「一億総懺悔」が作り上げた戦後日本の精神土壌は~、
「もう見えない世界の話は絶体に信じないぞ!」 という堅い決意と、
「これからは神とか霊魂とかいう話が出たら即座に逃げよう!」
~という強固なスタンスからなっている。
対して、キリスト教は霊的な教えをベースにする宗教である。
こういと日本の読者は意外な感じを抱くだろうが、本文の後半でその理由は明らかになる。
キリスト教の教典である聖書は、旧約聖書と新約聖書で構成されている。
旧約聖書はユダヤ教が唯一教典としているものだが、
そこでは、すべての教えが物質的に伝えられている。
祝福という言葉が出てくる。
それは旧約では、物質的、経済的に与えられる富と、肉体の健康に関するものとして語られる。
・・・だがイエスの教えはそうではなかった。
彼は「旧約聖書の話は霊的な祝福を比喩で示すもの」と教えた。
そしてイエスは、旧約聖書の言葉を霊的に解釈して教えた。
キリスト教は、この教えが広まったものである。
かくのごとくキリスト教は、霊的な教えを主軸とするものだ。
戦後日本人が、こういうものを受け付けるはずがなかった。
<だが人生の教えは必要になった>
だが、徴兵の赤紙も来なくなり、生命の恐怖から解放されるにつれ、
彼らは人生の教えを必要としていった。
戦後の彼らの思想もまた単純だった。
単純な人生観は、反転したって、単純なものにしかならない。
目標追求だけで構成された戦前の人生観は、戦後その目標が入れ替わるだけだった。
戦前の人生目標は「軍国日本への貢献」だった。
戦後はそれが「個人の欲望充足への貢献」に入れ替わっただけだ。
だが、人生観を単純にしても、人生の方は単純になってくれない。
平和で自由な世界でくらせば、人生の多面的な要素が生活に浮上してくる。
これらを心の中で処理しないと、人は心のまとまりが弱くなり、
精神分裂的な苦しみに陥ることになる。
多くの国民がその状態に陥り、処理方法を求めた。
<倫理道徳教団の隆盛>
その需要に直接応じたのが「倫理・道徳を教える教団」であった。
道徳なら直接霊的要素を含むことはない。
道徳教は、実践を強く促すので、効果に即効性がある。
教団に入って行えば、集団の縛りが日々の実践を助けてくれる。
「早起きしてますか? してないでしょう? 仲間で互いに声かけ合って実践しましょう」
「人に明るく挨拶していますか? すればあなたの心も明るくなるでしょう。
では、仲間で声を掛け合って実践しましょう」
「人生、思いやりと愛が大切ですよ。日頃他人を思いやっていますか?
そうすれば社会も良くなりますよ。 これも仲間で声を掛け合って実践しましょう」
~このように、素朴な道徳思想も、仲間で縛り合うようにしてあげれば、
実践は促進される。
こういう場を提供する教団が、隆盛するようになった。
実践倫理校正会はその代表である。
会員数は、公称、5百万人という。
小林正観の「うたし会」というのもある。
教祖の小林氏は最近なくなられたが、この会ではただ「ありがとうございます」を
一日何万回も繰り返す。
「実践が結果を生む」という。
「なぜ?」などと考えている暇があったら、1分でも2分でも早く実践した方がいい~と教える。
「運は動より生ず」ともいう。
ここでは「そ・わ・か」の実践を勧める。
「そ」は「そうじ」、「わ」は「わらい」、「か」は感謝である。
ありがとうをとなえながら、これを実践せよ、と言う。
なお「うたし会」というのは、「うれしい」「楽しい」「仕合わせ」の会という意味である。
そしてそれらは「ありがとうございます」を唱え続けていれば得られるというのだ。
これで会員数は公称30万人。
教祖の死後、夫人が運営しているという。
<キリスト教も道徳教に>
この現場を心あるキリスト教会牧師が観察したら、仰天するだろう。
彼らの教会は日本では、会員が10~20名が通常だから。
戦後の精神環境の中で、キリスト教も変質していった。
道徳の部分だけを取り出して、ほとんどもっぱらそれを教えるようになる。
明治以来日本のキリスト教もそういう傾向があったが、戦後、それが加速されていった。
これをニッポンキリスト教と鹿嶋は呼んできている。
だが、ほとんどの日本人は他を知らないから、それがキリスト教だと思っている。
だから、冒頭で鹿嶋が「キリスト教は霊的な教えの宗教」というと、
一瞬ポカンとしてしまうのだ。
ともあれ、だから、日本では知的なビジネスマンなどがたまたま
「妻に引かれて教会参り」をすることになっても、すぐに失望してしまう。
奥さんと教会に来て、クルマの中で待っているご主人がいる。
中に入って隣に座っていて、説教が始まるとグウグウ寝るご主人もいる。
あたりまえだ。
神学校で浅薄な道徳教解釈を学んだだけの、人間的に未熟な牧師の道徳教など、
会社の上司のものの方がよっぽどましなのだから。
<倫理道徳は宗教性ももつ>
それでいて倫理道徳というものは、一定の宗教性ももっている。
そもそも宗教の教典が一定の道徳倫理の教えも含んでいる。
道徳倫理を意識すると、人は一定の崇高感を抱ける。
だから、倫理道徳の教えで救われた人は、宗教的感慨もうる。
日本民族は当面、この状態で予定調和的均衡に落ち着いている。
<規範だけで事実情報がない>
だが、道徳教はなすべき行動を、直接、題目のように教える。
そこには結論だけがあって事実の「探究」がない。
一昔前の戦後に流行った学問用語でいえば、言ってることにゾルレン(当為、規範)のみがあって
、ザイン(事実)がない。
事実としての世界を広く考える要素をもっていない。
政治というものは、人間の幸福全般に関わるべき性格を持っている。
政治見識には、広い人間観、世界観がいる。
実践倫理を主軸とする教えには、これを考えさせ育成する要素がない。
それ故、倫理道徳主軸の教えは、政治見識を育てる力が無い。
かくして戦後も、日本の政治能力は低いままで推移することになる。