鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

4.アメリカ、世界統治を請け負う

2013年07月31日 | 聖書と政治経済学



<民主制度の精神活性効果>

時間的効率からしたら、民主政治方式は優れた決定方式ではない。
決定権が人民個々人に分散されているから、そのすべてに決定事項に関する情報を与えるのに時間がかかる。
また、多数の意見を集約し合意に至るにも時間がかかる。

けれども、この制度は人民に与える政治的恐怖が最も小さい。
政治決定は人民の生命財産に及びうる。徴兵などその最たるものだ。
その決定権が少数の他者の手に握られているのは怖いことだ。
逆に決定権が人民に均等に分散されている状態は、国民の恐怖感を最小にする。

民主制度下では、国民の精神は最も萎縮が少なく、最も活性化する。知力も多方面で上昇する。
そこではあちこちで自発的にイノベーションが生じ、発明が生まれる。生産効率も高まり、国力は増強する。




<世界最強国の入れ替わり>

第二次大戦の終了時点までは、世界の最強国はといえば英国と応えるのが常識だった。
世界貿易の決済通貨もポンドであった。

世界の運営者は英国をはじめとするヨーロッパ先進国だった。
だが英国は大戦中ヒトラーの激しい空軍攻撃を受けて国内は大幅に破壊された。
他の欧州諸国も戦場となって荒れ果てた。
第二次大戦が終わった時点で、世界を運営する余力と能力もつもの米国以外になかった。
戦後世界統治が米国に委ねられたのは自然な帰結であった。




<最優先課題は「地獄」の再発防止>

米国は世界運営の最大課題を、世界大戦を再発させないことにおいた。
人類はそれまでにすでに、二派に別れて集団で殺し合うという地獄の事態に二度も陥った。
国民個々人は「まずい」と思っていても、集団の意志が別の生き物のように一人歩きして
殺し合いに雪崩れ込んでしまった。
世界統治を委ねられた国として、米国はこの地獄事態を回避し、
戦後世界の平和を維持することを最優先課題としたのである。




<世界規模での貧困打開を志す>


米国は、人間集団が戦争に雪崩れ込む基底原因を貧困とみて、この打開にダイナミックに踏み出した。
戦後、欧州もアジアも貧困にあえいでいたが、とりわけ敗戦国が受けた経済破壊はひどかった。
米国は占領地域の経済援助のために、ガリオア基金(占領地域救済政府基金)、
エロア基金(占領地域経済復興基金)を軍事費から支出した。

敗戦国の日本にも巨額の援助をした。
占領中の6年間での援助総額は、現在価値での12兆円という。そのうち9.5兆円は無償援助だった。

このような援助が欧州諸国にもなされた。
この事実は、終戦当時米国がいかにダントツに豊かな国だったかをうかがわせる。
だが、かくも膨大なる援助は、単なる豊かさだけでは説明できない。
この国には、聖書で教える(give)の精神が広く国民に普及していた。
ともあれこうして、日本も(そしてドイツもそしてその他の国も)米国の援助で戦後復興に
早く立ち上がることができた。

米国は、経済学界の動向もリードした。戦後学界の最大トピックは「後進国開発論」となった。
低開発国からも貧困をなくそうとしたのである。G.ミュルダールの「累積的因果関係のモデル」
(地域間で経済格差が進展するメカニズムを明かす理論)はこのなかから生まれた。

(続く)





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3.人民の民主政治能力

2013年07月30日 | 聖書と政治経済学




人民が政治に参加するという思想が日本に入ったのは明治維新以降である。
だがそれを知ったのは『民約論』などの論理的な書物を理解できる知識層だけであった。
自由民権を叫んだのも、武士階級出身の進歩的な人民だけであった。
「板垣死んでも自由は死せず」の文句で有名な板垣退助も、土佐の上級武士層の出であった。

農、工、商階層だった人民には、政治は「お上のなさること」だった。
この意識は、人民の心の底流で大正、昭和にも続いた。
立憲君主制ができても、人民には、一人の主権者として積極的に政治に関与しているという意識はなかった。




