主とあらそう者は。粘土が陶工に言うだろうか『何をしているのか、あなたの造ったものには取っ手がない』などと。
     (「イザヤ書」、45:9)
・・・・・・・・・・・・・・・・・




(このあたり詳しくは『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太、新潮選書)をご参照ください)

+++

これらの聖句は、ストレートにとれば、創造神はつまるところは「思いのままに何でもしてくる方」となります。

それがゆえに、鹿嶋の心は平安になりきれないでいたのです。





<「神語」で定まっていたら>


だが、すべての初めに、創造神の意志が神語となって定まっているとなれば話は変わってきます。
創造神と言えども、自分の言葉を破ることは出来ないでしょう。

されば、我々は、その意志を聖句を手がかりに解読していけばいい。

不明なところは霊感を働かせて神語を想像する。
それでもって意味を埋め合わせる。

そうすれば創造神の意志、ひいては創造神への知識を深めていくことが出来るのではないか。

完全に知ることは出来なくても、その知識は深まっていく。

するとそのレベルに応じて、「しるし」(奇跡)を創造神は与えてくれるのではないか。
聖書に記された「信じる者に現れる奇跡」はそうした事例ではないか。

~こう思ったとき、鹿嶋の胸には平安がどっと増大しました。

+++

するとこんな思いも浮かんできました。

「神語アリ」の思想は、そう突拍子もないアイデアでもないのでは・・と。

次回には、それについて考えようと思います







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人の知性は弱いから・・・

2018年02月12日 | 政治見識のための政治学






前回から少し間が開きましたが、続きです。

これまでに鹿嶋は、「姦淫の女」への律法に関して考えました。

「この女は律法に沿って石打ちでもって殺すべきではないか」、とパリサイ人らエリートたちはイエスに問いかけましたよね。

イエスはこれに対して「罪なき者が先に石を投げよ!」と応じた。

エリートたちはイエスの剣幕に押されて去って行った。

だけど、「石を投げられるのは罪を犯していないものだけ」という施行細則のようなものは、律法には述べられていません。







イエスはまた、彼女に「私もあなたを罪に定めない」といいました。

そんなこといっていいの?

律法はどうなるの?

~鹿嶋にはそういう疑問が湧きました。


+++

だが、こう考えました。

もし、天の神語(かみご)には、律法として示されてないような条文があるのなら、イエスのこの対応は正しいかも知れない~と。

すると今度はこういう疑問が浮上しました。

もしそうだとしたら、エホバ神はどうしてモーセにそれを伝えなかったか~と。

今回、それに関する鹿嶋の自由思考を述べてみます。





<律法が溶けてしまう>


結論から言うと、こうです~。

~つまり、そこまで律法として示してしまうと、もう律法の概念そのものが、人間の心の中で処理できなくなってしまうのではないか。

具体的には、律法はどんどん緩くなって、ついには溶けてしまうことになるのではないか~と。

これは律法全般にも及ぶ可能性がある。

つまり、「姦淫の罪」が緩くなって溶けてしまうだけではない。
さらに進んでついには「律法⇔罪」という理念も希薄になってしまうからではないか~と思われるのですね。





<知性の弱さを見通していた>


創造神は、そういう人間心理の弱さを見通していた。

だから、律法としてはまず、シンプルに「罪を犯したら石打ちせよ」と示した~そう考えるわけです。

+++

実際、人間の知性って単純なものですよ。

アインシュタインも「人類の愚かさには限界がない」~との言葉を残した、とルーク唐沢はいう。

鹿嶋が70年少々生きた人生体験からしても同じ見解です。





<「洞察力」が知性の評価基準>


鹿嶋は、知性の度合いは「洞察力」で測られると思っています。

洞察力とは「ものを“厚み”で見る能力」と言ったらいいでしょうかね。

同じ物事をみても、大半の人間はそれを「表皮的に」しか見られない。
厚みというか、深奥でみることができない。

こういう人の判断は、もう間違っていきます。

ところが本人は、それで理屈がたつもんだから、それが正しいと思っている。

これ、どうしょうもないんだよね。

鹿嶋の経験では、東大の学者さんにこういう人の比率が多かったけどね。


+++

もちろん洞察力を生かして妥当な認識をする人もいますよ。

だが、それは全体からしたらほんの1%前後という印象ですね、鹿嶋の経験では。





<神様にどうしても聞きたいこと>

そうした事象を繰り返し観察してきた鹿嶋は、こんなことを夢想をするようになっています。

~もしも将来、創造神と御子イエスに質問する機会が与えられたならば、次のことだけはどうしてもおたずねしたい、と。

つまり~、人類を「洞察力のある人がほんの少しにしかならないように、どうしてお創りになったのですか?」~と。

ついでにこんな苦情も付け加えたいな~。

「この比率をもう少し高く創ってくださっていたら、人類はこれほどまでに悲劇を繰り返さなくて済んだのに・・・」

~これはもうほとんど泣き言ですけどね。





<ヨハネは何故書かなかったのか>

ついでに、もう一つ、こんなことも考えてみました。

~イエスが地面に書いていたのは何だったろうか~と。


「ヨハネ伝」の著者ヨハネはイエスの手元を見ていたと思いますよ。

だって彼はペテロと並んで、常時イエスの両脇を固める「助さん角さん」だったのですからね。

ここでもイエスの脇に立って見ていたにちがいないのです。

なのにどうしてそれを「ヨハネ伝」のなかに書いていないのか?


