鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

14.<実施局知識と国会議員の政治能力>

2013年09月21日 | 聖書と政治経済学




前回、実施領域の情報が人民に知らされていない、ブラックボックスになっている、という話をした。
少し余談に入る。



<官僚の半沢直樹物語を!>

鹿嶋は、それを思うとき、最近のTV東芝日曜劇場の大ヒットドラマを思い浮かべる。
『半沢直樹』である。

このドラマの人気要因は、銀行業務がどんなものかをわかりやすく知らせてくれたことに実はある。
銀行業務もまた一般人民にはブラックボックスなのだ。
視聴者は血湧き肉躍る人間の「倍返しドラマ」を見ながら、「ああ銀行ってああいう風な業務をしているのか」と初めて知る。
そういう「学びの驚き、学びの知的歓び、学びの快感」もこのドラマは内包しているのだ。

サラリーマンにも大人気だったというが、理由は明らか。
一般のサラリーマンの大半はメーカーなどに勤めている。

日々の仕事に銀行さんとの接触は多い。
にもかかわらず、彼らの業務内容の情報は得られずにきている。
銀行業務を知らないから、銀行が言ってくることの手の内も読めない。

これを熱血ドラマを通して学べるというのは、大きな効用だったのだ。

+++

鹿嶋は、政治の実施局を舞台にした「半沢直樹ドラマ」を作ったら、
これは国民に大効用を与えると思う。

熱血官僚半沢直樹が悪徳官僚や貪欲事業家たちを次々にやっつける。
崖っぷちに追い詰められるが、最後に幸運が降って湧いてどんでん返しをする。
もちろん、銀行員物語と同様に、筋は漫画であり劇画でいい。
これによって、国民は初めて官僚世界、国会での決議事項が実施されていく世界を垣間見ることが出来る。

現場の官僚たちは苦笑しながら見るだろうが、人民には貴重な情報なのだ。




<官僚政治家が最も有能となるのは>

・・・というところで本来の話に入る。

日本だけではないだろうが、実施領域の業務に関する知識は政治家の能力に大きく関わっている。
政治はそもそも実施業務を不可欠なものとして含む仕事だからだ。
そこで、この能力も兼ね備えつつ議決能力を持つ政治家が理想となる。

歴史を振り返ってみる。
明治維新の指導者たちは、結果的にその種の人物の育成を行った。

彼らはとにもかくにも、西欧風の政治機構を造って国を運営しようとした。
それには、政治家が決定した決議事項を実施に移していくオフィスワーカーが
常時一定数いなければならない。
だがついこの間終わったばかりの江戸時代に百姓、町人であった人民に、この業務をこなす能力はない。

政府はそのため、細かい法律仕事を間違い行う、秀才的な素質の若者を全国から集めて
東京大学(主に法学部)で育成した。
彼らに勉強させ、高級官僚を造った。

彼らには、海外遊学もさせた。
国際社会の知識を身につけるには、海外の先進国での生活を3年以上することが最低限必要だ。
彼らだけに、国費でそれをさせた。

外国のことに通じているのは、近代政治家の必須条件である。
そこで高級官僚の優れたものが政界に進むというのが、最も有能な政治家が出来上がりやすい道になる。
そして彼らの中の、腕に覚えを感じるものが政治に立候補して当選した。
こうして出来上がったのがいわゆる「官僚政治家」である。

彼らは実施領域の知識も兼ね備えている。
役人として就職して以来、政治のオフィスワークをし続けてきているからだ。
おまけに実施局に息のかかった元部下の官僚たちももっている。

彼らが党人とも呼ばれる「政党(党人)政治家」を、政治能力において圧倒するのは当然だった。



人民にはそんなことは全く見えない。だが実際彼らは活躍した。
戦後日本の建設期において特に働いた。
吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫などは官僚政治家である。

大平正芳は東大出ではないが、官僚政治家である。
「党人」田中角栄はこの大平を盟友にもつことでもって、政治能力を何倍にも発揮出来た。
日中国交正常化も大平がいなかったら全く不可能だった。
そして大平の死を契機に、角さんは糸の切れた凧のようになっていった。

中曽根は外務省を早期に辞めて党人政治家になったが、止める前にちゃっかり
海外遊学をさせてもらってるのではないかな。
彼が総理になって内閣を作るとき、三顧の礼を踏んで官房長官を引き受けてもらったのが後藤田正晴だった。