<自由民権政治は聖句主義活動が昇華したもの>

民権政治は米国で始まった。
この人類の奇跡を実現したのは、バイブリシスト(biblicist)と呼ばれた聖句主義者たちである。
彼らは、初代教会の時代に、小グループで聖句を自由に吟味し合う方式を開始した。
以後2000年後の今日までそれを守り通してきた。
5世紀から16世紀までの1200年間、この活動を止めさせようとしてなされる彼らへの迫害は熾烈を極めた。

聖句主義活動史の研究家、キャロルは、この間に殺戮された聖句主義者の数を5千万と推定している。
単純平均して、年に4万人である。
毎年毎年4万の同志が殺される中で、彼らは活動を死守した。
死の危険を冒すほどの歓びを聖句自由吟味はあたえるものか、については後述する。

ともあれ彼らは小グループでの決定事項を、平等の原則で、全成員で決めた。
より広範囲な事項の決定のためには、小グループのリーダーたちが連携して、広域小グループを作った。
そしてここで平等の原則で決定した。

この方式が国家レベルにまで昇華しのが、米国の民主政治である。
驚くべきことに、このシステムは紀元後1800年にすでに国家憲法で確定されている。
この中で、聖句主義者の行動様式もまた、アメリカ人民全てに普及した。





<日本では士農工商の階層政治>

1800年と言えば、日本では徳川幕藩体制下の寛政時代である。松平定信が寛政の改革をやっていた時期だ。
この時代、日本の人民に民主政治の意識など毛ほどもない。
民族は階層化され、全人民が階層に縛られて暮らしていた。

政治担当階層たる武士階級においても、その職務は世襲制であった。
歴史記述は老中という職種が実力主義だったという印象を与えるが、
その職位につける人物は、上層の家柄のものに限られていた。

「偉い職位は世襲が当然」という意識は、明治維新で四民平等の建前が実現しても、
人民の間に濃厚に存続した。
上位職位に付いたものは、すぐに子孫にそれを受け継がすように画策した。
自分の家系での上位職世襲がやりづらくなっても、家柄家族は相互婚姻でもって
世襲可能性範囲を巧妙に拡大した。
そして血族、閨閥複合体のなかで、上位職を回すというケースは、
あるいは複合体相互の間でうまみのある職種を融通し合うというケースは
戦後の民主憲法下においても横行している。(広瀬隆『私物国家』等参照) 
だからこの国では、上位職の能力劣化が速やかに広がっていく。




他方、日本の「寛政の改革」時代の米国には、世襲意識はもとより希薄だった。
そのなかで人民に積極的な民主政治思想が行き渡り、しがらみのない民主政治がフル機能していた。
まもなく、今の民主党ができあがり、少し遅れて共和党も形成されて、二大政党体制が確立した。
(このいきさつについては後述する)

鹿嶋は自民族を卑下するつもりはない。
だが、人民の民主政治能力についてみれば、彼我の差はあまりに歴然としている。

(続く)





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2. 幻なき民は滅ぶ?

2013年07月29日 | 聖書と政治経済学



聖書に「幻なき民は滅ぶ」という名言がある、という話を聞いたことがある。
スタイリッシュな言葉で、魅了されそうになるが実際にはそんな言葉は聖書にない。
だから語る人は意味を問われると「夢を持たない民族は滅びるということです」とか、
「会社も夢を描くことが必要です」などと、浅薄にして曖昧な説明をする。




実際には、それらしき聖句はこうなっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守るものは幸いである。」
(『箴言』29章18節、「新改訳聖書」の訳による)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これについて、神学者や牧師さんが解説するのを聞いたことがある。
これらも、やはりその意味ははっきりしない。

