鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

次回から「ヨハネ伝」に

2007年12月31日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
「鹿嶋春平太チャーチ」をご訪問くださいまして、ありがとうございます。

今年も終わります。
次回から、「ヨハネ伝解読」にもどります。

いいお年をお迎えください。
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Vol.27 補論:イエスという名

2007年12月26日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想



                    



 『稲盛「哲学」と聖書の思想』は、前回で一旦のおしまいですが、ひとつ補論をしておいたほうがいいことに気づきました。

 これまでの話から、稲盛さんは聖書の思想にかなり近い思想をお持ちであることがわかってきました。
だが、これは稲盛哲学の側から寄せていった場合の印象です。

 逆に、聖書の立場から考えを進めてみると、次のことが浮上するように思います。


                    



<「救い」には「名」がいる>

それは聖書の教えの究極のテーマである「救い」と稲盛思想との関係です。
「救い」とは、最後の審判の時、人の霊がもつ「罪」が無いものと見なされて(許されて)、
天の創主王国に入れる資格を得ることをいいます。

 この資格を得るという意味での「救い」を受ける条件として、
聖書には次の聖句があります。

 「この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、わたしがちが救われるべき名としては、
どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒行伝、4章12節)

 この御名とはイエスという「名」のことです。
 思想・哲学として、論理として、聖書に近いものを抱いていても、
イエスという「名」のもつ力への信頼がないと、詰まるところは「救い」は
得られないよ~~と、この聖句はいっています。


                    


<多くの信徒は聖句への「信頼」によって>

聖書のメッセージには、イエスの「名」とその力に関する深い論理が
込められています。
それを知るには「そもそも「名」とはいかなるものか」から認識論的に
理解していかねばなりません。

そういう理解に至っているクリスチャンは、決して多くはありません。
だが、多くの人はそこはもう聖句を「信頼」しよう、ということで
イエスの名を抱きます。
それで救いは得られるのです。

 稲盛哲学には、創造主が存在するという確信はあります。
稲盛さんのいわれる「神様」は、いわゆる八百万の神々ではなく、宇宙万物を創った創造主です。
しかも、その神様に毎朝語りかけておられます。

朝起きて鏡の前に立つと、昨日一日神様の道(天の道)に反したことがないか、と振り返られるそうです。
傲慢な思いや行為はなかったか、利他の心を失うときはなかったか、などと。
そして、思い当たると「神様ごめんなさい」と口にされるという。

 この少年のような素直さにも驚嘆しますが、このようにして毎朝創造主を意識に昇らせることについてみれば、
並のクリスチャン以上、と思うほかありません。

 そのような稲盛さんですが、イエスの「名」にかんする認識はといえば、それはありません。
 ですから聖書における「救い」というゴールに至っておられるかどうか、ということになれば、
“聖書の論理では”到達してはおられないということになるでしょう。

 

                    


<反発心があるからではない>

 けれども、それは稲盛さんの意識に、聖書思想に対する反発心がある
からではないと鹿嶋は思います。
逆に、この思想を無理なく受け入れられる精神状態をお持ちだと、
鹿嶋は確信しています。

 現状の理由は次のところにあるだけ、と思います。
すなわち、稲盛さんは若い日から経営の現場で多くの問題を解決せねば
ならない立場にたち続けられたこと。そしていまも、後進の指導を含めてそれに集中しておられることが一つです。

もう一つは、イエスの名を含む聖書の論理を、忙しい中でも読んで
理解できる簡明な解説書がないことでしょう。
そうした壁が取り払われたならば、稲盛さんは、他の有名人たちと違って、
聖書の思想をスムースに受容されると思います。
そして、それは現状の稲盛哲学と組み合わさって、さらに広大なスケールの
経営実践の知恵にも結実していくと確信しています。


                    



コメント (2)
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Vol.26 稲盛世界観と聖書の世界観

2007年12月25日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
メリークリスマス!


                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第26回です。
今回で、いったん切り上げとして、「ヨハネ伝解読」に戻ろうと思っています。
最後ですから、そこはかとなく思うところを語り流します。

                    


<稲盛哲学のスタンス>

稲盛哲学の方法は「五感で認知できるところから思索を始め、天文学、心霊科学など
科学知識を取り入れて世界を考えていく」というものです。
その思索は、広大な世界に及んでいますけれど、そこにはやはり限界があります。
思想は、宇宙にまで及んでいますけれど、その外側の「天の創主王国」にまでは及びません。
さらにその外側の無限界にも及んではいません。
人間の経験感覚から思考を出発させる以上、これはもう仕方ないでしょう。



                    


<聖書のスタンス>

他方、聖書は「その言葉は万物を造った創造主が送るメッセージである」というものです。
創造主はすべてがわかっています。なにせ、自分がすべてを創ったのですから。
メッセージはそこから発せられるものだといいます。

