鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

52.「私(のことば)に留まる」とは?

2018年05月29日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

量子力学の知識を用いて、ビッグ聖句の解読をすすめよう。


聖句はこれだったね~

・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
~そのうち、今回は、「諸君が私(のことば)に留まり・・・」に焦点を当てる。

わたくし鹿嶋の解読を「イエスはこう言っているだろう」との言い方で述べるよ。

 

<小休止せよ>

イエスはおそらくこう言うだろう。

~私の言葉を受けても、すぐに解釈をはじめるな。

なぜなら、その作業は、既成の概念(言葉)、既成の知識を私の言葉に当てはめ、それでもってカバーして 理解しようとすることだからだ。

だが、わたしのことばは、従来諸君が考えなかった思いを伝えている。

それは、既成の概念でカバーしきれないものを、もともと含んでいるのだよ。

そして、それこそが、私が諸君に教えようとしていることなんだよ。

(だから安易に解釈に入っても駄目なんだよ)

ではどうするか。

言葉を受けたら、まず、小休止せよ。

きちんと小休止して心を鎮めよ。

これが第一レッスンだ。

 
 
 

<黙想に入れ

第二レッスンはこう続くだろう~。

そして、私の言葉波動が形成する波動世界の中に、まずひたれ。

そのなかに、諸君の意識をうずめ置け。


(日本語聖書の「留まる」は、鹿嶋の英語聖書ではアバイド(abide)となっている。

アバイドは「住まう」で、こちらの意味がより的確そうだ)

+++

住まってどうするか?

黙想を開始せよ。

黙想の「黙」は「言葉を使わないこと」だ。

「想」は「想う」ことだ。

では言葉を使わないでどうやって想うか。

心の波動で創造神の言葉が形成する波動ワールドの波動を聞くのだ。

この場合の「聞く」とは、自分の意識波動を創造神の言葉波動に共振、共鳴させることである。

この共鳴が最も実在感の濃い認識になる。

哲学者ベルグソンの認識理論もそう言っている。


+++

この共振を得るのを待つ。

黙想しながら自分の意識波動が共鳴するまで待つのだ。

それも「共鳴させよう!!」と顔引きつらせて待つのではない。

わたし(イエス)を信頼し、親愛の情を持って、ゆったりと待っていたらいい。

それが「イエスの言葉のなかに住まう」ということだ。

ゆったりと黙想しつつ住まっていたらいい。

それが第二ステップだ。

 

 


<イエスの言葉波動に意識波動が共振>

イエスの教えはさらに続くだろう。

~黙想を続けていると、私の言葉波動に諸君の意識波動が共振する覚える時が来る。

すると、私の言葉が秘める意味が、諸君の感性、霊性に感知されてくる。

それは、概念から得る実在感よりも、遙かに濃厚な実在感を与える。

それまで体験することのなかったような、リアルな実在感だ。

これが第三ステップだ。

 
 


<理性が新概念を細断する>

第四ステップ。

理性が作動するステップだ。

人間には理性という能力が与えられている。

感性に受信されたものがリアルになると、この能力が自動作動し始める。

それは、感性内容にぴったり適合する新概念を作り始める。

あたかも身体にぴったりフィットする洋服を裁断するかのように、独自な新概念を細断する。

そして、それを用いて、イエスの言葉の「確かな」解読が形成される。

その作業には、他ならぬ自分の人生体験も照合される。

これまでに読み吟味した他の聖句も動員されてくる。

そして、この上なくシャープで確かな「自分の解読」が出来上がるのだ。

+++

以上のステップを「諸君が私(のことば)に留まり・・・」は含んでいる。

ビッグな聖句は内容もビッグで豊富なのだね。

 
今回はここまでにしておこう。





 
 
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51.量子物理学を援用する

2018年05月26日 | 安全なキリスト教の学び方

 


ヨハネ15章の聖句の解読を始めよう。

・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~だったよね。


夢のある巨大な聖句だ。

こういう巨大な思想は、一つ一つブレークダウンして考えていくのがいい。

 
 

<「わたし」は「わたしのことば」>


まず冒頭の「諸君が私に留まり」の「私」については、結論的に言っておく。

この「わたし」は「私(イエス)の言葉」を意味する。

前の8章に、実質上同じことを言っている聖句がある。


・・・・・・・・・・・・
「諸君が私の言葉に留まるなら、諸君は私の弟子となります・・・」
         (ヨハネによる福音書、8章32節)
・・・・・・・・・・・・・


~がそれだ。

15章ではイエスは、もう同じ言葉を繰り返すことはしない。

「わたしのことば」を「私に」と略称している。

(ついでに「私の弟子になる」うんぬんも省略している)
 
 
 

<難問は「わたし(の言葉)にとどまる」から>

それはそれでいい。

難問は「私(のことば)に留まる・・・」の「留まる」から始まる。

これは鹿嶋の手の内にある英訳聖書では、アバイド(abide in )となっている。

「住まう」という意味だ。

でも、そうすると「イエスの言葉の中に住まうとはどういうことだ」との疑問が連なって出てくる。

「言葉の中に住む」なんて、物理的にはイメージしがたいからね。

 
 

<量子物理学が助けの手を>

こうして解読は、はやばやと行き詰まってしまう。

だが、それを打破してくれる物理学理論がある。

量子物理学(量子力学)の思想がそれだ。

+++
 
それ以前の物理学では、物質は究極的には「粒子」(つぶつぶのもの)によってなっている~と考えていた。

ニュートン物理学のニュートンも、アインシュタイン物理学のアインシュタインもそう考えてきた。

ところが量子物理学では、物質の究極的な根源は波動であることを明かしたのだ。

 
 

<物質の根源は波動>

どういう思想かを簡単に言うと~

従来、物質を構成するものとして原子が発見されていた。

次に、原子は陽子や中性子や電子でなっていることもわかった。
 
そこでこれらが究極の構成要素と考えられ、素粒子と呼ばれた。
 
素「粒子」だからつぶつぶの物質だ。

+++

ところが、後に量子物理学者と呼ばれるようになる人々は、素粒子の一つである光子(こうし)についてある実験~「二重スリット実験」と呼ばれる~をした。

そしてそれは粒子でもあり、波動でもあることを発見した。


「~でもあり、~でもある」というのは解りづらいね。

この両者の関係は、こう理解したらいい。

すなわち、根源は波動(振動:バイブレーション)だ~と。

そしてその波動の海の中に、振動が凝集する領域もある。

それが(つぶつぶの塊)と感じられるもの、すなわち粒子だ、と。

+++

そしてその振動の海が量子(クオンタム:quantum)と名付けられた。
 
これが量子という物質の風景である。

 
 
 