そもそも、聖書を訳した邦訳者も、わかっていない。
わからないままに訳しているから、訳文自体が揺れている。

・「預言がなければ民はわがままにふるまう。しかし律法を守るものは幸いである」〈口語訳)
・「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守るものは幸いである。」〈新改訳)
・「幻がなければ民は堕落する。教えを守るものは幸いである。」(共同訳)

英語聖書も同じだ。
訳書によって「幻」に当たる語が、revelation になったり visionになったり prophecyになったりしている。
大揺れである。要するに英語訳の制作者もわかってないのだ。




<この「幻」は律法のこと>

どうしてそうなるかというと、みな、「描かれる幻の有り様が重要」といういう先入観を
もつからである。
だがこの聖句はそうではないのだ。
ここで幻(vision)と言っているのは、人間の意識に描かれた律法のイメージである。
律法の代表は「十戒」だが、ともあれこの聖句ではその幻が律法であると、もう決まっているのだ。
「幻がなければ民は自由に振る舞う」といっておいてすぐに
「しかし律法を守るものは幸いである」というのがそれを示している。

この聖句が焦点を当てているのは、心の中で個々の律法のイメージを「豊かに形成する力」である。

イメージ力が弱ければ、人は律法のイメージをありありと心に描くことができない。
すると人民は律法を実質上守れない。守れないから、すぐに守らなくなる。




<ソロモンの知恵>

この書物『箴言』の著者はダビデ王の息子、ソロモン王である。
この時代に国家を運営する法律は、旧約聖書の律法だ。
それがイスラエルの人民に秩序を与えてきていた。
王はそれでもって人民を裁き、民族の一体性を保持してきた。

ところがもし、人民にイメージ形成力低下が起きれば、
民は律法の中身がありありとイメージできなくなる。
さすれば律法を守るのにひどく心労しなければならなくなり、まもなく守らなくなる。
同じ『箴言』の29章18節での「民はほしいままにふるまう」という聖句はそういっている。
ソロモンはそれを警告しているのである。




これは古代イスラエルに限らない。
どの国でも民にイメージ力が弱ければ、法律は理解されない。
民が法を理解せねば統治者は強権による「恐れ」でもって民を統制していくしかなくなる。

すると民の精神は萎縮し、国家の知力は衰えていく。
民の自由も、国の長期的盛衰も、つまるところは民のイメージ形成力によるのだ。

人民は統治者だ。
現行統治者へのヤジを飛ばすのもいい。自由を制約する政策に抗議するのもいい。
だが、それだけでは政治は良くならない。

人民は同時並行的に、自己のイメージ形成力の育成に、つとめていねばならない。
常時勤めて、統治担当者の仕事もイメージできるようにならねばならない。
でないと、一国の政治も良くなっていかないのだ。

『箴言』29章18節は、そういう政治の奥義をも示唆してくれている。
それを「幻なき民は滅ぶ」などと、かっこいい言葉で言い換えさせるのは、
その奥義を見えなくするものだ。

これを悪魔の導きによる、と思う人は思えばいい。
がともかくかっこいい文句は「目くらまし」になりやすいことを覚えておくべきだろう。

この覆いを取り払えば、聖書という書物は、スモールグループでの相互吟味を通すことによって、
その種の知恵を限りなく明かしてくれる書物なのだ。

(続く)

時間のある方はこれも参照されたい。
https://www.youtube.com/watch?v=xs5Qt6WauDg






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1.福音導入に生涯を捧げた人々

2013年07月28日 | 聖書と政治経済学




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<はじめに>

このブログは鹿嶋春平太「チャーチ」であり、ネットの教会です。
教会での中心話題は、福音であるべきです。

にもかかわらず、鹿嶋はこのところ現世的な社会問題を論じています。
社会問題は全て福音に関連していることがその理由でした。

だが、その関係を鹿嶋は十分言葉でもって示してこなかった。
その努力を、怠ってきたことに鹿嶋は気づきました。

いま、それを試みようと思います。
あまり形式張らないで、自由にエッセイ風に書き記してみようと思います。

鹿嶋は、いまユーチューブの動画で「ヨハネ伝解読」シリーズを、このブログに併行して行っています。
福音メッセージそのものを期待される方は、どうぞそちらもご参照下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=npJnfCFBvTA