~~その理論体系はなんと美しいことか。
ここでは数学の無限大の思想もきれいに入っています。
創造主は自らが、時間空間的無限者ですから。

また、人間が五感発で考えていくと、もやもやせざるを得ないところが残ります。
人間はなぜ存在するのか、とか。
これを、聖書の理論体系は一気に解消してしまいます。
万物の創造主がいるから、その方が創ったのだから君は存在するのだ、と。

では、何のために存在するのか、何を求めて生きたらいいのか?
創造主はそれを聖書に収めている。聖書を探求しなさい。そうすればわかるよ、と。

                    


<稲盛哲学の焦点>

 稲盛さんは、そうした聖書の思想を否定しないでしょう。
それを知れば、自分の思想にうまく取り入れられるでしょう。

まだそれをされていないのは、一つには聖書の思想が膨大で、自らそれを探訪する余裕がないからでしょう。
またそれをわかりやすく解説している論述に出会っておられないからでしょう。

だが、もう一つの理由が重要でしょう。
それは、稲盛さんの哲学は、この世での経営実践を正しく方向付けることに焦点を当てているからです。
経営には多くの知恵が必要です。

たとえば、創業して成功した企業の後継者をどうするか?といった問題。
これはその後の企業の命運を決します。

ともに危険を担い、苦労をともにした功労者を後継者に指名すべきか?
あるいは、外部からスカウトする人も含めて、他の人にバトンタッチすべきか。

~~ここで、稲盛さんは西郷南州(隆盛)翁の遺訓に学びます。
功労者には報酬をもって応じよ。
後継者は人徳でもって選べ。
~~と。

                    


稲盛さんは、これを第二電電(いまのKDDI)において実践しています。
稲盛さんは、京セラの他に、この会社も創業しているのです。

創業に際しては、NTTから移ってくれた優秀な技術者が十数人いました。
彼らは、その才を十二分に発揮して、会社を軌道に乗せてくれました。
だが、後継社長には、当初あまり目立たなかった人物を選びました。
目立たないこの人は、社内の人々から信頼される「徳」を備えていました。
会社のトップには、才能きらめく人よりも、むしろこういう人を据えるべきと判断したのです。


では、有能な功労者たちはどうしたか?
これには上場前に会社の株をもってもらい、金銭的に十分に報いました。
(上場すると膨大な株価になり、財産になります)。

これも社員の精神に必要なことです。
十分に待遇しないと、「この会社は、使えるときには働かせまくって、使い捨てにする」という印象を与えるのです。
これは、社員のやる気に大きく影響します。

これを稲盛さんは、西郷隆盛の「功あるものには俸禄を以て賞し、これを愛(めで)し置くものぞ」なる遺訓から学んでいます。


                    


<聖書には>

こういうことは、聖書には直接書かれてはいません。
聖書思想には、そこから演繹して具体化するとこういう現世での実践的知恵も得られる、という深さがあります。
だけど、引き出すのは精神作業がたくさんいりますからね。
こういう知恵には適していないです。

その代わり、人の霊が永遠の幸福を得るための方策は、直接教えてくれます。
そういう本なのですね。


                    


 でも、稲盛思想には、聖書に共通する考えも含まれています。
その代表が、創造主の存在を認める点でしょう。

 稲盛さんは、この宇宙は創造主の意志で動いていること、
人間はそれに沿うように生きると幸福になれるように創られていること、
などを当然のように語られます。       

社是に「敬天愛人」を掲げられているのも、それと関連しています。
この言葉は、西郷南州翁の発したものですが、「敬天」とは天を敬うこと、ですから、聖書に通じるところがあるわけです。
また稲盛さんによれば、天とは「天道」であり、「人間として正しい道」ということです。
さらに、「愛人」とは「人を愛すること」~~愛人関係の愛人じゃないよ~~でして、
具体的には「おのれの欲や私心を無くし、人を思いやる『利他』の心を持つこと」だといいますから、
これはもう聖書の「なんじの隣人を愛せよ」と重なるところ大きいですよね。


                    


<当面吸収容易なのは?>

 では、最後に、いまの日本人には、どちらが吸収しやすいか?
鹿嶋は稲盛思想だと思います。

聖書の真理観が、日本人の歴史感情と遠いところにあるからです。
真理に関する日本人の歴史感情は、「ものの内奥にあるもの」です。
自然の山、木々、川などの奥に真理(神様)が宿っているとして、
それをどんどん探求していきます。
あるいは、人の心の内奥に人間の真理は宿っている、としてどんどん内省をしていきます。

これはもう、あまりにも当然なこととして、日本人の心情にあります。

ところが、聖書の真理は、天の創主王国(キングダム・オブ・ヘブン:いわゆる天国)にある。
それはもちろん、自然の事物や人心の「外に」あるものですよね。
これを霊感で感知しようと、創主王国に向かって賛美し、祈り、
応答を得ようというのが、聖書のスタンスです。

