前回、イエスが提供したメージ世界は、「永続がある」という世界だと言いました。
そしてそれは純イメージワールドだと申しました。それは霊的な世界であって、物理的イメージ世界ではありません。
物理的イメージ世界とは、物的なものが我々の目の網膜に映る物的なものを基盤に形成されるイメージワールドでした。
純イメージ世界には、そういう基盤はないです。
だから、そのままであれば、物理的イメージ世界に、そのリアリティ感においては勝てないことになります。
だが、勝てないのでは人の心の内に信仰(信頼心)は形成されません。
イエスの教えが普及するには、何らかの形でのリアリティ感形成がなされねばなりませんでした。
奇跡は、それを増す第一の要素でした。
イエスや弟子たちがみせた、しるしと不思議(奇跡)はそのために大きな役割を果たしました。
これは創主の臨在感(God's presence)を強烈に造るわけです。それが教えに強いリアリティ感を与えるのです。

<イメージ世界の豊かさと体系性が源>
しかし、臨在感は、しるしだけによれば短期間に消えていくものです。
一種のセンセーションは巻き起こしますが、その場限りのものになる。
やはり、言葉によって形成される理論がイメージとして意識の中にあって、
それのリアリティ感がしるしと不思議によって増す、という形にならないと感動も持続しないわけです。
この理論的なイメージ世界の豊かさ、体系性が第二の要素です。
そしてこれが深く存在しますと、それ自体が人の心の中でリアリティ感を形成します。
純イメージ世界のもつこの性格と力は、
キリスト教活動の歴史を正確に知るためにはよく認識しておく必要があります。
具体的にはこんなことです。
聖書の言葉、とりわけイエスの言葉を深く理解し、その奥義を悟ると、
自らの心の内に、「これは真理だ・・・」という感慨がわいてきます。
そして、その状態が進むと、当人にもしるしと不思議の力が現れるようです。
イエスの弟子たち、さらにその弟子の一定の人たちにも、こうしてしるしの力が現れました。
それが次々に続いていきました。こうして、福音伝道を進める強烈なパワーが存在し続けました。
ですから、イエスは別としまして、その弟子となる人々にとっては、今述べた二つの要素は、
順番を逆に考えた方がいいかも知れませんね。
つまり、まず、聖書の言葉を学び、イエスの教えを深く(霊的に)学んでいきます。
すると、自己の内にそのリアリティ感も増していく。信頼心が深まっていきます。
すると、ある時点でしるしと不思議の力も現れてしまう、という道理です。

<霊といのちの言葉、声だけの言葉>
どうしてそんなことが起きるか。春平太にもその物理学的説明は出来ません。
ただ、イエスの言葉に、それを示唆するものがあります。
「私の言葉は霊であり、また、いのちです」
がそれです。
なんだか、わけのわからない話なようですが、こう考えると、少しは輪郭が浮かび上がるかと思います。
イエスが働きを開始する直前に、それを預言する人が出ます。
バプテスマのヨハネ(ヨハネ伝の著者、ヨハネとは別の人)といいます。
彼が自らを語った言葉として「私は荒野で呼ばわる声である」というのがあります。
これにはバックグラウンドがあります。彼は自ら新しい教えを提唱して、大きな教団が出来ていました。
いわば、ヨハネ教団。ユダヤの伝統的な国家宗教であるユダヤ教としては、これは無視できません。
それで、ヨハネに使いを送って「あなたは何者ですか?」と尋ねさせています。
上記は、それに対するヨハネの答えです。
彼は、自分の後に来る人こそ真の救い主、ということを霊感でキャッチしています。
だから、この答えには、その方と比較して「自分は大したものでないよ」というニュアンスがあるのです。
言ってみれば、「私の言葉は声に過ぎない」というニュアンスですね。これはどういうことか。
人間の言葉というのは、声に過ぎないものなのです。
つまり、声帯を震わせて振動させ、それが空気を振るわせて人の鼓膜に伝わっていく。そして、消えていく。
それだけのものですよね。それが霊という一つの実体を含めていたり、
さらにその霊がいのちというエネルギー(聖書での“いのち”といいうのは、
物理学で言えばエネルギーのような概念です)を含めていたり、ということはありません。
“バプテスマのヨハネ”のこの不思議な言葉は、それを言っていると解することが出来ます。
それすなわち、イエスの口から出る言葉が、特異なものであることを示しているわけですね。
「私の言葉は霊であり、また、いのち」というイエスの聖句は、それを言っています。
そして、実際にこの言葉を深く解し、自らの霊におさめ吸収した人を通じては、
イエスがなしたような癒しのパワーが現れているのです。

