鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

女性の深い愛情資質

2022年11月15日 | 永続確信のための聖書解読

 

「マグダラのマリア」にもどる。
 
復活のイエスをリアルに感じるために、筆者は彼女への追体験を通そう、としている。
そして、その理由には、彼女の個人的資質以外に、もう一つあるような気がする。
 
<幼子の母>
 
一般に、女性は男性よりも深い愛情能力をもつと思うのだ。
そもそも人への愛情を注ぐ能力は、女性の方が男性より深いようにつくられていると感じる。
 
推測するにそれは、母として幼い子供を育てる役割と関連していそうだ。
その役割を果たす際、女性は、子供に心理的に深く同一化する必要がある。
その状態の中で、子供の精神性は豊かに育つ。
 
人は、肉体的には同一化できなくても、精神的にはできる。
同一化、とは愛の別名だ。
人は精神的には、愛する対象に「なってしまう」ことが出来る。
そして、女性には先天的にその力が大きいように思われる。
 
実際、病気になった幼い我が子が注射されるとき、母はその部分に痛みを感じることがあるという。
うまく言えないが、このとき、母は幼き我が子に「なってしまっている」のだ。
 
そして創造主は、この同一化(愛情)能力を女性に優れて深く与えているのではないか、と思う。
 
 
<マリアのイエスへの愛>
 
マグダラのマリアへの、イエスへの愛には、そういう女性特有の優れた同一化能力も加わっているのではないかと感じる。
 
男性である筆者は、その感覚をも借用しようとしているのではないか。
 
そのために、彼女への追体験を通してイエスのリアリティを得ようとしているのではないか。
そう自覚しながら考察を進めている。
 
(続きます)
 
 
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聖句には権威ランクがある

2022年11月14日 | 永続確信のための聖書解読
 
 
マグダラのマリア論のなかでは、かなりな余談になるが、
福音書の事実説明の正確度について、述べた機会に、聖句に関する全体像を述べておこう。
 
少し先走った論述だが、非常に重要なので、書いておく。
理由を詳論しないで概略だけを示しておく。
 
+++ 
 
聖句には、権威のランクがある。
 
取りあえず『黙示録』をのぞいて、順位を列挙して書くと~
 
① 創造神から直に出た言葉。
 
② イエスが創造神に向かった語った言葉
 
③ イエスが人間に向かって語った言葉
 
        ~となる。
 
+++
 
以上は創造神とその御子の口から出た言葉だ。
その下位に、④すなわち人間の言葉がある。
 
すなわち~
 
④ 人間が創造主とイエスの言葉につき論じた言葉。
    つまり①②③につき述べた解釈である。
   
 人間の解釈を「神学」という。
   
 
   a.  ヨハネの言葉は、すなわち「ヨハネ神学」だ。
 
   b. ペテロ、パウロ他の言葉は、「ペテロ神学」「パウロ神学」だ。
 
   
 
<「聖書=神の言葉」は粗雑の極>
 
「聖書の言葉は神の言葉」は、聖句をほとんど読んでない人の言葉である。
 話にならない。
 
  聖書には、悪魔の言葉も記されているよ。
 
+++
 
 ある程度読むと、パウロは、ユダヤ人の中でもとりわけ頭のいい人とわかる。
  だが、所詮は人間の言葉だ。
 
 「パウロの手紙集」も①、②、③の聖句について、解釈した、人間の言葉だ。
  新約聖書には、それらの多くは「手紙」の形で述べられている。
 
 
+++    
 
とりわけ牧師はまず、聖書の全体像を洞察するべき。
それが出来ないと、すべての聖句をベターッと読むことになる。
 
+++
 
その状態で、説教の殆どをパウロの手紙を提示して行う牧師さんが日本では非常に多い。
 
だが、人間の解釈を述べても、信徒の心はあまり揺さぶられない。
やはり、創造主と御子のことばの奥義を解読されて、人の心は大きく感動する。
 
端的に言えば、聖書の全体像を洞察できる前には、説教すべきではない。
 
(続きます)
 
 
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各福音書の特性

2022年11月13日 | 永続確信のための聖書解読

 

前回、マグダラのマリアは、イエスの母たちと同じレベルの思慕をイエスに抱いていた、特別な存在だったと述べた。
それを「ヨハネの福音書」の聖句を踏まえて述べた。
 
 
<マルコは「遠くから見ていた・・」といっている>
 
 
だが、同じ場面を「マルコの福音書」は次のように記している~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「イエスの十字架を遠くから見ていた女たちの中に、マグダラのマリアがいた・・・。」
     (マルコによる福音書、15章40節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
これは「ヨハネ福音諸」とは大違いだ。
マルコは「マグダラのマリアは“遠くから見ていた”女たちの中にいた」と記している。
一体どちらが正しいのだ。
 