<言葉も波動ならば・・>

さ~あ、そうすると福音(聖句)の理解に画期的な世界が開けてくる。

そもそも、人間が「見えない世界のことがら」についての理解が出来るというのは、それを物理的にイメージ出来るということだ。

この理解の領域が、量子力学の思想によって大幅に広がるのだ。

+++

たとえば、聖書に繰り返し現れる「言葉が物質を変化させる」という思想も物理的にイメージ出来るようになる。

イエスの言葉は(人間の言葉も)波動を発している。

これは量子力学以前から明らかになっていることだ。

それに加えて、物質の根源が波動であるとなったら、それが言葉によって影響されるのはごく当然な道理となる。

波動が波動に影響を与えるのは当然だから。



<イエスが「癒やすとき」言葉を発したのも>
 

「新約聖書」には、イエスが人を癒やしたり生き返らせたりするとき「言葉を発している」場面が沢山記録されている。

(この聖句事例は『誰もが聖書を読むために』新潮選書、にまとめられている)

イエスが「歩け」と言葉を発すると脚萎えが歩き出す。

「目よ開け」というと、盲目者が見えるようになる。

これを従来牧師さんたちは「イエス様の不思議な力によります。信仰で受け止めなさい」などと教えてきた。

「まだ信じないのですか! 信じなさい! キィー!」とかもやってきた。

ところが脚や眼球の根源が波動だとなれば、理解は換わってくるよ。

イエスの発した言葉の波動(創造神の強烈な波動)が、脚や眼球の根源的な構成物である波動に影響した~となる。

影響を受けて、脚の筋肉や眼球を構成していた波動が変化し、肉体組織が再創造された~という理解が可能になる。

実にわかりやすい。


+++


・・・イエスの巨大な言葉「わたし(のことば)の内に住まう」を吟味しようとして、そのための前段階の量子力学の説明にスペースを費やしてしまった。

それでいい。

この物理学理論は、これからも、イエスの巨大な言葉の理解を助け続けるからだ。

今回はこれまでにするが、冒頭の聖句の吟味解読は、次回にも続くよ。

この聖句は、取り組んだら離してはならない言葉なのだ。











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50.「口だけの証言」と「奇跡付きの証言」

2018年05月24日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

今回は、話題を変えよう。

 
人間は世を去るとき「遺言」をする。

前もって書面(遺言書)にしたためておくこともあるが、とにかく言い遺しをする。

それは「これまで何らかの事情で言わなかった」大切なことだ。
 
+++

若い頃、徴兵されて外国で戦い、復員してきた。

だが、その後の生活で、家族に戦争のことはいっせつ語らなかった。

そうやって臨終を迎える人は、沢山いるようだ。

その彼も、最後には戦時中の体験、見聞を言い残すことがある。

こういうのはやはり、重要で重い遺言なのだ。




<イエス最後の言葉>
 

イエスもこの世を去るとき最後の言葉を遺している。

復活して、教えを追加した後に、天に昇るに際して語った言葉だ。

『使徒行伝』の著者ルカはそれを次のように記録している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖霊が諸君(イエスを信じる人々)に臨むとき、諸君は力を受けます。
そして・・・(中略)・・・地の果てまでの、私の証人となります」
           (『使徒行伝』1章8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


~これもやはり、多くの示唆を含んだ重要な言葉・・・という香りがする。

イエスの教えの核心を含む臭いがする。


 
 
<教えの「核心」とは>

ここで私の言う「核心」とは、「これが成れば他のことも実現していく」という言葉だ。

といっても、その捉え方は色々あるだろう。
 
「そのなかでこれが絶対だ」とは私は言わない。
 
あくまでも鹿嶋のみる「核心」としてそれを追ってみる。

上記の聖句を、核心を示唆する最後の言葉と期待しよう。

そして、そこからイエスの語った教えを(時間的に)逆算して手探りしてみよう。

 
 

<「力を受ける」はすでに説明済み>

上記のイエスの言葉のうちで~「聖霊が臨むとき、諸君は力を受けます」の意味はすでにここで説明したよね。

『使徒行伝』2章に「マルコの部屋で200余人に聖霊がくだった状況」が記録されている。

それが「聖霊が臨む」だ。

いわゆる「聖霊のバプテスマ」だ。

これは説明した。

+++

続いて『使徒行伝』3章に、ペテロとヨハネが神殿の広場で脚萎えを立たせる場面が記されている。

~これが、「聖霊を受けて力を現す」状況だ。

このように、力とは、世に言う「奇跡」を実現させる力だ。

なお、奇跡は聖書用語では「しるしと不思議(signs and wonders)」とも言う。




<証人は「証言する人」>

では「わたしの証人となる」とはどういう意味か?

証人とは「証言をする人」で、これは基本的に裁判用語だ。

裁判では証人は裁判官に、論理的に~あるいは、感情的に~訴えて証言を納得させようとする。

 
 

<奇跡が伴う証言>

だがこの聖句でイエスの言う「証人」にはもう一つの意味内容がある。

その証言には奇跡が伴う、という意味が込められている。

+++

イエスに関わる証言は、本質的に、「見えない世界」「霊的な世界」の領域のことを語っている。

他方、それを聞く側の人は、五感による認識にしか確信を持てない人々だ。

こういう人々に霊的な事象を説明しても・・・「口だけなら何とでも言えるさ」と思うのが自然だ。

これは別に悪いことではなく、人間の自然の情だ。

だから、この状態では、証言は空しいもので終わるのだ。

 
+++
 
だが、その証言の言葉を語ると奇跡~しるしと不思議~が伴う、となったらどうか。

聞く人の姿勢はガラリ一変するだろう。

 
 

<奇跡は神そのものを見せるものではない>

この奇跡は、語っている「見えない世界」そのものを見せてあげるものではない。

創造神を語っていても、その神そのものを見せてあげるものではない。

「見えない世界」に原因を持つとしか思えない物的事象を、現実化して見せてあげるのだ。

すると人は、「この証言者は霊的な世界に通じている人」と認識する。

これもまた、人間自然の情としてそうなる。

それで証言の言葉を「事実だろう」と受け入れるのだ。

+++

さらにその奇跡が、人々が苦しんでいることの解決となる場合には、強い喜びも伴う。

病の癒しとか、身体器官~手脚の骨や筋肉、眼球など~の再創造事象がそれだ。

+++

実際、イエスを信じる者たちに伴った奇跡はほとんどがそれだった。

が、ともあれこうした奇跡を伴った証言をする人が、イエスの言う「わたしの証人」なのだ。

 
 

<奇跡を伴わせる方法>

では、そんなこと、どうやって実現できるか?