<聖句主義 VS 教理主義>
さて、深く心に悟る、というのはリアリティ感が深くないと不可能なことです。
そして、そのリアリティ感は、聖書にある言葉(聖句)そのものにタッチしてであることが、必須条件です。
それを裏から言えば、誰かが要約したもの、ダイジェスト版を読んでではない、ということですね。
アウグスティヌスやトマス・アクィナスが解説した言葉ではない。
ルターやカルヴァンが講ずるイエスの教えではない、ということですね。
これらは、空気を振るわしては消えていく「声」に過ぎません。
聖書の言葉そのものを、聖句(Bible verse)といいます。
それを解釈し、自分なりに要約したものを教理(Creed)といいます。
通常、神学者がこれを造ります。ルターもカルヴァンも神学者です。
この聖句に、別格の権威、最終的な権威を自覚的におく生き方を、聖句主義(Biblicism)といいます。
自覚的であろうと、無自覚であろうと、教理の方に最大の権威をおいていく行き方を教理主義(Creedalism)といいます。
これがキリスト教活動の歴史を把握するためのキーワードです。
これなくして、歴史の本質的把握は出来ません。

<リアリティ感を深めるのは聖句>
イエスの教えへの信頼心(信仰)を深めるには、聖句主義でないといけません。
信頼心形成の要因は、リアリティ感でしたよね。聖句主義でないとこれが深まっていかないからです。
教理主義ですと信仰感覚の深化が途中で滞ってしまいます。
鹿嶋春平太は、今、米国ジョージア州の都市アトランタに車で2時間半ほどのところに住んでいます。
アトランタは小説『風と共に去りぬ』の舞台になった都市であり、
著者マーガレット・ミッチェルが居住した土地でもあります。
ここにマーガレット・ミッチェル・ハウスという小さな博物館があります。
各部屋がアパート風に貸し出されていた一戸の邸宅が館になっています。
彼女がそこで大作の70%を書いたという部屋や家具、調度品が展示されています。
夫婦ですんでいました。小さな部屋です。しかし、そこにいると、不思議な臨場感がわいてきます。
表庭の木々を通して、当時のアトランタ最大の繁華街通りだったピーチツリーストリートが見えます。
彼女は、夫とよくそこを散歩しました。
歩くとまた臨場感が高まります。臨場感、すなわちリアリティ感です。
予想を遙かに下回る、小さな展示館です。でもって、入場料は予想以上に高い。でも、人々が訪れています。
海外からも来ています。何故来るのか。リアリティ感を得るためでしょう。
出口近くに、土産物店があります。大冊「風と共に去りぬ」の原書がたくさん陳列してあります。
小さなダイジェスト版も少しあります。ストーリーの要約版です。これがあるのに、どうして人々は原書を買うか。
背景や細部が多様に書いてあるからでしょう。それによって臨場感が得られるからでしょう。
映画はそれを急上昇させる画期的発明でした。
聖書は、この原書に当たります。
そして、教理というのは、小さな小冊子になっている「アウクスブルク信仰告白」とか「カルヴァン信条」といった本です。
これはダイジェスト版です。ダイジェスト版では、筋はわかりますが、臨場感、リアリティは得られないのです。

<信頼心(信仰)を維持するには>
ですから信頼心を限りなく深めて行くには、聖書に直接タッチすることが必須です。
また、深めるだけでなく、その信頼感を維持するにも、該当する聖句を繰り返し読むことが鍵です。
信頼の対象になる世界は、以前に述べてきたところの「純イメージ世界」です。
これは「物理的イメージ世界」のような、網膜に映じてくる物理的な認識対象をもたないイメージの世界です。
人の記憶は薄れていきます。純イメージ世界も、人の意識の中で時とともに薄れていきます。
それは、物理的イメージ世界のように、物的世界から視覚を通して補強されるということが、ありません。
言葉だけが補強剤です。
だから、周期的に該当聖句を読んでいないと、イメージが薄れます。
イメージ世界が薄れたら、それへの信頼感(信仰)は、薄れて行かざるを得ません。
聖書のその箇所を繰り返し、繰り返し、読むことです。
ここでの春平太の解説は、その解釈を妥当な範囲からそれていかないようにと願って書いた、外枠のようなものです。
これも、周期的に反復して目に触れさせつつ、聖句を読むことです。