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1.福音導入に生涯を捧げた人々

人がこの世に生きていれば、この世で苦しむ人々が否応なく目に入ってくる。
そしてこれらの人々の苦しみをなくすことは出来ないか、こんな苦しみのない社会はできないものか、という思いを抱く。

通常人々は、その方策をそこはかとなく心の中で探求する。
食のための仕事をしながらぼんやりと探索を続けていく。

だが、早い時期に答えを直感的に見出してしまう人もいる。
その答えをキリスト教活動の普及にあると、はじめに確信してしまう人もいる。
明治維新後、米英に出かけたものの中にも、それはいた。
パイオニア社の創業者、松本望の父・松本勇治もその一人であった。
彼は明治26年に貿易商を夢見て米国の経営を学びに渡米している。

この時期に米国に学ぶには、当時としては多額の資金が必要だった。
だが、多くの場合それは帰国後の所得によってカバーされてあまりがあった。
英語の読み書きが出来ること、欧米の事情に通じていることは明治の日本には宝だった。
官庁も企業も彼を超高給で迎えた。以後の地位も約束された。
だから生涯所得は、留学費用の百倍・千倍となった。





にもかかわらず、松本勇治は帰国後福音伝道者となり、教会開拓を始めた。
結局キリスト教が米国を造りその豊かで自由な生活を造っていると洞察したからである。
日本もこれによってしか豊かで自由な社会は実現できないと直感したからである。

だが日本で人々を教会に招き、生活を立てていくのは困難きわまりなかった。
勇治は貧困の中で結婚し、米びつの底を覗きながらの人生を送った。

後年、次男の松本望はパイオニア社を創業し、巨万の創業者資産を手にする。
彼が住んだ1000坪の邸宅はパイオニア御殿と呼ばれた。
これを勇治が福音伝道のために天に預けた経済的富の、息子への注ぎだと思いたい人は思えばいい。
がともかくこの創業者が晩年~「いまでも寝ていてがばっと跳ね起きることがある。
“たべるものがない!”という夢をみるんだ」
~と鹿嶋に語ったことがある。明治以来牧師家庭は常時貧しかったのである。





勇治の他にも、同じ直感認識を得て、福音伝道に生涯を捧げた人は何人もいる。
女性もいる。福音伝道を志す女性は、独身で生涯を閉じた。
男女とも、その生涯は貧しかった。
彼らは、自分が直感したことを言葉でもってかみ砕いて伝えることが出来なかった。
あふれる思いが言葉で伝えられなかった。作家のように、言葉を転がすことが出来なかった。
必然的に教会にくる信徒は少数になり、献金もわずかしか集まらなかったのである。

鹿嶋はこの先駆者たちのもどかしさが痛いほど想像できる。
鹿嶋も「福音の政治経済的効果をかみ砕いて伝えきれないもどかしさを」体験してきているからである。
だが、鹿嶋は伝道を本業にしてこなかった。
それより楽な「世的なポジションに身を置いて」、二足わらじの片方で福音を伝えてきた。
途中幸運なことに、大手の出版社から聖書の解説書を出すことも出来た。
比較的多数の人に媒体を通してメッセージを散布することが出来た。

それでも直感したことの1割も伝えきれてないもどかしさを多大に体験している。
せめて冲方丁(うぶかたとう:『天地明察』の著者)ほどの文章力があれば、と夢想するのだが、
現実はどうにもならない。
ならないながらも、分を超えた幸運を顧みるにつけ、先駆者たちのもどかしさはどんなだったかと思う。



彼らは、直感したことをほとんど言葉に出来ずに生涯を終えた。「地に落ちた一粒の麦」となった。
そこから生え出ずる麦がカバーする地面は広くなかった。広くはなかったが、その種は鹿嶋には影響したのである。
鹿嶋は今その上に立って、福音活動が一国の政治経済、人間の生活に及ぼす影響を言葉にしてみようと思う。

