鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.282『イエスってそんなに気宇の小さい人?』(16章32節)

2010年06月27日 | ヨハネ伝解読

ヨハネ伝解読を続けます。
本日の聖句は、前回に続く、次のところです。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「見なさい。諸君が散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私を一人にして残す時が来る。いや、すでに来ている。
だけど私はひとりではないよ。父が私と一緒におられるからだ」(16章32節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    



 ここは、前のイエスの言葉、「諸君は今わたしを信じているの?」とつなげて読みたがる人が多いところです。
 つまり、「私を信じてる? 嘘でしょ。君たちは私がとらわれる時、みんな逃げてしまうよ」
とイエスが言っている、と解釈する。

 だけど、よく考えましょう。
イエスって、そんなに気宇の小さい人でしょうか。
「諸君は信じてるなんて言ってながら、そのときが来るとみんな逃げてしまうよ。ワ~イ、ワ~イ」
なんて感情を持つでしょうか。それは子供の感情です。

 こういう矮小な解釈は、
後にペテロがイエスを「知らない」という場面についての大方の見方にも現れますが、それは後述します。

とにかく、そうではなくて、ここは切り離して受け取るべきところ、
すなわちイエスの「諸君は今信じているの?」はそれだけで終わって、次に新しい話をするところと鹿嶋は見ます。


                    

 イエスは前の言葉とはつなげないで、「諸君がわたしをひとり残す時が来るよ」といっているのです。

 そして、これには聖書全体を支える大前提が関わっています。
それは「創造主から出た言葉には、実在は従う」という前提です。

このあたりは、詳細は拙著『誰もが聖書を読むために』に記しましたが、
とにかく、ここでイエスの口から「諸君が私を一人残す」という言葉が出ている。
そうしたら、実在はそうなるのです。
それは弟子たちの信仰が足りないとか足りるとかいったことによるのではないのです。


                    

もう一つ、留意しておくべきことがあります。
ここにはイエスから離れない例外がいます。
ヨハネとペテロがそれです。
彼らは、イエスに一定の距離を置きながら、イエスが尋問されるところにも同行している。

これはどういうことか。
イエスはいちいち「少数の例外を除いて私から逃げる」とか
「ヨハネとペテロを例外として・・・」などとは言わないのです。
単純明快に語る。

だから、ここでの「諸君は」は、「ヨハネとペテロを除いた諸君は」という意味だととればいい。
そうすれば、「実在は創造主イエスの言葉に従って、そのようになる」ということが真理となるでしょう。

 こういう風に、実体を細部にわたって把握していくのは有益です。
これをしないで安直な解釈を鵜呑みにしていると、聖句の深い意味がこぼれ落ちていってしまいます。
そうすると、ヨハネの意識にある状況を、立体的に理解することができなくなってしまいます。

                    




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Vol.281『えっ? 今信じてるの?』(16章28~31節)

2010年06月23日 | ヨハネ伝解読
 ニッポンキリスト教会の礼拝に参加する機会が多くなりました。
聖日に教会で賛美、祈りができるのはありがたいことです。
けれどもメッセージにはやはり引っかかるものを感じることが多い。

複雑ですが、いつか何かの形で生きると思っています。


                    


ヨハネ伝に入る前に、ニッポンキリスト教のもう一つの問題点を。

メッセージで、旧約聖書の聖句をテーマにする時にそれは発生します。
ニッポンではあまりによくあることですが、聖書全体への鳥瞰図がないままで、旧約を解説する。

そもそも、旧約聖書はユダヤ教の教典だったものです。
なのに、キリスト教では、これをイエスの教えを述べた新約聖書と組み合わせて
『聖書』としているのはなぜか。
この基本的なところの認識がない。

するともう、イエス信頼教であるキリスト教の説教にはならないんですね。

                    

イエスは「旧約聖書は私について述べたもの」といっている(ヨハネ伝、5章39節)。
これに従ってキリスト教会は、旧約聖書を自分たちの聖典として加えました。

だから、キリスト教では旧約はイエスを証言するという観点から読むもの、メッセージするものなのです。
それによって、聴衆は旧約を通して今週も、イエスに新しく触れることが出来る。
イエスに触れるから感動が来るのです。