これは日本人の歴史感情には、ありませんよね。

もし、これを伝道しようとしたら、まず、こうした認識方法論から紹介しないと、
聞く方はまもなく間違った方向に行ってしまうでしょうね。
たとえば、道徳教とか人生訓とか実践哲学とか、そういう方向に。

稲盛哲学は、日本人感情に適合した内奥探求主義の姿勢を持っています。
それでいて、同時に、創造主とか天道とかいった方向にも視野を開いています。
日本での聖書伝道に、様々なヒントを与えてくれます。

『稲盛「哲学」と聖書の思想』~~まずはこの辺で・・。

                    (ひとまずの完)


                     




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Vol.25  聖書の運命観~「宿命」も否定せず~~

2007年12月07日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    

 

「稲盛『哲学』と聖書の思想」第25回です。
このテーマでの話も、終わりに近づいてきました。

前回、稲盛さんの運命観を考察しました。
今回は聖書の運命観をみる番です。

通常、世界が将来どうなるかは、聖書の言葉に記されている。
だから、人生を決定しているものを人間は知ることができるのだ、と考えられています。

すると、「それを知って相応に対処すれば、人生のことはある程度変えられるのだ」
という考えになります。

あるいは、所与の力が、人間の努力では対処できないものだとしても、
それがどういうものかは、聖書という書物のおかげで、知ることができるのだ、と。


                    


<隠された「創主の意図」もある!>


 ところが、聖書を詳細に見ていくと、どうもそうとばかりはいえないようです。
聖書そのものの中に、創造主が知らせない創主の意図もある、といっているところがあるのです。
次の聖句をご覧ください。

                    


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「隠されていることは、私たちの神、エホバのものである。
しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、
私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである」(申命記、29章29節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 ここで「現されたこと」とは、聖書(旧約聖書)に言葉として記録されたことでしょう。
これは「私たちが、その教えの言葉のすべてを行うためのもの」となっています。
いわゆる「みことばに従順する」というのはこれですね。

 ところが、それ以外の事柄もあると、聖書はいっているのです。
それが「隠されていること」なのですね。そしてそれは「エホバのものだ」といっています。


                    



<御子イエスにさえも・・>

「聖書で知らされてはいない事柄もある」、という趣旨の聖句は春平太にはちょっとショックでした。

でもそれは人間に対してだけではないのですね。
創主の御子とされているイエスに対しても、父なる創造主は知らせないことがある、という。
たとえば7年間の大艱難が始まる時期がそれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「その日、その時は、誰も知りません。天の御使いたちも、また子も知りません。
ただ父だけが知っておられます」(マタイによる福音書、24章36節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 これはいわゆる7年間の大艱難が起きることをイエスが知らせた場面での、彼の言葉です。
イエスは将来それが起きることは知っています。だから起きると言うことは、弟子たちに教えています。

 だがなんと、「それがいつ起きるかは、自分も知らない」、というのです。

 こうなると少しは気も休まります。ましてや人間においておや、ということでですね。

                    


<どう対応したらいい?>

 では我々は「聖書でも知らされていないこと」に対してどう対応していったらいいでしょうか。

まずとにかく「隠されていること」に関しては、われわれはそれを理解することもできませんよね。
認知できませんから、それに対して祈ることもできません。
 大変だ。これは人間の祈りの対象にもなっていないのですから。どう考えたらいいでしょうか。

 まず知るべきは「これは人間が祈ろうと祈らなかろうと、主の意志としてなされること」
だということではないでしょうか。

あるいは、「ある時がきたらそれは明かされるかもしれない」と思いましょうか。
死ぬときとか、死んだときとか、あるいは天の創主王国にたったときとには、明かされるかもしれない、と。
・・だが、そうでないかもしれません。

では、人間はどうしたらいいでしょうか?

答えはただ一つ、「トラスト・ゴッド!(創造主を信頼せよ)」ではないでしょうか。

知らされないけれども、聖書に現された範囲のことに沿って生きれば、父なる創造主はよきに計らってくださる
~~どうも、こう信頼するのが聖書信仰の核心のようです。

                


<残るは「創主を信頼する」のみ!>

で、つまるところ聖書の運命観はどうか、となると、それは次のようになるのではないかな?

~~「聖書にも記されていない神秘がある」、となれば、
人間個々人の人生はその領域からあらかじめ計画されているのかもしれない、ことになりましょう。

そしてその可能性がある限り、人には「宿命」という意味での運命があるかもしれない。

~これが聖書の運命観になると思われます。う~ん・・・。

でも「トラスト・ゴッド!」
創造主を信頼しよう!

答えはこれになってしまいますね。


                    


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