+++

結局、こう考えざるとえなくなりました。

~イエスはこのとき地面に、天の神語を書いていたのではないか。

だったらそれはヨハネが知らない文字ですから、読めないよね。

だから書けなかった、のではないかと思います。


+++

ここでイエスが地面に書いていたことは、重要な内容を持っていたでしょう。

イエスのそういう教えは、ヨハネは他の箇所ではみんな書いている。

文字がわかったら、ヨハネが書かないはずはないでしょう。





こうした考察をしきた鹿嶋の心には、神語に関する実在感が濃くなってきています。

今後、「創造神の懐にはその意志が現れた神語がある」、という仮説を抱いて聖句解読をしていきたいと思っています。

それで聖書の論理に支障が無い限り、そうするつもりです。








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「姦淫の女」に神語を入れて考えてみる

2018年02月05日 | 政治見識のための政治学









このところ、聖書の存在論の出発点に「神語」(かみご)を入れた状況でいろいろ考えてきました。

要約しますと~

創造神の懐には、御子と聖霊だけでなく、創造神の意志の現れである「神語」(ともいうべき言葉があり
父。御子・聖霊はそれを共有している。

それが無限の過去から続いてきている存在の初めの状況である。

~というものです。

今回もまたその全体像の視野から、考えてみます。

本日は、新約聖書に記録された有名な「姦淫の女}の事件を吟味してみます。

「ヨハネ伝」の8章です。





<エリートたち「姦淫の女」をイエスの前に立たせる>


~話はこうです。

・・・・・・・・・・・・

エルサレムの神殿の広場にいたイエスの所に、一人の女が引き立てられてきます。

連れてきたのは学者僧侶とパリサイ人たち、すなわち、ユダヤ社会のエリートたちでした。

彼らはその女を姦淫の現場で捕らえてきたのです。

そして、イエスに問いかけます~

「モーセの律法では、こういう女は『石打にして殺せ』と命じています。さあ、あなたの意見を聞かせてください」


・・・・・・・・・・・・・・
(申命記には、色んな種類の姦淫が記されていて、そのすべてが石打の刑を受けることにはなっていませんが、このケースでは石打の刑が妥当するのでしょうかね。「申命記」22:22以降を参照)
・・・・・・・・・・・・・・








これに対してイエスは何も答えないで、「指で地面になにかを書いて」いました。

だが、パリサイ人たちは問いかけを止めない。

そこでイエスは身を起こしてこう言いました。

「諸君の中で罪のないものが最初に石を投げなさい」~と。

そして、また、身をかがめて字面に書きものをしていました。





すると、エリートたちは、一人一人去って行った。

そしてイエスと女だけがそこに残りました。

イエスは彼女に問いかけました。

「婦人よ。あなたを罪に定める者はいなかったのですか?」

「だれもいません」と彼女は応えました。

するとイエスは言います。

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは罪を犯さないようにね」

・・・・・・・

(「ヨハネ伝」8:3-11) 要約、以上。






感銘を受ける話ですね。

でもこれ、よくみると、考えるべきところもありますよ。

まず、姦淫に関する律法は「申命記」(5:18)にあります。

姦淫は罪、とある。

律法はゆるぎませんよ。

イエスも「私は律法を廃しに来たのではない。完全化しに来た」
~というくらいですからね。

するとイエスの「あなたを罪に定めない」などは、言えたことではないことになりませんか。




<イエスはまだ十字架死していない>

たしかに「イエスの十字架死で罪は許される」と受け入れたら、

人の罪は許されますよ。

だけど、よく考えてください。

この時点ではまだイエスは十字架死していませんよ。
いわゆる「イエスの功労」の効力はまだ実現していない。

なのに、イエスは「あなたを罪に定めない」といっている。

「そんな勝手なことしていいの、イエス様!」となりませんか?

~そうです。

そんなことしてたら、律法は揺らいでしまうではありませんか。





<神語を考慮に入れると>


ストレートに考えるとそうなりますよね。

だけど、ここで神語を考慮に入れたらなんとかなりませんかね。

天の神語にはモーセに示した律法もあるが、示されていないそれ以上のものもある、としたらどうにかならないか。


+++

たとえば~

 「石を投げることの出来るのは、罪を全く犯してないという自覚が完全な人間に限る・・・」といったような文が、律法には示されていないが神語には含まれている、といったように・・・。



それには我々人間の理に合ったところもありますよ。


たとえば~

律法を法文のまま単純ストレートに受け取ったら、自分がこれまで律法に反する行為をしたと指摘されなかったら「気楽に石を投げる行為」をも人間は行うでしょう。

また「自分が罪を犯してきているかどうか」を敢えて内省しないで石打での殺しに参加してしまうということも。

でも、それではなんかおかしい、少なくとも不公平感は残りませんか?





<条件付きなら?>


では「姦淫の罪を犯した者に石を投げられる人は ”自分は罪を犯していない”者に限られるという条件があったらどうでしょうか?