なのに、ニッポンキリスト教はその理由を把握しないままで旧約をあれこれ論じようとします。
すると、メッセージのエッセンスは、必然的に単純な教訓で終わることになるんですね。

曰く、「ダビデは多くの戦いで奮闘しましたが、それは自分の力で出来ると思っていない。
神の御旨をしり、その力を信じてやっている。今日はそれを学びました」
「ソロモンは、自分の望みとしてエルサレムに神殿を建てたのではない。
主の御旨を知ってその助けを信じてやっている。私たちもそれを学びましょう」

要するに、神の御旨に沿ったことを、神の助けを信じて日々生きるのがいい、という。
これだけのことを言うために、40分近く、列王記に記されたエピソードを長々とたどります。

だけど、人生訓だったら、なにも聖書でなくったって、たくさんありますよ。
論語にも、菜根譚にも沢山あって、むしろ、人生訓だけだったらこちらの方が盛り沢山だ。
「自分の思惑ではなく、天の差配に従ってことをなすべき」などは、当然出てきます。

+++

ごく自然なことですが、会衆は疲れて無表情になったり、眠ったりします。
さすがに語り手ご自身も自覚することがある。
「私のメッセージは感動を与えないかもしれないが・・・」
という言葉が途中で出る時もありました。

でも、それだけでは終わらない。
「だけど、私は牧師按手を受けているから、自分の意志でなく神の意志に従ってやってるんだ」とドスを効かします。
それをソロモンに関連づけて語ったりするんだけど、出発点で間違うとそこまでいくんですね。

+++

キリスト教では旧約は、イエスをとりまく影を示す書物です。
言い換えると、キリスト教が与える究極のものは「いのち」であり、それを体現しているのがイエスであって、
そのいのちが現れる前に、その外枠を提供しておくのが旧約聖書です。
この論述を、イエスに関する論述と区別しないで、並列するように学ぶと、外枠ばかりが濃く補強されてしまって、
ホンモノに向かって前進しようとする妨げになってしまいます。
 
具体的には、聖霊を受けること、イエスの血(いのち)の力を受けること、
に向かって進めなくなってしまうのです。

+++

旧約は、イエスのディテールを構成する書物です。
小説作法に、リアリティはディテールに宿る、という格言があります。
登場人物やその舞台や時代背景を詳細に描くと、それが真実性を形成するという。

イエスのリアリティも同じです。
旧約がイエスの背景を詳細に示すことによって、イエスの真実味を人はより豊かに感じることが出来る。

 この鳥瞰図の中で読む時に、旧約は力を発揮するのです。

+++

だが旧約の聖句をイエスと結びつけるには、聖霊の助けと相応の知恵がいります。

うまくイエスのディテールとして解読できない時もあるでしょう。
そのときには、新約だけをメッセージするのがいい。
キリスト教会は新約中心の教会ですから。
旧約は、新約の思想を別の面から裏付けて、確信を深めるための書物だからです。

+++
                   
ニッポンキリスト教のメッセージを聞く時、時々首を回して聴衆の表情を眺めることもありました。
会衆は無表情でじ~として聞いています。

歓びがない、精神の躍動がない。
居眠りする人もいます。
そういう状態で礼拝行事を続けていく我慢強さには打たれます。
心から感心する。

日本人の中でそういう忍耐がとりわけ強いというか、忍耐好きな人が残ってパラパラ座っている。
これがニッポンキリスト教会の風景ですね。

そして何事にもプラスはあります。
これは、忍耐と従順さの訓練にはなるでしょう。

だが知性躍動にはマイナスを多大に与え続けている。
「真理が人を自由にする」という姿がない。
残念ですね。

でもやってる人は、これがキリスト教と信じて疑わない。
これで存続していきます。

だがそこにもなにか創造主の計画があるのかも知れません。
いつかどこかに向かって動き出すでしょう。






                              


さて、ヨハネ伝解読に入ります。
本日の聖句はこれです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「『私は父(創造主)から出て、世に来たんだ。そしてまた世を去って父のみもとに行くよ』 
弟子たちは言った。
『ああ、いま先生はそのままをおっしゃっていて、喩えでは一つの語られてません。
だからいま私たちは、先生がいっさいのことをご存じで、だれも先生にお尋ねする必要がないことがわかりました。
これで、私たちは先生が創造主から来られたことを信じます。』
イエスは応えた。『諸君は今信じているのかい?』」
(16章28~31節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


弟子たちの語ることとイエスの言葉がすれ違っていることがわかるでしょうか?