(続く)






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5.聖書吟味が政治見識を劇的に高める

2013年07月21日 | 「想像する力」が日本を救う




前回、4の話は少し詳細に立ち入りすぎました。
その結果、長すぎることにもなり、わかりづらかった嫌いがあります。
反省して、もう一度、要点を述べてみようと思います。





<適切な政治行動にはイメージ力が必須>


適切な政治行動がとれるには、政治見識をもつことが必要です。
そして政治への見識は、等身大の日常的経験知識を超えた世界の知識が必要です。
いわばマクロ世界の知識を、必要とするのです。

また、それには、直接経験する領域を超えた世界を想像する力、イメージ力がいります。

これを養わねば、政治見識、政治能力は出来ないのです。
個人についても、国民全体についてもそれは言えます。





<イメージ力を劇的に養う素材>

イメージ力を劇的に養う方法があれば、どんなにいいでしょうか。
それがあるのです。
聖書という素材を用いて、これを様々に吟味する方法がそれです。

聖書という書物には、一見奇想天外に見える世界や出来事の話が沢山含まれています。
そしてこれは、全知全能の創造神が、事実であるとして送ったメッセージの記録だと、自ら言っています。

その言葉を肯定的に受けとめ、て事実として吟味してみます。
すると我々は、通常では事実だと思えないような世界や出来事を、
日常の事実感覚を延長して理解しようと勤めます。

これがイメージ形成力を劇的に養うのです。

のみならず聖書に盛り込まれた世界観は、われわれの世界観を強烈に広げます。
政治の事柄は、その世界観の中に位置づけると、突然その理解は飛躍するのです。

(完)





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4.イメージ力を養う最高の方法

2013年07月05日 | 「想像する力」が日本を救う





<政治事象一般の認識もイメージ力による>

国防政策や原発設備政策に限らず、人間が広く、政治現象一般を認識するための主要手段は
イメージ力です。

政治事象というのは、人民個々人にとっては自分が日々の生活で経験する事柄を超えたことです。
そういう等身大を超えた事象をリアルに認識するのは容易ではありません。
直接経験してないのですからね。

結局、メディアなどで得られる限られた情報を手がかりにして、
我々は政治事象をイメージするしかありません。

そのイメージ力が人民に貧しかったらどうなるでしょうか?
国民は結局、政治に暗愚な愚民となるしかないのです。
民主制の国家では、愚民国家を形成するしかなくなるのです。




<イメージ力を養うには>


では、我々は想像力、イメージ力をどうやって高めたらいいでしょうか。
ここからようやっとクリスチャンの方にも喜んでいただく話になります。
そのために最も有効な教材は、聖書だからです。
これを吟味するのが、最高のイメージ力育成手段なのです。




<事実と前提して吟味する>

ただし、その吟味には条件があります。
吟味は聖書の中の話はすべて事実だと受け止めてするということです。

聖書には、一見したところ、「とても現実の出来事には思えない、これは作り話だろう」
~という話がたくさん出てきます。

たとえば「天から毒蛇が降ってきてイスラエルの民を噛む」(「出エジプト記」)という話もあります。
「ヨナという預言者が海に放り込まれ、大きな魚に飲み込まれておなかの中で三日三晩すごし、
陸に吐き出されて元のように暮らす~という話」(「ヨナ記」)もでてきます。

われわれ現代人には、こんな話を事実として吟味するのは知性に反すると思えてきます。

だが、これを事実と主張する根拠を聖書は持っています。
聖書のなかの話は、「万物を創造した創造神から事実の話としてイスラエル民族にメッセージされ、霊感の豊かなものがこれを受信し記録したもの」、となっているのです。

「そんなバカな」「笑わせるな」と多くの現代人は言うでしょう。

だけど万物を創造した方がもしいるのならば、この方はすべてを知っているはずとなるでしょう。
テレビを造った人間が、テレビのすべてを知っているように、つくった万物についてすべてを知っているわけです。

