鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.211『霊といのちとイエスの言葉』(14章3~10節)

2008年01月13日 | ヨハネ伝解読

 
皆さん、お元気ですか?

新年に入って、つつがなくお過ごしですか?


新年早々、難解なところに直面してしまいましたね。

でも、これは聖書全体を貫くエッセンスのところという予感がします。

ここが解読できたら、聖書の全体像が一気に見えてくるであろうところです。


                    
 

前回を受けて、「イエスの語る言葉」に焦点を当てて、イエスの言わんとされていることを解きほぐしにかかりましょう。

本日の聖句はこれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私が諸君に話している言葉は、自分から話しているのではありません。

父が私の内におられて、みわざをなさっているのです」(14章10節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「イエスの言葉」は、聖書思想の中核に関わっています。

まず、「人間の霊」と「いのち」から考えていきましょう。


                    



<霊のいのち充電度は天国行きを決める>


 聖書というのは色々言っていますけれど、それは全て、

「人間や天使などの霊的存在の、霊にいのちというエネルギーがよく充電されるかどうか」

を巡ってのことです。

そして、その大半は、「人間の霊の充電」についてです。


人間の霊のいのち充電度は~

「人の霊が、最終的に天国で永遠に住むことが出来るかどうかを決定される基準」~になります。

充電度がイエスの言葉を信じて100%にされなかったら、天国行きにはならないのです。

聖書思想では、人間に最も重大なことは「将来永遠に天国にすめるかどうか」ですから、

霊の「いのち充電度」を中核にして論理は展開するのです。



                    

        
<この世ではいのち充電度が祝福を決める>


天国行きかどうかは、最後の審判で決められます。

かなり先のことのように見えますね。


では、我々が生きているいまのこの世においてはどうでしょうか?

この世では、充電度は100%になりません。


だがこの世でも、霊のいのち充電度はなるべく高い状態にあった方がいいです。

この世での祝福が得られます。低いと呪いのもとに置かれやすいです。


ならばいのちがよく充電されるには、どうしたらいいか。

創造主の意識と似た意識になることです。

似るほど充電は良くなり、乖離するほど充電状態が悪くなる。

 (聖書では霊は、いのちエネルギーの充電式乾電池のようなイメージの存在となっています)


                    


<いのち充電度→意識近似度→いのち充電度>

では、創主と似た意識になる鍵はどこにあるか。

それがまた、霊のいのち充電状態なのです。

充電度が高くていのちが多いほど、創主に似た意識になる。


どうしてかというと、霊はまた人の意識の本体になっているからです。

その意識が創主のそれと近似的になるかどうかが、そのいのち充電度によって決まるのです。


要するに、意識が創主のそれに近いほど、いのち充電度もよくなるし、

→ それがまた意識を創主により近くする 

→ さらに意識が創主に近くなる・・・という循環的な論理です。



                    



<創造神の言葉は外から充電を援助>

でもそういう循環的な関係だけだったら、人間の霊のいのち充電度は、宿命的に変わらないことになります。

ところがそこに、イエスから供給される言葉が外から援助の手を与えてくれることになります。

本日の聖句は、そのイエスの言葉は、実は父なる創造主の言葉だということを示しています。


「私の語る言葉は、父が私の内でなされているもの」(10節)

    ~がそれでしたね。


言葉は、人の意識に影響を与えます。

もし創主の言葉を心に抱くならば、その影響で、その人の意識は創主のそれに近くなります。
 

だから、イエスの言葉を内に抱けば、創主の言葉を抱いたことになり、この世でも意識は創主のそれに近づきます。

その分、悪魔は手を出しにくくなり、呪いを受ける危険が減ります。

同時に祝福を受ける可能性が高まります。



                    


<それが天国への道にもなっていた>


以上はこの世でのことです。

だがイエスの言葉を信頼して抱くことは、なんと同時に、天国に入れられる条件にもなっています。

最後の審判で、信頼してきたものには、充電不全部分が補充されるのですから。


いま、イエスはその面の話をしています。

これを「天国への道」が出来ることだという言い方をしているんですね。


「道」というのは、たとえです。

そのココロは「イエスの言葉を信頼して抱くこと」であり、

より端的には、「イエスの言葉」であり、

もっと端的には「イエス」ということになります。


これが「天国へ道は私」という聖句の意味となります。




                    