「自分は父なる創主から出て世に来ている。で、また世を去って父ものとに変えるよ」
というイエスの言葉には、喩えは含まれていません。
弟子たちでなくても、それはわかるでしょう。

でも、ここからすれ違いが始まる。

弟子たちは、それを聞いて「もうこれでイエスを本格的に確信持って愛し信じることが出来たんだ」
と判断してしまいます。

しょうがないですけどね。
イエスが死んで、さらに、復活して天に帰るなどということは、観察体験しないことにはイメージ出来ません。
だから、それを体験した後に自分たちがどうなるかも、イメージ出来ない。
できないから、それと比較して自分たちの今を認識できない。
だからもう「今がそうだ」と勘違いするのもやむを得ないんですね。

だけどそんなことイエスは百も承知です。

だから「いや、諸君は間違ってる。今は信じてない」と決めつけることはしないんですね。
そうしないで、「諸君はいま信じてるの?」とだけいって、話を先に進める。

ここはそういうところです。


                    




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Vol.280『弟子がイエスを確信持って愛する日』(16章26~7節)

2010年06月19日 | ヨハネ伝解読

ヨハネ伝解読にもどりましょう。

右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります。

本日の聖句は16章のこれです。

                      
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「その日(イエスが喩えで話さなくていい日)には諸君は私の名によって求めるんだ。
私が諸君に変わって父に願ってあげるのではない。
それは諸君が私を愛し、かつ、私が創造主から出てきたものと信じるので、父御自身が諸君を愛されるからだ。」
(16章26~7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                      

                     
 26節から32節までは、話が繋がっているようでもありますが、わかりにくいところですね。
まず、26~7節を解読しましょう。


                    

ここでの「その日」とは、今イエスが語っている日ではありません。
イエスが死んで復活するのを弟子たちが見た後の日です。

イエスは言います~
その日になったら、弟子たちのイエスへの愛は今とは様変わりに本格的で確かなものとなるよ。
かつ、イエスが創造主から出た方だということに、本格的な確信を持つことになるよ、と。

そして、そうなると、創造主は弟子たちを(イエスを愛するように)愛されるようになるよ~と。


                    

なぜでしょうか。
人間のケースで考えてみましょう。

自分の子の友達が家に遊びに来ているとする。
二人の会話を聞いていて
「ああ、この友達は我が子をよくわかっているな、その上で愛してるな」
と認識すると、親はその子も愛らしく感じるでしょう。

父なる創造主も同じではないでしょうか。
我が子イエスを弟子たちが深くわかって、確かな愛で愛したら、
創造主は弟子たちをもイエスへの愛と同じ愛で愛するでしょう。

そうしたら、もう、弟子たちの願いは、自分が直接愛する人間の願いですから、直接応えてあげたくなる。
イエスはそういっています。


                    

でも、ここで大事なことは、それは最後の晩餐をしている今ではない、ということです。
ところが、弟子たちは
「イエスは喩えで話さなくなった。自分たちはもうこれでイエスのことがわかった」
と考えて素っ頓狂に応じていくのですね。

その状況が次の28節から記されていますが、それについては次回に見ることにしましょう。

                    


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<臨時版4>『宗教活動の鳥瞰図』(書換え版)

2010年06月11日 | ヨハネ伝解読

5月3日にアップした『宗教活動の鳥瞰図』に説明不足なところがありましたので、
ここに書換え版を掲載しておきます。少し長くなりました。


                    

もう一つ、臨時版を追加しましょう。
聖書や聖句主義も含めて、人間の宗教活動はどういうものなのか、
その全体像、鳥瞰図を造っておきましょう。

基底的なところから考えを進めます。そもそも人間の心に宗教心が芽生えるのはなぜか。
それは生きる苦しみと恐怖心に由来しています。人間、生きていくには苦しみと恐怖がつきまとうのです。
人はこれらを解消しようと、目に見えない強い存在を求めます。
目に見えない存在とは霊です。霊とは「目に見えない意識体」の総称です。