そしてそういう存在がもしいるとしても、それは人間の五感認識を超えた世界のものです。
その世界のことは人間には手応えを持った認識が出来ません。
認識できない世界(これを形而上世界と言うこともあります)の物事については
「ある」とも「ない」ともいえないはずです。
だって見えないんですから。

創造神が存在するかどうか、だけでなく、その方からのメッセージが
霊感受信可能な形で人間に送られたかどうか、も人間には見えません。
だったら、それらが存在する確率は合理的には五分五分でしょう。

なのに、もともと存在界のほんの一部しか知ることの出来ない人間が
「そんなことはありえない」というのは論理的におかしな話となるでしょう。
だって、それは「存在する確率は合理的には50%であるのに、ゼロだよといっている」
のですから。
そういう判断は合理的ではなく、実はとても感情的な判断なのです。




<事実として吟味する心理の特徴>

合理的に考えますと、聖書の話が事実の記録である確率は五割です。
それを事実として読むというのは、「事実である」という肯定的な確率の方の5割に立って
読むと言うことです。

そうやって聖書の話を吟味するという手法は、想像力を強烈に高めるのです。
そのことは、聖書をもう少し具体的に眺めてみるとわかってきます。
旧約聖書を例に取るとわかりやすいので、それを眺めてみましょう。

+++

そこには、現代人には奇想天外に見える話が沢山出てきます。
さきほどの毒蛇の話も、預言者ヨナのはなしも旧約の中の話です。

これを歴史的事実として吟味するとはどういうことか。
それはまず~、いま自分が直接経験によって認識している身辺事項の延長線上に、
これらの「奇想天外風」の話を位置づけるということです。
そしてそういう話と実生活での経験事項との間につながりを見つけ出そうとすることです。

そいう精神作業では、人は様々にイメージ形成活動をします。
奇想天外風の話の中に、全能者である創造神はどのように関与していることになるか、
もイメージします。

そして、これはやってみてはじめてわかることですが、
そうしていると当初予想もしなかったつながりが見えてきます。
そこには究極の知識と思えるものが含まれていることもあります。
「これは究極の真理ではないか!」という経験です。

そういう体験が重なるにつれて、「聖書の話は事実かも知れない」という
当初の50%の心理的確率は、60% → 70% ・・・と上昇することも起きます。




<ファンタスティックな物語の効果は弱い>

童話やいわゆる空想小説も奇想天外な話を含みます。
だが、我々はそれは100%作り話だと知っていますから、
そこには実話と解する余地がありません。
だから、読者は最初から「作り話」として読みます。

そういうときには人は、物語からえられるイメージと、自分が実生活に抱いているイメージとの
「つながりをつけよう」という努力をしません。
物語が示唆する状況のイメージは、独立した「それだけのもの」となります。そう思うのです。

「白雪姫」の物語や「ウサギとカメの駆け競べ」の話を、
我々は最初から「作り話」だとして読みますよね。
それでも話の中身に関するイメージは頭の中で造りますよね。
だが、それを自分の実生活と同質の出来事として受け止め、
それとのつながりをイメージしようとすることはいたしません。


こういう精神作業では「物語のイメージをリアルなものにしよう」という意欲はあまり生じません。

物語は、事実だとして読むときに、そのイメージがリアルなものになる可能性を持ってきます。
私たちは、生きるために出来るだけ多くのことを知りたいと常に欲しています。
事実の話だと思えば、それと自分の実生活とのつながりを見出そうと、切実に思うのです。
その思いの切実さが「つながりがりの発見」を産み、さらにイメージをリアルにするのです。





<空想的にして事実と読めるもの>

聖書には、一見空想的であり、同時に事実としても吟味できる話が満載されています。
だがそこにはそれをリアリスティックに、現実的に解する余地も含まれています。
こういう性格を持った書物は他にありません。