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Vol.210『道なら通路のはずなのに』(14章3~10節)

2008年01月07日 | ヨハネ伝解読




14章の4回目。本日の聖句は、有名なこれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私がその道であり、真理であり、いのちです。
私によってでなければ、誰も父のみもとには行かれません」
(14章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    




 14章3節でイエスは、「天国に場所の用意が出来たら、諸君を連れに来ます。
そうして諸君はわたしの居るところにいることになります」と言いました。

 天国で弟子たちが住める場所は、イエスのいる場所でもあったんですね。
聖書の思想では、イエスは創主の右の座に座られている、と言うことですから、
使徒たちもそのあたりに住まうことになるのでしょうか。

 大変な待遇ですね。だが生命の危険を顧みずに最初の教会を建てあげて、
殉教していく人たちです。その資格が与えられるのも筋かもしれません。

 もちろん、聖書ではこれはすぐに実現するのではありません。
この宇宙が火で焼かれて消滅し、最後の審判があって、
人間など霊的な存在が天国と火の池(地獄)とに仕分けされた後のことだ
という思想です。

                    



<私が天国への道>

 さてイエスは続いてこういった、とヨハネは記しています。

「諸君は、私の行こうとしているところへの道を知っているよね」(4節)。

 すると、弟子のトマスが言います。

「先生、私たちはその道を知らないのです。どうやったらわかるんですか?」(5節)。

 トマスという人は、後にイエスが復活して弟子たちの前に現れたときに、
不在だった人です。
そして、その話を聞いて、「その人はイエスではなかったのではないか」
と問う慎重な人です。

 彼はまた「自分は、その人の手の釘あとに指を入れ、脇腹の刺し傷に
手を入れるまではイエスだと信じない」という。
今でいう、科学精神の豊かな人だったんですね。

  これに対して、イエスの口から出た有名な言葉が本日の聖句です。

 「私がその道であり、真理であり、いのちなんだよ。
私によってでなければ、誰も父のみもとには行かれないんだよ」と(6節)。


                    


<私の言葉は父の言葉>

 有名ですけどこれは考えさせられる言葉です。
天国に行く道と言ったら、空間に敷かれた長い通路が、天国にまで続いている
とイメージするのが普通です。

 ところが、イエスはそれを「私だ。私がその道だ」といいます。
どういうことだと思っても、続いてイエスの語ることときたら、
そのテーマがどんどん移行していってしまいます。

 つまり、イエスは続いて「私を見たものは父を見たもの」といいます(7節)。
 これは従来語ってきた「父と私は一つだ」ということでしょうか。

 かと思うと次に、「私は父の内におり、父が私のうちにおられる」(10節)
といいます。
ええっ、と思うとさらに、

  「私の語る言葉は、父が私の内にいてそうなされていることだ」という(10節)。

 話の主題がポンポン変わります。
この解読は、マルクスやマックス・ウェーバーの理解より遙かに難しいです。

       
                    


 天国にいたる道は私→ 私と父は同じ → 私の言葉は父の言葉・・・
と展開していくテーマのうち、我々はどこをとらえたらいいでしょうか。

 春平太は「イエスの語る言葉」に焦点を絞るべきだと直感します。
これがキーワードのように感じられるのです。
次回に考えてみます。


                    




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Vol.209『天国に場の差異あり、は筋』(14章1~2節)

2008年01月03日 | ヨハネ伝解読
 14章の第3回目です。
本日の聖句はこれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「天国に場所の用意が出来たら、諸君を連れに来ます。
そうして諸君はわたしの居るところにいることになります」(14章3節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    



 「天国にも、歯ぎしりするような場がある」との解読は、解読した春平太自身にもショックでした。
だが、よく考えてみると、実はこれは~~
「♪天国よいとこ一度はおいで、酒は美味いし姉ちゃんはきれいだ・・・」

~~といったような、天国イメージに我々が慣らされているからであるかもしれません。
天国でも場所の善し悪しに差がある、というのはむしろ福音論理の全体感からすると、
適合する面が多いのではないでしょうか。