 この強い霊は、恐ろしくもあるけれど、助けてくれる優しい面もあると期待してこれとの交信をを求めます。
その際、人はまずそれを自分を取り巻く自然の中に探ろうとします。
山や大きな木のなかにそういう霊的存在がいることをを予感する。
そしてこれを神とか神様とか称して、これを拝み感知しようとします。人間の神に対する自然の情とはそういうものです。


                    

<直霊感主義>

このとき人は、神を直接的に霊感で感知しようとしています。そういう認識方法をとっている。
こういう直接的な霊感受信を志向するやりかたは、直接霊感方式といっていいでしょうが、
より短く「直霊感方式」ということにしましょう。

人間はこの方式を、時とともに複雑化させ洗練させていきます。
よりよく霊感認知ができるように、と工夫していくのです。
たとえば、大木の周りにしめ縄をはって、その内と外を区別する。
内は聖なる領域であり、外は俗なる領域であるとして、その内に神が臨在してくれることを期待して拝みます。

あるいは、神殿や社を建てて、そのなかに神が臨在すると期待して拝む。
さらには、神秘的な像を造ってその中に神が宿ってくれると期待して拝みます。

 僧侶に豪華で神秘的な衣服を着せたり、神秘的な音を演出することもします。
奈良の春日大社では、夜暗い時に僧侶たちがウォ~ッ、ウォ~ッと声を出します。
強風で周囲の山が出すうなり声を連想させると同時に、そこに神がいると感じさせます。
若い巫女に舞踊をさせることもあるし、煙を用いることもある。煙の中に臨在を感じるのでしょう。
 
 また、そうした行為を行う際の作法をいろいろ考案し、これらを組み合わせて儀式を構成する。
そしてその儀式を神秘的に行って、神の感知をさらに高めようともします。
が、いずれにせよこれらは感性に直接神を認知しようとする直霊感方式です。
人類は世界の多くのところでそういう宗教活動をしてきています。


                    


<言語経由主義>

直霊感主義は素直で気持ちのいいものですが、あるところから認識が深化しない状態になるという欠点があります。
建造物や衣装、音楽、煙などをもちいた儀式演出の中に身を置いて濃厚に神を感知しようとしても、
結局あることろで感知レベルは停滞する。あと繰り返しても堂々巡りになります。

 理由はやはり、神のイメージが漠然としたままで霊感を働かせるところにある。
それゆえ、得られる認識は「感慨」に留まるのです。

 そこで人は、言葉をも用いて神のイメージを明確化させる方式を考案します。
霊感だけでなく知性をも参加させて神を認識しようというわけです。

その通常の形は、霊感と知性と熱情に優れたある人物が、
言葉でもって神のイメージを明確化する教え(教義)を造り、そこに霊感を集中するものです。
こうすると、よりシャープでバチッとした認識が出来るようになります。
広告人はそれを、エッジの効いた、とか、尖ったとかいうように感性的に表現しますが、
そういうシャープで立体的な認識が可能になる。
そして、その教えに多くの人が普遍性を認めると、それは世の中に広がりそれを作った人物は教祖となります。
また教えへの賛同者が世代を超えて出現すると、それは社会に保存されていきます。

いずれにせよ霊を認識するには詰まるところは霊感認識によるのですが、
この方式はその霊感認識に行くまでに言葉の理解を経由します。
そこで直霊感方式に対して「言語経由方式」と名付けることにいたします。
そしてこういう卓越した人物が創案する言語経由の方式を「天才による」言語経由方式と言うことにしましょう。
彼らの教えは、教典に記録されます。人々はこの教典を助けにして神と交信しようとするわけです。

言語経由方式の宗教活動はほとんどこの「天才による教え」を記録した教典を用いるものです。
だが例外もある。
イスラエル人の間に生じた宗教活動がそれでキリスト教と呼ばれ、聖書と言われるその教典は複雑な構造を持っています。