もちろん、そういう施行細則のような法文は律法にはありませんよ。

だけど、天の「神語」には、そのあたりが詳細に記された部分があり、イエスはそれを知っていた。

だからイエスは「諸君の中で罪のないものが最初に石を投げなさい」~と確信ある強い口調で言ったのではないか。

エリートたちがたじろぐような口調で・・・。


そして、さらにさらに、イエスが地面に書いていたのは、その条文の神語だったかもしれない、という推察も出来る。

ここはそういう風に解読することも(神語の存在を考慮に入れれば)できるのです。



+++


するとこういう疑問も湧いてきます。

~百歩譲って、それが事実だと仮定しよう。

だけど、もしそうなら創造神はなぜモーセにその部分を伝えさせなかったのか~と。

そのあたりについては、次回に考えましょう。











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創造神の意志の言葉を、御子、聖霊が共有?

2018年02月01日 | 政治見識のための政治学






では、前回に約束しましたように、鹿嶋の独断的全体像をのべますね。

従来のべてきた全体像との違いは、出発点で形成されますので、そこを重点的に述べます。

鹿嶋は以前、聖書の存在界の出発点では、「無限の過去から創造神がいて、その懐に、御子と聖霊がいる」と述べました。

これは神語(かみご)を考慮に入れない全体観でした。





<創造神、神語、御子、聖霊>


新全体像ではそこに、神語が入ります。

するとどうなるか?



まず、時間空間的無限者である創造神がいるのは、従来と同じです。

だが、今回は、そのふところに創造神の意志の現れである言葉、すなわち神語(かみご)が入ってきます。

そして、それを共有して、御子と聖霊がやはり、創造神の懐に存在する、という構図になります。

(これによって、父・子・聖霊の三位一体のイメージが一層充実します。三者は父の言葉を共有することによっても一体となりますから)

これが聖書の全体像の出発点にについての鹿嶋の新見解です。





<神語はヘブライ語で預言者に伝えられて旧約の聖句となる>


さて、以下、大筋は従来と似ています。

すなわち、この状態で被造物が造られます。






まず、天国(天の創造主王国)が造られ、そこに天使が造られます。

天国の中に宇宙が造られ、そこに人間が創られます。

そしてまず、神語の一定部分が、エホバ神によって、旧約時代の預言者(超霊感者)に伝えられます。

それは幻による啓示として伝えられる。

これを記録保存して、旧約聖書の聖句を人間は持つようになるというわけです。






<御子によって伝えられて新約の聖句となる>


次に、創造神の御子が、共有する神語(創造神の意志〕を体現してこの世に現れます。

そして、彼はその一定部分を人間にわかる言葉にして人間に示すのです。

それが記録され新約聖書に収納されます。






<神語は霊(波動体)という実体>


さてここで創造神の意志の現れである神語(かみご)についてもう少し考えます。

この語は、人間の話す言葉(「人間語」とでもしましょう・・・その特質はすぐ後に述べます)と本質的な差異を持っていると、鹿嶋は理解しています。


+++


まず、それは霊であり、波動を発する波動体です。

そういう明確な実体を持っている。

でありながら、言語(ことば)としての性格も持っている。

その性格のゆえに神語は、その実体を表現する信号をももち、それ故に翻訳文も作れるし複写(コピー)もできる(つまり伝達できる)できるのです。






<人間のことばは空気を振動させる「声」>

これを人間の言葉と比べてみるとその特質がいっそうハッキリしてきます。

人間の言葉の特質は、「ヨハネ伝」における「バプテスマのヨハネ」の次の言葉に現されています。


・・・・・・・・・・・
「わたしは・・・・(中略)・・・・荒野で叫んでいる声です」
    (「ヨハネ伝」1章23節)
・・・・・・・・・・・



これはユダヤ教団から遣わされた祭司たちの「あなだはどなたですか?」という質問に対するヨハネの答えの一部です。

ここでヨハネは自分は「キリストでもなく、エリヤでもなく、預言者でもありません」と応じた後に、上記のセリフを言っています。

つまり、キリストやエリヤや他の預言者たちの言葉は「霊」という波動体を内に持つ実体なのだが、わたしヨハネはそうではない。

その言葉の本質は「声」であって、時の経過と共に消えていく音なのだ・・・と彼はいっています。





<神語はエネルギーをもった霊的実体>

他方、神語の実体は「超凝縮波動体」とでもいうべく、それ自体すさまじいエネルギーを秘めています。

これは、敵対する者を立ち退かせ、立ち向かえば粉砕します。

そして中立的な被造物は、自らの意志の通りに変化させてしまいます。

+++

人間も「創造神に似せて創られた被造物」ですから、その言葉もある程度のエネルギーを内包することが出来るかも知れません。

全身全霊を込めて念を入れると、多少のエネルギーを持った働きをするかも知れないのです。
日本語にも言霊(ことだま)という語があるくらいですからね。


たとえば~、
憎くてならない相手を想定した人形を作って、「死ね!、死ね!」と叫んで釘を打ち付けているシーンなどを、日本の時代劇で見た人もあるでしょう。

・・・そうすると、その憎き対象が病気になる、とかね。

その程度のことは実際にあるやもしれません。

+++

だが、神語の力はそんな生やさしいレベルではない。

イエスにこんな言葉があります。

・・・・・・・・・・・・・  
 私の言葉が諸君の内に留まるなら、諸君の願うことはすべてかなえられます」
      (「ヨハネ伝」15章7節)
・・・・・・・・・・・・・