そこで上記のイエスの言葉から、聖書を時間的に逆算して探っていく。

するとイエスがその方法を示している言葉に出会う。

「ヨハネ伝」のなかにそれは埋まっていた。


・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


凄い聖句だね。

だがこれも吟味・解読しないことには~このままでは~言ってる意味が解らないよね。

その解読を、次回に試みよう。

今回はこれまでとしよう。






 

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49.自由吟味活動の難しさを示す事例

2018年05月22日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

「聖書の絶対正統な解釈を知る人間はいるのではないか・・・」という漠然とした意識~

これがものを学ぶ際に、「おびえ」の心理を作り出している。

だがこれから脱却するのは、日本人にとっては難しい。

    ~前回、そんなことを述べた。

今回は、それを示している事例を述べよう。



 
 
<自由吟味を貫徹してきた牧師>

海外に、自由吟味を徹底的に行い、とても深い解読にたどり着いた神学者兼牧師がいる。

彼は若い頃から、教団に呼び出されて再三尋問を受けた。

様々な迫害を被りながらも、自らの解読吟味を続け、ついに独自の解読(神学)を確立しはじめた。

教会メッセージもそれを元に行い、教会も成長を続けてきた。

 
 
 

<聖書解読を聞く会>

最近、この人の聖句解読を聞く会があって、わたし・鹿嶋も参加した。

十数人の小さな会で、参加者には同志的な親しい関係があった。

そのなかに一人の女性牧師がいた。

彼女は従来より、その解読を取り入れて自らの教会を運営していた。

牧会には癒しなどのしるしも現れていた。



 

<女性牧師の教会に問題発生>

二日目のセミナーが終わって、私は数人の牧師さんと雑談をしていた。

そのそき、その女性牧師さんが、一つの悩みを述べた~。

+++

~自分の教会に、あるとき3人程の信徒が他教会からグループで参加してきた。

彼らは説教をよく吸収し、感動し、喜びをもって教会活動をしていた。

ところがあるとき、グループみんなが退会し、他の教会に移っていった。

そして自分について「あの牧師は異端だ」と言いふらし始めた。

+++

しばらくして、その動きはおさまった。

ところがまた同じことが起きた。

一団のグループが参加して、活動して、脱会して「あの教会は異端だ」と公言する・・・という動きだ。

二度も同じことが続いて、どうしたらいいものか、悩んでいる~と。

 
 

<そもそも異端とは・・>

わたしは次のようなアドバイスをしてみた~。

「そもそも、異端という言葉は絶対正統な解釈を持っていて、それと違うことを根拠にして初めて言えるもの」

「そこで、絶対正統な解釈には、人間には到達できない・・・との前提を教会員に明示して牧会したらどうか」

「そして各々が助け合って、日々聖句解読を深めていくようにする」

「さすれば、もう“異端”という非難はしなくなるだろう」~と。

 
 

<米国南部の自由吟味教会を説明>


彼女は~「そんな牧会など出来るのだろうか」~と言った。

わたしは応えた~

「米国南部のサザンバプテスト教会は、みなこの方式で教会運営をしている」

「全員集まっての礼拝の前に、教会員はスモールグループ用の小部屋に分かれて、礼拝と同じ程の時間を使って聖句自由吟味会をしている」

「時には牧師も自由参加して、一般会員と対等に議論したりすることもある」

「彼は“これが正しい解釈”と主張したりは絶対にしない」

「それでいて、全員礼拝になると、講壇からメッセージを”自分の見解として”力強く語っている」

 
 

<牧師の権威はどうなる?>

すると女性牧師はこういった~

「それでは牧師は何も教えられないのでは?」

「牧師は聖霊によって指導者としてたてられている」

「聖霊によって正しい解釈を啓示され、毎週メッセージをする」

「牧師はそういう権威を聖霊によって与えられている」~と。

 
 

そこで鹿嶋は~よせばいいのに~こう語ってしまった。

「それではまた同じことが繰り返されるのでは?」

「聖霊によって啓示を受けるにも、その方法は聖句で探究すべきではないか」

「探究を始めるまでは、聖霊によって、という語は、あまり頻繁に使わない方がいいのでは?」

すると、女性牧師は怒り、席を蹴って出ていってしまった。

「あなた、もう一度現地に行って、よく勉強して来たら?!」と捨て台詞して・・・。

 
 

<脱却の難しさ>

このケースも、日本人の心の底には「正統な解釈は人間に出来る」という“漠然とした”思いが根深くあることを示している。

(このケースではそこに聖霊が持ち出され、この啓示で可能、という論法になっている)

これから脱却するには、その思いのさらに底に「人間は絶対正統な聖書解読には至れない」~という確信を明確に挿入しなければならない。

+++

私の見るところ、彼女は日本ではかなりいい牧師さんの部類に入る人だ。

その彼女においても、こういう事態が起きるんだ。

この脱却は日本人には、とても難しい、と覚悟せねばならないよ。
 
 
今回はここまでにしよう。







 
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48.「おびえの自縄自縛」からの解放

2018年05月18日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

今回は、聖句自由吟味活動の基礎にある暗黙の大前提、について話しておこう。

この思想は自由吟味者の血肉と化している。

ゆえに、敢えて口に出して言われない。

だから「暗黙の」なのだ。

 
 

<究極絶対の解釈は人には知り得ない>

それは聖書の解読での、「究極絶対の解釈」についての思想だ。

聖句吟味者は、そういう解釈は存在すると信じている。

だが同時に、人間の限られた生涯のなかでそれに到達するのは不可能だと確信している。

これは自由吟味を実践し続けての体験的確信だ。

だから、彼らにとっては、どの解読も究極の真理ではない、のだ。

 
 

<到達した日々の解読が真理>

 
そういう彼らに外部から質問する者もいる~。

では諸君は真理なしで生きていくのか~と。

これに対する自由吟味者の答えはこうだ~

「膨大な内容を持つ聖句に対面し、個々人が吟味し解読したものが、その人のその時点での真理(真の知識)だ」

「有限な人生を日々生きる人間個々人にとって、それ以上に頼れる知識が他にあるとは思えない」

~と。

 
 

<自由精神を守る鍵>

なんか、一見、いい加減な考え方にも見えるね。

だが、これが実は「人間の精神の自由を守る鍵」なのだ。

なぜなら~

人間は自然なままでは、「究極の真理は存在する」という思いを漠然と持っている。

その漠然さが、「自分の解釈は真理ではないのでは?・・・」という恐れ、おびえを知らず知らずに意識の中に作り出す。

これを打破するのは、「人間には究極の解釈は知り得ない」という思想を「明確に、自覚的に」持つこと以外にない。

でないと、人は何か絶対的そうな思想にすがりつこうとする心的素地をもってしまうことになる。

またときには、そのすがりついた思想で、反射的に人を裁いたりもすることになる。

 
 

<おびえの自縄自縛>

「聖書だけ」からもう少しカメラを引いてみると~

歴史を通して、日本人の心底には「真理は誰かが知っているのでは」という漠然とした思いが流れている。

浄土仏教もその論法だ。

親鸞の『正信偈(しょうしんげ)』には、「高僧説(お経の中では、コウソウセイと読むことが多い)というフレーズが時々出てくる。

色んな教えを述べた後、それは「高僧が述べたから正しいのだよ」と決め手のようにして出てくる。

この状態では、日本人の心底から「おびえ」はなくならない。

自由吟味活動のもつ、暗黙の真理観だけが、日本人を「おびえの自縄自縛(自分の考えで自分を縛って身動きとれなくなること)から」解き放つのだよ。

今回はここまでにしておこう。








 
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47. 50年先の布石を打つ

2018年05月17日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

前回述べたのは~

聖句自由吟味活動の日本での泣き所は、経験素材が実在していないところ、それがゆえに認識されがたい点にある

       ~これだった。

では、経験実在はいつ出現するか?