 ---「マタイ伝」から「ヨハネ伝」に戻りましょう。
イエスは「父の家には住まいがたくさんある」といい、さらに弟子たちのために
「そこに場所を準備しに行く」、といっていましたね。
イエスがわざわざ行って準備しなければならない場所です。
やはりそこは限定的な特別なところでありそうです。

それをさらに確からしく推察させるのが本日の聖句、14章3節です。
ここでイエスは「天国に場所の用意が出来たら、諸君を連れに来ます。
そうして諸君はわたしの居るところにいることになる」(3節)~~と言っていますよね。


                    


 それでも「この『わたしの居るところ』は天国全体を言っているのであって、
みんなイエスの居るところにいられるんだ」と解釈する人もいるかもしれません。
けれども、この文脈をみると、もう少し話は限定的になるような気がします。

  「天国に場所の用意が出来たら、諸君を連れに来ます。」といっておいて、
続いて「そうして」というんですからね。
「そして諸君はわたしの居るところにいることになる」というのですから、これは
「諸君」(弟子たち)のみに関して言っているニュアンスの方が濃いのではないでしょうかね。


                    


<「救い」は「信仰のみ」によるが>

 
 福音では「救い」とは、天国に入れることでした。
その資格は「イエスの十字架による、救いの論理」への「信仰のみ」によって得られるものでした。
この点は、ルターが宗教改革で指摘したことによって良く知られるようになりました。
春平太もこれに異論はありません。

 だけど、そうなると面白いことにもなりますよ。

つまり最後の審判の後では「福音を有り難く受け入れるだけで、ちゃっかりと
天国に来た人」も天国にはいるはずとなります。

 そうかというと、イエスの宣教命令に従って、苦難を耐え忍び、創主の御旨を
実現すべく働き続けた人もいます。宣教の故に殺された人もいます。


                    


 この後者の人たちをよく考えてみましょう。
いま我々は「信仰の自由」を憲法で保障された国家に住んでいます。
ですから福音を受容しても公的に迫害されることはありません。

 だが、イエスの弟子たちは、福音が危険思想と見なされて、これを宣教するものは
悪い奴として殺すのが正しいという常識をもった社会で宣教したのです。
(殺す側の人も、それが神様に奉仕することだと信じて殺しました) 
福音を真理として受容する人も、それだけでも命がけでした。そして多くが殉教したのです。

 ローマ帝国が福音信仰を公認したのちでも、「信仰の自由」はありませんでした。
聖句を自由に議論する聖句主義の人々は、国家権力となったカトリック教団に迫害され、殺され続けました。
この間の殉教者数は、5000万人とキャロル博士は推計しています。想像を絶する信仰環境です。

 そのなかで、「信仰自由」を守り通して、ついに(幾世代もの苦難の末に)国家の憲法に認めさせたのは、
米国の聖句主義者で、それは19世紀に入ってからのことです。
その後、米国によってこの憲法思想が日本人、台湾人、韓国人などに与えられたのが第二次大戦後です。
日本だってつい戦前までには、信仰の自由はありませんでした。
信仰をとがめられて殉教した人々もいたのです。

こういう人々と、「信仰自由」が当然となった、驚愕的に甘い信仰環境の中で、
「信じるだけで天国に入れるなんて、結構な教えだなぁ、わたしそれ受け入れときます」
~ということでちゃっかりと天国入りになった人とが、同じ待遇というはむしろ不合理ではないでしょうか。


                    


 使徒パウロは、ローマ帝国・ネロ皇帝の迫害で斬首の刑で殉教しています。
その彼が「冠を目指して、(宣教の)レースを走り続ける」と言っています。

 この冠とはやはり、天国に来た人の中の、選ばれた人が受けるものではないでしょうか。
パウロはすでに、ダマスコで回心した時点で「救い」は受けていることになります。
それだけで冠を受けられるのなら、「さらに走り続ける」必要はありませんからね。

                    


