皆さん、お元気ですか?
新年に入って、つつがなくお過ごしですか?
新年早々、難解なところに直面してしまいましたね。
でも、これは聖書全体を貫くエッセンスのところという予感がします。
ここが解読できたら、聖書の全体像が一気に見えてくるであろうところです。

前回を受けて、「イエスの語る言葉」に焦点を当てて、イエスの言わんとされていることを解きほぐしにかかりましょう。
本日の聖句はこれです。
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父が私の内におられて、みわざをなさっているのです」(14章10節)

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「イエスの言葉」は、聖書思想の中核に関わっています。
まず、「人間の霊」と「いのち」から考えていきましょう。

<霊のいのち充電度は天国行きを決める>
聖書というのは色々言っていますけれど、それは全て、
「人間や天使などの霊的存在の、霊にいのちというエネルギーがよく充電されるかどうか」
を巡ってのことです。
そして、その大半は、「人間の霊の充電」についてです。
人間の霊のいのち充電度は~
「人の霊が、最終的に天国で永遠に住むことが出来るかどうかを決定される基準」~になります。
充電度がイエスの言葉を信じて100%にされなかったら、天国行きにはならないのです。
聖書思想では、人間に最も重大なことは「将来永遠に天国にすめるかどうか」ですから、
霊の「いのち充電度」を中核にして論理は展開するのです。

<この世ではいのち充電度が祝福を決める>
天国行きかどうかは、最後の審判で決められます。
かなり先のことのように見えますね。
では、我々が生きているいまのこの世においてはどうでしょうか?
この世では、充電度は100%になりません。
だがこの世でも、霊のいのち充電度はなるべく高い状態にあった方がいいです。
この世での祝福が得られます。低いと呪いのもとに置かれやすいです。
ならばいのちがよく充電されるには、どうしたらいいか。
創造主の意識と似た意識になることです。
似るほど充電は良くなり、乖離するほど充電状態が悪くなる。
(聖書では霊は、いのちエネルギーの充電式乾電池のようなイメージの存在となっています)

<いのち充電度→意識近似度→いのち充電度>
では、創主と似た意識になる鍵はどこにあるか。
それがまた、霊のいのち充電状態なのです。
充電度が高くていのちが多いほど、創主に似た意識になる。
どうしてかというと、霊はまた人の意識の本体になっているからです。
その意識が創主のそれと近似的になるかどうかが、そのいのち充電度によって決まるのです。
要するに、意識が創主のそれに近いほど、いのち充電度もよくなるし、
→ それがまた意識を創主により近くする
→ さらに意識が創主に近くなる・・・という循環的な論理です。

<創造神の言葉は外から充電を援助>
でもそういう循環的な関係だけだったら、人間の霊のいのち充電度は、宿命的に変わらないことになります。
ところがそこに、イエスから供給される言葉が外から援助の手を与えてくれることになります。
本日の聖句は、そのイエスの言葉は、実は父なる創造主の言葉だということを示しています。
「私の語る言葉は、父が私の内でなされているもの」(10節)
~がそれでしたね。
言葉は、人の意識に影響を与えます。
もし創主の言葉を心に抱くならば、その影響で、その人の意識は創主のそれに近くなります。
だから、イエスの言葉を内に抱けば、創主の言葉を抱いたことになり、この世でも意識は創主のそれに近づきます。
その分、悪魔は手を出しにくくなり、呪いを受ける危険が減ります。
同時に祝福を受ける可能性が高まります。

<それが天国への道にもなっていた>
以上はこの世でのことです。
だがイエスの言葉を信頼して抱くことは、なんと同時に、天国に入れられる条件にもなっています。
最後の審判で、信頼してきたものには、充電不全部分が補充されるのですから。
いま、イエスはその面の話をしています。
これを「天国への道」が出来ることだという言い方をしているんですね。
「道」というのは、たとえです。
そのココロは「イエスの言葉を信頼して抱くこと」であり、
より端的には、「イエスの言葉」であり、
もっと端的には「イエス」ということになります。
これが「天国へ道は私」という聖句の意味となります。