御子イエスの口から出る言葉は、「ヘブライ語に訳された神語」です。この言葉が弟子たち(人間)の内に留まるなら、その波動体は弟子たちの願うことをすべて現実化する」~という。

そういうレベルの力です。

+++

その視角からあらためて聖句をながめてみると、イエスが「言葉を発すると被造物がそのように変化する」という記録が沢山みえてきます。

(このあたりの詳細は、鹿嶋『誰もが聖書を読むために』新潮選書、を参照してください)

+++

先に創造神の言葉から見ておきましょう。

そもそも「創世記」の初めからそうだ。

「創造神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光が出来た」
       (「創世記」1章3節)
   ~がそうでしょ。

「『大空よ。水の間にあれ。』と仰せられた。・・・(中略)・・・
するとそのようになった」

   ~もそうだ。以下同様な聖句が続きますが、イエスの言葉を見てみましょう。

「イエスは風を叱り、『静まれ、黙れ。』といわれた。すると、風はやんでおおなぎになった」
   (「マルコ伝」4:39)

~イエスの言葉は、死人も生き返らせるのですよ。

   あるやもめの婦人の息子が死んで、棺に入れて運ばれています。

  「イエスはこの婦人(やもめ)をみて、深い同情を寄せられ、『若者よ、さあ、起きなさい』といわれた。すると、死人が起き上がってものを言い出した」

       (「ルカ伝」7:35-15)

~もう、向かうところ敵なしです。

+++

で、イエスは、これらの言葉を思いつくままに口に出しているか。
「そうではない」と言うのですね。

・・・・・・・・・・・・
「私は父のもとで見たものを語っている」
      (「ヨハネ伝」8:28)
・・・・・・・・・・・

でも、その「父のもとで見たもの」がなんだかわからないけど「とにかく見たものだよ・・・」であったらどうでしょうか。

やはり我々にはこの場面のイメージはハッキリしないでしょう。

ところが、この「父のもとで見たもの」が創造神の意志を現した神語(
かみご)だった、となったらどうでしょうか。

すべての創造がなさる前から存在していた神語です。

ならば、「それが不動の力を持って被造物を従わせる」のは自然だとイメージできませんか。






<神語のリアリティー効果>


以上を別の言葉で言い変えるとこういうことです。

~バプテスマのヨハネの言葉は、われわれに「キリストやエリヤや他の預言者たちの言葉」の特質を推察しやすくしてくれますよね。

けれども推察は推察です。

これだけではこの三者のことばの重みが、リアリティーをもって我々の心に入ってくる可能性は小さいです。

+++

そこで、これらの言葉が、すべての被造物が創られる前から存在していた霊的実体(神語)の翻訳語だった、としたらどうでしょうか。

ヘブライ語に訳された神語。創世前から存在していた創造神の意志を表す言葉。

その神語という霊的実体に、キリストやエリヤたち預言者の言葉の源があるとしたらどうか。

聖書の提供する全体像はより深く確実感のあるものになるのではないか、という気もしてくるのですが・・・。









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指導者は福音の「全体像」をもつべき

2018年01月30日 | 政治見識のための政治学





前回、「聖書に書かれてない御言葉が天にあるのでは」、とか、「それは神語(かみご)で書かれているのでは」とか、申しました。

するとこんな意見も出るのではないでしょうか~

そんな重箱の隅をほじくり返すような考察をするのは、そもそも価値があることなのか。

そんな思考に入っていくと、一般の人々に福音の核心を放念させるのではないか。

イエスの十字架死による贖罪を力強く繰り返すべきではないか。

~などなど。






<指導者は全体像を>

それはある意味、正解だと思います。

鹿嶋は、こういう思考は、特殊な立場の人にのみ価値あるのではないかと思っています。

いってみれば「指導者」の立場にある人々です。

具体的には、信徒や伝道者の群れを指導する立場にある人でして、

教会の主管牧師とか神学者がそれではないかと思います。





この人々はやはり、福音の「全体像」をもっているべきだと思うのです。

伝道は教会の伝道師だけでなく、一般信徒も行います。

クリスチャンはみな伝道者でもありますからね。

彼らは、とにかく「イエスの十字架死があなたの罪の代償になる」と伝え、
その人の霊感を聖霊が開いてくれるのを待てばいい。

昔ナザレ村に生まれた一青年が「創造神の子」で人類の「助け主」だなんて、
日常的感覚では受容できません。

だが、霊感が開けば、それが「本当だ」と感じられる。
聖霊が働いて感じたら、それを心に保つを助ける、というのが伝道者の主たる仕事です。





ところが伝道者は、上記のような細部の問題に首を突っ込んでいると、
福音伝道のエネルギーを消耗しがちになるのですね。

そんなとき、指導者は、助け船を出せることが必要だと思うのです。

一定の理解を提示して納得させる。
そういう人物が、信徒の群れの中には、最低限一人は指導者として存在していることが必委です。







<パウロの「第三の天」>

実際、聖書に記されていない、神語(かみご)のような言葉の存在は聖書にそのまま出ていますよ。

パウロの「コリント人への第二の手紙」にこんな聖句があります。
これも少し長いけど、引用してみましょう。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
私はキリストにある一人の人を知っています。
この人は14年前に~