<聖句主義の弱点>
本筋に戻ります。
ところが、聖句主義には教会(信徒の群れ)を管理運営する上での弱さもあるのです。
聖句というのは、実に深く、多面的なつながりを持っています。
すると、その解読、解釈は人によって別れがちになります。
それが細部において生じるのは、むしろ好ましい面もあります。
しかし、基底的なところ、たとえば「イエスは創主の子か人間の子孫か」といったところで分かれると、
もう、ともに信仰心活動が出来なくなっていきます。
「イエスは創主の子」、というのは、聖書論理の全体系の基盤になっております。
そのあたりの解読が別になると、もうその人の頭の中にある聖書の論理体系は、全然別のものになる。
この両者がイエスへの信頼(信仰)活動をともにしていくのは実際問題として、不可能です。
だが、聖書というのは、実に多様多面的で、深淵・広大な意味世界を持っています。
上記のような、対極的とも言える解読を、ともに可能にするのです。
恐ろしく懐が深いと言ったらいいでしょうか。
これが大規模な教会の活動を組織的に運営しよう、という人にとっては、悩みの種となります。
そこで、大教会組織の運営管理者の目には、教理主義が大きな魅力となって映ってくるのです。
もちろん、信頼心を成熟させて行くには、聖句主義の方がいいに決まっています。
こちらはリアリティ感をどんどん深くしていくことが出来ますから。
ですから、キリスト教活動では、はじめはみんな聖句主義でした。

<教理主義教団の台頭>
けれども、教会(信徒の群れ)が大きくなりますと、社会的にも国家的にもその動向が無視できないものとなります。
世の中がほおっておかなくなるんですね。ローマ時代の欧州では、ローマ帝国政府です。
これがなにかと関係を求めてきます。もちろん、その中には、迫害という関係もありますが。
これに応じるには、教団の方を組織化し、統率していきたくなる。
それには、各々に自由な聖書解読をさせておかないようにしたい。これを基準にして指導者の権限も強化したくなる。
これがキリスト教活動の方法を分ける分水嶺を形成します。
歴史の中では、キリスト教活動が始まって1世紀もすると、すでにこの動向が現れました。
そして、こちらの道をたどり、強大な権力教団となったのがカトリック教団でした。
カトリック教団は、多くの信徒を吸収しました。
だがその一方で、初代教会以来の聖書主義を捨てきれない人々も沢山いました。
キリスト教活動の歴史は、この二つの集団の関係を縦糸にして展開していくのです。
のみならず、欧州史ひいては世界史もこれを縦糸に織りなしている部分が多いです。

そしてそれは純イメージワールドだと申しました。それは霊的な世界であって、物理的イメージ世界ではありません。
物理的イメージ世界とは、物的なものが我々の目の網膜に映る物的なものを基盤に形成されるイメージワールドでした。
純イメージ世界には、そういう基盤はないです。
だから、そのままであれば、物理的イメージ世界に、そのリアリティ感においては勝てないことになります。
だが、勝てないのでは人の心の内に信仰(信頼心)は形成されません。
イエスの教えが普及するには、何らかの形でのリアリティ感形成がなされねばなりませんでした。
奇跡は、それを増す第一の要素でした。
イエスや弟子たちがみせた、しるしと不思議(奇跡)はそのために大きな役割を果たしました。
これは創主の臨在感(God's presence)を強烈に造るわけです。それが教えに強いリアリティ感を与えるのです。

<イメージ世界の豊かさと体系性が源>
しかし、臨在感は、しるしだけによれば短期間に消えていくものです。
一種のセンセーションは巻き起こしますが、その場限りのものになる。
やはり、言葉によって形成される理論がイメージとして意識の中にあって、
それのリアリティ感がしるしと不思議によって増す、という形にならないと感動も持続しないわけです。
この理論的なイメージ世界の豊かさ、体系性が第二の要素です。
そしてこれが深く存在しますと、それ自体が人の心の中でリアリティ感を形成します。
純イメージ世界のもつこの性格と力は、
キリスト教活動の歴史を正確に知るためにはよく認識しておく必要があります。
具体的にはこんなことです。
聖書の言葉、とりわけイエスの言葉を深く理解し、その奥義を悟ると、
自らの心の内に、「これは真理だ・・・」という感慨がわいてきます。
そして、その状態が進むと、当人にもしるしと不思議の力が現れるようです。
イエスの弟子たち、さらにその弟子の一定の人たちにも、こうしてしるしの力が現れました。
それが次々に続いていきました。こうして、福音伝道を進める強烈なパワーが存在し続けました。
ですから、イエスは別としまして、その弟子となる人々にとっては、今述べた二つの要素は、
順番を逆に考えた方がいいかも知れませんね。
つまり、まず、聖書の言葉を学び、イエスの教えを深く(霊的に)学んでいきます。
すると、自己の内にそのリアリティ感も増していく。信頼心が深まっていきます。
すると、ある時点でしるしと不思議の力も現れてしまう、という道理です。