<おまえはどうなんだ>

 こういうと、「では鹿嶋春平太、おまえ自身はどうなんだ?」と問われる可能性が出て、やぶ蛇ですね。
でも、言ってしまいましたので率直に告白しておきます。

~~少なくとも現時点では、鹿嶋は自分が創造主の家の内に入るだろうという確信は薄いです。
むしろ外だろうな、という感触の方が濃いです。

 でも、それでも、火の湖に投げ込まれて、「熱い、熱い・・」と苦しんで永続するよりは圧倒的にいい。
これはもう、何倍というのでなく、プラスとマイナスの違いです。

 ・・・自分はその程度だろうなあ、と思っています。
そして、時にはイエスの近くを取り巻く殉教者たちを遠くから眺められたら幸せだと。
自分がイエスの居るところに居られない理由が、わかっていますので、
そんなに「歯がみ」したりしないだろうなあ、と。
理解は苦痛を和らげる妙薬と言いますから。

                    
                    


 そんなわけで、繰り返しになりますが鹿嶋はやはり、「天国には、特別に素晴らしい空間がある」
という風に14章1~2節のイエスの言葉を理解しています。
イエスは「これからほとんどが殉教にまで至ることになる弟子たちに向けて、
その場所を創主の家の中に準備しに行く」と言っていると。

 最後に・・・、
もしそうならば、「あなたもクリスチャンですか。では天国で会いましょう」
などと、安易には言えなくなりそうですね。
天国に行ったら、その人は創主の家の内に入ってしまっていて、自分は城壁の外だったりもあり得ますからね。
その逆も論理的にはありましょうが・・・。
実際に一番あり得るのは、ともに城壁の外。甘い時代の我々ですからね。

                    


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Vol.208『創主の家の「内と外」』(14章1~2節)

2008年01月02日 | ヨハネ伝解読


 前回の続きです。聖句は前回と同じです。


                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「『憂えたり動転したりしてはなりません』とイエスは言った。
『創造主を信じなさい。そして私を信じなさい。
私の父の家には住まいがたくさんあります。
私はそこに諸君のための場所を用意しに行きます。もしその場所がないならば、
私はそういうことを言いません。』」(14章1~2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 だが、今回は、マタイ伝の聖句を手がかりに考えてみます。
「マタイによる福音書」の22章には、天国の様子を示す、イエスのたとえ話が
記録されています。そしてそこに「創主の家」と「その外側」を示唆する話も
含まれているのです。

 イエスは「天の(創主の)王国とは次のようなものだ」といって、
ある王様が、息子(王子)の結婚の宴で行った話を、たとえ話としてしています
(「マタイによる福音書」22章1~14節)。


                    


<天国についてのたとえ話>      

 王様は息子の結婚式にある人々を招待します。ところが彼らは来ませんでした。
すると王様はこれらの人たちの町に軍隊を送り、焼き払ってしまった、とイエスは言っています。

(ここで王様は創造主を、王子はイエスを、そして招待された人々は当時のユダヤ人たちを
喩えたものと思われます。
彼らは、イエスによって優先的に福音を伝えられましたが、拒否していますから。
そしてそれ故に天国に入れないことになりますから)


                    



 次に、王様は僕(しもべ)に、
「では、町の通りに出て行って、出会った人は誰でも婚宴につれてきなさい」
と命じた~~とイエスは言っています。

 (この「通り」の人が、いわゆる異邦人~ユダヤ人以外の人々を~喩えていると思われます。
異邦人は、ユダヤ人よりも先に福音を受け入れていくわけですから。
そして天国に入れるようになるのですから)

   
                    


 イエスのたとえ話は続きます。

 ~~ところが、王様は、通りから来た人の中に礼服を着ないでやってきている一人の客を見つけた。
王様は、彼を宴の外の暗闇に放り出させた。
すると彼は、「泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」とイエスは言っています。
(「マタイによる福音書」22章13節)。


                    


<「宴の外の暗闇」とは>

 さて、この「宴の外の暗闇」です。

 これは地獄(聖書では火の池)であると解されることが多いようです。
だが、それですと、この人は、最後の審判で一旦天国に入ったことになりますよね。
で、天国において「検討の結果、君はやはり天国入りにふさわしくなかった。
審判は間違いだったので、やっぱり地獄に行きなさい」となったことになります。
「最後の審判」ってそういうものでしょうか? これは変ですよね。