<ヨハネ福音書は別格>
 
ここで筆者は、福音書の性格に論究せざるを得ない。
結論から言うと四福音書の中で「ヨハネの福音書」は別格なのである。
 
はじめの三冊「マルコ」「マタイ」「ルカ」は、取材によって得た情報を主なる素材にして記している。
(「マルコ」が最初につくられた福音書であるが、新約聖書では編集の都合上、「マタイ福音書」が先頭に収録されている)
 
「ヨハネの福音書」はこれらと一線を画する。ヨハネは、イエスが常に傍らにつけている愛弟子だった。彼にはイエスの言動を直接見聞して得た情報が沢山あった。だから取材は必要でなく、すべてを自分の直接情報をもとに書いている。
 
その意味でヨハネの記述は、最も事実に近いと推測できる。
 
 
<先行福音書を読んだ上で>
 
余談だが「ヨハネの福音書」は四福音書の中でも最後に書かれている。彼は「他の三者が書いてないことを自分の福音書に書こうか」といってはじめている。
たしかエウセビオス『教会史』立ったと思うが、そこではヨハネは他の福音書を読んだ上で書いた、と述べている。
 
またこれは筆者の推測だが、彼は書く前に、他の著者たちの取材に応えてイエス情報を与えてもいると思われるふしもある。
 
いずれにせよ、「イエスの十字架を遠くから見ていた女たちの中に、マグダラのマリアがいた・・・」という情報は取材して得たものなのだ。
そういうことを承知すれば、マルコ福音書の記述は、それはそれで意義がある。
 
マタイもルカもそれでいいのだ。マルコもまたベストを尽くした。
当時は、「イエスの伝記を書いている」と知られたら殺される時代だ。
よく思い立ってくれた。
彼らもまた、命をかけて取材し、それを用いて自分の福音書を記したのである。
 
(続きます)
 
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イエスを近親者に匹敵する愛で慕った女性

2022年11月09日 | 永続確信のための聖書解読
 
マグダラのマリアにつき、前回、大勢の女性と共にイエスに同行していた、と述べた。
だがそれでいて彼女は、イエスにとりわけ近しい女性でもあったのではないか。
 
次の聖句はそのことを示唆している~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、
    クロバの妻マリアと、マグダラのマリアが立っていた。」
       (ヨハネの福音諸、19章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
当時イエスは驚異的なわざ(奇跡)と教えで、すでに超有名人だった。
イエスが十字架刑にかけられるという情報は、イスラエル全土に大ニュースとして駆け巡った。
 
ニュースを聞いて、大勢の人々が刑場に来た。
 
そのうちイエスの母マリアとその姉妹など、近親の女性は十字架のすぐそばにいたはずだ。
愛弟子ヨハネも、そのグループにいた。
 
なぜなら、イエスは十字架の上から、母マリアとヨハネにこう語りかけている~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「イエスは母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、
    母に『女の方、そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。
    それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』といわれた。
    その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」
          (ヨハネの福音諸、19章26-7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
こういう声は、十字架のすぐそば、おそらくほとんどその下でなければ聞きとれないだろう。
 
 
<ヨハネは自分のことは控えめに書く>
 
また、このグループにいるただひとりの男性は、弟子ヨハネ(後にこの福音書の著者となる)である。
彼は自分で自分の名は書かない。自分がイエスに最も愛された弟子である、とも書かない。
 
実際には、自分は弟子の中でもイエスを最も愛し、理解した弟子だと自認している。イエスも弟子の中でも彼を最も愛した、と知っている。
 
だが、ヨハネは自分をイエスが「最も」愛した、とも書かない。
ただ「愛した弟子」とだけ書いている。それがヨハネの書き方なのだ。
 
文字通りに読むと、イエスは他の弟子は愛してなかったかのようにも解釈されうる。だがそうではない。イエスは他の弟子も無論愛していた。そのなかで、ヨハネを最も愛したのである。
 
 
<「クロバの妻マリア」は豊かな支援者か>
 
ここで、クロバの妻マリアという女性に関して記述している聖句はない。
だが、イエスの本質を霊感し、特別に手厚く支援してきた豊かな貴婦人である可能性が推察される。
 
+++
 
けれどもマグダラのマリアは豊かな貴婦人でもない。マグダラ村から、イエス宣教旅行についてきた一女性だ。
なのに、イエスの近親者や弟子ヨハネと共に、十字架のすぐ下にいる。
 
理由は、普段からとりわけ深くイエスを慕い愛したこと以外には考えがたい。
 
彼女はヨハネと同じく、段違いに深くイエスを慕い愛し、理解した存在だった。
そのため、自然に母マリアたちのグループに入って十字架の下にいたのであろう。
 
(続きます)
 
 
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