第一に、教典の言葉は神が人間に送ったメッセージだとされています。

第2にそれは、旧約聖書と新約聖書という二つの大冊からなっています。

第3に、旧約聖書の言葉は、創造主なる神が人間に発したメッセージを
預言者という霊感のすぐれた人物たちが言葉に記録した文を集めたもの、となっています。

第4に、新約聖書の言葉は、三つの種類からなっています。

第5に、その一つ目は、自らを創造主の子といったイエスの言行録です。これは福音書と通常言われます。

第6に、二つ目は使徒と呼ばれたイエスの弟子たちの手紙集や言行録で、
これは聖霊という創造霊の導きによって書かれたものとされています。

第7に、三つ目は「黙示録」という書物で、これはヨハネというイエスの弟子に延々と与えられた幻を
ヨハネ自身が記録したものとされています。
 
聖書はかくの如く複雑で多様な言葉でもって構成されていますが、それらは卓越した人間からではなく
全て神(創造主)からのメッセージや聖霊という創造主の霊に導かれて書かれたものだとされている。
そういう特異な教典を用いる宗教がキリスト教ということになります。


                    

<個人色の濃淡>

「天才による」教典と、聖書という教典とは、次の二点において対比を見ることが出来ます。
第一点はその教えの個人色についてです。
前者は「 天才による」といえども、教える人は一人の人間です。
そこでは教祖の個人的な思い込みや個人色の介入余地を完全に否定しきれないところが残ります。

対して、聖書に記されている教えは、個人色が希薄です。
旧約聖書では言葉を記した預言者が多数1000年以上にわたって散在していて、
しかもその預言のほとんどが、後に出現するイエスを示唆するという点で繋がっています。

1000年もの時代に点々として出現した人々が集まって相互に申し合わせをしたりは出来ませんので、
ここでの預言には人間の智恵を超えた力の存在を想定せざるを得ませんし、
それ故に個人色を超えた普遍的なものと推察できるのです。

もちろん「旧約聖書はイエスを預言した本」と最初に指摘したのはイエスですから、
個人色があるではないか、という異論もでるでしょう。
だが、イエスは個人色の希薄な旧約聖書の言葉に照応させてそれをいっています。


                    

<探求余地の大小>

もう一つは探求余地の広さについてです。
一人の人間による教えは、多くの面で筋道だって記されています。
そういう言葉は教説全体の体系認識に到達するのが比較的容易です。
ですから信徒はそれを学んだ後には、霊感を強める修養と社会に対する実践活動に向かうことになる。
その際、その時点で教典の言葉を探索する知的活動は終了しています。

これに対して、聖書に収められている話は、非常に多様です。
創世の話、神(創造主)と人間の関係、イスラエル民族の歴史、天から与えられる律法の話、
処世訓、さらには恋の歌まである。

また、そこで述べられる世界は、無限の空間と無限の時間にわたっているし、物質界から霊界にまで及んでいる。
霊界には創造霊もいれば被造霊もいて、 深遠広大そのものです。
おまけにこれらの記述には比喩表現が沢山含まれていて、
その意味の解読や全体的た体系把握作業には終わりがありません。

聖句の間の論理的繋がりを解明する学問を神学といいます。
この学問は2000年近くにわたって延々と続いてきて、今後も終わりそうにない。
そのことが、聖句の繋が方の探求には終わりがないことを示唆しています。

だがそれでも聖句の全体的体系解明を限りなく遠方にあるゴールと定めて探求をすすめると、
その各段階ごとに神認識の新しい発見があり、知的・霊的な驚きと歓びを得ることが出来る。
聖書はそういう珍しい書物です。


                    

<聖句主義という方式>

 少し脇道に入ります。
聖句主義はこの道をまっすぐ進み続ける行き方で、純粋な言語経由方式といってもいいかもしれません。
キリスト教活動では、初めはみんなこの方式でやりました。
小グループで集まるごとに、聖句の奥義が新しく明らかになり、
人々はその都度創造主を実感し、感動し喜びに充ちました。
この毎回の歓びの故に、人々は参集し、集団は成長しました。

 ところが時の流れの中で、直霊感主義的な方式も交える教団も台頭してきた。
この種の教団は聖句主義者を激しく迫害しましたが、それでも彼らは活動の度ごとに味わう歓びを捨てがたかった。
それ故に2000年にわたって聖句主義活動を死守して今日に至っているわけです。


                    