<霊といのちの言葉、声だけの言葉>
どうしてそんなことが起きるか。春平太にもその物理学的説明は出来ません。
ただ、イエスの言葉に、それを示唆するものがあります。
「私の言葉は霊であり、また、いのちです」
がそれです。
なんだか、わけのわからない話なようですが、こう考えると、少しは輪郭が浮かび上がるかと思います。
イエスが働きを開始する直前に、それを預言する人が出ます。
バプテスマのヨハネ(ヨハネ伝の著者、ヨハネとは別の人)といいます。
彼が自らを語った言葉として「私は荒野で呼ばわる声である」というのがあります。
これにはバックグラウンドがあります。彼は自ら新しい教えを提唱して、大きな教団が出来ていました。
いわば、ヨハネ教団。ユダヤの伝統的な国家宗教であるユダヤ教としては、これは無視できません。
それで、ヨハネに使いを送って「あなたは何者ですか?」と尋ねさせています。
上記は、それに対するヨハネの答えです。
彼は、自分の後に来る人こそ真の救い主、ということを霊感でキャッチしています。
だから、この答えには、その方と比較して「自分は大したものでないよ」というニュアンスがあるのです。
言ってみれば、「私の言葉は声に過ぎない」というニュアンスですね。これはどういうことか。
人間の言葉というのは、声に過ぎないものなのです。
つまり、声帯を震わせて振動させ、それが空気を振るわせて人の鼓膜に伝わっていく。そして、消えていく。
それだけのものですよね。それが霊という一つの実体を含めていたり、
さらにその霊がいのちというエネルギー(聖書での“いのち”といいうのは、
物理学で言えばエネルギーのような概念です)を含めていたり、ということはありません。
“バプテスマのヨハネ”のこの不思議な言葉は、それを言っていると解することが出来ます。
それすなわち、イエスの口から出る言葉が、特異なものであることを示しているわけですね。
「私の言葉は霊であり、また、いのち」というイエスの聖句は、それを言っています。
そして、実際にこの言葉を深く解し、自らの霊におさめ吸収した人を通じては、
イエスがなしたような癒しのパワーが現れているのです。

<聖句主義 VS 教理主義>
さて、深く心に悟る、というのはリアリティ感が深くないと不可能なことです。
そして、そのリアリティ感は、聖書にある言葉(聖句)そのものにタッチしてであることが、必須条件です。
それを裏から言えば、誰かが要約したもの、ダイジェスト版を読んでではない、ということですね。
アウグスティヌスやトマス・アクィナスが解説した言葉ではない。
ルターやカルヴァンが講ずるイエスの教えではない、ということですね。
これらは、空気を振るわしては消えていく「声」に過ぎません。
聖書の言葉そのものを、聖句(Bible verse)といいます。
それを解釈し、自分なりに要約したものを教理(Creed)といいます。
通常、神学者がこれを造ります。ルターもカルヴァンも神学者です。
この聖句に、別格の権威、最終的な権威を自覚的におく生き方を、聖句主義(Biblicism)といいます。
自覚的であろうと、無自覚であろうと、教理の方に最大の権威をおいていく行き方を教理主義(Creedalism)といいます。
これがキリスト教活動の歴史を把握するためのキーワードです。
これなくして、歴史の本質的把握は出来ません。

<リアリティ感を深めるのは聖句>
イエスの教えへの信頼心(信仰)を深めるには、聖句主義でないといけません。
信頼心形成の要因は、リアリティ感でしたよね。聖句主義でないとこれが深まっていかないからです。
教理主義ですと信仰感覚の深化が途中で滞ってしまいます。
鹿嶋春平太は、今、米国ジョージア州の都市アトランタに車で2時間半ほどのところに住んでいます。
アトランタは小説『風と共に去りぬ』の舞台になった都市であり、
著者マーガレット・ミッチェルが居住した土地でもあります。
ここにマーガレット・ミッチェル・ハウスという小さな博物館があります。
各部屋がアパート風に貸し出されていた一戸の邸宅が館になっています。
彼女がそこで大作の70%を書いたという部屋や家具、調度品が展示されています。
夫婦ですんでいました。小さな部屋です。しかし、そこにいると、不思議な臨場感がわいてきます。
表庭の木々を通して、当時のアトランタ最大の繁華街通りだったピーチツリーストリートが見えます。
彼女は、夫とよくそこを散歩しました。
歩くとまた臨場感が高まります。臨場感、すなわちリアリティ感です。
予想を遙かに下回る、小さな展示館です。でもって、入場料は予想以上に高い。でも、人々が訪れています。
海外からも来ています。何故来るのか。リアリティ感を得るためでしょう。
出口近くに、土産物店があります。大冊「風と共に去りぬ」の原書がたくさん陳列してあります。
小さなダイジェスト版も少しあります。ストーリーの要約版です。これがあるのに、どうして人々は原書を買うか。
背景や細部が多様に書いてあるからでしょう。それによって臨場感が得られるからでしょう。
映画はそれを急上昇させる画期的発明でした。
聖書は、この原書に当たります。
そして、教理というのは、小さな小冊子になっている「アウクスブルク信仰告白」とか「カルヴァン信条」といった本です。
これはダイジェスト版です。ダイジェスト版では、筋はわかりますが、臨場感、リアリティは得られないのです。

