皆さん熱い中がんばっていますか!
死を前にしたイエスの、最後の晩餐における遺言、今日も味わいましょう!
「私の言葉は、万物を創った創造主の言葉だよ。
創り主である方だけが全てを知っているから、
このことばは信頼して丸ごと受容していいんだよ」
~と前回イエスは言いました。
今回は、そう言っておいた後にさらに、その言葉を受容するのを助ける存在を
送ることをイエスが約束するところです。
それが聖霊です。
今回、25-26節はイエスが助け主としての聖霊について語るところなのです。
+++++++++++++++++++++++++++++
=聖句=
「この話は、わたしが諸君とともにいる間にすでに語ってきたことです。
(将来)助け主、すなわち、父がわたしの名のなかでつかわされる聖霊がそれらすべてのことを教えます。
そして、わたしが語ったことをすべて思い出させます」(25-26節)
+++++++++++++++++++++++++++++
前回、22~3節でイエスが語った言葉は、弟子たちにはあの時点では
納得することの難しいことなのです。~~このことをイエスは十分承知です。
またそれ故に弟子たちは、時間がたてば自分が今イエスが語った言葉を忘れるでしょう。
~~それもイエスは承知です。
そうだけれども、それに対しては助け主が送られてくるからね~~と、語るのが今回です。
その「助け主」は聖霊という存在です。正確に言うと「助け主」としての聖霊。
聖霊には他にもいろんな働きがありますが、まずはこの側面をイエスは紹介するのです。
聖霊が、この最後の晩餐でもってイエスが語っていることを理解させ、
かつ、忘れても思い出させてくれるよ、というのです。
<意識体は波動を発する>
どういうことでしょうか。すこし脳生理学的に考えてみましょう。
霊は意識体です。意識体が意識活動をすると、意識波動が出ます。
人間も意識体で、その脳が活動をしますと、脳波が出ることが明らかになっています。
α波とかβ波とか言うのがそれです。
波動が他者の霊(意識体)にも及びます。そして影響を与えます。
聖霊の意識も波動を発して将来、弟子たちの意識に自らの思いの影響を与えることが
可能ではないでしょうか。
聖霊がもつ意識は、「この世」の意識ではなく天の意識です。この世からは飛躍したところのある意識です。
(イエスの言葉も天からの言葉で、聖霊の意識と同じ、というのが聖書の論理です)
この意識が弟子たち意識(霊)に影響しますと、彼らの意識は「世の意識」から「天の意識」に跳躍します
。~(ベルグソンの言葉ではこれは「生命の跳躍(エラン・ビタル)」と言うことになります)
そういう可能性が人間の精神には与えられているのです!
ともあれそうなれば、弟子たちはイエスの言葉をの真意をすべて悟る道理になるでしょう。
忘れた言葉もすべて自らの意識に再現することになるでしょう。
ここは、論理的にはそう理解できるところです。
イエスは自らの処刑と死を前にして、このように弟子たちに、二重三重と先に回って手を打っておきます。
驚くべきことではないでしょうか、感動的ではないでしょうか?
(なお、「父がわたしの名のなかでつかわされる聖霊」の
「私の名の中で(in My name)」については後に考察します。)
死を前にしたイエスの、最後の晩餐における遺言、今日も味わいましょう!
「私の言葉は、万物を創った創造主の言葉だよ。
創り主である方だけが全てを知っているから、
このことばは信頼して丸ごと受容していいんだよ」
~と前回イエスは言いました。
今回は、そう言っておいた後にさらに、その言葉を受容するのを助ける存在を
送ることをイエスが約束するところです。
それが聖霊です。
今回、25-26節はイエスが助け主としての聖霊について語るところなのです。
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=聖句=
「この話は、わたしが諸君とともにいる間にすでに語ってきたことです。
(将来)助け主、すなわち、父がわたしの名のなかでつかわされる聖霊がそれらすべてのことを教えます。
そして、わたしが語ったことをすべて思い出させます」(25-26節)
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前回、22~3節でイエスが語った言葉は、弟子たちにはあの時点では
納得することの難しいことなのです。~~このことをイエスは十分承知です。
またそれ故に弟子たちは、時間がたてば自分が今イエスが語った言葉を忘れるでしょう。
~~それもイエスは承知です。
そうだけれども、それに対しては助け主が送られてくるからね~~と、語るのが今回です。
その「助け主」は聖霊という存在です。正確に言うと「助け主」としての聖霊。
聖霊には他にもいろんな働きがありますが、まずはこの側面をイエスは紹介するのです。
聖霊が、この最後の晩餐でもってイエスが語っていることを理解させ、
かつ、忘れても思い出させてくれるよ、というのです。
<意識体は波動を発する>
どういうことでしょうか。すこし脳生理学的に考えてみましょう。
霊は意識体です。意識体が意識活動をすると、意識波動が出ます。
人間も意識体で、その脳が活動をしますと、脳波が出ることが明らかになっています。
α波とかβ波とか言うのがそれです。
波動が他者の霊(意識体)にも及びます。そして影響を与えます。
聖霊の意識も波動を発して将来、弟子たちの意識に自らの思いの影響を与えることが
可能ではないでしょうか。
聖霊がもつ意識は、「この世」の意識ではなく天の意識です。この世からは飛躍したところのある意識です。
(イエスの言葉も天からの言葉で、聖霊の意識と同じ、というのが聖書の論理です)
この意識が弟子たち意識(霊)に影響しますと、彼らの意識は「世の意識」から「天の意識」に跳躍します
。~(ベルグソンの言葉ではこれは「生命の跳躍(エラン・ビタル)」と言うことになります)
そういう可能性が人間の精神には与えられているのです!
ともあれそうなれば、弟子たちはイエスの言葉をの真意をすべて悟る道理になるでしょう。
忘れた言葉もすべて自らの意識に再現することになるでしょう。
ここは、論理的にはそう理解できるところです。
イエスは自らの処刑と死を前にして、このように弟子たちに、二重三重と先に回って手を打っておきます。
驚くべきことではないでしょうか、感動的ではないでしょうか?
(なお、「父がわたしの名のなかでつかわされる聖霊」の
「私の名の中で(in My name)」については後に考察します。)