<直霊感方式への変貌>

 話を戻します。
言語経由主義の道を進んでいても、あるとそれが直霊感方式に切り替わることがよく起きます。
言語経由主義の立場からするとそういうのは迷路に入る、ということになりますが、そのタイプを挙げておきましょう。

 第一は、音楽や儀式の魅力形成する迷路です。
言語経由方式もつまるところは霊感認識のためのものですし、言語探求の過程でも霊感認識は随所で用いられます。
音楽や礼拝での儀式的な面は、言語経由方式での活動においても霊感を開く助けになります。だからそれも併用していいのです。
けれども、この要素を補助的要因に留めおかないで、主役を演じるものにすると、
その時点から活動は直霊感方式に切り替わってしまいます。
儀式そのものに感動したり、音楽に心酔したりしているとそうなりやすいのです。

 第2は、通っている教会が、教理主義方式の教団に属している場合に形成される迷路です。
そこでは教団本部が、信徒に自らが正統とする解釈(教団の教理)を受け入れさせる方針を持っていますので、
聖句吟味を止めさせる誘因が常時はたらいて、信徒は知らず知らずのうちに迷路に入りやすいのです。

 第3は、聖句解読を霊的でない領域、世的物質的な領域に留めてしまうという迷路です。
そこに入ると解読は人生訓、成功訓、道徳訓などをうるためのものに留まってしまいます。
こうなるともう霊的な感動を得ることがなくなりますので、しばらくは感心しても心の底では聖句に飽きていきます。
これは「そもそも宗教認識は、神と称せられているものを霊感で感知するのを目指すもの」
ということへの自覚と確信が薄いことによって生じやすいです。
日本の教会ではこのケースがとても多いです。

第4は、前回のべた「真理は一つ」の真理観が形成する迷路です。
ここに入ると人は探求過程で、脅迫感を与えられ、探求が萎縮してしまいます。


                      
 
<納得される伝道は>

最後に、日本でのキリスト教宣教について述べておきましょう。
 日本人は直霊感主義的な文化に浸りきって生活してきています。
そして言語経由主義を味わった経験を持ちませんので、
宗教とはまあ儀式に列席して厳粛で清々しい気持ちになったり、神秘的な像を拝んで神妙な気持ちになったりするものだと
何の疑念もなく思っています。

日本での伝道とは、この人々にキリスト教を伝えようとする活動です。
真の納得をするのは、聖句主義の味を経験した時のみです。
その他の方法のキリスト教活動を知らせても、「ああ、宗教ってみんな同じようなものだな」
となっておしまいになるでしょう。


                    

<補足知識>

ご存じの方も多いと思いますが、以上の論述を補足する知識を付加しておきます。

預言者

預言者とは神からの「言(ことば)」を「預かる」人という意味ですが、実際には霊感が豊かであることが必須条件です。
この預言者が中東のイスラエル民族の中に1000年以上にわたって、まるでバトンタッチするかのように登場し、
受信内容を言語でもって記録したわけです。
それらを蓄積したものがイスラエル人のいう聖書です。キリスト教はそれに旧約聖書という名を与え、
それにイエスの教えを記した新約聖書を加えて全体を聖書と言っています。

神イメージ明確化の事例

預言者の受信記録を、子孫たちが蓄積し編集したのが旧約聖書であることは前述しましたが、
彼らはこれを神からのメッセージと信じ、その言葉を解釈して神のイメージをはっきりさせた。
新約聖書にはそれをさらに進める言葉が追加されています。
そうした聖書全体によるイメージ明確化の具体的状態を二三示しておきましょう。

たとえば 「人々が漠然と神と感じているものの実体は、実は『万物を創った創造主』なんだよ」
というようにして神概念を限定したのはその一つです。

また、霊には創造霊だけでなく被造霊もあり、創造霊は時間的・空間的無限者であるともいって、さらにイメージを限定しています。
人間と創造霊との関係を示すことでも、さらに神イメージをはっきりさせています。

 イスラエル人はこうして神のイメージを限定し、神認識の領域をつめていきました。
といっても創造主は霊ですから最終的には霊感によって認識することにはなる。
人々は、言葉によって限定された神に向かって、霊感を集中的に働かせ創造主を認識しようとしたわけです。
この方式は、イエスが出現してさらに徹底されるとともに、世界に解放されていきました。


                    





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