臨時版が続きますが、パウロという人につきもう少し吟味しておきましょう。
人間の健康と病の癒しに対する、創造主の基本スタンスをどう理解するかに関わる重要なテーマだからです。
(右上に、文字を大きくするクリックがあります)
<パウロという器>
彼は聖書(旧約)に精通し論理マシンと言ってもいいほどの天才的知力に恵まれたユダヤ教徒でした。
僧侶ではなかったが、ユダヤ教のために現場の前線で働く軍曹のような人でした。
<パウロが受けた扱い>
その彼が、部下を幾人か連れてエルサレムで宣教するイエス信頼者たちのところにやってきます。
部下たちはステパノ執事を石で撃ち殺していく。その彼らが働くために脱いだガウンの番をパウロはしています。
ステパノを殺し、キリスト教会を荒らし、家々に踏み込んで信徒を捉えて牢にぶち込んだのち、
彼は北方のダマスコという町にまたイエス信仰者を捕らえに向かいます。
ところがその途上で天からすさまじい光を受け目が見えなくなってしまう。
そして上方からイエスの「パウロ、パウロ、私は君が迫害しているイエスだ」との声を聞きます。
彼は他の人々に手を引かれてダマスコに着き、盲目のまま三日間飲まず食わずで祈って暮らす。
他方、イエスはアナニヤという弟子に「パウロのところに行って彼に手を置きなさい。
手を置かれると目が見えるようになる、という幻を彼に与えてある」といいます。
で、アナニヤが行ってそうすると、「パウロの『目から鱗のようなものが落ちて』見えるようになる
(「使徒行伝」9章18節)。
そして彼はバプテスマを受けます。
<天使が使われている>
クリスチャンにはよく知られた場面ですが、これは通り一遍に読み過ごすところではないと鹿嶋は思います。
なぜか? ここでは天使が働いているからです。
パウロに壮絶な光を食らわせたのは天使でしょう。天使は、火にも風にもなる力ある霊です。
イエスとして声を聞かせているのも、あるいはエホバ天使かも知れない。
天使は、目的を与えられたら脅しでも何でもやるという戦場での軍人のような霊です。
この天使が、信徒が一般人に宣教する時働いてくれたら、伝道はどんなに楽になるでしょうか。
日本人などは特に、聞いていて「おまえ、頭がおかしいのではないか?」と嘲笑するでしょう。
そのときすかさず、天使が天国や地獄の様子を明確な幻でもって示したらどうなるか。
さすがの日本人も、イチコロ。仰天して悔い改め、残らず信じるでしょう。
<福音伝道の基本ポリシー>
ところが、イエスは人間への福音伝道を人間にさせて天使は用いないのです。
脅しや強制で回心して救われる人間を求めていないからでしょう。
福音を伝えられ、自ら自由意志でもって受け入れた人間だけを求め、
受け入れないものは悪魔と一緒に処分するというのが、イエスの基本ポリシーなのです。
なのに、パウロには天使を使っている。すさまじい強制力を用いています。
この伝道は、例外的なものです。
理由には~
「(パウロは)イエスの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ『選びの器』である」(9章15節)
~といった聖句あたりが相当するかも知れませんが、とにかくパウロへの伝道には「禁じ手」が使われている。
やはり一般人とは別枠の人間として扱われる人ではないか。
他にも、理由は浮かびます。ステパノは聖霊に満たされて働いていました。
それを撲殺するとは、ある意味では聖霊に逆らったことになるでしょう。
イエスは「聖霊に逆らったものには許しはない」と言っています(『マタイによる福音書』12章31~2節)。
にもかかわらずパウロは救いを受けている。やはり別枠の可能性大です。
<「癒す」のが創主の御旨>
なぜこんなことをぐだぐだ吟味するか。
前回示した、病と癒しに関する創主のスタンスと密接に関連しているからです。
パウロが別枠であれば、「病を傲慢への防止手段として用いる」のも、
パウロという別枠存在に対する別枠的処置である可能性が出るからです。
創造主は万能です。御旨となればなんでもできる。
そして人間の健康と病に対する、創造主の基本スタンスは「全ての病を癒すこと」にあります。
人はそう確信して、癒しを得る道を探り続けたらいいのです。