後藤田は警察官僚あがりで、闇の世界にも通じている。軍隊である自衛隊にもなじみがある。
彼は、伊豆大島大地震の時にも、すみやかに自衛隊を動かして窮地を救った。
東北大地震と福島原発危機のときにも、もし、彼が官房長官だったら事態は大きく変わっていただろう。





<二番目は自民党党人議員>

日本の場合、官僚政治家に次いで政治能力を身につけやすいのは自民党の党人議員である。
自民党は万年与党だから常に国家運営担当者であり続けて来た。
すると自民党議員は陣笠ともよばれる一年生議員のうちから、なんらかの政策実施の仕事を割り当てられる。
そこで実施局の官僚と接触、協働する機会を持てる。

これを通して彼らも実施局の情報とその能力をある程度は身につけていく。
ただし、若い時代に外遊に出してもらう特典は得てないので、国際感覚は育ってはいない。

田中角さんはまさにこれを体現した党人政治家だった。
彼が福田赳夫と総理の座を争い始めたとき、引退間際の佐藤栄作は田中のいびつさを
非常に懸念して福田が継承することを望んだ。
だが田中は福田赳夫勢力を粉砕して総理大臣になり、日本に党人総理の流れが始まった。

実はそれは、日本の政権者の政治能力低下の始まりにもなっている。




<最悪は万年野党議員>

自民党が万年与党であると言うことは、他の政党はみな万年野党ということである。
この統治能力は絶望的である。
野党の国会議員は統治実施業務を学ぶ機会をもたないで日を送る。
せいぜい委員会の委員として多少接触するだけである。

後はほとんどの日々を、外野席から政権者の政策をなじるだけで送る。
なじり方のパーフォーマンス能力が野党議員の人気を形成し、それが選挙での得票数を左右する。
だから、この種の弁舌能力だけが育つ。

これでは実施局的知識はまったく育たない。
もちろん、多くは出身バックグラウンドが、若い時代に海外遊学出来るほどに豊かではない。
だから国際感覚もない。

こういう政党が政権を担当するようなことが起きたら、国家は無能政治に翻弄される。
統治は滅茶苦茶になって、ほとんど機能しなくなる。
そして実際それが21世紀に入って民主党政権として現実のものとなった。

彼らは実施局の知識、能力は持たない。
これが「政治主導」などといって、官僚統率を試みたのだからもうえらいことになった。
官僚はあきれて冷笑する。面従腹背、適当に対応してやりすごす。実質サボタージュ。
日本の政治が、実施機能停止に陥った。



かと思うと、大臣になったものに対して高級官僚は、いわゆる官僚の「レクチャー」でもって、
政策思想も洗脳してしまう。

菅直人など、これで「消費税増税派」に簡単に一転した。
「消費税増税絶体反対」をとなえて 政権をもらったのに、2年も経たないうちにこの姿。
これはもうマンガである。
下の名前は忘れたが、野田なにがしなども同じ漫画を演じる運命となる。

彼は国会議員になってからも、議会がない日には毎朝千葉のJRの駅前で演説ばかりしていたという。
これでは実施局知識など他の勉強ができない。
勉強より次の選挙で議席を失わないことの方が関心事なのだ。
貧しい。志が低すぎる。
こんなのが弁舌主力で総理大臣になってしまうことまで日本では起きてしまった。


+++

日本では二大政党制は有害でしかないことを、マスメディアは全然わかっていない。
米国や英国の状況に憧れて、二大政党制的な政権交代を夢見るメッセージを国民に送る。
日本中にそのムードができてしまう。

小沢一郎さんは人間的には暖かくていい感じの人だが、彼もこの点がわかっていない。
そのくせ田中角さんの秘蔵っ子で、角さん譲りの選挙技術と資金調達力は身につけている。
それで民主党政権を造ってしまったのだ。

そこを追い出されたいまも、「政権交代再び」などといっている。
もういい加減にしてわかって欲しい。
「二大政党ごっこ」はもういい加減にして欲しい。

日本では二大政党は有害無益である。
それを機能させる方法はただ一つ、万年与党政党を二つに割って二大政党を作る道しかない。
そして各々に、官僚政治家を沢山つくって参加させるしかない。




