<素粒子という概念>
量子物理学(量子力学)の基本理念は次のようなものだと筆者は受け取っている~。
すなわち、ものをどんどん砕いていくと、それ以上に砕くことのできないものに至るとイメージできる。そこにはもはや内部構造はない、そういうぶつぶの粒子、とのイメージの概念だ。
それは現在、素粒子( an elementary particle )と呼ばれている。
今から2000年以上前、ギリシャの哲学者、デモクリトスはアトム(原子)という概念を考え出した。
彼は、物質はこの究極的な粒子が形を変えたり、組み合わさったりしてできている、と考えた。
これはその時代における素粒子概念だ。
<素粒子はどんどん微小に>
その原子が実際に観察されはじめたのは、19世紀末だという。
そして20世紀に入ると、原子の内部構造が次々に見出された。
なんと原子は究極の素粒子ではなく、原子核と電子からなっていた。原子核の周りを電子が回っていた。
さらに原子核は陽子と中性子からなり。陽子はプラスの電荷を持ち、電子はマイナスの電荷を持っていた。
この両者は荷電粒子といわれている。
+++
さらに微細にみていくと、光子とか、クオークとかレプトンとかいった素粒子が見つかって、現在のところは12個だそうだ。これは標準モデルだ。だが、それらにも謎がいっぱいで、これからどう展開するかわからない、という。
筆者はそうした詳細な世界には踏み込まない。聖句を投影理解するに役立ちそうな基本概念だけを、使いやすいようにして援用しようとしている。
<従来の「物質」を超えた性格>
光子くらいに微小になると、素粒子は従来の物質で観察されていたところを超えた性質を現した。そこでこのレベルからの素粒子に研究者は (クオンタム:quantum)の名を与え、その不可思議な性質の探究を始めた。量子物理学(力学)のはじまりである。
前に示した「粒子と波動の性質を併せ持つ」というのはその量子の基本的な特性一つである。
そして前回にも述べたが、筆者はその両者のうちで波動(振動)の方が根源的らしい、との直感を得てそのイメージを使うことにしている。
これは素人の勝手な間違い、ということはできなさそうだ。 このあたりの理論からは、プロにおいても純想像の世界であって、筆者のイメージが絶対に間違いとは言えないのだ。
また実際、物理学者も「波束(はそく)」という言葉を持ち出している。これは波動が束になったというイメージの概念で、これが粒子と認識されるものだ、と考えているようだ。そして、この考えには波動の方が根源らしいという仮想がある。プロは公言しないだけだ、と筆者は思っている。
筆者はそれを「束(波動の)」というのが気に入らなくて、凝集体としてイメージ理解している。
<創造神能力を物理的にイメージ>
さて、そうすると、この波動のイメージは、聖書論理の原点である創造神を物理学的にイメージするのに画期的な助けを与えてくれる。
その一つが「波動の放射源」と言うイメージだ。
するとすべての“被造物”が、こうイメージできるようになる~。
すなわち、創造神から放射される波動の一部が凝集して粒子となる。その粒子が組み合わさったのが、(聖書で言う)被造物だ、という風にだ。
<御子の役割の物理的イメージ>
ここで少し先走ってのべておく。上記の理解は、従来難解とされてきた「ヨハネ伝」1章の冒頭の聖句を物理的にイメージする助けにもなる。
聖句はこれだ~
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「初めにロゴスがあった。ロゴスは創造神と共にあった。ロゴスは創造神であった。
この方は初めに創造神と共におられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」
(『ヨハネによる福音書』1章1-3節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここでのロゴスというのは、理法、論理、言語などを意味するギリシャ語だ。だが、この聖句でヨハネはロゴスを「この方」と言い換えている。
そして「この方」とは創造神の御子(イエス)をさして言っていることが、後の文脈ですぐにわかってくる。
この御子は後に人の姿をとって「人の子」として地上に現れる前の御子となる。
この時点では霊としての御子イエス、霊イエスだ。
+++
さあ、そうすると、「ヨハネはとんでもないことを言っているぞ」となる。
すべてのもの(万物)を造られたのは「父なる創造神」というのは、聖書の大前提だ。
なのに「霊イエスによってすべてのものが造られた」と言っていうのは、この大前提を否定してることになる・・・と。
+++
ところがここにひとつ仮説を挿入すると、ヨハネの聖句に筋が通ってくる。
仮説とは~「波動が粒子になり、粒子が組み合わさって被造物ができるにつけては、その組み合わせを造るための何らかの“デザイン情報”が働いている」というものだ。
そしてこれを霊イエスは作成しているのだ、と。
すると「創造」とはこういうものとなる~
「霊イエスは、父なる創造神の意図を受けて、粒子の組み合わせデザイン情報を作成する。
そこに創造神が波動を注ぎ込んで被造物は完成する」と
これが聖書の“創造”の詳細だとイメージすると、上記の聖句は、筋の通るものとなる。
~つまり、著者ヨハネは、被造物は父なる創造神と御子との共同作業によってできているという霊感を受けていた、と。
ヨハネは、その作業を「御子の働きの側面に焦点をあてて、「この方によってすべてが造られた」と記しているのだ~と。
+++
鹿嶋はまた勝手な個人的イメージをのたまっているな、と、あきれかえったり警戒したりされる読者もいるだろう。
だが実は、筆者はこのイメージをうるにつけて、量子力学のある理論の助けを得ている。
量子テレポーテンション理論というのがそれだ。
これを示すと、上記の解読が、筆者の個人的イマジネーションにだけによるのではないとわかってもらえるかもしれない。次回にはそれを覗いてみよう。
(「正しい学び方」21・・・完)