バラバラと出るのは早くても50年後だろう。

その時期は、優れた宣教師が来日する分だけ、早まるだろう。

 
 

<宣教師はたくさん来ている>

現在も、米国南部のサザンバプテスト連盟からの日本への宣教師はたくさんいる。

30名くらいはいるだろう。

首都圏だけでも10人近くいる。

だが、その宣教能力は、日本で期待されている水準には充たない。
 
+++

余談だが~

派遣されてくる海外宣教師の待遇は、とてもいい。

サザンバプテスト地帯のクリスチャンたちは、海外宣教のための献金を積極的にする。

資産家たちも我々日本人が驚く程の宣教献金をする。

その結果、連盟の資金は潤沢で、宣教師に与えられる待遇は非常にいいのだ。

他の宣教師と共同で避暑地に別荘買ったりするケースもあるよ。

日本の夏は、暑くて湿気が多い・・・と。

 
+++


だが、それを受けて来日する宣教師の宣教能力は概して凡庸だ。

自国の母教会では自由吟味・スモールグループ活動が活発になされている。

自分もその中で育ってきている。

なのにそれを日本に移植する技術と力がないのだ。

+++

ほとんどが、先輩宣教師が開拓した教会で、英会話教室などを手伝ったりして日を送る。

その教会は、一般のプロテスタント教会と同様な日曜礼拝サービスを提供する教会だ。

中には自ら新教会を開拓する人もいる。

だが、それも一般プロテスタント方式のものだ。

そして、定年になると帰国する。

母国で連盟が計上してくれていた豊かな年金で、母教会の手伝いをしながら引退生活をする。

+++

そうした中で、例外的に技術の優れた~聖句自由吟味活動を植え付けられる~宣教師が混じって来てくれたら、その人々の数に応じて時期は早まるだろう。




<布石を打っておく>

が、ともかく、それまでにこの活動の驚異的な力を知った人間はどうすべきか?

実在を知って「そうだったのか」と合点する人のために、布石を打っておくことだろう。

その合点が展開していくのを助けるような布石を。

実はミード著『バプテスト自由吟味者』はその最初の布石のような本だ。

50年後に「これは有益な情報だ!」と気付かれ役立つような本。



 
 
 
 

<志持った粋人>

だから、今現在多くを受容されることは期待できない。

そんな本を出版してくれたのが、「編集工房DEP」経営の桐生敏明氏。

志を持った趣味人とでもいうべきか。

この種の「売れない本」を他にも何冊か出版してきておられる。

奈良県人だが、関西にはこういった粋人富者が比較的多くいるようだ。

今回はここまでにしよう。







 
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46 「精神の自由」をフル発動させる道

2018年05月15日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

前回、日本の土壌(当面の)からは、聖句自由吟味活動が萌え出るのは困難だ~と述べた。


だが、「ああそうか」で終わってはおられない。

人間が与えられた精神の自由をフルに発揮して生きることと、この活動方式とは密接に関わっているのだ。

 
今回は、それを述べよう。

+++

これまで繰り返してきたように、人間は「見えない影響者(神)」を思わないでは生きて行かれない生きものだ。

その「神様」が「よくわからない」では心底に恐れを持った状態での人生になる。

影響者は悪い影響を及ぼしてくるかも知れないからだ。

そして、心底に恐れがあったのでは、精神は自由な飛翔をしない。
 

 

<在物神宗教の場合>

在物神の場合から考えよう。

人は物質の中に存在すると期待する神を「明確に知りたい」。

だが、知り得ない。

認知の中身は感慨だから。

言葉、理念なしだから、認知は漠然としたままとなる。

そのままでは、神への恐れが残存し、恐れを心底に抱いた人生を続けることになる。

 
 

<神との仲介者が登場する>

すると「神を感知している」という姿勢の人間が登場してくる。

これはもうほとんど自然な成り行きだ。

この人物は、神と人々の間に入って「神様を仲介してあげましょう」という仲介者になる。

この人は、「神を知っている」という姿勢をとる。

だが、かならずしもその姿勢のようでは、実際にはない人も多い。

そして、そういう仲介者は、自分の利己的な目的のために、人々を動かそうとする性向を持っている。

仲介者は、そういう危険と共に登場するのだ。

 
 
 

<創造神宗教にも>

そういう仲介者は、創造神宗教においても登場する。

創造神宗教では、神については言葉での説明がある。

それを記した教典がある。

聖書がそれだ。

だが、この書物は多量な内容を持っている。

だから人間にはそのままではやはり、神は漠然なのだ。

+++

その時、やはり仲介者は出現しうる。

「私は正しい解釈を悟っているよ。それは究極絶対の真理だよ」という姿勢の人物は登場しうるのだ。

具体的には、教団の高僧にそれが出ることが多い。

 
 

<自称仲介者が出る限り>

結局、仲介者の姿勢をとる人間が出る限り、「神を知る活動」は安全ではないのだ。

キリスト教も同じだ。

+++

では、仲介者が登場しない「神知り活動」はあるのか?

我々は経験を振り返って「そんなものあるはずがない」と思う。

が、理屈としてはありうる。

それが聖句自由吟味方式の活動だ。

これは「教典(聖書)と人間の間に仲介者を差し挟まない」と自覚的に~原則として~明示した方式だ。

 
 
 

<まず理屈として記憶>

残念ながら、いま、われわれ国民のほとんどは、その観察素材、経験素材をもたない。

だから、具体的なイメージが伴った理解が非常に難しい。

けれども、この活動の中に、精神の自由をフル活動させる道を、筋道としては展望することは出来る。

そいう「頭による」認識、「知識としてだけの」認識は出来る。

それを知識として記憶する。

記憶していれば、いつか、その素材に出会ったとき、合点がいくだろう。

まずはとにかく記憶することだ。

今回は、ここまでにしておこう。





 