 肉体のままあであったか、私は知りません、
肉体を離れてであったか、それも知りません。

創造神はご存じです

~第三の天にまで引き上げられました。

私はこの人が~
 
 それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。
創造神はご存じです。

~パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、
口に出すことの出来ないことばを聞いたことを知っています。・・・」

(「コリント人への第二の手紙」12章1-4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(引用終わり)

ここで、パウロが「一人の人」といっているのは彼自身のことです。

彼は一つには、コリント教会の信徒たちに神秘主義が流行するのをさけるために、
こういう書き方をしているのかもしれませんね。




<幽体離脱かペアー量子体か>

また、「それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません」というところは~
 今の心霊科学用語をもちいると幽体離脱(ゆうたいりだつ:霊が一時的に身体を抜け出ること)となりそうなところです。

他方、このブログで紹介してきた量子論の知識を用いると、「パウロのペアー量子体が天に引き上げられた」と解することも可能です。

いずれにせよ、パウロは「人間には語ることを許されていない、
口に出すことの出来ないことばを聞いた」とはっきりいっています。

これなんて、神語っぽいよね。

がとにかく、これほど直裁的に言われると、信徒の中には、これは一体どういうことだと考え込む人も出るでしょうからね。

やはりこれを福音の全体像の中に納めて説明できる指導者は、いてくれるとありがたいではないでしょうか。

そこで次回に、これも収納した福音の全体像、鹿嶋の自由解釈による全体像をのべてみましょうか。

さて、どうなることやら・・・。





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少年イエスの聖書知識と天にある「神語」

2018年01月28日 | 政治見識のための政治学





前回~、

イエスは「御言葉が人になって」この世に来た存在である。
だからイエスは(学ばなくても)御言葉を次々に流出さすことができる

~と申しました。

これを感情的に受け入れがたい人は、仮説と考えてもいいでしょう。

とにかくこの考え方で進みます。





<少年イエスの驚異的な聖書知識>


イエスの人間離れした聖句知識のありさまを示す一例が、「ルカ伝」2章にも記されています。

イエスの住んだナザレ村の人々は、毎年こぞって「過越の祭」の時期にエルサレム詣でをする習慣になっていました。

イエスが12才の年にもエルサレム詣では在ったのですが、その際に事件が起きた。

帰途、一日の道のりを来たとき、両親はイエスがいないことに気付いたのです。

親族や知人の中を三日間探し回ったがみつからない。

とうとうエルサレムまで戻ると、なんと神殿の広場でイエスが教師たちの真ん中に座って議論していたのです。


その時~


・・・・・・・・・・・・・・・・
 「聞いている人はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」(「ルカ伝、3:46)
・・・・・・・・・・・・・・・・


~とあります。


+++

ここで少年イエスを取り巻いていた「教師」とはユダヤ教の教師僧侶でしょう。

そしてこの時代、長時間の議論の対象になるのは聖句以外にあり得ないでしょう。


ユダヤ教の教師は聖書(旧約)のプロです。

イエスはその彼らと何日も聖句を議論していた。

そして、聞いている人々が彼の知恵に驚いた、とルカは記しているのです。


・・・この事件もまた、イエスの聖書知識が飛び抜けていたことを示すのではないでしょうか。






イエスはその後、両親と一緒にナザレに帰り、「両親に仕えた」(「ルカ伝」2:51)とあります。

父親に従っての大工の仕事をしていたのでしょう。

そういう境遇の中での12才の少年が、ユダヤ教のプロの聖書教師の真ん中に立って議論をし、

その知恵で人々を驚かす、などという事態は普通には起きえないでしょう。

単に頭が良くて聖書が好きだった、というだけで起きることはない。

+++

この事件もまた、「彼の中にすでに御言葉が体現されていた」という理由を浮上させるのです。

神秘的ではありますが「それ以外の現実的理由」は、鹿嶋の心には出現しません。





<御言葉は先に天にあった?>

そこでこの「ヨハネ伝」1:14 の聖句に今一歩深く踏み込んでみましょう。

まず「言葉が御子イエスとなって世に来た」としますと、次のことが言えそうだ。

つまり、その言葉はイエスに体現される時点では、「この世」ではなく「創造神の懐」というか、広くいえば「天」にすでにあった、と。

あったから、人となり得るのですからね。

存在してなかったら、なりようがない。

それが道理ですよね。





<父のもとで見たことを話しているんだよ>


また、イエスのこういう言葉もあります。



・・・・・・・・・・・・・・・
「私は父(創造神)のもとで見たことを話しています」(「ヨハネ伝」8:38)
・・・・・・・・・・・・・・・



ここで「見たこと」とは、光景もあるかも知れませんが、主に「言葉(文字)」でしょう。

父(創造神)のもとにはすでに書かれた言葉があったのです。

それをみて御子イエスは、そのままこの世で語っていることになります。



すると福音書の著者たちの仕事はどういう風景になるか?

彼らは、御子のその言葉を福音書に書き留めているという構図になります。





<人間には読めない文字で>


つまり、繰り返しますが、天に先に言葉(文字)があるのです。

おそらくそれは人間には理解できない、いってみれば「神語(かみご)」とでもいうべき言葉で書かれているでしょう。

その一部を御子イエスは人間の言葉である、アラム語やヘブライ語(ギリシャ語でも?)で語った。

そして、福音書の著者たちはそれを直に聞いたり、取材したりして記録した、ということになります。






<旧約の言葉も先に天に存在?>


だったら旧約聖書の言葉も先に天にあった、と考えられませんか?