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13. <もう一つのブラックボックス=官僚の仕事領域>

2013年09月16日 | 聖書と政治経済学



統治は、なすべきことを決定し、それを実施する行為である。
消費税を5%から10%にあげるかどうか、というのもそれだ。
決めるのは国会で政治家が議決する。

そして上げると決まったら、決めたことは実施せねばならない。

それには~

① 実施のルール、法律を定め、

② 実行する人間の連携関係を示す組織図をつくり、

③ それに適切な人材を配置し、

④ 実施に必要な費用を計測し予算から割り当て、

⑤ その機構が日々作動するように運営・運転する。

~以上が必要である。




これは議決に劣らず重要な仕事である。
にもかかわらず人民はこの実施の領域の情報を与えられていない。

法律は国の機関紙「官報」(日刊)で知らされていると言うが、
この新聞が地方の公共図書館に朝日、毎日などの新聞とともにぶら下げられている例は少ない。
当面「官報」は利害関係者だけのための情報紙というイメージのままで来ている。

実施領域の情報が人民になじみやすい形で散布されるに至っていない理由は、
一つには業務が細部にわたっていて複雑で、一般国民にはわかりづらいことだろう。
もう一つは、これらの情報には国会での議決のようなドラマ性がないことだろう。

ともかく、だから一般人民は実施のためになされる領域の事柄を知りえない。
これがまた政治を不可解にしている。

かくいう筆者も一般人民の一人である。
鹿嶋の師匠は国の税制調査会などに深く関わっていたので、話を聞く機会はあった。
だが、霞ヶ関の現場に踏み込んだ経験がないとイメージしがたい話が多かった。
そういう人間が書いているのだから、本稿への期待もほどほどにして読んで欲しい。




<事務という名称>

この領域の仕事を「事務」といいう。その場が事務局であり、
これを行う国家公務員が官僚である。

だが、これらは言葉からしてよくわからないところがある。
そもそも、事務ということばがわかりにくい。
日本語では「事」は「ことがら」「できごと」である。
「務」はなすべき「つとめ」「つとめること」である。

あわせて「事務」にすると「なすべきことがらにつとめること」
・・・これでは意味が広すぎて言葉から理解を試みることができない。




事務官僚というのも具体的なイメージが湧かない。
事務をする国家公務員といってもわからない。
結局、事務の意味が漠然としているからだ。

事務次官という言葉が新聞に出ることがある。
官僚の出世の頂点にいる権力者といわれる。
だがそれがどうして権力者になるのかも、
事務の意味が漠然としているのでよくわからない。




<机仕事>

事務は英語のoffice workの訳である。
主にオフィスで机に向かってする仕事が事務である。

政治家も国会議員会館にオフィスはもっている。
だが、彼らはそれを秘書にさせておいて、自らは外で動き回る。

他方、施行の法規をつくったりするような仕事はほとんど、オフィスの机に向かって行われる。
だからオフィスワークなのだろうが、これを事務というとわからなくなる。

もっといい日本語はないものかと思う。
いっそのこと「机仕事」としたらどうだろうか。
だけど、机仕事次官では権力を持った「えらい人」というイメージはわかないだろう。
そこで日本語英語で「オフィスワーク」とするのも一案だ。
若干はイメージしやすくなる。

事務局はオフィスワーク局ないしは机仕事局だ。
あるいは、実施局というのもいいかもしれない。




<官僚の権力>

実施局の官僚は実際には権力を持っている。
力の源は実施領域での情報独占にある。

施行段階での法律を作ったり、組織図を造ったりするのは細かい仕事だ。
実施を決定した政治家にも、詳細はわからない。
だから、官僚はこの段階の操作で、決定事項を骨抜きにしてあげることだって出来る。

また実施機関が日々運転されている様子、その過程で生じる諸問題は
担当実施員以外には受信しにくい情報である。
そしてそれは時がたつごとに部外者にはますますわからなくなる。
大臣もわからないからますますオフィスワーカーに任せっきりになる。
こうして情報は実施局員に独占されてしまう。

そうなると、公式の最終権限は政治家がもっているといっても、
実際にはその権限を行使するすべがなくなる。
たとえて言えば、相撲取りを目隠しして子供と相撲をさせる状況をイメージしたらいい。
腕力では関取は圧倒的に強い。だが目隠しされているから相手を捕まえられない。
そういう立場に国会議員はなっていく。




<議決前から依存>

机仕事官僚は、国会で議決がなされる以前にも活躍する。
法治国家では決定は法案に対してなされる。
この法案を作るのがすでに机仕事である。

政治家は自分の机仕事人、すなわち秘書に造らせることも出来るが、
能力が官僚にはかなわない。
官僚は関連部門の事柄も日々の業務を通してよく知っているから、
法案造りも楽に出来る。
そこで、与党は法案造りからして彼らに依存することが多い。