人間の健康と病の癒しに対する、創造主の基本スタンスをどう理解するかに関わる重要なテーマだからです。
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<パウロという器>
彼は聖書(旧約)に精通し論理マシンと言ってもいいほどの天才的知力に恵まれたユダヤ教徒でした。
僧侶ではなかったが、ユダヤ教のために現場の前線で働く軍曹のような人でした。
<パウロが受けた扱い>
その彼が、部下を幾人か連れてエルサレムで宣教するイエス信頼者たちのところにやってきます。
部下たちはステパノ執事を石で撃ち殺していく。その彼らが働くために脱いだガウンの番をパウロはしています。
ステパノを殺し、キリスト教会を荒らし、家々に踏み込んで信徒を捉えて牢にぶち込んだのち、
彼は北方のダマスコという町にまたイエス信仰者を捕らえに向かいます。
ところがその途上で天からすさまじい光を受け目が見えなくなってしまう。
そして上方からイエスの「パウロ、パウロ、私は君が迫害しているイエスだ」との声を聞きます。
彼は他の人々に手を引かれてダマスコに着き、盲目のまま三日間飲まず食わずで祈って暮らす。
他方、イエスはアナニヤという弟子に「パウロのところに行って彼に手を置きなさい。
手を置かれると目が見えるようになる、という幻を彼に与えてある」といいます。
で、アナニヤが行ってそうすると、「パウロの『目から鱗のようなものが落ちて』見えるようになる
(「使徒行伝」9章18節)。
そして彼はバプテスマを受けます。
<天使が使われている>
クリスチャンにはよく知られた場面ですが、これは通り一遍に読み過ごすところではないと鹿嶋は思います。
なぜか? ここでは天使が働いているからです。
パウロに壮絶な光を食らわせたのは天使でしょう。天使は、火にも風にもなる力ある霊です。
イエスとして声を聞かせているのも、あるいはエホバ天使かも知れない。
天使は、目的を与えられたら脅しでも何でもやるという戦場での軍人のような霊です。
この天使が、信徒が一般人に宣教する時働いてくれたら、伝道はどんなに楽になるでしょうか。
日本人などは特に、聞いていて「おまえ、頭がおかしいのではないか?」と嘲笑するでしょう。
そのときすかさず、天使が天国や地獄の様子を明確な幻でもって示したらどうなるか。
さすがの日本人も、イチコロ。仰天して悔い改め、残らず信じるでしょう。
<福音伝道の基本ポリシー>
ところが、イエスは人間への福音伝道を人間にさせて天使は用いないのです。
脅しや強制で回心して救われる人間を求めていないからでしょう。
福音を伝えられ、自ら自由意志でもって受け入れた人間だけを求め、
受け入れないものは悪魔と一緒に処分するというのが、イエスの基本ポリシーなのです。
なのに、パウロには天使を使っている。すさまじい強制力を用いています。
この伝道は、例外的なものです。
理由には~
「(パウロは)イエスの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ『選びの器』である」(9章15節)
~といった聖句あたりが相当するかも知れませんが、とにかくパウロへの伝道には「禁じ手」が使われている。
やはり一般人とは別枠の人間として扱われる人ではないか。
他にも、理由は浮かびます。ステパノは聖霊に満たされて働いていました。
それを撲殺するとは、ある意味では聖霊に逆らったことになるでしょう。
イエスは「聖霊に逆らったものには許しはない」と言っています(『マタイによる福音書』12章31~2節)。
にもかかわらずパウロは救いを受けている。やはり別枠の可能性大です。
<「癒す」のが創主の御旨>
なぜこんなことをぐだぐだ吟味するか。
前回示した、病と癒しに関する創主のスタンスと密接に関連しているからです。
パウロが別枠であれば、「病を傲慢への防止手段として用いる」のも、
パウロという別枠存在に対する別枠的処置である可能性が出るからです。
創造主は万能です。御旨となればなんでもできる。
そして人間の健康と病に対する、創造主の基本スタンスは「全ての病を癒すこと」にあります。
人はそう確信して、癒しを得る道を探り続けたらいいのです。