そのすでにあった言葉のうちの一定部分を、創造神(エホバ神)はイスラエル人の超霊感者(預言者」)に啓示した。


(余談ですが、こうなると、エホバ神(天使)が自分で考えたことをイスラエルの預言者たちに啓示したのではないことになりますね。

すると歴史のすべてが父なる創造神の意志で動く、という聖書の全体像に適合して、すっきりします)



ともあれ、そのある部分は映像で、そして、ある部分は言葉(ヘブル語)でもって示した。


超預言者たちは、それを創造神からのメッセージと信じて受信し記録しました。

イスラエル民族は、それをやはり創造神からのメッセージと信じて保存した。

それが旧約聖書だった~ということになるでしょう。


+++


イマジネーションはまだまだ続きます。

しかしこういう聞き慣れない話に、読者がこれ以上ついてこられるには、一呼吸置く必要があるでしょうね。


今回はこれまでにします。

(続きます)













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弟子は聖句をどう暗記できたか?

2018年01月27日 | 政治見識のための政治学



前回までで、イエスは弟子たちに休む間もなく講義し続けたことを、我々は知りました。

旅の途中でも、宿泊所に着いても教え続けた。





<弟子たちはどうやって聖句を?>

でも、こんな疑問も生じます。

イエス無きあと、弟子たちは、イエスから学んだ教えを伝道しています。

その際、旧約聖書の聖句をふんだんに持ち出してその解読を語っているんですね。

そこで、彼らはどうやって旧約の聖句を暗記する程に身につけたのか、という疑問が生じるわけです。





<聖書を持ち歩くのは不可能だった>


彼らは聖句を書いた書物(聖書)を持ち運んで旅をしていたのでしょうか?

そんなこと出来ないでしょう。

当時は活版印刷術もありません。

だから今の我々が手にしているような、全巻を一冊にコンパクトにまとめた聖書はありません。


この時代には、羊皮紙(羊の皮をなめしてつないだもの)に聖句を書いて、それを巻物にしていた。

両端に木の棒をくっつけて、それに左右から羊皮紙をぐるぐる巻いて読んでいました。

創世記から最初の五冊を「モーセ五書」とか、トーラとか呼ばれることもありました。

その概念が拡大して、旧約の書物全体をトーラということもありました。


+++

がとにかく、この巻物は縦の長さが50センチくらいもある、大きなものでした。

これに、旧約聖書の全体を書きしるすとなれば、書物は膨大な量になりました。

弟子たちが引用しているのは、モーセ五書だけではありませんからね。

もしこの巻物全部をもって旅をするとなれば、弟子たち全員は巻物を抱えて旅をすることになる。

聖書の記述から、そういう光景は思い浮かびません。




<イエスの口から全聖句が出た!>


ではどうやって聖句に触れたか。

結論から言えば、聖句はすべてイエスの口から出たでしょう。

イエスの中に、すべての聖書が収納されていた。

イエスはそれを、必要に応じて次々に口に出して解説した。

弟子たちはそれを、スポンジに水が染み込むが如くに吸収したのではないでしょうか。

彼らの聖書を知りたいといい情熱は、半端じゃないですからね。

その心に個々の聖句は、イエスが解き明かす解読と共に、染み込んでいったと考えられます。

+++

だけど、そうすると、こういう疑問が湧いてくるでしょう。

イエスはどうやってそれらの聖句を身につけたか?

常識的な答えは、「幼少時より聖書を読みまくったことによる」・・・でしょう。

だが、それもありえないと思えます。

幼少時より聖書全巻を読めるような環境は彼にはなかった。

成長すれば、父親の大工の仕事を手伝っています。

聖書の全巻を読みまくることによって、すべての聖句を暗記することは出来なかったでしょう。

弟子たちにすらすらと口述できるようにはならなかったでしょう。






<言葉が人となった方>

ではどうして?


理由は「ヨハネ伝」1章の聖句以外にあり得ないと思われます。



・・・・・・・・・・・・
「ことばは人となって、わたしたちの間に住まわれた」
(「ヨハネ伝」1章14節)
・・・・・・・・・・・・



つまり、「イエスご自身が聖句で出来ていたから」という理由以外にありえなかった。

全身、これ御言葉ですから、弟子たちに向かって聖句がどんどん流れ出した、ということになりそうなのです。





<「信者」の説明だ!>

わ~ぁ、大変。

この理由を目にして、シュリンクする(顔が引きつる)読者は多いんではないでしょうか。

鹿嶋春平太って知的なジェスチャーをとっているが、こんな神秘的な理由を平気で持ち出すとは。

やっぱり彼は「信者」なのだ。これは「宗教なのだ!」・・・と。

注意しないと、戦前に天皇現人神宗教を信じさせられて自爆攻撃に誘導された特攻隊の若者のようになるぞ。

くわばらくわばら・・・もう、このブログからは離れよう~という人も。





<宗教思考(神学)に神秘はつきもの>

たしかにこの理由は「神秘的」ですね。

だけど、宗教の思考(神学)には神秘要素はつきものですよ。

神秘が全くなくなったら、それは「科学」の論述と同じになりますよ。

神秘は出来るだけ少なくすべきでしょうが、神学から排除すべきものではありません。

排除すべきは神秘ではなく、神秘主義です。

つまり、理屈抜きに神秘なものを上位の究極の実在としてもってくるのは、排除すべきだ。


次回には、「言葉が人となられた方」という神秘的な要素の、論理的根拠を考えましょう。








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宿泊所でも教え続けた

2018年01月24日 | 政治見識のための政治学





前回の続きです。

イエスが教え続けたのは、徒歩移動中だけではないようです。

宿泊所についても、即座に教え始めた。

そう推定させる出来事が、新約聖書の『ルカ伝』10章に記されています。

だが、その前に、イエスの支援者のことを考え、想像しておきましょう。


   