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45.心理土壌が自由吟味活動と縁遠い

2018年05月14日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

前回、古代エルサレム神殿には、我々からは想像出来ない程多数の人々が常時的に参拝に来ていた~ことを眺めてみた。

もちろん、在物神感覚で参拝に来ていた人もたくさんいだだろう。

当時は貧富の差が大きく、一般庶民の多くは貧しく文盲だった。




<「聖書読み」が大量にいた>

そうしたなかで、聖書(旧約)を読み考える生活を送る参拝者も多数いたのだ。

彼らは創造神に関する理念をもっていた。

+++

周辺諸国からも「聖書読み」の参拝者はたくさん来た。

『使徒行伝』には、エチオピアの宦官(高官)が、イエス十二使徒の一人、ピリポに『イザヤ書』の聖句の解読を示してもらう場面が記録されている。

+++

ギリシャにも沢山いた。

パロという人は後に異邦人宣教に大活躍する。

「新約聖書」に収録されている手紙を沢山書いている。

彼も、ギリシャに生まれて生活していたユダヤ人だった(これを、グリークジューという)。

ピリピ、テサロニケ、ベレヤといった町が聖書に出てくる。

これらはマケドニア国の諸都市であった。

こうした地に住む比較的豊かな階層の人々は、ほとんどが「聖書(旧約聖書)読み」だった。

+++

当時、これらの周辺諸国に於いても、聖書は唯一の「教養書」だったのである。

だから所得の高い人々は、ほとんどこれを読んだ。

それらの人々もまた、聖句自由吟味活動を芽生えさせる土壌を豊かに形成していたのだ。

 


<日本の土壌>


この視野から日本の状況を眺めてみよう。

まず、我々の国では、宗教と言えばほとんどが在物神宗教だ。

物質(空や建物の中の空間も物質の一つ)を拝んで、神秘的な感慨を得るのみ。

神とはどんな存在か、の「理念」など持ったことない。


 

<武士道>

そうしたなかで、人間の生き方に関する理念はある。

人は生きる営みの中で、それを作り出していく。

日本の場合、それは「武士道」だった。

我が国の場合、これといった人生理念は他になかった。

+++

武士道は「主君のために死ぬのが最高の人生」という行動規範だ。

行動倫理。

他に人生無常という思想もあるが、これは無常観という存在哲学の根から生えた人間哲学だ。

@@@

こういう心理舞台に、いきなり「創造神という神がいる」といった思想をもってきても入らない。

ましてや、創造神と人との関係、とか、創造神と天使との関係とか、の理屈を持ってきても受け入れは困難だ。

 
 
 
<「愛」も行動規範のみに留まる>

たまたま教会に出向いて「愛が大切」という聖書の持つ価値を学ぶ人はいるだろう。

全体から見たら少数だがいる。
 
だが、それも「あなたは愛の行為をしましたか?!」といった行動規範論にとどまってしまう。
 
+++

日本の心理土壌は、聖句自由吟味活動とはあまりに縁遠い。

まず、そうした事実を知ることが肝心なのだ。
 
 
今回は、ここまでにしよう。



 
 
 
 
 
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44.エルサレム神殿とマルコの部屋

2018年05月11日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

りんたろうくん。
 
いま我々は、聖句自由吟味方式を出現させた歴史背景を迂回散策している。

日本人は、この方式を、言葉で原理を説明されても、さっぱり実在感が湧かないからだ。

実在感を持ってイメージ出来ないからだ。

 
 

<エルサレム神殿の巨大さ>


今回は、初代教会を実現させた舞台空間の一つ、エルサレム神殿を眺める

この建造物の構造をイメージするには、日本人は手がかりを持っている。

神社がそれだ。

神社にも色んな要素があるけれど、骨子要素は拝殿と本殿だ。

画像を見よう。
(以下今回の画像の出所はみな、ウイキペディア)




          =日本の大神社の構造=



拝殿は一般参拝者が拝むところだ。

本殿はその奥にある「奥の院」で、「見えない影響者」(神様)が臨在するところとされている。

+++

エルサレム神殿も、骨子要素は聖所と至聖所だ。

画像を見よう。





     =ソロモン時代のエルサレム神殿空間=

 

「聖所」は神社の拝殿に、至聖所は本殿に相当している。

だが両者には大きさに格段の違いがある。

神社は日本には沢山造られているが、イスラエルでは神殿はこの一つだけだ。

日本にも大きい神社はあるよ。

伊勢神宮、出雲大社、明治神宮、成田神社、熱田神宮(名古屋)などがそれだ。

だが、エルサレム神殿は、それら日本の神社を一カ所に集めたような巨大空間だ。

 
 +++
 
といっても、なかなか想像は難しい。

エルサレム城塞都市のなかでそれをみてみよう。





=ソロモン時代のエルサレム城塞都市=



神殿が上部の高台にある。

これはソロモン時代の神殿だが、イエスの時代には、都市面積も神殿もさらに拡大されていた。

聖所の前の広場は何千人も入れる空間だった。


 
 
 
<参拝者数も巨大だった>

この神殿に、イスラエルだけでなく、ギリシャやエチオピアなど周囲の国々からも沢山参拝者が来た。
 
この神殿にはそれだけの影響力があったわけだ。

+++

日本の大神社の場合、参拝者でごった返すのは、初詣の正月3~5日くらいだ。

この期間に、大量の人々が、初詣のため参道をぞろぞろと歩み続ける光景が終日続く。

拝殿の前は人でごった返している。

先に到着した人から、争うようにしてお賽銭を投げて、手を合わせて「ウ~ン」と念じる。

後ろには続いて到着した参拝者が待っている。

彼らも同じことをして、もときた参道を帰る。

正月三が日はこの風景が終日続く。


+++

ところがエルサレム神殿では、これに似た光景が、年に何回もある祭りの期間毎にくりかえされていた。

様々な祭りの期間毎に、周辺国からも大量の人々が参拝に来た。

すべてにおいて日本の神社とは桁外れな規模なのだ。



 
<隅田川花火一晩分の轟音>


聖霊降臨が起きた時も、祭りの期間の最中だった。

200人余が一つの部屋に集まっていたのが「マルコの部屋」。

ここで起きた状況を、もう一度『使徒行伝』2章の聖句で見よう~。


・・・・・・・・・・・・
「突然天から、激しい風が吹いてくるような轟音が鳴り、部屋全体に響き渡った。

次いで、炎のような分かれた舌が現れ、ひとりひとりの上にとどまった。

すると、みなが聖霊に満たされ、聖霊が話させてくださるとおりに語り出した。

そのことばは、語っている本人も理解できない、他国の言葉であった・・・」
・・・・・・・・・・・・・・


~ここで「激しい風が吹いてくるような轟音」が鳴ったのは、部屋の中だけでない。
 
聖書には、突然「天から」とある。
 
その音は神殿の聖所前広場にいた人々の耳にも、鳴り響いたのだ。
 
+++
 
どんなに大きな轟音だったことか・・・。
 
思うに、東京隅田川での、夏の花火大会というのがあるだろう。
 
そこで一晩に打ち上げる花火は、仕掛け花火も含めると何百をかぞえるという。
 
まあ、千個としておこう。
 
千個の隅田川花火を、城塞都市の上空の一カ所に集めて、一気に爆発させた。
 
それくらいの轟音とでも言うべきだろう。
 
 
 