 だが、この「宴の場の外の暗闇」とは、天国の中での、「創主の家の外の空間」と考えると、
最後の審判は厳格で曖昧さのない正確なものとなります。

 するとどういうことになるか。
「宴の外の暗闇に放り出された人」も天国に入れられていることになるのですが、
どうも創主の家の内と外とでかなり待遇は違うようです。

「創主の家」は宴のある場です。
そこには創主の子イエスがいて、入った人は会うこともできるでしょう。
このヨハネ伝でイエスは弟子たちについては「そこに諸君の家を準備する」といっているわけです。
すばらしい待遇ではないでしょうか。

 他方、入れない人はどうか。
聖書に詳細は見出せませんが、このたとえ話で、外に放り出されたら
「残念がって、歯ぎしりする」とイエスは言っています。
そのことから内側とは大きく違うと推測されますね。
そこではイエスに近くで会うこともできないのはないでしょうか。



                    



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Vol.207『天国はどうなっているか?』(14章1~2節)

2008年01月01日 | ヨハネ伝解読


 皆様2008年の新年、おめでとうございます。
5ヶ月ぶりでしょうか「ヨハネ伝解読」にもどるのは。

「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)
 今日も創り主とその愛を想いましょう。


                    



14章に入ります。
 本日の聖句はこれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「『憂えたり動転したりしてはなりません』イエスは言った。
『創造主を信じなさい。そして私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさん
あります。私はそこに諸君のための場所を用意しに行きます。
もしその場所がないならば、私はそういうことを言いません。』」
(14章1~2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    
 

 13章で、イエスは「自分が去っていく」と弟子たちに告げました。
いよいよ、十字架で殺される時がきたのです。

弟子たちは、驚き動揺します。
ペテロは、「いや、私も連れて行って下さい、先生と共に死ぬ覚悟が
出来ています」とすがります。

 しかし、イエスはペテロのその願いも拒否しています。
これまで、イエスに頼り切って、その指導に従ってきた弟子たちです。
動揺なんてものでなく、動転するほかないでしょう。

 だが、イエスはこう言います。「動転するな、創造主と私を信頼せよ」と。
これが14章冒頭の聖句「憂えたり動転したりしないように。創造主を信頼し、
私を信頼しなさい」です。(1節)

                    


<「父の家」とは?>        

 続いてイエスは、「私は諸君を見捨てるのではないよ」といいます。
「父の家には住まいがたくさんあるんだ。
私はそこに諸君らの居場所を準備しにいく。これは本当の
ことだ。私は本当のことでなかったら言わないのだ」と。(2節)


 「父の家」とは何でしょうか。
父とは創造主ですから「創主の家」でありますが、これをすなわち天国のこと、
とする考えもあるようです。
だが天国というのは、正確にはキングダム・オブ・ヘブン(kingdom of heaven)でして、天の創主王国です。
そこは創造主が王として統治している巨大な空間です。

 この地球上にも創主の家とされているところがあります。
それはいまのイスラエルにある地上のエルサレムです。
聖書の論理では地上のものは、天のものの模型です。
地上のエルサレムは天のエルサレムの模型です。

 では、天のエルサレムはどうかというと、それは「黙示録」の21章に記されています。
それは四方を城壁に囲まれた立方体になっています。
そしてその一辺の長さは、日本列島の北海道から沖縄くらいあります。

 創主の「家」というのは、これだと解するのが妥当と思われます。
我々の感覚からしますと、これだって、とてつもなく巨大な家です。
しかし、広大な天国からしたら、それは限られた一部の空間です。


                    



 そうだとすると、天国に関する新しい空間イメージが浮上してきます。
天国には、「父の家」と「その外の空間」があるということになる。

 聖書では、人は最終的には、最後の審判で天国か火の池(地獄)かのどちらかに
振り分けられるとされています。
それはそれでいいですが、その天国に入るのを許された人にとって天国は、
「父なる創主の家」と「その外側の広大な空間」とがあるところ、となります。

 次回には、天国はどういうところか、どうなっているか、
を「マタイ伝」の聖句からさらに考えてみましょう。

                    






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