<金持ちの支援者も多かった>

イエスの一行は野宿もしましたが、金持ちの家に宿泊することも少なくありませんでした。

イエスをサポートする金持ちは多かったのです。

+++

最初の動機が、「こういう人とは近しくなっておこう」というケースもあったでしょうね。

この人は、三年半に渡って人の病をただちに癒やし続けたのですよ。

子どもが死んでも生き返らせてくれるのですよ。

「この人とは頼み事をしやすい状態に自らをおこう」と、金持ちならほとんどが思うでしょう。

鹿嶋がその時代の金持ちだったとしても、最初はそういう動機が働いて支援者になったと思いますよ。




<アリマタヤのヨセフ>

だが、自己利益を主動機にするような支援は長続きはしません。

やはり、イエスの教えに打たれ、受容して賛同者にもならねばならない。

そういう金持ちは結構聖書に出ていますよ。

+++

イエスが十字架刑死したのち、その死体を受け取らせてくれと、ローマの総督に願い出た人が「ヨハネ伝」の終盤に記録されています。

名は「アリマタヤのヨセフ」と記されている。

彼もその一人で、聖書には~

「イエスの弟子ではあったが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」
(「ヨハネ伝」19:38)

~とあります。

体制側の人だったからでしょう。

+++

彼は死体を受け取った後、入手してあった新しい墓に葬ったようです。

聖句では~


・・・・・・・・・・・・・
「イエスが十字架に付けられた場所に園があって、そこには、まだ誰も葬られていない新しい墓があった・・・」(「ヨハネ伝」19:41)
・・・・・・・・・・・・・


~とあります。

アリマタヤのヨセフがあらかじめ入手していたものでしょうね。

持ち主でもないのに、そこにあったお墓に勝手に葬ることなど、出来ませんからね。

この墓は、岩山を横にくりぬいて作った一室になっていた。

入り口を大きな岩盤を転がして塞ぐようになっていました。

そんなものを、普段から保有している、というのは金持ちでないと出来ないことです。





<ニコデモも最後まで支援者だった>




また、そこに~



・・・・・・・・・・・・・・・・・
「没薬(もつやく)とアロエを混ぜたものをおよそ30キログラムばかり持ってきた」(「ヨハネ伝」19:39)
・・・・・・・・・・・・・・・・・


