<政治事象一般の認識もイメージ力による>
国防政策や原発設備政策に限らず、人間が広く、政治現象一般を認識するための主要手段は
イメージ力です。
政治事象というのは、人民個々人にとっては自分が日々の生活で経験する事柄を超えたことです。
そういう等身大を超えた事象をリアルに認識するのは容易ではありません。
直接経験してないのですからね。
結局、メディアなどで得られる限られた情報を手がかりにして、
我々は政治事象をイメージするしかありません。
そのイメージ力が人民に貧しかったらどうなるでしょうか?
国民は結局、政治に暗愚な愚民となるしかないのです。
民主制の国家では、愚民国家を形成するしかなくなるのです。
<イメージ力を養うには>
では、我々は想像力、イメージ力をどうやって高めたらいいでしょうか。
ここからようやっとクリスチャンの方にも喜んでいただく話になります。
そのために最も有効な教材は、聖書だからです。
これを吟味するのが、最高のイメージ力育成手段なのです。
<事実と前提して吟味する>
ただし、その吟味には条件があります。
吟味は聖書の中の話はすべて事実だと受け止めてするということです。
聖書には、一見したところ、「とても現実の出来事には思えない、これは作り話だろう」
~という話がたくさん出てきます。
たとえば「天から毒蛇が降ってきてイスラエルの民を噛む」(「出エジプト記」)という話もあります。
「ヨナという預言者が海に放り込まれ、大きな魚に飲み込まれておなかの中で三日三晩すごし、
陸に吐き出されて元のように暮らす~という話」(「ヨナ記」)もでてきます。
われわれ現代人には、こんな話を事実として吟味するのは知性に反すると思えてきます。
だが、これを事実と主張する根拠を聖書は持っています。
聖書のなかの話は、「万物を創造した創造神から事実の話としてイスラエル民族にメッセージされ、霊感の豊かなものがこれを受信し記録したもの」、となっているのです。
「そんなバカな」「笑わせるな」と多くの現代人は言うでしょう。
だけど万物を創造した方がもしいるのならば、この方はすべてを知っているはずとなるでしょう。
テレビを造った人間が、テレビのすべてを知っているように、つくった万物についてすべてを知っているわけです。
そしてそういう存在がもしいるとしても、それは人間の五感認識を超えた世界のものです。
その世界のことは人間には手応えを持った認識が出来ません。
認識できない世界(これを形而上世界と言うこともあります)の物事については
「ある」とも「ない」ともいえないはずです。
だって見えないんですから。
創造神が存在するかどうか、だけでなく、その方からのメッセージが
霊感受信可能な形で人間に送られたかどうか、も人間には見えません。
だったら、それらが存在する確率は合理的には五分五分でしょう。
なのに、もともと存在界のほんの一部しか知ることの出来ない人間が
「そんなことはありえない」というのは論理的におかしな話となるでしょう。
だって、それは「存在する確率は合理的には50%であるのに、ゼロだよといっている」
のですから。
そういう判断は合理的ではなく、実はとても感情的な判断なのです。
<事実として吟味する心理の特徴>
合理的に考えますと、聖書の話が事実の記録である確率は五割です。
それを事実として読むというのは、「事実である」という肯定的な確率の方の5割に立って
読むと言うことです。
そうやって聖書の話を吟味するという手法は、想像力を強烈に高めるのです。
そのことは、聖書をもう少し具体的に眺めてみるとわかってきます。
旧約聖書を例に取るとわかりやすいので、それを眺めてみましょう。
+++
そこには、現代人には奇想天外に見える話が沢山出てきます。
さきほどの毒蛇の話も、預言者ヨナのはなしも旧約の中の話です。
これを歴史的事実として吟味するとはどういうことか。
それはまず~、いま自分が直接経験によって認識している身辺事項の延長線上に、
これらの「奇想天外風」の話を位置づけるということです。
そしてそういう話と実生活での経験事項との間につながりを見つけ出そうとすることです。
そいう精神作業では、人は様々にイメージ形成活動をします。
奇想天外風の話の中に、全能者である創造神はどのように関与していることになるか、
もイメージします。
そして、これはやってみてはじめてわかることですが、
そうしていると当初予想もしなかったつながりが見えてきます。
そこには究極の知識と思えるものが含まれていることもあります。
「これは究極の真理ではないか!」という経験です。
そういう体験が重なるにつれて、「聖書の話は事実かも知れない」という
当初の50%の心理的確率は、60% → 70% ・・・と上昇することも起きます。
<ファンタスティックな物語の効果は弱い>
童話やいわゆる空想小説も奇想天外な話を含みます。
だが、我々はそれは100%作り話だと知っていますから、
そこには実話と解する余地がありません。
だから、読者は最初から「作り話」として読みます。
そういうときには人は、物語からえられるイメージと、自分が実生活に抱いているイメージとの
「つながりをつけよう」という努力をしません。
物語が示唆する状況のイメージは、独立した「それだけのもの」となります。そう思うのです。
「白雪姫」の物語や「ウサギとカメの駆け競べ」の話を、
我々は最初から「作り話」だとして読みますよね。
それでも話の中身に関するイメージは頭の中で造りますよね。
だが、それを自分の実生活と同質の出来事として受け止め、
それとのつながりをイメージしようとすることはいたしません。
こういう精神作業では「物語のイメージをリアルなものにしよう」という意欲はあまり生じません。
物語は、事実だとして読むときに、そのイメージがリアルなものになる可能性を持ってきます。
私たちは、生きるために出来るだけ多くのことを知りたいと常に欲しています。
事実の話だと思えば、それと自分の実生活とのつながりを見出そうと、切実に思うのです。
その思いの切実さが「つながりがりの発見」を産み、さらにイメージをリアルにするのです。
<空想的にして事実と読めるもの>
聖書には、一見空想的であり、同時に事実としても吟味できる話が満載されています。
だがそこにはそれをリアリスティックに、現実的に解する余地も含まれています。
こういう性格を持った書物は他にありません。
<歴史が証明すること>
人類史では、この書物の吟味を一貫して続けた人々が、実は、集団に関わる事項の決定権を
構成員個々人に均等に分配するシステムを考案し、実施してきました。
それはこのブログの、「幸せ社会の編成原理」で示したとおりです。
このシステムがすなわち民主主義制度です。
この人々が人類史に民主制を出現させたのです。
そして、この人々だけがこの制度を十全に機能させているのです。
人類史はそのことを経験的に示してくれています。