前回、聖書の記述を物理学的にイメージさせてくれる新しい存在論~量子力学~を導入しました。
今回は、もう一つ、前もって吟味しておくべき重要事項を考えますね。
それは「信じる」という言葉です。
これは英語のビリーブ(believe)の邦訳語として、長いこと使われてきています。
前述しましたように、日本は「神イメージがほとんど宿物神のみ」できている国です。
で、宿物神イメージの中身はどうかというと、これは物質に触発された「神秘的な感情・感慨」のみです。
そこには神を説明する理屈、言葉がありません。
~たしか、前の第6、7回あたりでそれを示しましたよね。
そしてこういう無論理な中身の神イメージに対しては、人間は、それを「全体として受け容れるか、受け容れないか」という姿勢しかとれません。
そこで、我が国のように「ほぼ宿物神イメージワールド」では、「信じる」という語は、「何も考えないで心に受け容れる」という意味にしかならないのです。
<イエスの「あとでわかる」>
だけど、これは聖書の邦訳語としては、致命的な欠陥を持っていますよ。
だって、聖書での神イメージの主役は「(万物の)創造神」でしょ。
この神概念は広大にして深遠な論理内容をもっていますよ。
これは聖書で「徐々に示されていく」神イメージであって、読者も聖句を手がかりに「思考・探究を続け、認識を深めていくべき」性格のものです。
それはイエスの言葉「(いまはわからなくても)あとでわかる」が代表的に示しています。
望「つまりbeliebeは日本語での「信じる」とは対極的な概念ということになるのでしょうか?」
~ですよね。だからこれを「信じる」と言っているのでは、もう最初から、聖書の世界観の探究を放棄しているようなもので、全然話しにならない。
これはもっと前に、対処しておかねばならない事柄だったのです。
<「ビリーフ」は「霊識する」>
望「そんなこといっても、この日本語は長いこと使われてきていて、もう、常識ですよ。最近出席した礼拝でも、牧師さん“信じる”とか“信じなさい!”とか叫んでましたし・・・。いったい、どうしたらいいのですか?」
~これはもう結論からお話したほうがいいでしょう。
鹿嶋は色々試行してきました。そして、現時点では「霊識する」がいいと結論しています。
「霊識」は文字通り「霊的に認識する」という意味を持っています。
イエスの「創造神は霊ですから・・・」とのみことば(聖句)が示しているとおり、その認識は「霊的」でなければなりません。
また、「識」は「認識する」の識で、これは「探究を続行している」というニュアンスも含んでいます。
望「存在を受け容れたら“もう考えてはいけない、あれこれ考えたらばちが当たる”というものではないのですね」
~それは宿物神に対する姿勢です(笑)。
<ゴーイング・コンサーンで>
ただしここでちょっと難しいけれど、留意しておくべきことがあります。
この「霊識する」という認識活動は、通常言うところの~「客観的(科学的)認識」活動ではありません。
科学は基本的に「対象(創造神)と心理的に距離を置いて」なす活動ですが、「霊識する」は対象(創造神)の存在を基本的に心に受容した上で深めていく認識活動です。
敢えて言えば、「愛をもって」する探究活動です。
望「愛をもって・・・ですか?」
~そう。愛をもって受容しながら、同時に探究は続けているといいう認識状態です。
英語ではこの状態をゴーイング・コンサーンといっています。
日本では「活動態(かつどうたい)」と訳しています。
<「信仰」は「霊識」>
望「う~ん、飛躍した直感で申し訳ないのですが・・・、そうすると“信仰”なんてのも問題になりませんか? 先だっての礼拝でも、“信仰が足りない!”って牧師先生が信徒さんを叱っておられましたけど・・・」
~いや、飛躍じゃないよ。「信仰」は「信じる」と背中合わせの用語だ。
この語の英語は、ビリーフ(belief)とフェイス(faith)なのですが、この邦訳語も、「信仰」では全然ダメです。
だって「仰ぐ」というのは上方の高貴なる方を「考えないで拝する」というものでしょ。
「信じる」だけでも無思考状態なのに、さらに「仰いでいる」のでは、重ね重ね「識」がない。
信仰もまた宿物神の神イメージだけに適用されるものなのです。
やはりこれも「霊識」とするのがいいでしょう。
このシリーズでは、「信仰」を「霊識」に一貫して置き換えていきますよ。
慣れるまでは違和感があると思いますが、実践しなければなりません。
聖書の思想を対極から否定するような用語を使っていたんでは、「出発点から闇の中」ですからね。
望「基督教再入門だ、まさに・・・」
~茶化すんじゃないよ。