~という人も来ます。

ニコデモです。

聖書を読む人にはおなじみのユダヤ教の指導者(高僧)ですね。


+++

彼は前々からイエスに傾倒していました。

この人が、夜闇に紛れてイエスの所に質問に来る場面が「ヨハネ伝」の3章に記されています。

彼はまた、議会でイエスが不利にならないような発言をしたりして、ひそかにイエス支援をしています。

その彼が、この葬りの時にも、没薬や香料、亜麻布をもって登場した、とヨハネは記しています。

+++

当時のユダヤ教の高僧といえば、みな、資産家ですよ。

彼もイエス支援者の一人でした。






<「最後の晩餐」の場と「マルコの部屋」の提供者>


城郭都市、エルサレムの内部にも支援者はいましたよ。

イエスが「過越の祭」の日にいわゆる「最後の晩餐」をした、とあります。


エルサレムには、その部屋と食物を提供した人もいたのです。

また、イエスが殺されて復活した後、弟子たち200人以上が一堂に会して祈っていた部屋は「マルコの部屋」とされています。

こんな大きな部屋を提供した人もエルサレムにはいた。

資産家に決まってますよね。

彼らは立場上、身分を隠して支援しますが、こういう金持ちは、ガリラヤ、サマリア、エルサレムなど、イスラエルの全土にいたのです。





<マルタとマリアという姉妹>


さてそれで「ルカ伝」10章です。

ここにはエルサレムから徒歩1時間ほどの所にいたイエス支援者の話が出てきます。

マルタ(姉としておこう)マリア(妹としておこう)という、資産家の娘です。


+++

そこでもイエスは到着後、ただちに教えを述べています。

待ちわびていた近所の人々は、すぐイエスを取り囲んで教えを乞うたでしょう。

妹のマリアはその中に混じって教えを聞いていました。

+++

姉マルタは、人々をもてなすために家事にいそしんでいました。

だが、彼女はついにイエスに訴えました。

「妹も、手伝うように言ってください!」と。

これに対するイエスの応答は有名です。

「マルタ、人生で大切なことは、そんなに多くないんだよ。マリアはそのままにさせておきなさい」





~でも、こんな疑問が生じませんか。

イエスは何を無責任なことを言ってるのか。

イエスのいうように姉もイエスの講義を聴き始めたらどうなるか。

一行をもてなす食事が出来あがらなくなってしまうのではないか~と。


+++

~けれども、現実はそうならないでしょうね。

近所の他の女性たちがマルタの意図した食事を作り始めたでしょう。

また、マルタがマリアと、講義が一段落してから作ることもできますしね。

少し待ってもらうだけのことです。


現実はそんなものです。






<宿泊所についてもイエスは語り続けた>


が、ともあれ本題です。

これなど、イエスが、支援者の家についても常に聖句解読をレッスンしていたことを示唆しているのです。

イエスは、旅をしながらも、支援者の家に於いても、常に聖句を教え続けました。

唇の休まることはなかった。

弟子たちが、宿泊所でも、学びまた、議論していたこともこの事件から推察できます。

まあ、想像できない人は、ゲートボールしてた、スマホしてた、トランプしてた、世間話してた、など、なんでもイメージしてください。









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イエスの弟子たちは聖句学習集団だった

2018年01月22日 | 政治見識のための政治学






『使徒行伝』からは、ペテロやステパノだけでなく、他の弟子たちも聖句を語って伝導していることもうかがえます。

次の聖句はそれを示す一つです。



・・・・・・・・・・・・・・・

「(迫害者だったパウロたちによってエルサレムから)散らされた人たちは、御言葉を宣べ伝えながら、巡り歩いた」
(『使徒行伝』8:4)
・・・・・・・・・・・・・・・




でも、一体、彼らはどうやって聖句に精通していったのでしょうか。

すべてイエスのレッスンによると思われます。





<公生涯の大半は宣教旅行>


イエスの3年半の公生涯の大半は宣教旅行でした。

彼が引き連れた一団は、12人の使徒だけではなかった。
彼らを囲んでさらに70人の弟子がいました。

この総勢が、徒歩で宣教旅行をしました。

旅の途中にある村々に入り、イエスは聖句解読を中心にした宣教を行いました。

彼はその正しさを、偉跡(病の癒しなどの奇跡)で証拠しつつ語りました。






<村では弟子たちも聖書を教えた>



その間、他の大勢の弟子たちはどうしていたでしょうね。

ただ突っ立って待っていたとは考えにくい。

暇つぶしにゲームに興じていたとも考えにくいです。

当時、ゲートボールもスマホもないしね。

+++

おそらく彼らも手分けして、集まってきた村の人々に福音を伝えたでしょう。

彼らはみな、聖句を提示しつつ、その解釈を教えたでしょう。




<みんなイエスから聖書を学びながら歩いた>


では、その知識はどこでどうやって得たか?

徒歩旅行の間に、でしょう。


+++


弟子たちの生活時間は、村に入っての伝道以外には、ほとんどが旅でした。

当時、クルマもありませんので、徒歩旅行です。

+++

弟子たちはその際、軍隊のように、黙々と整列行進していたのではないでしょう。

おそらくイエスを囲んで歩きながら、あるものたちはイエスに近づき、聖句の質問をしてたりしたでしょう。

弟子たちは、結果的に、小グループ毎に順繰りに、聖句の解読レッスンを受ける形になったでしょう。

80人もの弟子たち全員が一度に、歩きながらイエスを取り巻いて話を聞くことは出来ませんからね。




<思い思いに近づき質問した>


レッスンを受けたグループは、イエスから離れて、それについて互いに議論したでしょう。

イエスの講義を検討し、吟味し合ったろした。


+++

すると別の弟子たちがまた小グループで、イエスに近づき質問したりしたででしょう。

こうやって次々に弟子たちは、小グループを形成して、イエスの薫陶を受けたでしょう。


+++

ではイエスは結局、しゃべりっぱなしで歩いていたか?

唇の休まるときはなかったか。

そうだったと思います。

イエスは教え続けて歩いていたのです。









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ステパノ執事、聖書解説して殺されていく

2018年01月20日 | 政治見識のための政治学





話を戻します。

『使徒行伝』には、ペテロだけではなく、他の弟子たちも聖句に詳しかったとうかがわせる聖句が結構あります。

ステパノ執事の殉教物語にも、それは示されています。





初代教会が出来ていくとき、11使徒は7人の執事を選んでリーダーに加えます。

ステパノはその一人です。

彼は伝道中に、回心するまえのパウロの率いるユダヤ教の一団に逮捕されます。

(パウロはこの後、クリスチャンになり、大車輪の伝道活動をするんですけどね。

この時はユダヤ教チームの迫害リーダーです)







ステパノはユダヤ教徒の議会に引き出され、偽証を含めた告発をされます。

で、大祭司に「そのとおりか」と尋ねられると、突然、自説を証言し始めるのですが、

その際~、

アブラハムから始めて、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモンに至るまでの旧約聖書の物語をとうとうと語っています。

それが驚異的に詳しいんだなぁ~。。


聖句もどんどん引用している。どうやって暗記したんだろう。






その上で彼は~、

「・・・あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。

彼らは、正しい方がこられることを前もって宣べた人たちを殺したが、

いまはあなたがたが、この正しい方を来られることを、前もって宣べた人たちを殺すものとなりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません」

~とカマします。

(『使徒行伝』7:51-3)



これではもうユダヤ教指導者は怒り狂いますよね。

彼らは、ステパノを町の外に追い出します。

そして、石打でもって殺してしまいます。


~ステパノ事件は、そういう物語ですけどね。






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