官僚のこうした活動領域も、一般人民にはブラックボックスになっている。
これもまた人民にとって政治を不可解にする一大要因である。

このテーマはもう少し続けよう。








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12.<政治は「奇怪要素」を含むもの>

2013年09月03日 | 聖書と政治経済学




ここで、政治の複雑さ奇怪さについて考えておくのがいいだろう。

政治は具体的には統治者が行う統治活動である。
マックス・ウェーバーは統治が成り立つには、二本の柱が必須という。
正当性意識と、物的暴力手段がそれである。

① 正当性意識とは「いまの統治者について人民が正当であると思う意識」である。
② 物的暴力手段とは、具体的には、警察と軍隊である。

時の統治者を正当だと思わない人民はいつの時代にもいる。
そういう人は、統治者が定めるルールも正当と思わず、、法に反する行為を取ることが多い。
こういう人にはまた、説得は通じない。
さらに、とりたてて統治者に正当性を認めない事はない人でも、
個々の法に反する行為をしてしまうこともある。

いずれのケースでも、統治者は、物理的な力で違法行為をさせないように
ブロックせなばならない。
国家という社会を維持運営するには、秩序を保たねばならないからだ。
そこでそのために、警察が必要なわけである。




<軍隊は必要>

軍隊は、主に対外的な物的暴力手段である。
外国との交渉でへ話し合い、説得で折り合いがつかない時もある。
そしてこの場合、相手国が、物的な力で主張を実現させようとすることがある。
これをブロックするために、軍隊もまた必要なのである。

また、国内での大がかりな反統治者行動に対しても、軍隊は使用されうる。




<正当性と暴力手段とのトレードオフ関係>

国内統治についてみると、正当性意識と物的暴力手段とはトレード・オフ
(二律背反で、相互に反比例的関係にあること)関係にある。
人民に統治方式への正当性意識が高いほど、警察は少なくて済む。
逆に、正当性意識が低いと、物的暴力手段は多く必要になる。
いうまでもなく、法に反する行為が多くなるからである。

例えばお隣の中国は、共産党以外の政党を認めない。
これを結社結党の自由を認める日本と比較するとわかる。

政党は思想の産物だから、一党独裁を安定させるためには思想統制も必要になる。
他方、人間個々人は自由を好むから、この方式への正当性意識は低い。
そこで思想統制政策に反する行為をとる人間は多くなる。
すると、警察も比較的たくさん必要になる。




<国家運営と企業経営の違い>

だが程度の差はあるが、政治に物的暴力手段は必須である。
企業経営では、時の経営者の企業統治を正当と認めないものは、
出て行ってもらうことが出来る。
他にも企業は沢山あるからである。

京セラの稲盛さんなどは、稲盛哲学に反発する社員には
「きみ、会社なんてゴマンとあるよ。共感できる会社に行ったらいいんだよ」
といったという。
企業はそういうことが出来る。

だが国家となるとそうはいかない。
「嫌で出てきた」という人間を企業のように容易に受け入れてくれる国家はない。
そこで法に服従しないものは物的に押さえ込まねばならなくなるのである。

松下幸之助さんはそういう世界にかかわらずに済んだ。
松下政経塾出身の政治家が頼りないのはそれによる。



<公開できない情報もある>

そして不従順者を物理的に統御する場合、
その情報のすべてを開示することは、通常出来ない。

たとえば、麻薬など違法薬物の輸入者などは、秘密の違法行為を意図的にする。
これを有効に取り締まるには、警察もまた秘密で行動せねばならない。
民主主義ですから、といちいち公表していたら手の内を読まれてしまう。

暴力団に対するにも同じである。
暴力団は、その名の通り、非合法な暴力手段でもって利得を得ようとする姿勢を
本性的にもっている。
だから、彼らの行為は本性的に秘密裏に行われる。
対策行為を国民に公表などしていたら、踏み込んだときには事務所はもぬけの殻となる。



<凄惨な世界も含む>

これを取り締まる行為には、暴力的な戦いも必然的に含まれる。
そこには獣性と獣性とのぶつかり合いもある。
悪に対しては悪でもって応じるという局面が、現場では不可避になる。
国家公務員といえども、最前線では一時的には悪をなすのだ。
凄惨な事態も生じうる。

こんな内情を人民に知らせても、ほとんどは飲み込めない。
特に日本では、「でも性善説をしんじます」などといっている極楽とんぼが多数派だ。
マスコミはそれに乗るから、結局、それがマスメディアで再教育されることにもなる。

だから日本ではますます一般人民に物的暴力行為を公表するわけにはいかなくなる。
これが人民にとって政治を不可解なものにする一大要因である。

統治は血なまぐさく、奇怪な空間を内包する営みなのだ。





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