<信頼心(信仰)を維持するには>
ですから信頼心を限りなく深めて行くには、聖書に直接タッチすることが必須です。
また、深めるだけでなく、その信頼感を維持するにも、該当する聖句を繰り返し読むことが鍵です。
信頼の対象になる世界は、以前に述べてきたところの「純イメージ世界」です。
これは「物理的イメージ世界」のような、網膜に映じてくる物理的な認識対象をもたないイメージの世界です。
人の記憶は薄れていきます。純イメージ世界も、人の意識の中で時とともに薄れていきます。
それは、物理的イメージ世界のように、物的世界から視覚を通して補強されるということが、ありません。
言葉だけが補強剤です。
だから、周期的に該当聖句を読んでいないと、イメージが薄れます。
イメージ世界が薄れたら、それへの信頼感(信仰)は、薄れて行かざるを得ません。
聖書のその箇所を繰り返し、繰り返し、読むことです。
ここでの春平太の解説は、その解釈を妥当な範囲からそれていかないようにと願って書いた、外枠のようなものです。
これも、周期的に反復して目に触れさせつつ、聖句を読むことです。

<聖句主義の弱点>
本筋に戻ります。
ところが、聖句主義には教会(信徒の群れ)を管理運営する上での弱さもあるのです。
聖句というのは、実に深く、多面的なつながりを持っています。
すると、その解読、解釈は人によって別れがちになります。
それが細部において生じるのは、むしろ好ましい面もあります。
しかし、基底的なところ、たとえば「イエスは創主の子か人間の子孫か」といったところで分かれると、
もう、ともに信仰心活動が出来なくなっていきます。
「イエスは創主の子」、というのは、聖書論理の全体系の基盤になっております。
そのあたりの解読が別になると、もうその人の頭の中にある聖書の論理体系は、全然別のものになる。
この両者がイエスへの信頼(信仰)活動をともにしていくのは実際問題として、不可能です。
だが、聖書というのは、実に多様多面的で、深淵・広大な意味世界を持っています。
上記のような、対極的とも言える解読を、ともに可能にするのです。
恐ろしく懐が深いと言ったらいいでしょうか。
これが大規模な教会の活動を組織的に運営しよう、という人にとっては、悩みの種となります。
そこで、大教会組織の運営管理者の目には、教理主義が大きな魅力となって映ってくるのです。
もちろん、信頼心を成熟させて行くには、聖句主義の方がいいに決まっています。
こちらはリアリティ感をどんどん深くしていくことが出来ますから。
ですから、キリスト教活動では、はじめはみんな聖句主義でした。

<教理主義教団の台頭>
けれども、教会(信徒の群れ)が大きくなりますと、社会的にも国家的にもその動向が無視できないものとなります。
世の中がほおっておかなくなるんですね。ローマ時代の欧州では、ローマ帝国政府です。
これがなにかと関係を求めてきます。もちろん、その中には、迫害という関係もありますが。
これに応じるには、教団の方を組織化し、統率していきたくなる。
それには、各々に自由な聖書解読をさせておかないようにしたい。これを基準にして指導者の権限も強化したくなる。
これがキリスト教活動の方法を分ける分水嶺を形成します。
歴史の中では、キリスト教活動が始まって1世紀もすると、すでにこの動向が現れました。
そして、こちらの道をたどり、強大な権力教団となったのがカトリック教団でした。
カトリック教団は、多くの信徒を吸収しました。
だがその一方で、初代教会以来の聖書主義を捨てきれない人々も沢山いました。
キリスト教活動の歴史は、この二つの集団の関係を縦糸にして展開していくのです。
のみならず、欧州史ひいては世界史もこれを縦糸に織りなしている部分が多いです。