 
だから、エルサレム市街の人々はみなその音に驚いたのだ。
 
神殿広場にいた人々も、その神殿空間から飛び出して、轟音の下の地点を目指して走った。
 
エルサレム市街にあった「マルコの部屋」に飛び込んだ。

 
 

=聖霊降臨想像図=


そして「なにごと?!」と部屋に詰めかけられた人々に向かって、ペテロは聖書の新しい解読を説いたのだった。

 



<その日に三千人も教会員になれたのは>


「使徒行伝」には「その日だけで3000人が、弟子たちに加わった」とある。

だが、現実の話、三千人が一度に「マルコの部屋」に入れたはずはない。

人々は入れ替わりながら部屋に入った。

ペテロは説教を複数回繰り返しただろう。

また、聞いた人からの口コミも伝わった。

彼らすべてが驚き、弟子たちの群れに「入れてくれ」と願い受け入れられたのだろう。

それらの人が総計三千人いたということだろう。

+++

~以上も、五感経験できる事象としての理解だ。

これを飛ばしていきなり、「神の力で三千人が一日で参加した」と認識するのは純朴にすぎる。

つまるところは、創造神の力によるのだろう。

それにはちがいないのだが、いきなりそこにいくと、神秘主義に流れやすくなる。

そうすると、「安全でない」ものが混入してきがちになるのだ。


   

 
<初代キリスト教会を一気に立ち上げさせるには>


また、こう解してはじめてイエスの言葉「エルサレムに留まっていなさい」の意味も浮上してくる。

弟子たちに聖霊を降臨させるのは、ガリラヤでだって出来る。

だがそこには、日頃から聖書を読んでいる人々が、大挙して現場に駆けつける、という舞台がないのだ。

条件がない。

イエスは聖霊を与えると同時に、弟子たちが教会を立て上げるようにしていたのだ。


今回はこれまでにしよう。



 
 


 
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43.富者がイエスを支援する心理

2018年05月08日 | 安全なキリスト教の学び方

 


もう一つ、廻り道。

イエスを支援した富者の心理を現実的に考えておこう。

「現実的」とは「五感経験世界の要素で」という意味だ。

 



<マルクス思想が生んだ富者への嫌悪感>


現代人は富者に対してあまり好意的な感情を抱いていない。

それにはマルクス思想の影響が大きい。

マルクスは「資本論」で、資本家の貪欲に着目した。

彼らが一般労働者からの搾取分でもって富を蓄積している面を明かるみに出した。

この経済分析は、19世紀以降、一世を風靡した。

これによって、「富者は、悪いことをして豊かになった人間」、とのイメージを我々は強く抱いているのだ。

 
 
 

<富者と運営者感覚>

だが実際のところ~

富者というのは~豊かになる前から~自分の日常生活世界を超えた範囲の事象に、多くの意識を注いでいる人が多い。

その結果、社会組織とその運営にも関心を注ぐ。

その面の情報も集まる。

それを活かして、組織体を創って運営者となっていることが多い。

富は、その結果であるのが一般的なのだ。


 

<運営者の視点からも見る>


余談だ~

富んで恵まれた人を、「妬み、羨望」の感情百パーセントで非難する人々がこの世には多い。

この非難者は、富者が自らの組織の運営に注力している面を全く見ていない。

その結果、運営者が運営上の都合で、やむなく実施できない事柄を、「ただ悪行として」非難する。

+++

ある意味、気楽な人生だ。

だがそういう日々を送る人は、決して富者になれない。

最初から貧しい庶民の生涯を送ることを自らに宿命づけているようなものだ。

キリスト教会にやってくる人にも、こういう人がいる。

彼らはやたら「隣人愛」を強調して、教会や教会員にほどこしを「たかる」こともある。

社会を運営者の面からも見るかどうかは、人生を左右する重要な要因なのである。

 
 
 

<イエスの聖書解説を敬愛>

話を戻すよ~

イエスの時代、富者の多くは聖書(旧約聖書)を読んでいた。

そして、国家宗教であるユダヤ教の高僧たちの、儀式の多い宗教活動や、聖書説明に納得できない気持ちを抱いていた。

そこに革命的な聖書解読をイエスは示した。

彼らは、それが真実をついていると直感した。

そこで、イエスが好きになり、敬愛し、支援をした。

そういう支援動機も、現実にはあったはずだ。

 
 

<孔子の洞察>

もう一つは、いま少し利己的な動機心理だ。

 
孔子の「論語」に~

「父母は唯其の疾を之れ憂う」との言葉がある。

「孝とはどうすることか」との質問を受けての応答で~

~父母は何にもまして、ただただ子供の病気のみを心配しているのだから、身体を大切にして健康であることが孝行の要
    ~という意味だ。

+++

かといって貧しい庶民の親は、生存のための食物入手が日々の大仕事だ。

子どもの病気に常時関心を注いでいることはできない。

だが富者は、衣食住の心配がない。

その分、子どもの健康に常時的な意識を注ぎ、心配をするのだ。

+++

イエスは、この彼らの日々の不安を大きく和らげてくれる存在だった。

なにせ、病は百発百中で治してくれる。

手遅れで死んだ子も、哀れんで生き返らせてくれる。

+++

昔から、霊能者というのはいつの時代にもいる。

彼らも霊力でもって子どもの病を癒やした。

だが、常時ではない。

たまに治ることもあるが、治らないことも多い。

対して、イエスの霊力は桁違いだった。

哀れむものを百パーセント治してしまうのだ。

+++

富者は、イエスに「頼みやすい状況」をつくっておきたいとの願いももっただろう。

そういう多少利己的な動機も、支援の際には全く介入しないことはないだろう。

これって責められるものだけではないんだよね。

「あいだみつを」さんだって、言ってるよ。

     「人間だもの・・・」って。

関西のおばはんなら「あ~ら、お近づきになっておきたいわぁ・・・」

とチャッカリいうところだ。

 
 

<詰まるところは「創造神の意図」によるが>

もちろん、これらの事態は、詰まるところは「創造神の意図」によって起きている、と信仰者は思うだろう。

だが、それについていきなり最初から、「神様の計画」などといってもってくると、

神秘の領域の認識に、物質的経済的な要素が混入してくる。

結果的に、信仰が妄信的になる。

パウロの「信仰に知性を」という思想も、そういう事態を避けよという警告であろう。



今回は、ここまでにしておこう。










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42. 五感認識で神秘領域を浮上さす

2018年05月05日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

さらに廻り道を続けよう。

迂回話は、目に見える五感経験の世界の話が多くなる。

信仰感覚を求めている読者には違和感があるかも知れないね。

たしかに、聖書が述べる世界は、つまるところは霊的世界だ。

五感経験の世界でなく、神秘の世界だ。

けれども、その前に五感経験の世界で理解できそうなことは、出来るだけやっておくのがいい。

 
 