<歴史が証明すること>

人類史では、この書物の吟味を一貫して続けた人々が、実は、集団に関わる事項の決定権を
構成員個々人に均等に分配するシステムを考案し、実施してきました。
それはこのブログの、「幸せ社会の編成原理」で示したとおりです。

このシステムがすなわち民主主義制度です。
この人々が人類史に民主制を出現させたのです。
そして、この人々だけがこの制度を十全に機能させているのです。

人類史はそのことを経験的に示してくれています。





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3.国防政策の方向も人民のイメージ力で決まる

2013年07月01日 | 「想像する力」が日本を救う





<戦争以上の悲劇もある>

戦争は地獄の悲劇を引き起こしますが、人の世にはそれよりも悲劇的な地獄があります。
それは、他民族に征服され、支配されることです。

そう遠くない過去に、アルメニア人に起きたことがそれを物語っています。
隣国のトルコ人は、ある日突然に攻め入り、男・子供を皆殺しにし、女を自国に連れ帰って性奴隷にしました。

トルコの男は各々が何人かのアルメニア女を自国に連れ帰り、
自宅に囲い、現代のハーレムを形成しました。

女の手首には、逃げてもわかるように、リングの入れ墨を入れました。
第一次大戦後、それが世界に知れてやっと解放されました。





<日露戦争に負けていたら・・・>

日本民族は、他民族に征服された経験をしていません。
幸か不幸か、蒙古による征服は回避できました。
だが、イメージ力があれば、征服された事態をリアルに認識することはできます。

例えば、明治時代に日露戦争で日本が負けていたらどうなったか。
これなどは想像できるのです。

日本列島にはロシア軍人と秘密警察が横行し、女の中には捕獲されて
アルメニアの女性たち近い境遇に陥るものも多く出たでしょう。

これを阻止しようとする男は、逮捕され、次々にシベリアに送られ強制労働させられたでしょう。
多くは餓死や病死などに至ります。
そういうことは、第二次大戦終盤に、ロシア人が中国大陸や、シベリアで見せた性質から想像でるのです。

+++

これは戦死よりも悲劇的なことです。
死に至るまでにも、屈辱感を味わって生きることになるからです。
想像する力があれば、これはイメージ認識できるのです。

国防軍は要るのです。





<人の心には獣性がある>

このブログの「仕合わせ社会の編成原理」で見ましたように、人間の心底には獣性が横たわっています。
残念ながら、そうなっているのです。

そして民族の大多数に、この心理が意識の上位に浮上するような事態は、いつの時代にも発生し得ます。
このとき他民族への攻撃は自然に起きるのです。

そして、獣性が心理の上位に浮上した人間には、征服後も他民族への追体験・同情はありません。
若干生じたとしても、希薄です。少なくとも、自分の民族の人々にたいする同情よりも、遙かに希薄です。

これは人間の性(さが)です。
国防軍は要るのです。





<「だけど性善説を信じます」というアホウドリ>

だが国民の大多数にこれをイメージする力がなかったらどうなるか。
若者たちは、嬉々としてテレビの馬鹿バラエティ番組にうつつを抜かし続けるでしょう。
テレビニュースを見て、ときには戦争反対、国防軍反対、などというでしょうが、
すぐに放念してしまいます。

そうしながら、ときどきテレビで残忍な殺人事件などの報道を見ると、その時だけ驚きます。
だがすぐに「ボクはやはり人間の本性は善だと思います」などという極楽とんぼの意見を発する。
こうして彼らは、結局「あほうどり国家」を形成していくでしょう。

(「あほうどり」はその肉が缶詰などにして食用に供せられる鳥。
捕らえても捕らえても捕獲する人間に近づいてくるので、その名がつけられた)


+++

そうやって、あるとき異民族に蹂躙される事態になっても、
それはもう自業自得と言うしかありません。

国防政策の基本方向も、結局、国民のイメージ形成力が決定するのです。


(続きます)





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