 

<五感認識を進めても神秘は残る>

五感理解をすすめても、神秘領域はなくならない。

その残ったところをフェイス(信仰、信頼)でもって霊感認識するのだ。

すると、聖書解読はシャープになり、より一層感性を高めてくれるようになることが多いのだよ。

+++

逆に、聖書の世界のことだと言って、いきなり神秘的な認識に入ると、霊感認識に不純物が混入してきやすくなる。

不純物とは五感経験界からの認識物で、これが知らず知らずのうちに意識に侵入してくるのだ。

前もって、出来るだけ五感認識をしておくことには、その混じりものを避ける効果があるんだよ。

 
 

<最後の晩餐の会場>


事例で示してみよう。

前回、過越の食事の会場をイエスが弟子に知らせる場面があった~。

「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家にまでついて行きなさい・・・」といって示していたよね。


これなど、イエスが先を見通す透視力を発揮して、これから起きることを弟子に示した、と解することも出来るだろう。

この透視力は神秘的な力だ。


 
 
 

<エルサレム入城は大トピック>

だけど、そういう要素を入れないで、五感経験の要素だけで理解することも出来る。

たとえばこんな具合に~


この主人はすでに久しくイエスの支援者だった。

イエス一行が来たという情報は、瞬く間に彼の耳に入った。

当時、一行の動きは、最大の社会ニュースだったからね。
 
+++

一行がエルサレムに入城した。

このときイエスはロバの子に乗っての華やかな入城だ。

群衆は手に手にシュロの木の枝をもって、「ホザナ、ホザナ!(救ってください、救ってください!)と大歓迎。

今なら、テレビのワイドショーでのトップ記事だ。

耳に入らないわけがない。

 
 

<使用人を差し向ける>

そこで主人は使用人を、一休みしているイエスの元に差し向けた。

この男は伝達役の使用人で、すでに弟子たちにも馴染みになっている。

彼は弟子を介せず、直接イエスに接近できた。

フリーパスだ。

+++

彼はイエスの耳元にそっとささやいた。

(主人が過越の食事の場を準備しています・・・)~と。

そして音もなく去って行った。

+++

・・・こういう場面が事前にあったと推定することも十分出来るのだ。

この推察は神秘的な要素はゼロで、宗教的な話を好む人には面白くない。

だが、こちらの解釈を採ると、他の、神秘としか考えようがないイエスの行為が、より輪郭くっきりと浮かび上がってくるのだよ。


 
 

<神秘を否定せず、神秘主義を避ける>

誤解しないように。

わたしは神秘を否定しているのではない。

神秘認識がなくなったら、それは科学になってしまう。

神秘要素は大事だ。

だが神秘「主義」はさけなければならない。

それはキリスト教に、安全でない要素を持ち込むしね


今回はここまでにしよう。






 
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41.イエスを支援した富者たち

2018年05月03日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

廻り道(迂回)を続けよう。

今回は、イエスを支えた富者たちを眺めよう。

聖書から推察できる一つは、イエスのその活動を支える金持ちが少なからずいたことである。





<ラザロと姉妹たち>

聖書にその名が出てくるケースは多くないが、その一つにマルタ、マリアの姉妹とラザロという兄弟(弟としておこう)の家がある。

この家は、エルサレムから3キロ程のところのベタニアという村にあった。

彼らはイエスの一行がここに来ると、常に、泊めたようだ。

73人すべてかどうかはわからないが、こんな話がある~。


+++

イエスは姉妹の家に着くとすぐに講話を始めた。

近所の人々が集まって話を聞く、それだけの広さの部屋がある家だ。

姉妹はみんなに食事をさせるべく準備をする。

+++

あるとき、妹マリアはイエスの近くに座って話を聞き続けた。

忙しく働いていた姉は、イエスに訴えた。

「妹に手伝えと言ってください」

これに対してイエスはこう答えたと「ルカによる福音書」10章にある~。

~「マルタ、マルタ、あなたは、いろいろなことを心配して、気を遣っています。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。

マリアはそのよい方を選んだのです。

彼女からそれを取り上げてはいけません」

有名な話だから聖句を記しておくが、ともあれ、彼女たちの家は富者支援者の家だったろう。




<アリマタヤのヨセフ>

もうひとりアリマタヤのヨセフという名も出てくる。

 
彼はイエスが十字架刑死したとき、その「遺体を受け取らせてくれ」、とローマ総督ピラトに願い出て許可を得ている。

当時、貧富の格差は大きく、庶民は貧しかった。

ローマ総督に願い出ることも、一定の社会地位ある人~そういう人は富も所有している~でないとできないことだ。

彼はイエスの隠れ信者(言葉の受容者)だった。

富者は色んな面で伝統的な行動をとらねばならず、革命的教えをするイエスを公には支持できなかったのだ。



 
<ニコデモ>

もうひとり名が出てくるニコデモも隠れ信者だ。

かれはユダヤ教の高僧で、国家の議員でもあった。

国家宗教(国教)の高僧はみな富者である。

+++

筆者の友人にバプテスト教会の牧師だった米国人(アラバマ州在住)がいる。

数年前、聖公会(旧英国国教会)にスカウトされ聖職者になった。

彼とその家族は、突然、裕福になった。

英国国教会(アングリカンチャーチ)は、米国では少数派で、かつて英国で持っていたような教権はない。

それでも、聖職者を好待遇する資産が多大に残っているのだろう。

+++

このニコデモは、イエスの遺体を葬るとき、遺体の防腐効果のある没薬(もつやく)を30キログラムもって来ている。

彼はそれ以前に、闇に紛れてイエスの元に教えを請いに来ている。
(ヨハネの福音書、3章)

また、議会に於いてもイエスに不利な決定がなされないように、発言している。


 
 
<200人収容の大部屋も>
 
名前が記されていない富者支援者はその何倍といただろう。

マルコの部屋もその一人が提供しただろう。

エルサレム神殿から参拝者が轟音を聞いて駆けつける程の近さにある土地は、今流にいえば、一等地だ。

そこに200人も入れる大部屋をもつ建物をもつなど、富者でないと出来ない。

イエスも弟子も、そういう不動産は所有しない。

この持ち主は、イエス亡き後にも弟子を支援していたのだ。

 
 

<最後の晩餐の客間>


イエスがエルサレムに入城して、弟子たちと過越祭りの食事(最後の晩餐)をするときもそうだろう。

晩餐の会場についてイエスは弟子にこう言っている~。

「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家にまでついて行きなさい。 

そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたにいっておられる』といなさい。

すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。

そこで準備をしなさい」

するとその通りになっていた、~とヨハネは記している。(ヨハネによる福音書、22章7-13節)

そういう部屋を待っていて提供する、家の主人がいたのだ。


今回は、ここまでにしよう。







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40.旧約聖書の比喩表現を解読する集いとしてスタート

2018年05月02日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

では、聖句自由吟味活動の歴史的考察を、迂回たっぷりで始めよう。


様々に迂回するから、話は長目になる。

自由吟味活動の方式は、キリスト教が始まるなかで自然発生している。

そしてそれはドラマチックな出来事の中での生成だ。

 
 

<イエス、エルサレムに留まれと命令>

イエスは十字架刑で殺された三日後に、復活した。

500人以上の人々がその彼を目撃した。

イエスは、教えを追加した後、信じる者たちに「エルサレムに留まっていなさい」と命じて、天に昇っていった。

 
 

<神殿の外にあった大部屋>

200人余の信徒が、マルコの部屋と呼ばれる大部屋に集まっていた。

エルサレムは城壁に囲まれた城塞都市だ。

建設された当時は部族社会で、異部族の襲撃の危険が常にあった。

城壁都市のなかにエルサレムの神殿があり、その外の一定距離を置いたところの建物にマルコの部屋はあった。

彼らは、一般ユダヤ人たちからの襲撃を避けるべく部屋を閉め切っていた。

この時点では、一般人の認識では、イエスは極刑に処せられた罪人であり、弟子たちはその一派と認識されていたからである。

 
 

<轟音と共に驚くべき事態が>


この部屋に驚くべき事態が起きた~。

「突然天から、激しい風が吹いてくるような轟音が鳴り、部屋全体に響き渡った。

次いで、炎のような分かれた舌が現れ、ひとりひとりの上にとどまった。

すると、みなが聖霊に満たされ、聖霊が話させてくださるとおりに語り出した。

そのことばは、語っている本人も理解できない、他国の言葉であった・・・」

~これは『使徒行伝』2章に記録されている。

著者は「ルカの福音書」の著者、ルカである。

 
 

<酒に酔っているのか!>

轟音は神殿にまでとどろいた。

参拝に来ていた人々は、「なにごと!」と建物に駆けつけ部屋に飛び込んだ。

見ると人々はみな、他国の言葉を唄うようにして語っている。

彼らは、驚き惑って、互いに「これはどしたことか」といった。

あるものは「彼らは甘い葡萄酒に酔っているのだ」とあざけった。

 
 
 

<代表者ペテロ、聖句から事態を解説>


すると後に「使徒」とよばれることになる12人の弟子が立ち上がった。

代表者ペテロが口を開いて事態説明の演説を始めた。

彼は預言者ヨエルの書いた『ヨエル書』の聖句を示し、それが実はイエスのことを言っているのだと解き明かした。

ついでダビデの書いた『詩篇』の一節も語って、やはりそれもイエスのことを言っていると解き明かした。

 
 

<『ヨエル書』の聖句>

「使徒行伝」2章を見ればわかることだが、聖書を開かない人もいるだろう。

ここにペテロが引用した「ヨエル書」の聖句を書いておこう~。


・・・・・・・・・・・・

「創造神は言われる。

終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。

すると、あなたがたの息子や娘は預言し

青年は幻を見、

老人は夢を見る。

その日、わたしのしもべにも、はしためにも、
私の霊を注ぐ。

すると彼らは預言する・・・」

・・・・・・・・・・・・・

後は省略だ。

『詩篇』の聖句の引用部分は、「使徒行伝」を開いてみられたい。

 
 
 

<参集者の目からうろこが落ちる>

ペテロは、この聖句は「いま目の前に起きていることを言っているのだ」と解き明かした。

参集者の目からうろこが落ちた。

突如目が開け、精神が開け、彼らの知性は躍動した。

人々はこうした躍動体験をもっと欲した。

新しい聖句解読をもっと学びたくて、200余人の弟子たちの群れに加わることを願い、受け入れられた。

新参加者は、その一日だけで、三千人に達したとルカは記録している。

キリスト教会は、こうして、たった一日で立ち上がったのである。

+++

その後も口コミは広がり、新しく加わった教会員は、エルサレムだけでも三万人はいたと推定されている。

五万人くらいに達したとみる人もいる。
 
 
 

<小グループに分けて、聖句解読を始めさせる>


これを受け入れた先輩たちはどうしたか?

イエスに直接教えを受けた弟子を使徒という。

十二人いたので、十二使徒とも呼ばれている。

この事件が起きた時には、イスカリオテのユダ(イエスを裏切ったとして有名)という弟子がいなくなっていて、使徒は十一人になったが、まもなく補充され12使徒に戻った。

イエスがいたときには、使徒とイエスをさらに外から取り巻く弟子も70人ほどいた。

彼らみんなは、共にいて宣教旅行をしていた。

他にも信じる人がいて、マルコの部屋には200余人が集まっていた。

+++

使徒たちは参集者を数人前後の小グループに分けた。

リーダーを一人選ばせ、その内の一人の家で聖書の解読を自由に議論させた。

この時点では、聖書は今でいう「旧約聖書」しかない。

参加者はその聖句がどのようにしてイエスのことを言っているか、の解き明かしを切望した。

だから、自由吟味は実際には自由な「イエス解釈」の探究だったことになる。


 
 
<旧約聖書はオレのことを述べた本だ!>
 
  
実はイエスも生前、旧約聖書について「私のことを証言する本」と断言していた。(ヨハネによる福音書、5章39節)

だけど、旧約聖書にはイエスという名は一度も出てきてない。

端的に言えば、イエスの「イ」の字もでてこない。

それがイエスのことを言っているとなれば、それは、何か他のものをもってきてそれに喩えて「喩え」で言っていることになる。

かくして聖句解読は、(イエスに関する)比喩の解読となった。

+++

比喩解釈はとてもいい「頭の体操」になる。

解読できたときに快感が伴い、精神が活性化する。

聖句の場合さらに、本質に達する解読には「しるしと不思議」がともなった。

これがまた、興奮を与え、精神を高揚させた。




<初代教会は聖句解読小グループの連携体>


先輩たちは、各家庭(スモールグループ)を廻って、質問に答え、ヒントを与えたりして、解読の助力をした。

とりわけ使徒たちは、長老と呼ばれ、頼りにされた。

+++

これが人類史最初のキリスト教会だ。

それは後に「初代教会」と呼ばれるようになる。

初代教会は、リーダーの連携を介してつながるスモールグループの連携体だった。

この小グループの集いは、後に「家の教会」とも呼ばれるようになる。

人々はそこで小さな礼拝も行った。

ともかく、こうして世界史に於いてキリスト教会は始まった。

それは「イエスを比喩で語っていると思われる、旧約聖書の聖句」を解読する人々の集いであった。

今回は、ここまでにしておこう。







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